■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
北海道自治体学土曜講座・第一日目の論点 (3)
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  北海道自治体学土曜講座
    第一日目の論点 (3)

 3.市民と学者の違い
 会場討論の三つ目の論点は「市民と学者の違い」であった。
 例えば、岩波新書「市民自治の憲法理論」、岩波現代文庫「ロック『市民政府論』を読む」(共に松下圭一著)を読んだ市民は「ここに書いてあることが本当の民主政治の理論だ」と言う。「当たり前のことが書いてある」とも言う。
 ところが、多くの学者は「読んだがよく分からない」と言う。そして「読まないことにしている」と述べる。
 「どうして学者は分からないと言うのですか」と、筆者は読書会などで幾度も尋ねられた。そこで、「市民の感想」と「学者の所見」が違うのは「何故なのか」を討論した。
 以下は当日の討論を基にした筆者の所見である。

国家学
 学者が「分からない」「読まない」と言うのは、「市民自治の憲法理論」と「市民政府論」が「市民自治の政治理論」だからである。
 学者は「国家統治の国家学」である。だから「市民自治の政治理論」に賛同しない。さりとて、反論もできないから、「よく分からない」「読まないことにしている」と言うのである。
 長い間、東京帝国大学を頂点とした日本の大学は、国家が国民を統治する国家学であった。国家統治に疑念を抱くことを許さない国家学であった。

国家学会
 伊藤博文は、自由民権運動を弾圧し民権家を捕え国事犯として酷寒の蝦夷地に送り、自らドイツに赴き「立憲君主制の国家理論」を持ち帰り憲法草案を作成した。そして、渡辺洪基・東京帝国大学総長に「国家学ヲ振興シ、国民ニ知ラシムルガ必要」と助言し、1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家統治の国家学」を官学の正統学とした。

市民政府論
 イギリス革命を理論総括したロックの「市民政府論」がアメリカ独立革命に甚大な影響を及ぼし、「独立宣言文」は市民政府論の文章もそのままに書かれている。アメリカ独立に衝撃を受けたフランス市民は「王権統治から市民政治へ」と歴史を回転させた。イギリス市民革命・アメリカ独立革命・フランス市民革命に驚愕したドイツ皇帝は、市民運動家を逮捕殺戮し、「国家」を隠れみのにする「立憲君主制の憲法」で皇帝支配を続けた。立憲君主制は「国家」を隠れみのとする偽民主政治制度である。
伊藤(博文)はドイツの「国家理論」と「立憲君主制」の発見を喜び、故国の岩倉具視に「良い物を見つけた」と喜躍の手紙を送った。帰国して「立憲君主憲法」つくり「国家を統治主体と擬制する国家学」を正統学にしたのである。

市民と学者
 日本は1946年、「天皇主権の明治憲法」から「国民主権の憲法」に百八十度転換した。だが「憲法は変われども国家統治の理論は変わらず」であった。
 学者は、「市民自治」「市民政府」「政府信託理論」を認めると、長年習得してきた「国家理論の根幹」が崩れる。だから「よく分からない」「読まないことにしている」と述べるのである。自分一人では「国家統治」から「市民自治」に理論転換できないと思っているのである。実は、学者も自由ではないのである。
 国家官僚への公務員試験も、法曹界への司法試験も、「国家統治の国家学の答案」でなければ合格させない(国家承認をしない)シクミになっているのである。そして、学会の主要メンバーは国家学である。学者は学会で相手にされなくなるのをなによりも怖れるのである。
 かくして、学者は「国家が国民を統治する国家学」を現在も大学で講義するのである。そして「国家統治学」が民主政治の理論だと思っているのである。
 だが市民は、70年間の憲法感覚で「市民自治の憲法理論」「ロック『市民政府論』を読む」に共感する。これが市民と学者の違いである。

自治体学
 自治体学は「国家」を「市民と政府」に分別して「市民と政府の理論」を構成する。すなわち、市民が政府を「構成し制御し交代させる」のである。民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。
 国家学の「国家」は擬制の観念である。曖昧な二重概念である。
市民は国家に統治される被治者ではない。民主主義は「国家の統治」ではなくて「市民の自治・共和」である。
 2014年6月21日、北海道大公共政策大学院が開催した「人口急減ショック『縮小社会』をどう生き抜くか」のシンポジウムで、発言席の学者は現在日本をもっともらしく分析するが「国家政策の根幹」に触れる発言はしない。
米国の言語学者ノーム・チョムスキーがアメリカのエスタブリシュメント(Establishment)は「根幹に触れる発言をしない」と述べるのと同根である。
 自治体学は、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置して、国家学を克服する学である。「自治体学の概念」「市民政治」「市民議会」「市民行政」「自治体学の実践」「自治体学会の運営」を、「自治体学とはどのような学か」に詳述した。
 詳細は「http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/ 」を参照。

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北海道自治体学土曜講座第一日目の論点 (2)
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北海道自治体学土曜講座
   第一日目の論点 (2)

2.現在日本の状況認識
 現在日本には「状況追随思考」が蔓延している。自身の考えを表明しない人々が増えている。自分の考えを表明しなければ、思考力が低下し自分で考えなくなる。そしていつしか、テレビが言っていること、新聞が報道することが自身の意見になる。
 第1回土曜講座で、これらの「問題状況」を提起して「なぜであろうか」を討論しようと考えた。ところが、「現在日本の状況認識」で見解が分岐した。「批判的思考力が低下していると思わない」との意見が出た。討論が入り口で止まって、「なぜであろうか」の討論に入れなかった。これはどうしたことであろうか。

 このことは、北海道の革新団体が発行する月刊研究誌(2014年4月号)の巻頭言に、「日本は『右傾化』しているか」のタイトルで「右傾化していると一概に言えないのではないか」と書いてあったことに通じる。つまり「現状を認識する思考力」が「低下している」のである。
 巻頭言の執筆者は「著名な国立大学大学院」の准教授である。だが書いてある内容は形式論理である。「価値が多元化した現代社会」であるから「右傾化の基準」を示さなければ「日本が右傾化している」とは言えない。どの主体が、どのようにして、なぜ右傾化しているのかを把握して「左派的価値」を再定義しなければ、「日本は右傾化している」と言えないと書いてある。
すなわち、形式論理を得々と述べるだけで、自分自身の見解は表明しない。
 研究誌の編集者は「貴方の見解を書いてください」と執筆者に注文すべきではなかったか。自身の見解を述べない巻頭言に「如何なる意味」があるであろうか。
 安倍普三首相が「集団的自衛権の行使容認を国会で決議する」と言明し、傍若無人に立憲制を真正面から否認しているのである。そしてこの言動を阻止する勢力は少数である。これが日本の現状である。「貴方は右傾化していると思わないのですか」と執筆者に尋ねたい。

 そしてまた、自治基本条例の急速な広がりに対して、自民党が「チョット待て‼ 自治基本条例」のパンフレットをインターネットに掲載(アップ)した。
 自治基本条例を批判し非難する内容である。国家が国民を統治する考え方での非難である。ところが、全国各地には「自治基本条例の制定」に委員として関わり、あるいは助言者として関与した学者が多数いるにもかかわらず、自民党パンフを批判する発言者は現れない。
 これはどうしたことであろうか。
 自分に矛先が向かないときには立派なことを言うけれども、まさにそのことが問題になると、沈黙し形式論理を述べる。学者もまた「発言をしない世渡り術」に沈潜しているのであろうか。これらの学者には「自治体学の実践」の意味理解は難しいであろう。「何が問題か」「打開の手だては何か」を考えるのが「自治体学」である。考えて実践するのが「自治体学の実践」である。
 名著として古典になっている論稿の第1稿は、集会で配布された「パンフレット」であったのだ。
現状認識は「自治体学とはどのような学であるか」を考える論点である。
北海道自治体学土曜講座第一日の概要報告
(カテゴリー: 北海道自治体学土曜講座
 
  北海道自治体学土曜講座第一日の概要
   会場討論 (1)

1.桶川市のルームクーラー撤去
 1994年の夏は暑かった。
 その夏、桶川市の担当職員が生活保護で暮らす老婦人に、「ルームクーラーを撤去しないと来年度から生活保護費が出せなくなります」と「クーラー撤去を迫った」の新聞報道が全国に流れた。「何と冷酷な行政であるか」の声が全国に広がった。
 生活保護法は厚生省(現厚生労働省)の所管である。だが機関委任で保護手当の支給業務は市が担っている。厚生省は保護所帯の認定基準を「クーラー等は60%以上の家庭に普及」と定めている。
  桶川市は「冷酷な行政と非難をされても、国の委任事務であるから厚生省基準に従わざるを得ない」である。
  これは「実践理論である自治体学」の課題である。

 パネリストに「どう考えればよいか」「どう対処すればよいか」の見解を求めた。明快な見解が出ないので、「皆さんはどう考えますか」と会場にも意見を求めた。

 筆者はかつて(1994年)、北海道庁の係長研修で同様の質問をした。
 「気持ちとしては何とかしたいが、機関委任事務であるから厚生省基準に従わざるを得ないのでは……」が返答であった。そこで、自治体職員として「それでよいのですか」とさらに尋ねると、「講師ならどうしますか」と逆に質問をされた。

 筆者の所見を記述する。
(1)生活保護の受給者は、世間並みを超える暮らし方を一切してはならないのか。世間を気にしながら生活をせよと言うのであろうか。ルームクーラーを設置しても、電気代などが生活保護費に加算されるわけではない。そうであっても、60%以上の家庭に普及していなければ使えないのか。
(2)少額の生活保護手当で「どのような生計を営むか」は各人の自由の問題である。生計費をヤリクリして「オペラを見るのも、美味な料理を楽しむのも、洒落れた服装で出かけるのも」人の暮らし方である。「如何なる暮らし方をするか」は人の自由である。
(3)「暮らし方は自由であるが、人の税金で暮らしているのだから(世間から助けて貰もらっているのだから)、地域の60%の家庭に普及していないクーラーは、やはり感情としては……」の思考と論理は、人権感覚の希薄・人倫思考の欠如である。
(4) 憲法25条は社会権であり生存権である。福祉は「慈善・施し」ではない、「権利」である、と講義をする方々が、実践問題に直面すると、途端に「機関委任事務」「通達」「省庁基準」などの「国家統治の用語」に絡め取られた思考になる。
これが「知っている」と「分かっている」の場面である。
(5)この事例で見解を求められたとき、「人権の問題」だと考えない、思いがそこに至らないのは、「人権」という言葉を「知っているだけ」で、本当は「分かっていない」のである。自分自身を常に安全な立場に置き、困難を覚悟して一歩前に出た実践体験がなければ、人権感覚は身に付かない。
(6)そもそも、通達や行政基準は官僚の法律解釈である。法律解釈は国家を隠れみのにする省庁官僚が独占するものではない。市民も自治体職員も法律を解釈してよいのである。そして解釈相互に齟 齬があるときは司法の場で解決・決着するのである。
(7)「桶川市のルームクーラー撤去」の事例は、「自治体学とはどのような学か」を、了解し認識する実践理論の事例である。

 ところで、担当職員が課長に「ルームクーラーを使っていても、生活保護額を加算するワケではないのだから、認定を続けてもよいのでは……」と相談(具申)したとする。課長は「機関委任業務だから厚生省基準を無視できない」と答えるであろう。ここからが「自治体学の実践」である。

 以下は、1994年の秋、北海道庁の係長研修での逆質問への返答である。
首長も議員も「市民と共にまちを創る」「安心して暮らせる明るいまちづくり」などを政策公約に掲げている。そして「60%の厚生省基準に合理性は無い」のである。そこで、この二つを公衆の場で(市民の面前で)結び付ける。結び付けて市民の共感を獲得する。つまり「世論」をつくる。
(2)まず、小人数の研究会で討論して下記の共通認識を得る。
 ①厚生省の認定基準に合理性・妥当性は無い。
 ② 老婦人のルームクーラー使用は生活保護の所帯認定の支障にならない。
 ③ クーラー撤去の問題は「まちづくりの問題である」。
 ④ 機関委任の業務であっても「自治体としての見解」を持たなくてはならない。
 ⑤ 「議会が自治体見解を確認する」ことが「厚生省基準に向かい合う論拠」になる。
(3)次に、地域の有志に呼び掛けて、これらの論点を討論する公開討論会を開催する。「冷酷な行政だ」と全国に報道されているから、それを逆手に取って「明るい桶川のまちづくり」への参加を市民・議員に働き掛ける。
(4)公開討論会の事前取材を新聞・テレビに働き掛ける。
報道されて地域の話題になる。それが「世論」になって「議会での論議」になる。
(5)新聞・テレビで公開討論が報道される状況を、先取りする「市広報の特集」を首長に提案する。すなわち、首長の「先取りしたい思惑」を手助けする。
 これらは「機関委任事務だから厚生省基準に従わなければ」の思考習慣(国家学の論理)を打ち崩す実践である。その論理と才覚が自治体職員には必要である。これが自治体学の実践である。
だが国家学の方々には「自治体学の実践」の意味理解は難しいであろう。
 「自治体学の実践」の実例(10項目)を、「自治体学とはどのような学か」( 公人の友社・2014年5月刊)の第5章に記述した。
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