■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
自治体職員の思考力
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自治体職員の思考力

1 自治体理論
 北海道自治体学会は1995 年に設立された。15 年の歳月が経過している。
 自治体職員の本分は「自分の仕事をより良いものにすること」である。「何が問題か」「如何に改めるか」を考えるには自治体理論が必要である。
「省庁政策への従属意識」を脱して「地域の方々と力を合わせる」には「市民自治の自治体理論」が必要である。
 自治体学会はその理論認識と体験交流のためにある。だがしかし、自治体学会や労働組合の集まりに出て発言をしても、職場では現状維持の上司意向に従い自分の仕事を改めようとはせず、無難に大過なくの保身で日々を過ごすなば、それは「地方公務員」である。「自治体職員」ではない。
 自分は何も変わらないで「目新しい言葉を使い」「新しい制度を提案する」のが最先端の自治体職員であると錯覚してはならぬ。行政不信の実態は言葉だけでは変わらない。
 政策評価、成果主義、マニフェスト、議会改革、自治基本条例、などが論議された。論議することは重要である。
問題は「語り論じる方々」が自分自身は何も変わろうとしないことにある。改革は何事も主体の問題である。
 人は一歩前に出て困難に遭遇し壁を越えて真相が見えてくるのである。         
 自分の「仕事の意味」を問わなければ「批判的思考力」は日々に衰弱し状況追随の公務員になり住民から信頼されず軽蔑される人間になる。  
 そのような公務員への不信に乗じて「規制緩和を叫び」「労働者保護法制を廃棄し」「街頭に若者を投げ出し」「兵糧攻めで合併を強要した」のが小泉内閣であった。
 1970 年代には「不公正への怒り」が社会にあった。労働運動には「自己犠牲への覚悟」があった。それが今は無い。「勲一等受勲」の日本社会である。

2 批判的思考力
 現在日本の問題は「考える力」が著しく衰弱していることである。
思考力が劣弱であるから「社会の不公正」に怒りの感情が生じないのである。
 知識人・加藤周一は『人が行動に至るのは「知識」でなく「感情」です』と述べた。「自己保身の状況追随思考」が蔓延しているから「不公正」が罷り通るのである。
 例えば、2005 年の合併騒動のとき、「住民の考えを聴いてからにせよ」と全国各地で住民投票条例の署名運動が起きた。それは代表民主制度への不信の表明であった。しかるに議会はこれを否決し住民投票が行われても「投票率」を口実に「開票せず焼却」した。
 このとき、自治体学会員の心に「何たることか」の思念が生じたであろうか。常日ごろ「自治分権」「財政自立」を唱えていた学者は「それもあり」と黙過した。平素、口にする「自治」「分権」「参加」には何の意味もないのである。
 「間違っていること」を「間違っている」と発言をしなければ、「批判的思考力」は衰弱し磨滅する。「何たることか」の感情が「自身の内」に生じないのは「思考の座標軸」定まっていないからである。「考える力」が劣弱になっているからである。
 合併是非の住民投票を「開票せずに焼却する」のは「代表民主制の根幹」の否認である。なぜに自治体理論による批判が一斉に湧き起らなかったのであろうか。なぜ自治体学会の討論テーマにならなかったのであろうか。法定協議会事務局に人事異動となった自治体職員を囲む論議ができなかったのはなぜか。
 半歩前に踏出せば元気が体内に湧出するのである。「実践」と「認識」は相関するのである。

3 国家学と自治体学
 自治体職員に必要なのは「職業観」と「社会認識」であろう。
 自治体とは「行政機構」のことではない。自治体の主体は市民である。市民が政府( 首長と議会) を選出して政府を制御し政府を交代させるのである。これが「市民自治の政府信託理論」である。国家学の「国家法人理論」に対置する理論である。
 自治体職員は「住んで誇りに思えるまち」を創る事務局職員である。行政職員は首長の私兵ではない。私兵であってはならない。首長と議会の権限は市民から四年期限で信託された権限である。
 選挙は信頼委託契約であって白紙委任ではない。信託契約を逸脱するときには信託解除権の発動となる。
 長い間、統治行政であったから「市役所・役場」への不信感が根強くある。行政公務員も信頼されていないのである。一番信頼されていないのは議会である。議会不要論が根強くある。
 自治体職員は地域の方々と信頼関係を築かなくてはならぬ。相互信頼がなければ「住んで誇りに思えるまち」にならない。行政職員はまず「自身の考え方」を改めなくてはならぬ。
だが、国家を統治主体とする国家学理論が行政内に染みついている。規則も制度も、制度の運用も仕事の手順も、用語も言葉づかいも、行政が政策主体であって住民は行政サービスの受益者である。
 大学の講義は今も国家学理論である。国家学は国家統治の理論である。国家を統治主体と擬制する理論である。
 自治体学は「市民が自治主体である」と考える。例えば、国家学は「憲法を国家統治の基本法」であると講義する。
自治体学は「憲法は市民自治の基本法」であると考える。国家学理論では「行政は法の執行」である。だから、行政職員は「現行制度では致し方が御座いません」「行政は法律規則によって業務を執行するものです」と市民に応答するのである。
 「国家統治とは」は実は「行政が主体で住民は客体」のことである。「国家」は行政支配の「隠れ蓑」の言葉であるのだ。
 自治体学理論は「行政とは政策の実行である」と考える。行政とは公共課題を解決することである。政策を策定し実行するのが行政である。
 市民も行政職員も首長も議員も「自治体学理論」の習得が必要である。「国家統治の国家学理論」を「市民自治の自治体学理論」に転換しなくてはならない。
 北海道土曜講座は自治体学会と同じ1995年に始まった。
16 回目の本年を最終回として「自治体の政策力」を宮本憲一教授、「政権交代の意味」を松下圭一教授で開催する。

4 生きて甲斐ある人生
 さて、仕事を改めようと一歩踏み出せば、現在の職場慣行に反することになるから、現状維持的安定の上司から良く思われない。そこで「言葉は新しく前向き」であるが「上司意向を忖度する公務員」に堕する。総務・管理部門には上昇志向のこのテの公務員が多い。
 公務員は自分で判断しない。何事も「上司に伺って」である。「何とかならないものか」と自分の才覚を働かせることをしない。管理職はその態度を服務秩序として職員に求める。だが、自分は「責任回避」に細心の注意を払っている。市民が直観する「行政不信」はこれである。( 少数の例外は職員にも管理職にも存在する)  
 問題は「自己を抑制し続ける公務員人生」を選択するか、「自治体職員として生きるか」である。公務員人生を選択する若者には「ステキな恋人との出逢い」はない。妻と子からも尊敬されない。
 自治体職員は芥川龍之介の作品にもある「生きて甲斐ある人生」を切り拓くのである。生涯の黄昏時に「もぬけの殻」の自分を見つめるか、「良くやったナ」と思えるか、その違いである。
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