■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
自治体学ー理論と実践
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学ー理論と実践
      
説明理論と実践理論
 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
「説明理論」は事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する。
「実践理論」は未来に向かって課題を設定し解決方策を考え出す。
 「何が課題で何が解決策であるのか」を考えるのは「経験的直観の言語化」である。経験的直観の言語化は困難を覚悟して一歩前に出る実践によって可能となる。大勢順応の自己保身では経験的直観の言語化はできない。人は体験しないことは分からないのである。
 実践理論は歴史の一回性である実践を言語によって普遍認識に至らしめる。
 「実践体験の知見」を「普遍認識」に高めるには「文章に書く」ことである。「文章に書く」とは「概念で実践を再構成する」ことである。その「再構成」が「普遍認識力」を高め「実践的思考力」を自身のものにするのである。
 見えている人と何も分かっていない人の違いは、覚悟して一歩前に出た実践の違いである。未来を構想し現在条件を操作するのは「規範概念による思考」である。

市民自治
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」である。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人ではない」という意味である。
「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語である。福沢諭吉が「社会を担う主体的な個人」の出現を念願し期待して翻訳した言葉である。
 だが、福沢が期待をこめて翻訳した「市民(イチミン)」は使われなかった。
 明治政府は、皇帝が君臨していた後進国ドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」によって忠君愛国の「臣民の観念」を国民道徳として教えこんだ。臣民とは天皇の家来である。絶対服従の家来である。自立して社会を担う主体の観念はタブーであった。
 1945年の戦後も使われなかった。それまで弾圧されていた社会主義の思想が甦り、「市民」は「所有者階級」と考えられた。使われた用語は「人民」であった。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と訳された。
 都市的生活様式が日本列島に全般化し分権型社会たらざるを得ない1980年代に至って、ようやく、福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々によるまちづくりの実践」が全国に広がったからである。
近代市民革命の時の市民は「有産の名望家」であった。しかしながら、現代の「市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々である。
都市的生活様式が全般化して普通の人々が市民である条件が整ったからである。「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」である。

市民と住民
 住民とは、村民、町民、市民、道民など、行政区割りに「住んでいる人」である。「住民」は住民登録・住民台帳・住民税というように、行政の側から捉えられた言葉である。行政が政策主体で住民は政策執行の客体である。住民は行政サービスの受益者であり被治者である。「住民」という言葉には統治・被治の意識が染み込んでいる。その意識は住民の側にも根強く存続している。「住民」には「自治主体」の観念は希薄である。
「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存し陰で不満を言う人々である。「市民」は公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人々である。
 しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉である。理性がつくった概念である。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しない。
 実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在である。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのである。
 都市型社会が成熟し生活が平準化し政治参加が日常化して、福沢の「市民」は甦ったのである。

規範概念
「市民自治」は規範概念である。「規範概念」を了解し納得するには「実践による自己革新」が不可欠である。利いた風な言葉を操るだけの現状容認思考の人には規範概念の認識は曖昧漠然である。実践と認識は相関するのである。何事も主体の変革なくして事態を改革し創造することはできない。
人間は誰しも自分が体験しないことは分からない。国家統治の官庁理論の人々には「住民」と「市民」の違いが分からない。国家学の学者には市民自治の意味は漠然曖昧である。
 行政機構の内側に身を置いて官庁理論でやってきた公務員には、市民運動の人達は目先利害で行動する身勝手な人たちに見えるのであろう。公共課題の解決のために地域の人達と連帯して行動して感動を共有した体験のない学者や評論家は「合理主義・個人思想・人権革命の歴史を持たない日本では市民などはいないのだ」などと言うのである。
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック