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■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
松下圭一著『政策型思考と政治』を読む
(カテゴリー: 研究ノート・書評
 『政策型思考と政治』を読む
    (政策型思考研究会)

松下圭一著『政策型思考と政治』は「市民政治理論の体系書」である。
本稿は北海道の市町村職員と北海道庁職員が「政策型思考研究会」の名称で開始した読書研究会の『論集』」に掲載した筆者の所見である。

全頁を2年9月で完読した。
 この書物が出版されて以来、全国各地でこの本をテキストにした読書会が数多く開かれたが「扉のことば」から「あとがき」までを完読した読書会は少ないであろう。
 この書物は「政治・政策と市民」の理論体系書である。完読するには集中力の持続が必要である。大抵の読書会は息切れして途中で終息する。
 月一回(毎回一章)での進行と定めた。勤務後の短い時間で一章を討論して理解するのは困難である。困難ではあるが、そうしなければ完読できない。理論体系書であるから完読しなければ意味がない。だが理論体系書であるからどの章も他の章と密接につながっている。次の章で前章の意味と用語が判然としてくること屡々であった。
 目次に付けられている※印は、体系理論の区分であるから、その区切りで論議をして咀嚼理解を助け合った。また、巻末の用語索引も重宝した。索引に示されているページを開いて横に読めば用語の意味が判然とする。
語句に付けられている四種の括弧「」『』<>《》の意味もその都度話し合った。

論議するべき点を見出すため毎回、報告者を定めた。報告者は何回も読み返してメモ
を作成した。だが、「テキストの用語と文章」で「このようなことが書いてある」の説明は不可とした。全員が読んできているのだからテキストの復唱報告は時間の浪費である。そしてまた、自分の言葉で言えなければ真に分かったにならない。 
研究会であるから、報告者が「成るほどと思ったこと」「意味が分からない用語」「このような理解でよいだろうか」を話し合った。

松下教授の本を難解だと言う人が少なくない。文体が馴染めないと言う人もいる。問題は「なぜ難解だと思い馴染めないと感じるか」である。難解だと思うのは「規範概念」と「規範論理」で論述されているからである。
 この書物を納得し理解するには、読む人自身の「基礎概念」の再吟味が不可欠である。
だが、人は誰しも自身の「思考の基本枠組」や「基礎概念」の問い直しは苦痛である。無意識的に「難解の防御壁」をめぐらすのである。そして基礎概念の再吟味を拒む人には本書の理解は困難である。
 戦争前も戦争中も戦後も「国家統治」「国家統治の国家学」が正統学であった。この本は(目次の扉に書かれているように「国家観念との別れの書である」。国家学理論を転倒する「市民自治の理論書」であるから、易しい筈はないのである。
問題は「読んで成る程と納得するか否か」である。「確かにそうだと思うかどうか」である。納得すれば次第に難解と思わなくなる。そしていつの間にか分かりやすい書物になる。
 例えば、実際の話として、松下教授の書物が刊行されるたびに学習会を続けている大阪の市民文化団体の人達は「松下さんの本はどれも分かりやすくて読みやすいですな」と言う。明治以来の国家学理論に呪縛されていないからである。自立した市民だからである。

研究会の人達は、いつの間にか、当初は難解だと言っていた概念・用語で語り合うようになった。そして例えば、岩波新書「日本の自治・分権」「政治・行政の考え方」を、分かりやすいと言うようになった。それは、漠然とした理解のままではあっても毎回一章を読
んだ悪戦苦闘の手探りの読書研究会の成果であった。そしてなによりの成果は、自治体職員が自身の仕事を市民の立場で考えるようになったことである。
 「政府間関係理論」や「政府信託理論」で「道庁と市役所・役場のあるべき関係」を語り合い、自治体をめぐる様々な現実の問題を「政策情報・市民自治・政策開発・参加手続・市民と住民」の概念を使って考えるようになった。つまり、研究会メンバーが「考察する視座」を持ったのである。それは「国家統治の官庁理論」の呪縛から自らを解き放ち、「市民自治の自治体理論」の考え方を確立したと言えるであろう。地方公務員から自治体職員への自己変革である。

筆者はこの書物を北大大学院で政治学演習のテキストに使用した。北海学園大学院でもテキストにした。「思考の座標軸」を形成するに最適の書であると考えたからである。すなわち、現在日本は「都市的生活様式が全般化した社会」である。山村、僻地、離島にも工業文明的生活様式・情報産業的生活スタイルが広がっている。そして「前例のない公共課題」が噴出している。前例のない課題であるから政策課題として設定できないでいる。前例なき課題であるから、これまでの手法は役に立たない。「何が課題で何が方策か」を考えるには思考の座標軸が不可欠必要である。
 学問も理論構成の前提条件がガラリ変わっているのだから「思考枠組み」と「基礎概念」の再吟味が不可欠である。
 この書物は「思考の座標軸」を形成するに最適の書である。 (1998年8月)
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書評・『新自治体学入門』 高橋悟(自治体政策研究所理事)
(カテゴリー: 研究ノート・書評
高橋悟さん(自治体政策研究所理事)が
『新自治体学入門』の書評を
「地方行政誌」に掲載して下さいました。
下記をご覧下されば幸いです。
https://drive.google.com/file/d/1yHOkceOP8FsphH0dKI5FspZtzAo8J4ix/view?usp=sharing

切れのある文章を書く人は多いが、本書の著者ほど曖昧さを排除し明晰な文章を書く人は少ない。刊行から10年が経つ本書ではあるが、ここに提示されている論点は今なお新しく鮮烈だ。
 機関委任事務制度の廃止などを主な内容とする2000年の分権改革に先立ち、わが国の自治の歴史上特筆すべき2つの出来事があった。
1つは1960年代における松下圭一理論の登場であり、もう1つは1980年代における自治体学会の設立である。
 本書の著者である森啓先生(現在北海学園大学法科大学院講師)は、この自治体学会の設立に深くかかわった一人である。中心的役割を演じたと言ってもよい。その経緯は、本書の第10章に詳しいが、学者・研究者だけではなく自治体職員や市民を交えた学会の設立は、自治の歴史上画期的な出来事であった。
 著者は、元神奈川県職員であり、自治総合研究センター研究部長などを歴任し、退職後、北海道大学に転じた。その後、北海学園大学で日本で初めて専門科目としての「自治体学」の講座を開講する。このように自治の現場を体験し、自治体学会の設立に深くかかわった著者の手になる本書は、自治体学の理論の集大成であるとともに入門書としても最適だ。
 本書で一貫して追求しているのは、わが国の政治・行政の考え方を「国家統治」から「市民自治」に組み替え、住み続けたいまち
を実現することである。     
 その具体的な実践が、かつて全国に大きなうねりとなって波及し自治体のあり方を変えていった文化行政と政策研究であった。
 本書第3章「市民力と職員力」では、文化行政を「住み続けていたいと思い住みつづけることを誇りに思える地域社会をつくる市民と行政職員の協働の営為」と定義している。留意すべきは、ここで言う「協働」の意味が「自己革新」した「市民と行政職員の協力」を指す点にある。学者が訳知り顔に言う「コラボレーションの訳語」ではないのだ。 
 「自己革新」つまり「主体の変革」とは、自らの価値軸を「国家統治」から「市民自治」へと転換することだ。しかし、その前には様々な壁が立ちふさがる。いかに突破していくか。著者は本書のいたるところで読者に対し「一歩前に出る」勇気を鼓舞しているように思われる。
 一方で著者は「状況追随思考」が蔓延する現状に対して警鐘を鳴らす。「自治基本条例」や「町村合併」などの自治体の最重要事項は議会の議決だけで決定するのではなく、住民投票を行うべきとする主張は大いにうなずける。
 自治体理論は、松下圭一教授の民主主義理論を基本前提として、価値軸の転換を促すための実践を自治体レベルで追求した理論とみることができよう。つまり自治体学は、松下教授と自治体職員との「共同創造理論」であるとともに松下理論の「発展型」なのだ。
 誤解を恐れずに言えば、自治体学は「科学」ではない。それは、自治の現場での“実体験”と多くの“まちづくり事例”に裏付けられた「未来の可能性」への「確信」である。 自治の現場で模索を続ける市民、自治体職員にぜひとも読んでいただきたい一書だ。
   (高橋 悟=自治体政策研究所理事) 

『新自治体学入門』-再読 荒木雅彦 (自治体学研究会幹事)
(カテゴリー: 研究ノート・書評
 荒木雅彦さん (自治体学研究会幹事) が
 『新自治体学入門』のコメントを書いて下さった
 ので掲載する。

   『新自治体学入門』-再読 

 ある自治体の職員から聞いた話である。
 その自治体では、不正使用を防止するため、首長印の押印は法制・文書事務を所管する課の職員が全て行っている。事務・事業の担当者が起案して所属の責任者に決裁された文書を添え、施行する文書を持参し首長印を押してもらうこととなる。
 毎年のルーティンワークとして、ある省庁の外郭団体と業務委託契約を行っており、その契約に当たっては自治体の首長と外郭団体の長の双方押印した契約書を2部作成し、それぞれが1部ずつ保管することとしている。
 その職員は契約書を締結するために、まず、首長印が押印された2部の契約書を外郭団体に送付し、外郭団体の長の印を押印してもらい、1部を返送してもらおうと考えた。
 たまたまその日、その時間帯に首長印を押印する担当だった若手職員から、「契約書への押印ですが、国以外を相手方とする場合は、まずは、相手方に押印してもらって、それを確認してから首長印を押印することにしているので、今回は押印できません」と言われ、その職員は「前任者から先に首長印を2部押してもらって返送するって聞いていたのだけれども、なぜ、うちの首長印を先に押すことはできないのかな?」と聞くと、「当課で定めた内規で、国以外を相手方とする場合は先に押印しないと決めているのです」と回答があった。「省庁の高級官僚が天下りしている外郭団体なので、国と同じじゃないの?」と尋ねると、「それはちょっと…」。また、「なぜ、国との契約だったら、うちの首長印を先に押すのに、民間相手だと、民間に先に押させて、うちが後に押すことになるのかな?国は我々にとって上部機関でおそれ多いってことなのかな?逆に下々の民間には、先に社長のハンコを押して契約させてくださいって持って来いって言っているのかな?、自治・分権の時代なのにねぇ」と伝えると、「私にはちょっと…、内規でそう決まっていますから…」と頭を掻くばかり。その様子に気づいた押印担当の若手職員の上司で、その職員の旧知の職員から「おいおい、あんまりうちの若手をイジるなよ~」の一言で、そのやり取りはお開きとなったという。

 2000年分権改革で機関委任事務は廃止となった。地方自治法は改正され、国と自治体は上下ではなく、水平対等の関係になったと言われている。情報公開、総合計画、政策評価、行政基本条例・議会基本条例・自治基本条例など、明治以来の統治・集権
型行政を自治・分権型に変革しようとする取り組みが全国各地で進められてきた。だが、そうした自治・分権的な仕組みが整えられた自治体であっても、職員一人ひとりにとって、職場の文化は、国や都道府県の職員との仕事の進め方や関係性は、市民との向き合い方は、議会との関係は、つまり、行政の実態は自治・分権的に変わったと言えるであろうか。
 団塊の世代の大量退職を迎えた現在、多くの自治体が新人職員大量採用時代の真っ只中である。国家統治理論の憲法や行政法を学んだ学生を採用したのは2000年までの
はずである。法学部出身でなくても、自治・分権は日本の政治・行政の大きな課題と広く認識されるようになった。例えば、「大阪都構想」のような政治ショーという形であっても、メディアで繰り返し取り上げられてきたように、2000年以降も自治体と国の仕事と
権限・責任の配分をはじめ、自治・分権を巡る課題に対して社会的な関心は高まってきた。そうした中、採用された若手職員が「内規でそう決まっているから」と発言することについて、その「内規」自体が、また、「そう決まっている」ことが、そして、それらに対して無自覚に発言して(させて)しまうことが、まさに「職員力」として問われているのではあるまいか。それは、若手職員というよりも、肝心な部分で変わっていない行政実態を支え、維持してきた若手職員以外の職員の問題なのではなかろうか。

 『新自治体学入門』は、何度読み返しても、チクリと胸に刺さる部分が少なくない。 「たしかに、自治体理論は広がり、政策形成力は高まり、市民自治制度は装備された。画期的な展開である。だが主体鈍磨が生じ、状況追従思考が蔓延している」(P54)
「70年代と対比するならば画期的な展開である。しかしながら、統治行政の実態はほとんど変わっていない。なぜ変わらないのか。自分自身は何も変わらないで新しい言葉を使い、新しい制度を制定すればそれで事態が変わると考えるからである」 (P104)
「保身第一の価値軸を転倒しなければ公務員は自治体職員に成長できない」(P134)
「日常の職場において、間違っていることを間違っていると発言する。その思念が自身の内に生じないのは批判的思考力が衰弱しているからである」 「一歩前に出て壁を越え た体験がないから「思考の座標軸」が定まらないのである。 つまりは、理論視座が欠落しているのである」(P170)

忖度が新語・流行語大賞に選出されたように、生活保守と状況追随思考が蔓延し続けている現在にあって、2008年に刊行された本書は、10年経っても色あせることなく、そしてこれからも自治体職員を厳しく鼓舞する1冊であり続けるであろう。

                   荒木雅彦 (自治体学研究会幹事)   
書評 「自治体学とはどのような学か」
(カテゴリー: 研究ノート・書評
 所沢市内で「行政政策研究会」を長年に亘って開催されている清水英弥さんが「自治体学とはどのような学か」の書評を書いて下さったので掲載する。

 「自治体学とはどのような学か」を読んで 清水英弥  

 自治体で仕事をするとき、新鮮な感覚の企画立案や事務改善の提案をするが、上司の理解が得られず話も聞いてもらえないときがある。そのような八方塞がりの壁にどう対処したらよいかがわからない自治体職員の皆さんに、自分なりの解決策を見出す参考書として本書を紹介します。

 本書は、第1章「自治体学の概念」、第2章「市民政治・自治基本条例」、第3章「市民議会」、第4章「市民行政」、第5章「自治体学の実践」、第6章「自治体学会の運営」の全6章で構成されています。

 第1章は「知識として知っている」と「本当に分かっている」は同じでない。現状打開に一歩踏み出すと、現状の継続に利益を得る陣営からの反撃に遭遇し「非難・嫉妬・足引張り」を浴びて辛い立場になる。だから多くの人は「大勢順応」になり「現状追随」に陥ってしまう。だが一歩踏み出せば「壁を破って真相を見る」を体験して「分かる」に至る。
「知っている人」と「分かっている人」の違いは「一歩前に出た体験」の違いである。著者はそのような実践体験の大切さを説いている。

 第2章は、自治基本条例は「代表権限の逸脱」を制御する「市民自治制度」であり「自治体の最高規範」である。だから、制定権者は有権者市民でなければならない。そして自治基本条例の最高規範性を担保するのは「全有権者投票」によって地域社会に醸成される有権者の規範意識であると説明する。

 第3章では、自治体議会改革の論点を提言する。現在日本の自治体議会は高齢の男性議員が大半であり、性別も職業も年齢も地域を代表していない。そこで多様な市民が立候補して議員になるには、議会開催日を平日の夕刻と休日にすることである。これは議会で議決すれば可能なことである。そして、住民自身が「目先利益の住民」から「公共性の意識で行動する市民」へと成熟しなければならないと述べる。
 
第4章では、「市民行政」とは市民が行政庁舎内で日常的に行政事務に携わることであり、これからの行政は、競争試験で採用された「公務員の行政職員」と、首長が任期内に委嘱した「市民の行政職員」の二種類の行政職員が存在する。その具体例として、北海道ニセコ町の町民図書館は、「子供の遊び場」「高齢者のたまり場」にもなっており、実に自由な図書館運営を行っていると紹介している。
 
第5章は、著者自身の実践体験の記述である。
 1970年代の革新自治体は、宅地の乱開発に対処するため「宅地開発指導要綱」を定めて地域社会を守った。そのとき、国の官僚から「権限なき行政」と非難攻撃された。そのような時代背景のなかで、著者が前例なき課題を解決するため一歩前に出た自身の実践例を語っている。例えば、「プロジェクトチーム」の立ち上げでは、各課からエース職員を選抜するためのノウハウ。「著名講師」への講師依頼では、著名講師に「寄り切りで私の負けです」と言わせた痛快なノウハウ等を「自治体学の実践」であるとして記述している。
 そして「政策研究」という言葉が、行政内文書の用語になり、論文や著書も多数刊行されて定着するに至ったのは、1984年10月の「第1回自治体政策研究交流会議」がそのはじまりであったと述べる。当日は、北海道から九州までの全国から、140団体、352人の自治体職員と市民と研究者が参加した。これらの実践例は何れも地方分権一括法施行の16年前の事例である。

 第6章は「自治体学会の現状」への提言である。
著者は、自治体学会が横浜で設立され30年の歳月が経過した。だが「自治体学とは何か」の了解認識が普及しているとはいえない。自治体学は「課題は何か、解決方法は何かを解明し考案する現場の実践学」であり「実践の言語叙述」であるから、自治体学の了解認識には会員自身の実践体験が必要であると述べる。そして「自由闊達な論議」が自治体学会の活力の源泉であると提言して「自治体学会の設立」に奔走した著者の思いを述べている。

 最後に、筆者も最終回講座に参加した「北海道自治土曜講座」について紹介する。
1995年から2010年まで16年間にわたって開催された土曜講座は、受講生それぞれが「自分自身の見解」を持ち「思考力を高める」ことが目的であった。
 土曜講座16年間の成果は、第一に受講生がお互いに知り合ったこと、第二は「話す言葉」「考える用語」が変わったこと、第三は116冊のブックレットを刊行したことである。116冊のタイトルが、そのまま「自治体課題の変遷」を物語っている。 多くの自治体職員と市民の方々に本書の熟読を薦めたいと思う。 
  2014年10月1日  
  入間市 都市建設部参事兼建築指導課長 清水英弥


  森 啓「自治体学とはどのような学か」
  公人の友社 ℡ 03-3811-5701 Fax 03-3811-5795
Eメール info@koujinnotomo.com  http://koujinnotomo.com/
   頒布-定価1200円+税(96円) を 著者割引で1000円
   問合せ 03-3811-5701 info@koujinnotomo.com
岩波『図書』2月号で、二つ思った。
(カテゴリー: 研究ノート・書評
  岩波『図書』2月号で、二つ思った

一つは、
 冒頭の『福翁自伝』とオランダの反応(上)・平川祐弘(比較文学者)を読み、『福翁自伝』が「明治の日本語作品の最高傑作である」とオランダでいち早く紹介されていたことを知った。
 福澤諭吉は「自己の意見を自由闊達に表明する世にも稀な少数者であり、知識の幅はきわめて広く、優れた洞察力と親近感を持たせる文体の持ち主であり、世界の歴史地理の概説、化学や物理の初歩的な原理、天文学、複式簿記、歩兵銃の製作法をも教え、村田銃の発明者として有名な村田将軍が福澤の書物から知識を得た」と叙述されている。迷信を退治した福澤のエピソードも紹介されている。
 ルソーが18世紀のフランスにとって大きな意味を持つ存在であるのと同様に、福澤も日本の近代化にとって大きな意味をもつ存在であると述べる平川氏の所説に共感した。福澤は自国民を開化することを己の使命としたのである。
 「福澤諭吉と丸山真男」(高文研)の著者は、福澤諭吉を「福澤真男」「丸山諭吉」と揶揄し時代情況をヌキにして後知恵で批判した。その著者に岩波『図書二月号』をお読みになることを薦めたいと思った。
 
二つは、
 赤川次郎の「フィクションと現実」(48頁)である。
「時計の針を大きく逆に戻したような総選挙の結果に、ため息つく人は多いだろうが、しかし素人目にも謎の多い選挙だった」として「三つの謎」を赤川さんならではの筆致で描いている。
 第一の謎、「大体、この時期に総選挙になれば民主党の惨敗は目に見えていたのに、突然の野田首相の解散」―「経団連からの『見返り』なしで、こんな真似はしないだろう」―「野田元首相のその後の身の振り方を注目しておくべきだろう」
 第二の謎、「北朝鮮のロケット発射―なぜこの時期に?」―「実は秘かに日本の保守勢力が北朝鮮に依頼した『やらせ』では…」
 最大の謎は、「安倍氏、経団連、電力会社、その誰もが、「3・11」の、あの大地震の凄まじさ、大津波の破壊力、そして爆発した建屋の中すら今も分らないという原発事故の恐怖を経験していながら、これから起こる大地震-間違いなく起こるのだ-で再び原発が大事故を起こすことを『考えようとしない』ことである」と。
 そして、ベルギー在住の友人からのメール「初めのうちこそ日本を被害者として同情してくれていたヨーロッパの人々が、次第に日本を加害者と見るようになっている」を紹介している。

 筆者は毎年1月、札幌市内の高齢者の勉強会(創造学園)で話をしている。本年は、「なぜ民主党は大敗したのか-これから日本はどうなるか」と「映画『東京家族』を観ると涙が流れるのはどうしてか」を話した。赤川さんの文章を話の前に読んでいたなら、もっと面白く話せたのに、と思った。

  岩波『図書』を多くの方々が読まれることを薦めたい。

新刊紹介 「新自治体学入門」
(カテゴリー: 研究ノート・書評
 鳴海正泰教授が小著「新自治体学入門」の紹介文を「地方行政・時事通信社( 2008年4月24日 号)」に書いて下さったので転載する。

 現場経験者の真骨頂   鳴海正泰 (関東学院大学名誉教授)

 近頃、白治体にかつてのような活気がみられなくなった。首長にも職員にも、したがって行政も元気がない。経費と職員の削減に追われ、国が示した「財政健全化法」の数値ばかりを気にしているようだ。
 かつてのような活気というのは、一九七十年代には自治体をめぐる保守対革新の激しい政策対立が熱気を生み出し、九十年代には中央集権休制から地方分権への転換を求めて、全国の自治体がまとまった時代のことである。
 本書の著者はそうした時代に神奈川県の職員として自治体活性化運動を起こし、ついには「自治体学会」の創設の中心となった人である。
 こうした白治体をめぐる状況の変化は、進まない地方分権と中央集権の復活、市場優先主義、財政の逼迫などに原因があるが、著者は次のように指摘する。第一に新しい時代を切り拓く「理論」が力を失って状況追随思考が蔓延していること、第二に革新勢力に「白身の不利益をも覚悟する献身性」と「未来を展望する純粋性」がなくなったことをあげている。
 そこで著者は、第一章に「自治体学の概念」、第二章に「自治体学理論」を設け、「国家学」との対比で「自治体学」の概念を市民自治の自治体現諭と定義し、「市民と政府の理論」「政策形成理論」「白治制度理論」を含む学の体系であるとする。
 その基礎としての「市民白治」の意味を「市民が公共社会の主体であり公共社会を管理するために市民が政府をつくる」と述べている。

 本書の冒頭にこうした自治の基本的理解が示されているが、以下の章で抽象的な議論に終わらないところが、行政現場の実践を経験してきた著者の真骨頂である。
 白治体職員には、たとえ一章、二章をとばし読みをしたとしても、次の第三章の「市民力と職員力」、そして第四章の「市民自治基本条例」以下の章を精読されることをお勧めしたい。
 自治体を改革し「市民の政府」をつくっていく主体はなによりも「市民」であると同時に、自治体で働く職員である。八○年代の頃は、行政と市民が協力しあうことを「共同して」といっていたのが、最近では役所側でも「協働」という言葉を使うようになった。行政と市民が対等な立場で協働しあおうという呼びかけである。
 市民同士が協働するならわかるとしても、はたして最終決定権をもつ行政と市民との問で、対等な関係がありうるであろうか。協働の名の下に、市民の方が行政にとりこまれていることが多いのではないだろうか。
 著者はここで「協働」の本来の意味を問いかけている。本来の「協働」を実現するためには、市民と職員の信頼関係が不可欠であり、それには「統治行政」を「市民自治」に転換するための「双方の自己変革」が必要だと著者は強調してやまない。
 著者が本書の副題を「市民力と職員力」としたゆえん所以である。なかでも、自治体職員の自己革新の重要性が訴えられている。そのために「課題を発見し解決方法を考えること」「政策能力を身につける不断の学習」が必要であり、白治体学会の役割はそこにあるとする。
 著者の問題提起は常に実践的である。例えば、いま多くの白治体で取り組まれている「自治基本条例」の制定について、首長と議会だけてつくった条例は形骸化して機能しない。制度をつくっても「政策策定と実行」の実態は何も変わらず、ただの作文に終わってしまうだけだ。
 首長も議会も職員も自分の問題に引きつけて、もちろん市民も含めて自己革新しなければ「市民の政府」はできない、と著者は情熱をこめて語るのである。 
ML(メーリングリスト)のあり方、について
(カテゴリー: 研究ノート・書評
M L(メーリグリスト) について

☆☆県の自治体学会で、ニュースレターの原稿訂正をめぐって、事務局長からメーリングリストで意見が求められたので、この機会に、一般的な「MLのあり方」の問題として、感想を記録しておく。

〇〇@事務局長です。
> お詫びと訂正についてですが、改めて考えればニュースレター
> の発行人は☆☆自治体学会事務局となっています。したがって、
> お詫びするとすれば事務局長名でお詫びするのが筋かと思います。
> そこで運営委員の皆様方にもご意見をうかがいたいのですが、


 面と向い合った会議の場であるのならば、率直に話し合うのは(少しキツイ言い方でも)良いとは思うのですが、MLの場合は、チョッと違うように思います。
会議の場なら、話をしている人の表情や声の調子がそこにありますし、即座の反論も可能です。そして、同席者の(発言はなくとも)賛否の気持ちがその場に流れます。
 例えば、「そこまで言うか」 などの批判的空気が発言者に向かって発射されます。
そのようにして、お互いの「仲間の間合い」がつくられていくと思うのです。

MLの場合は、発信する人は独りでキィボードを打ちます。
社会性のない真空のような空間です。そこにいるのは自分だけです。
MLは、そこで作成した文章が全員に発信されます。
「向かい合った対話」とは大きく違います。 
でありますから、
MLには、自己規律、マナー、思いやり、のようなものが必要だと思うのです。

ところで、今回の場合は、
ニュースレターの編集者が原稿を直したことに対して 寄稿者から異論があって、
「ゴメンなさい」と編集された方が、その場で謝ったので、
(その場にいた私は)、それで万事は終了したものと思っていたのですが、
そうではないようですネ。
しかし、かりに 
 「納得できない」 「ことは当事者間の問題でない」 と考えるのならば、それは、MLでなくて 面と向かい合った場で話し合うことだと思うのです。
 
 MLで、批判発言を発信するのは、
多くのメンバーの前で、批判を受けた方を、ある時間、
一方的なさらし処分にすることになります。「やられてる」になります。  

MLは便利なものですが、えてして、書き込みに熱心な方の独壇舞台になりがちです。
  私なんぞは、この感想を書くだけでも相当の時間を要しますから、
  即座に反論はとてもできません。ただ眺めているだけになります。 

さて、
〇〇事務局長 へ
 今回のこと、あらためて「お詫び」を全員に配信することではない、と考えます。    
日本が世界に誇れるもの
(カテゴリー: 研究ノート・書評
「日本が世界に誇れるもの」          

あるメディアから「日本が世界に誇れるもの」は何かと聞かれた。
今の日本は、「自殺」が二十代・三十代の死因の第一位である。昨年は三十代の自殺者数が過去最高であった。三十代になっても二十代の頃の時給で働かされ、健康を害せば住む処を失い、ホームレスになり自殺を願望する。フリーターの正規職員への再就職はきわめて困難である。「ワーキングプア」なる悲惨な実態が広がっているのが日本社会の現実である。
「フリーターを正規労働者に再契約する雇用主の義務規定」を削除するよう経営者団体は政府に要望した。つまり「保障のない不安定な労働者として生涯を低賃金で使い切りたい」という阿漕な考え方である。   
正規職員にも時間外労働が増えている。経営団体は「残業手当を出さないですむ法律」に改めるよう政府に求めている。昼夜働いて過労死や過労自殺になっても企業には何の罰則規定もないのである。「経営者団体の考え方」と「政府の規制緩和政策」は一体のものである。

なぜ、こうなっているのか。
社会全体に批判的思考力が衰退し状況追随思考と主体鈍磨が蔓延しているからである。かつては、労働組合の論理は「働く者の連帯と団結」であった。だが今は「自身の立場」と「自分達の既得権」を守ることが最優先になっていると言われている。かつての労働組合には「平等理念」を掲げる社会主義の思想があった。マルクスの「賃労働と資本」などの学習もさかんであった。自己の不利益をも覚悟して一歩前に出るエネルギーが存在した。それはトータルに社会を眺めて批判する社会主義の思想が存在していたからである。 

日本が「世界に誇れるもの」は何か。
鈴木大拙が欧米世界に紹介した「禅」が「ZEN」という外国語になり、海外で高い評価を受け、「西欧文明」と「東洋精神」をつなぐ可能性を有する日本として、かつてなら、誇り得たかもしれない。だが現在の日本はアメリカに追随し国際社会で孤立を深め「高貴な精神性」などとは無縁の状態にある。 
 あるいはまた、レンズ光学などの先端技術をかつては誇ったが、科学技術教育の裾野は寒々しく誇りうるとは到底言い得ない。
今の日本に「世界に誇れるもの」があるであろうか、再度自問するならば、それは「憲法九条の堅持」であろう。
20世紀は「戦争の世紀」であった。夥しい人命が失われた。21世紀に入った現在も殺戮が世界の各地で続いている。最新兵器による殺戮の殆どはアメリカが関与してのものである。
国際政治の悲惨な現実を見据え未来を展望するならば、日本が世界に誇り得るものは、アメリカが要望してきている「憲法九条の改定」に応諾せず「戦争放棄」を堅持し続けることである。それが、世界の人々から共感と敬意を獲得することになり「世界に誇れるもの」となるであろう。

 
規制緩和政策
(カテゴリー: 研究ノート・書評
規制緩和政策

規制緩和政策はサッチャーとレーガンが採用した新自由主義の経済政策である。新自由主義とは市場万能主義者ミルトン・フリードマンの経済理論で、自由競争のために規制を取り払う政策である。失業者が増え貧困層が増大してもいたし方なしとする阿漕な経済理論である。チリ、アルゼンチン、ブラジルなどで悲惨な貧困層を大量に増大させた。アメリカはOECDの調査で世界第一位の貧困率である。日本は第二位である。「規制」は「不公正な経済活動」を制約するためであるのだ。
昨今の新聞報道では、「法人税を引き下げ消費税率は引き上げる」「フリーターを正規職員にする雇用主の義務規定を削除する」「自立支援の名目で精神障害者にも負担させ給付を削減する」「生活保護世帯よりも低所得の世帯があるので生活保護の給付を下げる」などの社会保障の後退記事が連日の如く続いている。 
政党も労組も学者もこの事態を黙過し、テレビには「何の苦労もしらない世間知らず」の二世・三世議員が得意然と「教育基本法」「憲法」の改定を論議する光景が映っている。
松下圭一著「自治体再構築」を読む
(カテゴリー: 研究ノート・書評
  松下圭一著「自治体再構築」を読む  

自治体理論
本書は四十五年間にわたって自治体理論を創り続けている著者の最新の著作である。「自治体改革」とは六十年代に著者が造語した言葉である。そのころは、自治体を国家政策の地方実行団体とみなして「自治体闘争」と言っていた。これに対し、自治体は「市民の自治機構」であるから自治体を改革して「国家統治を市民自治に」「中央集権を地方分権に」「行政支配を市民参加に」転換するのだと提唱した。世に「自治体が発見された」と言われた。自治体理論の創始である。
 以来、自治体理論は現代の理論となって普く広がった。自治体学会に参集する人々も年々増加している。 
 その著者が、自治体が直面している「分権改革」と「財源緊迫」という厳しい状況を打開するには「自治体再構築」が必要であるとして、北海道地方自治土曜講座(三回)と吹田市と多治見市で行った計五回の講演をまとめたのが本書である。手にとって読んでみたいと思うのは当然ではないか。
本書を読めば、「自治体再構築の緊急課題は何か」「解決方策は何であるのか」が理解できる。 

思考力 ― 道具は言葉
本書の書き出しはこうである。「都市型社会の原点に立ち返って市民の位置づけから始めたい」と。
次いで「協働」という言葉の流行を「政府信託理論」からみて間違いだと述べる。

自治体職員は自治の原点に立ち返り考えなくてはなるまい。なぜ、行政文書に「協働」が氾濫するのかを。自治体職員に必要なのは思考力である。思考するには道具が必要である。道具とは概念・言葉・用語である。だから道具箱の中身が問題である。使える道具を収納しているのか。旧来の観念で蜘蛛の巣を張っているのではあるまいか。さればこそ、「市民」とは何か、「政府信託理論」とは何かである。 
 
松下教授の著作を難解だと言う人がいる。逆にまた「松下さんの本はどれも分かりやすいですなあ」と言う人もいる。新刊が出るたびに読書会を続けている関西の市民グループの人たちである。この人たちには松下用語は市民自治の言葉だから「ピッタリの納得」になる。国家統治の観念で自分を縛っている人達は「市民自治」「政府信託」はピッタリとは分からない。だが、難解だと言う人も「講演は具体的で明快で実に分かりやすい」と誰しも言う。

本書は講演形式で叙述されている。思考の道具箱に「市民」「自治」「信託」などの「基礎概念」を収納するチャンスである。基礎概念を明晰に収納すれば前例なき課題も考えることができる。

 読書研究会
1995年に札幌で「政策型思考と政治(東大出版会)」の読書研究会を始めた。名称を「政策型思考研究会」とした。最初は七十名を超える参加者であった。二年九ヶ月で最終章まで完読した。そのときの話である。
 憲法は「国民主権」と定めている。だが政府や官僚は「国家主権」と言う。学者も言う。国民主権と国家主権の関係を「どう考えたらよいのか」が論議になった。岩波新書の「市民自治の憲法理論」に「そのことが明快に述べられている」との発言があって、研究会メンバーは「市民自治の憲法理論」を手に入れたいと思った。ところが、完売・絶版でどこの書店にもない。古書店にもなかった。メンバーの一人は東京出張の際に神田の古書街で見つけて3,600円で買ってきた。刊行時の値段は230円の岩波新書である。入手困難と言えば、筑摩学芸文庫「戦後政治の歴史と思想」も完売で書店にない。この文庫本には松下教授の主要論文12本が著者の解説付で収録されている。例えばそこには「〈市民〉的人間型の現代的可能性」の論文(1966年)も収録されている。「市民」の言葉は今でこそ一般化しているけれども、1960年代のころは「階級」全盛であったのだ。「市民」は理解されず忌避されていたのである。
政策思考型研究会では、「市民自治の政府信託論」と「国家統治の国家法人論」の違いを討論によって理解を深めた。松下教授も札幌来訪の際に研究会に参加された。研究成果を論集として刊行した編集責任者は北海道庁職員の渡辺克生氏である。実費で頒布している。

テキストとして最適
著者は、「なぜ〈市民〉という問題が出てきたのか」と設問し解答している(9頁)。読者も自分の言葉で解答を考えてみることだ。書かれている文章をそのまま反復するのでは理解したことにならない。札幌の読書研究会はそのルールで進めた。なぜなら、国家統治の観念は人々の心理と論理に強固に染み付いているのである。だから、染み付いている国家統治の観念を打破するには、自分自身の言語論理を自己の内部に構築しなければならない。そうでないと自分も気づかないときに「国家・統治」が顔を出す。「国家統治」「市民自治」を道具箱に収納して何時でも使えるようにするには討論形式の読書会が有益である。本書は読書研究会のテキストとしても最適である。
著者は「都市型社会が市民成熟の条件を醸成する」と述べる。しからば、その「都市型社会」とは何か。「政策型思考と政治」を読めば「人類の第二の大転換としての都市型社会」の詳細な説明が得られる。
「市民概念」は、前述の筑摩文庫収録の「市民の現代的可能性」と松下圭一編「市民参加(東洋経済新報社)」を読めば理論理解が深まる。
本書67頁では「市民」とは「規範人間型」であるから、「市民」という規範人間型への自覚をもつ普通の私たちが「市民」なのだ、と説明する。自治体理論は現状を未来に向かって変革する理論であるから「規範概念」が重要になる。
「規範概念」とは、未来を目的として設定し現在を手段とする「政策型思考の動態的実践概念」である。事後的静止的な解説概念ではない。だから現状変革の意識が微弱であれば規範概念の「ピッタリ納得」は困難である。「難解だ」と「分かりやすいですなあ」との分岐点はここである。「行政の文化化」も規範概念であるから、行政の現状況に対する変革意識が薄弱なむきには理解不能である。「普通の人」とは「特権・身分をもつ特別な人ではない」という意味である。

 「新版・社会教育の終焉」も必読
都市型社会ではシビルミニマムの〈管理〉が行政の課題になる。この行政を組織・制御するのが市民の役割であるから、市民は多様な市民活動を行って「市民」として成熟する。そしてNPOも広がる。ところが、NPOを行政が所管・育成するという考え方がすぐに出てくる(90頁)。言葉では「支援」と言うが「統治行政」である。「市民活動」の理論認識が行政職員には未熟だからである。

1986年刊行の「社会教育の終焉(筑摩書房)」は当時の社会教育関係者には一大衝撃であった。そこで密かに「読んではならない本」として口伝された。NPOが広がった現在、市民活動にも新しい視座が必要である。「新版・社会教育の終焉」(公人の友社・2003年)は本書と同じく必読の書物である。
        
「自治体再構築」公人の友社刊・2800円
「新版・社会教育の終焉」公人の友社刊・2625円