■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
自治体学会設立のころ
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
自治体学会設立のころ

設立動機
 設立動機は省庁政策に支配され従属していた状況から脱却するためであった。目指すは自治体の政策自立である。
七十年代の後半「自主研究グループ」が各地に叢生して全国交流集会が1984年5月、東京中野サンプラザで開催された。この「自主研究活動の波」が「政策研究の潮流」へと発展することを目指して、84年10月、横浜港を眼下に眺望する「神奈川県民ホール」で「自治体政策研究交流会議」を開催した。
 そして、その場で「自治体学会の設立動議」の提出を策した。(その詳細は末尾文献に)  

「自身の不利益をも覚悟して前に出る熱気」が七十年代にはあった。
 爾来三十年、自治体理論、政策形成力、市民自治制度は画期的とも言えるほどに進展した。だが現在は「主体鈍磨」と「状況追随思考」が蔓延しているように思える。
 例えば、「政策評価制度」が鳴り物入りで喧伝されると一斉に「制度導入」が始まる。しかし実効性のある制度はどこにもない。外部評価は言葉だけであった。熱気も冷却した。現在は「自治基本条例」の流行である。だが「首長の改選期までに」とか、「議会の反感を買わないための字句修正」である。これが多くの実態である。
 作文して首長が決裁して議会決議すれば、それで「自治基本条例の制定」である。「住民はそっちのけ」である。地域に「最高条例の規範意識」を醸成せんとする工夫はない。その手続きを編み出す情熱も才覚もない。「制度を作れば一歩前進だ」と考える。それでは「死屍累々」ではないか。
「今の自分のまま」「今の行政文化のまま」で「重要なことができる」と考える。それが問題なのだ。

 「かべ」と「覚悟」
 八十年代、「自治体の政策研究」は潮流となって広がった。だが、「財政が右下がり」になって政策研究の潮が退きだした。それならば、「行政内のシクミ」を研究開発すべきである。「政策評価」「パブリックコメント」「オンブズパーソン」「自治基本条例」はそれであるのだが、行政内には根強く統治の思想・手続・慣例・手順が堆積している。その「かべ」を崩さなければ「市民自治の制度」にならない。「今のままで」「自分自身は何も変わらないで」では「制度改革は死屍累々」になる。「意味ある何かを為そう」とすれば必ず「かべ」が出現する。その「かべ」を越えるには「覚悟」が必要である。
 自治体学会設立のときにも「かべ」が現れた。議会多数会派を気遣う県首脳部に呼び出され「目立つことはするなよ」と脅かされた。知事周辺からは「学会設立は知事が中心で」「設立準備会を立ち上げる埼玉会議に出張させない」との声も聞こえてきた。(これらのことも末尾の文献に記した)。

1984年の夏の夕刻、渋谷駅の近くで、松下圭一さん鳴海正泰さんと「自治体学会の可能性」を語りあった。そのとき「設立への覚悟」が定まった。
 自治体学会は二十年を経過した。感慨ぶかい。多くの方々のお力である。
北海道自治体学会と北海道土曜講座は本年で12年目に入る。私は本年四月から法学部二学年を対象に「自治体学」の講義を開始する。
                       (もり けい)

1「自治体の政策形成力(時事通信社) 六章:自治体学会、七章:自治体学」
 (自治体学会設立当時の資料と特集月刊誌は六章の本文に記した)。

2 設立時の「かべ」と「覚悟」は「北海道地方自治土曜講座ブックレット(公人の友社)」№50「自治体職員の政策水準」、№90「協働の思想と体制」、№99「自治体の政策形成力」に記した。

3 日本評論社「経済評論」臨時増刊(1986年9月号)「総集・いま草の根から自治体学の構築を」

4 岩波講座「自治体の構想」第四巻163頁に「自治体学会設立の背景」を記した。


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市町村合併と住民投票
(カテゴリー: 市民自治の意味
民主制度根幹の揺らぎ―市町村合併と住民投票
民主制度の根幹が揺らいでいる。
例えば、市町村の合併である。合併を「首長と議会で決めてよいのだ」が横行し、住民投票をしても開票しない、などの独断専横が広がっている。
ところが、学者も労組も政党も論壇もメディアも黙している。「主体鈍磨」と「状況追随思考」の蔓延である。

1. 市町村合併と住民投票
合併とは何か
合併とは「地域の自治権」「地域の自治制度」を失うことである。父祖伝来の町の名前がなくなり、役場から発注されていた財政支出がなくなり、公共経済の地域還流がなくなり、若い人は中心地に住所を移し、商圏も中心に移って商工業も衰退する。合併した周辺地域は間違いもなく寂れていく。
合併は地域社会の重大事であるのだ。首長と議会だけで決めてよいことではない。「住民の合意」が不可欠必要である。首長と議会の権限は「白紙委任」ではない。住民から四年任期で信頼委託された権限である。
なぜ、住民投票を避けるのか。住民投票を避けるのは「住民意思の表明」を恐れるからである。
「合併やむなし」と言明している首長と議員の言動を仔細に観察するならば、「自分自身のこと」を第一義に考えている、と思わざるを得ない。総務省の兵糧攻めに直面して「故郷を守り抜くの気概」はない。交付税削減という理不尽な「合併強要」を「乗り越える覚悟」はない。全国には「自立の方途」を決断した町村長は数多くいるのだ。なぜ、その町村長の才覚と覚悟を聞いて学ぼうとしないのか。「自立の方途」を決断した町村長の所見を聞かずに「合併やむなし」を言うのは「困難な役割」から逃げ出したいからである。それは「故郷を投げ出す所業」である。
北海道にも「隣町との合併を密かに約定し」「合併は住民判断になじまない」などと言い「住民投票」を狡猾に避けている町長がいる。「自治の首長」の名に値しない。
住民投票
「住民には合併判断は難しい」などと言うのは「住民蔑視」である。
首長が為すべき責務は主権者住民への公正な判断材料の提供である。だが、合併協議会で作成する「合併した場合・しない場合」の「想定資料」は、不確定の数字化である。「交付税総枠の削減も」「行財政改革の覚悟と展望も」「合併後の諸費用も」全て不確定である。不確定を数字化した「合併前提の架空資料」ではないか。そんなものでなく、自立を決断した町村が「住民と向かい合って定めた自立計画」を主権者住民が知るようにすることである。それをしないのは、困難な役割から逃亡したいからである。合併を意図している首長に共通していることは「地域の未来を語らなくなった」ことである。故郷を投げ出しているからである。職員も「自分のことが最優先」になっている。
 当時の自治省職員が作文列挙した「合併のメリット」なるものを安易に引用し、あるいは、地制調が「地域自治組織」と書けば安直に賛同する学者も多い。実態が見えていない観念論理である。考えてもみよ、故郷を投げ出した首長と職員が合併後に自己革新をすると思うのか。行政改革を断行すると思うのか。地域自治組織を構築することが出来ると思うのか。今少し実態を認識すべきである。言葉でならば誰でも何とでも、役人の作文のように、言うのである。
かくて、「住民不在」の首長と議会に対して「住民投票条例」の直接請求運動が全国各地に起きている。だが議会多数派がこれを否決し続けているのである。

2 民主制度根幹の揺らぎ
住民投票は行うけれども「投票率が六割を超えないときには開票しない」の決議が横行している。投票箱の内にあるのは「町の将来を決めんとする主権者住民の意思」である。三割であろうと四割であろうと開票するのが当然である。如何なる権限で住民意思を「闇から闇に葬る」ことが出来ると言うのか。民主制度の根本原則の否認である。
そもそも、首長や議会の権限は住民から信託された権限である。住民意思の表明を忌避し圧殺するのは自己撞着である。さらには、合併反対の住民意思が多数であっても「僅差である」などと言明して「合併を進める町長」もいる。民主制度の原理原則の否認である。ところが、これらの横行に学者も論壇も労組も政党もメディアも黙している。なぜであるのか。
政治感覚の麻痺である。批判的思考力の衰弱である。それとも或いは、自身の地位を保全する処世術であるのか。「主体鈍磨」と「状況追随思考」の止めどもなき蔓延である。これであれば、平和保持も人権侵害も止めることはできない。九条改定を目論む人々はホクソ笑むであろう。
繰り返すが、四年任期で権限を信託された首長や議会が合併という地域社会の重大事を自分達だけで決めてよいのだと考える。住民投票条例の直接請求を否決して住民意思の表明を圧殺する。投票率が六割を超えなければ開票しないと定める。これらが「民主制度根幹の否定」でなくてなんであろう。

3 主体鈍磨と状況追随思考の蔓延
なぜ「主体鈍磨」と「状況追随思考」が蔓延するのか。
蔓延の背景に「自身の思考責任」を隠蔽する「処世術」がある。例えば、公共社会への発言を求められる立場の人が、「私は合併問題では中立です」と言明する。そのとき、その心の奥底には「私は中庸な考え方なのです」「私は偏ってはいないのです」との世渡り術がある。
合併は「するか、しないか」である。合併に「中立」はない。中立とは「判断できない」である。そうでなければ「所見の隠蔽」である。
この指摘に、「生活行動圏や地域条件の変化などで合併条件が整っているときには合併に反対しない」だから「私は中立なのだ」と弁明する。しかしながら、そんなことは「私は中立です」の理由にならない。それは当たり前のことである。どこかに「絶対反対の頑迷固陋な人達」がいるかの如くに擬勢して、自身を「穏健で中庸な考え方の持ち主」だと装いたいのである。
「合併は選択肢の一つです」との言い方も同じ心底である。それも「当たり前のこと」ではないか。今回の合併騒動は分権改革の最終段階で突然のように出てきた「財政破綻の地方ツケ廻し」であるのは明白ではないか。なぜ尤もらしく「選択肢の一つです」とだけ言うのか。公共社会への発言を求められる立場にありながら「心底がお粗末すぎる」ではないか。 
町民は「父祖伝来の町名」と「地域の自治権」を失う合併問題を「どうするべきか」と悩み真剣に考えているのだ。悩み真剣に考える町民が自治の担い手に成長するのだ。地域の方々が「思考停止のお任せ」から「自分で考えて決する」へと自身を展開するのが「自治」である。自治は「与えられる」のではない。「現存する」のでもない。「未来に創り出す営み」である。自治は「実践の営為」であって動態観念なのだ。公共社会への発言を求められる立場の人には「自身の存在を賭けた真摯で真剣な発言」が求められるのだ。そうでなければ「自治を語る」資格はない。
人間は「より良きもの」へと思念する。思念し実践するには「めざす理想」が必要である。人間は「風にそよぐ葦」であれども「思考する」のである。思考には「理念」と「価値軸」が不可欠である。「理念」なき「保身の処世術」は邪悪である。「原点座標軸」を漂流させてはなるまい。

4 自治体改革  
 七十年代に「自治」「分権」「参加」が提唱された。自治体改革の枠組みである。自治体改革とは「地方公共団体」を「自治体政府」に変革する営為である。すなわち、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置し、「中央集権」を「地方分権」に組換え、「行政支配」を「市民参加」へと、自治体を変革するのである。自治体改革は「実践概念」であって解説的「認識概念」ではない。
そして、七十年代の後半には「革新自治体から自治体革新へ」と盛んに言われた。その意味は、首長が革新系というだけではダメで、自治体の「機構」も「政策」も「制度」も変革しなければならないとの反省から出た言明であった。
それから30年の歳月が経過した。「自治体理論」「政策形成力」「市民自治制度」は相当に前進した。自治体理論を研鑚する場として自治体学会が設立され参加者は年々増加し「自治・分権・参加の理論」は広がった。地域実態に即応した自前政策を形成する能力も高まっている。情報公開条例、環境アセスメント条例、住民投票条例、パブリックコメント制度、オンブズパーソン制度、政策評価制度、自治基本条例、などの市民自治制度を装備する自治体も次第に増えている。
七十年代と対比すれば画期的な展開である。
「自治理論」「政策形成力」「自治制度」は前進した。前進はしたのだが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっている。なぜであろうか。
なぜ、不確定要素を孕んだ事柄に不利益をも覚悟して一歩踏み出す情熱が冷めたのであろうか。実践思考や献身性というものは何処にいったのか。自治労自治研究集会にかつて漲っていた熱気は何処に収蔵したのであろうか。革新団体の研究集会が焦眉の合併問題を実践課題として論議しないのは何故であるのか。自治体学会にも現在只今の重大問題を掘り下げる論議が不足だとの声をしばしば耳にする。そしてまた、省庁官僚を自治体学会の地域研究会に講師として壇上に招く風潮は何であるのか。「投票率が六割を超えないときは開票しない」との民主制度の根幹を否定する事態に、地方自治や地方財政を専門にしている学者が黙しているのは如何なる思惑からであろうか。
ある調査で小泉首相の靖国参拝を「支持する」が40%を超えたと報道された。この数字とどこかで繋がっているのではあるまいか。

5 自治体理論が試されている
地方分権が工業文明国に共通する世界の潮流になったのは、科学技術の進展によって前例のない解決困難な公共課題が噴出したからである。一国政府だけでは解決できない国際社会の公共課題、中央政府の全国基準や政策では解決できない地域課題が増大したからである。すなわち、国際社会で解決基準を約定し遵守しなければ解決・実現できない公共課題、自己革新した行政職員と市民が協働する自治型行政スタイルでなければ解決できない地域課題が増大したから、地方分権が工業文明国に共通する潮流になっているのである。そして政府も三層に分化するのである。
分権改革とは「現在の県市町村」を「地方政府」に改革することなのだ。「地方政府」に改革するとは、住民と行政が信頼を基礎にした「新たな関係」を創出することである。であるのだから、先ずは住民との信頼関係の構築である。今は合併などするときではない。合併条件が熟成しているところは合併すればよいのであって、期限を定めて促進することではないのだ。「合併の次に地域自治組織を作ればよい」などと述べる学者は、今少し情勢と実態を洞察して発言すべきである。「3200を1000にする」のは総務省の全国管理体制の強化策であるのだ。市町村合併の次に道州制が出てくるであろう。その次に控えているのは何か。
ジョージ・オーエルが「1984年」で描いた「強圧管理社会」が日本列島に現実化しようとしている。「私的情報保護法」という名前の「言論の自由侵害法」、「住民基本台帳ネットワーク」という名の「国民総背番号制」、「通信傍受法」という言い方の「盗聴法」は既に国会で決議された。この言い方はオーエルの「ニュースピーク」である。
そして次は、「憲法改定」である。硬性憲法と言われたが改定発議に必要な「3分の2」は衆議院も参議院にも改定賛成の議員数が揃っている。「憲法改定の国民投票法」も準備がすすんでいる。憲法改定への道筋さえ開けば、つまりは一歩半歩の実績さえ作れば、「後は何とでもなる」が進行しているのだ。狙いは「憲法9条」である。その次は「徴兵制」である。「徴兵制度の無い国がどこにあるのか」「国を愛する法制度がなくてどうするか」との「声高な論議」が始まるであろう。いや既に始まっている。
報道媒体である新聞社が自社の憲法改定案を公表し、NHKが特集番組を放送前に政治家に説明して改変する。それにもさしたる「批判」が起きない日本列島である。まさに「何でもあり」「やりたい放題」である。「批判的思考力」が衰退し「状況追随思考」が蔓延しているのである。
「憲法9条改定」「徴兵制度議決」の問題にも、「想像力」が衰弱しているから「まさかそんなことにはならないだろう」と思っている。そして「徴兵制度」が現実になれば、「無力感」に漂い「状況追随思考」に陥るのであろう。あるいはその時は「国家興奮」に身を投じるのであろうか。
現在の無力感の漂いは、威勢のよい論調に同調し多様性を否定するファシズムの温床ではあるまいか。
70年代には、自己犠牲を覚悟した「献身性」と未来を展望した「純粋性」が社会に存在していた。だが現在は、周囲を見渡しても「抵抗する主体」も「拠るべき心棒」も見えない。「主体鈍磨」とは「思考力の衰退」である。「状況追随思考」とは「思想の不在」である。自身の場で自治体理論が試されている。

自治体学会の設立意味
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
自治体学会の設立意味 
  
1 自治体学会           
 自治体職員が中心になって設立した学会である。
1986年5月23日、横浜開講記念会館で設立大会を開いた。前日の発起人会議には135人、当日の出席者は620人。自治体職員、市民、研究者、首長、議員、研究機関の職員、労組役員、ジャーナリスト、コンサルタント、文化団体役員など、およそ学会の設立とは思えない多彩な顔ぶれであった。会員は2006年現在で二千人。活動内容と事務局は「ホームページ」を参照。 
 
2 政策研究交流会議
自治体学会は「自治体政策研究交流会議」から生まれた。
その政策研究交流会議は次のような経緯で開催された。
七十年代に公害問題と社会資本不足で都市地域に住民運動が激発して革新自治体が群生した。革新自治体は「省庁政策の下請団体」から「地域独自の政策を実行する地方政府」への脱皮を目ざしていた。
これらの情勢を背景に自治体職員の「自主研究グループ」が叢生した。そして1984年5月、東京中野サンプラザで「自主研・全国交流集会」を開催した。この自主研究活動の広がりが政策研究交流会議を開催するに至る要因の一つであった。
もう一つの要因は「政策研究を時代の潮流にするため」であった。
神奈川県が1978 年に「公務研修所」を「神奈川県自治総合研究センター」に改組して「研究部」を設けた。その研究部の「神奈川の韓国・朝鮮人の研究」が朝日新聞の論壇時評で「本年度の最高の成果」と評され「自治体の政策研究」が注目を集めた(注1)。
この動向を敏感に洞察した自治体首長が「政策研究の組織と体制」を自治体内に設けた。例えば、政策研究室(愛媛)、政策研究班(福井)の設置、シンクタンクの設立(静岡、埼玉)、地域の研究所や大学との連携(兵庫、三鷹市)、政策研究誌の発刊(神奈川、兵庫、徳島、埼玉)などである(注2)。
かくて、神奈川県の「研究部設置」が引き金になって「自治体の政策研究」が潮流になりつつあった。ところが、本庁の課長は所管業務に関連する政策研究を嫌った。知事のいないところで「若い職員が勝手な夢物語を描いている」と冷淡に言い放って水をさしていた。これが当時(一九八三年前後) の先進自治体の状況であった。
この状況を突き破るには「全国交流会議」を開催して「政策研究が時代の潮流になっている」ことを内外に鮮明に印象づける必要があった。

3 自治体学会の設立動議
一九八四年十月十八日、神奈川県民ホールの六階会議室で「自治体政策研究交流会議」が開催された。北海道から九州までの各地から一四〇団体・三五二人の自治体職員と市民と研究者が参加した。
この交流会議の場で「二つの動議」が提出された。
一つは「交流会議の継続開催」。他の一つは「自治体学会の設立」。
前者は「全国持ち回り開催」を確認して次回は埼玉で開くことが決まった。後者の「学会設立の提案」は、参会者全員が地域と職場で「学会設立の意義と可能性」の論議を起こし、その結論を次回埼玉会議に持ち寄ることを約定した。
このような経緯で「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生した(注3)。だが、設立大会に至るまでには「壁と曲折」があった。その詳細は横浜で2006年8月に開催された第二十回自治体学会の「自治体学の二十年」の分科会に提出した「自治体学会の設立経緯」(公人の友社)を参照されたい(注4)。

4 自治体学
既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」である。政治・行政・経済学の理論枠組は「国家権力」「国家機構」「国家法」「国民経済」である。
 自治体学は「国家統治から市民自治へ」「中央集権から地方分権へ」「行政支配から市民参加へ」の組替えを目指す実践理論である。実践を理論化し、理論が実践を普遍化する「政策思考型」の自治体理論である。
「国家学」は「国家」を統治主体と擬制する。「自治体学」は「市民」が社会を管理するため「代表権限を信託する」と考える。
学会設立時には、自治体学を「自治体関連の諸学の総称の学」と仮定義した。
( 以下の叙述は、神奈川県の研究部員が「学会設立発起人」を求めて「全国行脚」の旅に出かけた際に携行した「自治体学に関する研究」の一部である )
日本の社会科学は「輸入学」として出発した。「国家」「国民社会」を理論枠とする「国家学」であった。国家学では現代の都市型社会が生起する、医療、資源、福祉、文化、環境などの「前例なき公共課題」に対して、部分的な問題点の指摘は出来ても、全容解明は出来ない。とりわけ、既成の学問にはこれら課題を生活の場で自治の問題として解決する「市民自治の視点」が根本的に欠落している。このため市民運動が提起する論点に回答が出来ない状況がつづいている。
 
5 なぜ、自治体職員が学会設立を考えたか
「自治体の政策自立」には「自治体職員の政策水準の高まり」が不可欠である。自治体職員が政策能力を高めるには「前例に従って何事も無難に」の行政文化を超えなくてはならない。行政文化を超えるとは、一歩前に出て「才覚と勇気」で職務を実践し「地域課題を解決する」ことである。だが、職務実践だけでは政策能力は身につかない。歴史の一回性である「実践体験の知見」を「普遍認識」にまで高めなければならない。そうでなければ、前例なき公共課題を解決する政策形成力は身につかない。実践を理論化しなければならない。
「実践体験の知見」を「普遍認識」に高めるには「文章に書く」ことである。「文章に書く」とは「概念で実践を再構成する」ことである。その「再構成」が「普遍認識力」を高め「実践的思考力」を自身のものにするのである。
「政策形成力と政策実行力」には実践的思考力が不可欠である。 
「実践を再構成する」には理論が重要になる。そこで「実務と理論の出会いの場」として「学会設立」を考えたのであった。 
しかしながら、「実務と理論の出会い」は「自身の内において」である。学者の会員がいることが「実務と理論の出会い」ではない。なぜなら、「既存の学問」と「自治体の政策研究」とは「思考の方向」が異なるのである。
例えば、「行政学の政策研究」は「政策・政策過程」を事後的・実証的・分析的に研究する学である。「自治体の政策研究」は現実を未来に向かって「課題設定し解決方策を考え出す」営為である。
すなわち、行政学の政策研究は「政策の実証研究」であるが、自治体の政策研究は「政策の研究開発」である。それは未来を構想する「規範的創造的な政策開発」の営みである。
自治体学会は「実践的思考力」を「自身のものにする場」である。そのように運営されなくてはならない。

5 北海道自治体学会と地方自治土曜講座
 1995年7月8日、北海道在住の自治体学会員が中心となって「北海道自治体学会」を設立した。都道府県単位としては全国で最初であった。以来、「総会・政策フォーラム」と「政策シンポジウム」を毎年1回ずつ開催して今日に至っている。北海道地方自治土曜講座も1995年から毎年開講され、講義を記録したブックレットは2006年現在で100冊を超えた。


注1 神奈川県自治総合研究センターの「ホームページ」を開けば当時から今日に至るまでの「自治体の政策研究の内容」が一覧できる。「ダウンロード」もできる。
注2 当時の政策研究の動向は「自治体の政策形成力」(時事通信社)の第二章に記した。
注3 自治体学会の設立経緯の掲載誌は「自治体の政策形成力・第六章」(時事通信社)に詳記した。交流会議の内容は「時事通信社・地方行政(84年11月10日号)」と「地方自治通信(85年2月号) (86年2月号)」に掲載された。
注4「自治体学の二十年・(公人の友社)」に「設立時の特集誌」も記した。
自治基本条例の必要理由
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
自治基本条例の必要理由
1 全国各地で「市民自治基本条例の制定」
パソコンで「自治基本条例」と記入し検索すればその動向に驚くであろう。そこに共通しているのは、市民と力を合わせて住み心地の良いまちを作ろうとする先進自治体の姿勢である。 
65年前、「天皇主権・国家主権」の憲法を「国民主権」の憲法に改めた。だが、マッカーサーの占領政策が「間接統治」であったために「内務官僚の思想」は殆んど無傷で温存された。地方行政関係者にも「国家官僚への平伏心理」と「権威的な統治思想」は保持され今日に至っている。しかしながら、65年を経過した今、自治体に「国家の地方団体」から「市民の自治政府」へと自らを脱皮成熟させる蠢きが生じてきた。それが「自治基本条例制定」の動向である。

2 市民自治の規範論理
自治基本条例とは、「市民自治の理念」を明示し「自治体運営の原則」を定める「自治体の最高規範」である。 
「市民自治」とは何か。首長と議会の代表権限は市民が信託した権限である。したがって、首長・議会が信託に背反したときには「市民の信託解除権」の発動となる。すなわち「解職請求」と「選挙」である。選挙は信頼委託契約であって白紙委任ではない。これが「市民自治の規範論理」である。ところがしかし、首長・議員にも、行政職員にも、そして住民にも、旧来の「統治思想」が根強く染み付いている。例えば、選挙のときの演説・発言は民主主義であるが本心は「権威主義」で「白紙委任の如き」行動心理である。役所の文書は市民自治的になったが、行政職員は役所内部では上下意識であり住民客体の統治行政である。住民の側にも権威従属意識が根強く残存し自治意識は劣弱である。 
すなわち、明治憲法的な統治思想が根強く残存している。自治基本条例を制定する目的は、「明治憲法的価値観」を払拭して「現行憲法の民主主義の価値観」を自治体運営に徹底するためである。憲法原理は市民自治であるのだが、現状況は統治支配である。だから、「市民自治を明示した最高条例」が必要なのだ。
「自治体運営の原則」とは「市民参画、情報共有、説明責任、法令の自主解釈など」である。先進条例を参考にして地域実情に即して定めればよい。
問題は市民がその基本条例を「最高条例」として受け入れるか否かである。

3 最高条例の規範意識
案を作文し議会決議すれば「自治基本条例」ができたと言えるのか。
市民の心に「自分たちがつくった最高条例なのだ」の「規範意識」が伴わなければ「市民自治基本条例」とは言えない。
1970年代以降「自治体理論」「政策形成力」「自治制度の整備」は画期的と言ってよいほどの進展を遂げた。だがしかし、当事者の意識と行動は殆ど変っていない。「自治制度」は作られても「市民と政治・行政の関係」は変わっていない。これらを強めて言えば屍累々である。
市民の心の内に「最高条例の規範意識」を醸成せずして何が最高条例なのか。
全国各地の情況を観察すれば、「最高条例の規範意識」の醸成を逆に避ける安直思考が漂っているように見える。基本条例の策定が目的になっている。
例えば、首長の次期改選期に合わせた作成日程、あるいは、首長のお飾りのための基本条例づくり。そこには「市民と政治・行政の関係」を変革せんとする志しは見えない。
「最高条例の規範意識」を醸成する才覚・工夫なき「自治基本条例の制定」は作文行為である。「最高規範の意識」を地域に醸成する工夫と実践が「自治制度創設」の営為であるのだ。それが策定市民会議の責務である。
              
新憲法の制定と自治基本条例
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
新憲法制定と自治基本条例                               
現在の日本には、中央に「新憲法制定」を政権公約に掲げる首相がいて、地方には「自治基本条例の制定」が流行っている。
両者は共に「危うい」のではあるまいか。
「新憲法の制定」は、アメリカから要求されている「九条改定」を「解釈改憲」では間に合わなくなったからであろう。古来、権力者の「美しい言葉」は危険の兆候である。「美しい日本」も「危うい」であろう。
その日程は、教育基本法改定、共謀罪、憲法改定の実績づくりである。

小泉首相が八月十五日に靖国参拝をした直後に行なわれた「NHKのスタジオ討論」で、これからの外交で「中国をライバルと見るか」それとも「中国をパートナーと考えるか」についての、携帯メールでの「視聴者応答」は「中国はライバル」が多数であった。特に二十歳代は大幅に多数であった。
 スタジオでは、二十歳の女子学生が海外留学の体験を語った。韓国と中国の学友との会話で「近代史を知らなすぎる」と指摘され「中国に反感をもった」と述べた。別の番組でも、ハーバード大学に留学した男子学生が同室の韓国学友との会話で「知らない近代史」の体験を語っていた。
哀れなほどに日本の若者は「自国の近代史を知らない」のである。「知らない」のは「二十代の若者」だけではない。三十代も、四十代の人たちも「教えられていない」のである。長年に亘り中学・高校で「近・現代史」を教えなかったのである。それは「教科書検定」だけではない。「授業日程」が「近・現代の前」で卒業になるように仕組まれているのである。 
「教えない」は「保守政党と文部官僚」の長年の戦略であったのだ。今、ボクシングのボデーブローのように、その「効果」が現れているのである。

「状況追随思考」が社会に蔓延するのは「社会を全体的に考察する座標軸」が見えないからである。かつては、トータルに社会を眺めて批判する社会主義の思想が存在した。現在は争点が無くなったと言われる。無くなったのではない。見えていないのである。
かつての対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「統治」に対する「自治」である。「国家統治の中央支配」に対抗する「市民自治の実践」である。
憲法は「権力に枠を定める最高法規」である。この自明とも言うべき近代立憲制の原則に対して、憲法は「国民に義務を定める」ものでもあると「二世・三世議員」が中央で言い募っている。
地方では「市民自治基本条例」が流行っている。良いことではあるのだが、代表権限を信託された「首長と議会」が制定する方式での流行である。
代表権限を信託した市民の「承認・合意」は「必ずしも必要ではない」との見解での流行である。市民は「そっちのけ」である。最高規範意識は「市民」には「必要なし」と言い募っての流行である。
「まちづくり基本条例」と「市民自治基本条例」との違いも「曖昧に混同」しての「最高条例の制定」である。「制度をつくれば一歩前進」と学者も加担しての流行である。

そもそも「自治基本条例を制定する目的」は何か。
二元代表民主制度を正常に運営機能させるためである。
制定権者は代表権限を信託する「市民」である。
基本条例の名宛人は代表権限を託された「首長と議会」である。
① 市民は社会を管理するために首長と議会に代表権限を信託する。信託は白紙委任でない。
② 市民は自治体政府を市民活動によって日常的に制御する。住民投票は政府制御の一つである。
③ 市民は代表権限の運営が信頼委託を著しく逸脱したときには信託解除権を発動する。解職(リコール)、選挙である。
この「市民自治の理念」を明示し「自治体運営の原則」を定めるのが「市民自治基本条例」である。
只今、流行中の「自治基本条例」は「危うい」のではないか。何がなぜ危ういか。新憲法制定を支持する人々の思考と同根ではないか。
                             

1 自治体学の二十年
(カテゴリー: 自治体学(ホーム)
Ⅰ 自治体学の二十年        2006-8-20

1 問題の所在

自治体学会を設立して二十年が経過した。

設立時には「自治体学」を「自治体関連の諸学の総称の学」と仮定義した。

「国家統治」を「市民自治」に、「中央集権」を「地方分権」に、「行政支配」を「市民参加」に転換する「理論と実践」を目ざして自治体学会を設立した。

二十年を顧みるならば、「市民自治の自治体理論」「自治体自前の政策形成力」「市民自治の制度整備」は画期的とも言えるほどの展開である。

自治体学会の研究大会も年毎に参加者が増えている。二十年前に小学生であった人も自治体職員として参加している。まことに盛会である。

たしかに「理論」「政策」「制度」は進展した。だが、表面的な上滑りになってはいないか。「新しい言葉」を使えば状況が変わり、「新しい制度」を作れば事態が変化すると考えてはいないか。

自身の不利益をも覚悟し状況を切り拓く情熱は持続されているであろうか。

状況追随思考が広がっているのではあるまいか。 

例えば、「政策評価制度」が喧伝されると「導入検討会」が流行する。

「マニフェスト」が話題になると「研究会」が盛んに開催される。

さらには、首長の次の選挙までに「案文を作成」し「議会で議決」すれば「自治基本条例」が制定できると考える。

あるいはまた、例えば、昨年来の交付税削減による地方切捨ての「市町村合併」に自治体学会と自治体学会員は的確な対処をしたであろうか。

合併をめぐって全国各地で「住民投票の署名運動」が広がった。これは「代表民主制度」への不信の表明である。「開票せずに燃やす」というのは「民主制度根幹の揺らぎ」である。この事態を「それもあり」とする「黙視」は存在しなかったであろうか。
2 自治基本条例
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
2 自治基本条例

自治体学の二十年を考察する論点の第一は「市民自治基本条例」である。

(1) 自治体改革

自治体改革とは「地方公共団体」を「自治体」に変革することである。改革はいつの場合にも「主体変革」の問題である。自治体改革は「実践概念」であって、解説的な「認識概念」ではない。

「自治体理論」「政策形成力」「市民自治制度」は進展した。

だが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっているのではあるまいか。  

情報公開条例、環境アセスメント条例、住民投票条例、パブリックコメント制度、オンブズパーソン制度、政策評価制度、そして自治基本条例を制定する自治体が増えている。画期的な展開である。

だがしかし、「行政内で起案し決裁し議会で議決すれば」それで「政策評価」や「自治基本条例」などの「市民自治の制度」ができたと考えるのは「安直思考」の「便宜態度」である。

現在の状況は「統治行政を変革せず」して「自治制度の創設」を競っているかの如くである。

制度は定着し機能しなければ意味がないではないか。

(2) 「自治制度」と「行政文化」

首長が「自治制度の創設はゴールではなくスタートであります」と挨拶する。だが、挨拶した後は従来行政に戻る。「ゴールではありません」と「わけしり顔」に言うのだが、「制度定着を阻む障害」が何であるかは分かっていない。だから「政策策定と政策実行の実態」は変らない。「自治制度」は既存行政に取り込まれて「人畜無害の制度」に形骸化する。

「制度定着を阻む障碍」が見えないのは、自治体改革を「自身の問題」として考えたことがないからである。自分自身のことは常に「考察の対象外」である。「現在の自分のまま」で自治体改革が可能だと考えるのである。

しかしながら「自治制度」と「行政文化」は異質である。

行政文化とは、長い歳月によって行政内に堆積した慣例・手続き・手順・流儀・作法である。職業倫理観・住民観も行政文化である。

それらの行政文化が自治制度を形骸化し無為化するのである。

であるから行政文化の革新が不可欠であるのだ。

80年代に潮流となって自治体に広がった文化行政は「今の行政のままでは文化行政にならない」と自己認識し、文化行政を「自己革新した市民と行政職員との協働の営為である」と定義した。そして、「行政文化の自己革新」を「行政の文化化」という言葉で表現し、「自己革新した主体の協力」を「協働」という言葉で表現した。いずれも主体変革を孕んだ造語である。コラブレーションの翻訳語などではないのである。

(3) 自治体理論と自治基本条例

自治体理論とは住んでいる人々が公共社会の主体であり、公共社会を管理するのは「市民」であると考える理論である。

市民自治とは

1. 市民は社会を管理するために代表権限を信託して政府をつくる。信託は白

紙委任ではない。首長と議会は市民から信託された代表権限の範囲内で権限を行使する。

② 市民は政府を市民活動によって日常的に制御する。住民投票は政府制御の一つである。

③ 市民は、政府の代表権限の運営が信頼委託を著しく逸脱したとき信託解除権を発動する。解職(リコール)または選挙である

自治体理論は松下圭一教授が40年にわたって創り続けている理論である。

「行政内決裁」と「議会議決」で「自治基本条例」が制定できると考えるのは、「制度主体」が「自治主体」である市民を「そっちのけ」にして「自治体の憲法」をつくるということである。

それは「統治」であって「市民自治」ではない。

そもそも「市民自治基本条例を制定する目的」は何であるのか。

代表民主制度を正常に運営し機能させるためである。

制定権者は代表権限を信託する「自治主体の市民」である。基本条例の名宛人は代表権限を託された首長と議会である。

代表権限の運営を逸脱させないために「運営の公開・透明性」「政策情報の公開・共有」「説明責任」などの原則を定めるのである。

なぜ、代表権限を信託する「自治主体の市民」の「合意・決裁」の手続きを避けるのか。「住民投票は理想論である」などと言うその真意は何か。

住民投票を忌避するのは、「基本条例の制定ができなくなる」と考えるからであろう。それは「自治の困難を避ける安直思考」である。

才覚を働かせ工夫し実践するべきは「最高条例の規範意識」を地域に如何にして創り出すかである。その工夫と実践が市民自治の実践であるのだ。

「制度を作れば一歩前進である」と考えるのは「死屍累々の過ぎし二十年」を顧みず学ばない「不誠実思考」である。 

なぜに、住民の自治意識の高まりを「望まず」「軽視する」のか。

「住民合意・住民決裁」を避けて「最高規範の制定」を論ずる人々は「市民自治」の規範論理を透徹しない思考態度である。

「最高条例の規範意識」を地域に醸成する「工夫と実践」なくして、何が「最高条例」であるのか。

(4)最高規範性

自治基本条例は「自治体の憲法」であって「中央政府の法律」にも優越するのだと主張する。だが、言うだけでは説得力はない。その論者が「そう言っているだけ」のことである。その主張を担保する規範意識が地域社会に生じていないからである。

条例文言に「この条例に反する条例や規則を制定してはならない」と規定しても「最高規範性」は生じない。

言葉は自治的であっても住民蔑視の「内務官僚の牧民観」と異ならない。

「最高条例の規範意識」を地域に醸成する工夫と実践が「自治制度創設」の営為である。その営為が市民自治である。

自治制度の創設は現状変革の実践であるのだ。そして、その実践が「行政文化」を革新し、「住民」が「市民」へと自己革新し、「行政と住民との関係」を変革するのである。

「理論認識」と「実践認識」は相関しなければならない。

七十年代ならばともかく、現在は「制度が出来れば一歩前進だ」ではないのである。自治体理論が広がり、政策形成力が高まり、市民自治制度は装備されたが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっている。

なぜ広がるのか。自分自身は何も変らないで「新しい制度」をつくれば「それで事態が動く」と考えるからである。一種のエリート意識である。

改革はいつの場合にも「主体変革の問題」である。「自身の変革」を「考察の外」におくから「主体鈍磨」になるのである。

「状況追随思考」は「思考の座標軸」が定まっていないからである。

「市民自治の規範論理」を透徹しないから「思考の座標軸」が揺らぐのである。

(5) 市民自治基本条例の論点         

(A) 市民自治基本条例とは

  ・「憲法のようなもの」の意味は何か

  ・その効力はいずこより生じるのか

・その根拠は何か

(B) 基本条例を制定する理由

・なぜ必要なのか

・分かり易い説明 - 独りよがりの抽象説明でなく

3. 何を書いておくのか ― 抽象文言は殆ど無意味

(a) 市民自治の理念を明示する

ア 市民が代表権限を信託する

イ 市民が代表権限を制御する

ウ 市民が信託解除権を発動する

(b)自治体運営の原則を定める

● 行政運営の原則   

ア 政策情報の公開と共有

イ 説明責任

ウ 財政・財務の公表

  エ 総合計画策定への参画

  オ 政策評価制度 

● 議会運営の原則

ア 公開性・透明性

   イ 議会運営への市民参加

ウ 提案者の反問権

   エ 常任委員会の議案提出権

   オ 議長の議会召集権

   ● 法令の自主解釈権 

   ● 住民投票手続き

(D) 最高規範性

   条例に最高規範と書けば「最高条例の効力」が生じるか

(E) 基本条例の制定権者

(F) 基本条例の主たる名宛人

(G) 制定に消極的な人々のホンネ論理は

1. 議員
2. 首長
3. 行政の管理職
4. 市民が基本条例の制定に関心が低いのはなぜか

(H) 市民自治基本条例と代表民主制度

1. 市民自治の理論
2. 政府信託の理論
3. 代表民主制度と住民投票

(I) 制定手続

住民合意・住民決裁としての住民投票を避ける真の理由は何か

(J) 基本条例に反する 

(ア) 条例、規則 が制定されたとき

(イ) 行政運営、議会運営が行なわれたとき
3 代表民主制と住民投票
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3 代表民主制と住民投票

「自治体学の二十年」を顧みる重要問題の他の一つが「代表民主制の揺らぎ」である。次にこれを考察する。

(1) 代表民主制を担保する制度

高知県窪川町が1982年に制定した住民投票条例がわが国で最初の住民投票条例である。実際に住民投票を実施したのは1993年の新潟県巻町であった。

さらに、近年の市町村合併をめぐって、各地で「住民投票条例の制定を求める署名運動」が展開された。代表民主制を担保するには、「自らの意思を表明する制度」が必要だと住民が考え始めたからある。

60年代の後半、大気汚染、水質汚濁、地盤沈下などの公害問題が発生し、住宅、交通、保育所、学校などの社会資本不足によって住民運動が激化した。

当時の住民運動は「首長と議会に解決を求める要求運動」であった。だが、要求を受けとる首長や議会の側に民主代表制の政治感覚がなければ要求運動は実効性をもたない。

窪川町で住民投票条例が制定されるに至った経緯は、当時の首長と議員が代表民主制に反した振る舞いによって住民の不信感を高めたからであった。

「原発建設についての決着を直接住民に訊くのは卑怯な手段である」との町長の発言が、住民の反感を買ったのである。

すなわち、わが国で最初の「住民投票条例」は「代表民主制度が機能不全」に陥ったとき、代表民主制を担保する「制度要求」として始まったのである。すなわち、「住民投票制度」は「代表民主制の機能不全」を是正する制度として登場したのである。

今次の市町村合併を巡って「住民投票条例の制定」を求める署名運動が全国各地に起きた。これは何を意味していたのか。

                                       

(2) 合併とは何か

合併とは「地域の自治権」「地域の自治制度」を永久に失うことである。

父祖伝来の町の名前がなくなり、役場から発注されていた財政支出がなくなって公共経済の地域還流が失われる。若い職員は中心地に住所を移し商圏も中心に移って商工業も衰退する。周辺地域は間違いもなく寂れていく。

既に合併した地域を眺めるならば歴然である。

「合併やむなし」を言明する「首長の言動」を仔細に観察するならば、総務省の兵糧攻めに直面して「故郷を守り抜く気概」はない。

理不尽な「合併強要」を「乗り越える覚悟」はなかった。「自身のこと」を第一義に考えて対処したと思わざるを得ない。

だが他方には、「困難を覚悟」し「合併せず」を決断した町村長もいたのである。その才覚と覚悟を聞かずして「合併やむなし」を口にするのは「困難な役割」から逃げ出したいからである。「故郷を投げ出す所業」である。  

住民投票条例の制定を求めた署名運動は、「信託した代表者の権限運用」に是正を求める住民の「問い質し」である。「代表民主制の否認」ではない。解職要求(リコール)でもないのである。

だが、「問い質し」に誠実に対応しないときには「信託解除権」の発動となる。北海道南幌町ではそれがあった。

今次合併をめぐって「自治体学の二十年」を顧みる論点が多く提示されている。

(3) 直接民主制と間接民主制

次のような論理が横行した。

「住民投票」は直接民主主義の手続きである。

憲法が定める原則は代表民主制である。

だから住民投票は代表民主制に反すると主張して「住民投票条例の制定」を拒む事態が全国各地で起きた。

しかしながら、代表民主制度は「選挙という直接民主制」によって成立する。

すなわち、「代表民主制」は「直接民主制」によって正統性の根拠を担保されているのである。憲法はそのことを定めているのである。

「直接民主制」と「間接民主制」をあたかも「相反する制度である」かの如くに対置するのは正当な論理でない。住民投票を嫌悪する人々の誤った論理である。

首長と議会の代表権限は白紙委任でない。

代表権限は信託され範囲内での権限である。

「住民投票条例制定の署名運動」が全国各地で展開されたのは、「自治の主体」として見過ごすことができないから「署名運動」を起こしたのである。

それは「代表権限の運営」が「問い質された」のである。代表民主制度の否認行動ではない。政府制御の行動である。

住民投票を求める署名運動の広がりは「代表制民主制度」を担保する「住民自治制度」の整備を求めたのである。そのように認識するべき事態である。

その事態を「市民自治基本条例の制定」に連結して発想するのが自治体学である。

市民自治の規範論理は「市民が政府を選出し・政府を制御し・政府を交代させる」である。

(4) 開票しないで焼却する

全国各地で「住民投票条例」の署名運動が起きた。だが多くは議会で否決された。住民投票を行うことになった場合にも、「投票率が低いときには開票をしない」と定めた。いわゆる「50%条項」である。

これは徳島県の吉野川河口堰の建設をめぐる住民投票条例の制定過程で、徳島市議会で妥協の産物として生まれた「異常事例」である。

すなわち、住民投票の実施自体に不賛成の人々から、「投票の不成立」を目的とした「組織的投票ボイコット戦術」として提案され、「やむを得ない妥協」として生まれた「異常事例」である。

それが、今次の合併騒動で「住民の意思表明」を「葬る策」として援用されたのである。

しかしながら、投票箱の内にあるのは合併に対する「住民意思」である。「住民の意思」を「開票せずに焼き捨てる」のは「民主制度根幹の否認」である。

しかるに、学者も労組も「それもあり」と黙過した。

自治体学会にも「民主制度根幹の否認である」との論議は少なかったのではあるまいか。あまつさえ、合併促進の省庁官僚を講師として壇上に招いたのではなかったか。

(5) 「投票結果を尊重する」の規定 

「合併反対」が多数であっても、「僅差である」として「合併を進める町長」も現れた。住民投票条例の規定文言は「投票結果を尊重する」で「投票結果に従う」ではない。だから「解釈の幅(自由)があるのだ」との理屈である。

しかしながら「尊重する」はあくまでも「尊重する」である。

投票数の少ない方を選択するのは「明白に尊重しない」である。

投票条例の文言を「従う」としないのは、「代表民主制度を機能し続けるため」である。

自治体学会は目前に生じている事象を理論化し研鑽しているであろうか。 

自治体学会員の自治体理論が各地で「首長と議会の自治体運営」に反映するためにも、市民自治基本条例の制定に市民自治的に関与をするべきであろう。
4 自治体の概念
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4 自治体の概念

(1) 基礎概念の吟味

 先ごろ、北海道自治体学会のメーリング(ML)で「『自治体』という言葉は何を指しているか」「自治体に市民は含まれるのか」をめぐって、次のような「メール」が往来した。

1 「自治体」とは「政府」のことであって「市民」は含まない。 

2 「自治体」とは「市民」と「政府」の双方を包含する言葉である。

3. 役場の文書や会議で使う「自治体」は「都道府県庁、市役所、町村役場」のことです。
4. 役所だけを『自治体』と僭称することに違和感を覚えます。
5. 自治体とは『まち』のことです。私の自治体は空間的イメージです

さて、自治体学会員の方々はどのように考えるであろうか。

概念・用語は思考の道具である。

論理的思考力は高めるには基礎概念を曖昧にしてはならない。

(2) 具体的考察 

「概念」を曖昧にしないために具体的に考えたい。

例えば

・ 神奈川 

* 神奈川県
* 神奈川県庁・県議会
* 神奈川県民  
* 神奈川県庁舎

と並べたとき、「自治体」はどれであろうか。

「自治体とは政府のことだ」の考え方だと、自治体=神奈川県庁と県議会になる。だがそれなら「神奈川県」は自治体ではないのか。自治体でないのなら「神奈川県」は何なのか。あるいはまた、神奈川県が「自治体」ならば、神奈川県と神奈川県庁の違いをどう説明するのか。「神奈川県」と「神奈川県庁」は、市民生活の観念として明らかに異別の存在である。

ところが、行政の幹部職員が「神奈川県の方針は」「神奈川県といたしましては」などと言うときがある。

この言い方に「神奈川県とは県庁のことなのか」「県庁が神奈川県の公共課題の総てを独占するとでも言うのか」との反感的批判がある。

「県行政といたしましては」「県庁の方針は」と言うべきだ、との批判的反論がある。

旧内務省の言葉遣いでは「地方公共団体」と「県庁」は同義語である。お上の官庁を県民が批判し制御することを認めないからである。

住民は被治者であって「自治主体」ではない。だから「お上である県庁」が即ち「地方公共団体」である。

しかしながら、旧内務省用語で概念を混同してはならない。とりわけ、行政職員に「神奈川県」と「神奈川県庁」を曖昧に混同させてはならない。

同様に「自治体」と「自治体政府」の概念も曖昧に混同してはならないであろう。 

神奈川県が「自治体」であって、神奈川県庁(代表機構と代行機構)は「神奈川県の政府」すなわち「自治体の政府」である。そして、その「政府である神奈川県庁」を「神奈川県の市民」が制御するのである。

すなわち、「自治体」は「自治主体の市民」と「制度主体の政府」との緊張関係で運営するのである。

こう考えるのが「自治体理論」である。さて、この考え方に次のような反論がある。

(3) 自治体とは政府のことか 

「自治体という政府」に市民・住民は含まれない。「政府形成権力である市民」を「市民に奉仕するべき政府」と同列に扱うのはデモクラシーの原理に反する。

自治体は市民がつくる政府制度であり政治機関である。

憲法の「地方公共団体」を「自治体」に置き換えて読めば、自治体は明らかに「政府」(政治・行政機構及びその活動一般)である。

自治体に「市民」を含める考え方は「国民・政府・領土」の三つを国家の構成要素とする「国家三要素説」を連想させる。国民が政府・領土と同列に置かれて「国家の要素」になるのと同じ考え方である。

概ねこのような反論である。

だがしかし、国家を「国民、領土、統治権」であるとする「国家三要素説」は、国家を絶対・無謬の統治主体にするための「虚構の論理」である。

 だが「自治体」と「国家」は正反対の方向である。国家は「統治主体」で「国民を統治」する。自治体は「市民自治」で「市民」が「政府」を選出し制御し交代させるのである。

すなわち、自治体は市民(自治主体)と政府(制度主体)の「信頼委託・緊張制御」によって運営されるのである。

この考え方は「デモクラシーの原理に反する」ものではないであろう。

(4) 政府と自治体

そもそも「政府」と「自治体」は同じ意味の言葉であろうか。同じ意味であるのならば、なぜ二つの言葉をときによって使い分けるのか。

自治体を政府だと主張する意図は、おそらく、これまで「県庁や市役所」は「地方行政機関」であり、「県や市」は「地方公共団体」であった。そこで、中央に従属しない「地方の自立」を強調するには、「自治体」と「政府」を理論化しなくてはならない。すなわち、「地方公共団体」を「自治体」へ、「地方行政機関」を「政府」へと転換する理論である。

「政府の理論」はこうである。現代社会では前例の無い公共課題が増大するから「政府は中央政府と地方政府に分化するのだ」と説明する。

「自治体の理論」は少し厄介である。

「国家」を「絶対無謬の統治主体」だとする「虚構の国家理論」を打破しなければならない。そこで「国家」を「人々(市民)」と「政府」に分解して「国家」なる言葉を使わず「市民」と「政府」の理論にしたい。「国家法人理論」から「政府信託理論」への転換である。

「国家の観念」には「絶対・無謬の統治主体」が染み込んでいるからである。ところが「政府」とは別の「自治体」を認めると、「中央政府」とは別の「国家」が甦る。それは困る。そこで「自治体とは政府のことだ」になった、のではあるまいか。 

しかしながら「神奈川県」と「神奈川県庁」は明白に異別である。

同様に「国家」を忌避しても「日本国」と「日本国の政府」と「日本の人々(市民)」を指し示す言葉は必要である。(国民は「国家の国民」になるからなるべく使わないようにする)

ここで認識しておくべきは、「神奈川県庁」はいまだ「政府」になっていない。「神奈川県」もいまだ「地方公共団体」であって「自治体」になりきっていない(その途上)ということである。

すなわち、「自治体」「自治体政府」「市民」は「国家統治」から「市民自治」への転換をめざす「規範概念」である。「統治概念」を「自治概念」に置き換えるには理解咀嚼の困難さが伴うのである。

「地方公共団体」は「地方の行政団体」であって、そこにいる人々は「被治者としての住民」である。「自治体」は「自治の主体である市民」が「代表権限を信託した政府」を組織して制御しているのである。

「地方公共団体」と「自治体」の違いは、自治体には「政府」と「市民」が成熟しているが、地方公共団体は「行政団体」であり「被治者としての住民」である。 

同様に「地方公共団体・自治体・神奈川県」の概念も、「住民・市民・県民」の概念も、比較考察による概念認識が必要であろう。 
5 自治体職員
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5 自治体職員 

1. 地方公務員と自治体職員

行政スタイルの変革には「理論の転換」と共に「主体の成熟」が必要である。 主体の成熟とは「地方公務員」から「自治体職員」への自己革新である。

地方公務員とは「行政とは法律の執行である」と考えて「現行制度上止を得ない-の論理」に呪縛されている人である。

前例に従って何事も無難に大過なくの保身的で従属的な行政職員が地方公務員である。地方公務員は統治理論に馴らされ自治体理論の視座を持たないから自治体が政府であることが理解できない。

都市型社会が成熟して前例のない公共課題が噴出していることが見えない。前例なき質的課題の解決には市民と行政職員との協働が不可欠であることも理解できない。

「協働」という言葉を流行語として使うけれども「協働」には主体双方の自己革新が不可欠であることは理解できない。現在の行政スタイルのままで協働が可能であると考える。現在の自分のままで立派なことが出来ると思っている。

自治体職員は自治体理論を学習し実行する全日制公共事務局職員である。

市民と協働して住んで誇りに思える魅力ある美しく楽しく豊かな地域社会を創る行政職員である。

地方公務員と自治体職員の相違は「市民自治の自治体理論」を学習し実践しているか否かの違いである。

 そこで、自治体職員の能力を考察するために「国の公務員」と「地方公務員」をこみにして考えてみる。

(2) A型公務員とB型公務員

公務員を大きく二つに分けて考える。

 一つは、法律や制度や規則というものは本来つくった瞬間から遅れていくものだということが分かっている公務員。だから、状況変化に応じ改めなければならぬと思い、思うだけでなくてそのように行動することが出来る公務員。

このタイプをA型の公務員とする。

 他の一つは、上司の命令指示には極めて忠実で服務規律を尊重し勤勉で実務処理の能力も高い。上司から優秀職員として表彰される能吏型の職員。

このタイプをB型公務員とする。

 A型の公務員は「政策思考型」である。

世の中のことはすべてが試行錯誤であると考えて多少のリスクは覚悟して仕事をする。まちづくりには不確定部分が常に伴うものであるから、何事も実践してみなければ事態は展開しないと考え、課題を設定し解決方策を考え出す。つまり、未来を予測し意味を創り出そうとする「政策型職員」である。

 B型公務員は「制度型職員」である。

 勤勉誠実ではあるのだが、公務員は法律・制度に従って仕事をするものだと思っているから発想も行動原理も組織や制度が前提である。事情が変わっても制度を改めようと発想しない「制度型職員」である。                     

 実際には、C型の公務員も存在する。数は多い。

C型は、国家公務員にも地方公務員にも大勢いる。

ぬるま湯型の無気力な公務員である。だが、自治体職員の能力を考えるにはC型公務員は問題外である。

さて、A型の典型タイプは省庁キャリア組である。

所属する組織の権限を拡大するために法律をつくる。それが最大の仕事であると育てられている。状況が変われば法律解釈を変えるのは当然であるとして「通達」の朝令暮改は平気である。キャリア組の総てではないけれどもA型は比較的多い。

 B型の典型は能吏型の地方公務員である。国家公務員にも杓子定規の制度前提のB型は多い。

さて、ここで重要なことは、「A型の自治体職員」が登場してきたことである。

A型の自治体職員は、タテワリの法律や通達を地域で総合化し、地域を甦らせる政策を考え出し市民と協働して統治型行政スタイルを市民自治型の行政スタイルに転換する行動様式を体得している。

省庁公務員は自身が所管する法律・通達が他の省庁の法律・通達と現地でどのように錯綜し矛盾しているのかが分からない。自治体職員は分かっている。分かって解決している。だから、省庁に指示を仰ぐ愚かなことはしない。かくて現在では、解説教示を求めるのは省庁公務員の側である。

都市型社会の公共課題は殆どすべてが総合行政的解決手法と地域住民との協働を必要とする。今や実践においても理論においても自治体職員の水準が高くなりつつある。

それでは、「省庁キャリア」と「自治体職員」とはどこがちがうのか。

(3) 官庁理論と自治体理論

 省庁公務員の考え方は国家統治の官庁理論である。国家法人理論が彼等の権限行使の理論根拠である。行政が政策を決定し執行すると考え、住民は政策の対象・客体であって行政サービスの受益者であるとする統治理論である。

 自治体職員は市民自治の自治体理論である。自治体もまた政府であると考える分節重層の政府信託理論である。現代社会の公共課題は市民と行政が協働しなければ解決できないと考えている。これが違いである。

 それでは、自治体職員と能吏型の地方公務員とはどこが違うか。能吏型地方公務員は国家統治の官庁理論を受容している。

自治体理論とは「自治体も政府であるとする理論」であり「自治体が政府になるための理論」である。

「自治」も「市民参加」も「自治体理論」も規範概念である。問題意識の劣弱な人には「規範概念」の意味が理解できない。  

(4) 自治体職員の自己革新

 自治体職員の自己革新とは如何なることか。

「慣例に従って無難に」の「公務員の行動様式」を自分の才覚で超えることである。

 言葉では「分権改革」「制度改革」「市民との協働」「政策形成力の向上」などの現状変革の言葉を使う。けれども、自身の行動場面になると「無難に大過なく」「上司意向を忖度して」になる。

上司の指示が、自分は「こうするべきだと思ったこと」と、異なるものになることが予測されても「上司の了解」を第一義にする。そこには「自分の才覚で職務を処理しよう」とする「職業倫理」が欠落している。

その行動様式を「自身の問題」として「問い質す」ことが自己革新である。

もとより、大問題になるようなことを自分の一存で処理してはならない。しかしそんなことは、公務員は誰もやらないのであって、問題は「自分の才覚で出来ることはゼロではない」の認識である。

「これは自分の才覚で処理すべきことだ」との行動様式を身につけたとき、そのとき「地方公務員から自治体職員への自己革新」が為される。

つまりは「そうなることが分かっていながらなんで聞くのよ」という「弁明的責任回避」の問題である。

「自分の才覚でやれることはやる」との考え方がゼロ%であるのならば「協働」などと利いた風なことは言わないことである。

さりながら、「統治型の職場秩序」から一歩踏み出すのは容易ではない。たいていの行政職員は統治秩序に順応して自分自身を「地方公務員」に育てる。「自治体職員」へと自己革新するには「自治体理論」が必要である。

人間は理性の存在でもあるから「理論的正当性の確信」が重要である。

一歩前に出るには「不利益になるかもしれない覚悟」が伴う。「出る杭は打たれる」のである。けれども「全身丸焼け」「玉砕」は賢くない。

だが、「課長になってから」「それまでは」との言い方は誤りである。それまでに息も絶え絶えのコームインになってしまうのだから。

人間には「ものが見えてくる」という場面がある。「壁・ジレンマ」に直面して才覚と勇気で一歩前に出たとき「ものごと」が見えて視界が開かれて自己革新がなされる。自己革新した主体の協力を「協働」と表現したのだ。
6 市民
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6 市民

 市民とは公共性の感覚を体得し行動する「普通の人びと」である。普通の人とは「特権や身分をもつ特別な人」ではないという意味である。

「市民」という言葉は近代西欧の「Citizen」の翻訳語である。福沢諭吉が「社会を担う主体的な個人」の成熟を念願し期待して翻訳した言葉である。 

シティズンは、近代イギリス市民革命の担い手である。所有権観念を闘いとり契約自由の原則を確立した市民社会の主体である。

 「一身の独立なくしては」と唱えた福沢は自由と平等の精神をもつ自立した人間が開国日本に育つことを希求したのであろう。「シティズン」が有している自由と平等の考え方を導入しなければと考えたにちがいない。

自己の才覚で利益も損失も判断していきいきと市(いち)で働く庶民こそが「シティズン」の訳語に相応しいと考えたのであろう。市民(いちみん)と翻訳した。だが、福沢が期待をこめて翻訳した「市民」という言葉は使われなかった。

明治政府は市民革命に失敗して皇帝が君臨していた後進国ドイツの国家理論をモデルに「帝国憲法」をつくり「教育勅語」によって忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだ。臣民とは天皇の家来である。絶対服従の家来である。自立して社会を担う主体の観念はタブーであった。

戦後も使われなかった。社会主義の階級理論では「市民」は「所有者階級」と考えられたからである。使われたのは「人民」であった。労働組合も「市民」の言葉を嫌った。

都市的生活様式が日本列島に全般化して地方分権たらざるを得ない80年代に至って、ようやく、福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。普通の人びとによるまちづくりの実践が全国に広がったからである。

しかしながら、人間は誰しも自分で体験しないことは分からない。国家統治の官庁理論の人々には「住民」と「市民」の違いが分からない。

行政機構の内側に身を置いて官庁理論でやってきた公務員には、市民運動の人達は目先利害で行動する身勝手な人たちに見えるのであろう。そしてまた、公共課題の解決のために地域の人達と連帯して行動し、感動を共有した体験のない学者や評論家は「合理主義・個人思想・人権革命の歴史を持たない日本では市民などはいないのだ」などと言うのである。

 近代市民革命のときの市民は「有産の名望家」であつた。しかしながら、現代の「市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人びとである。

 都市型社会が成熟して、普通の人びとが市民である条件が整ったのである。

7「住民」と「市民」

 「住民」と「市民」はどう違うか。

 一般に「住民」とは、村民、町民、市民、県民など、行政区割りに「住んでいる人」のことである。

だが、「住民」という言葉は、住民登録・住民台帳・住民税というように、行政の側から捉えた言葉である。行政からすれば「住民」は統治し支配する客体である。住民は被治者であり行政サービスの受益者である。であるから、「住民」という言葉には上下の意識が染み付いている。その上下意識は行政にだけでなく住民の側にも根強く存続している。

「住民」という言葉には「行政と対等である」の観念は希薄である。

そこで、「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存し陰で不満を言う人、そして、行政から行政サ―

ビスの受益者とされる人である。

「市民」は公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人。政策の策定と実行で自治体職員と協働することのできる人である。

しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉である。理性がつくった概念である。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しない。

実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在である。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのである。

 都市型社会が成熟して、生活が平準化し政治参加が日常化して、福沢の「市民」は甦ったのである。

自治体職員と市民との協働が魅力あるまちをつくるのである。
7「住民」と「市民」
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7「住民」と「市民」

 「住民」と「市民」はどう違うか。

 一般に「住民」とは、村民、町民、市民、県民など、行政区割りに「住んでいる人」のことである。

だが、「住民」という言葉は、住民登録・住民台帳・住民税というように、行政の側から捉えた言葉である。行政からすれば「住民」は統治し支配する客体である。住民は被治者であり行政サービスの受益者である。であるから、「住民」という言葉には上下の意識が染み付いている。その上下意識は行政にだけでなく住民の側にも根強く存続している。

「住民」という言葉には「行政と対等である」の観念は希薄である。

そこで、「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存し陰で不満を言う人、そして、行政から行政サ―

ビスの受益者とされる人である。

「市民」は公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人。政策の策定と実行で自治体職員と協働することのできる人である。

しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉である。理性がつくった概念である。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しない。

実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在である。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのである。

 都市型社会が成熟して、生活が平準化し政治参加が日常化して、福沢の「市民」は甦ったのである。

自治体職員と市民との協働が魅力あるまちをつくるのである。
8 自治体学の開講 
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8 自治体学の開講 

本年(2006)四月から、自治体学の講義(四単位)を北海学園大学で開講した。

(1) 思考力

講義の冒頭で、重要なのは「知識の習得」ではない。

「思考力」を身につけることだ。社会に出て評価されるのは「考える力」である。人間は言葉で考える。思考の道具は「言葉・用語・概念」である。

思考力を高めるには「明瞭で多様」な「概念と用語」を「思考の道具箱」に

収納し、必要に応じて「さっと出てくる」ように整理する。

批判的思考力を高めることが重要である、と学生に言い続けている。

現代社会は「状況追随思考」が蔓延しているからである。概念・用語を自在に使いこなすには訓練が必要だ。

試験で「答案を書く」のは「専門用語と抽象概念」を使っての思考である。大学の試験は思考力を高める訓練である。思考力の訓練には「論述答案」がよい。「試験場」は最高の「思考の訓練場」である。であるから、終了時間前の答案提出を認めない。時間一杯考えることを求める。

学生の「論理的思考力」を高めるためである。

(2) 自治体学

地方分権は工業文明国に共通する世界の潮流である。

科学技術の発達で生産性の高い便利な世の中になった。けれども、解決困難な公共課題が次々と噴出する。

地球の「温暖化と砂漠化」、世界各地での「大雨と旱魃」「熱波と寒波」、異常気象の原因は「海洋温度の上昇」であると言われている。

少子化と高齢化、ダイオキシンと食品添加物、高層建築と眺望権問題、市町村合併と住民投票、代表民主制度と市民自治、過疎地域の活性化問題。

公共課題は「国際社会の場で基準を約定して解決する公共課題」「全国基準で解決する公共課題」「地域で協働して解決する公共課題」に分類できる。

政府も「国際政府」「中央政府」「地方政府」の三層に分化し、国の法律・政策には三つの根本的欠陥があることが明白になった。

第一の欠陥は、国の法律は知床半島から沖縄与那国島までを対象にするから全国画一基準である。地域事情を考慮できないから低水準である。 

第二は省庁が権限を競い合うタテワリ行政であるから総合行政にならない。

第三は全国的に問題が顕在化しないと法律・政策にならないから敏速に公共課題に対応できない。

これまでの学問は「国家を理論枠組」とする国家学であった。政府が三層分化して「市民自治の自治体学」が必要になった。

「国家統治を市民自治に」「中央集権を地方分権に」「行政主導を市民参加に」組替える自治体学の理論である。すなわち、自治体学会の設立理由である。

情報公開条例、市民参加条例、政策評価制度、住民投票条例などの「自治制度」が整備され、最近は「市民自治基本条例」が注目されている。 

(3) 市民自治基本条例

基本条例を制定するのは「代表制民主制度」を強固にするためである。

そこに規定するのは「市民自治の理念」と「自治体運営の原則」である。

●「市民自治」とは

ア 市民が選挙で首長と議会を選出して代表権限を信託する。

信託は白紙委任ではない。

イ 市民は信託した代表権限の運営が逸脱しないよう市民活動で制御する。住民投票はその一つである。

ウ 代表権限の運営が信頼委託を大きく逸脱したときには信託解除権を発動する。解職(リコール)して代表者を再選出する。

●「自治体運営の原則」とは

ア 政策情報の公開と共有、

イ 権限ある職位にある者の説明責任

ウ 財政・財務の公開

エ 住民投票の手続

オ 国の法令の自主解釈権 などである。

学生は「基本条例が必要な理由」を考える。

以上のような「自治体学」の講義である。

担当科目は、地方自治入門(一年)、自治体学(二年)、自治体政策論(三・四年)、政治学演習(二・三年)。 
「今年の一字」
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-2006年・新春随想-                (札幌都市研究会報)

「今年の一字」    

京都清水寺の墨書の「今年の一字」は「愛」であった。

あるメディアから「一字」を求められた。この手のことには気乗りがしないのだが、考えて「考」と答えた。

学生には常々「社会が求めているのは学歴や知識ではない。知識を使いこなす思考力なのだ」、「状況が変われば自分の考えも変わる」というのは「自身の思考の座標軸が定まっていないからだ」と言っている。「思考力を高めるために、抽象概念や専門用語を学んでいるのだよ」と日頃ゼミでも言っている。言葉は「思考の道具」である。

「今年の一字」の問いは「現代の課題は何か、その課題解決の鍵語は何か」を訊ねているのだ、と考えて「考」と答えた。 

現代日本の問題は「状況追随思考」と「主体鈍磨」の蔓延にある。「批判的思考力」の衰退が現代日本の問題であると思う。

 例えば、小泉首相が年頭の会見で「靖国参拝は外交問題にはなりません」と語る。だが、外交は相手のあること、中国・韓国は「首相参拝」を友好の障害だと明言しているのだ。

首相は「外国政府が心の問題に介入して外交問題にするのが理解できない」と言明する。その言い方が問題を拡大しているのだ。そのような論理が通用すると本気で思っているのであろうか。日本国民をも愚弄する物言いである。自身の靖国参拝で首脳会談が実現せず、国連の常任理事国問題でアジア諸国の支援も得られないでいるではないか。  

かつて、タカ派と言われた中曽根首相は近隣中国の国民感情を考えて「首相在任中は参拝しない」と止めた。遺族会会長でもあった橋本竜太郎首相も首相在任中は参拝を止めた。 

小泉首相が靖国参拝にこれほど固執するのは、自民党総裁選のとき「私が首相になれば誰が何と言おうとも八月十五日に靖国神社に公式参拝をします」と遺族会に約束したからだと言われている。

首相として重視するべきことは何であるのか。私益なのか国益なのか。

ところが、首相自身がこれほどの外交問題を生じさせても、新聞社の世論調査では「小泉支持」はさほど変らない。かえって「中国嫌い」が増えているらしい。

なぜであろうか。

人々の「考える力」が衰弱しているからだと思う。「状況追随思考」と「主体鈍磨」が蔓延して「論理的思考力」を衰退させているからだと思う。

 ある政治研究会で「首相の靖国参拝」が論点になったときの話である。

「外国から批判されるから参拝をいけない」と言うのはおかしい、と国際政治学者が発言した。その言説は間違ってはいないのだが、いかにも「もっともらしく」聞こえた。その学者が「首相の靖国参拝」を「他の場所」で「自身の論拠」で批判をしているのならば、研究会での発言には説得力がある。だが平素は「首相参拝」に言及をせず批判もしていない。

そしてまた、国際政治学者ならば「中国の国民感情」を「外交で重視するべきこと」と考えるのが本来ではあるまいか。この類の「もっともらしい言説」と「自己保身の発言」が、学者にも多いのが昨今である。

市町村の合併問題のときにもこの種の発言が多かった。

ある自治体が合併是非の住民投票で「投票率が60%を超えないときには開票をしない」と定めたとき、「意見発言」を求められた識者の「もっともらしい・自己の立場を巧みに守る」発言が目立った。また「開票しない」を黙認する識者も多かった。

批判的思考力の衰退が現在の課題だと考える。

「今年の一字」の問いに「考」と返答した次第である。 ( 森 啓 )
協働という言葉の意味
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協働という言葉の意味

「協働」という言葉が流行している。

札幌市のホームページの冒頭には「札幌市は協働都市をめざす」と書かれている。北海道庁のホームページにも「協働」という言葉が次々と出てくる。

なぜなのか。「財政が苦しくなって行政が何もかもやれなくなった。住民にも地域の団体にも応分の役割を担ってもらわなくてはならない。だから「協働」という言葉が使われるのではないか」あるいは、「参加」では言葉の響きが弱くなった。何かいい言葉がないかと思っていたとき「協働」を耳にした。「ああこれはいい」となったのではなかろうか。だが、その「協働」は「気分的形容詞」であり「内容は空疎」である。

「協働はコラボレーションの訳語である」と説明する学者もいる。しかしそれならば、なぜ国語辞典にはない「協働」と訳したのか。翻訳をしたのは誰なのか。最近は意味漠然のカタカナ語が氾濫しているのだから、どうして「カタカナ」のままで得意然と使わないのか。

1998年に「げょうせい」から刊行された「住民と行政の協働」という本の編者は「協働は翻訳語である」と解説している。 

しかしながら、「協働」は外国語の訳語ではない。

1970年代の文化行政の黎明期に、文化行政への手厳しい批判に答えるために、「自己革新した行政と市民による協力」を意味する言葉として「協働」という国語辞典にはない言葉を造語したのである。

文化行政が自治体に始まったとき、行政が文化を政策課題にすることに対して強い疑念が提起された。「行政が文化を安易に言い出すのは問題である。危険ですらある」との批判であった。「行政」は安定性と公平性を旨とする。「文化」は常に創造であり現状変革であり異端でもある。「行政」と「文化」は本質的に相反する。文化は計量化できない価値の問題であって人々の自由な精神活動の営為であり所産である。「何事も無難に大過なくの公務員が文化の問題で意味あることはできない」「行政が文化に関わって碌なことはない」との批判が提起された。

これに対して、「文化行政は市民の文化創造に介入するものではないのだ」「タテワリ事業の執行行政でもない」「文化行政とは行政の事業執行と制度運営と行政機構の文化的自己革新であるのだ」と主張した。

そして、文化行政を「住み続けていたいと思い住んでいることを誇りに思える地域社会を創る市民と団体と行政との協働の営為である」と定義した。

国語辞典にない「協働」という言葉を使ったのは「文化行政に対する疑念と批判」に答えるためであった。「協働とは自己革新した市民と行政による協力」 

を意味する言葉である。協働はナレアイではないのである。(森   啓)     
再び「協働」という言葉について
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再び「協働」という言葉について 札幌都市研究会 2000-12-26

 「協働」という言葉の氾濫に対して、次のような批判がなされている。

「雇い主である住民」が「公僕である公務員」と、なぜ「協働」せねばならないのか。行政職員は主権者である我々が雇った人間である。行政組織は公僕の集団であるのだから雇い主である住民との「対等な関係」などはあり得ない。住民が主人であり「上」なのだ。「主人である住民」が「雇われ人の行政職員」と「協働」する必要などまったくないのである。概ねこのような批判である。

 しかしながら、このような理念論で「協働」を否定することができるであろうか。事柄はそれほど単純ではないのである。

長らく国家統治の理論と制度が続いてきた。政策策定と政策執行の主体は行政であり住民は政策執行の客体であるとの統治行政の制度と制度運営は現在も続いているのである。「憲法変われども行政は変わらず」であって「統治行政の考え方」は厳然と今も続いているのである。改革するべきはこの現実である。理念論でこの現実を否定することはできない。この認識がまず必要である。

最近の公務員は言葉では並の学者以上に民主主義的な用語を使うのである。けれども、六十才まで身分保障された公務員として日々を過ごすから、人事昇進が最優先の価値になり無難に大過無くの「公務員」になってしまうのである。

行政機構の建物の壁と床には統治行政の考え方が染込んでいるのである。公務員はそこで日々を暮らしているから統治行政の論理に染まり住民を下に見て、自身は現状維持的安定の行動様式になるのである。だから、住民との「協働」と言っても統治行政の実態は少しも変わらない。そして、統治行政のままでは「住んでいることが誇りに思えるまち」にはならない。

他方の「住民」はどうであろうか。

行政組織と何らかの接触体験を持った人々は少なからざる不満と不信の念を抱くであろう。しかしながら、正面切ってそれに挑み正す人は極めて少数である。そして、統治行政に不信を抱いた住民も自分自身はと言えば「現状維持的」であり「自己保身」である。町内会や同業者組織の中にも権威的な運営とお任せの慣行は存在する。公務員を雇われ人であり公僕であると指摘し認識できるほど自身が民主的で自治的な住民はさほどいない。政治・行政の学会さえも運営はそれほど民主的でも自治的でもない。実態は行政とさほど違いはないのである。「住民」は主人であるから、雇われ人の「行政職員」と「協働」などする必要はないのだと理念論で「協働」を批判しても、事態は些かも進展しないのである。

問題は「協働」を理念論で否定することではなくて、行政職員も住民も「誇りに思える魅力あるまち」を形成する「協働の主体」としてはまことに未熟であると指摘し、現在の「協働」は言葉だけであると批判することである。

行政活動の質を高めるには市民と自治体職員との「協働」が必要であるのだ。自治体理論を学習し実践する自治体職員を低く見てはならない。優れた地域形成に果たした自治体職員の実践を自治体理論に位置付けなくてはなるまい。

行政を内側から見る目の欠如した学者の理念論議はひ弱である。「協働」がいけなくて「参加」ならば、「雇い主」と「雇われ人」の問題はないとでも言うのであろうか。問題の要点は「協働の主体」としての自己革新が双方に必要なことにあるのだ。すなわち、「住民」から「市民(いちみん)」へと自己革新して市民自治を実践する地域の方々と、「地方公務員」から「自治体職員」へと自己革新して自治体理論を実践する行政職員との「協働の営為」が地域形成には必要なのである。

ここまで書いて紙幅が尽きた。ついては、本会報の2003年5月号を参照されたい。そしてこの論点は「月刊・地方自治職員研修・臨時増刊75号」(2004年2月発行)に詳述する。
「状況追随思考と論理的思考力」
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「状況追随思考と論理的思考力」         

論理的思考力

毎年、講義の冒頭で、重要なのは「知識の習得」ではない。「思考力」を身につけることだ。社会人になったとき「流石は北海学園の卒業生だ」と評価されるのは「考える力」が身についているか否かである。

人間は言葉で考える。「言葉・用語・概念」が思考の道具である。「明瞭で多様」な「概念と用語」を「思考の道具箱」に収納し必要に応じて「さっと出てくる」ように整理する。それが重要だと学生に言い続けている。現代社会は「状況追随思考」が蔓延しているからである。 

概念・用語を自在に使いこなすには訓練が必要。期末試験で「答案を書く」のは「専門用語と抽象概念」を使う訓練である。大学のテストは「思考力の訓練」である。思考力の訓練には「論述方式」がよい。そして「試験場」は最高の「思考の訓練場」であるから、私の場合は、終了時間前の答案提出を認めない。時間一杯考えることを求め「論理的思考力」を学生が保有することを目指している。

地方自治入門

入学してきた一年生に新鮮な「思考と論理」の学生生活を体験させたい。講義は一方通行の知識の授与ではない。受動的な知識の習得では実社会での応用力が身につかない。能動的に心の中で対話を行うことが重要である。大学は「知識記憶」の場ではない。 

「憲法変れども中央集権の行政は変わらず」という言葉がある。

だが、地方分権は工業文明国に共通する世界の潮流である。科学技術の発達で生産性の高い便利な世の中になった。けれども、解決困難な公共課題が次々と噴出している。地球の「温暖化と砂漠化」、世界各地での「大雨と旱魃」「熱波と寒波」、異常気象は「海洋温度の上昇」が原因であると言われている。

少子化と高齢化、ダイオキシンと食品添加物、高層建築と眺望権問題、市町村合併と住民投票、代表民主制度と市民自治、過疎地域の活性化問題。

これらの公共課題を自身の問題として考える。考えて見解を述べることのできる学生に成長させる。それが「地方自治入門」の講義。 

自治体学

工業文明が発達して前例のない公共課題が噴出する。「国際社会の場で基準を約定して解決する公共課題」「全国基準で解決する公共課題」「地域で協働して解決する公共課題」の三つに分化した。現代社会は中央省庁の法律と政策だけでは解決できない公共課題が噴出しているのである。

政府も「国際政府」「中央政府」「地方政府」の三層構造に分化した。国の法律には三つの根本的欠陥があることが明白になった。

第一の欠陥は、国の法律は知床半島から沖縄与那国島までを対象にするから全国画一基準である。地域事情を考慮できないから低水準である。 

第二は省庁が権限を競い合うタテワリ行政であるから総合行政にならない。

第三は全国的に問題が顕在化しないと法律・政策にならないから敏速に公共課題に対応できない。国の法律と政策の三大欠陥である。

これまでの学問は「国家を理論枠組」とする国家学であった。だが、政府が三層に分化して「市民自治の自治体学」が必要になってきた。

「国家統治を市民自治に」「中央集権を地方分権に」「行政主導を市民参加に」組替える自治体学である。自治体学の学会を設立して二十年が経過した。 

情報公開条例、市民参加条例、政策評価制度、住民投票条例などの「自治制度」が整備され、最近は「市民自治基本条例」が注目されている。

市民自治基本条例

基本条例を制定するのは「代表制民主制度」を揺るぎないものにするためである。

そこに規定するのは「市民自治の理念」と「自治体運営の原則」である。

● 市民自治の理念

1 市民が選挙で首長と議会を選出して代表権限を信託する。

(信託は白紙委任ではない)

2 市民は信託した代表権限の運営が逸脱しないよう市民活動で制御する。

(住民投票は制御の一つである)

3 市民は代表権限の運営が信頼委託を大きく逸脱したとき信託解除権を発動する。 (解職{リコール}して代表者を再選出する)

● 自治体運営の原則

A 行政運営の原則

1 政策情報の公開と共有、

2 権限ある職位にある者の説明責任

3 財政・財務の公開

4 総合計画策定への参画

5 政策評価制度 

B 議会運営の原則

1 公開性・透明性

2 議会運営への市民参加 - 公聴会、参考人

3 提案者の反問権

4 常任委員会の議案提出権

5 議長の議会召集権

  

C 法令の自主解釈権 

D 住民投票手続

* 最高規範性



学生は「基本条例が必要な理由」を考える。それが「自治体学」の講義である。
8 自治体学の二十年 あ と が き
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8 自治体学の二十年 あ と が き     2006-8-20

 自治体学会は二十年の歳月を経過した。

歴代代表委員、運営委員の方々、事務局を担当して下さった自治体の皆様方のお力である。

 学会設立のころは小学生であった人も自治体学会に参加して活動している。

「市民自治」「政府信託」「基本条例」などの自治体理論の概念・用語は普く広がった。市民自治の制度整備も進んでいる。進歩進展である。

だが、状況を切り拓く情熱と批判的思考力は継続し保持されているであろうか。

例えば、今次合併の住民投票で「開票せずに焼き棄てる」の事態が生じた。そのとき「何ということを」の怒りも似た心情が「自身の内に」生じるのか、それとも「それもあり」と他人事のように思うだけなのか。それが問題なのだ。平素、口にする「自治」「参加」には何の意味もない。

また例えば、隣国の主席と大統領が「歴史の事実」を基にして「最大の外交問題」だと言っているときに、靖国参拝は「心の問題」であると加害国の首相が言う。そのときも、「自身の内に」如何なる心情が生じるのか。

 「間違っていること」を「間違っている」と発言する。その思念が「自身の内に」生じないのは「批判的思考力の衰弱」である。「思考の座標軸」が定まっていないからである。一歩前に出て「壁」を越えた体験がないからである。つまりは勇気がないということである。

自治体学会の盛会ぶりは真に喜ばしいことであるのか。喜ばしいことであってほしいと切実に思う。

 七十年代には自己の不利益をも覚悟して一歩前に出るエネルギーが存在した。エネルギーが存在したのは、トータルに社会を眺めて批判する社会主義の思想が存在したからであろう。

 現在は状況追随思考が広がっている。それは、社会を全体的に考察し批判する座標軸が見えないからである。現在は争点が無くなったと言われる。無くなったのではない、見えていないのである。

 かつての対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。

現在の対抗軸は「統治」に対する「自治」である。

「国家統治の中央支配」に対して「市民自治の実践」である。 

憲法は「権力に枠を定める最高法規」である。この自明とも言うべき近代立憲制の原則に対して、憲法は「国民に義務を定める」ものでもあると「苦労知らずの二世・三世議員」が言い始めているとの由である。

「国家統治」対「市民自治」が現代社会の対抗軸である。

「国家学の統治理論」に対する「自治体学の信託理論」である。

自治体学会の役割は正に正念場にある。

北海道では、1995年に北海道自治体学会を設立し現在も意欲的に活動を展開している。同じく1995年に開講した北海道自治土曜講座も毎年開講し、ブックレットは100冊を超え「公人の友社」から刊行頒布している。

 日本全国に「自治体理論」と「自治の実践」が浸透することを念じたい。

              2006年 8月 6日    森  啓