■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
世界の人々から賞賛されているけれど
(カテゴリー: 原発災害と自治体政策
    日本人は賞賛されているけれど

 日本人は世界の人々から、災害に遭遇して「礼節であり」「秩序ある態度」であると賞賛されているが、日本人は賞賛に値するであろうか。

 NHKスペッシャルで山折哲雄(宗教学者)と荒俣宏(博物学者)が災害現地で惨状を眺めながら対談した。日本人が「怒らない」のは、総ては移ろい輪廻する「仏教的無常観」が根底にあるからだと語り合った。
 この対談に違和感を覚えた。そして問題であると思った。 

 「自然災害」と「利権災害」を混同してはならない。
「津波」は自然災害であるが、「原発災害」は利権災害である。
「利権災害への諦め」を無常観で説明してはならない。「この諦め」は幾世代もの歳月で堆積した「負け犬根性」の「処世術」であるのだから。

 すなわち、「長いものには巻かれろ」「お上には逆らえない」「何事も大勢順応で」の「世渡り術の諦め」である。その諦念は、「公共社会への参画意識」の劣弱さであるのだ。四年に一度の選挙も「どうせ何も変わらないのだから」とする諦めである。そしてまた、東大電子工学出身の人々が「原子力村に身を寄せ原発推進派になる精神構造」に共通する心性である。
 その心性を「無常観」で言説するのは「公共社会の認識無智」である。「利権災害」は宗教論ではない。政治理論の問題である。

「利権災害」を「自然災害」と意図的に混同するのは、電力会社に買収された「メディア」と「学者」と「政治家」である。その混同は「正当な怒りの心情」を「はぐらかせて抑える」ためである。
 石原都知事の記者会見も意図的混同である。荒俣・山折対談もこれと同根ではあるまいか。お二人を登場させたNHKスベッシャルの番組意図は何処にあったのであろうか。

 メディアは、石巻や気仙沼などの「無残なガレキの惨状」を盛んに報道するが、原発災害の惨状は報道しない。報道するのは災害を起こした東京電力の発表情報ばかりである。それは「都合の悪い情報」を隠し「事故を小さく見せる」情報である。

 石巻や気仙沼の「ガレキの惨状」は絵になるが、原発周辺地域の「長閑な田畑の風景」は映像になり難いであろう。だがしかし、報道するべきは、長閑に見える「無人風景」の不気味さである。「ガレキの惨状」よりも「無人の田園風景」を「不気味」「不条理」「あってはならぬ事態」と洞察するのが、報道関係者の職業感覚でなければなるまい。

 石巻や気仙沼では遅かれ早かれ復興が始まるが、放射能災害は「吾が家・吾が土地にも帰れぬ」無残で深刻な災害であるのだ。神奈川の足柄茶も静岡の名産茶もセシウム汚染で出荷できない。人体への被害は広範囲に進行しているのである。

 政府も東京電力も事故は「想定外の津波」で発生したと言う。だが真実は、津波到来の前に地震で配管が破損し気圧漏れが始まったのだ (広瀬隆「福島原発メルトダウン」朝日新書56頁)。
 NHK報道局は3月21日付文書で被災地の放送局長に「取材は政府の指示に従うように」と取材コントロールを発している (岩波「世界」7月号153頁)。メディアは肝心なことは報道しない。

 避難者は互いを思いやり、ボランティアは駆けつけ手を差し伸べる。その人倫的で礼節な行動は賞賛に値する。だが日本人の多くは「御用メディア」と「御用学者」にたやすく騙され、災害を社会公共の問題として解決する行動には連帯しない。七十年代には社会に純粋な熱気があった。革新団体の役員には自己犠牲をも厭わぬ献身があった。それらが今はない。

  政府とメディアに騙されて怒らない従順な日本人は賞賛に値しないのではあるまいか。
  

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