■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
橋下維新の会と市民自治
(カテゴリー: 市民自治の意味
  橋下維新の会と市民自治

  橋下維新の会の正体は集権統治である。
  虚構の言説だけで政治理念はない。
  橋下現象は民主政治(市民自治)にとって実に宜しくない。


 さっぽろ自由学校「遊」は「ハシズムから考える」をテーマに
 本年五月から月一回の連続講座を開催している。
 以下は第五回講座を担当する筆者のレジュメである。


 「橋下主義(ハシズム)と市民自治」

1 橋下維新の会が新党を結成し政治勢力になろうとしている。
 以前は「国政には関心ありません」と言明していたのである。
 なぜ、橋下維新の会が政治勢力になり得るのか。

2 大阪の知事と市長の選挙で橋下維新の会が圧勝した。
 なぜ、大阪の有権者の多数が橋下に投票したのか。
 投票率が上昇したのはなぜであるか。

3 マスメディアは橋下弁舌を批判せず「たれ流し」に報道する。
 新聞・テレビは「橋下の正体」に斬り込まない。
 なぜであるか。
 岩波「世界」は7月号で「橋下維新―自治なき『改革』の内実」を特集した。その内容は流石に「世界」であった。

4 山口二郎氏(北大)が報道ステーションで橋下氏と討論した動画がネットに流れた。視聴が殺到して炎上し閉鎖になった。その山口氏が6月2日、札幌市内の紀伊国屋書店で「橋下主義(ハシズム)はどこへ行く」のテーマで講演した。「山口氏が何を語るか」を期待して多くの人が集まった。筆者も聴きに行った。
 だが、「橋下の何が問題なのか」は語らなかった。聴衆の表情に「期待外れ」が現れていた。筆者は「山口氏は橋下の正体が見えていない」「だから語れないのだ」と思った。
 
 それは、過日の大阪タブル選挙で、自民・民主・公明・共産の反橋下・総連合が「橋下独裁・ハシズム」と攻撃するだけで、有権者の胸に共鳴する橋下批判が出せずに惨敗した。平松氏を支援する学者も(山口氏もその一人)「なぜ橋下は大阪市長として良くないのか」を明晰に言えなかった。それと同様のことである。

5 問題は「橋下の正体」である。
  「橋下の正体」は何か。
  
  
 以上の論点を、9月19日の19時~21時に言説する。
  問合せ さっぽろ自由学校「遊」
      札幌市中央区南1条 西5丁目愛生ビル2階
      電話 011-252-6752 FAX 011-252-6751
      syu@sapporoyu.org
      http://sapporoyu.org/
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市民自治とは
(カテゴリー: 市民自治の意味
市民自治とは

 市民自治の意味についての質問があったので所見を述べます。

市民自治
「市民自治」とは「市民」が公共社会の主体であり公共社会を管理するために政府をつくるという意味です。
「市民自治」は「自治体学理論の規範概念」です。自治体学理論は「国家を統治主体と擬制する国家学理論」に対して「市民が政府を選出し制御し交代させる自治の主体であるのだ」と主張します。
すなわち、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置するのです。
自治体学は「国家」ではなく「市民」から発想して理論構成をします。
「市民自治」は規範概念でありますから、これを理解し納得するには「国家統治の観念」に対する「自身の所見」が不可欠です。それがなければ「市民自治」の概念認識は曖昧漠然になります。
 例えば、「自治とは自己統治のことである」と説明されています。この説明は「自治」が規範概念であることの意味を理解していないのです。「統治」は「統治支配する主体」と「統治支配される被治者」を前提にする観念です。「自治」の説明に「統治」の言葉を使うのは、「自治」を「統治」に対置した意味が「分かっていない」ということです。「現存していない自治」を「未来に向かって現出せん」とする規範概念の意味が理解できていないのです。

 市民自治の理論
市民自治の理論を要綱的に整理すれば次のとおりです。
(1) 市民は公共社会を管理するために政府(首長と議会)を選出して代表権限を信託する。信託は白紙委任ではない。信頼関係を基にした委託契約である。政府の代表権限は信託された範囲内での権限である。
(2) 市民は政府の代表権限の運営を市民活動によって日常的に制御する。
住民投票は政府制御の一方式であって代表民主制度を否認するものではない。住民投票は政府の代表権限を正常な軌道に戻らせる市民の制御活動である。
(3) 市民は政府の代表権限の運営が信頼委託の範囲を著しく逸脱したときには信託解除権を発動する。信託解除権とは解職(リコール)または選挙である。
政府信託理論は「市民自治の政府理論」です。
市民自治の論点
(カテゴリー: 市民自治の意味
市民自治の論点
 
1 選挙は、政治主体である市民が代表者を選出して代表権限を信託する民主政治の基本原則である。しかるに、選挙の翌日に市民は「陳情し請願する立場」に逆転する。何故であろうか。「選出された側」が「当選すればこっちのもの」と考えるからであろうか。選挙とは「白紙委任」のお任せであるのか、「信頼委託」の基本契約であるのか。
 あるいはまた、当選した首長や議員が、市民多数の声に(選挙で獲得した投票数よりも多い署名数に)反する行動をとるときがある。
 何故、そのようなことがあり得るのか。市民は次の選挙まで忍従しなければならないのであろうか。効果的な対応策はないものか。  

2 2005年の市町村合併のとき、「住民の声を聞いてからにせよ」と住民投票条例の制定を求める署名運動が全国各地に起きた。その時も、九割を超える地域の首長と議会は「その必要なし」として「住民投票条例の制定請求」を否決した。
 しかしながら、合併は住民自治の区域変更である。地域社会の重大事であるのだから、四年任期で代表権限を託された首長と議員だけで決めることではない。
 しかるになぜ、そのようなことが実際に罷り通っているのであろうか。これをどう考えればよいのか。どうすれば良いのか

3 地方自治法は自治体の上位法であるのか。
 「地方分権」は世界の潮流である。工業文明国はどこの国も「分権型社会」への転換をめざしている。
 日本も、明治以来の「機関委任制度」を廃止した。「通達制度」も廃止した。既存の通達も失効したのである。
 「国と地方」は「上下の関係」「支配従属の関係」ではなくなった。「対等・協力」の中央政府と地方政府の関係になったのである。だが、長年の惰性的思考から抜け出せない人が多い。その人々の制度無知につけこみ、「国の法令に反することはできない」と言明する人もいる。継続を画策する狡猾な者もいる。
 「市民自治」とは具体的には如何なることであるのか。

4 アイゼンハワー大統領が退任演説で警告した「軍産複合体制」が止め処なく進行して、アメリカは「戦争がなければ経済が成り立たない戦争国家」になっている。日本でも軍事と産業と政治の融合が進行し汚職が頻発している。戦争は莫大な利益に繋がるからである。アメリカは日本への「年次要求書」で「戦争のできる憲法」「アフガニスタンでの参戦」を強く求めている。
 だがしかし、「平和」は「軍備」と両立しない。軍事力を保有して平和を唱えるのは虚言である。「抑止力」の言い方も欺瞞の論理である。
 「無防備平和」は市民の自治力で確保するのである。
岩国市民は「市民の自治力」で「軍事基地化」に対抗した。

岩国市民の実践に学ぶべきことは多いので、対論によって論点を解明する。
 対論・「市民自治」
   日 時   2009年2月3日(火) 18時―21時
   会 場   かでる ホール  10階 (1040号室) 
  討 論    ・井原勝介 (草莽塾代表、前岩国市長)
          ・森  啓 (自治体政策研究所理事長) 
1 市民と首長・議会の関係
・市民は選挙の翌日に陳情の立場に逆転するのはどうしてか
・選挙は白紙委任か-(当選すれば身勝手に行動してよいのか)
・「首長と議会の権限」と「市民参政の権利」の関係
・選挙が終われば市民は傍観するだけなのか
・市民参加はお題目なのか、リップサービスなのか。
・首長と議員の権限逸脱を制御する方法
・常設型・住民投票制度の可能性
2 省庁と自治体の関係
・自治体の政策自立 ―自治体は省庁政策の下請団体なのか
・地方自治法は自治体の上位法なのか
・自治体は国の法令に反することはできないか 
・自治体立法権、自治体行政権、自治体の国法解釈権 の意味
・市民自治基本条例の意味
3 無防備平和の意味
・無防備で平和が守れるのか
・抑止力という論理の欺瞞性   
・軍隊は国民を守らない 
・戦争は市民を殺傷する    
・基地も軍隊もないまちをつくる主体は誰か、方法は何か
・常設型住民投票条例の可能性


日本社会はなぜ時代への関心と怒りを失っているのか
(カテゴリー: 市民自治の意味
 日本社会はなぜこれほどに
時代に対する怒りや問題意識を失ったのか
   
思考力の衰退
日本社会がかくも保守化し思考力が衰退したのはなぜであろうか。生活保守主義にはまり込み時代に対する怒りや問題意識を失っているかのようである。「生活水準」が良くなり「ハングリー」でなくなったからではあるまい。
二つの理由が考えられる。
一つの理由は、社会を全体的に考察する「理論」が力を失ったからである。七十年代には「社会主義の理論」が存在した。そのため「時代を切り拓く気概」と「社会変革のエネルギー」があった。革新団体の役員は「自身の不利益をも覚悟する献身性」と「未来を展望する純粋性」を保持していた。「賃労働と資本」の学習会なども盛んであった。
ところが現在は、経団連会長が「フリーターを正規社員に再契約する雇用主の義務規定」を削除するよう政府に要望する。それは、若者の生涯を「保障のない不安定な労働者として三十代も四十代も低賃金のままで使い切りたい」という阿漕な要望である。さらに正規社員に対しても「残業手当を出さないですむ法律」に改めるよう政府に求めた。政府は「この国会でやりましょう」と応諾した。
昼夜働いて社員が過労死・過労自殺になっても、企業には何の罰則規定もないのである。「労働者保護法制」は「派遣労働の規制緩和」などによって「止め処もなき後退」を続けている。これが規制緩和の正体である。
若者の自殺が増えて、三十代の自殺者数は最高数である。フリーターが正規社員に再就職するのはきわめて困難。二十代の時給で三十代になっても働かされ、健康を害せば住む処を失い、ホームレスになり自殺を願望する。真面目に働いても貧しさから抜け出せない。悲惨な「ワーキングプア」が増えているのが現在の日本社会である。
「生活保守」と「状況追随思考」が蔓延するのは「理論の羅針盤」を見失っているからであろう。

思考の座標軸
もう一つの理由は「思考の座標軸」の昏迷である。
「自国の近代史」を45年間に亘って学校教育で意図的に教えなかった。日本史の授業は卒業直前に明治維新になるように仕組まれた。文部省の陰謀である。
かくして、日本の若者は自分の国の近代史を「悲しいほどに知らない」「哀れなほどに知らない」のである。若者だけではない。かつて若者であった30代・40代・50代も「知らない」のである。教えられていないのである。意図的に教えなかったのである。
それが今、ボデーブローの如くに効いてきたのである。思考の座標軸は時間軸と空間軸である。「タテ軸(歴史軸)」が欠落して「思考の座標」が定まらない。定まらないから「時代や社会を批判的に考える」ことが出来ない。
今の日本は、国民的規模で「批判的思考力」を喪失しているのである。
「思考力の喪失」は「二世・三世議員」も同じであって、それらの人々の「思考力のなさ」「見識のなさ」「頼りなげな表情」は目を覆うばかりである。それ故に、国際社会での孤立が生じているのである。

テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済

市民自治とは何か
(カテゴリー: 市民自治の意味
市民自治とは何か

市民自治
「市民自治」とは「市民」が公共社会の主体であり公共社会を管理するために政府をつくるという意味です。
「市民自治」は「自治体学理論の規範概念」です。
自治体学理論は「国家を統治主体と擬制する国家学理論」に対して「市民が政府を選出し制御し交代させる自治の主体であるのだ」と主張します。
すなわち、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置するのです。
自治体学は「国家」ではなく「市民」から発想して理論構成をします。
「市民自治」は規範概念でありますから、これを理解し納得するには「国家統治の観念」に対する「自身の所見」が不可欠です。それがなければ「市民自治」の概念認識は曖昧漠然になります。
 例えば、「自治とは自己統治のことである」と説明されます。この説明は「自治」が規範概念であることの意味を理解していないのです。「統治」は「統治支配する主体」と「統治支配される被治者」を前提にする観念です。「自治」の説明に「統治」の言葉を使うのは、「自治」を「統治」に対置した意味が「分かっていない」ということです。「現存していない自治」を「未来に向かって現出せん」とする規範概念の意味が理解できていないのです。

 市民自治の理論
市民自治の理論を要綱的に整理すれば次のとおりです。
(1) 市民は公共社会を管理するために政府(首長と議会)を選出して代表権限を信託する。信託は白紙委任ではない。政府の代表権限は信託された範囲内での権限である。
(2) 市民は政府の代表権限の運営を市民活動によって日常的に制御する。
住民投票は政府制御の一方式であって代表民主制度を否認するものではない。住民投票は政府の代表権限を正常な軌道に戻らせる市民の制御活動である。
(3) 市民は政府の代表権限の運営が信頼委託の範囲を著しく逸脱したときには信託解除権を発動する。信託解除権とは解職(リコール)または選挙である。
政府信託理論は「市民自治の政府理論」です。


官から民へ - なぜ賛成するのか
(カテゴリー: 市民自治の意味
「官」から「民」へ ― なぜ賛成するのか  

「官から民へ」の「小泉政治のスロ―ガン」を多くの人々が支持した。なぜであろうか。
「民間でやれることは民間で」の言い方で「郵政民営化」が強行された。
人々は「民営化」に賛同し反対しなかった。
「民営化」に、「サービス向上」「効率化」「無駄を省く」「経費節減」のイメージを重ねるからであろう。重ねるのは「行政不信」が人々の心に堆積しているからである。
民営化は「不採算部門・赤字事業」の「切捨て廃止」に至るは必定。ツケは国民に廻ってくる。さりとて、今の行政にやらせて置くわけにもいかない。
「小泉政治のスローガン」に容易く乗せられたのは「非能率の行政」が底流にあるからである。しかし同時に、人々の「思考力が衰弱」して「状況追随思考」に陥っているから「官から民への欺瞞意図」が見抜けないのである。

国政だけでない。自治体にも「指定管理者制度」による「公共施設の民間委託」が広がっている。図書館、文化会館、観光施設などの民間委託である。施設だけではない。「公共が担うべき」と考えてきた福祉部門にも民間委託が拡大している。「経費節減」と「サービス低下」の委託である。だが住民は「民間委託」に反対しない。なぜであろうか。「公務員よりも民間が良い」と思うからである。
「出勤して仕事をしているフリをしていれば退職金も年金も出る」「無難に大過なくの消極態度の公務員」「規則と前例の責任回避」「どちらを向いて仕事をしているのか」「親方日の丸の無駄遣い」「公務員労組は自分福祉の既得権意識だけ」。「行政不信」が今では「公務員行政の見限り」にまで至っているからであろう。
 
ところで、民営化反対の「論理的で説得力のある反論」は見当たらない。労働組合はもとより政治・行政の学者からも説得力ある反論は出ていない。 
例えば、「何でも彼でも民営化にすれば良いというものではない」「民営化に適する業務もあるだろう。だが公共が担うべきものもあるのだ」との言い方がなされる。これは何も語っていないのと同じである。反論になっていない。単純な形式論理である。
「民営化はサービス低下の低賃金政策だ」と反論しても「公務員行政の非能率」は周知で「行政不信が広がっている」から説得力がまるでない。

 東京三鷹市の「公設民営の保育所」は評判も良く、他の保育所の父母からは、吾が子を預けている保育所も「民間委託にして貰いたい」と要請されている。 
他方、横浜市では父母が署名を集めて「民間委託の計画を中止して直営を続けてもらいたい」との要望書を市長に手渡している光景が、本年八月、テレビで放映された。この違いは何を意味しているのか。この違いを解明できなければ「説得力ある反論」は出せないであろう。主体変革を伴う実践論理で考察しなければ解答は見出せない。

「民営化」の目的は「経費節減」で、「効率化」とは「不採算部分の斬捨て」であるのは明白である。明白であるにも拘わらず「官から民へ」のスローガンに惑わされるのは、多くの人々が「公務員行政を見限っている」からである。
「行政劣化」の実態を認識して「行政文化の自己革新」を実践しなければ「官から民への政治スローガン」に反論する説得力ある論理は出せないであろう。
例えば、自治基本条例の制定を「代表権限」を「信託された首長と議会」で制定できると考える人々には「民営化反対の説得力ある反論」は出せないであろう。
行政職員と市民との間に「信頼・協働」が形成された地域には「民営化の欺瞞性」を見抜いて阻止する地域自治力が育っている。

                            
市町村合併と住民投票
(カテゴリー: 市民自治の意味
民主制度根幹の揺らぎ―市町村合併と住民投票
民主制度の根幹が揺らいでいる。
例えば、市町村の合併である。合併を「首長と議会で決めてよいのだ」が横行し、住民投票をしても開票しない、などの独断専横が広がっている。
ところが、学者も労組も政党も論壇もメディアも黙している。「主体鈍磨」と「状況追随思考」の蔓延である。

1. 市町村合併と住民投票
合併とは何か
合併とは「地域の自治権」「地域の自治制度」を失うことである。父祖伝来の町の名前がなくなり、役場から発注されていた財政支出がなくなり、公共経済の地域還流がなくなり、若い人は中心地に住所を移し、商圏も中心に移って商工業も衰退する。合併した周辺地域は間違いもなく寂れていく。
合併は地域社会の重大事であるのだ。首長と議会だけで決めてよいことではない。「住民の合意」が不可欠必要である。首長と議会の権限は「白紙委任」ではない。住民から四年任期で信頼委託された権限である。
なぜ、住民投票を避けるのか。住民投票を避けるのは「住民意思の表明」を恐れるからである。
「合併やむなし」と言明している首長と議員の言動を仔細に観察するならば、「自分自身のこと」を第一義に考えている、と思わざるを得ない。総務省の兵糧攻めに直面して「故郷を守り抜くの気概」はない。交付税削減という理不尽な「合併強要」を「乗り越える覚悟」はない。全国には「自立の方途」を決断した町村長は数多くいるのだ。なぜ、その町村長の才覚と覚悟を聞いて学ぼうとしないのか。「自立の方途」を決断した町村長の所見を聞かずに「合併やむなし」を言うのは「困難な役割」から逃げ出したいからである。それは「故郷を投げ出す所業」である。
北海道にも「隣町との合併を密かに約定し」「合併は住民判断になじまない」などと言い「住民投票」を狡猾に避けている町長がいる。「自治の首長」の名に値しない。
住民投票
「住民には合併判断は難しい」などと言うのは「住民蔑視」である。
首長が為すべき責務は主権者住民への公正な判断材料の提供である。だが、合併協議会で作成する「合併した場合・しない場合」の「想定資料」は、不確定の数字化である。「交付税総枠の削減も」「行財政改革の覚悟と展望も」「合併後の諸費用も」全て不確定である。不確定を数字化した「合併前提の架空資料」ではないか。そんなものでなく、自立を決断した町村が「住民と向かい合って定めた自立計画」を主権者住民が知るようにすることである。それをしないのは、困難な役割から逃亡したいからである。合併を意図している首長に共通していることは「地域の未来を語らなくなった」ことである。故郷を投げ出しているからである。職員も「自分のことが最優先」になっている。
 当時の自治省職員が作文列挙した「合併のメリット」なるものを安易に引用し、あるいは、地制調が「地域自治組織」と書けば安直に賛同する学者も多い。実態が見えていない観念論理である。考えてもみよ、故郷を投げ出した首長と職員が合併後に自己革新をすると思うのか。行政改革を断行すると思うのか。地域自治組織を構築することが出来ると思うのか。今少し実態を認識すべきである。言葉でならば誰でも何とでも、役人の作文のように、言うのである。
かくて、「住民不在」の首長と議会に対して「住民投票条例」の直接請求運動が全国各地に起きている。だが議会多数派がこれを否決し続けているのである。

2 民主制度根幹の揺らぎ
住民投票は行うけれども「投票率が六割を超えないときには開票しない」の決議が横行している。投票箱の内にあるのは「町の将来を決めんとする主権者住民の意思」である。三割であろうと四割であろうと開票するのが当然である。如何なる権限で住民意思を「闇から闇に葬る」ことが出来ると言うのか。民主制度の根本原則の否認である。
そもそも、首長や議会の権限は住民から信託された権限である。住民意思の表明を忌避し圧殺するのは自己撞着である。さらには、合併反対の住民意思が多数であっても「僅差である」などと言明して「合併を進める町長」もいる。民主制度の原理原則の否認である。ところが、これらの横行に学者も論壇も労組も政党もメディアも黙している。なぜであるのか。
政治感覚の麻痺である。批判的思考力の衰弱である。それとも或いは、自身の地位を保全する処世術であるのか。「主体鈍磨」と「状況追随思考」の止めどもなき蔓延である。これであれば、平和保持も人権侵害も止めることはできない。九条改定を目論む人々はホクソ笑むであろう。
繰り返すが、四年任期で権限を信託された首長や議会が合併という地域社会の重大事を自分達だけで決めてよいのだと考える。住民投票条例の直接請求を否決して住民意思の表明を圧殺する。投票率が六割を超えなければ開票しないと定める。これらが「民主制度根幹の否定」でなくてなんであろう。

3 主体鈍磨と状況追随思考の蔓延
なぜ「主体鈍磨」と「状況追随思考」が蔓延するのか。
蔓延の背景に「自身の思考責任」を隠蔽する「処世術」がある。例えば、公共社会への発言を求められる立場の人が、「私は合併問題では中立です」と言明する。そのとき、その心の奥底には「私は中庸な考え方なのです」「私は偏ってはいないのです」との世渡り術がある。
合併は「するか、しないか」である。合併に「中立」はない。中立とは「判断できない」である。そうでなければ「所見の隠蔽」である。
この指摘に、「生活行動圏や地域条件の変化などで合併条件が整っているときには合併に反対しない」だから「私は中立なのだ」と弁明する。しかしながら、そんなことは「私は中立です」の理由にならない。それは当たり前のことである。どこかに「絶対反対の頑迷固陋な人達」がいるかの如くに擬勢して、自身を「穏健で中庸な考え方の持ち主」だと装いたいのである。
「合併は選択肢の一つです」との言い方も同じ心底である。それも「当たり前のこと」ではないか。今回の合併騒動は分権改革の最終段階で突然のように出てきた「財政破綻の地方ツケ廻し」であるのは明白ではないか。なぜ尤もらしく「選択肢の一つです」とだけ言うのか。公共社会への発言を求められる立場にありながら「心底がお粗末すぎる」ではないか。 
町民は「父祖伝来の町名」と「地域の自治権」を失う合併問題を「どうするべきか」と悩み真剣に考えているのだ。悩み真剣に考える町民が自治の担い手に成長するのだ。地域の方々が「思考停止のお任せ」から「自分で考えて決する」へと自身を展開するのが「自治」である。自治は「与えられる」のではない。「現存する」のでもない。「未来に創り出す営み」である。自治は「実践の営為」であって動態観念なのだ。公共社会への発言を求められる立場の人には「自身の存在を賭けた真摯で真剣な発言」が求められるのだ。そうでなければ「自治を語る」資格はない。
人間は「より良きもの」へと思念する。思念し実践するには「めざす理想」が必要である。人間は「風にそよぐ葦」であれども「思考する」のである。思考には「理念」と「価値軸」が不可欠である。「理念」なき「保身の処世術」は邪悪である。「原点座標軸」を漂流させてはなるまい。

4 自治体改革  
 七十年代に「自治」「分権」「参加」が提唱された。自治体改革の枠組みである。自治体改革とは「地方公共団体」を「自治体政府」に変革する営為である。すなわち、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置し、「中央集権」を「地方分権」に組換え、「行政支配」を「市民参加」へと、自治体を変革するのである。自治体改革は「実践概念」であって解説的「認識概念」ではない。
そして、七十年代の後半には「革新自治体から自治体革新へ」と盛んに言われた。その意味は、首長が革新系というだけではダメで、自治体の「機構」も「政策」も「制度」も変革しなければならないとの反省から出た言明であった。
それから30年の歳月が経過した。「自治体理論」「政策形成力」「市民自治制度」は相当に前進した。自治体理論を研鑚する場として自治体学会が設立され参加者は年々増加し「自治・分権・参加の理論」は広がった。地域実態に即応した自前政策を形成する能力も高まっている。情報公開条例、環境アセスメント条例、住民投票条例、パブリックコメント制度、オンブズパーソン制度、政策評価制度、自治基本条例、などの市民自治制度を装備する自治体も次第に増えている。
七十年代と対比すれば画期的な展開である。
「自治理論」「政策形成力」「自治制度」は前進した。前進はしたのだが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっている。なぜであろうか。
なぜ、不確定要素を孕んだ事柄に不利益をも覚悟して一歩踏み出す情熱が冷めたのであろうか。実践思考や献身性というものは何処にいったのか。自治労自治研究集会にかつて漲っていた熱気は何処に収蔵したのであろうか。革新団体の研究集会が焦眉の合併問題を実践課題として論議しないのは何故であるのか。自治体学会にも現在只今の重大問題を掘り下げる論議が不足だとの声をしばしば耳にする。そしてまた、省庁官僚を自治体学会の地域研究会に講師として壇上に招く風潮は何であるのか。「投票率が六割を超えないときは開票しない」との民主制度の根幹を否定する事態に、地方自治や地方財政を専門にしている学者が黙しているのは如何なる思惑からであろうか。
ある調査で小泉首相の靖国参拝を「支持する」が40%を超えたと報道された。この数字とどこかで繋がっているのではあるまいか。

5 自治体理論が試されている
地方分権が工業文明国に共通する世界の潮流になったのは、科学技術の進展によって前例のない解決困難な公共課題が噴出したからである。一国政府だけでは解決できない国際社会の公共課題、中央政府の全国基準や政策では解決できない地域課題が増大したからである。すなわち、国際社会で解決基準を約定し遵守しなければ解決・実現できない公共課題、自己革新した行政職員と市民が協働する自治型行政スタイルでなければ解決できない地域課題が増大したから、地方分権が工業文明国に共通する潮流になっているのである。そして政府も三層に分化するのである。
分権改革とは「現在の県市町村」を「地方政府」に改革することなのだ。「地方政府」に改革するとは、住民と行政が信頼を基礎にした「新たな関係」を創出することである。であるのだから、先ずは住民との信頼関係の構築である。今は合併などするときではない。合併条件が熟成しているところは合併すればよいのであって、期限を定めて促進することではないのだ。「合併の次に地域自治組織を作ればよい」などと述べる学者は、今少し情勢と実態を洞察して発言すべきである。「3200を1000にする」のは総務省の全国管理体制の強化策であるのだ。市町村合併の次に道州制が出てくるであろう。その次に控えているのは何か。
ジョージ・オーエルが「1984年」で描いた「強圧管理社会」が日本列島に現実化しようとしている。「私的情報保護法」という名前の「言論の自由侵害法」、「住民基本台帳ネットワーク」という名の「国民総背番号制」、「通信傍受法」という言い方の「盗聴法」は既に国会で決議された。この言い方はオーエルの「ニュースピーク」である。
そして次は、「憲法改定」である。硬性憲法と言われたが改定発議に必要な「3分の2」は衆議院も参議院にも改定賛成の議員数が揃っている。「憲法改定の国民投票法」も準備がすすんでいる。憲法改定への道筋さえ開けば、つまりは一歩半歩の実績さえ作れば、「後は何とでもなる」が進行しているのだ。狙いは「憲法9条」である。その次は「徴兵制」である。「徴兵制度の無い国がどこにあるのか」「国を愛する法制度がなくてどうするか」との「声高な論議」が始まるであろう。いや既に始まっている。
報道媒体である新聞社が自社の憲法改定案を公表し、NHKが特集番組を放送前に政治家に説明して改変する。それにもさしたる「批判」が起きない日本列島である。まさに「何でもあり」「やりたい放題」である。「批判的思考力」が衰退し「状況追随思考」が蔓延しているのである。
「憲法9条改定」「徴兵制度議決」の問題にも、「想像力」が衰弱しているから「まさかそんなことにはならないだろう」と思っている。そして「徴兵制度」が現実になれば、「無力感」に漂い「状況追随思考」に陥るのであろう。あるいはその時は「国家興奮」に身を投じるのであろうか。
現在の無力感の漂いは、威勢のよい論調に同調し多様性を否定するファシズムの温床ではあるまいか。
70年代には、自己犠牲を覚悟した「献身性」と未来を展望した「純粋性」が社会に存在していた。だが現在は、周囲を見渡しても「抵抗する主体」も「拠るべき心棒」も見えない。「主体鈍磨」とは「思考力の衰退」である。「状況追随思考」とは「思想の不在」である。自身の場で自治体理論が試されている。