■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
再び「協働」という言葉について
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再び「協働」という言葉について 札幌都市研究会 2000-12-26

 「協働」という言葉の氾濫に対して、次のような批判がなされている。

「雇い主である住民」が「公僕である公務員」と、なぜ「協働」せねばならないのか。行政職員は主権者である我々が雇った人間である。行政組織は公僕の集団であるのだから雇い主である住民との「対等な関係」などはあり得ない。住民が主人であり「上」なのだ。「主人である住民」が「雇われ人の行政職員」と「協働」する必要などまったくないのである。概ねこのような批判である。

 しかしながら、このような理念論で「協働」を否定することができるであろうか。事柄はそれほど単純ではないのである。

長らく国家統治の理論と制度が続いてきた。政策策定と政策執行の主体は行政であり住民は政策執行の客体であるとの統治行政の制度と制度運営は現在も続いているのである。「憲法変われども行政は変わらず」であって「統治行政の考え方」は厳然と今も続いているのである。改革するべきはこの現実である。理念論でこの現実を否定することはできない。この認識がまず必要である。

最近の公務員は言葉では並の学者以上に民主主義的な用語を使うのである。けれども、六十才まで身分保障された公務員として日々を過ごすから、人事昇進が最優先の価値になり無難に大過無くの「公務員」になってしまうのである。

行政機構の建物の壁と床には統治行政の考え方が染込んでいるのである。公務員はそこで日々を暮らしているから統治行政の論理に染まり住民を下に見て、自身は現状維持的安定の行動様式になるのである。だから、住民との「協働」と言っても統治行政の実態は少しも変わらない。そして、統治行政のままでは「住んでいることが誇りに思えるまち」にはならない。

他方の「住民」はどうであろうか。

行政組織と何らかの接触体験を持った人々は少なからざる不満と不信の念を抱くであろう。しかしながら、正面切ってそれに挑み正す人は極めて少数である。そして、統治行政に不信を抱いた住民も自分自身はと言えば「現状維持的」であり「自己保身」である。町内会や同業者組織の中にも権威的な運営とお任せの慣行は存在する。公務員を雇われ人であり公僕であると指摘し認識できるほど自身が民主的で自治的な住民はさほどいない。政治・行政の学会さえも運営はそれほど民主的でも自治的でもない。実態は行政とさほど違いはないのである。「住民」は主人であるから、雇われ人の「行政職員」と「協働」などする必要はないのだと理念論で「協働」を批判しても、事態は些かも進展しないのである。

問題は「協働」を理念論で否定することではなくて、行政職員も住民も「誇りに思える魅力あるまち」を形成する「協働の主体」としてはまことに未熟であると指摘し、現在の「協働」は言葉だけであると批判することである。

行政活動の質を高めるには市民と自治体職員との「協働」が必要であるのだ。自治体理論を学習し実践する自治体職員を低く見てはならない。優れた地域形成に果たした自治体職員の実践を自治体理論に位置付けなくてはなるまい。

行政を内側から見る目の欠如した学者の理念論議はひ弱である。「協働」がいけなくて「参加」ならば、「雇い主」と「雇われ人」の問題はないとでも言うのであろうか。問題の要点は「協働の主体」としての自己革新が双方に必要なことにあるのだ。すなわち、「住民」から「市民(いちみん)」へと自己革新して市民自治を実践する地域の方々と、「地方公務員」から「自治体職員」へと自己革新して自治体理論を実践する行政職員との「協働の営為」が地域形成には必要なのである。

ここまで書いて紙幅が尽きた。ついては、本会報の2003年5月号を参照されたい。そしてこの論点は「月刊・地方自治職員研修・臨時増刊75号」(2004年2月発行)に詳述する。
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