■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
官から民へ - なぜ賛成するのか
(カテゴリー: 市民自治の意味
「官」から「民」へ ― なぜ賛成するのか  

「官から民へ」の「小泉政治のスロ―ガン」を多くの人々が支持した。なぜであろうか。
「民間でやれることは民間で」の言い方で「郵政民営化」が強行された。
人々は「民営化」に賛同し反対しなかった。
「民営化」に、「サービス向上」「効率化」「無駄を省く」「経費節減」のイメージを重ねるからであろう。重ねるのは「行政不信」が人々の心に堆積しているからである。
民営化は「不採算部門・赤字事業」の「切捨て廃止」に至るは必定。ツケは国民に廻ってくる。さりとて、今の行政にやらせて置くわけにもいかない。
「小泉政治のスローガン」に容易く乗せられたのは「非能率の行政」が底流にあるからである。しかし同時に、人々の「思考力が衰弱」して「状況追随思考」に陥っているから「官から民への欺瞞意図」が見抜けないのである。

国政だけでない。自治体にも「指定管理者制度」による「公共施設の民間委託」が広がっている。図書館、文化会館、観光施設などの民間委託である。施設だけではない。「公共が担うべき」と考えてきた福祉部門にも民間委託が拡大している。「経費節減」と「サービス低下」の委託である。だが住民は「民間委託」に反対しない。なぜであろうか。「公務員よりも民間が良い」と思うからである。
「出勤して仕事をしているフリをしていれば退職金も年金も出る」「無難に大過なくの消極態度の公務員」「規則と前例の責任回避」「どちらを向いて仕事をしているのか」「親方日の丸の無駄遣い」「公務員労組は自分福祉の既得権意識だけ」。「行政不信」が今では「公務員行政の見限り」にまで至っているからであろう。
 
ところで、民営化反対の「論理的で説得力のある反論」は見当たらない。労働組合はもとより政治・行政の学者からも説得力ある反論は出ていない。 
例えば、「何でも彼でも民営化にすれば良いというものではない」「民営化に適する業務もあるだろう。だが公共が担うべきものもあるのだ」との言い方がなされる。これは何も語っていないのと同じである。反論になっていない。単純な形式論理である。
「民営化はサービス低下の低賃金政策だ」と反論しても「公務員行政の非能率」は周知で「行政不信が広がっている」から説得力がまるでない。

 東京三鷹市の「公設民営の保育所」は評判も良く、他の保育所の父母からは、吾が子を預けている保育所も「民間委託にして貰いたい」と要請されている。 
他方、横浜市では父母が署名を集めて「民間委託の計画を中止して直営を続けてもらいたい」との要望書を市長に手渡している光景が、本年八月、テレビで放映された。この違いは何を意味しているのか。この違いを解明できなければ「説得力ある反論」は出せないであろう。主体変革を伴う実践論理で考察しなければ解答は見出せない。

「民営化」の目的は「経費節減」で、「効率化」とは「不採算部分の斬捨て」であるのは明白である。明白であるにも拘わらず「官から民へ」のスローガンに惑わされるのは、多くの人々が「公務員行政を見限っている」からである。
「行政劣化」の実態を認識して「行政文化の自己革新」を実践しなければ「官から民への政治スローガン」に反論する説得力ある論理は出せないであろう。
例えば、自治基本条例の制定を「代表権限」を「信託された首長と議会」で制定できると考える人々には「民営化反対の説得力ある反論」は出せないであろう。
行政職員と市民との間に「信頼・協働」が形成された地域には「民営化の欺瞞性」を見抜いて阻止する地域自治力が育っている。

                            
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松下圭一著「自治体再構築」を読む
(カテゴリー: 研究ノート・書評
  松下圭一著「自治体再構築」を読む  

自治体理論
本書は四十五年間にわたって自治体理論を創り続けている著者の最新の著作である。「自治体改革」とは六十年代に著者が造語した言葉である。そのころは、自治体を国家政策の地方実行団体とみなして「自治体闘争」と言っていた。これに対し、自治体は「市民の自治機構」であるから自治体を改革して「国家統治を市民自治に」「中央集権を地方分権に」「行政支配を市民参加に」転換するのだと提唱した。世に「自治体が発見された」と言われた。自治体理論の創始である。
 以来、自治体理論は現代の理論となって普く広がった。自治体学会に参集する人々も年々増加している。 
 その著者が、自治体が直面している「分権改革」と「財源緊迫」という厳しい状況を打開するには「自治体再構築」が必要であるとして、北海道地方自治土曜講座(三回)と吹田市と多治見市で行った計五回の講演をまとめたのが本書である。手にとって読んでみたいと思うのは当然ではないか。
本書を読めば、「自治体再構築の緊急課題は何か」「解決方策は何であるのか」が理解できる。 

思考力 ― 道具は言葉
本書の書き出しはこうである。「都市型社会の原点に立ち返って市民の位置づけから始めたい」と。
次いで「協働」という言葉の流行を「政府信託理論」からみて間違いだと述べる。

自治体職員は自治の原点に立ち返り考えなくてはなるまい。なぜ、行政文書に「協働」が氾濫するのかを。自治体職員に必要なのは思考力である。思考するには道具が必要である。道具とは概念・言葉・用語である。だから道具箱の中身が問題である。使える道具を収納しているのか。旧来の観念で蜘蛛の巣を張っているのではあるまいか。さればこそ、「市民」とは何か、「政府信託理論」とは何かである。 
 
松下教授の著作を難解だと言う人がいる。逆にまた「松下さんの本はどれも分かりやすいですなあ」と言う人もいる。新刊が出るたびに読書会を続けている関西の市民グループの人たちである。この人たちには松下用語は市民自治の言葉だから「ピッタリの納得」になる。国家統治の観念で自分を縛っている人達は「市民自治」「政府信託」はピッタリとは分からない。だが、難解だと言う人も「講演は具体的で明快で実に分かりやすい」と誰しも言う。

本書は講演形式で叙述されている。思考の道具箱に「市民」「自治」「信託」などの「基礎概念」を収納するチャンスである。基礎概念を明晰に収納すれば前例なき課題も考えることができる。

 読書研究会
1995年に札幌で「政策型思考と政治(東大出版会)」の読書研究会を始めた。名称を「政策型思考研究会」とした。最初は七十名を超える参加者であった。二年九ヶ月で最終章まで完読した。そのときの話である。
 憲法は「国民主権」と定めている。だが政府や官僚は「国家主権」と言う。学者も言う。国民主権と国家主権の関係を「どう考えたらよいのか」が論議になった。岩波新書の「市民自治の憲法理論」に「そのことが明快に述べられている」との発言があって、研究会メンバーは「市民自治の憲法理論」を手に入れたいと思った。ところが、完売・絶版でどこの書店にもない。古書店にもなかった。メンバーの一人は東京出張の際に神田の古書街で見つけて3,600円で買ってきた。刊行時の値段は230円の岩波新書である。入手困難と言えば、筑摩学芸文庫「戦後政治の歴史と思想」も完売で書店にない。この文庫本には松下教授の主要論文12本が著者の解説付で収録されている。例えばそこには「〈市民〉的人間型の現代的可能性」の論文(1966年)も収録されている。「市民」の言葉は今でこそ一般化しているけれども、1960年代のころは「階級」全盛であったのだ。「市民」は理解されず忌避されていたのである。
政策思考型研究会では、「市民自治の政府信託論」と「国家統治の国家法人論」の違いを討論によって理解を深めた。松下教授も札幌来訪の際に研究会に参加された。研究成果を論集として刊行した編集責任者は北海道庁職員の渡辺克生氏である。実費で頒布している。

テキストとして最適
著者は、「なぜ〈市民〉という問題が出てきたのか」と設問し解答している(9頁)。読者も自分の言葉で解答を考えてみることだ。書かれている文章をそのまま反復するのでは理解したことにならない。札幌の読書研究会はそのルールで進めた。なぜなら、国家統治の観念は人々の心理と論理に強固に染み付いているのである。だから、染み付いている国家統治の観念を打破するには、自分自身の言語論理を自己の内部に構築しなければならない。そうでないと自分も気づかないときに「国家・統治」が顔を出す。「国家統治」「市民自治」を道具箱に収納して何時でも使えるようにするには討論形式の読書会が有益である。本書は読書研究会のテキストとしても最適である。
著者は「都市型社会が市民成熟の条件を醸成する」と述べる。しからば、その「都市型社会」とは何か。「政策型思考と政治」を読めば「人類の第二の大転換としての都市型社会」の詳細な説明が得られる。
「市民概念」は、前述の筑摩文庫収録の「市民の現代的可能性」と松下圭一編「市民参加(東洋経済新報社)」を読めば理論理解が深まる。
本書67頁では「市民」とは「規範人間型」であるから、「市民」という規範人間型への自覚をもつ普通の私たちが「市民」なのだ、と説明する。自治体理論は現状を未来に向かって変革する理論であるから「規範概念」が重要になる。
「規範概念」とは、未来を目的として設定し現在を手段とする「政策型思考の動態的実践概念」である。事後的静止的な解説概念ではない。だから現状変革の意識が微弱であれば規範概念の「ピッタリ納得」は困難である。「難解だ」と「分かりやすいですなあ」との分岐点はここである。「行政の文化化」も規範概念であるから、行政の現状況に対する変革意識が薄弱なむきには理解不能である。「普通の人」とは「特権・身分をもつ特別な人ではない」という意味である。

 「新版・社会教育の終焉」も必読
都市型社会ではシビルミニマムの〈管理〉が行政の課題になる。この行政を組織・制御するのが市民の役割であるから、市民は多様な市民活動を行って「市民」として成熟する。そしてNPOも広がる。ところが、NPOを行政が所管・育成するという考え方がすぐに出てくる(90頁)。言葉では「支援」と言うが「統治行政」である。「市民活動」の理論認識が行政職員には未熟だからである。

1986年刊行の「社会教育の終焉(筑摩書房)」は当時の社会教育関係者には一大衝撃であった。そこで密かに「読んではならない本」として口伝された。NPOが広がった現在、市民活動にも新しい視座が必要である。「新版・社会教育の終焉」(公人の友社・2003年)は本書と同じく必読の書物である。
        
「自治体再構築」公人の友社刊・2800円
「新版・社会教育の終焉」公人の友社刊・2625円
 

合併騒動とまちづくり
(カテゴリー: 市町村合併 道州制
合併騒動とまちづくり     
 合併騒動
今回の合併騒動は地方分権論議の終盤段階で突然のように出てきた。
地方分権とは「自分の地域のことは自分達で解決する」ということである。
ところが今は、地方分権はどこかにすっ飛んで、合併騒動で市町村は大揺れである。合併はしたくない。だが、交付税を削られるのではやっていけない。合併は避けられないのか、と市町村長は頭を抱えている。
 合併をすれば町の名は永久になくなる。住んでいることを誇りに思うまちづくりには町への愛着心が不可欠である。町の名は大切である。安心して暮らせて安全で美しいまちをつくるには人々の連帯感が基本である。町の名が消えることは重大なことである。
 合併とは何か
合併とは、自分の地域のことを自分達で解決する「仕組み」つまり「自治制度」を失うことである。「地域の自治権」を捨てることである。合併した地域の現状を眺めてみれば、その無念さは明らかである。
地方分権は工業文明国に共通する世界の潮流なのだ。なぜ潮流なのか。科学技術によって前例のない公共課題が噴出するからである。それらは住民と行政が地域で協働しなければ解決できない課題である。だから、工業文明国はどこも地方分権である。ところが、長い間、お役所任せの行政であった。だから、住民と行政が協働する制度や手続きは出来ていない。信頼関係もない。これからは住民も行政職員も考え方を改めて、安心して暮らせる地域をつくらなくてはならない。「さあーこれから」というときである。
その矢先に「合併をせよ」である。
 合併すれば、周辺地域は間違いなく寂れていく。若い役場職員も中心地に住所を移すことになる。商圏も中心に移る。そして、これまで役場から発注されていた仕事や商品の買い上げも無くなり公共経済の地域還流は失われる。これまで、小さい町村も都市計画をつくり中心市街地を形成し、美しく安心して暮らせるふるさとづくりをやってきた。先進地域を視察し交流し都市と農村との提携も工夫して、わが町をつくる努力を続けてきた。
しかるに、人口の少ない町村は自治権をとりあげると脅され合併を強要されているのである。一体、誰のための合併であるのか。政・官・業の利権癒着が原因で生じた膨大な財政赤字のツケ廻しではないか。
 合併すれば何とかなるのか
 700兆円の借財で国際信用はガタ落ち。そこで「公共事業費」と「社会保障費」と「地方交付税」を削減しようとしているが、利権勢力の抵抗で莫大な公共事業費は削れない。社会保障費は反対勢力が微弱だから弱者切捨てで進行中。地方交付税は3200の市町村を1000に合併させて減額する。これが今回の合併問題である。だから、合併してもしなくても、交付税の減額は不可避である。避けられないのは「合併」ではない。「地方交付税の削減」である。
合併をすれば何とかなるというような事態ではない。合併しようが、しまいが、行政財政の徹底的な改革は不可避である。行政財政の改革は合併した寄り合い所帯では難しい。合併したところは返って逆に物入りで経費増大になっている。住民との信頼関係も遠のくから行財政の改革は困難になる。ますますコスト意識なしの無責任行政になる。
合併特例法は「飴」ではない。「毒饅頭」である。交付税の10年保障といっても合併すれば町がなくなるのだ。特例債は借金である。今は借金などするときか。三万人でも市にしてやるというのは無定見な下劣さである。

 合併しても心配することはない、と言う
自治省職員が原案を書いて知事に「通知」してきた「合併促進要綱」には、合併しても「地域審議会をつくれば住民自治は大丈夫です」と書いてある。自治労の月刊・自治研は「近隣政府」を特集した。最近では地方制度調査会から「自治区」とか「自然村に戻って」という言い方も出てきている。
これらに共通するのは「まず合併ありき」である。そしてその果たす役割は合併への「露払い」である。住民自治が遠のくことへの不安に「こうすれば、心配することはないですよ」と「合併促進・容認の側」から、何の根拠も示さずに言うのである。これらの言動に惑わされてはならない。
合併で寄り合い世帯になった役所から委嘱・任命される「地域審議会」が機能するであろうか、そもそも、何を根拠にして「住民自治の心配はありませんよ」と言うのか。70年代に自治省が音頭をとった「コミュニティ行政」の実態はどうであったのか。そしてまた、「公共財政」も「規範的決定権限」も有さない「近隣政府」なるものに如何なる意味があると言うのか。
さらにまた、合併した元町村区域に「住民負担で自治区を自然村としてつくればよい」などと言う前に、まずは現在の市町村のままで、分権型社会の「自己決定・自己責任」の住民自治を構築することである。現状は長い間の統治行政で「行政請負と役場依存」が実態であるのだから。
合併の論議は時間をかけてである。この騒動の終わった後の話しである。
いま必要なことは徹底的な行政財政の自律的改革である。まずは、広域連携のシクミを多様に考案して実行する。教育委員会や公平委員会や農業委員会なども広域共同事務にして分担する。公共施設の管理と運営は委嘱し委託する。助役、収入役を置かないことにした町もある。これらの工夫と実行は県庁や省庁には問い合わさないことである。所詮は頼りにならないのだから。問い合わせをしても碌なことはない。
首長と議会が協議し住民と話し合って決めるのである。今回の合併騒動は、考えようだが、地域で自治を真剣に考えるチャンスである。首長と議会が住民の信頼を獲得するきっかけにもなる。
「合併する」とは「地域を投げ出す」ことなのだ。「合併しない」とは「ふるさとを守る覚悟」が有ってのことである。
市町村長や議員が真実にふるさとを愛しているか否かが問われているのである。試されているのである。

 少子高齢社会の自治制度
 急速な少子高齢社会への突入である。日本列島は少人口地域がさらに増えるであろう。だからこそ、人口の少ない地域が自律し活力をもつ自治制度にしなくてはならないのだ。目先の財政赤字のツケ廻しで自治制度をいじくって将来を誤ってはならない。自治権剥奪をちらつかせ合併を強要するのは間違いである。小規模自治体の切り捨ては時代逆行である。
日本列島は舵取り不在で経済は低迷し、次なる「失われた十年」になろうとしている。日本経済が活力を取り戻すのは、それぞれの地域が自律し知恵を働かせるときである。利権癒着した無責任な中央が地方にツケ廻しするやり方では経済も財政も立ち直らないであろう。
中央が一律に地方政府の規模や制度を定める旧来型思考をやめることである。中央がなすべきことは、省庁の構造的無駄と癒着腐敗と不効率を改めることである。それをなさずして、中央政府の財政赤字のツケ廻しで合併を強制するのは大間違いである。それに加担する人たちは日本列島の将来を誤らせる所業である。
小規模人口の町村と何十万人の規模の市とが同じ事務事業を担うというのは合理的でない。だから、将来に向けて制度の改革を考えなければならない。だがしかし、現在の合併騒動のなかでそれを持ち出すのは問題である。強要合併の露払いとなるではないか。現在の合併騒動が一段落をしてから論議するべきことである。なぜ、この時期に言い出したのか。政党がそれを言うからとの弁明は責任逃れの言辞である。
府県は明治以来の地方代官の役割がようやく終わるのである。これからの府県は、補完自治体として市町村の側に立って小規模町村が返上する事務事業を補完する仕組みを、一律でなく性急でなく、双方の協議によって地域実態に合わせて形成する。それが分権型社会の自治制度の整備である。
合併は行政区域の変更ではない。住民自治区域の変更なのだ。
文化ホールの文化化
(カテゴリー: 自治体の文化戦略
文化ホールの文化化

文化ホールへの批判
文化ホールに対して「ハコモノ批判」がある。建設することが目的であったのだとの批判である。財政担当からは、事業費・維持運営費、修理費など、毎年出ていく費用への批判がある。「使用料を値上げせよ」「自主事業を廃止せよ」「貸しホールにせよ」との注文である。
利用する側からは次のような批判がある。
 第一は利用時間。利用する側には早朝に午前の行事の準備をしたい場合がある。ところが、所定の時刻まではホール内に入れない。閉館時刻も同様で、たとえばアンコールで会場内が沸騰して感動の坩堝になっていても時間延長は難しい。弾力的運用の工夫がない。これでは、文化ホールの運営に批判が出るのは当然である。本庁の文化室はこれを「見て見ぬふり」をしてはならない。文化室は文化戦略推進室でなければならない。
 文化室がこれらを打開できなければ、文化室は総合的文化戦略の推進事務局であると言えない。文化室の才覚が求められている。
条例(規則)で、利用時間や利用料金は定められているのだから「無理だ」ではなくて「どうすれば出来るか」を考える。それが「行政の文化化」である。惰性的慣行の壁を知恵・才覚で変革するのが「行政文化の自己革新」である。

行政文化の革新
 文化戦略の重要な意味は「行政文化を革新する」ことにある。
 無難に大過無くの行政文化のままで、「地域文化の創造」とか「地域文化の振興」とか「文化行政の推進」などを口にするのはおこがましいのである。
 文化ホールを24時間利用出来る仕組みを考案する。そのシクミをつくることが「行政文化の革新」である。「他のホールもみんな同じだから」と、月一回・週一回の休館日を当然視してはならない。
水準の低い文化ホールとは、人事異動で交代する公務員が管理しているホールのことである。であるから「指定管理者制度」が急速に広がるのである。指定管理者制度が広がるのは経済効率だけが原因ではない。運営への批判でもある。管理運営を公募市民に委嘱する。あるいは専門技術を有する市民団体に委託する。委嘱や委託の費用は公務員何人分かの人件費で十分である。公務員給与は年功序列の給与体系であるから管理職一人分でも相当な額である。
 市民に委託した方が運営水準も高く経費も少額になる。前例踏襲の公務員は文化ホールの管理運営から撤退すべきであろう。運営管理の監査は公開の市民委員会で行う。
文化ホールがまちを輝かせる
(カテゴリー: 自治体の文化戦略
文化ホールがまちを輝かせる       
文化施設をつくる目的は何か 
 文化的なまちとは、住んでいたいと思い住んでいることが誇りに思えるまちである。文化施設がまちを文化的に変容する。文化施設は運営次第、運営は人次第である。
 全国各地で、美術館、博物館、資料館、図書館、文化会館などの文化施設が次々と建設された。焼け野原からの戦災復興、虱と栄養失調、食べるものもなかったのである。
生産経済・経済生産と息せきって働き、公害列島の高度経済成長で経済大国、そして「経済動物・働き中毒」と評されるに至ったのだから、人間らしい感性を豊かに開花させる文化施設を建設するのは必要で良いことである。
 文化施設をつくることは良いことであるのだが、問題が噴出した。
 生産と経済で働きずくめであったから遊ぶこと楽しむことの意味が分からない。楽しむ意味が分からないから文化施設の大切さが分からない。分からないで文化施設をつくるから問題が噴出する。
 例えば、“現職館長が公立美術館批判”との見出しの付いた新聞記事には、長い間、国立と公立の美術館の運営に携わってきたお二人の現職公立美術館長が、「美術館の劣悪な環境」を憂えて、単年度予算では数年先の企画展は出来ない、地元作家に限定せよと地元美術家を代弁する議員の圧力などの実態を述べ、美術館の財団法人化、人事の公募制、国・公立間の人事交流を提言していた。
美術館は「人間の心自然」を守るものであるのだから、道路建設や福祉事業とは異質である。だが、今の行政にはそこのところが分からない。分からないで文化施設を役所流でつくり役所流で管理するから問題が噴き出すと語っていた。問題は美術館だけではない。博物館も資料館も図書館も、そして文化会館にも問題が噴出している。
 
文化会館への批判 
 文化会館が全国各地に建設された。そして、次のような批判がなされた。
・行政は建物を建てることが目的で運営のことを考えない。
・明確な設置目的がなくて無難に安易につくるから多目的会館になって何に使っても中途半端な無目的会館になる。
・芸術芸能の空間は「大は小を兼ねない」ことが分からない。だから客席数の多い大ホールをつくる。
・舞台の役者の顔が見えない大ホールをつくるのは、成人式や表彰式などの行政行事に使うためで「文化」は付け足しである。
・実際に利用する人の声を聞かない。演劇・演奏についてはまったく何も知らない建築家に設計させてつくる。だから使い勝手の悪い欠陥ホールになる。
・生涯を規則と前例で何事も万事無難に大過なくやってきた行政職員が行政財産とし管理するから閑古鳥が鳴く建物になる。
・館長は行政内の序列で最後の花道として任用され、職員はローテーション人事で異動するから、規則で管理する建物になって地域に文化の種を蒔き育てる文化会館にならない。
 なぜ、このようなことになるのか。
 文化会館は何のためにつくるのかを真剣に考えないからである。
 行政の担当者は「そんなことはない、考えている」と反論するであろう。「文化会館を建てるのは地域の文化振興のためである」のだと。
 しかし、文化会館を建てるだけでは文化の振興にはならない。しかも、行政財産として管理したのでは文化会館は地域で呼吸せず地域に文化は育たない。 文化施設は運営が問題である。「文化施設は運営次第であり運営は人次第である」のだ。

行政文化の実情
 役所の担当者や首長は言うであろう。「運営も考えているのだ」と。
しかしながら、考えているとはとても思えないのが現状である。建物を建てた後で「館長は誰がよいか」を考えている。それが実情である。
文化施設は、基本設計の前に「誰がこの施設で、何をどうするのか」を見定めて、そのような構造の建物をつくるのが重要である。
だが実態は、「文化施設については何も分かっていない実直な公務員」が「さしたる見識もない首長の意向を伺い」つつ「発注を受けたいだけの建築屋」と「市民不在の場で密かに協議」して「莫大な費用で建物をつくっている」のが文化会館建設の実態である。
 だから、文化施設への批判が噴き出すのである。
 行政の担当者は「文化振興のために文化会館を建設する」と言う。しからば、その文化振興とは「何をどうすることであるのか」「文化会館がどのような働きをしていかなる文化がどのように変わるのか」との問いに、明確な答えは返ってこない。文化振興という言葉があって中身がない。「文化振興」とは中身のない言葉である。行政には内容空疎な言葉が多い。今の行政のままでは文化施設をつくっても地域に文化を根付かせ花咲かせることは出来ない。行政文化の自己革新が不可欠である。

文化振興とは何か
 「地域の文化を振興する」というのは「文化的なまちをつくる」こと。まちが文化的に変容することをめざすのが文化振興である。
しからば「まちが文化的に変容する」とはどのようなことか。
 二つである。
 一つは、そこに住んでいる人びとが変容する。
 住んでいる人びとの感性が豊かになりモノとカネだけでないライフスタイルに次第に変容する。たとえば、子どもを学習塾に通わせるだけが幸福な人生を約束するとは考えない大人がまちに増えることである。人びとの価値観とライフスタイルがそのまちの文化である。文化ホールをつくることによってまちの人びとの価値観とライフスタイルが次第に変容する。文化ホールのつくり方は文化のまちづくりそのものである。
 二つは、まちの風景、雰囲気、たたずまいである。
 まちが文化的に変容するとは、美しく潤いがあり、華やかで活気があり、落ち着いた風格のあるまちになっていく。まちがそのようになるのは、住んでいる人びとがまちへの愛情を心の内に育み育てるからである。
住んでいる人びとにその心がなければ、美しく潤いのあるまちにはならない。住んでいる人びとにまちへの誇りの感情がなければまちの風格は出てこない。文化ホールのつくり方によって人びとがまちへの愛着・一体感・愛情を育てる。文化ホールのつくり方と運営に関わることによってまちへの誇りの感情を心の内に育てる。
 つまりこれが、文化の振興のために文化施設をつくるということの意味であろう。しかしながら、行政の文化施設のつくり方は逆である。伝統的な役所流で計画し発注し行政財産として管理する。
 まちを文化的にする絶好の機会を、行政は投げ捨てているのである。

行政の論理
文化会館は公の施設である。公の施設は行政財産である。行政財産は行政の責任で建設し管理する。住民は行政が提供するサービスの受益者である。住民は公共政策の主体ではない。「行政が政策執行の主体で、住民はまちづくりの主体ではない」である。
これら「無難に大過なく」の「行政文化」では「住んでいることが誇りに思えるまち」にならない。まちづくり派の公務員も一皮むけば伝統的な公の施設論者である。統治支配の官庁理論が役所内には根強く浸透しているのである。
だが、公の施設論では文化ホールをつくっても役所が管理する建物になる。地域に文化の種を蒔き育て花を咲かせる文化ホールにはならない。市民文化の拠点にはならない。

首長の役割
 文化施設は運営次第、運営は人次第である。
運営する人を探し出すのも文化施設のソフトである。全国各地の文化施設で評判の良いところには人がいる。その人を見出しそこに配置したのは首長である。莫大巨額な文化宮殿をつくるよりも運営する人を見出すことである。
 全国の文化施設のなかでトップレベルの運営であると評されている館長は首長が三顧の礼を尽くして迎えたところである。文化施設の運営は首長次第であると言える。
(1)多額の費用で施設をつくるのだから、首長自身がすぐれた文化施設を視察する。すぐれた運営をしている人、文化施設をつくった首長に逢って意見を聴く。地域にどのような影響が出たかを自身の目で眺める。
(2)文化施設の建設を、まちづくりの絶好のチャンスと考えて、政策討論のシカケを工夫する。担当者は行政内の年功で選ばない。市民の成熟が文化のまちづくりであると考える。
(3)文化施設は人次第であるのだから構想の段階から運営する人を選ぶ。
「館長」は行政財産を管理する人のイメージがあるから、呼称は「支配人」がよい。建設前に選任された支配人であるならば、地域の実態と文化施設の関わりを考えるため、すぐれた施設を視察して最適の構造を考えるであろう。
(4)支配人は公務員からでなく人材を外に見出す。「文化」と「行政」は原理が異質である。伝統的な行政内の考え方では文化施設の運営は出来ない。
文化施設の運営は行政財産の管理ではない。
(5)首長は支配人に「この施設で何をなさっても結構です」「いかように運営してもよろしいのです」「一切お任せします」と言えば、素晴らしい文化施設になるであろう。会計制度、財務規則、人事制度、そして「公の施設論」などの「伝統的官庁理論」がせっかくの文化施設を「行政が管理する建物」にする。
「文化施設を例外扱いにする知恵」が必要である。それが「行政の文化化」である。
文化会館は、翌日の明け方まで、感動と興奮でさんざめく交歓の場でなければならない。他の公共施設と横並びで、規則どおりに管理するのでは、地域に文化の芽は育たない。
「市町村合併」の次は「道州制」か
(カテゴリー: 市町村合併 道州制
「市町村合併」の次は「道州制」か

今回の合併騒動は地方分権の勧告が一段落した直後に突然のように出てきた。
1999年8月6日、当時の自治省事務次官「通知」で全国の知事に、「10年間の交付税保障、合併特例債、人口3万人でも市に昇格」などの特例で「合併を促進せよ」と指示した。かくて、日本中は合併騒動で大揺れに揺れた。
「機関委任事務制度」を廃止して「中央集権から地方分権へ」と一歩踏み出し「さあこれから」というときに「合併せよ」であった。
しかしながら、地方分権とは「地域の公共課題は自己責任で解決する」である。全国画一の中央支配との決別が地方分権である。
地域それぞれが「住んでいることを誇りに思える地域社会」をつくる。地域が元気になる。

それが、経済が低迷し少子高齢社会に突入し過度に一極集中した日本列島を甦らせるのである。地域が才覚を働かせて魅力ある地域をつくることで日本列島に活力が甦るのである。
「効率」「節減」は必要。だが、「兵糧攻」の「地方切捨」では「日本列島の活力」は衰弱する。「安心して暮らせる福祉」「安全で美しい環境」「豊かな文化」「地域固有の経済力」は「地域の自治力」なくしては育たず創れない。

合併強要は日本列島の将来を展望しない時代逆行の愚行である。
中央の狙いは、「市町村合併」の次は「道州制」である。
交付税の配分先を減らすための「市町村合併」
その次は、47を10に統合する「府県合併」である。
狙いは総務省の全国管理の体制強化である。
その次に出てくるのは、教育基本法、共謀罪、新憲法の制定であろう。
想像力を働かせてそれを見定めなくてはなるまい。

市町村合併の論点
(カテゴリー: 市町村合併 道州制
市町村合併の論点 

1 合併すれば周辺地域は間違いもなく寂れていく。
合併して良かったことは何か。何が変り、何が変わらなかったか。
合併した自治体を眺めてみよ。
周辺地域は今どうなっているのか。役場・市役所の内部はどうか。職員に活気はあるか、行財政改革は始まっているか。それとも旧態以前であるのか。

2 特例債を当てにした合併ではなかったか。その借金の返済はどうするのか。合併を進めた首長や議員に借金返済の責任意識はあるのか。
将来のことは「吾関せず」ではないのか。そのツケは住民に返ってくるのだ。

3 住民の「わがまちへの意識と行動」は合併論議で高まったか。
 高まることを目指したか。公正な判断資料を作成提供したか。
 質疑討論の場を設けたか。合併協議会資料は合併前提の想定資料ではなかったか。

4 住民投票の署名運動が全国各地に起きた。これは何を意味していたのか。首長と議会への「不信の表明」ではなかったか。代表民主制度への「問い質し」ではなかったか。住民投票は代表民主制度が機能不全になったときに生じてくる。

5 アンケートで住民意思を確認するのは公正誠実なやり方と言えるか。
アンケートは「設問と回答」の作り方で「集計結果」を誘導できる。
合併は地域の重大事である。「アンケート」と「住民投票」をどう使い分ければよいのか。

6 「投票率が低いときには開票しない」とは「住民自治の否認」であろう。「住民意思」を「闇から闇に葬る」ことではないか。
「開票しない」は、吉野川河口堰をめぐって徳島市議会で発生した「異常例」である。「住民投票の不成立」を意図した「組織的ボイコット戦術」であった。

7 地域の甦りで最も重要なことは何か。故郷を愛し才覚を働かせる自立心であろう。地方切捨ての合併強要をはね返す意識と行動は如何にすれば生じてくるのか。



道州制の論点
(カテゴリー: 市町村合併 道州制
道州制の論点

1 第28次地方制度調査会答申
「ことば」でならば何とでも言うのである。
 地方制度調査会は、市町村合併のとき「地域自治組織」「NPO活動」などの言葉を答申に書き込んだ。それは「周辺地域が寂れる心配」を「言葉で取り除く」ためであった。合併を「促すための」言葉であった。
 今回の第28次答申にも「地方自治の充実強化」「近接性の原理」「住民のコンセンサス形成の仕組」なる言葉が書き込まれた。
 すると早速、学者がその言葉に飛びついて評価する。しかしながら、地方制度調査会は「政府の団体」である。「政治が決めた方向で答申するのが私達の役目です」と公言する団体である。言葉だけでなら誰でも何とでも言うのである。 
「3,200を1,000に」「47を10に」の意図を見抜かなくはなるまい。 

2 道州制になれば何が良くなるのか
 現在の道府県のどこが良くないのか。道州制になると何が良くなるのか。何のための道州制であるのか。具体的な説明がなくてはならない。抽象言葉での道州制論議は「眉唾」である。如何なる利害のための道州制であるのか。声高に唱えている顔ぶれを見れば瞭然であろう。
 道州制の構想論議が盛んになるのは悪いことではない。悪くはないのだが「尻馬に乗り」「委員委嘱を待望する」学者の論議が多くないか。
 道州制論議の前に市町村合併の総括論議がなくてはならぬ。合併した地域は今どうなっているのか。合併して「良かったのか」「良くなかったのか」「行政財政の改革は進んでいるのか」「役場内の活力はどうなっているのか」。それらの所見のない道州制論者は「眉唾」の便乗論者である。
 例えば、静岡市に組み込まれた「清水市」は今どうなっているのか。「住民自治」はどうなっているのか。

 状況追随思考の道州制論議は「禁物」であり「有害」である。

3 区域割りが先行する道州制論議
 道州制への移行形態は府県合併であろう。問題は道州制の内実である。
 区域割り先行論は「単なる府県合併」に終息する。全国同時に同一内容での道州制移行は誤りである。
 先行・試行を北海道に限ることはない。各地域で多様に構想し検討して「試行する」でよいではないか。
 そして何よりも、中央が画一に定めるのは「自治の充実」ではない。 道州制移行には手続きが重要である。
内政を道州に委譲し中央省庁は国際政策に重点を移す。それが本来の道州制であろう。
 「連邦制」ではないが「地方政府」でなくてはならない。

4 道州制を阻む集団
 「単なる府県合併」ではない「本物の道州制」を阻む抵抗集団は何者か。
 道州制の障碍集団を見究める論議が必要である。それがなければ「単なる府県合併」に終息するであろう。
 省庁官僚と族議員と経済界は「本物の道州制」を望んではいない。
「三位一体改革」に抵抗した組織と集団も「抵抗集団」である。  
「抵抗集団」を見究めない道州制論議は便乗者の論議である。 

魯迅記念館にて  人が歩けば後に道ができる
(カテゴリー: その他:感動風景
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後方の「魯迅先生の墓」の文字は毛沢東主席の揮毫 (2006年5月4日)浅野、皆越と魯迅公園にて