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■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
公開討論・札幌市議会の除名問題
(カテゴリー: 自治体学理論
  公開討論「札幌市議会の除名問題」

Ⅰ なぜ、多数派議員は
  「立候補方式の議長選出」を嫌がったのか
・臨時議長提案の立候補方式に賛成しても「多数派で約定していたとおりの結果」になって、臨時議会は短時間で終了して、「8時間の空転」はなかったのである。
・一斉退場してまで嫌がったのはなぜであろうか
・立候補方式の議長選出では「コマル理由」があるのだろうか
・多数派議員が主張した「議会慣例」は、(二人の議員を除外した) 「会派交渉会の約定」である。議会の外での約定である。
 
Ⅱ 議会不信
・議会は信頼されていない。議会は(あっても無くても)同じだと言われている。
・議会不要論の声さえもある。
・議会不信の根源は、長年続けている「議会慣例の踏襲」である。
・新人議員は議会慣例を「良くない」「オカシイ」と(最初は)思うのだが (諦めて慣れて) 『議員』に化身する。

Ⅲ 議会の会派
・会派とは「議会の役職」を獲得するための集まりである。政策研鑽は空虚な美辞である。
・会派弊害の第一は(会派のリーダー)=(会派ボス)か、「会派決定」の名で個々の議員の「議案評決権」をも拘束することにある。
・今回の「慣例」に固執したのは、「会派交渉会の約定」で「議会運営を取り仕切る」の慣行が(崩れる=揺らぐ)を怖れたからである。会派ボスの権限が揺らぐからである。

Ⅳ 議員の除名
・除名は (有権者市民が選出し信託した議員)の資格を多数の議員が剥奪することであるから明白な理由が無くてはならない。議席多数なら(何でもできる)かのごとき今日の風潮は厳に正さなくてはならぬ。
・議員の取替は信託契約解舒権を有する有権者市民のみである。
・であるから、議会は除名相当の客観的で明証な事情を公表して、「資格剥奪の判断は有権者市民に委ねるべきである。 
・今回の札幌市議会の事態で咎められるべきは「一斉退場して臨時本会議を空転させた多数派議員である。
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民主主義と自治体議会
(カテゴリー: 自治体学理論
「民主主義と自治体議会」 (公開研究会)
      と き 2019年6月20日 13.00-15.00 
      ところ クリスチャンセンター504号室
      主 催 自治体政策研究所

  研究主題
   ・議会慣例と議会運営
   ・議会会派と議員の評決権
   ・民主的議会運営と議員除名(議員資格剥奪)
   ・事例研究-札幌市議会の除名問題

 現在の日本社会は民主主義と言えるであろうか、議会は議席多数なら何事でも議決できるのか、を公開討論する。
札幌市議会を傍聴した市民が全議員に公開質問状
(カテゴリー: 自治体学理論
     札幌市議会を傍聴した市民が全議員に公開質問状

「8時間空転」の札幌市議会本会議を傍聴していた市民の方々が、(議会のあり方)と(議員の態度)に驚愕して、議員全員に下記の質問状を提出して回答を求めた。

                      令和元年6月4日
札幌市議会議員各位
     
        議会運営に対する質問状       

5月13日に、初めて議会の傍聴をして、ひどく衝撃を受けました。
令和元年第一回臨時会が混乱した理由は、松浦議員だけが問題のように報道されていますが、お互いが自分の主張を通すことだけに固執し、解決に向けて建設的に話し合われなかったことだと考えます。そして、松浦議員以外の議員が全員無断で退出し、議会をボイコットしたことは問題にならないのかと疑問に思いました。
そして、再開された議会は真剣な議論を交わすものではなく、質問は数回で打ち切られ、淡々と採決が行われ、時間通りに終わることにも驚きました。会議の前に事前の打ち合わせが行われているとしか考えられず、市議会とは結論ありきの議会なのかととても不思議でした。このままでは議会不信、政治不信は募るばかりです。
質問1:臨時議長が提案した立候補方式を頑なに拒否し、臨時議長を解任してまで議長選出方式にこだわった理由を、分かりやすく回答をお願いします。
質問2:議会混乱の時に発言をしなかった議員は、この場をどうすれば解決できると考えていたのか、発言をしなかった理由も合わせて回答をお願いします。
質問3:市民が政治に期待できるように、議会改革をどのように進めていくのか、具体的に回答をお願いします。

  以上、6月15日までに書面にて回答をお願いします。

        札幌市●●●●●★★★★
         札幌市民傍聴チーム 〇〇〇〇  印

札幌市議会九時間空転の真相 (2019年5月13日)
(カテゴリー: 自治体学理論
  札幌市議会九時間空転の真相

 2019年5月13日、札幌市議会本会議が「議長選出を巡って9時間空転した」とのニュース報道がなされた。
5月14日のANNニュースは、この混乱は(多数議員の慣例による議長選出方式)と(松浦臨時議長の立候補による選出方式)との対立であると解説して報道した。
 この解説報道は「何が真の論点なのか」を正当に伝えていない。
 議長の提案は本会議場での「正規な提案」である。
他方の「多数議員の動議案」は(二人の議員を除外しての会派代表による約定案)である。しかも(議会の外での約定)である。議長選出方式の正当な対立とは言えない。

「混乱の真相」は、多数議員がなぜ「立候補方式による選出方式」を「嫌がったのか」である。

[本会議空転の真相を: http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/ に掲載したのでご覧下されば幸甚です]
 そして下記の「本会議録画映像」をぜひご覧頂きたい。
 http://www.sapporo-city.stream.jfit.co.jp/…

1 問題は、多数議員はなぜ「立候補による議長選出方式」を嫌がったのか。なぜ臨時議長の立候補方式の提案に賛同しないのかである。賛同しても結果は「会派の約定」どおりになったのではあるまいか。それを(議場を退場してでも「立候補方式での議長選出」を嫌がったのはなぜであるか。
   
 これが「九時間空転の真相」である。

・当日議会を傍聴された市民の方々に「なぜ立候補方式を嫌
 がるのか」を考えて頂きたい。
・テレビ・新聞の記者の方々は真相を洞察して報道して頂き
 たい。
  
2、本会議空転の原因(責任)は、
(立候補方式を提案した松浦議長にある)のではなく、
(手招きし合って退席した多数議員にある)のではあるまいか。 前記の(札幌市議会公開映像)をご覧頂きたい。
(自民会派内で内定している議員が立候補すれば)臨時議会は短時間に終了したのである。臨時議会は空転しなかったのである。

 5月15日のテレビニュースは、札幌市議会の各会派が松浦議員の懲罰動議を提出したと報道した。
 (懲罰云々を言うのならば)、本会議進行中に(濫りに)退場した多数議員こそが(咎められること)ではあるまいか。明白な議会規則違反行為であるのだから。

そしてさらに
・慣例と称する「会派交渉会」の約定(取り決め)は、選挙前の前任任期の議員による約定である。そしてその「会派交渉会」には松浦議員と石川議員は除外されているのである。
 交渉会を仕切っている飯島議員に、松浦議員が「私も加わった場での約定ならば従いますが、そうでないのだから、法律どおりに臨時議会を運びますよ)と本会議前に言ってあったとのことである。

 多数議員が声高に唱える「慣例」は「会派交渉会の約定」である。すなわち
  多数第一会派が 議長を
    第二会派が 副議長を
    第三会派  監査委員
    第四会派  監査委員 である。
ところで、
 公明も共産も議員10名の同数であるから
 (慣例では)監査委員は公明と共産である。
  ところが (市長が多数会派と協議し忖度して)
  監査委員は公明と自民に定まった。
  (議会慣例とは所詮はこのようなものである)

 そもそも会派とは何か。
会派とは「議会の役職を(獲得)する」ための集まりである。
 (政策研鑽のため)は空虚な美辞である。実態は(密室取引をするボス議員)が「会派決定の名目で議員の評決権」を拘束する集まりである。
 「会派の弊害」を「ブログ・自治体学」に近日掲載する。

3 議会不信ー前例・慣例の見直し
今日、国会も地方議会も「議会不信」が広がり、「代表民主制の危機」と言われている。「議会改革の勘所」は「慣例踏襲の見直し」である。
 であるから、新人議員だけでなく古参議員さえも (選挙のときには)「議会改革」を唱える。市民は「議会は何をやっているのか」と「議会不信」を嘆息するが 嘆くのでなく「慣例踏襲の真相」を見抜く思考力を高めなくてはならぬ。

この世は今、(議員多数ならば) [何でも押し通せる] ご時勢である。
安倍晋三は祖父岸信介の墓前に「憲法は改めました」と報告を捧げる事態にあり、有権者の多数がこれを支持し、メディアの人々は政権に靡き自粛抑制し、NHK内部の人事は(かつての会長を超える安倍政権よりの人物)になり、官僚は「記憶にありません」で世渡りする。見識と気骨ある議員は国会にも自治体にも見当たらず、行政職員の委縮が広がっている。かつての自治体学会設立時の活気が乏しいのではあるまいか。
 
(1)多数議員が「立候補方式」を嫌がったのはなぜか
(なぜ嫌がるのか)
(2)そもそも議会会派とは何か、会派の弊害は何か、を
  筆者ブログ「: http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/」に近日掲載する。
 
松下圭一「市民政治理論の骨格」
(カテゴリー: 自治体学理論
  松下市民政治理論の三つの骨格

 1 市民自治
  ア 「国家統治」と「市民自治」
  イ「市民」と「自治体」
 2 都市型社会
 3 政策型思考

 現在日本は民主主義と言えるであろうか。 
 今の日本社会は(間違っていること)を(間違ている)とハッキリ言わない。
「安倍晋三は前に言ったことと真逆のことを平然と言う」と思っても「人前ではそのことを話さないのが良い」と思っている。これが現在の日本社会である。
 
 市民政治理論は「国家は統治主体ではない」「市民が政治主体である」とする理論である。ところが、国会議員と官僚は国家が統治主体だと思っている。学者も「統治権の主体は国家である」と講義して、国民を国家の一要素とする「国家三要素説」を教説する。
 松下圭一教授は、岩波新書『市民自治の憲法理論』で、民主政治は「国家が国民を統治する」ではない。市民が「政府に権限を信託して政府を制御する」である、と明解に論述した。
 1975年にこの本が出版されたとき憲法学者も行政法学者も政治学者も、誰も反論できなかった。「松下ショック」と言われた。
 ところが、憲法と行政法の学者は明治憲法理論の「国家統治理論」を現在も言説し続けているのである。なぜであろうか。
 これが、「現在日本の民主主義」の根本論点である。

 松下理論は「市民が自治共和の主体である」とする市民政治理論である。
 市民政治理論が民主主義の政治理論である。

詳細は下記をご覧ください
  1 https://www.youtube.com/watch?v=3WJoqoXyLzY

2 https://drive.google.com/file/d/11JJSU1IEdAJwRbH8ilMvhEc8IDOdd349/view?usp=sharing
北海学園大学開発研究所「開発論集103号」・「松下圭一・市民政治理論の骨格

都市型社会とは
(カテゴリー: 自治体学理論
  「都市型社会」

松下理論の骨格の第二は「都市型社会」である。
都市型社会とは、農村・山村・漁村・僻地にも「工業文明的生活様式」が全般化した社会のことである。「都市型社会」は「都市地域の社会」のことではない。同様に「農村型社会」も農村地域の社会のことではない。
「都市型社会」とは、現代社会を「如何なる社会」であるかを認識するための用語である。理論構成の前提条件である社会構造の変化を認識するための用語である。
 多くの学者は、理論構成の前提である社会構造が「ガラリ変わっている」ことを認識理解しない(理論構成できない)のである。

 人類発生以来、狩猟・採集の社会であった。やがて農業技術を発明して定着農業の社会(農村型社会)になった。人類史上、第一の大転換であった。この農村型社会は数千年続いた。そして16-17世紀のヨーロッパに、産業革命(工業化)・市民革命(民主化)による「近代化」が始まり、農村型社会(身分と共同体の社会)の解体が始まった。
 さらに、20世紀には工業化(情報技術のさらなる発達)・民主化(民主政治の思想と制度の広がり)が進展して、先進地域から順次に「都市型社会」への移行となった。工業化と民主化が進展して数千年続いた〈農村型社会〉が〈都市型社会〉に大転換したのである。
 だが,都市型社会の成熟に伴い新たな問題が生じる。
工業技術の発達は資源浪費・環境破壊・遺伝子操作・人工生命などの深刻事態を生来し、世界各地では民主政治の危機が生じ独裁国家が台頭している。これらは「民主化による工業化の制御は可能なのか」という文明史的問題である。
工業化の進展が不可避とする「市場原理」と、民主化が誘導する「計画原理」との結合を如何に市民制御するかの問題である。しかしながら深刻事態の否定的側面のみを提示せず発展面をも直視せずばなるまい。

 この問題解決のカギは、市民型人間の「醸成可能性」である。すなわち、都市型社会の成熟によって人々は「余暇と教養の増大」を保持する。そして(数世代をかけて)「人間型の変容」が生じる。すなわち、都市型社会の成熟が「市民型人間の大量醸成」の可能性を齎すのである。可能性ではあるがこの可能性が画期的な事態なのである。
都市型社会では、人々の生活条件の整備は〈共同体〉ではなく〈政策・制度〉という公共政策によって整備される。
講座「民主主義と自治」 (札幌月寒公民館・創造学園)
(カテゴリー: 自治体学理論
2019-1-24 札幌月寒公民館

[1] 民主主義と自治
1)自治
・自治とは重要なことを(人任せにしない)(自分たちがしっかりする)である。
・自治の反対語は統治支配である。
・民主主義は「選挙で権力の座」に就いた人物を「身勝手にさせない」である。
・選挙は「白紙委任のお任せ」ではない。信頼委託契約である。
・信託契約に背反するときは契約を解除するである。
・明治憲法時代の日本の人々は「統治される被治者」であつた。
・日本国中が焼け野原になり300萬人の人が死んで民主主義になったのだが……

2)現在日本は民主主義であろうか。
・今の日本は(間違っていること)を(間違ている)とハッキリ言わない。
・国会では重大な(取返しのできない)ことが(自民と公明の多数議席)で強引に決議され法律になつている。
・「安倍晋三は前言と真逆のことを平然と言う」と思っても、人前ではそのことを「話さないのが良い」と思っている。これが現在の日本社会である。
・日本の新聞とテレビは[重要な政治ニュース]よりも[娯楽・スキャンダル・スポーツニュース]を報道する。人々は次第に政治に無知になり無関心になる。
・(官邸のメディア監視班)が「政権批判報道」を監視して、新聞テレビの経営者を警告し自粛させている。
・日本の「報道の自由度」国際ランキングは、主要7カ国(G7)で最下位72位。東アジアでは、台湾が最高45位、韓国63位、日本72位、香港73位、中国176位。世界最下位は北朝鮮。

[2] 民主主義
1)天皇退位と新元号
・人々が「新元号」を予測したり話し合えるのは日本社会が民主主義だからである。
・天皇退位も日本が民主国になっているからである。(だが猛烈に反対する人もいる)
・日本でいちばん民主的なお方は天皇である。
・憲法を大切にされ平和を望んでいらっしゃるのは天皇である。
・安倍晋三は憲法を「占領憲法」と言って蔑視している。(本心は岸信介の墓前に…)

2)沖縄辺野古湾に土砂投入
・普天間基地の代替名目で本格的な米軍基地を辺野古に建設している。
・メディアの扱いは「重大ニュース」ではない。これが現在日本の報道である。
・そしてNHKは「安倍首相が辺野古のサンゴや絶滅危惧種は別の場所に移していると説明した」と報道した。大久保教授(東京経済大学・海洋生物学)が「それは事実と異なる」とコメントした(東京新聞1月9日24面)。
・安倍首相と菅官房長官は「沖縄の人々に寄り添う」と言いながら機動隊に守らせて「問答無用の土砂投入」を強行している。
・天皇は沖縄に11回も訪問され沖縄の人々の心に寄り添われた。地震・台風の災害地にも度々出かけて被災者にお声をかけられ天皇への敬愛を高められた。

3) 行政権力の私物化 (不公正・不公平・不透明)
・国民の七割が「森友問題と加計問題」を納得していない。
・前川喜平さん(元文部事務次官)は、全国各地から講演を依頼されて安倍政権の「行政の私物化」の実情を語っているので下記をご覧あれ。
https://www.youtube.com/watch?v=FBLOAIiMkW4
(前川喜平さん講演会2018.04.08@名古屋)
https://drive.google.com/file/d/0B3ELOI3faDj6Y1pPcld0dTUtN1U/view?usp=sharing 
(前川喜平(前文部科学省事務次官)講演 2017年10月23日(札幌エルプラザ)

[3] 権力は騙す
1) 言葉で騙す
・いつの時代も権力の座についた者は人々を騙す。臆面もなく平然と嘘を語る。
・(トランプのフェイク)と(安倍晋三の二枚舌)は同じである。
・NHKでは政治部が「ニュース原稿」を訂正して政権批判をさせず政権を擁護する。 
・政治部の岩田明子氏が安倍晋三の取巻きであることはつとに有名である(gougleインターネットにも掲載されている)

2) 安倍政権と警察
・官邸と検察・警察との癒着を見せつけたのが、「森友学園、加計学園」と「安倍晋三の取り巻きジャーナリストである山口敬之氏の準強姦事件だった。いずれも検察と警察が、官邸に忖度して処理した。
・ 国会で繰り返された安倍首相の傲慢な態度と官僚らの誠意の欠片もない答弁など、安倍政権をここまで思い上がらせたのは、「官邸の力」である。首相秘書官や官房長官を“仲間”で固め、内閣人事局の持つ人事権で「霞ヶ関」を支配し、検察警察を牛耳ることで“身内”には(恩を売り)“逆らったもの”には(容赦なく対処)しているからである。下記をご覧あれ。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52209
・元TBS報道局の社会部及び政治部の報道記者である山口敬之氏は安倍首相に最も近いジ ャーナリスト。その山口敬之からレイプされたと27歳の女性が訴えた。逮捕状を携えた刑事が成田空港で逮捕すべく待ち構えていた。そこへ中村格(警視庁刑事部長(当時)から「逮捕は取りやめ」と指示がなされ、そして東京地検は嫌疑不十分を理由に不起訴を決定した。指示をした中村刑事部長は2015年3月まで菅義偉官房長官の秘書官であった。

3) 騙されない思考力
・民主主義は人々が「騙されない賢明さ」を保持して成り立つ。
・その賢明さとは「官邸に追従するメディア」に騙されない思考力である。
・70年前、全国の都市が焼け野原になり300萬を超える人が死んだ。そのとき日本の人々は「鬼畜米英・米英撃滅」「打ちてし止まぬ」と大合唱した。そして今、国立筑波大学生の70%超が「平和憲法を改変しようとする安倍内閣」を支持している(筑波大学新聞339号)のである。そして官僚は保身のために「公文書を改竄し」「記憶にありません」と繰り返すのである。

[4] ゴーン氏の逮捕
・ゴーン氏の逮捕拘留の背景には「日産株43%を保有する(フランス・ルノー)が日産を吸収合併する動きがありゴーン氏がそれに加担し始めたからだ」と憶測されてい。
・「日本の警察は逮捕拘留して弁護士にも家族にも面会させない。嫌疑を認めなければ(自白しなければ)保釈せず長期拘留を続けるのは「人質司法である」との批判が国際社会に高まっている。
・この機会に、戦前からの「警察国家」の(悪しき慣習)を改め、ることが大事ではあるまいか。

[5] 隣の国・韓国
・1910年(明治43年)8月29日、大日本帝国は大韓帝国を併合して支配下に置き、筆舌に絶する非道を35年間続けた。
・いま嫌韓を煽っている人々は、テレビで尤もらしく言説している人々は過ぎし過去の非道を如何ほどに知っているのであろうか。
・隣国との友好を(どうすれば築けるか)(どう考えるのが良いのか)が重要ではあるまいか。
政策型思考とは
(カテゴリー: 自治体学理論
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「政策型思考」とはどのようなことか 

 松下圭一市民政治理論の方法論は政策型思考である。
 政策型思考とは「予測」すなわち「構想による仮定の未来」を(目的)におき、現在の資源を(手段)として動員・機動して整序する思考である『政策型思考と政治』137頁)
 松下教授は、自身の方法論を次のように説明している。
『私の社会・政治・行政理論の方法論は「歴史の変化のなかに現実の構造変化を見出し現実の構造変化をおしすすめて歴史の変化をつくりだす」という考え方です』と。
 「歴史の変化をつくりだす」は「規範論理の思考」である。即ち、政策型思考とは「規範論理による思考」である。

 松下理論(著作)が難解と言われるのは規範論理で論述されているからである。
 論理には説明論理と規範論理がある。
 「説明論理」は(事象を事後的に考察して説明する思考(実証性と客観性が重要)である。
 「規範論理」は(あるべき未来)を目的に設定して実現方策を考案する思考(予測性と実効性が重要)である。

(あるべき)とは当為である。(かくありたい)(かくあるべき)は「規範意識」である。
(あるべき未来)は構想であって夢想ではない。未来に実現を予測する構想である
(あるべき未来を構想する)とは「規範概念による思考」である。 

 丸山真男氏は『日本の思想』(岩波新書153頁)に、「である」の思考論理と 「する」の思考論理の違いを説明している。そこに説明されている「する」の思考論理が「規範概念による思考」である。政策型思考は規範論理による思考である。

 松下理論(著作)を難解だと思うのは (お読みになるご自身に)実践体験がないからである。
 「規範概念」と「規範論理」の論述を了解し納得するには、(あるべき未来)を目指して一歩踏み出し、困難な状況に遭遇して、困難を切り拓いた(イクバクかの)体験が必要である。
「あるべき未来」を希求するのは「現状に問題あり」の認識があるからである。問題意識のない状況追随思考の人には(あるべき未来)を構想することはない。
 「構想する」とは「何が解決課題であるか」「解決方策は何か」を模索することである。「何が課題で方策は何か」を模索するには経験的直観が不可欠である。その経験的直観は「困難を怖れず一歩踏み出した実践体験」が齎すのである。

 「人は経験に学ぶ」という格言の意味は、一歩踏み出し困難に遭遇して「経験的直観」を自身のものにするということである。
 「経験的直観」とは「実践の概念認識」即ち「実践の言語表現」である。一歩踏み出し困難に遭遇した実践体験の無い人には「経験的直観」は無縁であり不明である。
 (知っている)と(分かっている)には大きな違いがある。その違いは実践体験の有無である。人は体験しないことは分からないのである。

「実践」と「認識」は相関する。
・毛沢東の『実践論』と『矛盾論』は相互補完しているのである。 (矛盾論は認識論である)
・西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』というのは、西田自身の禅的実践体験によって到達した「直観認識」である。

1980年代に政策研究活動が自治体に台頭した。台頭したのは、自治体に省庁政策の下請従属の位置から脱出する政策自立の動きが広がったからである。
  政策研究には二種類ある。
・一つは、特定政策を事後的に実証的・客観的に調査分析して説明する(費用と便益などの)研究。行政学の政策研究はこちらである。 
・他の一つは、(政策課題を見出し)(解決実現の方策を考案)する研究である。自治体の政策研究はこちらである。(自治体の政策研究の詳細は、北海学園大学開発研究所「開発論集101号」に掲載した)
安部晋三の本心
(カテゴリー: 自治体学理論
 安倍晋三の本心

・安倍晋三の本心は「憲法改変」である。
ミサイル危機を煽り、Jアラートを鳴り響かせ、児童を机の下にもぐらせたのは、「憲法改変」を実現したいからである。憲法九条を骨抜きにし軍備を増強し戦争する国にするには「仮想敵国」と「国際緊張」が必要である。友好平和では困るのである。
 であるから、朝鮮半島の北と南の友好を喜ばず、トランプ・金正恩の会談中止の報に喜び、「北朝鮮との断交」「最大限圧力」を叫び続けたのである。
   安倍晋三の本心は「憲法改変」を実現して祖父岸信介の墓前に報告することである。彼の本心は「世界の平和」ではない。
  
・政治の要諦
 政治は本来、不幸せな境遇の人々に手を差しのべることにある。しかるに、トランプに言われて巨額の兵器(イージス艦は1.000億円など)を購入し、保育・介護・生活保護・障害者・難病者などの福祉予算、山林保護・河川管理の災害予算を切り下げた。彼には総理としての見識も責任感も無い。
 人々が幸せに暮らすには「平和」が不可欠である。武力で平和は保てないのである。
 軍隊は(いざそのとき)国民を守らないのである。「軍備増強は国民の生命と財産を守るためだ」と述べるが、安倍晋三は二枚舌である。平然と虚言を弄するのである。薄ら笑いの国会答弁を観察すれば彼を信頼信用することはできない。騙されてはならない。

・騙されない思考力
 官僚に(公文書を改竄させ)(記憶にありません)と嘘を言わせ、行政を私物化して「腹心の友」に便宜を図り、加計学園理事長が茶番の記者会見をした。
 (憲法違反の議案も国会運営も)公明・自民の多数議席で強行議決する。選挙民を見くびっているのである。
  今、必要なのは「騙されない思考力」と「真相を見抜く洞察力」である。そして、労働組合の「結束力」と「学習活動」と「市民との連携」である。
住民投票 - 市民自治講座 Ⅱ
(カテゴリー: 自治体学理論
講座・『市民自治―Ⅱ』
  現在日本は民主主義か    さっぽろ自由学校・遊 (レジュメ)

第二回 住民投票 (2018-6-20)

1住民投票とは
・選挙は「人を」選び住民投票は「事柄を」選ぶ。共に主権者住民の意思表明である。
・2000年代初頭、合併をめぐって「住民投票条例の制定」を求める署名運動が全国各地に起きた。地方自治法に基づく「条例制定の直接請求」である。
有権者50分の一以上の署名(住所・生年月日・捺印)を集める署名運動である。
・住民投票は「代表民主制度の正常な運営」を求める住民意思の表明であり「信託した代表権限」の制御行動である。住民投票を実施するには、そのための条例や予算などを議会が議決しなければならない。
・だが議会が、住民の条例制定請求の78%を否決し葬った。その理由は、住民投票は“代議制の否定”であり、議会の“専売特許を侵害する”というものであった。
・日本世論調査会の調査では、住民投票の活用に賛成する人が有権者の 86%。朝日新聞の調査でも活用すべきが90%であった。
・住民投票の歩みは[住民の“直接請求”]と[議会の“厚い壁”]との葛藤の歴史であった。
・住民投票には「イニシアティブ(発案の投票)」と「レファレンダム(評決の投票)」がある

2住民投票の実際例
高知県窪川町-日本で最初の住民投票条例を制定ー町長の原発誘致に反対
新潟県巻町―日本で最初に住民投票を実施した-原発反対・町有地売却せず
岐阜県御嵩町―産業廃棄物施設
沖縄県―日米地位協定・基地縮小
名護市―普天間代替基地・辺野古湾埋立
神戸市―空港建設
徳島市―吉野川河口堰―[50%条項]

市町村合併
 2000年代初頭、全国各地で小泉構造改革の市町村合併に反対する「住民投票条例制定」の署名運動が展開された。
  議会が住民投票条例を否決―そのとき「50%条項」が援(悪)用された。 (開票せず焼却した)  
 北海道の典型実例 南幌町・奈井江町・石狩市

 無防備地域宣言条例

団体役員と市民の「思考回路」の違い

3 定住外国人の投票権
・永住外国人に住民投票を認める動きは滋賀県米原町(米原市)から始まった。
 外国人の投票権を認める条例を制定している自治体は北海道増毛町、北海道静内町、北海道三石町、茨城県総和町、埼玉県美里町、埼玉県鳩山町、東京都三鷹市、千葉県我孫子市、神奈川県川崎市、愛知県高浜市、三重県名張市、石川県宝達志水町、広島県広島市、広島県大竹市、岡山県哲西町、香川県三野町[3]。

4 常設型住民投票条例
 岩国市の事例
合併の是非など特の問題に限定しない「常設型」条例に基づき、市長自らの発議で実施できる全国的にも珍しい住民投票。投票できるのは有権者と、20歳以上の永住外国人で3カ月以上の市内在住者のうち投票資格者名簿に登録した人。投票率50%未満の場合は開票しない。

5討論(話し合う)事項
・殆ど総ての住民投票(条例制定請求)を議会が否決したこと
・徳島市議会での「50%条項」は(住民投票不成立)のためのボイコツト戦術である。
・住民投票は議会制民主主義に反する (当時の)自治省見解
・住民投票には法律上の規定が無い 自民党政調会―自治体の基本条例に対して
    https://www.youtube.com/watch?v=2tqXt27Z3tU
・憲法の定める代表民主制は間接民主制であり、住民投票は直接民主制であるから、議会制に反するのか。
・なぜ定住外国人の参政権は認められないのか。
・「住民投票の法的効果」―立法化―住民投票立法フォーラム
    (URL:http://ref-info.net/、e-mail:ref@@clock.ocn.ne.jp)

参考文献
 『住民投票』岩波新書・今井一
 『無防備平和』高文研・谷百合子編
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民主主義には権力(政府)に騙されない自立した思考力が不可欠
(カテゴリー: 自治体学理論
民主主義には権力(政府)に騙されない自立した思考力が不可欠

 安倍晋三の本心は「アジアの平和」ではない。本心は「憲法改変」である。朝鮮半島「北と南の融和」を望んでいない。だから、虚言を言い続け危機を煽っているのだ。現在日本は「間違っていること」を「間違っている」と(言わない・言えない空気)が充満している。

 岩波「世界」六月号(41頁)の『憲法九条は誰が発案したのか 』を、お読みなさるをお薦めします。当時の幣原喜重郎首相の(見識と覚悟)は、安倍晋三首相の(憲法改変の執念)と較べて、人間としても首相としても「天と地の違い」です。

 前川喜平さん(前文部科学省事務次官)の東京大学駒場キャンパスでの下記講演を是非ご覧下さい。
   https://www.youtube.com/watch?v=6pFOa_dqJSM


地域の活性化には自治体理論が必要
(カテゴリー: 自治体学理論
以下は [北海道町村会・政策情報誌「フロンティア180」第13号(1995-4-10)]の論稿である。

  地域の活性化には自治体理論が必要 
 
一 町村職員には自治体理論が必要である
住みつづけていたいと思い住んでいることが誇りに思える地域をつくるには自治体理論が必要である。
地域課題が「量的基盤整備」から「質的まちづくり」に移った。まちづくりは省庁政策の下請けでは出来ない。地域課題を見つけ、その課題の実現方策を考え出し、住民、企業、団体と協働して実行する。そのような能力のある職員が町村役場に育たなければ地域はますます寂れ、ますます衰退するであろう。
まちづくりは役場の職員次第である。まちづくりの時代とは役場職員の能力が試される時代ということであろう。地域に活力が担り、個性と魅力と美しさが地域に育ち、過疎の進行が止まるには、役場にまちづくり能力のある職員が育たなければならない。
例えば、産業構造が変化して情報産業の時代になったから都市に人口が集中するのであって過疎の進行は止めようがないのだ。農村地域が寂れていくのは時代の流れであって役場職員がどんなに頑張ってもどうにもならないのだ、とただ言うだけ嘆くだけの役場職員では地域に活力は穀らない。質の時代のまちづくりは役場だけではできない。役場だけではできないのだが、役場職員が「まちづくりとは何か」「地域に活力が起るとは何をどうすることであるのか」が見えていなければ、「何
から始めればよいのか」がわからなければ、地域は間違いなく衰退する。そのような時代である。
ここ数年、農水省、国土交通省、総務省などの各省庁は「地域づくり」を唱えて、まるで競い合うかのように同じような事業を示して市町村を募ってきた。市町村は申請書を出して省庁指定の事業に自前の金も注ぎ込んでいる。質のまちづくりの時代に変わっても補助金行政のやり方は量の時代と変わらない。
しかしながら、省庁主導の旧来のやり方では質のまちづくりはできない。なぜ出来ないのか。質の時代のまちづくりの課題はすべてが総合行政的な政策手法を必要とする課題だからである。タテワリ省庁が補助金で指示し支配する旧来のやり方では個性と魅力のまちにはならない。施設も、事業も、制度も、その運営も、総合行政としてすすめなければ魅力あるまちにはならない。
例えば、省庁助成で施設をつくるとする。人口も少なく財源も乏しい地元では複合多機能施設をつくりたい。ところがタテワリ省庁は補助目的を理由にこれを認めない。会計検査員がそれをフォローする。
だが、地域事情は千差万別である。地域課題の内容も事業のすすめ方も様々である。それを、地域事情の分からない東京の省庁が画一基準で優越的に指示支配するから地域に魅力が育たない。
さらにまた、住民を行政サービスの受益者とみなし地域を行政施策の客体とする考え方では、人びとのまちへの愛情は育たない。まちに魅力と活力が甦るのは、そこに住んでいる人びとがまちづくりに関わりまちへの愛着を心の内に育てるからである。
計画も実行も市民自治的なやり方ですすめなければ人の心にまちへの愛情は育たない。現在の省庁支配の行政システムでは

市町村職員に「いたし方がないのだ」との惰性的な考え方を続いているからである。これでは誇りに思える魅力あるまちにはならない。
ではどうすればよいのか。自治体理論である。

二 統治理論から自治体理論へ
地域に個性と魅力を担らせるのは自治体理論である。
理論とは、筋道をつけて組み立てた考え方である。過疎が進行している日本列島にいま必要なのは自治体理論である。
「第一次産業を基盤とする社会」からが「情報産業型の社会」に大転換した(1)。価値観・生活様式が変わった。家庭のあり様、地域の人間関係を顧みればその変化は歴然である。一方に異常な過密、他方に深刻な過疎が進行している。何とかしなければならない。地域を燈らせる課題と方策を考え出さなければならない。
考え出さなければならないにもかかわらず、行政のやり方は旧態依然で役所の内側は何も変わっていない。
住民は被治者であって主権者ではない。国家の名目で法律を執行する省庁官僚が統治者である。自治体がそのシステムに従属しているからである。 
しかしながら、地域を甦らせ人間らしい感情と環境を取り戻さなければならない。自治体の政策能力を高めなければならない。中央-地方の行政システムを転換しなければならない。
問題は自治体職員である。仕事の仕方は旧態依然で、無責任で責任回避で形式的公平、年功序列の保身である。何も変わっていない。
社会構造が大転換して地域課題が量から質に変わったにもかかわらず、カタカナ言葉だけで、地域を甦らせる政策課題に挑戦していない。
(住民と手を携えて地域を起らせている町村は存在する。それは承知しているがここでは、文脈上かく記述する)
なぜであるのか。毎年四月、道庁、市役所、町村役場に新採用職員が入る。入ったときは、感覚も心も顔つきも人間らしく初々しい。けれども、数年を経過すると「地方の公務員」になる。首の後部をボンと打つと「チホーコームイン」と音がする、ようになる。言葉づかいも感覚も完全に役所の人になる。目の輝きも次第に薄れる。何故であるのか。
時代の転換に対応する自治体理論がないからである。役所が旧態依然でありつづけるのは明治以来の理論が浸透しているからである。
新採用職員が役所の人に変身するのは国家が統治し支配する理論に取り込まれるからである。移しい法律規則はすべてが国家統治理論で解釈され運用され通達され執行されている。事業・制度・施設・行政機構、そのすべてが国家統治理論で日常的に執行・運用・運営されている。これでは、仕事の仕方・言葉づかい′・顔つき・服装・感覚が次第にお役所の人になるのは当然であろう。
まことに、理論の力は大である。
例えば、文化ホールを建てるとする。官庁理論はこうである。文化ホールは公の施設であり行政財産である。行政財産は行政の責任で建設し管理する。役所が管理運営規則を定め館長を任用する。ホールの利用は申請書を提出し館長の使用許可決定を受け役所が定めた管理規則に従う。住民は行政サービスの受益者である。住民は公共政策の主体ではない。
これが旧来の国家統治の理論である。だから、文化ホールの建設は、ホールについて何も知らない実直な公務員が、さしたる見識もない首長の意向を伺いつつ、発注を受けたいだけの建築屈と、市民不在の場で密かに協議して、莫大な費用の建物をつくる。このような役所のなかで何年かを過ごせば、客席がアンコールで沸いているからと時間延長を求められても、管理規則を盾に所定時間での退出を迫る職員になるであろう。練習場所をもたない地元オーケストラに休館日の練習使用を求められても、館長は条例の規定を理由に断るであろう。そしてまた、現場が柔軟な運用をすれば本庁から官庁理論をふりかざして非難批判の指弾が飛んでくるであろう。だから、全国各地でハコモノ批判が一斉に噴き出している(2)。しかしながら、統治支配の官庁理論の職員には批判の意味すらも分からないであろう。
「文化施設の運営」と「行政財産の管理」とは原理的に異質であることが統治支配の感覚では分からないからである(3)人々の心にまちへの愛情が育たなければ誇りに思えるまちにならない(4)。
住民と協働しなければ美しく魅力あるまちにならない。統治支配のやり方では質の時代のまちづくりは出来ない。地域を起らせるには国家統治理論から自治体理論への転換が不可欠である。

三 自治体理論
自治体理論とは日本の各地域に活力が起る考え方である。住んでいる人が地域に愛着をもち地域への愛情を心の内に育てなければ地城は美しくならない。住んでいる人が地域を良くもするし駄目にもする。他人まかせでは、行政まかせでは、地域は確実に衰退する。そのような時代である。
社会構造が「農村型」から「都市型」に移行した。それまで、社会を繋ぎ支えていた共同体が失われた。だが、共同体に代わるものがいまだ形成されていない。現在はその形成の過渡期にある。農村型社会を支えた共同体に代わるものは何であるのか。それがまさに問題である。それは市民の公共性である。自治体理論は地域を支える主体と主体の関係を
見出す理論である。
自治体理論の形成には既成の考え方の転換が不可欠である。考え方の転換とは基礎概念を吟味して再定義することである。理論とは概念の繋ぎ合わせであるのだから。
例えば、行政の概念である。
行政とは法律の執行である、とこれまで考ぇていた。だが、この定義は誤りである。この定義では地域は起らない。なぜなら、法律には三つの欠陥がある。一つ、法律は全国通用つまり全国画一である。その法律の執行では地域に個性は育たない。二つ、現在の法律は各省庁タテワリである。悪く言えばバラバラ。質のまちづくりは総合行政である。タテヮリの法律ではまちに魅力は生まれない。三っ、都市型社会では前例のない公共政策課題が次々と噴出する。法律の制定改正を待ってはいられない。
つまり、行政は法律の執行ではない。行政とは政策の実行である。地域を美しく誇りに思えるまちにする公共政策を策定し実行するのが自治体行政である。正確に定義すれば、行政とは市民自治的に政策を策定し市民自治的に実行する、である(5)。つまり、地域の課題は何か、その実現方策は何か、を考えることが白油体行政であって、何かと言えば、すぐに法律はどうだ制度がどうだ、と発想しないことである。では法律とは何か。法律とは自治体政策の全国基準=準則である。その全国基準を尊重して地域事情に合った基準を定立するのが自治体立法である(6)。だから最近、政策法務という言葉が言われ始めている。このように考えを組み立てるのが自治体理論である。
自治体とは何か。省庁政策の末端執行団体ではない。住んで誇りに思える地域をつくる政策の主体、つまり政府である。現在の憲法は第八葦でそれを規定している。ところが、明治以来、政府とは中央政府のことであると思わされてきた。国家統治理論である。理論の力はまことに大である。だが、自治体も政府である。中央の政府と地方の政府の協力関
係を考えるのを政府間関係理論と言う(7〉。政策の主体である自治体は政府である。公共政策とは何か。政策とは課題と方策が組み合わされた指針である。だから、政策とは政府だけの言葉ではない。町内会にも農協にも政策はある。公共とは何か。公共とは市民と市民の関係を意味する観念である。公共も政策も国家や役所が独占する言葉ではない。
市民とは何か、市民とは誰のことか、市民と住民とは違うのか。市民概念を住民概念との対比で考えるのが自治体理論である。国家統治理論には市民概念はない。行政サービスの受益者=被治者としての住民あるのみである。住民は自己利益が行動原理。市民とは公共感覚を体得し公共性を行動原理とする人間型である(8)。国家統治理論は国家から出発
する。自治体理論は市民から考え始める。以上は、基礎概念の再定義の一例である。

四 地域が甦るのは職員次第-職員が育つのは町村長次第
地域が起るのは町村職員次第である。地域の事務局である役場の職員が旧態依然では地域は益々寂れていく。全国各地で町村職員の政策研究会が始まっている(9)。そことの交流である。交流して驚き感じ刺戟を受けて人の意識は変わる。役場に座しているだけでは意識は変わらない。行動し困難・壁に直面し苦しんで感動して意識が変わり人は育つ(10)。町村の時代である。町村の時代とは町村間に格差が拡大する時代である。その格差は役場職員の政策能力の差で決まる(11)。そのような時代である。地域は変貌し続けている。
町村は今、運命的な岐れ目にあるとも言える。すなわち、役場職員を育てる才覚・度量のある町長・村長が住民に選ばれているか否かで地域の運命は決まる。例えば、指示に従うだけの従順な地方公務員を良い職員と考える村長・助役は、地域を間違いなく衰退させるであろう。自治
体理論を勉強する職員を生意気だと非難して実務をやっていればよいのだと言う町長・助役は、町の未来の灯を消している町長・助役である。そのような時代である。
町長・村長に申し上げたい。
管理職には「それはそうだが、しかしそうは言っても法律・制度が…」と一切言ってはならぬと命じ、職員には「現行制度上止むを得ない」の論理に呪縛されるなと令を発されてはいかがであろうか。そして、役場内に情報コーナーを設け、自治体関連の月刊誌・季刊誌、出来れば書物も置く。地域づくりの時代であるから、各地の実践・見方・考え方の情報が身近手近にあることが職員の目を開かせる機縁となる。その資料と文献目録は町村会で整理なさってはいかがであろうか。

(注)
(1)松下圭一「政策型思考と政治」東大出版会18頁
(2)森 啓編著「文化ホールがまちをつくる」学陽書房98頁
(3)地方財務95年4月号「これからの文化施設のあり方」
(4)北海道自治研修所調査研究部・報告書「共に地域をつくる」
(5)地方自治センター編「自治体革新の政策と構想」下巻346頁=対談「自治体政策と法」西尾勝/松下圭一
(6)松下圭一「都市型社会の自治」日本評論社25頁
(7)西尾勝「行政学の基礎概念」東大出版会393頁‥政府間関係の概念
(8)松下圭一「戦後政治の歴史と思想」筑暦学芸文庫171頁
(9)自治体職員の政策研究会「政策型思考研究会(道庁職員と町村職員の研究会)、白老町職員政策研究会、道央圏町村職員政策研究会、小樽地域政策研究会、ニセコ町政策研究会など。
(10)「自治体職員の能力」公人の友社ブックレット№10

 
自治体学の思考論理
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学の思考論理  
思考の道具は「言葉」である。批判的思考力を取り戻すには「道具である概念」を明晰にしなくてはならない。論理的思考には明晰な概念・用語が必要である。状況を突き破り未来を創造するのは「規範的思考力」である。規範的思考には「規範概念」が不可欠である。
 1970年代の対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「国家統治」対「市民自治」である。すなわち、「中央支配の継続」に対抗する「地域自立の実践」である。「国家学」を「自治体学」に組み替える規範的思考力が緊急の課題である。
 改革はいつの場合にも「主体の変革」が基本である。自分自身は何も変わらないで「目新しい言葉」を述べる風潮が広がっているのではあるまいか。
 例えば、自治基本条例が「自治体の最高規範」であると解説され、流行のように制定されている。良いことである。画期的な自治の進展であると言えよう。しかしながら、『新自治体学入門』第4章「市民自治基本条例」で検証したように、そこには「主体変革」の問題意識が欠落している。「新しい制度」をつくれば「状況が変る」と考えているのではあるまいか。
 「協働」の言葉も流行している。協働とは「自己革新した主体の協力」を意味する造語である。主体双方の自己革新が前提である。行政と住民の関係が現在のままでは協働にならない。「協働」は統治行政の現状況を「市民自治」に転換するための「主体変革」を前提とした言葉である。すなわち、自己革新した「市民」と「自治体職員」の相互信頼に基づく協力関係が地域の自立を創り出すのである。
松下圭一理論の骨格
(カテゴリー: 自治体学理論
  松下圭一理論の骨格

  本稿は2017年5月21日、札幌市内で開催した「松下圭一先生追悼の集い」での報告である。
 

1 松下理論の三つの骨格を話します。
 第一は、1975年刊行の 岩波新書『市民自治の憲法理論』で、民主主義は「国家が国民を統治する」ではない、「市民が政府を選出し制御し交替させる」であると明快に論述したことです。松下理論は民主主義の政治理論です。
 民主主義は「国家統治」ではなくて「市民自治」です。国家は統治主体ではないのです。「国家」は擬制の観念です。人々(市民=Citizen=People)が自治共和の主体です。
 この自明なことを、なぜことさらに言わなくてはならないのか、これが問題です。
 
 明治初年に「国権か民権か」の自由民権運動が起こり伊藤博文はドイツに赴いた。そのドイツは、イギリス市民革命・アメリカ独立革命・フランス市民革命に驚愕したドイツ皇帝が「立憲君主制の憲法」で専制支配を続けていた。立憲君主制は「国家観念」を隠れ蓑にする偽民主主義制度である。
 伊藤はドイツから「国家理論」と「立憲君主制」を持ち帰り「立憲君主憲法」をつくった。そして渡辺洪基・東京帝国大学総長に「国家学ノ研究ヲ振興シ、普ク国民ヲシテ立憲ノ本義ト其運用トヲ知ラシムルコト(国家の観念を教え込むこと)ガ極メテ必要」と助言し、1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家学」を正統学とした。そして天皇機関説事件などを経て「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧した。以来(今日に至るまで)大学教育は「国家が国民を統治支配する」の教説であった。

 1945年日本は焼け野原になってポツダム宣言を受諾した。1946年に「天皇統治(国家主権)の明治憲法」から「国民主権の憲法」に180度転換した。1948〜1950年に京帝国大学の学者14人が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上・中・下)を分担執筆して刊行した。しかしながら、戦前に「私立法律学校特別監督条規」を定めて(現在の主要私大法学部の前身である)私立法律学校を東大法学部の統制下におき、つい直前まで「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧していた帝国大学の学者が、「国家統治の観念」から自由になることはできる筈もなかった。
 逐条解説の分担執筆を提案した田中二郎は、その後も「国家の優越的地位の論理」を自身の著作に書き続けた。例えば、行政法の標準的教科書とされた1964年刊行の『新版行政法』(弘文堂)には、「行政法は、支配権者としての国・公共団体等の行政主体とこれに服すべき人民との間の法律関係の定めであることを本則とする」「行政法は、支配権者たる行政主体の組織に関する法、及び、原則として、かような行政主体と私人との間の命令・支配に関する法であり、公共の福祉を目的として、国又は公共団体が一方的に規制することを建前とする点に特色が認められる」と叙述した。

 すなわち、行政が「公」を独占し、国民は行政執行の客体であり「私人」であった。この基本認識が「日本公法学会」「憲法学会」を主導したから「憲法は変われども国家統治は変わらず」が存続しているのです。
 1975年に『市民自治の憲法理論』が刊行されたとき、憲法学者も行政法学者も政治学者も誰も反論できなかった。「松下ショック」と言われた。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』トランスビュー2014年刊、 序章17頁)
 学者は反論できないので「学会」をつくり「国民主権」を「国家主権」と言い換えて「国家が統治権の主体である」と講義して現在に至っているのです。そして毎年その教育を受けた学生が社会人になっているのです。でありますから、民主主義は「国家統治」ではない。「市民の自治共和」であると言い続けなくてはならないのです。「市民が政府を選出し制御し交替させる」のです

 「国家」の語は (オカミ)(オオヤケ)を連想させて国民を丸ごと包括し絶対・無謬をイメージさせる言葉です。権力の座に在る者の「隠れ蓑」の言葉です。
しかしながら「国家三要素説」は二重概念の非論理的な曖昧説明です。「国家法人論」は国家を統治主体と擬制する理論です。
民主主義の理論は市民が代表権限を政府に信託する「政府信託理論」です。
 選挙は白紙委任ではない。選挙は「信頼委託契約」です。政府が代表権限を逸脱するときは「信託契約」を解除する。市民自治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」です。
 これが松下理論の骨格の第一です。


2 松下理論の骨格の第二は「市民」と「自治体」です。
 「市民」と「自治体」が、現代社会(都市型社会)の政策主体であるとの理論を提示しました。(『市民自治の憲法理論』50頁 )
① 市民
 松下さんは北海道地方自治研究所の講演で(2007年6月20日)、市民とは市民型規範を自覚して考え・活動する「人間型」です。民主政治は (自由・平等)という生活感覚、(自治・共和)という政治文脈をもつ〈人間型〉としての「市民」を前提としないかぎり成り立たない。市民政治が実質可能となるには、その主体の個々の人々が「市民」という人間型を規範として設定せざるを得ないのです、と説明しました。(北海道自治研ブックレット「再論・人間型としての市民」)
「市民」は規範概念です。「規範概念」「規範論理」「規範意識」は(骨格の三)で話します。

 日本語の「市民」はイギリス市民革命の「Citizen」の訳語です。明治啓蒙期に福沢諭吉が翻訳したと言われています。「イチミン」と発音します。だが、戦前も戦後も「市民」の言葉は使われなかった。国家統治の時代は「皇民」「臣民」「国民」であった。
 日本が「都市型社会に移行を始めた1960年前後に「住宅・交通・公害・環境」などの都市問題が発生し「市民運動」が激発して「市民」の言葉がマスコミで使われるようになった。 
 1966年の松下圭一『〈市民〉的人間型の現代的可能性』(思想504号)で、ロックの《近代市民》に対して「都市型社会の《現代市民》」の可能性を理論提示しました。都市型社会の《現代市民》が「松下市民政治理論」の中核概念です。
《近代市民》と《現代市民》の違いは、前記「北海道自治研ブックレット」の78頁をご覧ください。このブックレットは松下理論の理解にはとても良い本です。

 「市民」の概念を理解するには「市民と住民」の違いを考えることです。
[市民と住民]
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」です。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味です。
 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語です。近代イギリス市民革命の担い手で「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民社会の主体」です。
 だが、福沢諭吉が期待をこめて翻訳した「市民」は使われなかった。
 明治政府はドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」で忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだのです。臣民とは天皇の家来です。自立して社会を担う「市民」はタブーでした。
 1945年の戦後も使われなかった。弾圧から蘇った社会主義の人々が「市民」を「所有者階級」と考えたからです。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と訳されました。
 都市的生活様式が日本列島に全般化した1980年代に至って、ようやく福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々」によるまちづくりの実践が全国に広がったからです。
 近代市民革命の市民は「有産の名望家」でした。しかしながら、「現代の市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々です。 社会が成熟して普通の人々が市民である条件が整ったからです。「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」です。

「住民」とは、村民、町民、市民、道民などの行政区割りに「住んでいる人」のことです。
 「住民」は、住民登録・住民台帳・住民税という具合に行政の側から捉えた言葉です。行政の統治客体が「住民」です。住民は被治者であり行政サービスの受益者です。「住民」の言葉には上下意識が染み付いています。
 「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存する(陰で不満を言う)人です。行政サ―ビスの受益者とされる人です。そして「市民」は、公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人です。政策の策定と実行で自治体職員と協働することもできる人です。

 しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉です。理性がつくった概念です。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しません。実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在です。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのです。
 都市型社会が成熟し「生活が平準化し政治参加が平等化」して、福沢の「市民」は甦ったのです。

② 「自治体」
 自治体は市民の自治機構です。国の政策を執行する地方の行政組織ではないのです。
 「地方公共団体」の語は、憲法制定時に内務官僚が「全国一律統制」を継続する意図で、GHQ 原案のLocal self-government(地方政府)を「地方の公共団体」と訳語したのです。
 内務官僚は「知事公選」に猛反対しました。だがGHQに押し切られて反感を抱き、原案の文意を様々にスリ換えました。スリ換えた内容は、岩波新書『日本の地方自治』(辻清明-1976年) の72-81頁に詳しく記されています。
 
 松下理論は「多元重層の分節政治理論」です。
 1975年の『市民自治の憲法理論』(112頁)で、自治体が「シビルミニマムの策定」や「公害規制基準の制定」などの「自治体主導の政策」を既に実行している事例を示して、自治体は憲法機構であり「自治立法権」「自治行政権」「自治解釈権」を保有している、と理論提起しました。この理論提起が「自治体の発見」と評されたのです。
 1980年代、工業文明が進展して「前例無き公共課題」が噴出増大しました。これらの公共課題は、ⅰ国際間で基準を約定して解決する課題、ⅱ国レベルの政府で全国基準を制定して解決する課題、ⅲ自治体で解決方策を策定して解決する課題に三分類できます。そして政府も国際機構、国、自治体の三つに分化します。自治体は公共課題を解決する政府です。

 橋本竜太郎内閣のとき、菅直人議員が衆議院予算委員会で「憲法65条の内閣の行政権は(どこからどこまでか)」と質問しました(1996年12月6日)。大森内閣法制局長官が総理大臣に代わって「内閣の(つまり国の)行政権限は憲法第八章の地方公共団体の権限を除いたものです」と答弁しました。これが公式政府答弁です。 
 つまり、自治体は独自の行政権限を有しており、自治体行政を行うに必要な法規範を制定する権限を憲法によって保持しているのです。国の法律を解釈する権限も有しているのです。自治体は憲法機構です。

 ところが、「国家統治の伝統理論」から脱却できない学者は、自治体の(政策自立-政策先導)が現出しているにも拘らず、自治体を憲法理論に位置付けることができない(定位できない)のです。
 例えば、小林直樹教授は『憲法講義(1975年改訂版)』で「国民とは法的に定義づければ国家に所属し国の支配権に属人的に服する人間である」(憲法講義上23頁)。「自治体は国家の統一的主権の下で、国家によって承認されるものとして成り立つ」(憲法講義下767頁)と述べています。小林教授は「市民」と「自治体」を憲法理論に位置付ける(定位する)ことができないのです。
 樋口陽一教授は、『近代立憲主義と現代国家』で「国民主権の形骸化の現実」を説明するために「国民主権の実質化・活性化」への理論構築を放棄しています。そして「国民主権」を「権力の所在を示すものでしかないものだ」とする論理を述べます。この論理は「国民主権による政治体制の構成」という憲法理論の中枢課題自体を実質的に放棄しているのです。
 なぜそうなるのか。お二人は「国家統治」と「国家法人論」を憲法理論の基軸にしているからです。だが「国家法人論」は国家を統治主体に擬制する理論です。民主政治は市民が代表権限を政府に信託する「政府信託論」です。
 以上の指摘の詳細は、松下圭一『市民自治の憲法理論』(117頁-123頁)をご覧ください。

3 「都市型社会」と「政策型思考」
松下理論の骨格の第三は「都市型社会」と「政策型思考」です。
 「都市型社会」は「近代社会」がいかにして「現代社会」に構造変化したかを認識する概念です。「政策型思考」は松下理論の思考の方法論です。

都市型社会とは、都市地域だけではなくて、山村・漁村・僻地にも工業文明的生活様式が全般化した社会のことです。
 人類発生以来、採取・狩猟の社会であった。やがて農業技術を発明して定着農業の社会(農村型社会)になった。{人類史上、第一の大転換}  やがて16-17世紀ヨーロッパに、産業革命・市民革命による工業化・民主化=(近代化)が始まり、数千年続いた農村型社会(身分と共同体の社会)の解体が始まる。20世紀に、工業化(情報技術のさらなる発達)・民主化(民主政治の思想と制度の広がり)が進展して、先進地域から順次に「都市型社会」への移行となった。{人類史の第二の大転換} 

〈都市型社会〉の論点は、現代社会を「如何なる社会と認識するか」です。つまり、工業化と民主化が進展して数千年続いた〈農村型社会〉が〈都市型社会〉に大転換した、の「認識の有無」の問題です。
 (多くの)学者の理論は「現代社会の構造変化」を認識しない理論です。つまり理論前提が「ガラリ変わっている」ことを認識しない「農村型社会」の理論です。
 都市型社会では、人々の生活条件の整備は〈共同体〉ではなく〈政策・制度〉という公共政策によって整備されます。 
 「都市型社会」の詳細説明は松下理論の主著『政策型思考と政治』の18頁(大転換としての都市型社会)をお読みください。
 
② 政策型思考
 論理には説明論理と規範論理があります。
 「説明論理」は、事象を事後的に考察して説明する思考です(実証性と客観性)が重要です。
「規範論理」は、(あるべき未来)を目的に設定して実現方策を考案する思考です(予測性と実効性)が重要です。
 政策型思考とは規範論理による思考のことです。松下市民政治理論の方法論です。

1) (あるべき)とは当為です。(かくありたい)(かくあるべき)は「規範意識」です。
2) (あるべき未来)は構想です。夢想ではありません。未来に実現を予測する構想です。
3) (あるべき未来を構想する)のは「規範概念による思考」です。 

 松下理論(著作)を難解だと思うのは「規範論理」で論述されているからです。
「規範概念」と「規範論理」を了解納得するには、(あるべき未来)を目指して一歩踏み出し、困難な状況に遭遇して、自ら困難を切り拓いた(いくらかの)体験が必要です。
 (あるべき未来を希求する)のは、「現状に問題あり」の認識があるからです。問題意識のない状況追随思考の人には(あるべき未来)を構想することはありません。
 構想するとは「何が解決課題であるか」「解決方策は何か」を模索することです。
「何が課題で方策は何か」を模索するのは経験的直観です。その経験的直観は「困難を怖れず一歩踏み出した実践体験」が齎します。「人は経験に学ぶ」という格言の意味は、一歩踏み出し困難に遭遇して「経験的直観」を自身のものにすることです。実践と認識は相関するのです。実践の概念認識が「経験的直観」です。
(知っている)と(分かっている)には大きな違いがあります。違いは実践体験の有無です。 人は体験しないことは分からないのです。


 本日の案内ビラにも転載されておりますが、松下先生はご自身の方法論を次のように説明しています。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』338頁「私の仕事」)
『私の社会・政治・行政理論の〈方法論〉は「歴史の変化のなかに現実の構造変化を見出し」、「現実の構造変化をおしすすめて歴史の変化をつくりだす」という考え方です』
 (歴史の構造変化を見出す) (歴史の変化をつくり出す) とはどのようなことか、
本日後半の討論で考えたいと思います。  (森 啓)

■松下圭一先生追悼の集い
■日時  2017年5月21日(日)13:00~16:00(開場12:30)
■会場  北海道自治労会館(3階)第1会議室(北6西7)
■プログラム
 ・講演:森啓「松下理論とは」
 ・論点提起:政策型思考研究会会員などからの発言
 ・会場討論:「松下理論」から学んだこと
■会場討論
・学者が「松下先生の著作を読まないことにしている」のはなぜであろうか。
・松下理論の著作が難解だと言われるのは何故か
・憲法は「天皇主権」から「国民主権」の憲法に変わった。
だが大学では「憲法とは国家統治の基本法であると講義(教説)している。なぜであろうか。


松下圭一「政策型思考と政治」(東大出版会)を読む (五回講座)
(カテゴリー: 自治体学理論
(追悼・松下圭一先生)
 松下圭一「政策型思考と政治」を読む (五回講座)

  さっぽろ自由学校「遊」(愛生舘ビル六階 604)            
  テキスト 松下圭一「政策型思考と政治」(東大出版会)       
  講座内容 本書は「松下市民政治理論」の基本書である。
  第一章から第五章までを熟読して「市民政治理論」の基本論     点を理解する。

  第一章 政治・政策と市民 (11月2日)
 現代社会は、水道も下水も、道路もバスも電車も、電気もガスも、つまり生活の全てが、(政策と制度) の網の目の中で営まれる。市民生活に直結する政策・制度を政府(官僚)に任せておいたのでは「お上の政治」から脱却することはできない。
 ・「都市型社会」とはどのような社会か。
 ・都市型社会 の「市民と政府の関係」を考える
 
  第二章 都市型社会の政策 (12月7日)
 工業文明の発達進展で人々の「生活様式・生活意識」が平準化して、資本主義か社会主義かの(かつての)体制選択が幻想であったことが明瞭になる。論点は官僚主導の政策・制度を如何にして市民制御に転換するかである。
 ・生活様式(暮らし方)の平準化によって人々の政治意識はどう変わるのか
 ・都市型社会と男女平等社会はどのように関連するのか
 
  第三章 「近代化」と政策の歴史 (2017年1月11日)
 近代化とは(工業化と民主化)のことである。工業化が進展して前例なき公共課題(大気汚染・河川汚濁・温暖化・都市景観・緑地減少・現代的貧困)が噴出して、[福祉政策・環境政策・都市政策]が不可欠必要になる。
 ・「シビルミニマム」とは何か、言葉が広がったのはなぜか
 ・前例なき公共課題の解決には「市民参加」が必要となる論拠を考える 
 
  第四章 分権化・国際化・文化化 (2月7日)
 都市型社会が成熟して自治・共和型の「市民」が大量に醸成される。「国家」をめぐる問題状況も一変する。自治体が地方政府として自立する。
 ・住民と市民の違いを考察して討論する
 ・自治体が政府である理由と論拠を学ぶ
   
  第五章 日本の政策条件 (3月7日)
 ヨーロッパで16~17世紀に始まった近代の「ステート」を、日本では「国家」と翻訳して「国家統治の観念」をつくった。その「国家観念」は (絶対・無謬・包括)の官僚統治であった。しかしながら政府の権限は市民が信託(契約)した権限である。
 ・国家法人理論と政府信託理論の違いを学ぶ。
 ・信託契約解除理論(ロックの革命権理論)を考察する
「住民」と「市民」
(カテゴリー: 自治体学理論
「住民」と「市民」

[市民]
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」である。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味である(注2)。
 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語で福沢諭吉が「社会を担う主体的な個人」の成熟を念願し期待して翻訳した言葉である。シティズンは、近代イギリス市民革命の担い手で「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民社会の主体」である。福沢は「一身の独立なくしては」と唱え、自由と平等の精神を持つ自立した人間が開国日本に育つことを希求したのであろう。「シティズン」が有している自由と平等の考え方を導入しなければと考えたに違いない。自己の才覚で利益も損失も判断していきいきと市(いち)で働く庶民こそが「シティズン」の訳語にふさわしいと考えたのであろう。「市民」(いちみん)と翻訳した。だが、福沢が期待をこめて翻訳した「市民」は使われなかった。

 明治政府は、皇帝が君臨していた後進国ドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」によって忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだ。臣民とは天皇の家来である。絶対服従の家来である。自立して社会を担う主体の観念はタブーであった。1945年の戦後も使われなかった。弾圧されていた社会主義の思想が甦り、「市民」は「所有者階級」と考えられた。使われた用語は「人民」であった。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と訳された。

 都市的生活様式が日本列島に全般化し地方分権たらざるを得ない1980年代に至って、ようやく、福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々」によるまちづくりの実践が全国に広がったからである。しかしながら、国家統治の官庁理論の人々には「住民」と「市民」の違いが分からない。行政機構の内側に身を置いて官庁理論でやってきた公務員には、市民運動の人達は目先利害で行動する身勝手な人たちに見えるのであろう。そしてまた、公共課題の解決のために地域の人達と連帯して行動し、感動を共有した体験のない学者や評論家は「合理主義・個人思想・人権革命の歴史を持たない日本では市民などはいないのだ」などと言うのである。近代市民革命の時の市民は「有産の名望家」であった。しかしながら、現代の「市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々である。都市型社会が成熟して、普通の人々が市民である条件が整ったのである。
 

[住民]
 「住民」とは、村民、町民、市民、県民など、行政区割りに「住んでいる人」のことである。そして「住民」という言葉は、住民登録・住民台帳・住民税というように、行政の側から捉えた言葉である。行政が統治し支配する客体が「住民」である。住民は被治者で行政サービスの受益者である。「住民」という言葉には上下意識が染み付いている。その上下意識は住民の側にも根強く存続しているのである。長い間、行政法学は「行政」を優越的主体と理論構成した。そして「住民」は行政執行の客体で被治者であった。「住民」という言葉には「自治主体」の観念は希薄である。

「住民」と「市民」
「住民」を「市民」との対比で定義すれば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存する(陰で不満を言う)人で、行政サ―ビスの受益者とされる人である。「市民」は、公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人。政策の策定と実行で自治体職員と協働することもできる人である。
 しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉である。理性がつくった概念である。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しない。実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在である。人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのである。都市型社会が成熟して、生活が平準化し政治参加が日常化して、福沢の「市民」は甦ったのである。 (「新自治体学入門」時事通信社 112頁)

「市民」の出現
心の原風景を共有する歴史的な建物を保存する運動する人達、障害者に優しいまちをつくる運動を進める人々が日本の各地に現れた。新聞やテレビは、公共感覚で行動する人達を「市民」という言葉で報道するようになった。運河保存の運動を続けた小樽の方々はまさに市民であった。普通の人々が情報と余暇を持つことができるようになったからである。かつては、特権階級だけが自由な時間・経済的なゆとり・情報と教養を独占していた。近代化が進展し工業化と民主化が一般化して都市型社会と言われる社会構造の変化が起きた。普通の一般大衆が余暇と教養と情報を享受することができるようになった。身分や特権を持たない普通の人々が「市民」になる条件が整ってきた。
古代の都市国家の市民も、中世の都市貴族も、近代市民革命のときの市民も、すべて、特権をもつあるいは財産をもつ一部の人達であった。古代都市国家には奴隷、中世には農奴、近代には下層労働者・農民が多数いた。多数の人々は社会を担う主役ではなかった。都市型社会が成熟して普通の人々が「住民」から「市民」に成熟する条件が整ってきた。地域文化の主体としての「市民」は、夢想の理想イメージではなく、現代社会に登場している。

 人間は体験しないことは分からない。行政機構の内側にいて官庁理論でやってきた管理職の公務員は市民運動の人達は自己利益で行動する身勝手な人達にみえる。学者や評論家もまちづくり運動で苦心する人達と連帯し共に感動した体験のない人は「市民」は合理主義・個人思想・人権革命の歴史をもたない日本には難しいと言う。
 未来を構想し現在に問題を見出し、解決方策を模索し行動を始めた人でなければ、問題意識をもって行動した体験がなければ、現在に未来の予兆を見ることは出来ない。「主体イメージ」はいつも漠然である。


安倍政権の沖縄差別
(カテゴリー: 自治体学理論
安倍政権の沖縄差別

安倍政権は沖縄県民を差別している。
普天間基地の代替だと称して「辺野古に軍港をも備えた本格基地」の建設を強行している。
安倍首相も菅官房長官も「沖縄県民の負担軽減」だと言う。
「負担軽減」と言うのなら、そして「米軍基地が日本の防衛に必要」と言うのなら、沖縄県外に (日本の何処かに) 建設すべきである。 なぜ沖縄に「空港・軍港・爆弾庫」の本格基地を押し付けるのか。沖縄県民を差別しているではないか。
そして安倍政権を存続させている吾吾も「沖縄差別」に加担しているのである。

2016・北海道自治体学土曜講座 
  第一回(5月7日)
   沖 縄 問 題 ~沖縄の人々の苦難は他人事ではない~
「沖縄問題」と「福島問題」は現在日本の最大の緊急課題である。警視庁機動隊を常駐させて、軍港をも備えた本格基地の建設を暴力的に強行している実態を、日本の人々はどれくらい知っているか。日本政府が、沖縄の人々に「危険な米軍基地」を押し付け続ける理由は何か。日本の人々は「明治の琉球処分」から「現在の米軍基地」までの、再三再四の「沖縄差別の歴史」をどう考えているのか。本土(ヤマト)のメディアは、NHKを筆頭に沖縄差別に加担しているではないか。「沖縄の米軍基地」と「北海道の北方領土」は共通の問題である。これらを討論する。 
   宮本憲一 (大阪市立大学名誉教授) 
   松元 剛 (琉球新報編集局次長兼報道本部長)
   徃住嘉文 (北海道ジャーナリスト会議)  
   森  啓 (土曜講座実行委員)

会 場 北海学園大学3号館22番教室(札幌市豊平区旭町 4 丁目1-40)
地下鉄東豊線「学園前駅」下車。3番出口直結。
参加費 全5回前納:5,000円 1回分:1,500円 (学生無料)
お問合せ メール jichidoyo2016@yahoo.co.jp
電話 011-841-1161 内線 2737(北海学園大学経済学部 内田研究室)

自治体学-市民政府信託理論
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学-市民政府信託理論

民主主義は「国家の統治」ではない。
「市民の自治・共和」である。
民主政治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。
政府の権限は市民が信託した範囲の権限である。

序 説
1 代表民主制と日本の憲法理論
(1) 日本の憲法理論は特殊である
(2) 註解日本国憲法
(3) 学者の憲法理論  
(4) 学者は自由に発想できない
(5) ジョン・ロックの主著「市民政府論」

2 代表民主制と市民自治
(1) 市民自治と自治体改革
(2) 市民自治と自治基本条例 
(3) 自由民主党の政策パンフ

3 代表民主制と行政文化 
(1) 行政文化
(2) 思考の座標軸
(3) 行政文化の改革
(4) 掛川市の「ルームクーラー問題」
(5) 自治体職員の職業倫理
(6) 想像力の衰弱

4 代表民主制と市町村合併
(1) 合併とは何か
(2) 合併促進の経緯
(3) 市町村の対応
(4) さらなる合併促進策
(5) 合併と住民投票
(6) 市町村合併の検証
(7) 市町村合併の論点

5 市民自治の政府信託理論
(1) 政府信託理論
(2) 市民が直観する「行政不信」
(3) 実践理論

上記内容の『市民政府信託理論-(代表民主制の理論)』を執筆刊行した。 (北海学園大学開発研究所「開発論集」011-841-1161)
市民政府信託理論-代表民主制の理論
(カテゴリー: 自治体学理論
市民政府信託理論-代表民主制の理論

民主主義は「国家の統治」ではない。「市民の自治・共和」である。 民主政治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。市民は国家に統治される被治者ではない。

71年前、日本中が焼け野原になり食べる物も無くなり、広島と長崎に原子爆弾を投下されて「二度と戦争はしない」と覚悟して憲法を定めた。憲法は「国民主権」になったが「民主主義」は根付いていない。
戦争中は「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧されていたから、人々の心の奥底に「国家統治」の観念が残っている。
現在は「国家」「統治」の論調が勢いを盛り返し明治憲法への郷愁すらも蠢いている。
 
そこで、下記内容の
 『市民政府信託理論-(代表民主制の理論)』を執筆した。


1 代表民主制と日本の憲法理論
(1) 日本の憲法理論は特殊である
(2) 註解日本国憲法
(3) 学者の憲法理論  
(4) 学者は自由に発想できない
(5) ジョン・ロックの主著「市民政府論」

2 代表民主制と市民自治
(1) 市民自治と自治体改革
(2) 市民自治と自治基本条例 
(3) 自由民主党の政策パンフ 

3 代表民主制と行政文化 
(1) 行政文化
(2) 思考の座標軸
(3) 行政文化の改革
(4) 掛川市の「ルームクーラー問題」
(5) 自治体職員の職業倫理
(6) 想像力の衰弱

4 代表民主制と市町村合併
(1) 合併とは何か
(2) 合併促進の経緯
(3) 市町村の対応
(4) さらなる合併促進策
(5) 合併と住民投票
(6) 市町村合併の検証
(7) 市町村合併の論点
Ⅰ 合併は長と議会だけで決めてよいか 
Ⅱ 直接民主制と間接民主制
Ⅲ 住民投票を開票せず焼却してよいか

5 市民自治の政府信託理論
(1) 政府信託理論
(2) 市民が直観する「行政不信」
(3) 実践理論

本論稿を北海学園大学「開発論集」(2016年3月)に掲載する。
関心ありて、ご覧下さる方に差し上げたく思う。
松下圭一著『成熟と洗練―日本再構築ノート』を読む
(カテゴリー: 自治体学理論
   さっぽろ自由学校「遊」講座案内
松下圭一著 『成熟と洗練―日本再構築ノート』を読む

 前期開講の「市民自治とは何か~民主主義の理論・松下圭一を読む~」に引き続き、後期は松下圭一さんのエッセイ集「成熟と洗練―日本再構築ノート」を読み込みます。2006 年ごろから東日本大震災を挟んだ2012 年まで、松下さんが日本の政治・社会が直面する時々の課題を、友人・知人、後輩と論議したスタイルになっています。
 憲法、労働問題、官僚制度、地方自治、震災対策…と取り上げるテーマは多彩です。そこにうかがえるのは松下さんのいう「転
形期」にある日本社会の姿です。これらに対し、松下さんの長年培った学識、豊富な社会経験を踏まえた「松下学」の精髄が綴られています。松下さんは今年5 月他界されましたが、まさに遺言の書といったところです。
 前期に松下理論の根幹を解説していただいた森啓さんに再びコメンテーターとして、レポーターを補足してもらいます。「松下学」を学ぶとともに、課題解決の糸口を論議する講座です。

●10月14日(水)開講 全6回 月1回水曜18:45 ~ 20:45
  10/14, 11/11, 12/9, 1/13, 2/10, 3/9
●会 場 さっぽろ自由学校「遊」(愛生舘ビル6F 604)
●受講料 一般5,000 円 会員4,000 円 ユース2,000 円 (単発 一律1,000 円)
●コメンテーター 森 啓(もり けい)
 中央大学法学部卒、神奈川県自治総合研究センター研究部長、北海道大学法学部教授を経て、現在・北海学園大学法科大
学院講師。自治体政策研究所 理事長。
(詳細はブログ「自治体学」http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/ を参照)
●テキスト 松下圭一著『成熟と洗練―日本再構築ノート』(公人の友社、2012 年)2,700 円
       ※テキストは各自ご用意ください。
自治体とは
(カテゴリー: 自治体学理論
   自治体とは

 質問があったのでお答えする。
 「自治体」とは「行政機構(役所)」のことではない。自治体の主体は市民である。市民が政府(首長と議会)を選出し制御し交代させるのである。これが「市民自治の政府信託理論」である。選挙は代表権限の信託契約である。信託は白紙委任ではない。四年期限の信頼委託契約である。重大な背信行為のときには「信託解除権」の発動となる。
 行政機構は市民自治の事務局であって「統治機構」ではない。
 
 自治体学会で「自治体」の概念をめぐって次のように見解が錯綜したことがあった。
(1) 「自治体」とは「政府」のことであるから「市民」は含まない。 
(2) 「自治体」とは「市民」と「政府」の双方を包含する言葉であ る。
(3) 役場の文書や会議で使う「自治体」は「都道府県庁、市役 所、町村役場」のことだ。
(4) 役所だけを「自治体」と僣称することに違和感を覚える。
(5) 自治体とは「まち」のことで、自治体は空間的イメージであ る。
 概念・用語は思考の道具である。理論的思考力を高めるには基礎概念を曖昧に使用してはならない。

 旧内務省の言葉遣いでは住民は行政の被治者であって「自治主体」ではない。お上の官庁を住民が批判し制御する「政治主体」を認めない。だから、「県庁や市役所」が「地方公共団体」であり「自治体」であった。
 だが、旧内務省用語で基礎概念を混同してはならない。
 「自治体」とは「自治主体の市民」と「制度主体の政府」を意味する言葉である。
 (詳細は「新自治体学入門」2章「自治体の概念」(16頁) に記載した)

 「地方公共団体」と「自治体」
 総務省官僚は意図的に「自治体」と言わない。「地方公共団体」の言葉を使う。なぜであろうか。
 総務官僚が全国の都道府県・市町村を統制支配したいからである。旧内務官僚の統制支配の意識が今も継続保持されているのである。そして、この統治意識を再生産しているのが、大学法学部の憲法・行政法学の講義である。

 試みに、憲法・行政法の大学教授に、「国家統治と市民自治の違いは」、「国家主権と国民主権はどう違うのですか」、「国家三要素説は機構概念と団体概念の曖昧な二重概念ではないのか」などを質問されては如何であろう。
大学の講義は明治憲法のままである。「憲法を国家統治の基本法である」と講義して「国家が統治権の主体である」とする。そして「国民主権を国家内の憲法制定権力である?」と曖昧に説明する。
 
 かくして、「憲法は変われども国家統治は変わらず」である。市民(Citizen、People)は国家に統治される被治者である。
自治体学会は「国家統治」の理論を「市民自治」の理論に転換する研鑽の場として設立されたのである。

 2015年5月13日から、さっぽろ自由学校「遊」で、「市民自治とは」の講座を開講する。この講座で「なぜ大学の講義は明治憲法のままであるのか」、大学の憲法・行政法の講義が 「みんなで渡れば怖くないになっているカラクリ」を解明する。
 

  
北大政治研究会に出席しの疑問
(カテゴリー: 自治体学理論
  北大政治研究会に出席しての疑問

 久方ぶりに北大定例政治研究会(2015-1-15)に出席した。
 「戦後府県行政の出発―組織と人事を中心として」のテーマに興味を感じたからである。 
 報告は新進気鋭の研究者で資料を丹念に分析した内容であつた。
 だが、いくつか疑問を感じた。
 その疑問をここに記述するのは、「現在の大学教育」と「最近の学者の研究」に危惧を感じるからである。

1 研究テーマは「戦後府県行政の出発」である。
であれば、戦前・戦中は「こうであつた」。だが戦後は「こうなった」と、組織と人事の変化(違い)を提示すべきである。即ち、「戦前・戦中の内務官僚による地方支配の人事」と「公選知事による自治体自立の人事」との対比を検証するべきである。
たしかに、府県の大勢は戦前・戦中の継続に見えるであろう。しかしながら、研究課題を「戦後府県行政の出発」と定めたのであるから、研究の基軸に戦前と戦後の「理念の対比」が無くてはなるまい。すなわち、戦前の「集権統治」に対する戦後の「自治分権」を対比しなければ「戦後府県行政の出発」の実証分析にならないではないか。
 たとえ微々たる変化であろうとも、自治体自立の組織・人事の「萌芽と展開」を実証する。
 それが「戦後府県行政の出発」の研究であろう。

2 研究会に提出された資料は、内務省支配が強固に続いていた山陰と東北の、戦後間もない頃の「県の幹部人事と役職名」である。資料が消失した戦後の「幹部人事と役職名」を掘り起こす調査に意味が無いとは言わない。だが、昨今は「誰もやっていない」というだけの「すきま研究」が流行っているらしい。実証的で客観的なだけで近接領域のことは何も知らない細分研究を、若手学者が評価し合っている現状を疑問に思う。
 北大政治研究会の「報告と討論」には「何のための研究であるのか」の問題意識がまことに希薄であった。

3 戦後府県行政の出発とは、「戦前・戦中の省庁政策への従属」を脱して、自前で政策課題を設定し解決方策を開発する「自治体の政策自立への出発」である。そのための「組織と人事の変化」を実証研究することである。戦前・戦中の官僚支配の「人事と組織」が、戦後にどのように変化したかを、実例を提示して分析することである。
 しかしながら、研究者自身の内に「何のための研究か」の明確な問題意識がなければ、その研究方法は見出せないであろう。
 府県行政の出発とは「府県独自の政策展開」である。府県独自の政策とは、例えば、沿道修景美化条例であり、公害条例であり、情報公開条例であり、文化の見えるまちづくり政策である。姉妹都市の外交政策であり、シビルミニマムによる総合計画の策定である。

4 何ごとも人である。組織を生かすのも人である。
 研究報告が「組織と人事」に着目したのは賢明であった。だが「その人事」とは「どのような人材の配置」であるのか、その人材が育つ組織をどのように設けたか、を検証しなくてはなるまい。 
 すなわち「地方公務員の養成」ではなく「政策課題を見出して実行する職員」が育つ組織をどのように設けたかを検証すべきである。それは「公務の研修」から「自治の研究」を目指して「研修所の再編成」が全国各地に展開された1980年代の府県の動向を検証することである。
 そして、事後的説明学である行政学の「政策研究」とは異なる概念の「政策研究」が府県に広がって自治体学会を設立するに至った経緯を検証することである。

5 北大政治研究会に出席していた「大学院生」「学部学生」は、このような「報告と討論」で如何なる研究能力を身に付けるのであろうか、どのような人材として育つのであろうか、(まことに失礼な言い方ではあるが)、疑問に思った。

日本の憲法理論は特殊である
(カテゴリー: 自治体学理論
    日本の憲法理論は特殊である

1 さっぽろ自由学校「遊」の「民主主義講座」の第三回は、憲法学者の「立憲制と民主主義」であった。
 ところが、90分の講義で「市民」「政府」「市民自治」の言葉は一語も出なかった。講義の用語は「国民」「国家」「国家統治」であった。  
 そして、「国民主権」と「国家主権」はどう違うのか、の質問には明晰に答えず(答えることがてきず)、曖昧にはぐらかした。
 質問者は、統治権は「国家」にあるのか、主権者である国民が権限を信託した「政府」にあるのかを訊ねたのである。
 憲法学者の「国家三要素説」では「国民は国家の一要素」になる。それは「国民主権」を否認する考え方である。そもそも「国民主権」と「国家主権」は両立しない。「国民」を「国家の要素」と考える「国家主権」は「帝国国家の明治憲法」の理論であったのだ。
 統治権の主体は「市民が権限を信託し制御し交代させる政府」であると考えるのが民主主義の理論である。それが「国民主権」である。質問者は「国民主権」と「国家主権」はどう違うのか、と質問形式でその確認を求めたのである。

 日本の学者の憲法理論は特殊である。
 日本の憲法は21世紀の未来を展望する第一級の憲法典である。だが日本の憲法学の理論は旧思想を引き摺った二流である、二流であると言わざるを得ないではないか。
 学者の憲法理論は「憲法を国家統治の基本法」とする。つまり「国家が国民を統治する」である。国民は「国家に統治される被治者」である。これが現在日本の憲法理論である。
 なぜこのような理論になっているのか。

2 1946年、「帝国国家の憲法」から「国民主権の憲法」に180度転換した。だが「憲法は変われども国家統治は変わらず」であった。なぜであろうか。
 1948年~1950年、17人の東京帝国大学の学者が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上中下) を刊行した。 
 民主風の言回しで「国民主権の憲法」の逐条解説を分担執筆した。
 だが、長い間、東京帝国大学内には「国家学会」が存在して「国家統治理論」を正統学としてきた。つい直前まで「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧されていたのである。
 すなわち、帝国大学の学者が「国家統治の観念」から自由になることはできる筈もなかった。例えば、分担執筆を提案した田中二郎(行政法)は、その後も「国家の優越的地位」を自身の著作に書き続けた(行政法総論 有斐閣 1957 、要説行政法 弘文堂1960)。国家が公であり国民は私であった。
 この「註解日本国憲法」が、戦後の「公法学会」「憲法学会」を主導したのである。

3 学者は自由に発想できないのである。
 国家官僚への公務員試験も、法曹界への司法試験も、「国家統治の国家学の答案」でなければ合格できない(させない)シクミになっているのである。
 だから、現在の学者も、「国家統治の観念」から自由になれないのである。「市民自治」「市民政府」「政府信託理論」を認めると、長年習得してきた「国家理論の根幹」が崩れるからである。そして学会で相手にされなくなるからである。

4 しかしながら 「国民主権」と「国家統治」は理論として整合しない。 「国民主権」と「国家主権」を曖昧に混同し(巧妙狡猾に)言い換えてはならないのである。  
 「国家」は擬制の言葉である。権力の座に在る者の「隠れ蓑の言葉」である。(映画「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」の悪家老の「藩命である」の恫喝と同じである)
 「国家三要素説」は性質の異なる概念を並べた曖昧な説明である。国民を国家の一要素に閉じ込めて「国家」を統治主体に擬制するための言説である。(「国民」の語は、「国家の一要素」になるから、暫くの間は使わないのが良い)
 民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府信託の理論」「政府制御の理論」「信託解除権の理論」でなくてはならない。
 民主主義は「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。

自由学校「遊」・民主主義講座(2014-9-5)・レジュメ
(カテゴリー: 自治体学理論
 自由学校「遊」・民主主義講座(2014-9-5)・レジュメ

1 民主主義とは
・君主政治―民主政治  
 市民革命
 イギリス市民革命―ロック・理論総括ー「市民政府論」
・独裁制―民主制 
・全体主義ー民主主義 
 民主主義は手続きか  多数の専制 
 民主主義は手続きだけでない。 価値理念・人権思想
・永久革命である (丸山真男) 

2 日本の憲法理論は「国家統治理論」―特殊である。
・特殊な理論とは
・なぜ、国家が国民を統治するのか、権力の座に在る者が国家の名で権力行使をするためである。
・「国家」は権力者の隠れ蓑の言葉である。曖昧な二重概念である。 
・「国家」でなく「政府」である。なぜ「市民」「市民自治」「政府」の言葉を避けるのか。
・なぜ「憲法は変われども「国家統治は変わらず」になったのか
・戦後初期の東京帝国大学の学者17人による「註解日本国憲法」の刊行である。 

3 民主主義の理論
・「国家統治」でなく「市民自治」  
・民主主義は「統治支配」でなく「自治共和」である。
・現代社会では政府は三層に分化する。
・政府信託理論ー政府権限の根拠 選挙は信託契約である。  
・信託解除権の理論
・民主主義の可能性 
  市民の成熟
  住民と市民の違い

4 自治体学とは 
・「国家統治」に「市民自治」を対置して国家学を克服する学である。
・自治体とは行政機構(役所)のことではない。 
・自治体の主体(主人公)は市民である。
・自治体学は地方公共団体の学ではない。
・自治体学は民主主義の理論である。
・すなわち、市民が政府を構成し制御し交代するである。
・自治体学は「市民政治の理論」である。

5 討論 ― 民主主義を足元から創る方策
なぜ、「憲法は変われど国家統治理論は変わらず」であったのか
(カテゴリー: 自治体学理論
 さっぽろ自由学校「遊」・民主主義講座・総括講座 (2014-9-5)

なぜ、国家統治の理論が現在も存続するのか

国家学
 日本の大学は、長い間、「国家が国民を統治支配する国家学」であった。
明治初年に、自由民権運動による「国権か民権か」の争いがあったが、民権運動家を国事犯として弾圧した伊藤博文が、ドイツから「国家理論」と「立憲君主制」を持ち帰り「立憲君主憲法」つくり、東京帝国大学総長に「国家学ヲ振興シ、国民ニ知ラシムルガ必要」と助言して1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家学」を正統学とした。
 爾来、天皇機関説事件などを経て国家統治に疑念をいだくことも禁圧した。

『註解・日本国憲法』
 1946年、「天皇主権の明治憲法」から「国民主権の憲法」に百八十度転換した。
だが「憲法は変われども国家統治の理論は変わらず」であった。
なぜであろうか。
 戦後初期、東京帝国大学の学者(17人)による『註解日本国憲法』(上・中・下巻-1948年~1950年) が刊行された。
だが帝国大学学者が、直前まで禁圧されていた「国家統治理論を脱する」ことはできるはずもなかった。
 この「註解日本国憲法」が、戦後の憲法学・行政法学を主導したのである。
すなわち「国家が国民を統治する理論」が正統理論として(憲法は180度転換したのだが)存続したのである。
 そして現在の学者も、連綿と続いてきた「憲法は国家統治の基本法である」から自由になれないのである。「市民自治」「市民政府」「政府信託理論」を認めると、長年習得してきた「国家理論の根幹」が崩れるからである。そして学会で相手にされなくなるからである。

学者も自由ではない
 実は学者も自由になれないのである。
 国家官僚への公務員試験も、法曹界への司法試験も、「国家統治の国家学の答案」でなければ合格させない(国家が承認をしない)シクミになっているのである。
そして憲法学会、行政法学会の主要メンバーは国家学である。
 学者は学会で相手にされなくなるのをなによりも怖れるのである。
であるから、自由学校「遊」の民主主義講座でも、「市民」「市民自治」「市民と政府」の言葉を一語も使わないのであろう。

民主主義
 民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。市民は国家に統治される被治者ではない。
 自治体学は「国家」を「市民と政府」に分別して「市民と政府の理論」を構成する。すなわち、市民が政府を「構成し制御し交代させる」のである。
 国家学の「国家」は擬制の観念である。曖昧な二重概念である。
 民主主義は「国家の統治」ではなくて「市民の自治・共和」である。
所沢・行政政策研究会(173回)
(カテゴリー: 自治体学理論
   所沢・行政政策研究会(第173回) 

日 時  平成26年7月18日(金)6:30~ 
場 所  所沢市 日吉会館(所沢駅徒歩5分) 

問題提起   森  啓 
1 自治体学とはどのような学か
    国家統治―市民自治  国家観念の擬制 権力の隠れ蓑
    国家三要素説      団体概念と機構概念 二重概念 
    国家法人理論      美濃部達吉以来の理論構成
    政府信託理論

2 自治体学の論点
    信託理論    
    自治体権限の範囲
    国家主権と国民主権
    住民投票
    説明理論と実践理論 

3 北海道自治体学土曜講座(第一回)の論点     
     桶川市のルームクーラー撤去  
     現在日本の状況認識
     市民と学者の違い  
「自治体学とはどのような学か」を刊行
(カテゴリー: 自治体学理論
   「自治体学とはどのような学か」を刊行

 本書は、自治体学が民主政治の理論であることを論述し、自治基本条例が役に立たないのは制定手続きに問題があると論証した。さらに、代表民主制度の形骸化を招いている政治不信・議会不信・行政不信を打開するため「市民政治」「市民議会」「市民行政」への道筋を提起した。次いで、自治の現場における筆者の実践を記述して「実践学である自治体学の内容」を明示した。そして終章に、設立30周年を迎えている自治体学会のさらなる展開を念じ所見を述べた。本書が自治体学と自治体学会の進展に何らかの役に立つならば幸甚である。

第1章 自治体学の概念
 1 国家学と自治体学
 2 市民自治
 3 信託理論
 4 実践理論
 5 「知っている」と「分かっている」
 6 自由民主党の政策パンフ

第2 章 市民政治・自治基本条例
 1 役に立たない基本条例
 2 学者の理論責任
 3 まちづくり基本条例との混同
 4 地方自治法は準則法
 5 自治基本条例の制定目的
 6 議会基本条例
 7 栗山町議会基本条例の根本的欠陥

第3章 市民議会
 1 自治体議会の現状
 2 議会改革の論点

第4章 市民行政
 1 市民行政の概念
 2 行政概念の再定義
 3 市民行政の着想
 4 市民行政の現状
 5 市民行政への疑念

第5章 自治体学の実践
 1 文化行政
 2 文化行政壁新聞「かもめ」
 3 自由民権百年大会
 4 行政ポスターコンクール
 5 行政用語の見直し
 6 神奈川県の情報公開条例
 7 ジュリスト論文顛末記
 8 政策研究交流会議
 9 北海道自治土曜講座
 10 北海道自治体学土曜講座

第6章 自治体学会
 1 設立経緯
 2 自治体学会の運営
 3 「自治体法務検定」
 4 「もう一つの実例」

頒布ー定価1200円+税(96円) を 著者割引で1000円
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河野談話を検証する - 「よく言うよ」
(カテゴリー: 自治体学理論
   河野談話を検証する - 「よく言うよ」 

 「よく言うよ」とは「よくもまあ、そんなことが言えるものだ」である。

 昭和20年8月15日は、ポツダム宣言受諾・無条件降伏の日である。
その日から連日、天をも焦がすかのように、市谷の大本営で、全国各地の軍隊で、中国で、朝鮮半島で、南方の島々で、軍は文書を焼却した。
 満州第七三一部隊は、文書だけでなく施設そのものを跡形も無く破壊した。生体実験の証拠痕跡を隠滅するためであった。

映画「日本のいちばん長い日」笠智衆(鈴木内閣総理大臣)、三船敏郎(阿南陸軍大臣)、山村聰(米内海軍大臣)、岡本喜八監督にも、天に昇る焔と煙の文書焼却の場面が映る。
軍は一切の文書を焼却したのである。そのことは周知の事実である。
非道破廉恥な従軍慰安婦の証拠文書も焼却したのである。

 そしてまた、文書が出てきても出てこなくても、あるいは、生活困窮から身売りをされた子女がいたにしても、軍が非道な慰安所を帯同していた事実を拭うことはできない。
 しかるに、「軍が関与した文書が見当たらない」だから「軍が慰安婦を強制したとは言えない」と言って、「河野談話を検証する」との申し条 (安倍首相と菅官房長官) は、「よくもまあ、そんなことが言えるものだ」である。

 今、為すべきは、隣国との相互信頼の構築である。
 河野洋平「平和への決意を再確認せよ」(岩波「世界」5月号62頁)を薦めたい
岩波文庫「統治二論」の書名はロック理論の逆行である。
(カテゴリー: 自治体学理論
    岩波文庫「統治二論」の書名はロック理論に逆行する 
    なぜ「政府二論」でなくて「統治二論」であるのか

 ジョン・ロックの主著「市民政府論」は「市民政治理論の古典」である。このたび新訳が、岩波文庫として刊行された。喜ばしい。
 ところが、( こともあろうに ) 書名は「統治二論」である。訳者(加藤節・成蹊大学教授)は、まえがきで、本書は1部2部の全訳であるので、2部の訳書である鵜飼信成「市民政府論」との違いを示すために「統治二論」にした、と説明している。
 しかしながら、違いを示すならば「政府二論」であろう。1部は10年前(1680)のフィルマーの「家父長権論」の批判である。市民政府論の執筆に(当時は)必要であったのだ。 
 なぜ、市民政治理論の古典であるロックの主著を「統治二論」にしたのか。なぜ「政府二論」を避けたのか。

 かつて、東京帝国大学に「国家学会」なる組織があり、国策として「国家統治・国家学」を唱導した。
 そして現在も、憲法学、政治学、行政法学、行政学の大勢は「国家統治の国家学」であり「国家法人理論」である。
ロックの市民政治理論ではない。「市民自治の信託理論」でもない。
 
 例えば、国家試験の最適教科書と評される芦部信喜「憲法」(岩波書店)の第一頁第一行は、「国家統治」であり「国家三要素説」であり「国家法人理論」である。
 同じく東京大学で憲法学を講じた長谷部恭男氏は、安倍内閣の特定秘密法にも賛同する国家統治の学者である。
 
 現在日本には「国家」と「統治」の論調が勢いを盛り返し、明治憲法への郷愁すらも蠢いているのである。これら動向は、ロックの「市民政府・市民政治」の対極にある思潮である。訳者加藤氏の心底にも、これら論調への賛同が存するのではあるまいか。「市民政治」「市民政府」「市民自治」の語彙を避けたい心情が存するのではあるまいか。 
 
 2014年1月、同じ岩波から「ロック『市民政府論』を読む」(岩波現代文庫)が刊行された。著者の松下圭一氏は、あとがき(官治・集権の日本とロック)で、ジョン・ロックは「統治」から「政府」へというかたちで、ガヴァメントという言葉の用法の革命をおこない、ついに市民政治理論の《古典的形成者》という位置をもった、と記している。

 七十年代日本の対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「国家統治」対「市民自治」である。 「国家」は、政府、官僚、議員など、権力の場に在る人達の「権力行使の隠れ蓑」の言葉である。市民政治理論は「国家」を「市民と政府」に分解し市民が政府を制御し交代させるのである。
 民主主義は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。
 ロックがその元型を形成したのである。

 「統治二論」の書名では、ロックの主著を現代社会に訳出する意図が逆行する。なぜ「政府二論」でなく「統治二論」にしたのか。
ジョン・ロック先生も「分かっていないな」と苦笑するであろう。


 
 
自治体学の概念
(カテゴリー: 自治体学理論
   自治体学が民主政治の理論である。

 自治体学は、国家学の「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置して、国家を統治主体とする国家学を克服する学である。国家学は「国家」を統治主体と擬制する。しかし、その「国家」の観念は曖昧である。国家を「国民・領土・統治権」と説明するが、その「国家三要素説」なるものは、性質の異なる(団体概念)と(機構概念)をないまぜにした曖昧な説明である。

 「国家」の観念は、政府、官僚、議員など、権力の場に在る人達の「権力行使の隠れ蓑」の言葉である。少し注意してそれら権力者の言動を観察すれば「国民主権」を「国家主権」と巧みに(狡猾に)言い換える場面を目撃するであろう。権力の場に在る人たちには「国家が統治主体であり国民は被治者である」の観念が抜き難く存在するのである。(統治支配がやり易いからである)

 例えば、インターネットの「自治基本条例」のサイトに、「チョット待て! 自治基本条例―自由民主党」が掲載されている。
 それを一読すれば、権力の座に在る者には「国家統治の観念」が現在も強固に存続していることが判る。 
しかしながら、国民は国家に統治される被治者ではない。民主主義は「国家の統治」でなくて「市民の自治」である。
政府と議会の権限は選挙によって国民から信託された権限である。

 だが現状は、選挙の翌日に市民は「陳情・請願の立場」に逆転し、首長と議員は「白紙委任」の如く身勝手にふるまっている。そのため、行政と議会に対する市民の不信は高まり、代表民主制度が形骸化し「議会不要論」の声さえも生じている。しかしながら、選挙は「白紙委任」ではないのである。「代表権限の信頼委託契約」である。身勝手な代表権限の行使と運営は「信託契約の違反」であるのだ。取返しの出来ない信託契約の逸脱には「信託解除権の発動」となる。選挙の翌日も主権者は国民であって国家ではないのである。

 自治体学は「国家」を「市民と政府」に分解して、「市民と政府の理論」を構成する。すなわち、「市民」が「政府」を選出し制御し交代させるのである。民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。
 自治体学が民主主義の理論である。