■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
自治体学
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
 自治体学会設立の経緯

1 自治体学会設立の着想
 「自治体学会」は「政策研究交流会議」から生まれた。政策研究交流会議は自治体職員が全国持ち回りで開催する「政策研究」の交流会議である(注1)。
 第一回は横浜で一九八四年一〇月一八日に開催した。第二回は八五年一〇月、浦和で開催した。いずれも全国各地から三五〇人を超える自治体職員が参加した。
 「政策研究」の全国交流会議をなぜ開催するようになったか。
 それがことの始まりである。
 それまで自治体には、「政策研究」という言葉の用法はなかった。「政策」という言葉も自治体では通常用語でなかった。
 自治体は中央省庁が決定した政策を執行するものと考えていた。考えさせられていたのである。「他治体」であって「自治体」ではなかった。
 つまり、自治体は「政策の主体」ではなかったのである。
 ところが、地域の情勢が大きく変化した。工業化が進展して前例のない公共課題が噴出し始めた。「量的基盤整備」から「質的まちづくり」に公共課題が移行して「自治体のあり方」が問われ始めた。
 自治体は「省庁政策の下請け」から「自前の政策主体」へと位置変化を求められ、自前の政策づくりに着手せざるを得なくなった。
 政策研究とは「既成政策の事後的分析」ではない。「政策課題の発見」と「解決手法を発明する」研究開発の営みである。
 この動向を敏感に洞察した自治体首長は「地域独自の政策づくり」を目指して首長直轄の「政策研究室」「政策審議室」を設置し、あるいは企画課に「政策研究班」を置き、あるいはまた、職員研修所を改組し「研究部」を新設した。
 しかしながら、明治百年来の「中央屈従の惰性」から抜け出ることは容易ではなかった。例えば、優れた研究成果が印刷され配布されても立案権を持つ課長は取り上げない。それどころか、知事のいないところで「若い職員が勝手な夢物語を描いている」と冷淡に言って職員の研究意欲を萎えさせた。
 職員からは「何のための研究であったのか」との不満も出た。だが人事課長や研修所長は「政策研究は職員の能力開発が目的である」と弁解説明をしていた。これが当時(一九八三年前後)の先進自治体の状況であった。
 しかしこれでは「政策研究の波」は弱まり後退する。
 この状況を突き破らなくてはならない。目前の閉塞状況を打開するには、全国交流会議を開催して「政策研究が時代の潮流になっている」ことを内外に鮮明に印象付けることである。
 かくして、神奈川県自治総合研究センターが「自治体政策研究交流会議」の開催を企画した。「政策研究の観念」を全国的な潮流にするためである。

2 第一回政策研究交流会議
 自治省出身の総務省の人たちは今でも「地方公共団体」と言っている。意識して「自治体」の言葉を使わない。使う言葉に「統治支配の思想」が潜んでいるのである。省庁の人たちは「自治体」が「政策能力を高める」ことを望んでいない。地方の「公共的な団体」「地方の公務員」のままでいさせたいのである。
 すべからく、政治・行政の用語に無色中立な用語はない。言葉の使い方に価値観と利害が染み込むのである。「政策研究」の言葉も同様である。
  (以下、当時の雰囲気を伝えるために会話形で叙述する)
 「自治体政策研究交流会議」の開催を準備していたころのことである。
 自治総合研究センター所長が研究部長であった筆者を所長室に呼び込んで、「自治体政策研究交流会議という名称だが」と言い出した。
 「何か問題がありますか」と訊ねると、「政策の言葉を削って研究交流会議にしたらどうかね」。「どうしてですか」と聞くと、「地方公共団体が政策と言うのはどうだろうか」「神奈川県が偉そうなことを言っているということにもなるから」。
 そのころは、神奈川県庁の幹部職員は議会の保守会派から「長洲知事に得点をさせるな」と牽制されていたのである。
 所長と研究部長の関係であるから、「ここで結論を出さないことにしなくては」と思った。「言われている意味は分かりますが、しかし、削ってしまうのはどうか、とも思います。私も考えてみますから……」と言って所長室を出てきて、研究部員に「所長が、森研究部長は名称を変えると言っていたかと聞くに違いないから、その時は『知事に政策研究の名称は良いねと言われた、と言っていました』、と答えてくれ」と頼んでおいた。
 もとより知事と話したわけではないが、そのようなときには、知事の名前をよく使ったものであった(自治体職員が何か意味あることをしたいと思ったときには、首長の意向であると言うのがよい。選挙で出てきた首長は概ね現状変革を求めるものである。役所内で改革を遮るのは現状維持の管理職である)。
 さりとて、所長の考えを無視することもできない。だが「政策研究の観念」を全国に広めるための交流会議である。「政策」の言葉を削るわけにはいかない。そこで、共同開催方式を考えた。横浜市企画財政局都市科学研究室、川崎市企画調査部、埼玉県県民部自治文化振興課に赴いて「自治体政策研究交流会議」の共同開催を提案した。「経費負担は不要、当日主催者の席に座していただく」ことで賛同してもらった。共同開催であるから所長の意向だけで名称変更はできないことにした。
 かくして、全国への案内文書にも当日のパンフレットにも「自治体政策研究交流会議」と印刷した。「第一回自治体政策研究交流会議」と書いた看板も出した。そして会場入口に、次の「メッセージ」を張り出した。

  自治体に政策研究の波が高まっている。
  この波は、自治体が自立的な政策主体になった
  ことを示すものである。

  戦後四十年、いまや「政策の質」が問われ、
  自治体では総合的な観点からの政策研究が必然に
  なっている。

  自治体は現代社会の難問に挑み問題解決をはかる
  現場であり、仕事を通して議論をたたかわせる論壇
  である。

  自治体を舞台に「自治体学」の研究がすすみ、
  新しい理論が確立されることを「時代」と「地域社会」
  が求めている。
 参加者はこの「メッセージ」を立ち止まって読んでいた。カメラに写す人もいた。かくして「政策研究交流会議」の熱気は高まった。
 一九八四年一〇月一八日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で「第一回・自治体政策研究交流会議」を開催した。
 基調講演は「自治体理論」をつくり続けている松下圭一教授にお願いした。自治体理論が自治体の政策自立には不可欠だからである。
 北海道から九州まで、全国各地から一四〇団体・三五二人の自治体職員と市民と研究者が参加した。
 まさかこれほどの参加があるとは当時は誰も予想できなかった。
 なぜなら、「政策研究」なる言葉は一般的でなく、職員による政策研究の制度を設けた自治体も少数であった。ところが、打てば響くようにこれほど多数の参加があるということは「地域と自治体」に地殻変動が進行していたのである。
 当日の案内状に記載した開催目的は、

(1) 研究体制の組み方
(2) 研究テーマの決め方
(3) 研究手法
(4) シンクタンクとの連携のあり方
(5) 研究成果の活用策
 であった。
 だがしかし、真実の開催意図は次の二つであった。

3 二つの開催意図
 意図の一つは「政策研究」なる言葉が全国自治体に定着することを目指す。
 自治体が政策主体になるには地域課題を政策化しなければならない。それには、「政策研究の観念」が全国の自治体に広がる必要がある。ところが、当時の自治体には「政策研究」の言葉を避ける風潮があった。さらには、研究成果の活用を意図的に重要視しない心理すらもあった。例えば、研修所長は及び腰であった。本庁の課長が所管業務に関する研究開発を忌避するからである。
 そこで、全国会議の場で「政策研究が自治体自立の潮流になっているのだ」との認識を鮮明に印象付けることを目指した。
 そのために、当日の研究報告は「政策化された事例」を選りすぐった。
 「柳川の水路復活」は広松伝さん。
 「神奈川の韓国・朝鮮人」は横浜市職員の加藤勝彦さん。
 「緑の回廊計画」は二十一世紀兵庫創造協会の福田丞志さん。
 「都市の水循環」はソーラーグループの村瀬誠さん。
 「防災都市のまちづくり」国分寺市の小口進一さん。
 とりわけ、スライドによる「柳川掘割の復活」の報告に参加者は感動した(後日の話であるが、広松伝さんの「柳川掘割の復活」は、アニメ映画監督の宮崎駿・高畑勲両氏によって「柳川掘割物語」DVD・ジブリ学術ライブラリーになっている)。
 「政策研究の波」が起きていることを内外にアピールするために、新聞記者の方々に取材してもらう配慮もした。「自治体の政策研究」は新聞記事になり雑誌の特集にもなって伝播した。

4 学会設立の動議
 開催意図の二つ目は、全国各地から集まってきた人々に「自治体学会の設立可能性」を提起することであった。
 職員の研究だけでは自治体に「政策自立の潮流」をつくり出すのは難しい。職員と市民と研究者の「協働」が必要である。「実践と理論の出会いの場」が必要である。「政策研究交流会議」とは別に「自治体学の学会のようなもの」が必要であると考えた。
 「協働」の言葉はこのころから既に使用していたのである。
 そこで、二つの提案を動議形式で提出した。
 一つは「この交流会議を毎年全国持ち回りで開催しようではないか」。
 二つは「自治体学会を設立するために準備委員会を設置しようではないか」。
  (以下、個人名を記すことを了とされたい)
 東京江戸川区の田口正巳さんは江戸川区の自主研究活動のリーダーであった。
 田口さんに、「緊急動議的に『今日のこの交流会議は有益だから、二回、三回と続けるようにするのが良い』と提案すること」を依頼した。
 三鷹市の大島振作さんに、筆者と大島さんは大学時代からの知り合いで同じ寮にいたこともあるので、「貴方は職員組合の委員長をしていたので大勢の前で話すのに馴れているから、『この政策研究交流会議を自治体職員だけの会議にしないで、ここにいらっしゃる先生方にも入っていただいて、自治体学会というようなものをつくる、その準備会議をこの場で設立しようではないか』と発言してよ」と依頼した。
 前者の「継続開催の提案」は「全国持ち回りで開催する」ことを確認して次回は埼玉で開くことが決まった。
 後者の「学会設立の提案」は、三五二人の参会者全員が宿題として持ち帰り地域と職場で「学会設立の意義と可能性」の論議を起こし、その結論を次回埼玉会議に持ち寄ることを約定した。
 このような経緯で「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生するに至ったのである。
(この交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔84年11月10日号〕」と「地方自治通信〔85年2月号〕」に詳しく掲載されている)

5 埼玉会議の「前夜」
 埼玉の政策研究交流会議の場で「自治体学会設立の賛同」を得るにはどのような運び方をするのがよいか、それが次の課題であった。
 そのころ、自治体学会の設立発起人をめぐって、神奈川県庁内に(知事周辺との間で)意見の齟齬が起きていた。
 側近の方は「知事と高名な学者」が学会設立の発起人になるべきだ、であった。だが、自治体職員や学者はそれに不賛成であった。筆者も自治体に「自治体学の潮流」が起きるには「新鮮な胎動を予感させるもの」が必要だと考えていた。自治体学会は「高名な学者が呼び掛けて」設立するものではないと考えた。そのころ、次のようなことがあった。
  (当時の雰囲気を伝えるために会話調で再現する)
 所長から「本庁の総務部長室に行くように」と言われた。「学会設立準備会」の立ち上げを協議する「第二回埼玉会議」の直前であった。
 総務部長室に入ると、部長が顔を近付けてきて
 「森君、自治体学会だけどね──」と言った。
 「何を言いたいのか」はすぐ分かったので、「公務員が学会などと言っても簡単なことではないと思っております」と答えた。
 総務部長は目を覗き込むように顔を近付けて「そうだよな」と。
 それは、職員の人事権を握っている総務部長の顔であった。「勝手に派手なことはするなよ」「分かっているな」という眼光であった。自治体学会の旗揚げを抑える顔であった。
 部長室のドアを開いて廊下に出た時、「そんな脅しで自治体の政策自立の流れを止められてたまるか」、「あなたとは志が違うのだ」と呟いたことを想い起こす。決して「格好を付けて」述べているのではない。
 このころ小学生であった人々が自治体職員として活躍しているという時間の経過である。当時の緊張感を記しておきたいからである。
 いつの時代にも、現状維持的でない変革を試みれば、必ず「しっぺ返し、嫉妬と陰口、足ひっぱり」が伴うものである。「その覚悟が必要である」と言っておきたいから述べているのである。
 「埼玉会議に森を出張させない」と「知事側近の人」が言っている、というのも耳に入ってきた。そこで、埼玉会議の前夜、東京都内の大きなホテルのロビーで、多摩地域の研究会の人々と綿密に進行を打ち合わせた。
 協議しているどの顔にも「時代の波」を引き起こそうとする輝きが漲(みなぎ)っていた。

6 設立準備委員会の発足
 一九八五年一〇月一七日と一八日、浦和で開催した第二回政策研究交流会議は前回にも増して盛会であった。畑知事は歓迎挨拶で、にこやかに「自治体学会設立への期待」を語った。
 第一日目の日程が終わった後、別室で「自治体学会設立についての協議の場」を設けた。「代表委員に田村さんと塩見さんを選び、この場にいる七五人の全員が設立準備委員になる」「設立事務局は当分の間、神奈川県自治総合研究センター研究部が担当する」ことを決めた。
 その協議の場で目黒区職員の桑原美知子さんが「自治体学会設立への期待」を「私は今日のこのために来ているのです」と「喜びが匂い立つかのように」瞳を輝かして語ったのが印象的であった。
 協議の進行役を務めた筆者が翌日の全体会議に報告した。万雷の拍手で賛同された。
 翌一九日の朝日新聞は全国版(二面)に「自治体職員が学会設立準備会を結成」と三段見出しで報道した。記事を書いたのは第一回交流会議から取材を続けていた朝日新聞地域問題総合取材班の寺田記者であった。
 こうして、全国の自治体職員に鮮烈なイメージで「学会設立のメッセージ」が届いたのである。
(埼玉会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔85年11月9日号〕」と「地方自治通信〔86年2月号〕」に掲載されている)

7 「全国行脚」
 次の問題は「自治体学とは何か」である。
 「政策研究交流会議」はそれなりに理解できるが「自治体学の学会」は「よく分からない」というのが当時の多くの疑問であった。
 そこで、神奈川県自治総合研究センター研究部は「自治体学とは何か」の試論づくりに専念し「自治体学に関する研究」(B4判 一四一ページ)をまとめた。
 八五年の真夏、研究部員はこの「冊子」を携え、分担して全国各地に学会設立を呼び掛ける「全国行脚」に出かけた。それは第一回交流会議開催事務局の責務を果たすためである。
 「熱い期待」に迎えられた。「冷ややかな反応」もあった。
 全国行脚によって五〇〇人を超える人々が自治体学会加入の意思を表明した。

8 神戸・自治体学フォーラム
 関東だけの動きでは全国展開にならない。全国的な「自治体学会設立の機運」をつくり出さなくてはならない。直ちに「日本列島縦断・自治体学連続フォーラム」のイメージが浮かび上がった。
  (以下、具体叙述のために個人名を出すことを了とされたい)。
 関西で「自治体学・フォーラム」を開催しようと考えた。
 研究部主幹の森田徳さんと二人で大阪に出かけた(森田さんは現在横浜市中区海岸通りで行政書士の事務所を開業している)。
 自治体関係の方々に大阪東急ホテルに集まっていただいた。だが、顔を見合わせて「大阪府庁や大阪市がどう思うか」「自治労がどう言うだろうか」の発言ばかりであった。「フォーラムを開催しよう」との決断発言が出てこない。
 やむを得ず、翌日、神戸市役所収入役の安好匠さんに相談した。「神戸市が表面に出ると兵庫県が後ろに下がるので」背後から応援するとの確約を得た。
 そこで、第一回政策研究交流会議の報告者であった「21世紀ひょうご創造協会」の福田丞志さんに相談して、同行していただき兵庫県企画部に「自治体学フォーラム開催」の協力を依頼した。
 こうして、一九八六年二月一二日、「神戸自治体学フォーラム」が開催できた。会場は兵庫県農業会館。主催は「関西活性化研究会・21世紀ひょうご創造協会・神戸都市問題研究所・滋賀市民と自治研究センターと自治体学会設立準備委員会」であった。
 北海道から沖縄までの二五三人が参集した。会場発言は熱気に満ち確かな手応えがあった。
 この「神戸フォーラム」の詳細は「地方自治職員研修」八六年二月号に特集されている。その会場内で全国準備委員会を開催した。

会場内で開いた準備委員会の論点
名称・「自治体学会」よりも「まちづくり学会」または「自治体政策学会」ではどうか。
会費・年三〇〇〇円では財政独立がむずかしい。考え直すべきだ。
組織・既存の組織や団体を統合するのではなくて、グループや団体の活動をつなぐ組織を目指そう。
事業・事務局が事業を請け負うのではなくて、会員の地域活動が基本である。
活動・準備委員が核になって各地で「自治体学フォーラム」を開催しよう。

9 東京自治体学フォーラム
 一九八六年四月一九日、東京・府中市自治会館ホールで「東京自治体学フォーラム」が開催された。参加者は三一五人、市民と学者の参加が際立って多かった。
 このフォーラムで「自治体学会のイメージ」が見えてきた。すなわち、市民・学者・自治体職員の三者が一体となって地域課題を解明する「実践と理論の自治体学」のイメージが論議の中に現出していた。
 戦後、自治体革新のメッカであり続けた多摩だからである(この概要は新三多摩新聞、四月二六日号に報じられている)。
 八六年五月一〇日、仙台で「東北自治体学フォーラム」が、気仙沼で「まちづくり自治体学会フォーラム」が開かれた。沖縄でも、九州でも、中国でも、四国でも、北海道にも自治体学フォーラムが開催された。
 日本列島に「自治体学会の設立」が「自治のうねり」を起こし始めたのである。

10 「自治労」と「全国自治体問題研究所」
 「自治労」の「自治研究全国集会」には歴史がある。
 自治体学会の主要会員は自治体職員であるから、自治労から自治体学会設立に異論が出ると現場で混乱が生じる。
 神奈川県自治総合研究センター研究部は学会設立事務局であるから、研究部長は事務局長のようなものである。自治労本部に出掛けた。
 小倉政策局長にお会いして「自治体学会が目指す方向」を話した。「分かりました。設立発起人として丸山委員長が参加します」になった。
 「全国自治体問題研究所」も歴史と実績のある組織である。
 一九八五年九月二七日の午後、代表をなさっていた宮本憲一先生に鎌倉でお会いして設立発起人になっていただいた。

11 代表運営委員
 設立発起人代表を三人の複数制にすることは合意されていたのだが、三人の名前が決まるまでは難儀な経過であった。
 一九八五年一〇月一一日の夕刻、横浜駅ビル内の東急ホテル会議室で「埼玉会議に向けての打ち合わせ」の会合を開いた。その会合で「埼玉で学会設立の協議の時、自治体職員の経験もあり横浜市の都市デザインで全国的に著名な田村明さんを代表委員として提案してはどうか」と発言した。
 ところが、所長は知事側近の意向を汲んでか沈黙したままである。賛成と言わない。その場にいた田村さんも鳴海正泰さんも沈黙であった(注2)。
 重苦しい空気のままにその会合をオワリにした。
 それまで進めてきた「段取り」は崩れそうであった。その収拾劇のことはここに述べないが曲折の難儀であった。
 代表委員が決まるまでには松下圭一さんにずいぶん何度もお世話になった。
 自治体学会は自治体職員・市民・研究者の連携である。多摩の研究会の方々の努力もあって、自治体職員の代表として田村明さん、市民代表として関西地域から日経新聞の塩見譲さん、学者・研究者代表として西尾勝さんがご承諾なさって決まった。
 塩見さんに承諾をいただいたのは、松下さんも助言者として参加した「首都圏自主研究グループ」の熱海合宿の翌日であった。「地方自治通信」の大矢野修さんと三人でMOA熱海美術館の庭園で夕陽を眺めながらの語らいであった。

12 自治体学会の誕生
 一九八六年五月二三日、二年がかりで準備を進めてきた「自治体学会」が誕生した。
 近代日本の夜明けを象徴する横浜開港記念会館で「発起人会議」と「設立総会」を開いた。発起人会議には一三五人、設立総会には六二〇人が出席した。
 出席者の顔触れは、自治体職員、市民、学者、シンクタンク職員、コンサルタント、ジャーナリスト、団体役員、自治体首長など、およそ学会の設立総会とは思えないほどに多彩な顔触れであった。いずれの顔も二年がかりで進めてきた自治体学会の設立を喜びあう和やかさに満ちていた。
 会場のあちこちで初対面の人を相互に紹介し合い、テレビのライトに照らされた会場正面には「自治の歴史に新しい一ページを」と書かれた看板が掲げられていた。
 前例のない新しい学会の設立総会にふさわしく、会場は活気に満ち華やかで緊張した空気に包まれていた。満席の参会者はこの開港メモリアルホールでこれまでにも数々の歴史的な集会が開かれたことを思い起こしていたであろう。
 議長に佐藤驍氏(北海道庁)を選出し、前日の発起人会議からの提出議案が万雷の拍手で賛同されて「自治体学会」が誕生した。
 総会に報告された会員は一二四三人(発起人七八二人、既入会申込者四六一人)を数え、規約に基づき選出された運営委員は四六人(自治体職員二九人、学者・研究者・市民一七人)。代表運営委員に田村明、塩見譲、西尾勝の三氏を選出した。多数の人が発起人になって自治体学会を設立したのである(注3、4)。
 しかしながら、「自治体学会を設立する意味は何か」「具体的に何をするのか」、自治体学会の「役割は何か」「課題は何か」と問うならば、その答えは「各人各様で一義的に定まったものはない」というのが設立当時の実情であった。
 自治体学会は多数の方々の「思念と行動」によって設立されたのである。以上の「設立経緯」は、当時、神奈川県自治総合研究センター・研究部長であった筆者が関与したかぎりでの経緯である。

13 氷川丸船上の設立記念パーティ
 開港記念会館での「設立総会」は大成功であった。
 夕刻、横浜港の氷川丸船上でお祝いの「ビールパーティ」を開いた。
 折しも、金色の満月が東天に昇り、西空には夕陽が朱色に輝いていた。
 何とも言えない美しさであった。
 多くの方々が力を合わせたから自治体学会が設立できたのである。
 全国各地で自主的研究活動が広がっていたからでもある。そしてまた「自治体は市民自治の機構である」との「自治体理論」が浸透していたからである。
 朝日新聞八六年六月五日の「天声人語」は、自治体職員が中心になって「市民的視野に立ち、地域に根ざした研究・交流を目指す学会」を設立したと評して紹介した。
 ここに、少しく個人的な感慨を述べさせていただくならば、筆者が自治体学会設立への覚悟を定めたのは、八四年の真夏の夕刻、渋谷駅の近くで松下圭一さん鳴海正泰さんと三人で「自治体学会の可能性」を語り合った時であった。
 渋谷でのこの語らいが実質的な「自治体学会のスタート」であったと思っている。その後もお二人には折に触れ相談し助言をいただいた。
 また、「壁」にひるまなかったのは、法律専門雑誌「ジュリスト」にだいぶ以前に書いた論文が、八二年に県議会本会議で自民党議員に批判されて、八三年に「本庁課長見習職の総括企画主幹」から「自治総合研究センター研究部長」へ異動になったことが「内なるバネ」になったのだと思っている。

14 第一回自治体学会──徳島
 自治体学会の運営委員である徳島市の笹山哲氏から「何か意味のある集会」を徳島で開きたい。ついては「第一回の名前がほしい」と相談があった。
 そこで、開港記念会館での「自治体学会」は「設立大会にしよう」ということになった。こうして、実質は二回目であるのだが、一九八七年に徳島で「第一回自治体学会」と「第四回政策研究交流会議」を「徳島自治体会議」の名称で開催した。その詳細は『地域の自立をめざして──徳島自治体会議』(公人社)に記録されている(政策研究交流会議は第三回を兵庫で開催したので徳島は第四回である)。

15 学会設立の背景
 自治体職員が学会を設立しようと考えるに至った背景は何であったか。
 第一は、当時の市民活動の広がりである。
 市民活動が「省庁政策の下請け機関から地域の政府への転換」を自治体に迫っていた。全国画一の省庁政策では住んで誇りに思える地域をつくることはできない。自前の自治体政策が必要である。市民活動の広がりが「自治体学会」を設立する動きへと発展させたと言える。市民活動が自治体職員に政策開発の必要性を自覚させたとも言える。
 第二は、自治体職員の水準が上昇したからである。
 市民活動の成熟に刺激されて、自身を「公共事務専従職員」と位置付け、「自治体職員」としての職務を自覚する職員が育ってきた。「自主研究」から「政策研究」への展開が「学会設立」への拍車になったのである。
 「政策研究」とは、一見ありふれた「言葉」である。しかしそれまでは、自治体には「政策研究」という言葉の用法はなかった。「政策」という言葉も自治体では日常用語ではなかった。
 「政策」は中央省庁が策定するものだ、との考え方に馴らされていたのである。しかしながら、このころには、自治体職員が月刊誌に論文を発表し著作を出版するようになっていたのである。例えば、大相撲国技館の建設計画を変更させ雨水利用システムを導入させた東京墨田区職員のソーラー研究会は、NHKブックスから研究成果を出版していた。
 多摩の研究会は『職員参加』(学陽書房)『自治体の先端行政』(学陽書房)『政策法務と自治体』(日本評論社)を出版した。
 とりわけ『政策法務と自治体』は専門学者の水準をも超えた著作であると評された。
 神奈川県の職員研究グループは『神奈川の韓国・朝鮮人』(公人社)を出版して、朝日新聞の論壇時評で「本年度の最大の成果の一つ」と評価された。
 その他、自主研究の成果が施策に活用された例は数多くある。自主研究によって視界を拓き交流し自治体職員としての自身を成長させた。その自信が「学会設立」への意欲と気運を高めたのである。自治体職員の政策研究が明らかなる転回軸であった。
 第三は、自治体理論の広がりと浸透である。
 一九六〇年の安保闘争の後、「地域民主主義論」で、市民の自治機構として「自治体が発見」され「自治体改革理論」が提示された。
 以来、「市民参加の理論」「シビルミニマムの理論」「市民自治の憲法理論」と続いた。その自治体理論を市民と自治体職員は繰り返し読んだのである。そして自治体理論の視座で自身の職務を眺めて考えたのである。
 先に述べたように、自治体職員が自治体学会の設立を提案したのは、八四年一〇月一八日、横浜市内の神奈川県民ホール六階会議室で開催した第一回自治体政策研究交流会議の席上である。参会者の基本認識は自治体理論であった。自治体が政策自立するには自治体理論が不可欠であるとの認識が参会者共通の認識であった。

16 なぜ、自治体職員が学会設立を考えたか
 「自治体の政策自立」には「自治体職員の政策能力」が不可欠である。自治体職員が政策能力を高めるには「前例に従って何事も無難に」の行政文化を超えなくてはならない。行政文化を超えるとは、一歩前に出て「才覚と勇気」で職務を実践し「地域課題を解決する」ことである。だが、職務の実践だけでは政策能力は身に付かない。歴史の一回性である「実践体験の知見」を「普遍認識」にまで高めなければならない。そうでなければ、前例なき公共課題を解決する政策形成力は身に付かない。職務の実践を理論化しなければならない。
 「実践体験の知見」を「普遍認識」に高めるには「文章に書く」ことである。「文章に書く」とは「概念で実践を再構成する」ことである。その「再構成」が「普遍認識力」を高め「実践的思考力」を自身のものにするのである。
 「政策形成力と政策実行力」には実践的思考力が不可欠である。
 「実践を再構成する」には理論が重要になる。そこで「実務と理論の出会いの場」として「学会設立」を考えたのであった。
 しかしながら、「実務と理論の出会い」は「自身の内において」である。学者の会員がいることが「実務と理論の出会い」ではない。なぜなら、「既存の学問」と「自治体の政策研究」とは「思考の方向」が異なる。
 例えば、「行政学の政策研究」は政策と政策過程を事後的・実証的・分析的に研究する学である。「自治体の政策研究」は、現実を未来に向かって課題設定し解決方策を考え出す営為である。すなわち、行政学の政策研究は事後的な「政策の実証研究」であるが、自治体の政策研究は「政策の研究開発」であって、未来構想的で規範的創造的な政策開発の営みである。自治体職員の政策研究は実効性と未来予測性に意味がある。
 自治体学会は「実践的思考力」を「自身のものにする場」であるのだから、そのように運営されなくてはならない。

17 自治体学理論と自治体学会
 自治体学会は設立され二〇年を超える歳月を経過した。
 歴代代表委員、運営委員の方々、事務局を担当してくださった自治体の皆様方のお力である。学会設立のころには小学生であった人も自治体学会に参加し活動している。「市民自治」「政府信託」「基本条例」などの自治体学理論の概念・用語は普(あまね)く広がった。市民自治の制度整備も進んでいる。画期的な進展である。
 しかしながら、状況を切り拓く批判的思考力は保持され継続しているであろうか。例えば、合併(二〇〇五年前後)をめぐっての住民投票を「開票せずに焼き棄てる」の事態が生じた。その時「何ということを」の怒りも似た心情が自治体学会員の「心の内に」生じたか、それとも「それもあり」と他人事のように思うだけであったのか。
 それが問題である。平素、口にする「自治」「参加」には何の意味もないのである。また例えば、隣国の主席と大統領が「歴史の事実」を基にして「最大の外交問題」だと言った時、靖国参拝は「心の問題」であると加害国の首相が言った。その時も、「自身の内に」いかなる思念が生じたのか。
 あるいはまた、「戦争協力法」であるのを「国民保護法」と言い換え、市町村に荒唐無稽な「住民避難計画」を押し付けていることを、自治体学会員の市民自治理論はいかに納得するのであろうか。「住民避難計画」の作成担当の自治体学会員はいかに考えているのであろうか。
 日常の職場において、「間違っていること」を「間違っている」と発言する。その思念が「自身の内に」生じないのは「批判的思考力」が衰弱しているからである。一歩前に出て「壁」を越えた体験がないから「思考の座標軸」が定まらないのである。つまりは、理論視座が欠落しているのである。
 自治体学会の盛会ぶりは真に喜ばしいことであるのか。喜ばしいことであってほしいと切実に思う。
 北海道では、九五年に北海道自治体学会を設立し現在も意欲的に活動を展開している。同じく九五年に開講した北海道自治土曜講座も毎年開講し、ブックレットは一一五冊を超え「公人の友社」から刊行頒布されている。
 (本稿は「新自治体学入門」に収録されている。第十章)

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