■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
スポンサーサイト
(カテゴリー: スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
二つの「松下村塾」
(カテゴリー: 自治体学理論
 二つの「松下村塾」     2010-6-28

1 菅首相の所信表明演説
 菅直人首相は6月11日の所信表明演説で、政治思想を学んだ学者として松下圭一氏と永井陽之助氏の二人の名を挙げた。総理演説の効果は抜群である。インターネツト・アマゾンの古書欄で、松下圭一著作本は「売り切れ」「値段上昇」となり「市民自治の憲法理論(岩波新書)」は9.800円に急上昇した。(岩波新書の新刊価格は750円である) 
 菅首相は組閣後の記者会見で「菅内閣のニックネームは」と訊かれて「奇兵隊内閣と呼んで頂ければ嬉しい」と答えた。自身が山口県(宇部高校)出身であるので、大河ドラマの「土佐の坂本龍馬」だけでなく「長州の高杉晋作」を言いたかったのであろう。「二世三世の世襲議員」でなく「サラリーマンの息子」である自身を「農民、商人、職人、僧侶の奇兵隊」を編成して活躍した高杉晋作になぞらえ親近感を表明したのでもあろう。
 高杉晋作も吉田松陰の松下村塾で育った。

2 二つの「松下村塾」
 今、日本列島に二つの「松下村塾」がある。
 一つは「松下政経塾」である。松下政経塾出身の国会議員・自治体首長・自治体議員は容易ならざる数である。民主党にも自民党にもいられる。結集すれば「一大政治勢力」になるであろう。人それぞれであるから「ひと括り」にするのはまことに失礼ではある。失礼であるのだが、「政治家志向の人材養成塾」で生活を共にされた方々が「容易ならざる勢力」になりつつあることに「一抹の危惧の念」を想う。
 「国家」「国家主権」の観念が猛威をふるった「おぞましい時代」を体験した日本社会であるからこそ、いつ声高に「公共」を「国家」と言い換える政治勢力が台頭するかもしれぬと懸念するのである。
 昨今の新聞・テレビの保守化傾向、インターネット動画 (YouTuve) には右翼言説が溢れている。そして群立する小政党の保守言説、そこにも松下政経塾の方々がいられる。
 安倍内閣のとき、一瀉千里の「教育基本法否定」と「憲法改定の国民投票法の強行採決」、「盗聴法と共謀罪と集団的自衛権の論議」などが続いた。心配である。
 松下政経塾の方々が「国家の観念」を振りかざす政治勢力にならないことを希う。何の特権もない普通の市民が「政治主体」である「市民自治の政治社会」を目指して貰いたい。そのことを切に希求する。
 本年5月3日、全国青年会議所 (JC) は、47都道府県で同時刻に一斉に「憲法タウンミーティング」を開催した。「全国青年会議所」のホームページを眺めるならば、それが「改憲キャンペーンである」ことは明白である。
 松下政経塾への「一抹の危惧」が「杞憂である」ことを希う。

3 市民自治を思考の座標軸に
 もう一つの「松下村塾」は、松下圭一氏の「市民政治の理論」「市民自治の憲法理論」「政策型思考と政治」などの著作を読み「自身の思考の座標軸」を見定めて行動する全国各地の「市民と自治体職員」である。「国家統治」ではなく「市民自治の政治社会」の創造をめざす人々である。
 この「松下村塾」の人々は「自治体学会」を1986年5月23日、横浜で設立して「国家学」ではない「自治体学」の研鑽をめざしている。
 「国家」なる言辞は、現状の継続に利益を得る人々の「隠れ蓑」の言葉である。「騙しの言葉」である。「国家」「国家主権」などの「騙し言葉」が猛烈な威力をふるう(ふるった) のである。
 「国家」や「国家主権」の言辞を弄する人は「人々の掛けがえのない幸せ」を大切と考えない「支配の側の人」である。「国家観念」は人々を「共同体の論理」で「覆いかぶせて押さえこむ」のである。騙されてはならない。 
 松下圭一氏の「市民自治の憲法理論」には「君主主権」と「国民主権」と「国家主権」の位相が明快に論述されている。菅直人氏は自著「大臣(岩波新書)」のなかで「私は市民自治の憲法理論で育ったのです」と記述している。
 日本には今、二つの「松下村塾」がある。

 





自治体法務検定
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体法務検定
 
1 胡散臭い「自治体法務検定」
 2010年4月23日、自治体学会のML(メーリング)に「自治体法務検定」の事業を行う企業の職員から案内が(受検定の勧誘が)流された。これに対し『このような馬鹿な検定はメールで流さないように心がけてください。法務の能力は検定で計るものではありません』との所見が発信された。筆者はこの所見に「同感です」と発信した。「法務検定」なるものが「胡散臭い」と思ったからでもあった。
 かくして、自治体学会MLに所見メールが交錯した。「馬鹿な…の言い方を」批判するメールが(検定を擁護する立場から)続いた。そして、検定委員である学者会員(Yさん)から「馬鹿な…」を批判するメールが発信された。
これらに対し、当初の発信者(Tさん)は「考え方の行き違いメール」を終わりにするために、「馬鹿な…」の表現を撤回する旨のメールを流した。
 だが、筆者は「同感です」と賛成した立場なので、少しく「考え方」を記しておく。

2 よくある会話
 よくあることだが、会話で「…そんな馬鹿なことを」「馬鹿とは何だ、訂正しろ…」
と迫る場面がある。映画「12人の怒れる男」では、少年が「殺してやると言った」のだから犯人だ、の場面もあった。「本筋の論点」をズラして「言葉づかい」を咎めるのは「適切ではない」「フエアでない」と思う。
 Yさんは、Tさんに『No.846発言の(馬鹿な)の表現は不適切であったと私は考えますが、いかがでしょうか。』と書かれた。(巧妙に咎めた)。
(多くの人が眺めるMLで)「馬鹿な…」の表現を切り取って、表現が不適切だと指摘されれば、MLという全国に一斉発信されるシクミでは立場が悪くなるものだ。「馬鹿な…」の言葉は(それだけ切り取れば)良い言葉ではないのだから。
 Yさんは「咎めていない」と言うだろう、「不適切な表現だ」と言っただけのことですと言うかもしれない。だがYさんのメールはフエアではないと思う。
 対論するべきは以下の論点である。
 Tさんのメールの主旨は『…全て法務は実際の現場の上に出てくるものであり、勉強をするのは当たり前ですが、そこからは現場で使えない頭ばかり大きな職員が生まれるのではないかと懸念をしているだけです』である。 論点はこれである。
 このTさんの (検定への疑念の) 論点に対して、Yさんはご自分の所見を述べるべきだと思う。 (それをぜひ聴きたいものである) 。

3 自治体法務検定委員会なるものは
 委員長  成田頼明( 横浜国立大学名誉教授)
 副委員長 松本英昭( 元自治事務次官)
 副委員長 鈴木正明( 市町村アカデミー学長)
 顧  問 石原信雄( 元内閣官房副長官) である。
 この四人の方々は「集権統治の国家学の考え方を進めてきた著名な方々」である。
Yさんは、そこに検定委員として名を連ねていられる。
受検料(税込)は 5,250円である。 
 全国で受験者がふえていけば利益は次第に大きくなるであろう。

 自治体学会は(会則にも掲げるように)「中央支配の行政法学理論」を「市民自治の自治体理論」に組み替える研鑽の場である。自治体学の理論認識と体験交流を深める場である。自治体学会はこれらの方々の対極にある考え方である。 
 自治体の政策法務能力は、「有料の検定」ではなく、T高橋さんの書かれているように、現場の実践理論であるのだから、自治体学会の場でこそ相互研鑽するべきである。
名を連ねている検定講師に、自治の現場の実践論理が分かるであろうか。後で述べるように、甚だ疑問である。

「漢字検定」「英会話検定」などは受験者が多く莫大利益を上げているとのこと。
最近は「自治体議員検定」もある?らしい。そして今回は「自治体法務検定」である。
これらの動向に疑念を感じるのは自治体職員の健康な思考力である。
(北海道自治体学会ニュースレター(2010-4月号)に「自治体職員の思考力」を書いた)。 
 そもそも、「政策法務の問題意識」と「現場事態の打開論理」は検定で習得できることではない。政策法務能力は検定によって高まるものではない。
「時代の言葉」に便乗して利益を当込む企業の企画に、参画する学者の心底は如何なるものであろうか。
 
4  自治の現場を知らない学者
 かつて、政策評価制度の導入が流行し自治の現場を知らない学者が講師に招かれた。
かくして現在、政策評価制度は如何なる状況にあるのか。市民の共感を得て機能している政策評価制度はどれくらい存在するのか。(新自治体学入門にそのことを書いた)
 2005年前後に合併騒動が降って湧いた。日頃、分権自治を述べていた学者は「推進する側の委員」に就いた。全有権者投票を求める署名運動が各地におきた。だが徳島吉野川河口堰の「50%条項」を悪用し投票箱内の「市民自治の意思」を焼却した。そのとき「自治体政策法務学者」から、適切な(一歩前に出た)発言は殆ど無かった。検定委員として列挙されている学者からは皆無であった。「開票せず焼却する」は政策法務理論の緊急課題であったのだ。
(さてここでも「悪用とは何だ」と言うことに論点が移動するのであろうか)

5 Tさんの所見に賛成
 自治体法務検定のホームページに並んでいる講師の方々よりも、Tさんの自治体政策法務の考え方がはるかに実際的で有用であると思う。
「有料の法務検定」よりも「T学校にこそ集結」すべきである。
「自治体法務検定」は国家学の行政法学理論の知識研修である。
 自治体法務検定への論点は、近く刊行物に書く心算である。

北海道自治土曜講座(第16回)は
 2010-7月17日 宮本憲一教授「日本社会の可能性 ~自治体の政策力~」、
 2010-8月28日 松下圭一教授 「市民の時代 ~国家統治理論から市民自治理論へ~」 を開講する。私は司会の立場であるので、両日の午後の討論で「政策法務の検定制度」をも論じたいと考える。ぜひお出かけ頂きご指導を賜りたい。
国家学理論と自治体学理論
(カテゴリー: 自治体学理論
 国家学と自治体学 

一 自治体職員には自治体理論が必要
 住みつづけていたいと思い住んでいることが誇りに思える地域をつくるには自治体理論が必要である。
地域課題が「量的基盤整備」から「質的まちづくり」に移った。地域課題を設定し実現方策を考え出さなくてはならない。住民、企業、団体と協働する能力ある自治体職員が地域に育っていなければ地域は衰退する。 
 例えば、過疎の進行は止めようがない。都市に人口が集中するのは産業構造が変化して情報産業の時代になったからだ。農村地域が寂れていくのは時代の流れでどうにもならない、とただ嘆くだけの地方公務員では地域に活力は甦らない。
 地域に活力が甦るには「何をどうすればよいか」「何から始めればよいか」を考える自治体職員が必要である。それを考えるには自治体理論が必要である。
 まちづくりは総合行政的な政策手法を必要とする。タテワリ省庁が補助金で支配するやり方では魅力あるまちにならない。
 例えば、省庁助成で公共施設をつくるとする。人口少なく財源も乏しい地域は複合多機能施設がのぞましい。ところが、省庁は補助目的を理由にこれを認めない。会計検査員がそれをフォローしてきた。
 だが地域事情は千差万別である。地域事情の分からぬ東京の省庁が画一基準で支配したから日本列島の地域個性が失われたのである。
 国家学理論は住民を行政サービスの受益者とみなし行政施策の客体と考える。行政法学も言葉では住民参加を口にするが、国家に統治権ありと擬制する国家学理論である。人びとがまちづくりに関わりまちへの愛情を心に育てなければ魅力と活力は甦らない。国家学理論を市民自治の自治体学理論に切り替えなくてはならない。

二 国家統治理論から市民自治理論へ
 地域に個性と魅力を甦らせるのは自治体理論である。社会構造が変化し地域課題が量から質に変わったが、役所の仕事の仕方は旧態依然である。役所内は責任回避と年功序列の保身である。自治体独自の政策課題に挑戦する職員は少ない。自治体独自の政策課題に自治体職員が挑戦しないのはなぜか。国家学の統治行政理論に呪縛されているからである。
 法律を国家学理論で解釈し運用し通達し執行させられたからである。主体の変革には理論が必要である。仕事の仕方を切り換えるには自治体理論が不可欠である。
 例を文化ホールにとれば官庁理論はこうである。
 文化ホールは公の施設であり行政財産である。行政財産は行政の責任で建設し管理する。役所が管理規則を定め館長は行政職員から任用する。ホール利用は申請書を提出し館長が使用を許可し行政が定めた管理規則に従う。住民は受益者であって公共政策の主体ではない。これが国家学の行政法学理論である。 
 文化施設の建設は、実直な公務員が見識のない首長の意向を伺い、市民不在の場で密かに協議し、莫大な費用で建物をつくってきた。そして経費節減のために自治省のお達しで「指定管理者制度」なるものが流行した。かつて唱えた「地域文化の振興」の理念は霧散した。
 このような役所内で幾年かを過ごせば、客席がアンコールで沸き時間延長を求められても、管理規則を盾に所定時間での退出を迫る公務員になり果てる。練習場所をもたない地元オーケストラに休館日の練習使用を求められても、館長は条例規定を理由に断るのである。現場が柔軟な運用を行えば官庁理論をふりかざして本庁から非難批判の指弾が飛んでくる。であるから「ハコモノ批判」が一斉に全国で噴き出したのである。 
 国家に統治権ありとする行政法学理論では文化のまちづくりはできない。市民自治の自治体理論でなければ美しく魅力あるまちにならない。国家学理論から自治体学理論への転換が不可欠である。

三 市民自治の理論
 自治体理論とは地域に活力を甦らせる理論である。行政まかせでは地域は確実に衰退する。自治体理論を保持するには基礎概念を吟味し再定義しなくてはならぬ。例えば、行政の概念である。
 これまで「行政とは法の執行である」と考えた。この考え方は正当でない。誤りである。法律には三つの欠陥がある。①法律は全国通用つまり全国画一法である。全国画一法では地域個性は失われる。②法律は各省庁タテワリ法である。まちづくりは総合行政でなくてはならない。省庁通達の法律ではまちに魅力は生まれない。③都市型社会は前例なき公共課題を噴出する。法の執行では前例なき政策課題に対応できない。
 行政は「法の執行」ではない。行政は「課題の解決」である。つまり「政策の実行」である。住んで誇りに思えるまちづくりは「政策を策定し実行する」ことである。正確には「行政とは市民自治的に政策を策定し市民自治的に実行する」である。「地域課題」と「実現方策」を考え出すのが自治体職員の職務である。
「考え方を変える」には自治体理論が必要である。この言説は「法律の軽視」ではない。法律は政策の策定と実行の準則(全国基準)である。全国基準を尊重し地域事情に合った地域基準を自治体法として定立するのである。これが「政策法務」である。
 自治体は省庁政策の末端執行機関ではない。住んで誇りに思える地域をつくる政策主体の地方政府である。ところが長い間、政府とは中央政府のことだと国家学理論で考えさせられた。「理論の力」はまことに大である。しかしながら、自治体は政府機構であって国家統治の地方行政機関ではない。だが、「国家学の憲法学」の教科書には「市民自治の論拠」は皆無である。「市民と政府の関係」も曖昧である。自治体職員は「市民自治の憲法理論」を習得しなくてはなるまい。
 しからば、「市民」とは誰のことか、「市民自治」と如何なることか。国家学理論には市民概念はない。住民概念のみである。住民を行政サービスの受益者であり被治者であるとする。「国家観念」を擬制し統治主体は国家にあるするのが国家学理論である。自治体学理論は市民自治の政府信託理論である。「国家」ではなく「政府」で理論構成する。
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」である。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味である。
 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語である。「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民政治の主体」である。
 都市的生活様式が日本列島に全般化し地方分権たらざるを得ない一九八〇年代に至って、ようやく「市民」の言葉が使われるようになった。まちづくりの実践が全国に広がったからである。
 しかしながら、誰しも自分が体験しないことは分からない。国家統治の官庁理論の人々には「住民」と「市民」の違いが分からない。行政機構の内側に身を置いて官庁理論でやってきた公務員には、市民運動の人達は目先利害で行動する身勝手な人たちに見えるのである。公共課題の解決に地域の人達と連帯し行動し感動を共有した体験のない学者と評論家は「合理主義・個人思想・人権革命の歴史を持たない日本では市民などはいないのだ」と言う。
 近代市民革命の市民は「有産の名望家」であった。現代の「市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々である。社会が成熟し普通の人が市民である条件が整ったのである。
 「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」である。

自治体学ー理論と実践
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学ー理論と実践
      
説明理論と実践理論
 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
「説明理論」は事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する。
「実践理論」は未来に向かって課題を設定し解決方策を考え出す。
 「何が課題で何が解決策であるのか」を考えるのは「経験的直観の言語化」である。経験的直観の言語化は困難を覚悟して一歩前に出る実践によって可能となる。大勢順応の自己保身では経験的直観の言語化はできない。人は体験しないことは分からないのである。
 実践理論は歴史の一回性である実践を言語によって普遍認識に至らしめる。
 「実践体験の知見」を「普遍認識」に高めるには「文章に書く」ことである。「文章に書く」とは「概念で実践を再構成する」ことである。その「再構成」が「普遍認識力」を高め「実践的思考力」を自身のものにするのである。
 見えている人と何も分かっていない人の違いは、覚悟して一歩前に出た実践の違いである。未来を構想し現在条件を操作するのは「規範概念による思考」である。

市民自治
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」である。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人ではない」という意味である。
「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語である。福沢諭吉が「社会を担う主体的な個人」の出現を念願し期待して翻訳した言葉である。
 だが、福沢が期待をこめて翻訳した「市民(イチミン)」は使われなかった。
 明治政府は、皇帝が君臨していた後進国ドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」によって忠君愛国の「臣民の観念」を国民道徳として教えこんだ。臣民とは天皇の家来である。絶対服従の家来である。自立して社会を担う主体の観念はタブーであった。
 1945年の戦後も使われなかった。それまで弾圧されていた社会主義の思想が甦り、「市民」は「所有者階級」と考えられた。使われた用語は「人民」であった。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と訳された。
 都市的生活様式が日本列島に全般化し分権型社会たらざるを得ない1980年代に至って、ようやく、福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々によるまちづくりの実践」が全国に広がったからである。
近代市民革命の時の市民は「有産の名望家」であった。しかしながら、現代の「市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々である。
都市的生活様式が全般化して普通の人々が市民である条件が整ったからである。「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」である。

市民と住民
 住民とは、村民、町民、市民、道民など、行政区割りに「住んでいる人」である。「住民」は住民登録・住民台帳・住民税というように、行政の側から捉えられた言葉である。行政が政策主体で住民は政策執行の客体である。住民は行政サービスの受益者であり被治者である。「住民」という言葉には統治・被治の意識が染み込んでいる。その意識は住民の側にも根強く存続している。「住民」には「自治主体」の観念は希薄である。
「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存し陰で不満を言う人々である。「市民」は公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人々である。
 しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉である。理性がつくった概念である。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しない。
 実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在である。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのである。
 都市型社会が成熟し生活が平準化し政治参加が日常化して、福沢の「市民」は甦ったのである。

規範概念
「市民自治」は規範概念である。「規範概念」を了解し納得するには「実践による自己革新」が不可欠である。利いた風な言葉を操るだけの現状容認思考の人には規範概念の認識は曖昧漠然である。実践と認識は相関するのである。何事も主体の変革なくして事態を改革し創造することはできない。
人間は誰しも自分が体験しないことは分からない。国家統治の官庁理論の人々には「住民」と「市民」の違いが分からない。国家学の学者には市民自治の意味は漠然曖昧である。
 行政機構の内側に身を置いて官庁理論でやってきた公務員には、市民運動の人達は目先利害で行動する身勝手な人たちに見えるのであろう。公共課題の解決のために地域の人達と連帯して行動して感動を共有した体験のない学者や評論家は「合理主義・個人思想・人権革命の歴史を持たない日本では市民などはいないのだ」などと言うのである。
自治体学の理論水準
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学の理論水準 -「ある政策研究会での論議」

 地方選挙の直後にある都市で開催された政策研究会で次のような論議があった。論点は三つ。
一つは、市長は交替したが「何が変わるのか」「何を期待するか」であった。
研究会の発言の大勢は「何も変わらないだろう」「誰がやっても変化はないだろう」であった。
市長選挙の投票率が低いのは「誰がやっても同じだから」との「有権者のアキラメ的無関心」にあると言われているのだから、これでは、政策研究会がそのレベルと同じことになってしまう。
投票率が低く再選挙になった都市さえあるのだから「なぜ変わらないのか」「どうすれば変わるのか」を研究会は論議すべきであろう。誰が首長になっても「さして変わらない」のならば、政策を吟味する理由はなく選挙結果への公共的関心は霧消する。問題は、研究会のメンバーに「その都市が直面している公共課題が見えていなければ」論議にならないということである。

論点の二つ目は「市政に期待する公共課題は何か」であった。
「公共施設も生活道路も整備されているから、是非にという公共課題は、今は無い」という意見が出た。その意見に対して「こういう公共課題があるではないか」の発言は出なかった。だがそれは、「公共課題が無い」のではなくて「公共課題が見えていない」のである。なぜならば、現代社会は「前例のない深刻な質的公共課題」が次々と噴出しているのである。そして、「その公共課題はこれまでの考え方とやり方では解決し実現することはできない」のである。
「誰がやっても同じではないのだ」ということを明確にして有権者に支持を求めるのが候補者であり政党である。政策研究会はそれを分析し「公共課題と実現方策を論議する」のである。それが出来なければ政策研究会とは言えない。

 三つ目は「大都市で市民自治を如何に実現するか」という論点であった。
大都市は区域が大きすぎて「まちづくりの全体像」が描けない。莫大なお金が「何にどう使われているのか」がよく分からない。「議会は何を議論しているのか」も分からない。「行政も議会」もまことに不透明である。
「行政職員」も「議員」も、市民がよく分からないことをよいことにして、特権的な感覚で現状維持的に自己保身的に日々を過ごしていると市民は思っているのである。市民は「冷めて」いるのである。それが無関心と無力感となって投票率の低さにつながっているのである。
政策研究会は学者や評論家のような解説的・評論的な論議をしてはならないのだが、研究会のメンバーに「大都市で市民自治を如何にして現実化するか」の気概と展望がなければ、研究会の論議に熱気は生じないと参加者の一人が感想を述べた。
インタビューに答える
(カテゴリー: 自治体学理論
インタビューに答える (2009-7-30、月刊誌)

1 「郵政選挙」は何であったか
  一言で言えば悲惨な事態の連続です。
 小泉構造改革は市場原理の新自由主義経済政策です。
 社会保障制度を壊し聖域なき構造改革と称して福祉予算を削減し、収入のない障害者にまで自立支援の名目で医療費の自己負担を課しました。社会的弱者の切り捨ての横行です。
 法人税を軽減し累進税率を引き下げ富裕層の要望に応えたのです。改革の本丸と絶叫した郵政民営化はアメリカ金融資本の要求であったのです。
 市町村合併を強要して地方交付税を削減しました。70年代から積み上げた自治体の政策自立が揺らぎ後退を余儀なくされています。
 派遣労働禁止などの労働者保護法制を後退させ、不安定な低所得労働者を大量に増やし、若者を街頭に放り出した元凶は小泉純一郎ですよ。毎年三万人が自殺しています。20代、30代の自殺者が増えているのが現在の日本です。蔓延する絶望が「誰でも良かった殺人」を引き起こしているのです。
 問題は小泉の言動に多数の人々が騙されたことです。メディアと学者は小泉改革の背後を洞察せず保身のために黙過しました。メディアと学者の責任は重大です。

2 民主党のマニフェストに盛られた地方政策の評価
 色々書いてありますが、財源調整制度や地方交付税制度について一歩踏み込んだ政策構想がないですね。自治体間の財源不均衡を改める制度提案が不十分です。
 市町村合併のとき「三位一体改革」が言われましたが官僚の抵抗で潰えました。「国税を地方税に回して法律上の権限も地方に移す」というのは一見良いことに思える。しかし実際には自治体間格差が生じる。そのとき、都市地域の税収を地方に回すことに「都市住民は賛成しない」と民主党の人も自民党と同じことを言うわけです。国会議員でありながら日本社会の未来を構想する政治能力が欠落しているのです。
 一皮むけば自分本位の発想です。この点は民主党も自民党も同類です。
 小沢さんは300の自治体で良いと言っています。国会議員の選挙区の数が頭にあるのです。その発想は「自治」ではなく「国家」です。「市民自治」でなく「国家統治」です。
 松下政経塾出身の方々にも市民自治の理念が欠落しています。国家発想・権力発想です。

3 自民党の地方政策はどうですか。
 道州制を推進すると言っています。道州制とは47の府県を8か10の州に統合することです。裏側の意図を洞察しなければならない。真の狙いは何かを。
 彼らがこれまで何をやってきたかを考えることです。繰り返しますが、政治権力は大衆を言葉で騙します。最近は御用学者が尤もらしい理屈で権力に加担しています。 
 強要された市町村合併は何のためであったか。合併したところは現在どうなっているのかを見つめ、考えることです。
 地方切捨てで自公支持が急落したので、麻生政権は道路財源から1兆円の地方交付金を決めました。だが建設業者と道路族議員と官僚の巻き返しで時代逆行のヒモ付き交付金になったではありませんか。
 「47を8にする道州制」と「3200を1800にした市町村合併」。そのネライは何か。地方管理体制の強化です。「地方の幸せ」「自治の進展」のためではない。地方のことを本気
で考えてはいないのです。
 「まさか」「まさかそんなことにはならないだろう」ではなくて、世の真相を洞察しないと、ツケは自分に返ってくるのです。
 「国を愛する心がなくてどうするか」「どこに徴兵制のない国があるのか」などの声高な論議は目の前まできているのです。
 ネットの「YouTube」にはビックリする動画が投稿されています。

4 有権者に伝えたいことは何ですか。
 現在の日本は「国民的健忘症」に罹っていると思います。「考える力」が衰えているから忘れるのですね。現在の日本に必要なのは思考力です。批判的思考力です。
騙されてはならない。御用学者とマスメディアを信用してはなりません。思考力を高めなくてはならない。自分で考える。テレビに出ている御用学者の理屈に騙されてはならない。
 自分の一票を重ねることで日本の政治を改めるという発想を持ちたいと思います。候補者の殆どが自分利益の人たちですから一回の選挙で目に見える効果は出ない。けれども諦めない。何回かの選挙で状況を変えていく。そう考える。
 日本はアメリカやイギリスのような二大政党よりも、ヨーロッパのようにいくつもの政党が政策協定を結んで政権を担う。その組み合わせを国民が支持する政治の方が良いと思います。相互批判の可能性があるからです。危険な方向に崩落しないためです。   
自治体政策研究所と自治体学
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体政策研究所と自治体学

 夕張再生の自治体学
1夕張再生市民室
 353億円を18年間で返済する再建計画は実質的には北海道庁と総務省が作成したものである。そして総務省からやってきた職員が、夕張再生室長となって1億円を超える全国からの寄付金「黄色いハンカチ基金」を管理し、何にどう使うかの審査も再生室長が掌握している。
 再生室の(つまり総務省の)考え方は、353億円を計画通りに返済することが「夕張再生」である。しかしながら、夕張再生は夕張市民の生活が成り立つことが基本になくてはなるまい。返済計画は「夕張再生計画」ではあるまい。そして市民生活が成り立つには10年間で100億円の返済が限度である。夕張の借財は内需拡大を煽って夕張市を優等生であると表彰した国の責任でもあるのだ。また、返済不可能を知っていながら起債を認めて国に取り次いだ道庁にも責任がある。
 現在の夕張再生室は「債務償還管理室」であるのだから、名称を「夕張市債務償還管理室」に改めて、全国からの寄付金の管理は「夕張再生市民室」を新設してそこが所管すべきであろう。
 夕張再生には市民と行政との協働が不可欠である。しかるに現状は、「市民と市議会」、「市民と市役所職員」との間には、長年の経緯による深い溝がある。だが、信頼を基にした協働がなければ夕張再生は不可能である。信頼に基づく連帯関係を創り出さなくてはならない。如何にして連帯を創り出すか。これが自治体学の理論問題である。

2 市民行政
 市民行政とは市民が市役所職員と一緒に夕張再生の仕事をすることである。行政法学には「市民行政」の観念は存在しない。この言葉に行政法学者は違和感をもつであろう。行政は行政職員(公務員)が行なうものだの観念から脱することができないからである。統治の学としての行政法学理論だからである。
 そこで、国家統治学から自治体学に理論転換をして「行政概念」を再構成するべきである。人間存在の意味は「言葉で論理」を組み立てて「解決方策を構想」することにある。未曾有の困難な事態に立ち至っている夕張である。市民自治の自治体学理論で夕張の事態を理論解明しなくてはなるまい。 
 「行政概念を転換する」とは、次のようなことである。
 国家統治学は「行政とは法の執行である」と思っている。自治体学は「行政は政策の実行である」と考える。
 政策は課題と方策であるから、政策の実行とは課題を解決することである。夕張再生という困難課題を解決するには「市民と行政職員の協働」が不可欠である。国家学の行政法理論に縛られてはならない。
 「市民行政」とは市民が行政を行うことである。これまで、参加・参画・協働という言葉が言われた。内容はどれも同じである。市民行政を市民参加と考えればよいのである。そして、市民参加とは市民が政策立案、政策決定、政策執行、政策評価の各過程に実質的に関わることである。それが市民参加の意味である。
 国家学の行政法学理論では「そんなことありえない!」と思ってしまうであろう。
だが、人間の生きている意味は「理想を目指して現実をどう変えていくか」である。理論の意味は「そのために論理を如何に構築するか」である。
 政策の立案と執行に市民が参加する。これが最近、流行っている「市民と行政の協働」である。協働とは自己革新した主体の協力関係を意味する言葉である。主体双方が従来のあり方と考え方を改めることが基本前提である。
 夕張市役所に再生市民室を新設する。
 市民が市役所職員と協働して市民生活優先の夕張再生に取り組む。

3 市民議会
 もう一つの自治体学の提案は、「市民議会」の創出である。
 「市民議会」とは市民の手に議会を取り戻すことである。
 現在の夕張には「市民と市議会」の間に深い溝が横たわっている。市民と議会の意志疎通は不信の壁で閉ざされている。
 福島県矢祭町では議員提案で議員報酬を日当制に改めた。町財政の危機を乗り越えるためである。それは矢祭町の議員が「わが町への愛情」を抱いているからである。 財政破綻した夕張市の議員は矢祭町議員の行動をどのように見ているのか。
 議会を「平日夕刻と休日」に開催して普通の市民が議員活動をできるように改める。それが市議会を市民の手に取り戻すことになる。
 だが、それを決めるのは現在の議員である。素知らぬ顔で財政破綻の前と同じに議員特権にあぐらをかいている。それが夕張市の議員である。
 夕張市議会にこそ再生計画が必要である。

  自治体政策研究所の活動は、下記のHPに、時事刻々が掲載されている。
    http://jichitai-seisaku.com/index.html
自治体学理論と小規模町村の将来像
(カテゴリー: 自治体学理論
「自治体学理論と小規模町村の将来像」

 「小規模町村は『特別町村』になってしまうのか」と題する公開フォーラムが札幌市内で開催された。 多くの人が参集した。 感想を記す。

1 討論を最後まで全て聴いたのだが、「フォーラム開催の意図」が判然としなかった。関西学院大学のK氏は昨今の市町村合併で総務省の代弁者として活躍したのは周知のことである。その人物を基調講演者として迎えたのはなぜなのか。また、総務省市町村課の理事官をパネリストとして壇上に招いたのはなぜか。
 公開形式でこのようなフォーラムを開催した主催者の意図が判然としなかった。

2 推察をすれば、主催者には現状のままで事態が推移すれば、「小規模町村は消されてしまう」「自治体でなくなってしまう」との危惧と危機感があってのフォーラム開催であろう。つまり、総務省に顔の利くK氏を「基調講演者」「パネル討論の助言者」と遇して迎え、さらに総務省理事官をパネリストとして壇上に迎えたのは、「主催者メンバーの考え」が「総務省に届く」ことを念願してのことであろうか。  よもや、K氏や総務省理事官から「小規模町村の自治権を守る方策」を教わりたいと考えてのことではあるまい。

3  しかしながら、公開フォーラム開催者には参集者に対する責任がある。
 参集者は「このフォーラム」を聴きに行けば、「如何にすれば小規模町村の自治権を守ることができるのか」「総務省の地方支配から脱する方途は何であるのか」「中央官僚の集権官治の体質的意図を如何にすればハネ返せるのか」を「聴いて考える」ことができると思って参集するのである。
 「フォーラムのタイトル」は「小規模町村は『特別町村』になってしまうのか」である。
 総務省代弁者や省庁官僚が「基調講演者」「助言者」として発言をするが、その発言に「質問や批判的所見や反論」の発言者は用意されていない。
 参集者は「何のためのフォーラムなのか」と戸惑ったのではあるまいか。 
 参集者を「ダシ」にしてはならない。何事も羊頭狗肉は宜しくない。「主催者の思い」を「総務省に届ける」ためならば、それなりの方法が他にあるであろう。

4 基調講演の内容は「何を喋っているのか」が分からない意味不明なものであった。本人自身も「何を喋っているのか」が分かっていない風情であった。そのような「独り言」も発していた。総務省理事官は「地方制度調査会に諮問はしたが総務省には小規模町村制度について何の意図ももってはおりません」と述べた。省の意図をおくびにも出さない典型的な官僚の言い方であった。
 フォーラムならば「論点提起」「意見交流」「批判的反論」がプログラム構成として用意されていなければならない。「自治体たらんと苦闘する町村」にとっては、総務省は「地方支配の制度維持」を続けている省庁である。主催者にその認識がまことに希薄である。
 今次の「市町村合併促進」「交付税減額」「三位一体改革の虚言」を意図的に忘れた「政策提言」という名目の「嘆願フォーラム」の如くに思えた。

5 おそらく、「小規模町村の運命は総務省が握っている」「これは如何ともならないのだ」との諦観が心底にあるのではあるまいか。それは「領主様に上訴・嘆願する心底」と大差はない。
 自治体理論は「統治支配」に「市民自治」を対置して「自治体改革の展望」切り拓くのである。
 よく言われることであるが、「対案を出さなくては」「反対するだけではダメだ」との言い方がある。だが、その言い方をする者には「自身の覚悟」「規範的決断」は不在である。何事も現状に抗するには「覚悟と抵抗」が不可欠である。
 対案を出せば「特別町村」も「少しは良いものになるのでは」と考えるのは、総務省の正体を洞察しない思考である。

6 「合併問題」も「小規模町村の将来」も、肝心カナメなことは「地域の自治力」である。「嘆願のような提案」よりも、地域と役場での「自治学習の実践」である。総務省職員を壇上に「講師として迎える」よりも「地域での草の根学習の実践」である。「自治学習」が地域で困難だから「省庁への提案フォーラム」をと考えたのであろうが、「公開フォーラムの主催者」には、参集者が「何を思って帰途につくか」を重要に考える責務がある。
 「嘆願フォーラムのダシ」では参加者の心は熱くならない。

代表民主制を担保する制度
(カテゴリー: 自治体学理論
 代表民主制を担保する制度

 2005年の市町村合併をめぐって「住民投票条例の制定を求める署名運動」が全国各地に起きた。これは何を意味したのであろうか。
 時代を遡って考察するならば、60年代、高度経済成長政策によって「大気汚染・水質汚濁・地盤沈下」などの公害問題が発生した。加えて「住宅・交通・保育所・学校」などの社会資本の不足によって住民運動が激化した。
 60年代から70年代にかけての住民運動は「首長と議会に解決を求める要求行動」であった。だが、その要求を受けとる首長や議会の側に、民主代表制の政治感覚と行動原理が存在しなければ、住民の側に不満が堆積する。
 わが国で実際に住民投票を実施したのは1993年の新潟県巻町であったが、最初の住民投票条例の制定は、1982年の高知県窪川町であった。
 窪川町で住民投票条例が制定されるに至ったのは、当時の首長と議員が代表民主制に反した振る舞いによって住民の不信感を高めたからであった。「原発建設についての決着を直接住民に訊くのは卑怯な手段である」との町長の発言が「住民の反感」を買ったのである。
 すなわち、わが国で最初の「住民投票条例」は「代表民主制度が機能不全」に陥ったとき、代表民主制を「担保する制度」の要求として始まったのである。
 「住民投票条例」は「代表民主制の機能不全」を是正する制度として登場したのであった。
 今回の市町村合併を巡って、「住民投票条例の制定」を求める署名運動が全国各地に起きたのは、住民が「代表民主制を担保する制度」の必要に気づき始めたものと認識すべきである。すなわち「市民自治の主体としての意思を表明する制度」を求める「動向の始まり」と認識すべきであろう。
 そのような事態の展開であった。
自治体学理論と自治基本条例の制定
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学理論と自治基本条例の制定

 自治体学理論とは住んでいる人々が公共社会の主体であり、公共社会を管理するのは「市民」であると考える理論である。
 市民は公共社会を管理するために政府をつくり代表者に代表権限を信託する自治主体である。首長と議会は市民から信託された範囲内で権限を行使する。信託は白紙委任ではない。市民は代表権限の運営が逸脱しないよう日常的に市民活動で制御する。代表権限の運営が信託に反する場合には「信託解除権」を発動して政府を交代させる。
 これが「市民自治の政府信託理論」である。市民が「自治主体」であって、首長と議会は「制度主体」である。自治基本条例を「行政内決裁と議会議決」でつくるという考え方は、「制度主体」が「自治主体」である市民を「そっちのけ」にして「自治体の憲法」をつくるということである。これは、統治行政のやり方と同じである。「市民自治の最高規範」の制定ではない。 

 現在の重要論点は、地域に「最高条例の規範意識」を如何にして創り出すかの工夫と実践である。然るに、「市民合意・市民決裁の手続き」を避けた自治基本条例の制定が続いている。学者も「市民合意・市民決裁の手続きは理想論である」と述べて「形だけの自治基本条例の制定」に加担している。
 それらは、現状を変革する困難を避けて便宜に流れる「安直思考」である。 
 推察するに、市民合意を避けるのは、「制定ができなくなる」「制定が遅れる」を危惧してのことであろう。よもや、住民は衆愚だから住民投票はしないのが良いのだ、ではあるまい。
なぜに、住民の自治意識の高まりを「望まず」「軽視する」のか。
 「制定することが目的」であるのならば「自治体の憲法をつくる」などと立派なことは言わないことである。

 「市民」も「市民自治」も「自治体改革」も現状を変革せんとする「規範概念」であるのだ。「住民合意・住民決裁」を避けて「最高規範の制定」を論ずるのは「市民自治」の規範論理を透徹しない考え方である。
地域に「最高規範の社会意識」を醸成せずして、何が「最高条例」であるのか。七十年代以来の「市民自治の諸制度」が形骸化しているのは安直思考に原因がある。「死屍累々」ではないか。それであっても「制度をつくれば一歩前進だ」と言うのであろうか。
 「制定したことが話題」になれば、「それでよいのだ」であるのなれば何をかいわんやである。
新刊 自治体学入門
(カテゴリー: 自治体学理論
新刊・自治体学入門 (時事通信社)
「自治体学入門」を刊行した。

目次
 1章 自治体学の概念
 2章 自治体学理論
 3章 市民力と職員力
 4章 市民自治基本条例
 5章 代表民主制と住民投票
 6章 市町村合併
 7章 道州制
 8章 自治体改革
 9章 自治体職員の研修
 10章 自治体学会の設立経緯
 book


「自治体学理論の構成」は筆者にとって長年の懸案であった。
 1984年の自治体政策研究交流会議において自治体学会設立が約定され、神奈川県自治総合研究センター研究部が学会設立事務局を担うことになって以来の懸案であった。本書第10章に叙述したように、当時は「自治体学」の観念は存在しなかった。そこで、学会設立の賛同者を呼び掛ける全国行脚に携行するために、筆者が所属した研究部で「自治体学に関する研究」を急遽とりまとめた。
 1987年の設立大会で会則に「自治体学の研鑽をめざす」と定めたが「自治体学概念」の共通認識は未だ定まっていなかった。
 2006年4月、北海学園大学法学部は「自治体学」を専門科目(四単位)として開講した。日本の大学で最初である。本書はその講義を基にしている。
 本書をまとめ得たのは、1979年開催の第一回全国文化行政シンポジウムで松下圭一教授と邂逅し以来30年にわたって示唆をいただくことができたからである。

 自治体学会を設立して20年が経過した。
 20年の歳月は歴史である。歴史は現在を見据える座標軸であるから、20年を経過した自治体学会は「何が現在の問題であるのか」を考える研究対象となった。自治体理論・政策形成力・市民自治制度は深まり広がり整備された。1970年代に比すれば画期的とも評すべき展開である。
 しかしながら、市民と職員の実践的思考力は強まったであろうか。市民と職員の相互信頼は強靭になっているであろうか。研究者は個別具体の実践を普遍認識に至らしめる理論を深化させているであろうか。

 70年代の日本社会には熱気があった。状況を突き破る主体が存在した。現在の日本は状況追随思考が蔓延し時代に対する怒りや問題意識を失っているかのようである。
 なぜであろうか。「生活水準」が良くなり「ハングリー」でなくなったからではあるまい。二つの理由が考えられる。
 一つは、社会を全体的に考察する「理論」が力を失っているからである。70年代には「社会主義の理論」が存在した。「時代を切り拓く気概」と「社会変革のエネルギー」が存在した。革新団体の役員には「自身の不利益をも覚悟する献身性」と「未来を展望する純粋性」があった。今はそれがない。状況追随思考が現在の日本社会に蔓延するのは「理論の羅針盤」を見失っているからであろう。
 もう一つの理由は、学校教育で「自国の近現代史」を45年間にわたって意図的に教えなかったからである。
 日本の人々は自分の国の歴史を悲しいほどに知らない。哀れなほどに知らないのである。思考の座標軸は時間軸と空間軸である。タテ軸の「歴史軸」が欠落して「思考の座標」が定まらないから時代や社会を批判的に考えることができないのである。

 思考の道具は「言葉」である。批判的思考力を取り戻すには「道具である概念」を明晰にしなくてはならない。論理的思考には明晰な概念・用語が必要である。状況を突き破り未来を創造するのは「規範的思考力」である。規範的思考には「規範概念」が不可欠である。
 70年代の対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「国家統治」対「市民自治」である。すなわち、「中央支配の継続」に対抗する「地域自立の実践」である。「国家学」を「自治体学」に組み替える規範的思考力が緊急の課題である。自治体学会の役割はいっそう重要である。
 改革はいつの場合にも「主体の変革」が基本である。自分自身は何も変わらないで「目新しい言葉」を述べる風潮が広がっているのではあるまいか。
 例えば、自治基本条例が「自治体の最高規範」であると解説され、流行のように制定されている。良いことである。画期的な自治の進展であると言えよう。しかしながら、第4章「市民自治基本条例」で検証したように、そこには「主体変革」の問題意識が欠落している。「新しい制度」をつくれば「状況が変る」と考えているのではあるまいか。

「協働」の言葉も流行している。協働とは「自己革新した主体の協力」を意味する造語である。主体双方の自己革新が前提である。行政と住民の関係が現在のままでは協働にならない。「協働」は統治行政の現状況を「市民自治」に転換するための「主体変革」を前提とした言葉である。すなわち、自己革新した「市民」と「自治体職員」の相互信頼に基づく協力関係が地域の自立を創り出すのである。本書の表題を「市民力と職員力」とした所以である。

 本書は「自治体学」の概念を「国家学」との対比で定義し、自治体学理論の基礎概念を吟味して「市民自治」の意味を確定した。
 次いで「協働」の言葉の意味を探り、自治体を「市民自治の政府」に改革するには市民と職員の信頼関係が不可欠であることを論証した。さらに「自治基本条例」の制定実態を検証し「主体変革の問題意識」が欠落しているのは重大問題であると論点を提起した。
 さらに、今次の市町村合併において全国で展開された「住民投票条例の制定」を求めた署名運動の意味を探り、住民投票は有権者の「代表権限制御の行動」であるとして自治体学理論に定位した。
 次いで本書は「市町村合併と道州制」の論点を整理し「自治体改革と職員研修」との関連を論証した。最後に20年を経過した自治体学会の役割を未来に向かって見いだすために、設立事務局を担当した立場から「自治体学会の設立経緯」を詳細に叙述した。
自治体職員の自己革新
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体職員の自己革新

「自治体職員の自己革新」とは如何なることか。
「慣例に従って何事も無難に」の「公務員の行動様式」を自分の才覚で越えることである。つまりそれは、「自分の考えで処理するか」「上司の指示に従うか」の緊張関係を越えることである。
 上司の指示が、自分は「こうするべきだと思ったこと」と、異なることが予測されても「上司了解」を第一義にするのが地方公務員である。
自治体学会などで発言をしても「緊張関係」を自分の才覚で乗り切る覚悟がなければ地方公務員である。地方公務員は後頭部を叩けば「チホーコームイン」と音がすると批判されている。
 もとより、大問題になるようなことを自分の一存で処理してはならない。しかしそんなことは、公務員は誰もやらないのである。
問題は「自分の才覚で処理することはゼロではないのだ」の認識の有無である。「これは自分の才覚で処理すべきことだ」の行動様式を身につけたとき、そのとき「地方公務員から自治体職員への自己革新」が為される。
 「自分の才覚で為すべきこと」がゼロ%であるのならば「協働」などと利いた風なことは言わないことである。
 言葉では「分権改革」「制度改革」「市民との協働」と公務員も言う。けれども、自分自身の行動場面になると「無難に大過なく」「上司意向を忖度して」になる。
 自治体職員の自己革新には「自治体理論」が必要である。人間は理性の存在であるから「理論的正当性の確信」が重要である。「一歩前に出る」には「不利益になるかもしれない覚悟」が伴う。「出る杭は打たれる」のである。だがしかし、前に出ることが自分を「自治体職員」へと自己革新するのである。「全身丸やけど」の「玉砕」は賢くない。そのときは「半歩」前に出るのである。
 人には「ものが見えてくる場面」がある。自身の才覚で壁を越えたときである。そのとき「ものごとが見えて」視界が開かれる。
 現在は「争点が無くなった」と言われる。無くなったのではない。見えていないのである。70年代の対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「統治」に対する「自治」である。「国家統治の中央支配」に対抗する「市民自治の実践」である。
 改革はいつの場合も「主体の問題」である。
自治体学の論点ー自治体議会と会派拘束
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学の論点 -「自治体議会と会派拘束」

 全国各地で2002年以来、ジュネーブ条約を根拠に「無防備地域宣言条例」の制定をめざす直接請求の署名運動が展開されている。何れも法定数を上回る賛同署名が集められている。
無防備平和条例の制定に賛同し署名集めに参加する自治体議員も増えている。ところが、所属会派の決定に拘束されて「議案審議で発言せず」「条例案表決で反対する」という議員行動が頻発している。
かねてから、「与党であるから首長提出の議案に反対できない」との議員行動が存在していた。

 自治体学の論点として「自治体議員は会派決定にどこまで拘束されるのか」を考察する。
自治体の代表民主制度は「首長と議会」の二元代表制である。即ち、有権者市民が「首長と議員」を直接選出して「代表権限を信託する」のである。中央の代表制度と異なるのである。
信託は白紙委任ではない。「当選すればこっちのものだ」は信頼委託契約の違反である。
議会の役割は「執行機関と対峙して批判・監視をする」である。
自治体議会に「与党・野党」は存在しない。議会自体が制度としての野党である。「緊張関係を失った馴れ合い議会」は議会の自殺行為である。
したがって、与党会派であるからと、「批判も質問もせず」「採決では賛成する」のは議員権限の放棄である。代表権限を信託した有権者市民に対する背反行為である。

 そもそも、自治体議会の「会派」とは何であるのか。
会派に所属するのは「利益と便宜」のためであろう。会派決定に従うのは「議会内の役職配分が得られなくなる」「会派幹部から情報が伝わらなくなる」からであろう。
 自治体議員にお尋ねしたい。
「会派にはそれ以上ものがあるのだ」「政策会派なのだ」と公衆の場で言い得る実態があるのか。
なぜ「会派拘束」を「議員活動」の上位におくのか。「会派の弊害」をこそ直視するべきではないのか。
 議員活動の本来任務は提出議案の審議と採決である。会派を超えて議案ごとに連携すべきである。議院内閣制の中央政治の政党分派を自治体議会に持ち込むのは間違いである。

 現在の日本社会で「議会ほど信頼されていないものはない」「地方議員に対する評価は哀しいほど低い」と言われているのである。
「議員権限」は市民が託したものである。「議員責務」は有権者市民に対するものである。所信に反する議会行動は代表権限を信託した市民への背信行為である。
「政策型思考と政治」を読む
(カテゴリー: 自治体学理論
「政策型思考と政治」(松下圭一著・東大出版会)の読書研究会を終えて 

1 この書物が出版されて以来、全国各地でこの本をテキストにした読書会が数多く開かれたが「扉のことば」から「あとがき」までを完読した読書研究会は少ないであろう。
なぜなら、この書物は既成の観念に捕らわれていたのでは理解できない「政治・政策と市民」の理論体系書であるから、完読するには集中力の持続が必要である。集中力の持続を可能にする運営が読書会にないと息切れして閉店休業になる。だから、大抵の読書会は完読できないで途中で終息する。
「政策型思考研究会」と命名して月一回の読書会を続けた。
 勤務後の夕刻の短い時間でこの本の一章を一回で理解するのは困難である。困難ではあったが、そうしなければ完読できない。理論体系書であるから完読しなければ意味がない。ところが、理論体系書であるからどの章も他の章と密接につながっている。次の章で前章の意味と用語が判然としてくることが(しばしば)である。また、目次に付けられている「星印」は体系の区分であるから、そのところで振り返りの自由論議を行って咀嚼を助け合うようにした。巻末の索引も重宝した。索引に示されているページを捲って書物を横に読めば用語の意味が判然としてくる。
また、語句に付けられている四種の括弧の意味もその都度話し合った。
 各章毎の報告者を定め論議するべき点を見出した。報告者は「書かれていることを理解するために」何回も読み返してメモを作成した。だが報告は「このようなことが書いてある」との説明は不可とした。自分の言葉で言えなければ真に分かったではない、そうでなければ納得理解したにならないからである。そしてまた、全員が読んできているのだから、自身もよく分かっていない報告者の講釈は時間の浪費である。
 研究会であるから、まず、報告者自身が「よく分からない用語と叙述」「成るほどと思い賛同したのはどのようなことか」「このような理解でよいのだろうかと思うこと」を提出して話し合った。

2 ところで、この本を難解だと言う人が少なくない。文体が馴染めないと言う人もいる。問題は、なぜ難解だと思い馴染めないと感じるのか、である。
 この書物を納得し理解するには、読む人自身の「政治イメージ」と「基礎概念」の再吟味が不可欠である。自身の政治イメージを問わず基礎概念の吟味を拒む人にはこの書物を正当に理解することはできないであろう。誰しも人は、自身の思考の基本枠組みや基礎概念の問い直しには緊張感が伴うから苦痛である。だから、無意識的に自分を庇い「難解の防御壁」をめぐらすのではあるまいか。この本は扉にも書かれているように「国家観念との別れの書である」。既成の通説である国家学の理論を転倒するのであるから易しくはない。易しい筈がないではないか。
 問題は、読んで成る程と納得するか否かである。確かにそうだと思うかどうかである。
 納得すれば次第に難解と思わなくなる。そしていつの間にか、分かりやすくて読みやすい書物になる。
 例えば実際の話として、松下教授の書物が刊行されるたびにテキストにして学習会を続み続けている大阪の市民文化団体の人達は「松下さんの本はどれも分かりやすくて読みやすいですな」と言う。明治以来の国家学の理論に呪縛されていないからである。自由で自立した市民であるからであろう。つまり、国家学の政治・行政の理論に馴れ親しんでいる人にはその分だけ難解になるのであろう。

3 研究会の人達はいつの間にか、当初は難解だと言っていた概念・用語で語り合うようになった。そして例えば、岩波新書「日本の自治・分権」「政治・行政の考え方」は、実に分かりやすいと言うようになった。それは、漠然とした理解のままではあっても毎回一章ずつ進行した悪戦苦闘の手探りの読書研究会の成果であると言えよう。そして成果は、自身の仕事を市民の立場で考えるようになったことである。「政府間関係理論」や「政府信託理論」で地方分権や道庁と市役所・役場のあるべき関係を語り合い、自治体をめぐる様々な日常的な現実の問題を、政策情報、市民自治、政策開発、参加手続、市民と住民、などの概念を使って考えるようになった。つまり、事象を洞察して理論的に考察する視座を持ったと言える。それは、国家統治の官庁理論の呪縛から自らを解き放ち、市民自治の自治体理論の考え方を確立したと言えるであろう。地方公務員から自治体職員への自己変革である。

4.私は、北大の大学院の演習でもこの書物をテキストにした。現在の北海学園でも大学院で使用している。なぜこの書物をテキストにするのか。
 この書物は、各人が自身の思考の座標軸を形成するに最適の書であると考えるからである。現在の日本は都市的な生活様式が全般化した社会である。どのような山村、僻地、離島にも工業文明的生活様式、情報産業的生活スタイルが広がっている。これはかつてなかった事態である。そこには前例のない公共課題が噴出している。噴出しているのだが前例のない課題であるからそれを公共課題として設定できないでいる。また、前例のない課題ばりであるから解決できない。これまでの手法は役に立たない。解決方策を開発しなければならない。何が課題であるかを考えるには座標軸が必要である。
 既存の学問も、前提条件ががらり変わっているのだから「思考枠組み」と「基礎概念」の再吟味が不可欠であろう。
 この書物は思考の座標軸を形成するに最適の書であると考える。
 本書を読み理解了得するに効果的だと思うのは、同じく東大出版会から刊行されている
松下教授の「現代政治の基礎理論」を併せて読むのがよいと思う。(森 啓)
北海道・自治土曜講座
(カテゴリー: 自治体学理論
北海道・地方自治土曜講座
●学習熱の高まり
 北海道にも過疎と高齢化が急速に進行している。
 北海道の基幹産業である農・林・水産は産業構造の急激な変化で活力を失い、借金が嵩んでの離農、後継者がいないので廃業する林・漁業が増えている。町や村に深刻な先行き不安が広がっている。何とかしなくてはならぬ。安心して暮らせて、働く場があって活力があり、美しくて魅力があり、働くだけでなく楽しいまち、にしなくてはならない。どうすればよいのか。まちづくりの事務局である役場職員が考えて町の人々に呼びかけねばならない。成り行き任せで傍観しているわけにはいかない。
 それには、役場職員が勉強しなければならぬ。
 95年4月、北海道町村会が言い出し事務局となり自治講座実行委員会がつくられた。 当初、町村職員が講座に出て勉強するであろうかとの危惧はあった。
 定員百名で受講者を募集した。あっという間に二百五十人の受講申込みがあり、急遽、大きな教室に変更したが三百五十人で締め切った。二年目は五百人の会場を用意した。八百七十四人の申込みがあり、止むを得ず二会場に分け、講師は同じ講義を二回することになった。二年目から、道北上川、十勝帯広、道東釧路、道南檜山、愛別町でも、地域の自治体職員の企画で土曜講座が始まった。三年目の97年は定員を四百名にした。だが、熱烈な受講希望を断れず四百五十人を受け付けた。かくて、北海道の各地で、毎月、二千人の自治体職員、市町村議員、首長、市民が「国家統治の官庁理論」から「市民自治の自治体理論」への理論の組み替えを学んでいる。それは、衰退する過疎のまちを如何にして蘇らせるかの方策を考えるためである。住んでいることを誇りに思えるわがまちをつくるためである。
 稚内、根室、檜山などの遠隔からの受講者は、金曜日に仕事が終わって出発し、札幌に深夜に着き泊まり翌朝講座に出て夕方帰途に着く、を繰り返している。礼文島の町役場職員は船で稚内に渡り列車で札幌に早朝着いて受講して翌朝礼文島に帰っている。
 五月から十月まで、月一回の土曜講座、参加費一万円、何時も満席、毎回の講義はブックレット形式で北海道町村会から刊行されている。

●地方公務員から自治体職員へ
 この学習熱の高まりは何であろうか。
 時代の転換期には学習熱が高まると言われる。産業の衰退、過疎の進行、老齢社会への危機感が北海道の各地に広がっているからであろう。いや、危機感だけではないであろう。役場職員が自分の仕事に可能性を予感し始めたからであろう。自分の仕事が意味のあることだと気づき、自分自身に誇りを持つことが出来ることを実感し始めたから講座の熱気が高まるのであろう。     
 これまでは、タテワリ省庁の補助金と通達に不合理と屈辱を感じても、従属することを余儀なくされていた。省庁政策の末端の地方の公務員であった。その自分が、都市型社会が成熟して公共課題が量的基盤整備から質的まちづくりに移行したため、重要な役割を担っている市民自治の事務局職員であることに気づいた。
 質的まちづくりは自治体でなければ実現できない。成熟社会の質的政策課題は「総合的手法」と「協働の仕組み」が不可欠である。土曜講座に参加して講義のあと受講者と語り合っているうちに、仲間も増え時代の変化も見えて自信を感じ、自分は故郷をつくる全日制の公共事務局職員であるのだと思い始めるのであろう。だから、講座の参加者も年々増えている。講義を聴き仲間と知り合い先進地域と交流し自分の仕事の質を高めることによって「地方公務員」から「自治体職員」に自身を変革しているのである。
 政策能力の違いがまちづくりの格差になって出る時代である。
 地方分権が時代の潮流になり役場職員の政策能力が重要になってきたのである。
 受講者は、講師として登壇した東京多摩地域の市職員から「事業別予算のつくり方」「政策原価の計算手法」「政策法務の理論と実際例」などの話を聴き、自分と同じ自治体職員がここまで考え実践しているのかと驚き、宿泊サマーセミナーでは徹夜で語り合い、時代の転換と自身の役割を実感している。
 かくて、土曜講座の参加者によって北海道の各地に政策研究会や学習会が始まっている。そのうごきを奨励する首長も増えている。良い意味での刺激と競争が百七十八の町村役場に始まっている。全職員がパソコンで仕事をして役場情報を町民と議員と役場職員が共有することを目指している町もある。
 北海道の学習熱の高まりは土曜講座だけではない。
 土曜講座の開始と同じ95年に設立された北海道自治体学会の役割も大である。
 自治体学会は市民と自治体職員と学者・研究者が実践体験を交流して市民自治の理論を研鑽する場である。毎年二回、北海道の各地を持ち回りで「政策開発の研究総会」と「政策シンポジュウム」を開催している。そして、土曜講座を受講し自治体学会の会員になる市町村議員も年々増えている。「土建型議会」から「まちづくり型議会」に地域は確実に変わり始めている。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。