■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
松下圭一理論の骨格
(カテゴリー: 自治体学理論
  松下圭一理論の骨格

  本稿は2017年5月21日、札幌市内で開催する「松下圭一先生追悼の集い」での報告である。 
 
1 松下理論の三つの骨格を話します。
 第一は、1975年刊行の 岩波新書『市民自治の憲法理論』で、民主主義は「国家が国民を統治する」ではない、「市民が政府を選出し制御し交替させる」であると明快に論述したことです。松下理論は民主主義の政治理論です。
 民主主義は「国家統治」ではなくて「市民自治」です。国家は統治主体ではないのです。「国家」は擬制の観念です。人々(市民=Citizen=People)が自治共和の主体です。
 この自明なことを、なぜことさらに言わなくてはならないのか、これが問題です。
 
 明治初年に「国権か民権か」の自由民権運動が起こり伊藤博文はドイツに赴いた。そのドイツは、イギリス市民革命・アメリカ独立革命・フランス市民革命に驚愕したドイツ皇帝が「立憲君主制の憲法」で専制支配を続けていた。立憲君主制は「国家観念」を隠れ蓑にする偽民主主義制度である。
 伊藤はドイツから「国家理論」と「立憲君主制」を持ち帰り「立憲君主憲法」をつくった。そして渡辺洪基・東京帝国大学総長に「国家学ノ研究ヲ振興シ、普ク国民ヲシテ立憲ノ本義ト其運用トヲ知ラシムルコト(国家の観念を教え込むこと)ガ極メテ必要」と助言し、1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家学」を正統学とした。そして天皇機関説事件などを経て「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧した。以来(今日に至るまで)大学教育は「国家が国民を統治支配する」の教説であった。

 1945年日本は焼け野原になってポツダム宣言を受諾した。1946年に「天皇統治(国家主権)の明治憲法」から「国民主権の憲法」に180度転換した。1948〜1950年に京帝国大学の学者14人が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上・中・下)を分担執筆して刊行した。しかしながら、戦前に「私立法律学校特別監督条規」を定めて(現在の主要私大法学部の前身である)私立法律学校を東大法学部の統制下におき、つい直前まで「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧していた帝国大学の学者が、「国家統治の観念」から自由になることはできる筈もなかった。
 逐条解説の分担執筆を提案した田中二郎は、その後も「国家の優越的地位の論理」を自身の著作に書き続けた。例えば、行政法の標準的教科書とされた1964年刊行の『新版行政法』(弘文堂)には、「行政法は、支配権者としての国・公共団体等の行政主体とこれに服すべき人民との間の法律関係の定めであることを本則とする」「行政法は、支配権者たる行政主体の組織に関する法、及び、原則として、かような行政主体と私人との間の命令・支配に関する法であり、公共の福祉を目的として、国又は公共団体が一方的に規制することを建前とする点に特色が認められる」と叙述した。

 すなわち、行政が「公」を独占し、国民は行政執行の客体であり「私人」であった。この基本認識が「日本公法学会」「憲法学会」を主導したから「憲法は変われども国家統治は変わらず」が存続しているのです。
 1975年に『市民自治の憲法理論』が刊行されたとき、憲法学者も行政法学者も政治学者も誰も反論できなかった。「松下ショック」と言われた。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』トランスビュー2014年刊、 序章17頁)
 学者は反論できないので「学会」をつくり「国民主権」を「国家主権」と言い換えて「国家が統治権の主体である」と講義して現在に至っているのです。そして毎年その教育を受けた学生が社会人になっているのです。でありますから、民主主義は「国家統治」ではない。「市民の自治共和」であると言い続けなくてはならないのです。「市民が政府を選出し制御し交替させる」のです

 「国家」の語は (オカミ)(オオヤケ)を連想させて国民を丸ごと包括し絶対・無謬をイメージさせる言葉です。権力の座に在る者の「隠れ蓑」の言葉です。
しかしながら「国家三要素説」は二重概念の非論理的な曖昧説明です。「国家法人論」は国家を統治主体と擬制する理論です。
民主主義の理論は市民が代表権限を政府に信託する「政府信託理論」です。
 選挙は白紙委任ではない。選挙は「信頼委託契約」です。政府が代表権限を逸脱するときは「信託契約」を解除する。市民自治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」です。
 これが松下理論の骨格の第一です。


2 松下理論の骨格の第二は「市民」と「自治体」です。
 「市民」と「自治体」が、現代社会(都市型社会)の政策主体であるとの理論を提示しました。(『市民自治の憲法理論』50頁 )
① 市民
 松下さんは北海道地方自治研究所の講演で(2007年6月20日)、市民とは市民型規範を自覚して考え・活動する「人間型」です。民主政治は (自由・平等)という生活感覚、(自治・共和)という政治文脈をもつ〈人間型〉としての「市民」を前提としないかぎり成り立たない。市民政治が実質可能となるには、その主体の個々の人々が「市民」という人間型を規範として設定せざるを得ないのです、と説明しました。(北海道自治研ブックレット「再論・人間型としての市民」)
「市民」は規範概念です。「規範概念」「規範論理」「規範意識」は(骨格の三)で話します。

 日本語の「市民」はイギリス市民革命の「Citizen」の訳語です。明治啓蒙期に福沢諭吉が翻訳したと言われています。「イチミン」と発音します。だが、戦前も戦後も「市民」の言葉は使われなかった。国家統治の時代は「皇民」「臣民」「国民」であった。
 日本が「都市型社会に移行を始めた1960年前後に「住宅・交通・公害・環境」などの都市問題が発生し「市民運動」が激発して「市民」の言葉がマスコミで使われるようになった。 
 1966年の松下圭一『〈市民〉的人間型の現代的可能性』(思想504号)で、ロックの《近代市民》に対して「都市型社会の《現代市民》」の可能性を理論提示しました。都市型社会の《現代市民》が「松下市民政治理論」の中核概念です。
《近代市民》と《現代市民》の違いは、前記「北海道自治研ブックレット」の78頁をご覧ください。このブックレットは松下理論の理解にはとても良い本です。

 「市民」の概念を理解するには「市民と住民」の違いを考えることです。
[市民と住民]
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」です。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味です。
 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語です。近代イギリス市民革命の担い手で「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民社会の主体」です。
 だが、福沢諭吉が期待をこめて翻訳した「市民」は使われなかった。
 明治政府はドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」で忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだのです。臣民とは天皇の家来です。自立して社会を担う「市民」はタブーでした。
 1945年の戦後も使われなかった。弾圧から蘇った社会主義の人々が「市民」を「所有者階級」と考えたからです。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と訳されました。
 都市的生活様式が日本列島に全般化した1980年代に至って、ようやく福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々」によるまちづくりの実践が全国に広がったからです。
 近代市民革命の市民は「有産の名望家」でした。しかしながら、「現代の市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々です。 社会が成熟して普通の人々が市民である条件が整ったからです。「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」です。

「住民」とは、村民、町民、市民、道民などの行政区割りに「住んでいる人」のことです。
 「住民」は、住民登録・住民台帳・住民税という具合に行政の側から捉えた言葉です。行政の統治客体が「住民」です。住民は被治者であり行政サービスの受益者です。「住民」の言葉には上下意識が染み付いています。
 「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存する(陰で不満を言う)人です。行政サ―ビスの受益者とされる人です。そして「市民」は、公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人です。政策の策定と実行で自治体職員と協働することもできる人です。

 しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉です。理性がつくった概念です。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しません。実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在です。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのです。
 都市型社会が成熟し「生活が平準化し政治参加が平等化」して、福沢の「市民」は甦ったのです。

② 「自治体」
 自治体は市民の自治機構です。国の政策を執行する地方の行政組織ではないのです。
 「地方公共団体」の語は、憲法制定時に内務官僚が「全国一律統制」を継続する意図で、GHQ 原案のLocal self-government(地方政府)を「地方の公共団体」と訳語したのです。
 内務官僚は「知事公選」に猛反対しました。だがGHQに押し切られて反感を抱き、原案の文意を様々にスリ換えました。スリ換えた内容は、岩波新書『日本の地方自治』(辻清明-1976年) の72-81頁に詳しく記されています。
 
 松下理論は「多元重層の分節政治理論」です。
 1975年の『市民自治の憲法理論』(112頁)で、自治体が「シビルミニマムの策定」や「公害規制基準の制定」などの「自治体主導の政策」を既に実行している事例を示して、自治体は憲法機構であり「自治立法権」「自治行政権」「自治解釈権」を保有している、と理論提起しました。この理論提起が「自治体の発見」と評されたのです。
 1980年代、工業文明が進展して「前例無き公共課題」が噴出増大しました。これらの公共課題は、ⅰ国際間で基準を約定して解決する課題、ⅱ国レベルの政府で全国基準を制定して解決する課題、ⅲ自治体で解決方策を策定して解決する課題に三分類できます。そして政府も国際機構、国、自治体の三つに分化します。自治体は公共課題を解決する政府です。

 橋本竜太郎内閣のとき、菅直人議員が衆議院予算委員会で「憲法65条の内閣の行政権は(どこからどこまでか)」と質問しました(1996年12月6日)。大森内閣法制局長官が総理大臣に代わって「内閣の(つまり国の)行政権限は憲法第八章の地方公共団体の権限を除いたものです」と答弁しました。これが公式政府答弁です。 
 つまり、自治体は独自の行政権限を有しており、自治体行政を行うに必要な法規範を制定する権限を憲法によって保持しているのです。国の法律を解釈する権限も有しているのです。自治体は憲法機構です。

 ところが、「国家統治の伝統理論」から脱却できない学者は、自治体の(政策自立-政策先導)が現出しているにも拘らず、自治体を憲法理論に位置付けることができない(定位できない)のです。
 例えば、小林直樹教授は『憲法講義(1975年改訂版)』で「国民とは法的に定義づければ国家に所属し国の支配権に属人的に服する人間である」(憲法講義上23頁)。「自治体は国家の統一的主権の下で、国家によって承認されるものとして成り立つ」(憲法講義下767頁)と述べています。小林教授は「市民」と「自治体」を憲法理論に位置付ける(定位する)ことができないのです。
 樋口陽一教授は、『近代立憲主義と現代国家』で「国民主権の形骸化の現実」を説明するために「国民主権の実質化・活性化」への理論構築を放棄しています。そして「国民主権」を「権力の所在を示すものでしかないものだ」とする論理を述べます。この論理は「国民主権による政治体制の構成」という憲法理論の中枢課題自体を実質的に放棄しているのです。
 なぜそうなるのか。お二人は「国家統治」と「国家法人論」を憲法理論の基軸にしているからです。だが「国家法人論」は国家を統治主体に擬制する理論です。民主政治は市民が代表権限を政府に信託する「政府信託論」です。
 以上の指摘の詳細は、松下圭一『市民自治の憲法理論』(117頁-123頁)をご覧ください。

3 「都市型社会」と「政策型思考」
松下理論の骨格の第三は「都市型社会」と「政策型思考」です。
 「都市型社会」は「近代社会」がいかにして「現代社会」に構造変化したかを認識する概念です。「政策型思考」は松下理論の思考の方法論です。

都市型社会とは、都市地域だけではなくて、山村・漁村・僻地にも工業文明的生活様式が全般化した社会のことです。
 人類発生以来、採取・狩猟の社会であった。やがて農業技術を発明して定着農業の社会(農村型社会)になった。{人類史上、第一の大転換}  やがて16-17世紀ヨーロッパに、産業革命・市民革命による工業化・民主化=(近代化)が始まり、数千年続いた農村型社会(身分と共同体の社会)の解体が始まる。20世紀に、工業化(情報技術のさらなる発達)・民主化(民主政治の思想と制度の広がり)が進展して、先進地域から順次に「都市型社会」への移行となった。{人類史の第二の大転換} 

〈都市型社会〉の論点は、現代社会を「如何なる社会と認識するか」です。つまり、工業化と民主化が進展して数千年続いた〈農村型社会〉が〈都市型社会〉に大転換した、の「認識の有無」の問題です。
 (多くの)学者の理論は「現代社会の構造変化」を認識しない理論です。つまり理論前提が「ガラリ変わっている」ことを認識しない「農村型社会」の理論です。
 都市型社会では、人々の生活条件の整備は〈共同体〉ではなく〈政策・制度〉という公共政策によって整備されます。 
 「都市型社会」の詳細説明は松下理論の主著『政策型思考と政治』の18頁(大転換としての都市型社会)をお読みください。
 
② 政策型思考
 論理には説明論理と規範論理があります。
 「説明論理」は、事象を事後的に考察して説明する思考です(実証性と客観性)が重要です。
「規範論理」は、(あるべき未来)を目的に設定して実現方策を考案する思考です(予測性と実効性)が重要です。
 政策型思考とは規範論理による思考のことです。松下市民政治理論の方法論です。

1) (あるべき)とは当為です。(かくありたい)(かくあるべき)は「規範意識」です。
2) (あるべき未来)は構想です。夢想ではありません。未来に実現を予測する構想です。
3) (あるべき未来を構想する)のは「規範概念による思考」です。 

 松下理論(著作)を難解だと思うのは「規範論理」で論述されているからです。
「規範概念」と「規範論理」を了解納得するには、(あるべき未来)を目指して一歩踏み出し、困難な状況に遭遇して、自ら困難を切り拓いた(いくらかの)体験が必要です。
 (あるべき未来を希求する)のは、「現状に問題あり」の認識があるからです。問題意識のない状況追随思考の人には(あるべき未来)を構想することはありません。
 構想するとは「何が解決課題であるか」「解決方策は何か」を模索することです。
「何が課題で方策は何か」を模索するのは経験的直観です。その経験的直観は「困難を怖れず一歩踏み出した実践体験」が齎します。「人は経験に学ぶ」という格言の意味は、一歩踏み出し困難に遭遇して「経験的直観」を自身のものにすることです。実践と認識は相関するのです。実践の概念認識が「経験的直観」です。
(知っている)と(分かっている)には大きな違いがあります。違いは実践体験の有無です。 人は体験しないことは分からないのです。


 本日の案内ビラにも転載されておりますが、松下先生はご自身の方法論を次のように説明しています。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』338頁「私の仕事」)
『私の社会・政治・行政理論の〈方法論〉は「歴史の変化のなかに現実の構造変化を見出し」、「現実の構造変化をおしすすめて歴史の変化をつくりだす」という考え方です』
 (歴史の構造変化を見出す) (歴史の変化をつくり出す) とはどのようなことか、
本日後半の討論で考えたいと思います。  (森 啓)

■松下圭一先生追悼の集い
■日時  2017年5月21日(日)13:00~16:00(開場12:30)
■会場  北海道自治労会館(3階)第1会議室(北6西7)
■プログラム
 ・講演:森啓「松下理論とは」
 ・論点提起:政策型思考研究会会員などからの発言
 ・会場討論:「松下理論」から学んだこと
■会場討論
・学者が「松下先生の著作を読まないことにしている」のはなぜであろうか。
・松下理論の著作が難解だと言われるのは何故か
・憲法は「天皇主権」から「国民主権」の憲法に変わった。
だが大学では「憲法とは国家統治の基本法であると講義(教説)している。なぜであろうか。


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松下圭一「政策型思考と政治」(東大出版会)を読む (五回講座)
(カテゴリー: 自治体学理論
(追悼・松下圭一先生)
 松下圭一「政策型思考と政治」を読む (五回講座)

  さっぽろ自由学校「遊」(愛生舘ビル六階 604)            
  テキスト 松下圭一「政策型思考と政治」(東大出版会)       
  講座内容 本書は「松下市民政治理論」の基本書である。
  第一章から第五章までを熟読して「市民政治理論」の基本論     点を理解する。

  第一章 政治・政策と市民 (11月2日)
 現代社会は、水道も下水も、道路もバスも電車も、電気もガスも、つまり生活の全てが、(政策と制度) の網の目の中で営まれる。市民生活に直結する政策・制度を政府(官僚)に任せておいたのでは「お上の政治」から脱却することはできない。
 ・「都市型社会」とはどのような社会か。
 ・都市型社会 の「市民と政府の関係」を考える
 
  第二章 都市型社会の政策 (12月7日)
 工業文明の発達進展で人々の「生活様式・生活意識」が平準化して、資本主義か社会主義かの(かつての)体制選択が幻想であったことが明瞭になる。論点は官僚主導の政策・制度を如何にして市民制御に転換するかである。
 ・生活様式(暮らし方)の平準化によって人々の政治意識はどう変わるのか
 ・都市型社会と男女平等社会はどのように関連するのか
 
  第三章 「近代化」と政策の歴史 (2017年1月11日)
 近代化とは(工業化と民主化)のことである。工業化が進展して前例なき公共課題(大気汚染・河川汚濁・温暖化・都市景観・緑地減少・現代的貧困)が噴出して、[福祉政策・環境政策・都市政策]が不可欠必要になる。
 ・「シビルミニマム」とは何か、言葉が広がったのはなぜか
 ・前例なき公共課題の解決には「市民参加」が必要となる論拠を考える 
 
  第四章 分権化・国際化・文化化 (2月7日)
 都市型社会が成熟して自治・共和型の「市民」が大量に醸成される。「国家」をめぐる問題状況も一変する。自治体が地方政府として自立する。
 ・住民と市民の違いを考察して討論する
 ・自治体が政府である理由と論拠を学ぶ
   
  第五章 日本の政策条件 (3月7日)
 ヨーロッパで16~17世紀に始まった近代の「ステート」を、日本では「国家」と翻訳して「国家統治の観念」をつくった。その「国家観念」は (絶対・無謬・包括)の官僚統治であった。しかしながら政府の権限は市民が信託(契約)した権限である。
 ・国家法人理論と政府信託理論の違いを学ぶ。
 ・信託契約解除理論(ロックの革命権理論)を考察する
「住民」と「市民」
(カテゴリー: 自治体学理論
「住民」と「市民」

[市民]
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」である。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味である(注2)。
 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語で福沢諭吉が「社会を担う主体的な個人」の成熟を念願し期待して翻訳した言葉である。シティズンは、近代イギリス市民革命の担い手で「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民社会の主体」である。福沢は「一身の独立なくしては」と唱え、自由と平等の精神を持つ自立した人間が開国日本に育つことを希求したのであろう。「シティズン」が有している自由と平等の考え方を導入しなければと考えたに違いない。自己の才覚で利益も損失も判断していきいきと市(いち)で働く庶民こそが「シティズン」の訳語にふさわしいと考えたのであろう。「市民」(いちみん)と翻訳した。だが、福沢が期待をこめて翻訳した「市民」は使われなかった。

 明治政府は、皇帝が君臨していた後進国ドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」によって忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだ。臣民とは天皇の家来である。絶対服従の家来である。自立して社会を担う主体の観念はタブーであった。1945年の戦後も使われなかった。弾圧されていた社会主義の思想が甦り、「市民」は「所有者階級」と考えられた。使われた用語は「人民」であった。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と訳された。

 都市的生活様式が日本列島に全般化し地方分権たらざるを得ない1980年代に至って、ようやく、福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々」によるまちづくりの実践が全国に広がったからである。しかしながら、国家統治の官庁理論の人々には「住民」と「市民」の違いが分からない。行政機構の内側に身を置いて官庁理論でやってきた公務員には、市民運動の人達は目先利害で行動する身勝手な人たちに見えるのであろう。そしてまた、公共課題の解決のために地域の人達と連帯して行動し、感動を共有した体験のない学者や評論家は「合理主義・個人思想・人権革命の歴史を持たない日本では市民などはいないのだ」などと言うのである。近代市民革命の時の市民は「有産の名望家」であった。しかしながら、現代の「市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々である。都市型社会が成熟して、普通の人々が市民である条件が整ったのである。
 

[住民]
 「住民」とは、村民、町民、市民、県民など、行政区割りに「住んでいる人」のことである。そして「住民」という言葉は、住民登録・住民台帳・住民税というように、行政の側から捉えた言葉である。行政が統治し支配する客体が「住民」である。住民は被治者で行政サービスの受益者である。「住民」という言葉には上下意識が染み付いている。その上下意識は住民の側にも根強く存続しているのである。長い間、行政法学は「行政」を優越的主体と理論構成した。そして「住民」は行政執行の客体で被治者であった。「住民」という言葉には「自治主体」の観念は希薄である。

「住民」と「市民」
「住民」を「市民」との対比で定義すれば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存する(陰で不満を言う)人で、行政サ―ビスの受益者とされる人である。「市民」は、公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人。政策の策定と実行で自治体職員と協働することもできる人である。
 しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉である。理性がつくった概念である。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しない。実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在である。人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのである。都市型社会が成熟して、生活が平準化し政治参加が日常化して、福沢の「市民」は甦ったのである。 (「新自治体学入門」時事通信社 112頁)

「市民」の出現
心の原風景を共有する歴史的な建物を保存する運動する人達、障害者に優しいまちをつくる運動を進める人々が日本の各地に現れた。新聞やテレビは、公共感覚で行動する人達を「市民」という言葉で報道するようになった。運河保存の運動を続けた小樽の方々はまさに市民であった。普通の人々が情報と余暇を持つことができるようになったからである。かつては、特権階級だけが自由な時間・経済的なゆとり・情報と教養を独占していた。近代化が進展し工業化と民主化が一般化して都市型社会と言われる社会構造の変化が起きた。普通の一般大衆が余暇と教養と情報を享受することができるようになった。身分や特権を持たない普通の人々が「市民」になる条件が整ってきた。
古代の都市国家の市民も、中世の都市貴族も、近代市民革命のときの市民も、すべて、特権をもつあるいは財産をもつ一部の人達であった。古代都市国家には奴隷、中世には農奴、近代には下層労働者・農民が多数いた。多数の人々は社会を担う主役ではなかった。都市型社会が成熟して普通の人々が「住民」から「市民」に成熟する条件が整ってきた。地域文化の主体としての「市民」は、夢想の理想イメージではなく、現代社会に登場している。

 人間は体験しないことは分からない。行政機構の内側にいて官庁理論でやってきた管理職の公務員は市民運動の人達は自己利益で行動する身勝手な人達にみえる。学者や評論家もまちづくり運動で苦心する人達と連帯し共に感動した体験のない人は「市民」は合理主義・個人思想・人権革命の歴史をもたない日本には難しいと言う。
 未来を構想し現在に問題を見出し、解決方策を模索し行動を始めた人でなければ、問題意識をもって行動した体験がなければ、現在に未来の予兆を見ることは出来ない。「主体イメージ」はいつも漠然である。


安倍政権の沖縄差別
(カテゴリー: 自治体学理論
安倍政権の沖縄差別

安倍政権は沖縄県民を差別している。
普天間基地の代替だと称して「辺野古に軍港をも備えた本格基地」の建設を強行している。
安倍首相も菅官房長官も「沖縄県民の負担軽減」だと言う。
「負担軽減」と言うのなら、そして「米軍基地が日本の防衛に必要」と言うのなら、沖縄県外に (日本の何処かに) 建設すべきである。 なぜ沖縄に「空港・軍港・爆弾庫」の本格基地を押し付けるのか。沖縄県民を差別しているではないか。
そして安倍政権を存続させている吾吾も「沖縄差別」に加担しているのである。

2016・北海道自治体学土曜講座 
  第一回(5月7日)
   沖 縄 問 題 ~沖縄の人々の苦難は他人事ではない~
「沖縄問題」と「福島問題」は現在日本の最大の緊急課題である。警視庁機動隊を常駐させて、軍港をも備えた本格基地の建設を暴力的に強行している実態を、日本の人々はどれくらい知っているか。日本政府が、沖縄の人々に「危険な米軍基地」を押し付け続ける理由は何か。日本の人々は「明治の琉球処分」から「現在の米軍基地」までの、再三再四の「沖縄差別の歴史」をどう考えているのか。本土(ヤマト)のメディアは、NHKを筆頭に沖縄差別に加担しているではないか。「沖縄の米軍基地」と「北海道の北方領土」は共通の問題である。これらを討論する。 
   宮本憲一 (大阪市立大学名誉教授) 
   松元 剛 (琉球新報編集局次長兼報道本部長)
   徃住嘉文 (北海道ジャーナリスト会議)  
   森  啓 (土曜講座実行委員)

会 場 北海学園大学3号館22番教室(札幌市豊平区旭町 4 丁目1-40)
地下鉄東豊線「学園前駅」下車。3番出口直結。
参加費 全5回前納:5,000円 1回分:1,500円 (学生無料)
お問合せ メール jichidoyo2016@yahoo.co.jp
電話 011-841-1161 内線 2737(北海学園大学経済学部 内田研究室)

自治体学-市民政府信託理論
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学-市民政府信託理論

民主主義は「国家の統治」ではない。
「市民の自治・共和」である。
民主政治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。
政府の権限は市民が信託した範囲の権限である。

序 説
1 代表民主制と日本の憲法理論
(1) 日本の憲法理論は特殊である
(2) 註解日本国憲法
(3) 学者の憲法理論  
(4) 学者は自由に発想できない
(5) ジョン・ロックの主著「市民政府論」

2 代表民主制と市民自治
(1) 市民自治と自治体改革
(2) 市民自治と自治基本条例 
(3) 自由民主党の政策パンフ

3 代表民主制と行政文化 
(1) 行政文化
(2) 思考の座標軸
(3) 行政文化の改革
(4) 掛川市の「ルームクーラー問題」
(5) 自治体職員の職業倫理
(6) 想像力の衰弱

4 代表民主制と市町村合併
(1) 合併とは何か
(2) 合併促進の経緯
(3) 市町村の対応
(4) さらなる合併促進策
(5) 合併と住民投票
(6) 市町村合併の検証
(7) 市町村合併の論点

5 市民自治の政府信託理論
(1) 政府信託理論
(2) 市民が直観する「行政不信」
(3) 実践理論

上記内容の『市民政府信託理論-(代表民主制の理論)』を執筆刊行した。 (北海学園大学開発研究所「開発論集」011-841-1161)
市民政府信託理論-代表民主制の理論
(カテゴリー: 自治体学理論
市民政府信託理論-代表民主制の理論

民主主義は「国家の統治」ではない。「市民の自治・共和」である。 民主政治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。市民は国家に統治される被治者ではない。

71年前、日本中が焼け野原になり食べる物も無くなり、広島と長崎に原子爆弾を投下されて「二度と戦争はしない」と覚悟して憲法を定めた。憲法は「国民主権」になったが「民主主義」は根付いていない。
戦争中は「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧されていたから、人々の心の奥底に「国家統治」の観念が残っている。
現在は「国家」「統治」の論調が勢いを盛り返し明治憲法への郷愁すらも蠢いている。
 
そこで、下記内容の
 『市民政府信託理論-(代表民主制の理論)』を執筆した。


1 代表民主制と日本の憲法理論
(1) 日本の憲法理論は特殊である
(2) 註解日本国憲法
(3) 学者の憲法理論  
(4) 学者は自由に発想できない
(5) ジョン・ロックの主著「市民政府論」

2 代表民主制と市民自治
(1) 市民自治と自治体改革
(2) 市民自治と自治基本条例 
(3) 自由民主党の政策パンフ 

3 代表民主制と行政文化 
(1) 行政文化
(2) 思考の座標軸
(3) 行政文化の改革
(4) 掛川市の「ルームクーラー問題」
(5) 自治体職員の職業倫理
(6) 想像力の衰弱

4 代表民主制と市町村合併
(1) 合併とは何か
(2) 合併促進の経緯
(3) 市町村の対応
(4) さらなる合併促進策
(5) 合併と住民投票
(6) 市町村合併の検証
(7) 市町村合併の論点
Ⅰ 合併は長と議会だけで決めてよいか 
Ⅱ 直接民主制と間接民主制
Ⅲ 住民投票を開票せず焼却してよいか

5 市民自治の政府信託理論
(1) 政府信託理論
(2) 市民が直観する「行政不信」
(3) 実践理論

本論稿を北海学園大学「開発論集」(2016年3月)に掲載する。
関心ありて、ご覧下さる方に差し上げたく思う。
松下圭一著『成熟と洗練―日本再構築ノート』を読む
(カテゴリー: 自治体学理論
   さっぽろ自由学校「遊」講座案内
松下圭一著 『成熟と洗練―日本再構築ノート』を読む

 前期開講の「市民自治とは何か~民主主義の理論・松下圭一を読む~」に引き続き、後期は松下圭一さんのエッセイ集「成熟と洗練―日本再構築ノート」を読み込みます。2006 年ごろから東日本大震災を挟んだ2012 年まで、松下さんが日本の政治・社会が直面する時々の課題を、友人・知人、後輩と論議したスタイルになっています。
 憲法、労働問題、官僚制度、地方自治、震災対策…と取り上げるテーマは多彩です。そこにうかがえるのは松下さんのいう「転
形期」にある日本社会の姿です。これらに対し、松下さんの長年培った学識、豊富な社会経験を踏まえた「松下学」の精髄が綴られています。松下さんは今年5 月他界されましたが、まさに遺言の書といったところです。
 前期に松下理論の根幹を解説していただいた森啓さんに再びコメンテーターとして、レポーターを補足してもらいます。「松下学」を学ぶとともに、課題解決の糸口を論議する講座です。

●10月14日(水)開講 全6回 月1回水曜18:45 ~ 20:45
  10/14, 11/11, 12/9, 1/13, 2/10, 3/9
●会 場 さっぽろ自由学校「遊」(愛生舘ビル6F 604)
●受講料 一般5,000 円 会員4,000 円 ユース2,000 円 (単発 一律1,000 円)
●コメンテーター 森 啓(もり けい)
 中央大学法学部卒、神奈川県自治総合研究センター研究部長、北海道大学法学部教授を経て、現在・北海学園大学法科大
学院講師。自治体政策研究所 理事長。
(詳細はブログ「自治体学」http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/ を参照)
●テキスト 松下圭一著『成熟と洗練―日本再構築ノート』(公人の友社、2012 年)2,700 円
       ※テキストは各自ご用意ください。
自治体とは
(カテゴリー: 自治体学理論
   自治体とは

 質問があったのでお答えする。
 「自治体」とは「行政機構(役所)」のことではない。自治体の主体は市民である。市民が政府(首長と議会)を選出し制御し交代させるのである。これが「市民自治の政府信託理論」である。選挙は代表権限の信託契約である。信託は白紙委任ではない。四年期限の信頼委託契約である。重大な背信行為のときには「信託解除権」の発動となる。
 行政機構は市民自治の事務局であって「統治機構」ではない。
 
 自治体学会で「自治体」の概念をめぐって次のように見解が錯綜したことがあった。
(1) 「自治体」とは「政府」のことであるから「市民」は含まない。 
(2) 「自治体」とは「市民」と「政府」の双方を包含する言葉であ る。
(3) 役場の文書や会議で使う「自治体」は「都道府県庁、市役 所、町村役場」のことだ。
(4) 役所だけを「自治体」と僣称することに違和感を覚える。
(5) 自治体とは「まち」のことで、自治体は空間的イメージであ る。
 概念・用語は思考の道具である。理論的思考力を高めるには基礎概念を曖昧に使用してはならない。

 旧内務省の言葉遣いでは住民は行政の被治者であって「自治主体」ではない。お上の官庁を住民が批判し制御する「政治主体」を認めない。だから、「県庁や市役所」が「地方公共団体」であり「自治体」であった。
 だが、旧内務省用語で基礎概念を混同してはならない。
 「自治体」とは「自治主体の市民」と「制度主体の政府」を意味する言葉である。
 (詳細は「新自治体学入門」2章「自治体の概念」(16頁) に記載した)

 「地方公共団体」と「自治体」
 総務省官僚は意図的に「自治体」と言わない。「地方公共団体」の言葉を使う。なぜであろうか。
 総務官僚が全国の都道府県・市町村を統制支配したいからである。旧内務官僚の統制支配の意識が今も継続保持されているのである。そして、この統治意識を再生産しているのが、大学法学部の憲法・行政法学の講義である。

 試みに、憲法・行政法の大学教授に、「国家統治と市民自治の違いは」、「国家主権と国民主権はどう違うのですか」、「国家三要素説は機構概念と団体概念の曖昧な二重概念ではないのか」などを質問されては如何であろう。
大学の講義は明治憲法のままである。「憲法を国家統治の基本法である」と講義して「国家が統治権の主体である」とする。そして「国民主権を国家内の憲法制定権力である?」と曖昧に説明する。
 
 かくして、「憲法は変われども国家統治は変わらず」である。市民(Citizen、People)は国家に統治される被治者である。
自治体学会は「国家統治」の理論を「市民自治」の理論に転換する研鑽の場として設立されたのである。

 2015年5月13日から、さっぽろ自由学校「遊」で、「市民自治とは」の講座を開講する。この講座で「なぜ大学の講義は明治憲法のままであるのか」、大学の憲法・行政法の講義が 「みんなで渡れば怖くないになっているカラクリ」を解明する。
 

  
北大政治研究会に出席しの疑問
(カテゴリー: 自治体学理論
  北大政治研究会に出席しての疑問

 久方ぶりに北大定例政治研究会(2015-1-15)に出席した。
 「戦後府県行政の出発―組織と人事を中心として」のテーマに興味を感じたからである。 
 報告は新進気鋭の研究者で資料を丹念に分析した内容であつた。
 だが、いくつか疑問を感じた。
 その疑問をここに記述するのは、「現在の大学教育」と「最近の学者の研究」に危惧を感じるからである。

1 研究テーマは「戦後府県行政の出発」である。
であれば、戦前・戦中は「こうであつた」。だが戦後は「こうなった」と、組織と人事の変化(違い)を提示すべきである。即ち、「戦前・戦中の内務官僚による地方支配の人事」と「公選知事による自治体自立の人事」との対比を検証するべきである。
たしかに、府県の大勢は戦前・戦中の継続に見えるであろう。しかしながら、研究課題を「戦後府県行政の出発」と定めたのであるから、研究の基軸に戦前と戦後の「理念の対比」が無くてはなるまい。すなわち、戦前の「集権統治」に対する戦後の「自治分権」を対比しなければ「戦後府県行政の出発」の実証分析にならないではないか。
 たとえ微々たる変化であろうとも、自治体自立の組織・人事の「萌芽と展開」を実証する。
 それが「戦後府県行政の出発」の研究であろう。

2 研究会に提出された資料は、内務省支配が強固に続いていた山陰と東北の、戦後間もない頃の「県の幹部人事と役職名」である。資料が消失した戦後の「幹部人事と役職名」を掘り起こす調査に意味が無いとは言わない。だが、昨今は「誰もやっていない」というだけの「すきま研究」が流行っているらしい。実証的で客観的なだけで近接領域のことは何も知らない細分研究を、若手学者が評価し合っている現状を疑問に思う。
 北大政治研究会の「報告と討論」には「何のための研究であるのか」の問題意識がまことに希薄であった。

3 戦後府県行政の出発とは、「戦前・戦中の省庁政策への従属」を脱して、自前で政策課題を設定し解決方策を開発する「自治体の政策自立への出発」である。そのための「組織と人事の変化」を実証研究することである。戦前・戦中の官僚支配の「人事と組織」が、戦後にどのように変化したかを、実例を提示して分析することである。
 しかしながら、研究者自身の内に「何のための研究か」の明確な問題意識がなければ、その研究方法は見出せないであろう。
 府県行政の出発とは「府県独自の政策展開」である。府県独自の政策とは、例えば、沿道修景美化条例であり、公害条例であり、情報公開条例であり、文化の見えるまちづくり政策である。姉妹都市の外交政策であり、シビルミニマムによる総合計画の策定である。

4 何ごとも人である。組織を生かすのも人である。
 研究報告が「組織と人事」に着目したのは賢明であった。だが「その人事」とは「どのような人材の配置」であるのか、その人材が育つ組織をどのように設けたか、を検証しなくてはなるまい。 
 すなわち「地方公務員の養成」ではなく「政策課題を見出して実行する職員」が育つ組織をどのように設けたかを検証すべきである。それは「公務の研修」から「自治の研究」を目指して「研修所の再編成」が全国各地に展開された1980年代の府県の動向を検証することである。
 そして、事後的説明学である行政学の「政策研究」とは異なる概念の「政策研究」が府県に広がって自治体学会を設立するに至った経緯を検証することである。

5 北大政治研究会に出席していた「大学院生」「学部学生」は、このような「報告と討論」で如何なる研究能力を身に付けるのであろうか、どのような人材として育つのであろうか、(まことに失礼な言い方ではあるが)、疑問に思った。

日本の憲法理論は特殊である
(カテゴリー: 自治体学理論
    日本の憲法理論は特殊である

1 さっぽろ自由学校「遊」の「民主主義講座」の第三回は、憲法学者の「立憲制と民主主義」であった。
 ところが、90分の講義で「市民」「政府」「市民自治」の言葉は一語も出なかった。講義の用語は「国民」「国家」「国家統治」であった。  
 そして、「国民主権」と「国家主権」はどう違うのか、の質問には明晰に答えず(答えることがてきず)、曖昧にはぐらかした。
 質問者は、統治権は「国家」にあるのか、主権者である国民が権限を信託した「政府」にあるのかを訊ねたのである。
 憲法学者の「国家三要素説」では「国民は国家の一要素」になる。それは「国民主権」を否認する考え方である。そもそも「国民主権」と「国家主権」は両立しない。「国民」を「国家の要素」と考える「国家主権」は「帝国国家の明治憲法」の理論であったのだ。
 統治権の主体は「市民が権限を信託し制御し交代させる政府」であると考えるのが民主主義の理論である。それが「国民主権」である。質問者は「国民主権」と「国家主権」はどう違うのか、と質問形式でその確認を求めたのである。

 日本の学者の憲法理論は特殊である。
 日本の憲法は21世紀の未来を展望する第一級の憲法典である。だが日本の憲法学の理論は旧思想を引き摺った二流である、二流であると言わざるを得ないではないか。
 学者の憲法理論は「憲法を国家統治の基本法」とする。つまり「国家が国民を統治する」である。国民は「国家に統治される被治者」である。これが現在日本の憲法理論である。
 なぜこのような理論になっているのか。

2 1946年、「帝国国家の憲法」から「国民主権の憲法」に180度転換した。だが「憲法は変われども国家統治は変わらず」であった。なぜであろうか。
 1948年~1950年、17人の東京帝国大学の学者が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上中下) を刊行した。 
 民主風の言回しで「国民主権の憲法」の逐条解説を分担執筆した。
 だが、長い間、東京帝国大学内には「国家学会」が存在して「国家統治理論」を正統学としてきた。つい直前まで「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧されていたのである。
 すなわち、帝国大学の学者が「国家統治の観念」から自由になることはできる筈もなかった。例えば、分担執筆を提案した田中二郎(行政法)は、その後も「国家の優越的地位」を自身の著作に書き続けた(行政法総論 有斐閣 1957 、要説行政法 弘文堂1960)。国家が公であり国民は私であった。
 この「註解日本国憲法」が、戦後の「公法学会」「憲法学会」を主導したのである。

3 学者は自由に発想できないのである。
 国家官僚への公務員試験も、法曹界への司法試験も、「国家統治の国家学の答案」でなければ合格できない(させない)シクミになっているのである。
 だから、現在の学者も、「国家統治の観念」から自由になれないのである。「市民自治」「市民政府」「政府信託理論」を認めると、長年習得してきた「国家理論の根幹」が崩れるからである。そして学会で相手にされなくなるからである。

4 しかしながら 「国民主権」と「国家統治」は理論として整合しない。 「国民主権」と「国家主権」を曖昧に混同し(巧妙狡猾に)言い換えてはならないのである。  
 「国家」は擬制の言葉である。権力の座に在る者の「隠れ蓑の言葉」である。(映画「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」の悪家老の「藩命である」の恫喝と同じである)
 「国家三要素説」は性質の異なる概念を並べた曖昧な説明である。国民を国家の一要素に閉じ込めて「国家」を統治主体に擬制するための言説である。(「国民」の語は、「国家の一要素」になるから、暫くの間は使わないのが良い)
 民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府信託の理論」「政府制御の理論」「信託解除権の理論」でなくてはならない。
 民主主義は「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。

自由学校「遊」・民主主義講座(2014-9-5)・レジュメ
(カテゴリー: 自治体学理論
 自由学校「遊」・民主主義講座(2014-9-5)・レジュメ

1 民主主義とは
・君主政治―民主政治  
 市民革命
 イギリス市民革命―ロック・理論総括ー「市民政府論」
・独裁制―民主制 
・全体主義ー民主主義 
 民主主義は手続きか  多数の専制 
 民主主義は手続きだけでない。 価値理念・人権思想
・永久革命である (丸山真男) 

2 日本の憲法理論は「国家統治理論」―特殊である。
・特殊な理論とは
・なぜ、国家が国民を統治するのか、権力の座に在る者が国家の名で権力行使をするためである。
・「国家」は権力者の隠れ蓑の言葉である。曖昧な二重概念である。 
・「国家」でなく「政府」である。なぜ「市民」「市民自治」「政府」の言葉を避けるのか。
・なぜ「憲法は変われども「国家統治は変わらず」になったのか
・戦後初期の東京帝国大学の学者17人による「註解日本国憲法」の刊行である。 

3 民主主義の理論
・「国家統治」でなく「市民自治」  
・民主主義は「統治支配」でなく「自治共和」である。
・現代社会では政府は三層に分化する。
・政府信託理論ー政府権限の根拠 選挙は信託契約である。  
・信託解除権の理論
・民主主義の可能性 
  市民の成熟
  住民と市民の違い

4 自治体学とは 
・「国家統治」に「市民自治」を対置して国家学を克服する学である。
・自治体とは行政機構(役所)のことではない。 
・自治体の主体(主人公)は市民である。
・自治体学は地方公共団体の学ではない。
・自治体学は民主主義の理論である。
・すなわち、市民が政府を構成し制御し交代するである。
・自治体学は「市民政治の理論」である。

5 討論 ― 民主主義を足元から創る方策
なぜ、「憲法は変われど国家統治理論は変わらず」であったのか
(カテゴリー: 自治体学理論
 さっぽろ自由学校「遊」・民主主義講座・総括講座 (2014-9-5)

なぜ、国家統治の理論が現在も存続するのか

国家学
 日本の大学は、長い間、「国家が国民を統治支配する国家学」であった。
明治初年に、自由民権運動による「国権か民権か」の争いがあったが、民権運動家を国事犯として弾圧した伊藤博文が、ドイツから「国家理論」と「立憲君主制」を持ち帰り「立憲君主憲法」つくり、東京帝国大学総長に「国家学ヲ振興シ、国民ニ知ラシムルガ必要」と助言して1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家学」を正統学とした。
 爾来、天皇機関説事件などを経て国家統治に疑念をいだくことも禁圧した。

『註解・日本国憲法』
 1946年、「天皇主権の明治憲法」から「国民主権の憲法」に百八十度転換した。
だが「憲法は変われども国家統治の理論は変わらず」であった。
なぜであろうか。
 戦後初期、東京帝国大学の学者(17人)による『註解日本国憲法』(上・中・下巻-1948年~1950年) が刊行された。
だが帝国大学学者が、直前まで禁圧されていた「国家統治理論を脱する」ことはできるはずもなかった。
 この「註解日本国憲法」が、戦後の憲法学・行政法学を主導したのである。
すなわち「国家が国民を統治する理論」が正統理論として(憲法は180度転換したのだが)存続したのである。
 そして現在の学者も、連綿と続いてきた「憲法は国家統治の基本法である」から自由になれないのである。「市民自治」「市民政府」「政府信託理論」を認めると、長年習得してきた「国家理論の根幹」が崩れるからである。そして学会で相手にされなくなるからである。

学者も自由ではない
 実は学者も自由になれないのである。
 国家官僚への公務員試験も、法曹界への司法試験も、「国家統治の国家学の答案」でなければ合格させない(国家が承認をしない)シクミになっているのである。
そして憲法学会、行政法学会の主要メンバーは国家学である。
 学者は学会で相手にされなくなるのをなによりも怖れるのである。
であるから、自由学校「遊」の民主主義講座でも、「市民」「市民自治」「市民と政府」の言葉を一語も使わないのであろう。

民主主義
 民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。市民は国家に統治される被治者ではない。
 自治体学は「国家」を「市民と政府」に分別して「市民と政府の理論」を構成する。すなわち、市民が政府を「構成し制御し交代させる」のである。
 国家学の「国家」は擬制の観念である。曖昧な二重概念である。
 民主主義は「国家の統治」ではなくて「市民の自治・共和」である。
所沢・行政政策研究会(173回)
(カテゴリー: 自治体学理論
   所沢・行政政策研究会(第173回) 

日 時  平成26年7月18日(金)6:30~ 
場 所  所沢市 日吉会館(所沢駅徒歩5分) 

問題提起   森  啓 
1 自治体学とはどのような学か
    国家統治―市民自治  国家観念の擬制 権力の隠れ蓑
    国家三要素説      団体概念と機構概念 二重概念 
    国家法人理論      美濃部達吉以来の理論構成
    政府信託理論

2 自治体学の論点
    信託理論    
    自治体権限の範囲
    国家主権と国民主権
    住民投票
    説明理論と実践理論 

3 北海道自治体学土曜講座(第一回)の論点     
     桶川市のルームクーラー撤去  
     現在日本の状況認識
     市民と学者の違い  
「自治体学とはどのような学か」を刊行
(カテゴリー: 自治体学理論
   「自治体学とはどのような学か」を刊行

 本書は、自治体学が民主政治の理論であることを論述し、自治基本条例が役に立たないのは制定手続きに問題があると論証した。さらに、代表民主制度の形骸化を招いている政治不信・議会不信・行政不信を打開するため「市民政治」「市民議会」「市民行政」への道筋を提起した。次いで、自治の現場における筆者の実践を記述して「実践学である自治体学の内容」を明示した。そして終章に、設立30周年を迎えている自治体学会のさらなる展開を念じ所見を述べた。本書が自治体学と自治体学会の進展に何らかの役に立つならば幸甚である。

第1章 自治体学の概念
 1 国家学と自治体学
 2 市民自治
 3 信託理論
 4 実践理論
 5 「知っている」と「分かっている」
 6 自由民主党の政策パンフ

第2 章 市民政治・自治基本条例
 1 役に立たない基本条例
 2 学者の理論責任
 3 まちづくり基本条例との混同
 4 地方自治法は準則法
 5 自治基本条例の制定目的
 6 議会基本条例
 7 栗山町議会基本条例の根本的欠陥

第3章 市民議会
 1 自治体議会の現状
 2 議会改革の論点

第4章 市民行政
 1 市民行政の概念
 2 行政概念の再定義
 3 市民行政の着想
 4 市民行政の現状
 5 市民行政への疑念

第5章 自治体学の実践
 1 文化行政
 2 文化行政壁新聞「かもめ」
 3 自由民権百年大会
 4 行政ポスターコンクール
 5 行政用語の見直し
 6 神奈川県の情報公開条例
 7 ジュリスト論文顛末記
 8 政策研究交流会議
 9 北海道自治土曜講座
 10 北海道自治体学土曜講座

第6章 自治体学会
 1 設立経緯
 2 自治体学会の運営
 3 「自治体法務検定」
 4 「もう一つの実例」

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河野談話を検証する - 「よく言うよ」
(カテゴリー: 自治体学理論
   河野談話を検証する - 「よく言うよ」 

 「よく言うよ」とは「よくもまあ、そんなことが言えるものだ」である。

 昭和20年8月15日は、ポツダム宣言受諾・無条件降伏の日である。
その日から連日、天をも焦がすかのように、市谷の大本営で、全国各地の軍隊で、中国で、朝鮮半島で、南方の島々で、軍は文書を焼却した。
 満州第七三一部隊は、文書だけでなく施設そのものを跡形も無く破壊した。生体実験の証拠痕跡を隠滅するためであった。

映画「日本のいちばん長い日」笠智衆(鈴木内閣総理大臣)、三船敏郎(阿南陸軍大臣)、山村聰(米内海軍大臣)、岡本喜八監督にも、天に昇る焔と煙の文書焼却の場面が映る。
軍は一切の文書を焼却したのである。そのことは周知の事実である。
非道破廉恥な従軍慰安婦の証拠文書も焼却したのである。

 そしてまた、文書が出てきても出てこなくても、あるいは、生活困窮から身売りをされた子女がいたにしても、軍が非道な慰安所を帯同していた事実を拭うことはできない。
 しかるに、「軍が関与した文書が見当たらない」だから「軍が慰安婦を強制したとは言えない」と言って、「河野談話を検証する」との申し条 (安倍首相と菅官房長官) は、「よくもまあ、そんなことが言えるものだ」である。

 今、為すべきは、隣国との相互信頼の構築である。
 河野洋平「平和への決意を再確認せよ」(岩波「世界」5月号62頁)を薦めたい
岩波文庫「統治二論」の書名はロック理論の逆行である。
(カテゴリー: 自治体学理論
    岩波文庫「統治二論」の書名はロック理論に逆行する 
    なぜ「政府二論」でなくて「統治二論」であるのか

 ジョン・ロックの主著「市民政府論」は「市民政治理論の古典」である。このたび新訳が、岩波文庫として刊行された。喜ばしい。
 ところが、( こともあろうに ) 書名は「統治二論」である。訳者(加藤節・成蹊大学教授)は、まえがきで、本書は1部2部の全訳であるので、2部の訳書である鵜飼信成「市民政府論」との違いを示すために「統治二論」にした、と説明している。
 しかしながら、違いを示すならば「政府二論」であろう。1部は10年前(1680)のフィルマーの「家父長権論」の批判である。市民政府論の執筆に(当時は)必要であったのだ。 
 なぜ、市民政治理論の古典であるロックの主著を「統治二論」にしたのか。なぜ「政府二論」を避けたのか。

 かつて、東京帝国大学に「国家学会」なる組織があり、国策として「国家統治・国家学」を唱導した。
 そして現在も、憲法学、政治学、行政法学、行政学の大勢は「国家統治の国家学」であり「国家法人理論」である。
ロックの市民政治理論ではない。「市民自治の信託理論」でもない。
 
 例えば、国家試験の最適教科書と評される芦部信喜「憲法」(岩波書店)の第一頁第一行は、「国家統治」であり「国家三要素説」であり「国家法人理論」である。
 同じく東京大学で憲法学を講じた長谷部恭男氏は、安倍内閣の特定秘密法にも賛同する国家統治の学者である。
 
 現在日本には「国家」と「統治」の論調が勢いを盛り返し、明治憲法への郷愁すらも蠢いているのである。これら動向は、ロックの「市民政府・市民政治」の対極にある思潮である。訳者加藤氏の心底にも、これら論調への賛同が存するのではあるまいか。「市民政治」「市民政府」「市民自治」の語彙を避けたい心情が存するのではあるまいか。 
 
 2014年1月、同じ岩波から「ロック『市民政府論』を読む」(岩波現代文庫)が刊行された。著者の松下圭一氏は、あとがき(官治・集権の日本とロック)で、ジョン・ロックは「統治」から「政府」へというかたちで、ガヴァメントという言葉の用法の革命をおこない、ついに市民政治理論の《古典的形成者》という位置をもった、と記している。

 七十年代日本の対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「国家統治」対「市民自治」である。 「国家」は、政府、官僚、議員など、権力の場に在る人達の「権力行使の隠れ蓑」の言葉である。市民政治理論は「国家」を「市民と政府」に分解し市民が政府を制御し交代させるのである。
 民主主義は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。
 ロックがその元型を形成したのである。

 「統治二論」の書名では、ロックの主著を現代社会に訳出する意図が逆行する。なぜ「政府二論」でなく「統治二論」にしたのか。
ジョン・ロック先生も「分かっていないな」と苦笑するであろう。


 
 
自治体学の概念
(カテゴリー: 自治体学理論
   自治体学が民主政治の理論である。

 自治体学は、国家学の「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置して、国家を統治主体とする国家学を克服する学である。国家学は「国家」を統治主体と擬制する。しかし、その「国家」の観念は曖昧である。国家を「国民・領土・統治権」と説明するが、その「国家三要素説」なるものは、性質の異なる(団体概念)と(機構概念)をないまぜにした曖昧な説明である。

 「国家」の観念は、政府、官僚、議員など、権力の場に在る人達の「権力行使の隠れ蓑」の言葉である。少し注意してそれら権力者の言動を観察すれば「国民主権」を「国家主権」と巧みに(狡猾に)言い換える場面を目撃するであろう。権力の場に在る人たちには「国家が統治主体であり国民は被治者である」の観念が抜き難く存在するのである。(統治支配がやり易いからである)

 例えば、インターネットの「自治基本条例」のサイトに、「チョット待て! 自治基本条例―自由民主党」が掲載されている。
 それを一読すれば、権力の座に在る者には「国家統治の観念」が現在も強固に存続していることが判る。 
しかしながら、国民は国家に統治される被治者ではない。民主主義は「国家の統治」でなくて「市民の自治」である。
政府と議会の権限は選挙によって国民から信託された権限である。

 だが現状は、選挙の翌日に市民は「陳情・請願の立場」に逆転し、首長と議員は「白紙委任」の如く身勝手にふるまっている。そのため、行政と議会に対する市民の不信は高まり、代表民主制度が形骸化し「議会不要論」の声さえも生じている。しかしながら、選挙は「白紙委任」ではないのである。「代表権限の信頼委託契約」である。身勝手な代表権限の行使と運営は「信託契約の違反」であるのだ。取返しの出来ない信託契約の逸脱には「信託解除権の発動」となる。選挙の翌日も主権者は国民であって国家ではないのである。

 自治体学は「国家」を「市民と政府」に分解して、「市民と政府の理論」を構成する。すなわち、「市民」が「政府」を選出し制御し交代させるのである。民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。
 自治体学が民主主義の理論である。
自治体学の概念
(カテゴリー: 自治体学理論
    自治体学の概念認識

 ある大学で、自治体学(4単位)の担当教授が退任して後任者を全国に募集した。
 多数の応募者があったらしい。
 2013年4月から新担当者による「自治体学の講義」が始まった。
 ところが、新担当者の講義計画 (シュラバス) には「自治体学の概念・定義」が無い。その講義計画は「国家学の地方自治論」である。

 「自治体学」を履修した学生は、(自治体学は聞きなれない言葉であるから) 講義の冒頭で「自治体学とは何か」「どのような学であるか」の説明が聴けると思うであろう。
 「自治体学の概念」を説明しない「自治体学の講義」とは、一体何であるのか。
 諺に羊頭狗肉の言葉もある。面妖なことである。

 もしかすると、新任教員は「自治体学の概念」が分からないのではあるまいか。分からないで応募したのであろうか。そうであったとしても、多数の応募者の内から選考され採用されたのであるから、講義の日までに、先行研究に目を通して自身の見解を考えるのが、専門科目・4単位の「自治体学の講義」を担当する者の責任ではあるまいか。

 自治体学会は1986年に横浜で設立して27年を経過している。
 27年と言えば相当な歳月である。
 自治体学会の会員には「自治体学の意味」は明晰であるのだろう。
 だが、もしかして自治体学会の会員も、自治体学会運営の中心にいる方々も、「自治体学の概念認識」は明晰ではない、のではあるまいか。
 しかしながら、自治体学会は規約第二条で「自治体学の創造をめざす」と定めている。
 自治体学会はそのように事業を企画し会を運営すべきであるのだが、運営しているであろうか。
 大学の講義担当者が「自治体学の概念説明」が明晰にできるような運営が望まれる。
  
北大公共政策大学院のシンポを聴いて
(カテゴリー: 自治体学理論
 北海道大学公共政策大学院シンポジウム 
  「地方の/からのガバナンス」を聴いて

 2013年6月29日の昼、北大正門の掲示板で、北大公共政策大学院の教官が「地方のガバナンス」を主題に公開討論を行うことを知った。
 日本社会は長い間、官僚が国家統治の名目で地方を支配してきた。その「カラクリ」と「地方政府への展望」が討論されるかも、と思い出席した。 
 ところが「これが北大大学院の知的水準であるのか」と、あまりの低さに唖然とした。 

基調講演は二人
 最初のTa教授は、『(北海道の)潜在力を「カタチ」にかえるために』の演題で政策提言を行った。
 提言の第一は、新千歳空港から札幌までの所要時間を、現在の36分を20分に短縮するため、「新幹線」または「ノンストップ特急」を整備する。その費用は「条例で法定外目的税を課税し」「空港施設利用料を引上げる」
 第二は、抜本的制度改革として「議員定数の是正」を提言した。
九州新幹線が北海道新幹線よりも先に完成したのは、北海道選出の国会議員の数が、九州よりも(人口比率で)少ないからである。北海道のために国会議員の定数を是正すべきだ、と述べた。
そして、札幌市域は192万人で28人の道会議員であるが、紋別市は2万人で1人である。札幌地域の道議会議員を増やすため、北海道議会の議員定数も是正すべきである、と述べた。
 (このブログを読まれる方は、本当にそのように話したのかと思うであろうが、このように話したのである。この他にも幾つかの提言を行ったが、あまりにも幼稚で粗雑であるので省略する)

二人目のNi准教授は
「情報技術による地域産業の活性化策」の研究実績を披露した後に  
1 合意可能な「地方の価値」を見定めることが重要である。
2 道州制の線引きは「どこで 誰が」決めるのか。
3 そのための「ガバメント 政策技術」はどのようなものか、
と論点を列挙した。だが、自身の所見は述べなかった。基調講演として不十分である。
 基調講演は(シンポ後半の)討論のためである。
 二人の話は主題と無関係でありすぎる。
(以上の要約は、報告者にはご不満かもしれないが、筆者の主意は「何が語られたか」よりも、主題に結び付いた論点が「語られなかった」ことにある)

 会場に配布された紙にも討論にも、「地方のガバナンス」が主題であるにも拘らず、「市民」「市民政府」「自治」の言葉は一言も無かった。
 世界の民主政治の潮流は、「集権・統治」から「分権・自治」へ、である。しかるに、北大教官は、旧態依然の「国家」「統治」「エリート政治」の政治学である。
 この方々の「ガバナンス」なるものは、「国家の政府」であり「国家による統治」である。ジョン・ロックの「市民の政府」でもなく「市民社会の政府」でもないのである。

 討論の締めくくりとして、司会をしていたYo准教授が、会場からの疑念に答えて、「自治」も「統治」も同じことであると述べた。この北大教官には「市民自治」も「国家統治」も同じことなのである。

 しかし、院生から(別の場所で)「市民社会の意味」を質問されたならば、カタカナ言葉を交えて得意然と饒舌に答えるのであろう。だがその知識は、状況追随思考が蔓延する現在の日本を見据えて、「市民社会への道筋」を模索する思考には役立たないであろう。
 おそらく、北大教官には「市民自治」も「市民自治の政府」も意味不明な言葉なのであろう。「国家統治」に対置する「市民自治」の概念も理解できないであろう。
 
 少しく失礼になったが、掲示を見て会場入り3時間を坐し、締めくくりの言説で、「所見」書く気になった次第である。

もう一つ、書き添えておく。
 2013年6月30日発行の「北大政治研究会会報」第34号に、
 山口二郎氏が「北大政治学の30年」の表題で所感を載せている。

 90年代を北大政治学の黄金時代であったと回顧し、優れた人材を集め得たのは、自分がスカウトとして一級の仕事をしたからだと書き、北大政治学に集まった方々のお名前を順次に紹介し讃えている。

 ところが、不可解なのは、神原勝氏の名前が出ていないことである。神原勝氏は1988年に北大に赴任し「地方自治論」を担当し、間もなく「北大に神原教授あり」「自治論は北大の神原教授」との評価を高めたのである。
 神原氏は2005年には北海道大学名誉教授に推挙されたのである。

 しかるに、なぜ山口二郎氏は17年間の研究と教育に専念した神原氏の名前を除外したのであろうか。不可解である。もしかすると、北大教官である山口氏の政治学評価は「国家」と「国家政治学」であり、「市民」「市民自治」「地方自治論」は評価に値しないから、であろうか。 
 まことに奇怪(きっかい)至極なことである。

小平市の住民投票ーなぜ開票しないのか
(カテゴリー: 自治体学理論
  小平市の住民投票 - なぜ開票しないのか 
  
 東京・小平市で2013年5月26日、都の道路計画を巡り住民投票が行われた。5万1010人が投票したが、投票率は35.17%であった。
 小林正則市長は、投票率が住民投票条例に定めた50%に満たないから「開票しない」と言明した。
 なぜ、開票しないのか。これが問題である。

 投票箱の内にあるのは、投票場に足を運び投じた「市民の意思」である。小平の生活環境を真剣に考えた市民の意志である。なぜ開票しないのか。
 「他にも例がある」とか「小平市住民投票条例で定めたから」は、理由にならない。
 これは民主政治(市民自治)の根幹に関わる問題である。

「開票しない」との市長の言動は、市民から代表権限を信託された首長にあるまじき(あってはならない)言動である。住民意思を「闇から闇に葬る所業」である。
 投票率が如何ほどであろうとも開票すべきである。
5月20日。市役所で行われた記者会見 http://www.tbsradio.jp/ss954/2013/05/post-42.html
で、記者の「なぜ開票しないのか」の質問に(しどろもどろの弁明)返答であった。政治信念の無さを露呈しいた。

 おそらく、小林市長と市議会(多数派)は、仮に投票率が50%を超えて開票したとしても、「住民投票には拘束力は無いのだ」と言い募り、投票に示された「住民意思」に従わない(=尊重しない)であろう。その延長に「開票しない」の真意があるのだ。
 開票しない(したくない)と言明する市長の真意は何処にあるかを見抜く賢明さが民主主義には不可欠である。
 市長は、四年の期限で「代表権限を信託された」のであって、小平市の重大問題に投票した住民意思を「開票しないで廃棄」する権限は、市長にも議会にもない。信託は白紙委任ではないのである。 

 市長の「開票しない」の言明について、「弁護士ドツトコム」の稲野正明弁護士の見解がインターネットに流れている。
 「間接民主主義ですから、住民投票は議会や市長が参考にするもので、住民投票はそんな程度のものです」「住民投票に法的拘束力はないのです」「税金を使って行った住民投票だから、開票しないで捨ててしまうのは、少々もったいないとも言えるが」と述べている。
 この所見は「裁判法廷の場を職業とする者」の思考である。つまり法律条文を唯一と考える人の所見である。
司法試験に合格する法律の勉強をしただけで、法律条文を超える世界を想像することができないのである。そのような人には(失礼ながら)現代社会の重大問題に応答する才覚は無いのである。

 ドットコムの弁護士の方々に申し上げたい。
 現代社会の問題は「法的効果」が全てではない。
 小平市の住民投票の問題は「政治的効果」が重要なのだ。即ち、「市民の自治力」が「市民社会を良きものにする」のである。
 思考の座標軸にその視点が無ければ「三文の値打もない」所見である。
 インタビューに答える資格はない。
 稲野弁護士にはそれを気付いてもらいたいものである。

 話しは少し横に動くが、現在、全国各地で「原発民衆法廷」が開催されている。だがそれは「原発反対キャンペーン」であって「民衆法廷」ではない。
 「サルトル・ラッセル国際法廷もどき」で開催しており、参会者は盛り上がり自己満足しているが、ドットコム弁護士と同様の思考の座標軸に欠落がある。

 「民衆法廷」を名乗っているが、民衆法廷とは言い得ない。
 「如何なる規範」で裁くのかの規範論理が曖昧だからである。民衆法廷を主宰している判事の規範論理は「既成の国家規範」である。「市民の自治規範」ではない。
 であるから、国家権力と原子力村には「痛くも痒くもない」イベントになっている。再稼働に賛成する自治体首長に対しても裁き(痛撃)になっていない。新聞・テレビの幹部からは「シンポジュウムの一種である」と評される。
 これが実態である。

 さて本題であるが、
 (ドットコム) の弁護士だけではない。大新聞の論説も同様である。
 本日(5月28日)の朝日新聞の社説「小平住民投票」を一読して「腰の引けた」社説であると思った。
例えば、投票に行く人は「見直し派」、投票しない人は「見直し不要派」に分かれてしまった、と尤もらしく分析するのだが、「道路計画に賛成だから投票に行かない人」と「無関心だから投票に行かない人」を合体させるやり方で、投票率を50%以下にさせる(意図)を分析しない。
 この「50%条項」なるものは、吉野川可動堰に反対する住民運動に対して、徳島市議会で考え出された「住民投票を不成立にする戦術」である。即ち、住民投票を不成立にするための「組織的投票ボイコット戦術」であったのだ。
 そのことは、岩波新書「住民投票」(今井一)に明確に記述されている。朝日の論説委員がそれを知らない訳はないのだ。だが意図的に「50%条項そのもの」には言及しない。
 あるいはまた、この社説は冒頭に「投票率が50%以上でなければ成立せず開票もされない。そんなルールで行われた」と書き始める。この書き出しが「執筆論説委員の感覚(批判的思考力を退化した現状肯定の人生態度)」を物語っている。なぜなら、論評するべきは「そのルール」であるのだ。しかるにそのルールを所与の如くにまず書いて「論点をズラした文章」にする。(これが大新聞の論説員の通常であるのか。朝日の社説は読む気がしないとの声を聞くがこのことか)

 「投票率が50%以下であれば住民投票は成立しないものとする」としたそのことをジャーナリズムは論じるべきである。
 住民投票は行われたのである。投票率を理由に「住民投票は成立しなかったものとする」は、道理に反するではないか。
 投票率に拘らず「開票する」は当然のことではないか。
 投票率があまりにも低い場合には「投票結果の評価」の問題が生じるであろうが、それは開票後の問題である。 徳島市議会の異常な事例(組織的投票ボイコツト戦術)を先例のように考えるのは誤りである。

 「なぜ開票しないのか」「開票を避けるのは何故か」「なぜ開票を怖れるのか」
 市民は小平中央公園の雑木林や玉川上水の緑道を損ね、住宅二百二十戸の立ち退きを迫る道路計画に反対しているのである。これが小平住民投票の真正の論点である。

 さらにまた、朝日社説は「投票率の要件を定めた方が良いこともある」と、尤もらしく論点を提起する。だが、自民改憲の「国民投票法は投票率を定めていないこと」には言及しない。この問題は参院選を目前にした国民には重要論点ではないか。「重要論点であるから言及しない」のであるのなら、「何をか謂わんや」である。
憲法判断を回避する最高裁
(カテゴリー: 自治体学理論
   憲法判断を回避し続ける最高裁   
   -「憲法の番人」たるの責務ー 

昨夜(10月17日18時)、新聞記者から最高裁判決に対するコメントを求められたので、
下記のように述べた。

1「選挙までの間に議員定数配分規定を改正しなかったことが“国会の裁量権の限界を超えるものとはいえず”」との判決は、昨年の札幌高裁の『違憲とまでは言えない』の理由が“改正案を国会に提出予定であるから”であったのだから、一年を経過した今回の最高裁の判決で、再び「国会の裁量権の限界を超えるものとはいえず」との判決には合理性がない。
 しからば訊ねる、最高裁の考える「国会の裁量権の限界」とは如何なる事態のことであるのか。
 それは、憲法判断を回避するための「言い方」に過ぎないことは明瞭である。

2 これまでも最高裁は、9条違憲訴訟において「統治行為」なる言葉で、憲法判断を回避してきた。そして今回は「国会の裁量権の限界を超えるものとはいえず」の言辞で「憲法違反」の判決を回避した。
 憲法判断を回避し続ける最高裁は「憲法の番人」の責務を放棄するものである。
 主権者国民は「最高裁の憲法違反」を厳しく批判すべきであろう。

3 主権者国民は、国会(政党と議員)が「政権争い」に終始して現在の事態になったことを、併せて厳しく批判すべきである。

4 選挙制度の改正は 政府・立法府の役割であって、「都道府県を単位として各選挙区の定数を設定する現行の方式をしかるべき形で改めるなど、現行の選挙制度の仕組み自体の見直しを内容とする立法的措置を講じ、できるだけ速やかに違憲の問題が生ずる上記の不平等状態を解消する必要がある」との判決文は「傍論」である。最高裁は「憲法違反か、否か」の判断を為すべきである。
 以上のように返答した。

 今朝、記者から次のメールが届いた。
昨日は、急なお願いにもかかわらず、取材に応じていただきありがとうございました。
紙面の編集段階の判断で森先生の見解を盛り込むことができませんでした。申し訳ありません。
 最高裁判断に対する鋭い指摘はあってしかるべきだと個人的には思ったのですが、私の力不足でした。今後、いろいろとまたご相談させていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 18日の各紙は、最高裁は「違憲状態」と判示したと報じている。だが、最高裁の「憲法の番人の責務」を論評する記事は見当たらなかった。
居住福祉学と自治体学
(カテゴリー: 自治体学理論

 かつて、東京帝国大学は「国家官僚の養成大学」であった。現在も旧帝国大学系の法学部は「国家に統治権あり」の「国家学の講義」である。この自治体学講座は「国家統治の国家学」に対して「市民自治の自治体学」を提起して民主主義の政治理論を明確にするものである。
 そのため「地方自治論」と「自治体学」の講義を対比する。

北海道土曜講座の新展開-自治体学講座
 居住福祉法学と自治体学-市民の自治力を高める新たな学
          
           と き 2012年6月16日(土) 13時~16時半
           ところ 北海道大学法学部6番講義室
           主 催 自治体政策研究所・居住福祉法研究会

 Ⅰ提 起

 居住福祉法学(居住福祉学)     吉田邦彦(北大教授)
 ・居住分野における公共的支援は、先進諸国の中でわが国が突出して欠落している。具体的には、ホームレス問題、災害復興問題、居住差別問題、中山間地問題、老朽化、マンションの建替え問題である。
 ・本講座では「居住」を、単なる「住居」の問題でなく、生業・医療介護・教育・交通・消費生活・保養などの問題としてトータルに考察する。

 自治体学               森  啓(自治体政策研究所)
 大学法学部の講義は法規解釈と制度説明が主要な内容である。「地方自治論」の講義も「国家法の制度説明」が主要内容である。自治体立法論、自治体政策論の問題意識は希薄である。
 進んだ大学では「自治体法」の教科を新設するが、国家法の解釈講義であって「自治体法」の講義ではない。自治体法の概念認識が曖昧だからである。
 
本講座は「地方自治論」と「自治体学」の講義を対比する。
用語には全て経歴があり、言葉には「イメージ」と「意味」がある。

  ・講義の用語は「地方公共団体」か「自治体」か。
  ・地方自治法は自治体の上位法か
  ・自治基本条例の最高規範性の根拠は何か
  ・「条例の限界」「国法の限界」とはどのようなことか
  ・自治体立法権、自治体行政権をどのように説明しているか
  ・「国家統治」と「市民自治」の違いは何か
  ・国家法人理論と政府信託理論の違いは何か

 Ⅱ討 論
 自治体学会員 居住福祉学会員 市民 研究者 自治体関係者

 
「市民行政」の可能性
(カテゴリー: 自治体学理論
 北海学園大学・第72回・現代政治研究会 

 と き :2012年4月7日(土)14.30-17.00
 ところ :第1会議室(北海学園大学4号館10階)
 テーマ :「市民行政」の可能性
 報告者 :森 啓
 連絡先 北海学園大学法学部山本研究室 
011-841-1161-(内線2390)


1 市民行政の概念 
 市民行政とは、市民が行政庁舎内で「行政事務」に携わることである。
 既成の行政法学は「行政事務は公務である」「公務は公務員身分を有する者が行う」と考える。そのため「市民行政の概念」が理解できない。
 これに対し自治体学は次のように考える。
 これからは、「公務員の行政職員」と、首長が任期内で委嘱する「市民の行政職員」の二種類の行政職員が存在する、と考える。
「市民行政」は「行政不信」の現状打開をめざす実践概念である。(実践概念の意味は「新自治体学入門(時事通信社)」の第三章に述べた)

 市民行政を理解するには「行政概念の再定義」が必要である。
国家学は「行政とは法の執行である」と定義する。自治体学は「行政を政策の実行」と考える。政策とは「課題と方策」であるから、「政策の実行」とは「公共課題を解決し実現する」ことである。行政とは「まちづくりの実践」であるのだ。
 現代社会の公共課題は公務員だけでは解決できない。「行政職員と市民」の「信頼関係を基にした協働」なくしては解決実現できない。優れたまちづくりの実践例がそれを実証している。「市民行政」が不可欠必要な時代になっているのである。
 国家学は「行政は公務であり、行政執行は公務員が行う」の観念から脱出できないから「市民行政の意味」を理解することができない。
 「市民行政」は、市民が庁舎内で公務員職員と机を並べ行政事務を担うことである。その「行政事務」は、臨時職員やアルバイトが担っている補助業務ではない。政策の立案・決定・実行・評価の事務である。

2 市民行政の着想 
 市民行政の観念は、2008年7月の「夕張再生の自治体学」の公開政策研究会の論議のなかで生まれた。2007年3月、夕張市は財政債権団体に指定され総務省の管理下に置かれた。
 総務省の考える「夕張再生」は、353億円の債務額を18年間で返済することであった。それは「債務償還計画」であって「夕張再生計画」ではない。
 しかも、債務総額の353億円は、北海道庁が「みずほ銀行」などの債権者に全額立替をして確定した債務額である。経済社会の通常では、返済不能となった「不良債権の処理」は、債権者会議の場で「何割かの債権放棄と返済保証」の協議がなされるのである。「北海道庁の役回り」はその「権者会議の場を設ける」ことではなかったか。 北海道庁は夕張市民の生活よりも金融機関の債権保護を重視したのである。
「18年で353憶円を返済」の財政再建計画は実質的には総務省と道庁が策定したものである。藤倉市長は「夕張の体力では10年間で100億円の返済が限界」と懸念を表明していた。「夕張の再生」には「夕張市民の生活が」が基本になくてはならない。
 夕張再生室長に総務省の派遣職員が就任した。全国からの1億円を超える寄付金 (黄色いハンカチ基金)の使途も総務省派遣職員が掌握した。

 夕張再生には「市民と行政の協働」が不可欠である。だが市民には、長年の経緯による「議会不信」と「市役所不信」がある。「市役所不信」を打開しなければ夕張再生はできない。「市役所不信」を打開するには、市民が行政の内側に入って「行政事務」を担うことである。

3 市民行政の現状 
 市民行政は既に様々な形態で行われている。
① 庁舎受付、庁舎清掃、庁舎警備
 これらは、公務員身分を有する者の業務であった。だが今では、どこでも外部委託になっている。
② 行政広報、総合計画、行政調査、
 表向きは公務員職員の業務であるけれども、実態は外部委託が多い。
③ 職員研修
 現在は「職員研修の企画・実施」までもが外部に託されている。一昔前ならば考えられないことである。尤も、「内向き公務員」が企画する研修よりも、「公共感覚のある市民」が企画する研修の方が民主行政になるであろう。
④ 公共施設の管理運営
 小泉構造改革の「官から民へ」の流れで「指定管理者制度」が流行になった。だが目的が「経費節減」であるから「様々深刻な問題」が生じている。改革名目で「公共性を無視・軽視」する事態になっている。問題は、何処(いずこ)に委託するか、如何に市民自治的運営にするかである。
⑤ ニセコ町立図書館―“あそぶっく”
 北海道ニセコ町は2008年から図書館運営を町民が担っている。
 役場の前に道路を挟んでニセコ郵便局があった。2 008年、その郵便局が別の場所に移転するので建物を譲り受けて町立図書館にした。そのとき町民から「運営一切をやりたい」の要望があり全面委託にした。以来5年間、何の問題も起きていない。役場職員が運営するよりも好評である。
 2011年11月18日の「市民行政を考える」公開政策研究会で、片山ニセコ町長は、「あのとき役場職員を一名も入れなかったのが成功の要因であった」「そのとき一人でも入っていたら、これは教育長の意見を聴かなくてはいけない」「この本を買うのは役場の許可を得なくてはならない」「こういうイベントは前例がない」などが始まったと思います。現在は「子どもの遊び場」になり「高齢の皆さんのたまり場」にもなって、実に自由な図書館運営になっております。なんでも役場がやる時代は終わっていると思います、と語った (北海学園大学開発研究所2011年度研究記録集61頁) 。

4 市民行政の論点
①秘密保持
 職務上知りえた秘密の保持は、「市民職員」であろうと「公務員職員」であろうと同じである。地方公務員法に基づかなくては「秘密保持が保たれない」と考えるのは無益思考である。そもそも、「守秘義務」とは何か。「○秘のハンコ」「部外秘の朱書」の実態を検証すべきである。その内容の多くは、「無難に大過なく」の管理職の保身である。
 条例で「秘密保持の宣誓」を定めればよいのである。
 
②行政責任 
 「故意または重大な過失」によって生じた損害の「求償責任」は「公務員職員」も「市民職員」も同様である。 問題は「行政責任とは何か」である。
 行政責任とは「為すべきことをしない責任」である。「不作為」が「行政責任」である。行政とは「積極的能動的に政策課題を解決実現する」ことであるのだ。保身のために「何事も無難に大過無く」で「為すべきことを為さない不作為」が行政責任であるのだ。「市民行政」は「無難に大過なく」の「行政体質」を打開するためである。

③委嘱任用の手続き
 行政職員は首長の私兵ではない。首長も職員も共に市民に信託されているのである。
 橋下(大阪維新の会)は「代表民主制の基本原則」を理解しない考え方である。行政職員は首長に雇用されてるのではない。
 そこで、市民職員の委嘱が首長の恣意にならないための「市民自治的手続」を条例で定める。

④公務とは何か
 公務とは「公共事務」であって「統治事務」ではない。行政事務も「統治事務」ではない。「自治事務」である。公務員(身分)でなければ行政事務は担えないと考えるのは国家学の統治理論である。「市民行政」「市民職員」は「市民自治の自治体学理論」である。

  *参考文献  
(1)森 啓『新・自治体学入門』(時事通信社、2008.3)
(2)森 啓「市民政治の可能性」『開発論集』88号(2011-8)所収)


 この研究会討論を基に下記の内容で「続・自治体学入門ー自治体学の実践論理」を刊行する予定である。

  自治体学の実践論理-続・自治体学入門

 第一章 市民自治
1 定義―市民自治
2 政府三分化説 政府信託理論
3 自治基本条例
4 栗山町議会基本条例の根本的欠陥

 第二章 市民行政
1 市民行政の概念-市民政治、市民自治、市民行政
2 市民行政の着想―行政不信を打開するため
3 市民行政の現状―様々な形態で既に行われている。
4 市民行政の論点―秘密保持 行政責任 委嘱任用の手続き
5 公務とは何か

 第三章 代表民主制
1 代表民主制の形骸化-実際例で検証 
2 政治不信 ヒーロー待望の危うさ 橋下維新の会検証
3 議会不信 議会不要論の声 議会改革の論点 議会基本条例
4 行政不信 行政不信の打開―市民行政の提起
5 直接民主制と間接民主制

 第四章 実践論理
1 説明理論と実践理論
2「知っている」と「分っている」
3 歴史の一回性である実践 実践の言語表現―経験的直観の意味
4 具体実例で検証

 第五章 自治体学会  
1 自治体学会の設立経緯 
2 自治体学会の運営
① 全国自治体学会
② 北海道自治体学会
3 北海道土曜講座の16年
4 自治体学会の存在意味


「政策型思考と政治」の読書研究会を終えて
(カテゴリー: 自治体学理論
 2月22日、大阪自治体学会の方々と談論した。
 「橋下維新の会」が話題になった。橋下政治は「集権統治」である。「市民自治」ではない。
 されば今こそ「市民自治の自治体理論」である。そして「自治体学会に活力の蘇り」が必要である。それには「自治体理論の研究討論」の継続開催である。そのテキストには『政策型思考と政治(松下圭一著)』が最適である。

 そこで、北海道の自治体職員が刊行した『論集・政策型思考と政治を読む』の巻頭文を掲載する。
 
  「政策型思考と政治」の読書研究会を終えて

 2年9カ月で文字どおり全頁を精読した。
 本書が出版されて以来、全国各地でこの本をテキストにした読書会が数多く開かれている。だが「扉のことば」から「あとがき」までを完読した読書研究会は少ないであろう。
 なぜなら、この書物は「政治・政策と市民」の理論体系書であるから、既成観念に捕らわれていたのでは理解できない。完読するには集中力が必要である。集中力の持続を可能にする運営が読書会にないと息切れして閉店休業になる。大抵の読書会は完読できず終息している。

 「政策型思考研究会」と命名し月一回一章ずつの進行とした。
 夕刻の短い時間で一章を理解するのは困難で無理である。無理ではあるが、そうしなければ完読できない。理論体系書であるから完読しなければ意味がない。
 ところが、理論体系書であるからどの章も他の章と密接につながっているので、次の章で前章の意味と用語が判然としてくることが屡(しばしば)であった。
 また、目次の「星印」は体系の区分であるから、そのところで振り返りの自由論議を行って咀嚼を助け合うようにした。巻末の索引も重宝した。
 索引に示されているページを捲って書物を横に読めば用語の意味が判然としてくる。また、語句に付けられている四種の括弧「」『』〈〉《》の意味をその都度話し合つた。

 論議するべき点を見出すため各章毎の報告者を定めた。
 報告者は「書かれていることを理解するために」何回も読み返してメモを作成した。
 だが「テキストの文章と用語で」「このようなことが書いてある」の説明は不可とした。自分の言葉で言えなければ真に分かったではない、そうでなければ納得理解したにならないからである。全員が読んできているのだから、自身もよく分かっていない報告者の講釈は時間の浪費である。
 研究会であるから、まず、報告者自身が「よく分からない用語と叙述」「成るほどと思い賛同したのはどのようなことか」「このような理解でよいのだろうかと思うこと」を提出して話し合った。

 本書は難解か
 難解だと言う人が少なくない。文体が馴染めないと言う人もいる。
 問題はなぜ難解だと思い馴染めないと感じるのかである。
 この書物を納得し理解するには、自身の「政治イメージ」と「基礎概念」の再吟味が不可欠である。自身の政治イメージを問わず基礎概念の吟味を拒む人にはこの書物を正当に理解することはできないであろう。誰しも、自身の基礎概念を問い直すのは緊張感が伴ない苦痛であるから、無意識的に「難解の防御壁」をめぐらすのではあるまいか。
 この書物は扉にも書かれているように「国家観念との別れの書である」。既成の国家学理論を転倒するから易しくはない。易しい筈がないではないか。
 問題は、読んで成る程と納得するか否かである。確かにそうだと思うかどうかである。 納得すれば次第に難解と思わなくなる。そしていつの間にか「分かりやすくて読みやすい」書物になる。
 例えば実際の話として、松下教授の書物が刊行されるたびにテキストにして学習会を続けている大阪の市民文化団体の人達は「松下さんの本はどれも分かりやすくて読みやすいですな」と言う。明治以来の国家学の理論に呪縛されていないからである。自由で自立した市民であるからだろう。つまり、国家学の政治・行政の理論に馴れ親しんでいる人にはその分だけ難解になるのであろう。

 読書研究会の成果
 いつの間にか、当初は難解と言っていた「概念・用語」で語り合うようになった。
 例えば、岩波新書「日本の自治・分権」「政治・行政の考え方」は、実に分かりやすいと言うようになった。それは、漠然とした理解のままではあっても毎回一章ずつ進行した悪戦苦闘の手探り読書研究会の成果であると言えよう。
 なによりの成果は、自身の仕事を市民の立場で考えるようになった。政府間関係理論や政府信託理論で、道庁と市役所・役場のあるべき関係を語り合い、自治体をめぐる日常的な問題を「政策情報」「市民自治」「政策開発」「参加手続」などの概念で考えるようになった。つまり、事象を理論的に考察する視座を持ったと言えよう。それは「国家統治の官庁理論の呪縛」から自らを解き放ち、「市民自治の自治体理論の考え方」を確立したと言えるであろう。地方公務員から自治体職員への自己変革である。

 思考の座標軸に最適の書
 私は、北大の大学院の演習でもこの書物をテキストにした。現在の北海学園でも大学院で使用している。なぜこの書物をテキストにするか。
 この書物は、各人が自身の思考の座標軸を形成するに最適の書だからである。
 現在日本は都市的生活様式が全般化した社会である。どの山村、僻地、離島にも工業文明的生活様式、情報産業的生活スタイルが広がっている。かつてなかった事態である。そこには前例のない公共課題が噴出している。噴出しているのだが前例のない課題であるから公共課題として設定できない。前例のない課題であるから解決できない。これまでの手法は役に立たない。解決方策を開発しなければならない。何が課題であるかを考えるには座標軸が必要である。
 前提条件がガラリ変わっているのだから、既存の学問も「思考枠組」と「基礎概念」の再吟味が不可欠である。この書物は思考の座標軸を形成するに最適の書である。(1998年8月)
 
 そして「北海道土曜講座の16年」を検証した『自治体理論の実践』(公人の友社刊)を併せ薦めたい。


「市民行政」
(カテゴリー: 自治体学理論
   「市民行政」

 「市民行政」を主題にした公開研究討論会が、北海学園大学開発研究所と自治体政策研究所の共同主催で2011年11月19日、北海学園大学で開催された。
 当日の論点であつた「市民行政の概念」について要点を掲載する。
 (なお「討論内容」は「月刊・財界さっぽろ」2012年1月号に6頁に亘って掲載されている)

1 市民行政

「市民行政」とは「行政不信」の現状打開をめざす実践概念である。
「実践概念」であるから、既成学の「説明理論」では理解が困難である。理解できないから「疑問」と「誤解」が生じる。現に北海道自治体学会のMLに「反感的疑問」が流れた(2011-11-18)。

 市民行政とは、市民が行政庁舎内で「行政事務」に携わることである。
 既成の行政法学は「行政事務は公務である」「公務は公務員身分を有する者が行う」と考える。だから「市民行政」が理解できず容認できない。
 これに対し、市民自治の自治体学は次のように考える。
これからは「公務員の行政職員」と「市民の行政職員」の二種類の行政職員が存在する。「市民の行政職員」は「代表権限を有する首長」が任期内で委嘱する。

 以下、「市民行政の概念」について論点を記述する。

 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
「説明理論」は事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する。
「実践理論」は未来を構想し現在に課題を設定して解決方策を考え出す。  
 実践理論は歴史の一回性である実践を言語叙述によって普遍認識に至らしめる。

「実践の言語叙述」とは「経験的直観を言語化する」ことである。
「何が課題で何が解決策であるか」を考えるのは「経験的直観の言語化」である。
 (「実践概念の意味」は「新自治体学入門(時事通信社)」の第三章に述べた)。

「経験的直観の言語化」
 経験的直観の言語化は困難を覚悟して一歩前に出た実践によって可能となる。大勢順応の自己保身では経験的直観の言語化はできない。
 即ち、「知っている」と「わかっている」は同じでない。
「何も分かっていない人」とは、波風がないときには (自分に非難が返ってこないときには)立派なことを言うけれども、素早く不利になると判断したときには「黙り、曖昧なこと」言う人である。両者の違いは「覚悟して前に出た実践体験」の違いである。
 人は体験しないことは分からない。分らないから言語叙述ができないのである。

「規範概念による思考」
 未来を構想し現在条件を操作するのは「規範概念による思考」である。
「市民行政」も「市民自治」も規範概念である。「規範概念」を了解し会得するには「実践による自己革新」が不可欠である。利いた風な言葉を操るだけの現状容認思考の人には「規範概念の認識」は曖昧漠然である。
「実践」と「認識」は相関するのである。
 主体の変革なくしては「課題と方策を言語叙述する」ことはできないのである。

 (以上のことを「話し言葉で叙述する」と次のようになる)

 理論にはA型とB型の二つがあると考えてみます。
 A型は「言葉を知っているが本当は分かっていない」人の理論です。
 例えば、役所の出世コースのエリートは最新流行の用語を巧みに使います。だが自身の職務の改革はしません。不利益を覚悟した行動はしないのです。実践行動は常に何らかの不確定要素を孕むからです。エリート職員は上司には優秀職員と評価されますが、市民からは信頼されません。そのような「言葉を知っているだけ」がA型理論です。
 学者はA型理論が多いです。審議会で役所の原案に賛成して外では市民向けの言い方をする。この学者はA型理論です。

 B型は実践理論です。
 実践理論は規範概念で理論構成をします。だが常に「御身大切の安全地帯」にいて行動しない人には「規範概念の意味」が分りません。つまり「何が課題で何が方策か」が分らないのです。ですから「規範概念」の意味が了解会得できないのです。不利益を覚悟して行動したことのない人には「市民活動の能動イメージ」が理解できないのです。「市民行政」のイメージが理解できないのです。
 既成学も「市民自治」「市民参加」「情報公開」の言葉を使いますが、同時に「国家統治権」を自明のように使います。その学者は、「市民」を「非協力的な一部の人たち」と思っている行政管理職と同類思考です。

 例えば、学者や行政幹部の人と話しているときに、「あの人は見えている」「彼はまるで分かっていない」という体験をされるでしょう。「問題が見えて意味が分かる」人は「リスク(困難)を覚悟して行動した人です。
 改革とは「自身の行動様式」を変革することです。改革は常に「主体の問題」です。でありますが「人事昇進が最優先」の行政内では「主体変革は不可能」に思えます。

 しかし「主体変革」とは「その不可能を越える」ことです。「越える」のは「知識」でなくて「実践」です。実践とは「一歩前に出る」ことです。実践は矛盾の構造です。
「実践が認識を明晰に」し「認識が実践を導く」のですね。実践理論と認識理論が相関しているのがB型の自治体理論です。

2 行政概念
 市民行政を理解するには行政概念の再定義が必要です。
 既成学は「行政を法の執行である」と定義します。
 自治体学は「行政を政策の実行」と考えます。

 政策とは「課題と方策」でありますから、政策の実行とは「公共課題を解決し実現する」ことです。つまり、行政とは「まちづくりの実践」です。
 現代社会の公共課題は公務員だけでは解決できません。「行政職員と市民の協働」なくしては解決実現できないのです。優れたまちづくりの現場がそれを実証しています。
 つまり「市民行政」が不可欠な時代になっているのです。

 既成学は「行政は公務であり、行政執行は公務員が行う」の観念から脱出できないので「市民行政の意味」を理解することができないのです。

 以上の論点の詳細は、北海学園大学開発研究所「開発論集」88号に「市民政治の可能性を拓く」として掲載した)



 公開研究討論会に参加していた方から下記のメールが届いた。
 「市民行政」理解の参考までに掲載する。


 森先生のブログ自治体学の『「市民行政」-公開研究討論会』を拝読いたしました。
 感想などをお送りするのは失礼かと思いましたが、どうしても聞いていただきたくメールしました。

 森先生の言わんとしていることが、なぜか全文1度読んだだけで理解できました。自分でも驚いています。
 今まで「地方自治」や「市民自治」等の文献や書物など、少ないながら読んできましたが、多くの場合、言葉の定義や使い方に疑問を持ったり、論理的に理解できなかったりする点がままありました。キチンと理解できないままに過ぎてきたように思います。

 しかし今回のブログは、言葉は難しかったものの論理的に共感でき、納得できたのです。感覚ではなく言葉として私の中に入ってきました。そのお陰で私の中にあった分別不完全な感覚が、スッキリと形になりました。

 こんな感覚になれたのは、先生がおっしゃるように「覚悟して前に出た実践体験」を経たからなのかもしれません。
 先日の公開討論会は私に様々な経験と感覚を与えてくれました。
 ありがとうございました。   2011-12-19


沖縄の旅
(カテゴリー: 自治体学理論
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    沖縄の旅 写真は「首里城・蘇鉄の実」

 2011年11月中旬、沖縄に出かけた。
 目的の第一は、沖縄の無防備平和条例運動の方々と出逢うためである。国際通り「てんぼす会館3階」の拡大幹事会に出席して所見を述べた。
 これまで、日本列島の28地域で無防備平和条例の署名運動を行い、全有権者の2%を超える賛同署名に全て成功した。だが議会で全て否決された。
 「議会否決」の壁を越えなければならぬ。
 これまでの署名運動は、議会が「無防備平和条例の制定」を「拒否する権限」を持っていると考えた。この考え方が間違っていたのだ。
 議会の権限は、四年任期で有権者が信託した「代表権限」である。無防備平和条例は「未来永劫の平和地域宣言条例」である。国会が批准したジュネーブ条約に基づく宣言条例である。四年任期の議会に「拒否する権限」はないのだ。
 首長と議会が為すべき任務は「全有権者投票」に付することである。

 地方議会は「不信の代名詞」
 議会は年齢も性別も職業も地域社会を代表していない。議員は当選すると「異なる世界」の人になる。新人議員も『議員』に化身する。議員になる前に言っていた「議会改革」も二枚舌で正当化するようになる。初心堅持の議員は例外的少数である。積年の特権が『議員』に化身させるのである。議会不要論の声すらある。このような議会に「無防備平和地域宣言条例」を拒否する権限も資格もない。
 (これからの無防備署名の進め方の詳細はこのブログの別項目に記載した)

 第二は、沖縄自治体学会の研究会に出席するためである。
 「代表民主制度を甦らせる方策」と「自治体学の理論問題」を提起した。
 ・国家を統治主体と擬制する「国家学」を「市民自治の自治体学」に転換することである。「国家」の言葉は「権力の隠れ蓑」である。「国家」ではなくて「政府」である。民主主義の理論は「市民と政府の理論」「政府責任を追及する理論」でなければならない。
 ・代表民主制度が形骸化し政治不信が増大して大阪では擬似改革論が横行している。民主政治が正常に機能するには「騙されない思考力」が必要である。邪なる権力は常に言葉で人々を騙すのである。

 ・現在日本の問題は「状況追随思考の蔓延」と「批判的思考力の衰退」である。自治体学会の役割は「論理的思考力」と「批判的思考力」を高める場でなければならない。
 自治体学会は「市町村合併」「原発災害の元凶」「米軍基地問題」などの重大問題を取り上げたであろうか。「論理的・批判的思考力」を高める討論の場を設けたであろうか。腰が引けた擬似対応が続いているのではあるまいか。
 
・沖縄自治体学会は2012年の春、「自治体議会改革」をテーマに政策フォーラムを開催する。「問題意識」と「論議の深さ」で沖縄自治体学会が開催する政策フォーラムに、全国各地から参集者が増えて最先端の討論の広場になるであろう。

 第三は、読谷村の自治基本条例の研究会に出席するためであった。
依頼されて話をした。
 ・「まちづくり基本条例」と「自治基本条例」を混同してはならない。基本条例は「首長と議会」が代表権限の行使を逸脱したときは信託解除権を発動する「最高規範条例」である。制定権者は代表権限を信託する有権者市民である。
 ・200の自治体が基本条例を制定しているが、意味ある役割を果たしているところはどこにもない。
 何故であるか、を話した。(その詳細は「北海道土曜講座の16年」の本に書いた)。読谷村で、日本で初めての「本物の自治基本条例」が制定されることを期待したい。

 第四は、辺野古テントの皆さんとの交流である。この美しい海を米軍海兵隊の訓練場にさせてはならぬ。日米政府合意に怒りの念があらためて湧き上がった。
 夕刻、名護市長と面談し、議員と職員の政策討論会で所見を述べた。

 以上の四つに共通するのは「代表民主政治制度の甦り策」である。すなわち「地域の将来に亘る重大事項の決定」は「全有権者の同意・決裁」を必要とする。「四年任期の首長と議員」だけで決めてはならない。

 名護から那覇空港までの高速バス内で、四夜連続の古酒泡盛の美味と美しい辺野古の海を想い、多くの人が「騙されない思考力」を持たねばならぬと強く思った。


「市民政治」と「市民行政」
(カテゴリー: 自治体学理論
 「市民政治」と「市民行政」

 現在「市民政治の可能性」の刊行を準備している。 
 その構成は次のようなものである。
 
  市民政治の可能性
   1 市民政治
   2 市民政治の主体
   3 批判的思考力
   4 市民行政
   5 市民の政策形成力

  以下の文章はその一部である。   

 市民政治
 (1)市民政治とは「政策の形成と実行」に市民が実質的に関与する政治システムである。即ち「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置し、「中央集権」を「地方分権」に組み換え、「行政支配」を「市民参加」に転換して「地方公共団体」を「自治体」に変革した政治システムである。
 現在日本の代表民主制度は形骸化し議会不信が普く増大している。議員は選挙が終われば白紙委任の如く身勝手に行動し、有権者は選挙の翌日には「陳情・請願の立場」に逆転している。そのため、行政と議会に対する市民の不信は高まり、自治体では「議会不要論」の声さえも生じている。
 しかしながら、選挙は「白紙委任」ではない。選挙は代表権限の「信託契約」である。首長と議員の身勝手な言動は「信託契約」違反である。
 代表権限を制御するために「自治基本条例」が考案されて基本条例の制定が広がった。だが「行政不信」と「議会不信」は一向に改まらない。制定方法に根本的欠陥があるからである。(制定方法の根本的欠陥は北海学園大学開発研究所・開発論集87号に記述した)
 「市民政治」とは、民主的政治制度の再構築をめざす規範概念である。

(2)代表民主制度が形骸化した主要な原因は、政治権力の場にいる人達が報道機関を支配し世論を誘導し有権者を被治者に貶めているからである。
 そしてまた、有権者の側が「御用メディア」「御用学者」にたやすく騙されるのも形骸化の原因である。
 民主政治制度の再生には「政治理論の転換」と「市民の政策形成力」の高まりが必要である。

(3)政治理論の転換とは「国家統治理論」を「市民自治理論」に転換することである。
 政治権力の場にいる人達が今もなお「明治憲法の国家理論」を保持しているから「理論転換」が必要なのである。
 国家試験を出題し採点する学者の多くも「国家統治の国家学理論」である。代表民主制度が形骸化するのは制度を運営する人達に問題があるからだ。 
 国家理論とは「国家」を統治主体と擬制する理論である。即ち国民を被治者とする国家学理論である。それは「明治憲法の基本原理」を踏襲した「国家学」である。
 「国家観念」の吟味が必要である。「国家三要素説」と「国家法人理論」は天皇主権を偽装する国家理論であったのだ。「国家」が統治主体であれば、主権者の国民は「国家」を批判も制御もできず交代もさせられない。
 民主政治は「市民と政府」の関係である。即ち「主権者である市民」と「市民が代表権限を信託した政府」との関係である。「市民」が「政府を選出し制御し交代させる」のである。民主政治の理論で重要なのは「政府責任の理論」「政府制御の理論」である。論点は「国家」ではなく「政府」である。
 「国家」という言葉は、官僚と権力政治家の「隠れ蓑」の言葉である。国家理論に騙されてはならない。「国家」の言葉を安直に使ってはならない。明治憲法原理の「国家三要素説」が現在もなお蠢いているからである。即ちそれは「国民を国家の一要素とする」国家学の理論である。 
 市民自治とは、「市民」が公共社会の政治主体であり、市民が公共社会を管理するために「代表者を選出し制御し交代させる」とする自治体学の理論である。


 市民行政
 市民行政とは市民が市役所に入って職員と一緒に仕事をすることである。
 市民が選出した首長が「期間と職務」を限定した「市民行政・職員」を委嘱するのである。
国家学の行政法学は、行政は行政職員(公務員)が行なうものである、の観念に縛られているから、「市民行政」という言葉に違和感を抱き了解できない。
 了解できないのは既成の行政法学理論に固執するからである。
「国家統治の国家学」から「市民自治の自治体学」への理論転換が不可欠である。国家学の行政法学理論では「地域活性化の道筋」は見出せない。「行政不信」を解きほぐすことは出来ない。市民との信頼関係を構築することもできない。
 まずは、「行政概念」の転換が必要である。
「行政概念の転換」とは次のようなことである。
 国家統治学は「行政とは法の執行である」と定義する。自治体学は「行政とは政策の実行」であると考える。「政策」とは課題と方策のことであるから、「政策の実行」とは課題を解決することである。「地域課題の解決」は公務員だけではできない。
「市民と行政職員の協働」が不可欠である。協働とは「主体双方の自己革新」と「相互信頼」を前提にした言葉(造語)である。「学者」も「行政職員」も「協働」の言葉を連発する。連発する学者と行政職員が「市民行政」を忌避するのは矛盾である。重要なことは、国家学の行政法学理論に固執せず、柔軟に発想し論理思考を働かせることである。
 これまで、参加・参画・協働という言葉が使われた。実質内容にさほどの違いはない。「市民行政」を「市民参加」と考えればよいのである。
「市民参加」とは、市民が政策立案、政策決定、政策執行、政策評価の各過程に実質的に関与することである。つまりは、市民が地域社会の当事者として政策の実行に関わることである。
 市民行政とは市民が行政職員と協働して政策の実行に関わることである。

 
自治体学の概念
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学の概念

 自治体学会は一九八六年に「自治体学の創造と研鑚」を目指して設立された。学会の設立時には自治体学を「自治体関連諸学の総称の学」と仮定義した。爾来、二〇年を超える歳月が経過した。
 現在の憲法学、政治学、行政学、行政法学は「国家」を理論前提とする「国家学」である。国家学では現代社会が噴出する環境、資源、医療、福祉、文化などの「前例なき公共課題」に対して、部分的な問題点の指摘はするが全容の解明はできない。
生活の場で自治の問題として解決する「市民自治の視点」が欠落しているからである。
 国家学は「国家」を統治主体と擬制する。自治体学は「市民」を自治主体と考える。
 自治体学は実践の学である。すなわち、歴史の一回性である実践を理論化し、理論が実践体験を普遍認識に至らせるのである。実践を理論化するから規範概念が重要になる。
「規範概念」とは、未来を目的に設定し現在を手段とする「政策型思考の動態的実践概念」である。現状変革の意識が微弱であれば規範概念の理解は困難である。
八〇年代に流布した「行政の文化化」は規範概念である。行政の現状況に対する変革意識が薄弱であれば行政の文化化は意味不明の言葉になる。同様に「市民」も「自治」も「自治体」も規範概念である。市民自治の実践体験が微弱であればその概念認識は漠然である。
 自治体学は「市民と政府の理論」「政策形成理論」「自治制度理論」を包含する学の体系である。しかしながら、自治体学は完結した学の体系ではない。
 自治体学会は規約第二条に「自治体学の創造と地域自治の発展に寄与する」と定めている。すなわち、自治体学は「国家統治」を理論前提としてきた既成の国家学を「市民自治の学」に組み替える生成中の学である。
市民の自治力
(カテゴリー: 自治体学理論
さっぽろ自由学校「遊」です

前期に盛況だった連続講座『市民の自治力』の番外編です。
初めての方もぜひご参加ください。

(テーマ「自治基本条例の正しい考え方」

 日本の民主主義は名ばかりのものだとよく言われます。
 市民が政治に参加するのは選挙のみで、市民がまちの課題を議論し政策に反映する習慣と土壌がありません。

 道・市議会で何をしているのか市民からは見えにくく、多くの市民が関心を持つきっかけがありません。選挙で選ばれたはずなのに、「当選すればこっちのもの」とばかりに振舞う議員も少なからずいます。
 このため、道政や市政に対して不信感が蔓延しています。

 このような議会や議員の問題点を改善するための新しい機能として、
 近年、「自治基本条例」「議会基本条例」が注目され、自治体業界では大流行しています。しかし、多くの市民はこのことを知りません。
 
 この動きを、市民は手放しで歓迎できるのでしょうか? 
 この講座で検証し、将来への道筋を考えたいと思います。


日時:10月22日(金)18:30~20:30

講師 森 啓(もり・けい)さん NPO法人自治体政策研究所理事長

会場 さっぽろ自由学校「遊」

【お申込み・お問合せ】
NPO法人 さっぽろ自由学校「遊」
〒060-0061 札幌市中央区南1条西5丁目 愛生舘ビル2F
TEl:011-252-6752 FAX:011-252-6751
syu@sapporoyu.org http://www.sapporoyu.org


市民の自治力  2010-10-22 

1 議会改革と自治基本条例
 ・自治基本条例の必要性 
  白紙委任の如くに身勝手に行動 → 議会不信、行政不信
 ・基本条例は「代表権限の行使・運営」に枠を定める最高規範
 ・自治体の実績蓄積 - 市民自治の規範意識の定着 
 ・市民社会の成熟

2「まちづくり基本条例」と「自治基本条例」の違い
 ・まちづくり基本条例の制定手続 
   環境基本条例、福祉基本条例、交通安全基本条例
   災害防止基本条例、などの「まちづくり基本条例」は
   首長が提案して議会が決議する 
   条例制定権限は「選挙の信託契約」によって
   首長と議会に託されている。

 ・自治基本条例の制定手続
   有権者市民の合意決裁により最高規範意識を醸成する
   自治基本条例は代表権限の行使に枠を定める最高規範
   である。
   制定主体は代表権限を選挙で信託した市民である。
   首長と議会は基本条例を遵守する立場である。    

3 市民自治の最高規範
 「情報公開条例」「環境アセスメント条例」
 「オンブズパーソン制度」「政策評価制度」などの
 「市民自治制度」が相継いで制定されたが
  それらの「自治制度」は形骸化し役立っていない。
  そして今度は自治基本条例の流行である。 

4 議会基本条例
  ・異常な流行 - なぜ流行しているか

5 学者の理論責任
  行政基本条例と議会基本条例が別々にあってよいと
  説明するのは誤りである。


6 栗山町議会基本条例
  ・二つの根本的欠陥
  1 町民の合意・決裁を得ていない。
    議会の自己規律の定書きである
  2 なぜ議会だけで決めるのか
    なぜ町全体の自治基本条例にしないのか

                          


構造改革と格差社会
(カテゴリー: 自治体学理論
第12回市民公開講座 
  「構造改革」と「格差社会」  
     
1.新自由主義 (ネオリベラリズム)
 ミルトン・フリードマン (2006-11-16死去)  シカゴ学派
  ケインズ学派を攻撃 - 公共政策の役割―政府の失敗
自由な市場が経済を活性化する 公共事業、福祉事業も無駄
最低賃金制度 保険制度 公民権法も不必要

サッチャー、レーガンの政策 ―「アメリカの貧困層」(NHK衛星放送)
 チリ、アルゼンチン、ブラジル-悲劇的失敗 (貧困層の増大)
小泉は総裁選で竹中(シカゴボーイズ)のレクチャーを受け「構造改革」を唱え
 アメリカの要求で郵政民営化を改革の本命と叫び、国民は反対せずであった。 

新自由主義の政策特色
  1規制緩和―自由な市場競争 所得不平等・失業率の増加はやむを得ない
  2大幅減税―累進課税の引き下げ 勤労の意欲 努力が報われる社会
  3福祉政策の引下―怠け者をつくる 経済効率に反する

2.規制緩和
・「規制」は、公平・公正な経済活動のルール。
・「規制緩和」は、自由競争―新規参入―会社乗っ取り-M&A・企業買収
  リストラ-失業者増大―フリーター、パートタイマー
  所得分配の不公平 一部の富裕層と多数の貧困層
・だが、官(行政)が許認可権-官僚不信 公務員バッシング
  官の規制が経済を停滞させているのだ―規制緩和賛成の世論形成
官から民へ―民営化  自治体にも指定管理者制度
  交通 流通 医療 福祉 住宅 金融 教育
   (安全・安心―事故・耐震偽装・シャツター街)
・加えて「派遣労働法の規制」も、緩和した。

 それまで、秘書、通訳などの専門16業種に限定していた規制を
99年に原則自由にした。04年に派遣期間は1年を3年に規制緩和した。
 さらに、製造業、社会福祉にも派遣労働を可能にした。
企業は賃金コスト削減―非正規職員の増大―社会保険の使用者負担逃れ
・規制緩和は 働かせる側の自由  働く側には権利否定 

1 過度のコスト競争―倒産・企業合併
2 賃金労働条件の悪化・低下
3 コスト削減―安全性の低下  4 利益優先―公共性の喪失
・ かくて、中流の没落 → 貧困層 (200万/年収) 二極分化した

3.減税 
累進税率引下 ― 頑張った者が報われる社会 - 勤労意欲
 所得税   (83年) 75% →  37% 高額者
相続税       70% →  30%
法人税 (85年) 43.3% → 30%
  消費税 4兆6000億円 → 9兆6000億円
高額所得者・高額資産者を優遇
 
4.社会保障の後退
 福祉政策は怠け者をつくる。貧困は本人の努力不足が原因
 負担の増額・給付の削減の連続 
 年金生活者にも - 初診料・薬代負担 所得税
 社会保障費の削減 - 格差の拡大・深刻な貧困層の増大
 セーフティネットは世界的に最低水準
 貧困率 OECD調査ワースト2 アメリカが一位
     平均10.4% 日本 15.3%  
  母子所帯  95年―55.3% 2001年―53.0%
高齢単身者 95年―47.9% 2001年―43.0% 半数近い人が貧困
・ 生活保護世帯 2005年2月 100万世帯を超える
・ 生活保護世帯以下の年金世帯
・ 自殺者数も増加

5.なぜ国民は規制緩和に反対しなかったか
 新自由主義の規制緩和の政策に多くの国民が反対しなかったのは なぜか。
 なぜ小泉支持率が下がらなかったのか。

1 官僚が規制の権限を握っていることへの不信。
2 学者などが審議会で尤もらしく賛成した。
3 政策決定に参画するのは都市部に住む高額所得者である。
4 報道するメディアの人達も「所得税減税」が「消費税増額」よりも、自分には良いと思う階層である。
5問題は、規制緩和を低所得の人達も反対しなかったことである。

多数の国民が小泉を支持し「構造改革」「民営化」「規制緩和」に賛成した。
 なぜであるか を考察する。