■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
自治体学理論と自治基本条例の制定
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学理論と自治基本条例の制定

 自治体学理論とは住んでいる人々が公共社会の主体であり、公共社会を管理するのは「市民」であると考える理論である。
 市民は公共社会を管理するために政府をつくり代表者に代表権限を信託する自治主体である。首長と議会は市民から信託された範囲内で権限を行使する。信託は白紙委任ではない。市民は代表権限の運営が逸脱しないよう日常的に市民活動で制御する。代表権限の運営が信託に反する場合には「信託解除権」を発動して政府を交代させる。
 これが「市民自治の政府信託理論」である。市民が「自治主体」であって、首長と議会は「制度主体」である。自治基本条例を「行政内決裁と議会議決」でつくるという考え方は、「制度主体」が「自治主体」である市民を「そっちのけ」にして「自治体の憲法」をつくるということである。これは、統治行政のやり方と同じである。「市民自治の最高規範」の制定ではない。 

 現在の重要論点は、地域に「最高条例の規範意識」を如何にして創り出すかの工夫と実践である。然るに、「市民合意・市民決裁の手続き」を避けた自治基本条例の制定が続いている。学者も「市民合意・市民決裁の手続きは理想論である」と述べて「形だけの自治基本条例の制定」に加担している。
 それらは、現状を変革する困難を避けて便宜に流れる「安直思考」である。 
 推察するに、市民合意を避けるのは、「制定ができなくなる」「制定が遅れる」を危惧してのことであろう。よもや、住民は衆愚だから住民投票はしないのが良いのだ、ではあるまい。
なぜに、住民の自治意識の高まりを「望まず」「軽視する」のか。
 「制定することが目的」であるのならば「自治体の憲法をつくる」などと立派なことは言わないことである。

 「市民」も「市民自治」も「自治体改革」も現状を変革せんとする「規範概念」であるのだ。「住民合意・住民決裁」を避けて「最高規範の制定」を論ずるのは「市民自治」の規範論理を透徹しない考え方である。
地域に「最高規範の社会意識」を醸成せずして、何が「最高条例」であるのか。七十年代以来の「市民自治の諸制度」が形骸化しているのは安直思考に原因がある。「死屍累々」ではないか。それであっても「制度をつくれば一歩前進だ」と言うのであろうか。
 「制定したことが話題」になれば、「それでよいのだ」であるのなれば何をかいわんやである。
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研修とは何か
(カテゴリー: 自治体学の基礎概念
研修とは何か

 研修とは価値軸の変容である。心の奥深いところにある「自分が揺らぐ」ことである。これまで信じていた価値観が揺らぎ、今まで思ってもいなかった自分を眺めることである。現場に出かけてキーパーソンに出逢って感動する。その感動の体験が自治体職員へと自身を変革するきっかけになる。人を行動に至らしめるのは「感動」である。人と出逢い「衝撃」を受ける。それが重要である。
 現状維持の空気が充満する行政の職場で「自治体職員として行動するようになる」のは感動や衝撃によって自身の価値軸が変ったからである。上司への思惑を克服しリスクを覚悟して行動するに至るのは研修所で自身の視座が自治体理論で定まったからである。保身第一の価値軸を転倒しなければ公務員は自治体職員に成長できない。そのような価値軸の転換を惹起する研修に改革するのである。例えば、「キーパーソンから体験を聴き衝撃を受け感動する」「聞くだけでなく意見を述べ討論するうちに自分が発している言葉の変化に驚く」「衝撃を受けている自分自身を見つめる」「柔軟な思考になっている自分を見つめ自分の職業に自信と誇りを感じる」。
 そのような新鮮な感覚と体験は日常の職場では困難である。職務から離れてこそ得られる感覚である。

「研修の空しさ」の問題

 研修所で政策能力の話を聴いて納得しても、職場に帰ると元の地方公務員に戻ってしまう。これが「研修の空しさ」の問題である。
 これをどう考えればよいのか。
 長年にわたって蓄積された役所文化である。お役所流儀はそう簡単には変らない。住民を客体と考える行政文化は職場の壁と床に染み付いているのである。
 役所内主流の考え方はこうである。首長が市民参加を言うのは選挙があるからであって、行政職員が市民参加を言うのは如何なものか、住民は素人であり身勝手である。行政のプロである吾々が決定し執行しなくてどうするか。この考え方を全身に染みつかせ、しかし自身は「注意深い責任回避」と「現状維持的安定」を旨とする。これが行政の管理職である。であるから行政職員は「職場に帰ると元の地方公務員に戻る」のである。この「研修の空しさ」を乗り越えなくてはならない。
 だが公務員は「人事異動と昇任」が総てに優る価値と内心深く銘記して上司に仕え、前例にないことは極力避けて、何事も無難に大過なくの保身を旨とする。
ありきたりの研修ではビクとも変化しない。それが公務員である。
 そこで、「研修の空しさ」を嘆く前に、「統治支配の官庁理論」を「市民自治の自治体理論」の研修に組み換えているか。その組替えができる「研修所改革」を実践しているか、を自らに向けて問い返すことである。
 「研修所も、上司と職員の関係は、本庁職場と同一空気ではないのか。研修所が「紺屋の白袴」であるならば「政策能力を高める研修」ができるわけはないのである。「研修の空しさ」も打破できない。 
 つまりは、「研修改革とは研修所の改革」である。「答えは問い」に戻るのである。すなわち、改革はいつの場合にも「主体の変革」が基本である。