■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
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協働とは
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協働とは

3 文化戦略と協働 
 自治体に文化行政が始まったとき、文化行政とは「住んでいたいと思い住んでいることを誇りに思う地域社会をつくる市民と行政職員の協働の営為である」と定義した。この定義は文化行政が自治体に始まった七十年代のときの言明である。この定義にある「協働」は「自己革新した主体の協力」を表現するための造語であった。ところが、九十年代の後半に「協働」の言葉が行政文書に氾濫して学者が「コラブレーションの訳語です」と解説した。しかしながら「協働」は訳語ではない。七十年代の自治体文化行政の論議の中で造語したのである(注1)。もっとも「協働」の表記は「言葉遊び」「当て字」としては1931年に刊行された「現代語大辞典」(一新社)に見出し語として使用されている。
 協働とは、市民と行政職員が相互信頼で協力することである。「協働」は「行政への参加」と異なる。行政への参加には「相互信頼」は存しない。主体双方に自己革新なくして信頼関係は生じないからである。主体双方の自己革新が協働には不可欠である。行政主導の統治行政のままでは信頼関係は生じない。
ところで、「協働」の言葉を否定する言説がある。その言説には「主体変革」の問題認識が見られない。「今の行政文化のまま」でも「意味あることが可能」と考えるのであろうか。例えば、「自治基本条例」の制定である。今の行政のままで「案文を書き、首長が決裁し、議会が決議すれば」それで「自治基本条例」が制定されたと考える。そこには最高条例の規範意識の醸成を重視する考え方が希薄である。新しい(異質の)価値の創出には「当事者の自己革新が不可欠」であるとの課題認識が欠如している。
それであるから「市民自治の制度」を制定しても制度は機能せず「死屍累々」である。「行政と市民の関係」は統治行政のままである。何も変らない。
そして他方には、「協働」の言葉が行政文書に氾濫している。しかしそれもまた「統治行政のまま」での「協働」である。「今の行政のまま」では「市民と行政との対等な関係」は存在しないことに何の顧慮もない。言葉だけの「協働」である。
「協働」の言葉は、七十年代の文化戦略の論議で「主体双方の自己革新」を表現するために、国語辞典にない言葉を造語したのである。それを知らずに学者は「協働はコラブレーションの訳語です」と説明する。「新しい言葉」はすべて「外国語に原語」があると考える。学者特有の「優越と劣等」の意識である。
協働するのは市民と行政職員である。行政ではない。市民と行政職員の「相互信頼」によって前例のない「不確定要素を覚悟した」実践が可能となる。
その実践がまちへの愛情を育てるのである。人々の心にまちへの愛着と公共心が芽生えなければ「安心して暮らせて」「美しくて楽しくて」「住み心地のよい」まちにはならない。
協働とは住み心地のよい公共社会を創出する営為である。
 都市的な生活様式が全般化した成熟社会では、市民の日常生活は公共政策の網の目の中で営まれる。都市型社会は公共政策による生活条件の整備を不可欠必要とする。そして、その公共政策を解決実現するには市民と行政職員との協働が不可欠であるのだ。
(注1) 「協働」をめぐる論点は北海道自治土曜講座ブックレット№90「協働の思想と体制」に詳述した。
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協働とは 2
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協働とは 2

再び「協働」という言葉について     札幌都市研究会
 「協働」という言葉の氾濫に対して、次のような批判がなされている。
「雇い主である住民」が「公僕である公務員」と、なぜ「協働」せねばならないのか。行政職員は主権者である我々が雇った人間である。行政組織は公僕の集団であるのだから雇い主である住民との「対等な関係」などはあり得ない。住民が主人であり「上」なのだ。「主人である住民」が「雇われ人の行政職員」と「協働」する必要などまったくないのである。概ねこのような批判である。
 しかしながら、このような理念論で「協働」を否定することができるであろうか。事柄はそれほど単純ではないのである。
長らく国家統治の理論と制度が続いてきた。政策策定と政策執行の主体は行政であり住民は政策執行の客体であるとの統治行政の制度と制度運営は現在も続いているのである。「憲法変われども行政は変わらず」であって「統治行政の考え方」は厳然と今も続いているのである。理念論でこの現実を否定することはできない。この認識がまず必要である。
最近の公務員は言葉では並の学者以上に民主主義的な用語を使うのである。けれども、六十才まで身分保障された公務員として日々を過ごすから人事昇進が最優先の価値になり無難に大過無くの「公務員」になってしまうのである。
行政機構の建物の壁と床には統治行政の考え方が染込んでいるのである。公務員はそこで日々を暮らしているから、統治行政の論理に染まり住民を下に見て自身は現状維持的安定の行動様式になるのである。だから、住民との「協働」と言っても統治行政の実態は少しも変わらない。そして、統治行政のままでは「住んでいることが誇りに思えるまち」にはならない。
他方の「住民」はどうであろうか。
行政組織と何らかの接触体験を持った人々は少なからざる不満と不信の念を抱くであろう。しかしながら、正面切ってそれに挑み正す人は極めて少数である。そして、統治行政に不信を抱いた住民も自分自身はと言えば「現状維持的」であり「自己保身」である。町内会や同業者組織の中にも権威的な運営とお任せの慣行は存在する。公務員を雇われ人であり公僕であると指摘し認識できるほど自身が民主的で自治的な住民はさほどにはいない。政治・行政の学会さえも運営はそれほど民主的でも自治的でもない。実態は行政とさほどには違いはないのである。「住民」は主人であるから、雇われ人の「行政職員」と「協働」などする必要はないのだと理念論で「協働」を批判しても、事態は些かも進展しないのである。
問題は「協働」を理念論で否定することではなくて、行政職員も住民も「誇りに思える魅力あるまち」を形成する「協働の主体」としてはまことに未熟であると指摘し、現在の「協働」は言葉だけであると批判することである。
行政活動の質を高めるには市民と自治体職員との「協働」が必要であるのだ。自治体理論を学習し実践する自治体職員を低く見てはならない。優れた地域形成に果たした自治体職員の実践を自治体理論に位置付けなくてはなるまい。
行政を内側から見る目の欠如した学者の理念論議はひ弱である。「協働」がいけなくて「参加」ならば、「雇い主」と「雇われ人」の問題はないとでも言うのであろうか。問題の要点は「協働の主体」としての自己革新が双方に必要なことにあるのだ。すなわち、「住民」から「市民(いちみん)」へと自己革新して市民自治を実践する地域の方々と、「地方公務員」から「自治体職員」へと自己革新して自治体理論を実践する行政職員との「協働の営為」が地域形成には必要なのである。
ここまで書いて紙幅が尽きた。ついては、本会報の2003年5月号を参照されたい。そしてこの論点は「月刊・地方自治職員研修・臨時増刊75号」(2004年2月発行)に詳述する。
協働とは  3
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協働とは  3

協働という言葉の意味
「協働」という言葉が流行している。
札幌市のホームページの冒頭には「札幌市は協働都市をめざす」と書かれている。北海道庁のホームページにも「協働」という言葉が次々と出てくる。
なぜなのか。「財政が苦しくなって行政が何もかもやれなくなった。住民にも地域の団体にも応分の役割を担ってもらわなくてはならない。だから「協働」という言葉が使われるのではないか」あるいは、「参加」では言葉の響きが弱くなった。何かいい言葉がないかと思っていたとき「協働」を耳にした。「ああこれはいい」となったのではなかろうか。だが、その「協働」は「気分的形容詞」であり「内容は空疎」である。
「協働はコラボレーションの訳語である」と説明する学者もいる。しかしそれならば、なぜ国語辞典にはない「協働」と訳したのか。翻訳をしたのは誰なのか。最近は意味漠然のカタカナ語が氾濫しているのだから、どうして「カタカナ」のままで得意然と使わないのか。
1998年に「げょうせい」から刊行された「住民と行政の協働」という本の編者は「協働は翻訳語である」と解説している。 
しかしながら、「協働」は外国語の訳語ではない。
1970年代の文化行政の黎明期に、文化行政への手厳しい批判に答えるために、「自己革新した行政と市民による協力」を意味する言葉として「協働」という国語辞典にはない言葉を造語したのである。
文化行政が自治体に始まったとき、行政が文化を政策課題にすることに対して強い疑念が提起された。「行政が文化を安易に言い出すのは問題である。危険ですらある」との批判であった。「行政」は安定性と公平性を旨とする。「文化」は常に創造であり現状変革であり異端でもある。「行政」と「文化」は本質的に相反する。文化は計量化できない価値の問題であって人々の自由な精神活動の営為であり所産である。「何事も無難に大過なくの公務員が文化の問題で意味あることはできない」「行政が文化に関わって碌なことはない」との批判が提起された。
これに対して、「文化行政は市民の文化創造に介入するものではないのだ」「タテワリ事業の執行行政でもない」「文化行政とは行政の事業執行と制度運営と行政機構の文化的自己革新であるのだ」と主張した。
そして、文化行政を「住み続けていたいと思い住んでいることを誇りに思える地域社会を創る市民と団体と行政との協働の営為である」と定義した。
国語辞典にない「協働」という言葉を使ったのは「文化行政に対する疑念と批判」に答えるためであった。「協働とは自己革新した市民と行政による協力」
を意味する言葉である。協働はナレアイではないのである。(2003-5)
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