■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
無防備平和署名と吾々の側の問題
(カテゴリー: 無防備地域宣言
無防備平和署名と吾々の側の問題 
―理論的思考力―

1 吾々の側にも問題があるのではないか。
 「国の法令に反する条例はつくれない」と市長が言ったそのとき、「何を言うか」「それで自治体の首長なのか」と反駁する「理論的思考力」が吾々の側に存在したであろうか。市議会がさしたる論議もせずに否決したとき「怒りの感情」に加えて「論理的批判を共有」したであろうか。
 「国防権限は国家にあるのだ」「国の法律に自治体は逆らえない」「地方自治体が戦争に反対しても無理だ」と、省庁官僚と市長と議員が口を揃えて言ったとき、感情としては反発するけれども何処かにアキラメのようなものがありはしなかったか。それは吾々の側の「理論的思考力」が微弱だからである。
 あるいはまた、無防備平和条例が議会で次々と否決されるので、「議会の否決なぞは気にしなくてよい」「署名に意味があるのだ」と励まし合った。それは「署名を集めても意味がないのでは」と弱気になることを慮っての言い方であった。 
 しかしながら、議会を通過させなければ無防備地域宣言は実現しない。「議会の否決」を「致し方のないこと」と思ってはならない、言ってはならないのだ。「思い」「言う」そのことが自身の思考の深層で「批判的思考力」を衰弱させるのである。

2 批判的思考力
 人間は理性の存在である。不可能に思える困難に立ち向かうのは正当性の確信である。理論的正当性の確信が「市民自治の社会」を創り出すのである。
 革命的言辞を操る前衛のリーダーが実は「保守そのものであった」の実例がある。それはそのリーダーが「そうは言っても現実は」と自身の深層に刻印していたからである。
 現在の日本では、殆ど全ての議員が「国の法令に反する条例は制定できないのでは」「国の防衛政策に反対できないのでは」「防衛は国家の問題だから」と思っているのではあるまいか。それは「市民自治の理論力」が未熟だからである。「パスカルの思考」の未熟さである。
 長い間、日本は内務官僚が支配した。「国家」を隠れ蓑にする「官僚の統治思想」が行政職員にも地方議員にも根強く残存しているのである。吾々の側にも権力従属の「保身と利己」の心が潜んでいる。大切なのは「自分の考え」である。自分自身の意見・見解・所見である。「批判的思考力」である。思考力を高めるには道具が必要である。思考の道具は言葉・概念・用語である。

3 「防衛権限」は市民が信託した権限なのだ
 政治・行政の用語に無色中立の言葉はない。全ての用語に「歴史」があり「経緯」があり「利害と価値意識」が浸み込んでいる。内務省感覚が染み込んだ行政用語・議会用語を今も使っているのである。「傍聴人取締規則」が存在している議会もある。
 言葉に浸み込んだ「統治秩序・権威感覚・従属意識」が思考の方向を定めているのである。統治支配の側の「狡猾な言葉」に騙されてはならない。使ってはならないのである。 
 「国家」は「政府責任」を巧妙にはぐらかす言葉であるのだ。
 例えば、イラクで三人の日本人が拘束されたときである。アルジャジーラ放送が伝えた「現地の声明」は、「日本の人々には友情すら抱いているが、貴方がたの政府のリーダーはブッシュと手を組んで軍隊をイラクに出動させた。三日以内に撤退を始めなければ、拘束した三人を焼き殺す」であった。 
 日本のテレビ各局は「アルジャジーラ放送」をそのまま報道した。肉親家族はもとより日本の人々は大いに驚愕した。ところが、翌朝の新聞・テレビは、「貴方がたの政府のリーダーは」の部分を「貴方がたの国は」と「見事に足並みそろえて」改竄した。「誰がそれをさせたのか」。「国家」では「ブッシュと手を組む小泉首相の責任」が見えなくなるではないか。そのための改竄である。
 同様に、防衛権限は「国家の権限」ではない「政府の権限」である。そしてその「政府の防衛権限」は市民が信託した権限なのだ。「自衛の権利」は一人ひとりの市民固有の権利である。「市民の自衛権」を政府に信託したから政府が防衛権限を保有するのである。無防備署名は「信託した防衛権限」を制御する市民自治の実践行動であるのだ。
 無防備平和条例を全国各地で制定して中央政府の「戦争加担の策動」を「ひっくり返す」のである。それが「信託解除権」を発動する市民自治の実践であるのだ。「市民自治」とは「市民が政府を選出し制御し交代させる」の意味である。吾々の批判的思考力を強靭にしなければならない。
 「国家統治の国家学理論」を払拭し「市民自治の自治体学理論」で「理論的思考力」を高めるのである。 

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自治体学シンポジュウム
(カテゴリー: 自治体学とシンポジュウム
自治体学シンポジュウム (2008年9月6日)

北海道自治体学会「政策シンポジュウム」が恵庭市で開催された。
当日の感想を記す。

1 片山講師(前・鳥取県知事)の記念講演「生活習慣病としての自治体」の話はとても良かった。 話は良かったのだが、少しく気になった。
・ 現在の日本で「教育」が一番重要であると指摘して「先生方が事務処理に時間をとられているので事務員を配置した」と知事時代の体験を話された。
だが、現在の学校の「職員会議」は「教師が自由に討論する場」でなくなっている。「職員会議は伝達の場であるのだ」との「文部省―教育委員会のお達し」が徹底して、教師が自由に教育を語り合えなくなっている。教師に自由闊達の精神が無くなったのでは「良い教育」ができないであろう。
「教育が一番重要だ」とする片山講師はこれらをどう考えているのであろうか。

・後期高齢者医療制度について、厚労省の役人に「高齢者医療制度」は市町村の管掌でなく府県の管掌にするべきだと話した、と知事時代の体験話をされた。
65歳以上を切り離した医療制度にするのは、「嵩む高齢者医療費」を「本人負担分を引上げ」「診療抑制をさせるためだ」「高年齢者の切り捨てだ」との批判がある。
片山講師は「後期高齢者医療制度」それ自体については「問題はない」と考えているのであろうか。

・ 日本社会の格差について言及したとき「ある程度の格差はしようがないのですよ」と言われた。その言い方に「問題はない」のだが、働く人の三分の一が年収二百万円以下で、不安定な非正規雇用で、将来に希望なく絶望の日々を過ごし、年三万人の自殺者が十年続いていることに、言及しないのはなぜであろうか、と気になった。
 そして、チョムスキーさんが「アメリカの体制派知識人は肝心なことには言及しない」と語っていたのを想起した。(討論のための質問票に疑問を書いて提出したが、時間の関係もあってのことか、司会者に選択されなかった)

2  中島講師(恵庭市長)の話も良かった。
  前段の話は(何回か聞いた話であるが)自信に満ちていた。
だがその直後の「片山・中島のトーク」のコーナーでは自信のない語り口でその落差に驚いた。会場に市議会議員が居ようが居まいが「所見を述べるのが役割」であるのだが、と思った。