■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
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市町村合併と住民投票
(カテゴリー: 市民自治の意味
民主制度根幹の揺らぎ―市町村合併と住民投票
民主制度の根幹が揺らいでいる。
例えば、市町村の合併である。合併を「首長と議会で決めてよいのだ」が横行し、住民投票をしても開票しない、などの独断専横が広がっている。
ところが、学者も労組も政党も論壇もメディアも黙している。「主体鈍磨」と「状況追随思考」の蔓延である。

1. 市町村合併と住民投票
合併とは何か
合併とは「地域の自治権」「地域の自治制度」を失うことである。父祖伝来の町の名前がなくなり、役場から発注されていた財政支出がなくなり、公共経済の地域還流がなくなり、若い人は中心地に住所を移し、商圏も中心に移って商工業も衰退する。合併した周辺地域は間違いもなく寂れていく。
合併は地域社会の重大事であるのだ。首長と議会だけで決めてよいことではない。「住民の合意」が不可欠必要である。首長と議会の権限は「白紙委任」ではない。住民から四年任期で信頼委託された権限である。
なぜ、住民投票を避けるのか。住民投票を避けるのは「住民意思の表明」を恐れるからである。
「合併やむなし」と言明している首長と議員の言動を仔細に観察するならば、「自分自身のこと」を第一義に考えている、と思わざるを得ない。総務省の兵糧攻めに直面して「故郷を守り抜くの気概」はない。交付税削減という理不尽な「合併強要」を「乗り越える覚悟」はない。全国には「自立の方途」を決断した町村長は数多くいるのだ。なぜ、その町村長の才覚と覚悟を聞いて学ぼうとしないのか。「自立の方途」を決断した町村長の所見を聞かずに「合併やむなし」を言うのは「困難な役割」から逃げ出したいからである。それは「故郷を投げ出す所業」である。
北海道にも「隣町との合併を密かに約定し」「合併は住民判断になじまない」などと言い「住民投票」を狡猾に避けている町長がいる。「自治の首長」の名に値しない。
住民投票
「住民には合併判断は難しい」などと言うのは「住民蔑視」である。
首長が為すべき責務は主権者住民への公正な判断材料の提供である。だが、合併協議会で作成する「合併した場合・しない場合」の「想定資料」は、不確定の数字化である。「交付税総枠の削減も」「行財政改革の覚悟と展望も」「合併後の諸費用も」全て不確定である。不確定を数字化した「合併前提の架空資料」ではないか。そんなものでなく、自立を決断した町村が「住民と向かい合って定めた自立計画」を主権者住民が知るようにすることである。それをしないのは、困難な役割から逃亡したいからである。合併を意図している首長に共通していることは「地域の未来を語らなくなった」ことである。故郷を投げ出しているからである。職員も「自分のことが最優先」になっている。
 当時の自治省職員が作文列挙した「合併のメリット」なるものを安易に引用し、あるいは、地制調が「地域自治組織」と書けば安直に賛同する学者も多い。実態が見えていない観念論理である。考えてもみよ、故郷を投げ出した首長と職員が合併後に自己革新をすると思うのか。行政改革を断行すると思うのか。地域自治組織を構築することが出来ると思うのか。今少し実態を認識すべきである。言葉でならば誰でも何とでも、役人の作文のように、言うのである。
かくて、「住民不在」の首長と議会に対して「住民投票条例」の直接請求運動が全国各地に起きている。だが議会多数派がこれを否決し続けているのである。

2 民主制度根幹の揺らぎ
住民投票は行うけれども「投票率が六割を超えないときには開票しない」の決議が横行している。投票箱の内にあるのは「町の将来を決めんとする主権者住民の意思」である。三割であろうと四割であろうと開票するのが当然である。如何なる権限で住民意思を「闇から闇に葬る」ことが出来ると言うのか。民主制度の根本原則の否認である。
そもそも、首長や議会の権限は住民から信託された権限である。住民意思の表明を忌避し圧殺するのは自己撞着である。さらには、合併反対の住民意思が多数であっても「僅差である」などと言明して「合併を進める町長」もいる。民主制度の原理原則の否認である。ところが、これらの横行に学者も論壇も労組も政党もメディアも黙している。なぜであるのか。
政治感覚の麻痺である。批判的思考力の衰弱である。それとも或いは、自身の地位を保全する処世術であるのか。「主体鈍磨」と「状況追随思考」の止めどもなき蔓延である。これであれば、平和保持も人権侵害も止めることはできない。九条改定を目論む人々はホクソ笑むであろう。
繰り返すが、四年任期で権限を信託された首長や議会が合併という地域社会の重大事を自分達だけで決めてよいのだと考える。住民投票条例の直接請求を否決して住民意思の表明を圧殺する。投票率が六割を超えなければ開票しないと定める。これらが「民主制度根幹の否定」でなくてなんであろう。

3 主体鈍磨と状況追随思考の蔓延
なぜ「主体鈍磨」と「状況追随思考」が蔓延するのか。
蔓延の背景に「自身の思考責任」を隠蔽する「処世術」がある。例えば、公共社会への発言を求められる立場の人が、「私は合併問題では中立です」と言明する。そのとき、その心の奥底には「私は中庸な考え方なのです」「私は偏ってはいないのです」との世渡り術がある。
合併は「するか、しないか」である。合併に「中立」はない。中立とは「判断できない」である。そうでなければ「所見の隠蔽」である。
この指摘に、「生活行動圏や地域条件の変化などで合併条件が整っているときには合併に反対しない」だから「私は中立なのだ」と弁明する。しかしながら、そんなことは「私は中立です」の理由にならない。それは当たり前のことである。どこかに「絶対反対の頑迷固陋な人達」がいるかの如くに擬勢して、自身を「穏健で中庸な考え方の持ち主」だと装いたいのである。
「合併は選択肢の一つです」との言い方も同じ心底である。それも「当たり前のこと」ではないか。今回の合併騒動は分権改革の最終段階で突然のように出てきた「財政破綻の地方ツケ廻し」であるのは明白ではないか。なぜ尤もらしく「選択肢の一つです」とだけ言うのか。公共社会への発言を求められる立場にありながら「心底がお粗末すぎる」ではないか。 
町民は「父祖伝来の町名」と「地域の自治権」を失う合併問題を「どうするべきか」と悩み真剣に考えているのだ。悩み真剣に考える町民が自治の担い手に成長するのだ。地域の方々が「思考停止のお任せ」から「自分で考えて決する」へと自身を展開するのが「自治」である。自治は「与えられる」のではない。「現存する」のでもない。「未来に創り出す営み」である。自治は「実践の営為」であって動態観念なのだ。公共社会への発言を求められる立場の人には「自身の存在を賭けた真摯で真剣な発言」が求められるのだ。そうでなければ「自治を語る」資格はない。
人間は「より良きもの」へと思念する。思念し実践するには「めざす理想」が必要である。人間は「風にそよぐ葦」であれども「思考する」のである。思考には「理念」と「価値軸」が不可欠である。「理念」なき「保身の処世術」は邪悪である。「原点座標軸」を漂流させてはなるまい。

4 自治体改革  
 七十年代に「自治」「分権」「参加」が提唱された。自治体改革の枠組みである。自治体改革とは「地方公共団体」を「自治体政府」に変革する営為である。すなわち、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置し、「中央集権」を「地方分権」に組換え、「行政支配」を「市民参加」へと、自治体を変革するのである。自治体改革は「実践概念」であって解説的「認識概念」ではない。
そして、七十年代の後半には「革新自治体から自治体革新へ」と盛んに言われた。その意味は、首長が革新系というだけではダメで、自治体の「機構」も「政策」も「制度」も変革しなければならないとの反省から出た言明であった。
それから30年の歳月が経過した。「自治体理論」「政策形成力」「市民自治制度」は相当に前進した。自治体理論を研鑚する場として自治体学会が設立され参加者は年々増加し「自治・分権・参加の理論」は広がった。地域実態に即応した自前政策を形成する能力も高まっている。情報公開条例、環境アセスメント条例、住民投票条例、パブリックコメント制度、オンブズパーソン制度、政策評価制度、自治基本条例、などの市民自治制度を装備する自治体も次第に増えている。
七十年代と対比すれば画期的な展開である。
「自治理論」「政策形成力」「自治制度」は前進した。前進はしたのだが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっている。なぜであろうか。
なぜ、不確定要素を孕んだ事柄に不利益をも覚悟して一歩踏み出す情熱が冷めたのであろうか。実践思考や献身性というものは何処にいったのか。自治労自治研究集会にかつて漲っていた熱気は何処に収蔵したのであろうか。革新団体の研究集会が焦眉の合併問題を実践課題として論議しないのは何故であるのか。自治体学会にも現在只今の重大問題を掘り下げる論議が不足だとの声をしばしば耳にする。そしてまた、省庁官僚を自治体学会の地域研究会に講師として壇上に招く風潮は何であるのか。「投票率が六割を超えないときは開票しない」との民主制度の根幹を否定する事態に、地方自治や地方財政を専門にしている学者が黙しているのは如何なる思惑からであろうか。
ある調査で小泉首相の靖国参拝を「支持する」が40%を超えたと報道された。この数字とどこかで繋がっているのではあるまいか。

5 自治体理論が試されている
地方分権が工業文明国に共通する世界の潮流になったのは、科学技術の進展によって前例のない解決困難な公共課題が噴出したからである。一国政府だけでは解決できない国際社会の公共課題、中央政府の全国基準や政策では解決できない地域課題が増大したからである。すなわち、国際社会で解決基準を約定し遵守しなければ解決・実現できない公共課題、自己革新した行政職員と市民が協働する自治型行政スタイルでなければ解決できない地域課題が増大したから、地方分権が工業文明国に共通する潮流になっているのである。そして政府も三層に分化するのである。
分権改革とは「現在の県市町村」を「地方政府」に改革することなのだ。「地方政府」に改革するとは、住民と行政が信頼を基礎にした「新たな関係」を創出することである。であるのだから、先ずは住民との信頼関係の構築である。今は合併などするときではない。合併条件が熟成しているところは合併すればよいのであって、期限を定めて促進することではないのだ。「合併の次に地域自治組織を作ればよい」などと述べる学者は、今少し情勢と実態を洞察して発言すべきである。「3200を1000にする」のは総務省の全国管理体制の強化策であるのだ。市町村合併の次に道州制が出てくるであろう。その次に控えているのは何か。
ジョージ・オーエルが「1984年」で描いた「強圧管理社会」が日本列島に現実化しようとしている。「私的情報保護法」という名前の「言論の自由侵害法」、「住民基本台帳ネットワーク」という名の「国民総背番号制」、「通信傍受法」という言い方の「盗聴法」は既に国会で決議された。この言い方はオーエルの「ニュースピーク」である。
そして次は、「憲法改定」である。硬性憲法と言われたが改定発議に必要な「3分の2」は衆議院も参議院にも改定賛成の議員数が揃っている。「憲法改定の国民投票法」も準備がすすんでいる。憲法改定への道筋さえ開けば、つまりは一歩半歩の実績さえ作れば、「後は何とでもなる」が進行しているのだ。狙いは「憲法9条」である。その次は「徴兵制」である。「徴兵制度の無い国がどこにあるのか」「国を愛する法制度がなくてどうするか」との「声高な論議」が始まるであろう。いや既に始まっている。
報道媒体である新聞社が自社の憲法改定案を公表し、NHKが特集番組を放送前に政治家に説明して改変する。それにもさしたる「批判」が起きない日本列島である。まさに「何でもあり」「やりたい放題」である。「批判的思考力」が衰退し「状況追随思考」が蔓延しているのである。
「憲法9条改定」「徴兵制度議決」の問題にも、「想像力」が衰弱しているから「まさかそんなことにはならないだろう」と思っている。そして「徴兵制度」が現実になれば、「無力感」に漂い「状況追随思考」に陥るのであろう。あるいはその時は「国家興奮」に身を投じるのであろうか。
現在の無力感の漂いは、威勢のよい論調に同調し多様性を否定するファシズムの温床ではあるまいか。
70年代には、自己犠牲を覚悟した「献身性」と未来を展望した「純粋性」が社会に存在していた。だが現在は、周囲を見渡しても「抵抗する主体」も「拠るべき心棒」も見えない。「主体鈍磨」とは「思考力の衰退」である。「状況追随思考」とは「思想の不在」である。自身の場で自治体理論が試されている。

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