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■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
地域の活性化には自治体理論が必要
(カテゴリー: 自治体学理論
以下は [北海道町村会・政策情報誌「フロンティア180」第13号(1995-4-10)]の論稿である。

  地域の活性化には自治体理論が必要 
 
一 町村職員には自治体理論が必要である
住みつづけていたいと思い住んでいることが誇りに思える地域をつくるには自治体理論が必要である。
地域課題が「量的基盤整備」から「質的まちづくり」に移った。まちづくりは省庁政策の下請けでは出来ない。地域課題を見つけ、その課題の実現方策を考え出し、住民、企業、団体と協働して実行する。そのような能力のある職員が町村役場に育たなければ地域はますます寂れ、ますます衰退するであろう。
まちづくりは役場の職員次第である。まちづくりの時代とは役場職員の能力が試される時代ということであろう。地域に活力が担り、個性と魅力と美しさが地域に育ち、過疎の進行が止まるには、役場にまちづくり能力のある職員が育たなければならない。
例えば、産業構造が変化して情報産業の時代になったから都市に人口が集中するのであって過疎の進行は止めようがないのだ。農村地域が寂れていくのは時代の流れであって役場職員がどんなに頑張ってもどうにもならないのだ、とただ言うだけ嘆くだけの役場職員では地域に活力は穀らない。質の時代のまちづくりは役場だけではできない。役場だけではできないのだが、役場職員が「まちづくりとは何か」「地域に活力が起るとは何をどうすることであるのか」が見えていなければ、「何
から始めればよいのか」がわからなければ、地域は間違いなく衰退する。そのような時代である。
ここ数年、農水省、国土交通省、総務省などの各省庁は「地域づくり」を唱えて、まるで競い合うかのように同じような事業を示して市町村を募ってきた。市町村は申請書を出して省庁指定の事業に自前の金も注ぎ込んでいる。質のまちづくりの時代に変わっても補助金行政のやり方は量の時代と変わらない。
しかしながら、省庁主導の旧来のやり方では質のまちづくりはできない。なぜ出来ないのか。質の時代のまちづくりの課題はすべてが総合行政的な政策手法を必要とする課題だからである。タテワリ省庁が補助金で指示し支配する旧来のやり方では個性と魅力のまちにはならない。施設も、事業も、制度も、その運営も、総合行政としてすすめなければ魅力あるまちにはならない。
例えば、省庁助成で施設をつくるとする。人口も少なく財源も乏しい地元では複合多機能施設をつくりたい。ところがタテワリ省庁は補助目的を理由にこれを認めない。会計検査員がそれをフォローする。
だが、地域事情は千差万別である。地域課題の内容も事業のすすめ方も様々である。それを、地域事情の分からない東京の省庁が画一基準で優越的に指示支配するから地域に魅力が育たない。
さらにまた、住民を行政サービスの受益者とみなし地域を行政施策の客体とする考え方では、人びとのまちへの愛情は育たない。まちに魅力と活力が甦るのは、そこに住んでいる人びとがまちづくりに関わりまちへの愛着を心の内に育てるからである。
計画も実行も市民自治的なやり方ですすめなければ人の心にまちへの愛情は育たない。現在の省庁支配の行政システムでは

市町村職員に「いたし方がないのだ」との惰性的な考え方を続いているからである。これでは誇りに思える魅力あるまちにはならない。
ではどうすればよいのか。自治体理論である。

二 統治理論から自治体理論へ
地域に個性と魅力を担らせるのは自治体理論である。
理論とは、筋道をつけて組み立てた考え方である。過疎が進行している日本列島にいま必要なのは自治体理論である。
「第一次産業を基盤とする社会」からが「情報産業型の社会」に大転換した(1)。価値観・生活様式が変わった。家庭のあり様、地域の人間関係を顧みればその変化は歴然である。一方に異常な過密、他方に深刻な過疎が進行している。何とかしなければならない。地域を燈らせる課題と方策を考え出さなければならない。
考え出さなければならないにもかかわらず、行政のやり方は旧態依然で役所の内側は何も変わっていない。
住民は被治者であって主権者ではない。国家の名目で法律を執行する省庁官僚が統治者である。自治体がそのシステムに従属しているからである。 
しかしながら、地域を甦らせ人間らしい感情と環境を取り戻さなければならない。自治体の政策能力を高めなければならない。中央-地方の行政システムを転換しなければならない。
問題は自治体職員である。仕事の仕方は旧態依然で、無責任で責任回避で形式的公平、年功序列の保身である。何も変わっていない。
社会構造が大転換して地域課題が量から質に変わったにもかかわらず、カタカナ言葉だけで、地域を甦らせる政策課題に挑戦していない。
(住民と手を携えて地域を起らせている町村は存在する。それは承知しているがここでは、文脈上かく記述する)
なぜであるのか。毎年四月、道庁、市役所、町村役場に新採用職員が入る。入ったときは、感覚も心も顔つきも人間らしく初々しい。けれども、数年を経過すると「地方の公務員」になる。首の後部をボンと打つと「チホーコームイン」と音がする、ようになる。言葉づかいも感覚も完全に役所の人になる。目の輝きも次第に薄れる。何故であるのか。
時代の転換に対応する自治体理論がないからである。役所が旧態依然でありつづけるのは明治以来の理論が浸透しているからである。
新採用職員が役所の人に変身するのは国家が統治し支配する理論に取り込まれるからである。移しい法律規則はすべてが国家統治理論で解釈され運用され通達され執行されている。事業・制度・施設・行政機構、そのすべてが国家統治理論で日常的に執行・運用・運営されている。これでは、仕事の仕方・言葉づかい′・顔つき・服装・感覚が次第にお役所の人になるのは当然であろう。
まことに、理論の力は大である。
例えば、文化ホールを建てるとする。官庁理論はこうである。文化ホールは公の施設であり行政財産である。行政財産は行政の責任で建設し管理する。役所が管理運営規則を定め館長を任用する。ホールの利用は申請書を提出し館長の使用許可決定を受け役所が定めた管理規則に従う。住民は行政サービスの受益者である。住民は公共政策の主体ではない。
これが旧来の国家統治の理論である。だから、文化ホールの建設は、ホールについて何も知らない実直な公務員が、さしたる見識もない首長の意向を伺いつつ、発注を受けたいだけの建築屈と、市民不在の場で密かに協議して、莫大な費用の建物をつくる。このような役所のなかで何年かを過ごせば、客席がアンコールで沸いているからと時間延長を求められても、管理規則を盾に所定時間での退出を迫る職員になるであろう。練習場所をもたない地元オーケストラに休館日の練習使用を求められても、館長は条例の規定を理由に断るであろう。そしてまた、現場が柔軟な運用をすれば本庁から官庁理論をふりかざして非難批判の指弾が飛んでくるであろう。だから、全国各地でハコモノ批判が一斉に噴き出している(2)。しかしながら、統治支配の官庁理論の職員には批判の意味すらも分からないであろう。
「文化施設の運営」と「行政財産の管理」とは原理的に異質であることが統治支配の感覚では分からないからである(3)人々の心にまちへの愛情が育たなければ誇りに思えるまちにならない(4)。
住民と協働しなければ美しく魅力あるまちにならない。統治支配のやり方では質の時代のまちづくりは出来ない。地域を起らせるには国家統治理論から自治体理論への転換が不可欠である。

三 自治体理論
自治体理論とは日本の各地域に活力が起る考え方である。住んでいる人が地域に愛着をもち地域への愛情を心の内に育てなければ地城は美しくならない。住んでいる人が地域を良くもするし駄目にもする。他人まかせでは、行政まかせでは、地域は確実に衰退する。そのような時代である。
社会構造が「農村型」から「都市型」に移行した。それまで、社会を繋ぎ支えていた共同体が失われた。だが、共同体に代わるものがいまだ形成されていない。現在はその形成の過渡期にある。農村型社会を支えた共同体に代わるものは何であるのか。それがまさに問題である。それは市民の公共性である。自治体理論は地域を支える主体と主体の関係を
見出す理論である。
自治体理論の形成には既成の考え方の転換が不可欠である。考え方の転換とは基礎概念を吟味して再定義することである。理論とは概念の繋ぎ合わせであるのだから。
例えば、行政の概念である。
行政とは法律の執行である、とこれまで考ぇていた。だが、この定義は誤りである。この定義では地域は起らない。なぜなら、法律には三つの欠陥がある。一つ、法律は全国通用つまり全国画一である。その法律の執行では地域に個性は育たない。二つ、現在の法律は各省庁タテワリである。悪く言えばバラバラ。質のまちづくりは総合行政である。タテヮリの法律ではまちに魅力は生まれない。三っ、都市型社会では前例のない公共政策課題が次々と噴出する。法律の制定改正を待ってはいられない。
つまり、行政は法律の執行ではない。行政とは政策の実行である。地域を美しく誇りに思えるまちにする公共政策を策定し実行するのが自治体行政である。正確に定義すれば、行政とは市民自治的に政策を策定し市民自治的に実行する、である(5)。つまり、地域の課題は何か、その実現方策は何か、を考えることが白油体行政であって、何かと言えば、すぐに法律はどうだ制度がどうだ、と発想しないことである。では法律とは何か。法律とは自治体政策の全国基準=準則である。その全国基準を尊重して地域事情に合った基準を定立するのが自治体立法である(6)。だから最近、政策法務という言葉が言われ始めている。このように考えを組み立てるのが自治体理論である。
自治体とは何か。省庁政策の末端執行団体ではない。住んで誇りに思える地域をつくる政策の主体、つまり政府である。現在の憲法は第八葦でそれを規定している。ところが、明治以来、政府とは中央政府のことであると思わされてきた。国家統治理論である。理論の力はまことに大である。だが、自治体も政府である。中央の政府と地方の政府の協力関
係を考えるのを政府間関係理論と言う(7〉。政策の主体である自治体は政府である。公共政策とは何か。政策とは課題と方策が組み合わされた指針である。だから、政策とは政府だけの言葉ではない。町内会にも農協にも政策はある。公共とは何か。公共とは市民と市民の関係を意味する観念である。公共も政策も国家や役所が独占する言葉ではない。
市民とは何か、市民とは誰のことか、市民と住民とは違うのか。市民概念を住民概念との対比で考えるのが自治体理論である。国家統治理論には市民概念はない。行政サービスの受益者=被治者としての住民あるのみである。住民は自己利益が行動原理。市民とは公共感覚を体得し公共性を行動原理とする人間型である(8)。国家統治理論は国家から出発
する。自治体理論は市民から考え始める。以上は、基礎概念の再定義の一例である。

四 地域が甦るのは職員次第-職員が育つのは町村長次第
地域が起るのは町村職員次第である。地域の事務局である役場の職員が旧態依然では地域は益々寂れていく。全国各地で町村職員の政策研究会が始まっている(9)。そことの交流である。交流して驚き感じ刺戟を受けて人の意識は変わる。役場に座しているだけでは意識は変わらない。行動し困難・壁に直面し苦しんで感動して意識が変わり人は育つ(10)。町村の時代である。町村の時代とは町村間に格差が拡大する時代である。その格差は役場職員の政策能力の差で決まる(11)。そのような時代である。地域は変貌し続けている。
町村は今、運命的な岐れ目にあるとも言える。すなわち、役場職員を育てる才覚・度量のある町長・村長が住民に選ばれているか否かで地域の運命は決まる。例えば、指示に従うだけの従順な地方公務員を良い職員と考える村長・助役は、地域を間違いなく衰退させるであろう。自治
体理論を勉強する職員を生意気だと非難して実務をやっていればよいのだと言う町長・助役は、町の未来の灯を消している町長・助役である。そのような時代である。
町長・村長に申し上げたい。
管理職には「それはそうだが、しかしそうは言っても法律・制度が…」と一切言ってはならぬと命じ、職員には「現行制度上止むを得ない」の論理に呪縛されるなと令を発されてはいかがであろうか。そして、役場内に情報コーナーを設け、自治体関連の月刊誌・季刊誌、出来れば書物も置く。地域づくりの時代であるから、各地の実践・見方・考え方の情報が身近手近にあることが職員の目を開かせる機縁となる。その資料と文献目録は町村会で整理なさってはいかがであろうか。

(注)
(1)松下圭一「政策型思考と政治」東大出版会18頁
(2)森 啓編著「文化ホールがまちをつくる」学陽書房98頁
(3)地方財務95年4月号「これからの文化施設のあり方」
(4)北海道自治研修所調査研究部・報告書「共に地域をつくる」
(5)地方自治センター編「自治体革新の政策と構想」下巻346頁=対談「自治体政策と法」西尾勝/松下圭一
(6)松下圭一「都市型社会の自治」日本評論社25頁
(7)西尾勝「行政学の基礎概念」東大出版会393頁‥政府間関係の概念
(8)松下圭一「戦後政治の歴史と思想」筑暦学芸文庫171頁
(9)自治体職員の政策研究会「政策型思考研究会(道庁職員と町村職員の研究会)、白老町職員政策研究会、道央圏町村職員政策研究会、小樽地域政策研究会、ニセコ町政策研究会など。
(10)「自治体職員の能力」公人の友社ブックレット№10

 
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