■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
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鉢呂辞任と新聞報道
(カテゴリー: 原発災害
  鉢呂辞任と新聞報道  

 鉢呂氏の経産大臣辞任を巡る一連の新聞報道を疑問に思う。
 発端は二つの新聞記事であった。
 一つは「まるで死の町のようであった」と被災地の印象を語った。
 二つは、宿舎の玄関前に集まった記者の非公式取材のときに「防災服の放射能をつけるぞ」と言った、との記事である。
 たちまち、「被災者の心情を逆なでにした」「立場を弁えない軽率な言動」の批判と非難の記事が渦巻いた。なぜ渦巻いたかは後に述べる。
 
前者の「死の町のようであった」は、その言葉だけを切取れば、「被災者感情を逆なでする言葉」にもなるであろう。だがしかし、人ひとり居ない無人の被災地は異常で不気味である。「死の町のようであった」の感想のどこが良くないのか。
 後者の「防災服をこすり付けられた」と告発した記者の職業倫理については後日に述べる。

 「取材に同行した記者」と「非難する論評子」にお訊ねしたい。

 まず、同行した記者に訊ねたい。
 鉢呂氏は被災地を視察しているときどのような態度と眼差しであったのか。被災者と言葉を交わすときの鉢呂氏の表情はどうであったか。記者はそれを見ていた筈である。見ていなければ頓馬な記者である。
 現在の国会議員は「口先だけで同情する議員」と「利権に群がり保身を第一にする議員」が大多数であると思う。
 その中にあって、鉢呂氏は生真面目で涙腺も豊かな人間的感性の持ち主であると思う。鉢呂氏が被災地の惨状に寄せる心情は「そこいらに居る国会議員」のレベルをはるかに越えるものだと思う。同行した記者はなぜそれを黙っているのか。いかようにも記事にできるではないか。それが職業ではないのか。

 次に論評子にお訊きしたい。
「如何なる言葉」であれば良かったのか。
「まるで死の町のようであった」に代わる「適切な言葉」を示して頂きたい。
 被災地の方々は、家族と離れ、隣人とも、クラスメーともバラバラになって暮らしているのである。可愛がっていた猫を想って悲嘆にくれる少女もいるのだ。

 一日も早く自宅に帰りたい。帰って農耕畜産をしたいのである。だが「何時になれば帰れるのか」が分からない。
 被災者は現実を認めたくないのである。現実を受け入れられないのである。被災地の現実を語ってもらいたくないのである。
 であるから、如何なる言葉も「心情を逆なでする言葉」になる。
 新聞を読んで鉢呂氏を批判される方々は、自分であれば「どのように語るか」を考えてみてもらいたい。

 新聞は話題になればどのようにでも報道する。大臣を辞任に追い込む記事を書けば勲章ものである。新聞はまことに無責任である。だから新聞記事をそのまま受け取ってはならない。そのまま受け取るから日本は低レベルの民主主義になっているのである。
 
 新聞記者には、本物のジャーナリストもいるが少数である。多くは日和見のサラリーマン記者である。そして風上に置けない悪質非道な記者もいる。それらが「新聞」の名に隠れて「記事」を書いているのである。新聞社ほど官僚的で風通しが悪くて要領のいい人物が昇進する職場はないと言われている。そして幹部になれば「現状の継続に利益を得る勢力」と溶融するのである。
 
読者は賢明でなくてはならない。メディアの背後にいる黒幕に騙されてはならない。これまで「原発安全」の記事に騙されたのだから。

 鉢呂氏が非難されているのは「被災地の現状を率直に語ったから」である。表現の問題ではないのである。考えても見よ。
 長閑に見える無人の風景は不気味で異様で不条理ではないか。「あってはならない光景」ではないか。
 この惨状に衝撃を受けた鉢呂氏が「まるで死の町のようであった」と語ったことを、「冷たく思いやりがない言葉」だと非難する新聞に、加担するのは賢明ではあるまい。
 
 狡賢い保身の政治家であれば、心中に「いつになれば帰れるであろうか」の同情心もなく、「政府として一日も早く帰れるよう努力をします」と語るであろう。現地の感想を訊かれても真摯に語らないであろう。
 なぜ語らないか。「タブー」に触れるからである。

 現在日本の「タブー」とは「被災地の運命を語ってはならない」である。
 チェルノブイルは、25年を経過した今も「住めない地域」が続いているのだ。
 福島被災地の、その運命を語れば、「やっぱり原発は危ういのだ」「原発は事故になれば住めない土地になるのだ」「だから点検中の原発も再稼動してはならないのだ」と人々が考え始めて原発反対の世論が高まる。
 
そうなれば「莫大利権」を損なうことになる。原発は「莫大利権」である。「莫大利権の人達」が「タブーの元凶」であるのだ。
 だから、政治家も学者もメディアも「被災地福島のありのままの現実」を語らないのである。新聞読者は「これはオカシイ」と思わなくてはなるまい。

 本論は「鉢呂氏の擁護」が目的ではない。新聞読者に「死の町のように」なったのは、「何が原因で」「なぜこうなったのか」「住める町になるであろうか」「故郷に帰れるであろうか」を考えることが重要だと言っているのだ。
 論評子も、鉢呂氏の「不用意な感想」を咎めるよりも、現在日本の「タブー」に読者の注目を誘う(いざなう)べきである。ジャーナリストの本来職分は「タブーへの挑戦」ではないのか。現在日本に「タブー」が存在しているではないか。本物のジャーナリストならば挑戦するであろう。
 
鉢呂氏の発言を「不用意」と述べたのは、鉢呂氏は大臣就任の直後から「安全委員会の委員に原発批判の人も入れて委員を差し替える」と言い、「TPPは農業・水産業に大きな影響があるから慎重に」と語った。であれば、罠が自分に近づくことを予想し警戒すべきであった。親しげに近寄ってくる記者が罠を隠していることにも注意をするべきであったのだ。
 
昵懇の月刊誌編集長から、「伝聞の域を出ませんが、記者からの「放射能まみれですね」との軽口に、鉢呂氏が既報のような言動で返したようです。」のメールが届いた。
 その場の真偽は不明であるが、新聞記事を読む側が「一歩前に出た体験のある人」と「常に御身大切な生活態度の人」とでは所見が異なるであろう。前者は「刺されたな」とまず直感する。後者は「大臣ともあろう人が何ということを」と新聞記事に同調するであろう。


 福島原発は未だ収束していない。現在只今も、大気中と海中と地中に放射性物質が飛散し流出が続いている。被災地周辺の子供たちが成長して思春期になったとき「ホルモン異変」の障害が生ずる不安がある。チェルノブイルでは多数の異変が生じたのだ。

 しかるに、その原因者の東電は今もなお「黒く塗り消した情報だけ」を提出する。それを咎める権限を持つ側に「電力会社と電力労連からの支援」を受ける人達がいるからである。北海道民主党は泊原発に関して電力労連から文書で抗議されて「党は原発に反対ではないのです」と弁明に四苦八苦した。

 菅首相が水素爆発の直後に「福島はもう帰れないのではないか」と言ったとき、議員と官僚と新聞が寄って集って(たかって)「その発言を圧殺した」ではないか。
 東電から「第一原発が危険になったから全員撤退したい」と連絡があったときも、経産官僚と海江田経産相は何時間も菅首相に報告しなかったではないか。(TBSスペッシャル「原発攻防180日の真実」)
 
自民にも、公明にも、民主にも「莫大利権に繋がっている人達」がいるのだ。メディアにもいる。だから、これほどの大災害になっても、原発推進派が巻き返すのである。野田首相も原発維持と原発輸出を表明して経団連に歓迎されたではないか。
 これらの人達が、「福島の現実を語る」ことを抑えているのである。だから、誰も「被災地の現実と運命」を語らないのである。
 
これがタブーの構造である。
 この構造にメスを入れるのがジャーナリストであるのだが、なんとも情けない「新聞各紙」であることよ。
 科学者はなぜ「地域全体をすべて除染することはできないのです」「自宅には帰れないのです」と真実を語らないのか。語るのが「科学者の良心」ではないのか。語らないばかりか、電子工学の講座がなくなっては「メシの食いあげだ」と「原発安全」を唱える学者が現にいる。北大工学部にもいる。

 被災地の首長に申し上げる。
 原発立地交付金で財政が潤い、公共施設を整備し地元に働き場所ができたと喜び、「安全な原子力で平和な豊かな町」の看板を掲げたが、今になって考えれば「国策いう名の巨大利権」に「長閑で豊かな故郷」を売り渡したのではあるまいかと自省し、電源三法交付金で潤った自治体が軒並み財政窮迫になっている現実を顧みる。それが被災地首長の責務である。

「住民全員で元の生活に戻れることを切実に希求する」のは尤も至極なことである。だが同時に「元の生活に戻ることができるであろうか」を冷静に考えるのも地域のリーダーの責務である。チェルノブイルの実情を苦しくとも直視するのがリーダーの役割である。
 
電力会社は今になっても平然と黒く塗り消した情報を提出しているのである。それを咎めない政府とメディアである。「これは何故か」を洞察するのが被災地首長の責任である。
 鉢呂氏の発言を「被災地住民の感情を逆なでした」と怒るのではなく「冷静に現実を直視する」ことだ。敵を見誤ってはならない。口先だけの災害復興に再び騙されてはなるまい。

 原子力発電は機械であるから「絶対安全」はない。原発は事故になれば手に負えない。日本の技術は原子力村に身を寄せ「自己の保身」を第一にする「科学者の良心を失った」人達の技術である。「安全神話」で「万一の備え」もせず「事故マニュアル」もない技術である。
 
放射能収束には10万年を超える年月を要する。日本は地震帯の上にある。使用済み核燃料の処理技術はない。その危険な使用済み核燃料を原発建屋内に大量に保管し続けているのである。狂気の沙汰ではないか。

 それでも「原子力発電は必要なのでは」と思う方には、経済同友会終身幹事の品川正治氏が岩波「世界」5月号に寄稿した「原子力と損害保険(ブレーキをかける矜持と見識)」と伊東光晴氏の「経済学からみた原子力発電」岩波「世界8月号」を薦めたい。

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