■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
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合併騒動とまちづくり
(カテゴリー: 市町村合併 道州制
合併騒動とまちづくり     
 合併騒動
今回の合併騒動は地方分権論議の終盤段階で突然のように出てきた。
地方分権とは「自分の地域のことは自分達で解決する」ということである。
ところが今は、地方分権はどこかにすっ飛んで、合併騒動で市町村は大揺れである。合併はしたくない。だが、交付税を削られるのではやっていけない。合併は避けられないのか、と市町村長は頭を抱えている。
 合併をすれば町の名は永久になくなる。住んでいることを誇りに思うまちづくりには町への愛着心が不可欠である。町の名は大切である。安心して暮らせて安全で美しいまちをつくるには人々の連帯感が基本である。町の名が消えることは重大なことである。
 合併とは何か
合併とは、自分の地域のことを自分達で解決する「仕組み」つまり「自治制度」を失うことである。「地域の自治権」を捨てることである。合併した地域の現状を眺めてみれば、その無念さは明らかである。
地方分権は工業文明国に共通する世界の潮流なのだ。なぜ潮流なのか。科学技術によって前例のない公共課題が噴出するからである。それらは住民と行政が地域で協働しなければ解決できない課題である。だから、工業文明国はどこも地方分権である。ところが、長い間、お役所任せの行政であった。だから、住民と行政が協働する制度や手続きは出来ていない。信頼関係もない。これからは住民も行政職員も考え方を改めて、安心して暮らせる地域をつくらなくてはならない。「さあーこれから」というときである。
その矢先に「合併をせよ」である。
 合併すれば、周辺地域は間違いなく寂れていく。若い役場職員も中心地に住所を移すことになる。商圏も中心に移る。そして、これまで役場から発注されていた仕事や商品の買い上げも無くなり公共経済の地域還流は失われる。これまで、小さい町村も都市計画をつくり中心市街地を形成し、美しく安心して暮らせるふるさとづくりをやってきた。先進地域を視察し交流し都市と農村との提携も工夫して、わが町をつくる努力を続けてきた。
しかるに、人口の少ない町村は自治権をとりあげると脅され合併を強要されているのである。一体、誰のための合併であるのか。政・官・業の利権癒着が原因で生じた膨大な財政赤字のツケ廻しではないか。
 合併すれば何とかなるのか
 700兆円の借財で国際信用はガタ落ち。そこで「公共事業費」と「社会保障費」と「地方交付税」を削減しようとしているが、利権勢力の抵抗で莫大な公共事業費は削れない。社会保障費は反対勢力が微弱だから弱者切捨てで進行中。地方交付税は3200の市町村を1000に合併させて減額する。これが今回の合併問題である。だから、合併してもしなくても、交付税の減額は不可避である。避けられないのは「合併」ではない。「地方交付税の削減」である。
合併をすれば何とかなるというような事態ではない。合併しようが、しまいが、行政財政の徹底的な改革は不可避である。行政財政の改革は合併した寄り合い所帯では難しい。合併したところは返って逆に物入りで経費増大になっている。住民との信頼関係も遠のくから行財政の改革は困難になる。ますますコスト意識なしの無責任行政になる。
合併特例法は「飴」ではない。「毒饅頭」である。交付税の10年保障といっても合併すれば町がなくなるのだ。特例債は借金である。今は借金などするときか。三万人でも市にしてやるというのは無定見な下劣さである。

 合併しても心配することはない、と言う
自治省職員が原案を書いて知事に「通知」してきた「合併促進要綱」には、合併しても「地域審議会をつくれば住民自治は大丈夫です」と書いてある。自治労の月刊・自治研は「近隣政府」を特集した。最近では地方制度調査会から「自治区」とか「自然村に戻って」という言い方も出てきている。
これらに共通するのは「まず合併ありき」である。そしてその果たす役割は合併への「露払い」である。住民自治が遠のくことへの不安に「こうすれば、心配することはないですよ」と「合併促進・容認の側」から、何の根拠も示さずに言うのである。これらの言動に惑わされてはならない。
合併で寄り合い世帯になった役所から委嘱・任命される「地域審議会」が機能するであろうか、そもそも、何を根拠にして「住民自治の心配はありませんよ」と言うのか。70年代に自治省が音頭をとった「コミュニティ行政」の実態はどうであったのか。そしてまた、「公共財政」も「規範的決定権限」も有さない「近隣政府」なるものに如何なる意味があると言うのか。
さらにまた、合併した元町村区域に「住民負担で自治区を自然村としてつくればよい」などと言う前に、まずは現在の市町村のままで、分権型社会の「自己決定・自己責任」の住民自治を構築することである。現状は長い間の統治行政で「行政請負と役場依存」が実態であるのだから。
合併の論議は時間をかけてである。この騒動の終わった後の話しである。
いま必要なことは徹底的な行政財政の自律的改革である。まずは、広域連携のシクミを多様に考案して実行する。教育委員会や公平委員会や農業委員会なども広域共同事務にして分担する。公共施設の管理と運営は委嘱し委託する。助役、収入役を置かないことにした町もある。これらの工夫と実行は県庁や省庁には問い合わさないことである。所詮は頼りにならないのだから。問い合わせをしても碌なことはない。
首長と議会が協議し住民と話し合って決めるのである。今回の合併騒動は、考えようだが、地域で自治を真剣に考えるチャンスである。首長と議会が住民の信頼を獲得するきっかけにもなる。
「合併する」とは「地域を投げ出す」ことなのだ。「合併しない」とは「ふるさとを守る覚悟」が有ってのことである。
市町村長や議員が真実にふるさとを愛しているか否かが問われているのである。試されているのである。

 少子高齢社会の自治制度
 急速な少子高齢社会への突入である。日本列島は少人口地域がさらに増えるであろう。だからこそ、人口の少ない地域が自律し活力をもつ自治制度にしなくてはならないのだ。目先の財政赤字のツケ廻しで自治制度をいじくって将来を誤ってはならない。自治権剥奪をちらつかせ合併を強要するのは間違いである。小規模自治体の切り捨ては時代逆行である。
日本列島は舵取り不在で経済は低迷し、次なる「失われた十年」になろうとしている。日本経済が活力を取り戻すのは、それぞれの地域が自律し知恵を働かせるときである。利権癒着した無責任な中央が地方にツケ廻しするやり方では経済も財政も立ち直らないであろう。
中央が一律に地方政府の規模や制度を定める旧来型思考をやめることである。中央がなすべきことは、省庁の構造的無駄と癒着腐敗と不効率を改めることである。それをなさずして、中央政府の財政赤字のツケ廻しで合併を強制するのは大間違いである。それに加担する人たちは日本列島の将来を誤らせる所業である。
小規模人口の町村と何十万人の規模の市とが同じ事務事業を担うというのは合理的でない。だから、将来に向けて制度の改革を考えなければならない。だがしかし、現在の合併騒動のなかでそれを持ち出すのは問題である。強要合併の露払いとなるではないか。現在の合併騒動が一段落をしてから論議するべきことである。なぜ、この時期に言い出したのか。政党がそれを言うからとの弁明は責任逃れの言辞である。
府県は明治以来の地方代官の役割がようやく終わるのである。これからの府県は、補完自治体として市町村の側に立って小規模町村が返上する事務事業を補完する仕組みを、一律でなく性急でなく、双方の協議によって地域実態に合わせて形成する。それが分権型社会の自治制度の整備である。
合併は行政区域の変更ではない。住民自治区域の変更なのだ。
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