■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
書評 「自治体学とはどのような学か」
(カテゴリー: 研究ノート・書評
 所沢市内で「行政政策研究会」を長年に亘って開催されている清水英弥さんが「自治体学とはどのような学か」の書評を書いて下さったので掲載する。

 「自治体学とはどのような学か」を読んで 清水英弥  

 自治体で仕事をするとき、新鮮な感覚の企画立案や事務改善の提案をするが、上司の理解が得られず話も聞いてもらえないときがある。そのような八方塞がりの壁にどう対処したらよいかがわからない自治体職員の皆さんに、自分なりの解決策を見出す参考書として本書を紹介します。

 本書は、第1章「自治体学の概念」、第2章「市民政治・自治基本条例」、第3章「市民議会」、第4章「市民行政」、第5章「自治体学の実践」、第6章「自治体学会の運営」の全6章で構成されています。

 第1章は「知識として知っている」と「本当に分かっている」は同じでない。現状打開に一歩踏み出すと、現状の継続に利益を得る陣営からの反撃に遭遇し「非難・嫉妬・足引張り」を浴びて辛い立場になる。だから多くの人は「大勢順応」になり「現状追随」に陥ってしまう。だが一歩踏み出せば「壁を破って真相を見る」を体験して「分かる」に至る。
「知っている人」と「分かっている人」の違いは「一歩前に出た体験」の違いである。著者はそのような実践体験の大切さを説いている。

 第2章は、自治基本条例は「代表権限の逸脱」を制御する「市民自治制度」であり「自治体の最高規範」である。だから、制定権者は有権者市民でなければならない。そして自治基本条例の最高規範性を担保するのは「全有権者投票」によって地域社会に醸成される有権者の規範意識であると説明する。

 第3章では、自治体議会改革の論点を提言する。現在日本の自治体議会は高齢の男性議員が大半であり、性別も職業も年齢も地域を代表していない。そこで多様な市民が立候補して議員になるには、議会開催日を平日の夕刻と休日にすることである。これは議会で議決すれば可能なことである。そして、住民自身が「目先利益の住民」から「公共性の意識で行動する市民」へと成熟しなければならないと述べる。
 
第4章では、「市民行政」とは市民が行政庁舎内で日常的に行政事務に携わることであり、これからの行政は、競争試験で採用された「公務員の行政職員」と、首長が任期内に委嘱した「市民の行政職員」の二種類の行政職員が存在する。その具体例として、北海道ニセコ町の町民図書館は、「子供の遊び場」「高齢者のたまり場」にもなっており、実に自由な図書館運営を行っていると紹介している。
 
第5章は、著者自身の実践体験の記述である。
 1970年代の革新自治体は、宅地の乱開発に対処するため「宅地開発指導要綱」を定めて地域社会を守った。そのとき、国の官僚から「権限なき行政」と非難攻撃された。そのような時代背景のなかで、著者が前例なき課題を解決するため一歩前に出た自身の実践例を語っている。例えば、「プロジェクトチーム」の立ち上げでは、各課からエース職員を選抜するためのノウハウ。「著名講師」への講師依頼では、著名講師に「寄り切りで私の負けです」と言わせた痛快なノウハウ等を「自治体学の実践」であるとして記述している。
 そして「政策研究」という言葉が、行政内文書の用語になり、論文や著書も多数刊行されて定着するに至ったのは、1984年10月の「第1回自治体政策研究交流会議」がそのはじまりであったと述べる。当日は、北海道から九州までの全国から、140団体、352人の自治体職員と市民と研究者が参加した。これらの実践例は何れも地方分権一括法施行の16年前の事例である。

 第6章は「自治体学会の現状」への提言である。
著者は、自治体学会が横浜で設立され30年の歳月が経過した。だが「自治体学とは何か」の了解認識が普及しているとはいえない。自治体学は「課題は何か、解決方法は何かを解明し考案する現場の実践学」であり「実践の言語叙述」であるから、自治体学の了解認識には会員自身の実践体験が必要であると述べる。そして「自由闊達な論議」が自治体学会の活力の源泉であると提言して「自治体学会の設立」に奔走した著者の思いを述べている。

 最後に、筆者も最終回講座に参加した「北海道自治土曜講座」について紹介する。
1995年から2010年まで16年間にわたって開催された土曜講座は、受講生それぞれが「自分自身の見解」を持ち「思考力を高める」ことが目的であった。
 土曜講座16年間の成果は、第一に受講生がお互いに知り合ったこと、第二は「話す言葉」「考える用語」が変わったこと、第三は116冊のブックレットを刊行したことである。116冊のタイトルが、そのまま「自治体課題の変遷」を物語っている。 多くの自治体職員と市民の方々に本書の熟読を薦めたいと思う。 
  2014年10月1日  
  入間市 都市建設部参事兼建築指導課長 清水英弥


  森 啓「自治体学とはどのような学か」
  公人の友社 ℡ 03-3811-5701 Fax 03-3811-5795
Eメール info@koujinnotomo.com  http://koujinnotomo.com/
   頒布-定価1200円+税(96円) を 著者割引で1000円
   問合せ 03-3811-5701 info@koujinnotomo.com
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日本の憲法理論は特殊である
(カテゴリー: 自治体学理論
    日本の憲法理論は特殊である

1 さっぽろ自由学校「遊」の「民主主義講座」の第三回は、憲法学者の「立憲制と民主主義」であった。
 ところが、90分の講義で「市民」「政府」「市民自治」の言葉は一語も出なかった。講義の用語は「国民」「国家」「国家統治」であった。  
 そして、「国民主権」と「国家主権」はどう違うのか、の質問には明晰に答えず(答えることがてきず)、曖昧にはぐらかした。
 質問者は、統治権は「国家」にあるのか、主権者である国民が権限を信託した「政府」にあるのかを訊ねたのである。
 憲法学者の「国家三要素説」では「国民は国家の一要素」になる。それは「国民主権」を否認する考え方である。そもそも「国民主権」と「国家主権」は両立しない。「国民」を「国家の要素」と考える「国家主権」は「帝国国家の明治憲法」の理論であったのだ。
 統治権の主体は「市民が権限を信託し制御し交代させる政府」であると考えるのが民主主義の理論である。それが「国民主権」である。質問者は「国民主権」と「国家主権」はどう違うのか、と質問形式でその確認を求めたのである。

 日本の学者の憲法理論は特殊である。
 日本の憲法は21世紀の未来を展望する第一級の憲法典である。だが日本の憲法学の理論は旧思想を引き摺った二流である、二流であると言わざるを得ないではないか。
 学者の憲法理論は「憲法を国家統治の基本法」とする。つまり「国家が国民を統治する」である。国民は「国家に統治される被治者」である。これが現在日本の憲法理論である。
 なぜこのような理論になっているのか。

2 1946年、「帝国国家の憲法」から「国民主権の憲法」に180度転換した。だが「憲法は変われども国家統治は変わらず」であった。なぜであろうか。
 1948年~1950年、17人の東京帝国大学の学者が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上中下) を刊行した。 
 民主風の言回しで「国民主権の憲法」の逐条解説を分担執筆した。
 だが、長い間、東京帝国大学内には「国家学会」が存在して「国家統治理論」を正統学としてきた。つい直前まで「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧されていたのである。
 すなわち、帝国大学の学者が「国家統治の観念」から自由になることはできる筈もなかった。例えば、分担執筆を提案した田中二郎(行政法)は、その後も「国家の優越的地位」を自身の著作に書き続けた(行政法総論 有斐閣 1957 、要説行政法 弘文堂1960)。国家が公であり国民は私であった。
 この「註解日本国憲法」が、戦後の「公法学会」「憲法学会」を主導したのである。

3 学者は自由に発想できないのである。
 国家官僚への公務員試験も、法曹界への司法試験も、「国家統治の国家学の答案」でなければ合格できない(させない)シクミになっているのである。
 だから、現在の学者も、「国家統治の観念」から自由になれないのである。「市民自治」「市民政府」「政府信託理論」を認めると、長年習得してきた「国家理論の根幹」が崩れるからである。そして学会で相手にされなくなるからである。

4 しかしながら 「国民主権」と「国家統治」は理論として整合しない。 「国民主権」と「国家主権」を曖昧に混同し(巧妙狡猾に)言い換えてはならないのである。  
 「国家」は擬制の言葉である。権力の座に在る者の「隠れ蓑の言葉」である。(映画「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」の悪家老の「藩命である」の恫喝と同じである)
 「国家三要素説」は性質の異なる概念を並べた曖昧な説明である。国民を国家の一要素に閉じ込めて「国家」を統治主体に擬制するための言説である。(「国民」の語は、「国家の一要素」になるから、暫くの間は使わないのが良い)
 民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府信託の理論」「政府制御の理論」「信託解除権の理論」でなくてはならない。
 民主主義は「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。