■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
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自由民主党の「ちょっと待て自治基本条例」を批判する
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
 自由民主党の「ちょっと待て! 自治基本条例」を批判する  


自民党の「自治基本条例に対する見解」がインタ―ネットに並んでいる。
一読して「放置してはならぬ」と思ったので以下に所見を述べる。

 自民党の「チョット待て、自治基本条例」には
( http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/jichikihonjyourei_01.pdf )

3頁に、「自治基本条例の信託理論では、自治体の権限も財源も、議会も行政も、市民の言いたい放題になって、収拾がつかなくなる危険性があります」と書いてある。
 この文章は、民主政治の根本原理(信託理論)を否認するものである。
 「信託理論」が、なぜ「これでは議会も行政も法的根拠が不要になり市民の言いたい放題になるのか」の説明の無い非論理的な文章である。

 自民党の見解は、憲法前文に掲げた「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し…」を否定する見解である。

 現状は「当選すれば、白紙委任の如くに身勝手に言動して、議会不信と政治不信を増大させている」ではないか。信託理論は「その身勝手な言動は背信である」とする理論であるのだ。そのための「自治基本条例の制定」であるのだ。
 議会と行政の権限は「国民の信託」によるものなのだ。
 信託理論が民主主義の理論であるのだ。

 自民党は、議会と行政の権限は「市民の信託」ではなくて「地方自治法」が根拠であると言うのであろうが、その自治法は国民の信託によって制定されて効力を有するのである。
  (これくらいのことも分からないのであろうか)

4頁には、「自治体が法律を勝手に解釈することはできません」と書いてある。
   
  自民党の橋本竜太郎内閣のとき、菅直人議員が国会で「憲法65条の内閣の行政権限は(どこからどこまでか)と質問した。「内閣の(つまり国の) 行政権限は憲法第八章の地方公共団体の権限を除いたものです」と答弁した。 これが公式政府答弁である。
すなわち、自治体は独自の行政権限を有しているのである。そして、独自の行政を行うに必要な規範を制定する権限を憲法によって保持しているのである。法律を解釈する権限も有しているのである。
「国家(官僚)の解釈」と「自治体の解釈」が齟齬するときには、司法の場で決着するのである。これを司法国家というのである。「集権・統治」から「分権・自治」へは世界の潮流である。
 自民党は法律の解釈権限は国家(官僚)だけだと言うのであろうか。世界の潮流に逆行する時代錯誤の法感覚である。

5頁の(2)には、憲法は「国民主権」を高らかにうたっている。「市民主権」や「地域主権」などの言葉は曖昧な政治用語であるから「条例の文言に使用すべきではない」と書いてある。 

 それではお尋ねしたい。
 自民党は「国民主権」を言うけれども、自民党の正体は「国家主権」であって「国民主権」ではない。「国家統治」であって「市民自治」ではないのだ。そうでないと言うのならば、「国民主権」と「国家主権」の違いを明瞭に述べてみよ。そして、自治体条例に「市民主権」の言葉を使用すべきでない、と言うのならば、「国民」と「市民」の違いを明晰に説明してみよ、とお尋ねしたい。

「地域社会の重大問題」を、地域の人々が「規範を定めて遵守する」のが民主主義である。自民党は「自治法がそれを認めているのか」と「一見まことしやかに」に明治憲法感覚の国家統治の(時代錯誤の)論理で非難する。
 自民党は「国家主権の統治理論」であるからだ。
 自治基本条例は「国民主権の信託理論」であるのだ。
  さてそこで、
 国家とは「領土・国民・統治権である」の言説が、明治憲法のときから続いてきた。そのため「国民」には「国家の一要素」のイメージが染込んでいる。であるから、「国民」の言葉はなるべく使わないのが良いのである。
 「国民」も「市民」も「公共社会を管理し運営する人々」のことである。「市民主権」のことばに反感を抱くのは、明治憲法を郷愁する「国家主権」の人たちである。
(国家三要素説は性質の異なる(団体概念)と(機構概念)をないまぜにした説明である)

 このパンフを作成した自民党政務調査会 (と協力した学者)に、ジョン・ロックの「市民政府論」(岩波文庫)をお読みになることを薦めたい。「民主政治理論の古典」であるこの本を読めば「蒙昧を脱する」ことができるであろう。

5頁の(5)には、地方自治法が自治権とその精神を保証しているのであって、市民が議会や市長を設置するものではない、と書いてある。
 
 市民が「議会や市長を設置する」のではなくて、市民が「市長と議員を選出する」のである。選出して代表権限を信託するのである。そのことを憲法93条が定めているのである。
 そして、自治制度を定めたのは憲法であって地方自治法ではないのである。
 地方自治法はGHQの間接統治の隙間に内務官僚が明治憲法の法原理(国家が地方を一律に統制する思想)によって成案したものである。したがって、地方自治法の解釈運用は世界普遍の現行憲法の法原理に基づいて行うことに留意すべきである。

5頁の(6)には、「地方自治法には住民投票についての規定はなく、法律上の根拠のない住民投票が地方議会の意思を拘束することはできない」と書いてある。

 筆者は2001年12月4日、衆議院総務委員会から「参考人としての意見陳述」を求められた。自民党内閣による(市町村合併を強行するため)の「合併特例法の一部改正」のときである。
 衆議院総務委員会で、議会が反対の決議をしても「住民投票」によって「議会が議決したものと見做す」とする今回の法改正は、議会制度を軽視し憲法にも違反すると意見を述べた。だが住民投票によって「合併是非の住民意思」を確認し尊重することは住民自治として良いことである。であるから「議会が合併決議した」ときにも、住民投票による「住民意思」を確認し尊重する、と法改正すべきであると陳述した。
(http://www.youtube.com/watch?v=2tqXt27Z3tU&feature=share&list=UUJ6vDSFyf8HuARx_rkDicnw (衆議院総務委員会の参考人意見陳述の映像))

すなわち、
1 自民党内閣は過去に、議会決議にも優越するものとしての「住民投票」を法改正に組み込んだ経緯があるのだ。
2 地方自治法74条は「住民の直接請求」の制度を定めており、74条に基づく「住民投票条例」は既に数多く制定されおり、新潟巻町、岐阜御嵩町、徳島吉野川可動堰などで、住民投票は既に実施されているのである。
しかるに、自民党の「この見解」はこれら事実を無視して(よもや知らなかったではあるまいが)、「法律上の根拠のない住民投票」などと書いているのである。

自民党はなぜ自治基本条例を嫌悪するのか
1 民主政治への人々の理解が高まることを怖れるからであろう。
 人々が賢明になると騙せなくなるからである。

2 「当選すればこっちのもの」と身勝手に言動することができなくなるから、議会と議員に枠を定める自治基本条例を嫌悪するのである。

3 「市民自治」の考え方が広がると「国家」を隠れ蓑にする統治支配が続けられなくなるからであろう。

4 自治基本条例の背後に「特定の団体が」とか、市民自治の信託理論は「偏った思想である」などの言い方は、暗黒の明治憲法時代の権力者の常套用語であった。

5 自民党内の議論水準が現今の国際社会には通用しないものであるからであろう。


それにしても
 全国各地に「自治基本条例の制定」に委員として関わり、あるいは助言した学者の方々が多数いるにも拘らず、インターネットの第一面の上段に並んだ「自民党の見解」を批判する発言が現れないのは、一体どうしたことであろうか。
 昨今の学者は「発言するべきときにも発言をしない世渡り術に沈潜している」のであろうか。
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代表民主制度と自治基本条例
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
  代表民主制度と自治基本条例 
      
行政不信・議会不信
 市民は選挙の翌日には「陳情・請願の立場」に逆転し、首長と議員は「白紙委任」の如く身勝手にふるまう。
 このため、行政と議会に対する市民の不信は高まり、代表民主制度は形骸化して「議会不要論」の声さえも生じている。
 選挙は「白紙委任」ではないのである。「代表権限の信頼委託契約」である。身勝手な代表権限の行使と運営は「信託契約の違反」であるのだ。そして「代表権限の逸脱」を制御するのは有権者市民の責務である。
 かくして、考案されたのが「自治基本条例」である。
 現在、日本列島に自治基本条例の制定が広がっている。良いことである。良いことであるのだが「行政不信・議会不信」は一向に改まらない。
 なぜであろうか。これが「論点」である。

自治基本条例の制定権限
 自治基本条例は自治体の最高規範である。自治体の憲法であるとも説明される。憲法は権力の行使に枠を定めた最高規範である(憲法98条)。
自治体の自治基本条例は「代表権限の行使・運営」に枠を定める最高規範である。であるから「制定権限者」は有権者市民でなくてはならない。首長と議会は遵守する立場である。これが近代民主政治の制度原理である。
 しかるに、今全国に流行している基本条例は「首長と議会」が制定している。「有権者市民」には、制定後に広報やホームページで知らされている。
自治基本条例が役に立たない原因はここにある。なぜそうなったのか。
学者が「普通の制定手続きでよい」と説明するからである。

学者の理論責任
 推測するに、地方自治法は「条例制定は首長が提案し議会が議決する」と定めているから、この定めと異なれば「違法の条例だ」と批判される。「それは避けなくてはならない」と考えた。だが他方では「基本条例を最高規範条例である」と主張したい。そこで「条例文言にそう書けばよいのだ」と考えたのであろう。学者は「安直思考」と「矛盾論理」に気付くべきである。 
一方で「自治基本条例は自治体の最高規範である」と説明し、他方で「基本条例の制定は通常の条例制定手続きでよい」とする。それは矛盾論理である。
 学者は「新しい言葉を言説」し「新しい制度を提案」すれば、それで世の中が動くと考える。それを「学者の安直思考」というのである。 
 ことは「自治体の憲法」の創出である。安直な方法で制定できる筈はないのである。そしてまた、白紙委任の如くに身勝手に振舞っている「首長と議員」が容認する筈はないのである。学者が「通常の条例制定の手続きでよい」と説明するから「無内容な基本条例」が広がっているのである。
 なぜ、「代表権限の逸脱を制御する最高規範」の制定に市民は関わらないの
か。「市民の合意決裁」を不必要と考えるのはなぜか。なぜ「市民自治の規範
意識を地域に醸成する機会」を重要視しないのか。
 
自治基本条例に定める事項
 市民自治の理念(信託契約の意味)を明示する。
 説明責任―役職を異動しても決定した役職者に責任回避をさせない。
 情報公開―重要な判断資料を秘匿させない。
 全有権者投票―地域の将来に係る重大なことは首長と議会だけで決めないで有
 権者市民の意向を事前に聴く。
 自治・分権―中央省庁(官僚)の意のままにならない。
  ・自治体立法権
  ・自治体行政権
  ・自治体国法解釈権
 これらを定めておくのが自治基本条例である。

まちづくり基本条例と自治基本条例
  両者を混同してはならない。
・まちづくり基本条例の制定権限
  環境基本条例、福祉基本条例、災害基本条例などの制定権限は、首長と議会にある。選挙(信託契約)で市民が託したからである。
・自治基本条例の制定主体
  自治基本条例は「代表権限の行使に枠を定める最高規範」であるのだから「制定主体は市民」である。自治基本条例の制定権限は首長と議会に託されてはいないのである。

 有権者市民が合意決裁をする(有権者投票をする)ことによって、「吾がまちの最高規範を自分たちが制定したのだ」との規範意識が人々の心に芽生える。その芽生えが「市民自治社会の成熟」には不可欠必要である。 
議会基本条例と学者の理論責任 
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
議会基本条例と学者の理論責任

選挙は信頼委託契約
 選挙は白紙委任ではない。
 代表権限を信託する契約である。
 基本条例は自治体の憲法であると説明される。
 憲法は権力の行使に枠を定める最高規範である(憲法98条)。
 首長と議会の代表権限の行使運営が逸脱しないように枠を定めるのが基本条例である。
これが近代立憲制の民主政治の制度理論である。

 自治基本条例には次のような事項を定める。
① 市民自治の理念を明示する。
② 説明責任 - 決定した役職者に責任回避をさせない。
③ 情報公開 - 重要な判断資料を秘匿させない。
④ 全有権者投票 - 地域の将来に係る重大なことは四年任期の首長と議会だけで決めないで、全有権者の意向を事前に聴く。
⑤ 自治分権 - 中央省庁(官僚)の意のままにならない。
 ・自治体立法権
 ・自治体行政権
 ・自治体国法解釈権
 これらを定めておくのが自治基本条例である。

「まちづくり基本条例」と「自治基本条例」の違い
 両者を混同してはならない。
●まちづくり基本条例の制定権限
 議会運営条例や環境基本条例、福祉基本条例、交通安全基本条例、災害防止基本条例などの「まちづくり基本条例」の制定権限は首長と議会にある。選挙(信託契約)で市民が託したからである。 
●自治基本条例の制定主体
 自治基本条例は「代表権限の行使に枠を定める」最高規範であるから、制定主体は市民でなくてはならない。
 首長と議会は基本条例を遵守する立場である。
 自治基本条例の制定権限は「首長と議会」に信託されていない。 
 有権者市民が合意決裁をする(有権者投票をする)ことによって「吾がまちの最高規範を自分たちが係って制定したのだ」との最高規範意識が人々の心に芽生える。この芽生えが市民自治社会には不可欠重要であるのだ。

流行現象への危惧
 70年代から「情報公開制度」「政策評価制度」「市民参加制度」「オンブズパーソン制度」などの市民自治制度が次々と制定された。だが、どれも役立っていない。死屍累々である。
 そして今度は、基本条例の制定が流行現象になっている。
 それは「基本条例の制定は通常の条例制定手続きでよい」「首長と議会で決めればよい」「市民は制定に係らなくてよい」とする学者の安直な言説で流行しているのだ。
 安直な制定を推奨する学者は、市民自治制度が形骸化したのはなぜか、を真剣に考えるべきである。「言葉が広がれば一歩前進だ」ではないのである。
 自治基本条例を機能させる担保力は「市民の規範意識」であるのだ。「最高規範条例」の創出が簡単にできる筈がないではないか。

学者の理論責任
 重大な問題は、「自治基本条例の制定」という「市民自治社会への重大な節目」を「無意味な流行現象」にしていることである。歳月が経過すれば「一過性の流行」で終わり「基本条例」は忘れ去られるであろう。
 推測するに、現在の地方自治法は「条例制定は首長が提案し議会が議決する」と定めているから、この定めと異なれば「違法の条例だ」と総務省から批判される。「それは避けなくてはならぬ」と考えた。だが他方では「基本条例を最高規範条例である」と主張したい。そこで「条例文言にそう書けばよいのだ」と考えたのであろう。その考え方を「現状追随の安直思考」というのである。
 そこには、「最高規範」を創り出さんとする「規範意思」が欠落している。
 おそらくは、「規範論理」「実践論理」「規範概念」「批判的思考」の意味も理解できないのであろう。それでいて「市民自治」「信託理論」「自治体改革」を口にするのは撞着である。「自治体の憲法」「最高規範条例」を言説するのは不誠実である。 
 学者は、自らの「矛盾論理」と「安直思考」に気づくべきである。一方で「自治基本条例は自治体の憲法である」と説明し、他方で基本条例の制定は「通常の条例制定手続」でよいとする。それは「矛盾論理」である。
「新しいことを言説」し「新しい制度を提案」すれば、それで世の中が動くと考える。それを「学者の安直思考」と言うのである。
「市民自治の政治制度」を創出するための「自治基本条例の制定」であるのだ。「通常の条例制定の手続」でよいとするのは誤りである。 
 なぜ一歩前に出る実践論理を構想しないのか。
 なぜ「代表権限の逸脱を制御する基本条例」の制定に市民は関わらないのか。なぜ「市民の合意決裁」を不必要と考えるのか。
 市民自治の規範意識を地域に醸成する機会を重視しないのはなぜであるか。
 学者の存在意味は「理論構想力」にある。「理論構成」が学者の公共社会における役割である。そもそも「市民自治」も「基本条例」も規範概念である。
「規範概念による規範論理」を透徹せずして基本条例の安直な制定を誘導したことが今日の事態の原因である。この事態は全国各地の学者の責任である。その条は市町村合併で演じた学者の心底と同様である。

地方自治法は準則法
 70年代に神奈川県で情報公開条例を制定したとき、「法律規定の有無」を何ら顧慮することなく「県行政への県民参加」を実現すべく思考を働かせた。
 また、そのころの革新自治体は「宅地の乱開発」に対処する「宅地開発指導要綱」を定めて地域社会を守った。そのとき自治省・建設省・通産省の官僚は「権限なき行政」と非難攻撃した。それに対し、自治体は「国の出先機関」に非ずして「市民自治の政府」である、と規範論理を透徹した。 
 福島県矢祭町は自治法規定に顧慮することなく「議員報酬」を「日当制」に改めた。「地方自治法」はGHQ占領軍の間接統治の隙間に内務官僚が作った明治憲法感覚の法律であるのだ。だから現在では、「地方自治法」は自治体の上位法ではない。自治体運営の「準則法」であるのだ、と考えるのが正当である。
 考えてもみよ。自治基本条例は「自治体立法権」「自治体行政権」「国法解釈権」を「市民自治規範」として定めるのである。「省庁官僚の非難」を怖れて「市民自治制度」を論ずるのは「矛盾撞着の戯画」である。

自治体の成熟
 自治体が「最高規範条例」を制定するのは「自治体が成熟した」からだ。
民主党の「地方主権」の言い方 (理論的には誤り) に 、多くの人々が疑問を呈さないのは「市民自治」の理念に納得し共感するからであろう。 
 つまりそれは、現憲法での65年の自治制度の実績が「中央集権の地方公共団体」を「自治分権の自治体」に成熟させているからである。この市民自治の進展を後退させてはならない。市民自治の蓄積充実を誤ってはならない。
北海道奈井江町では、2005年の合併騒動のとき、町長と議会が呼吸を合わせて全所帯に「公正な判断資料」を何度も配布して説明会を開き、町民投票を実施した。そのとき、小学校5年以上も投票を行った。(投票箱は別)。
 それは降って湧いた合併騒動を「自治意識を高める機会」に転じたのである。
 みんなで「吾が町の将来」を考えたのである。これが自治体のあるべき姿である。ここに市民自治の蓄積があるのだ。
 現在、安直な「議会基本条例の制定」が大流行になっている。
 この異常事態は栗山町議会基本条例がきっかけである。
議会基本条例の流行現象を危惧する
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
 議会基本条例の流行現象を危惧する

流行現象の基本条例
 2010年8月現在、自治基本条例を制定した自治体は180を超えている。
議会基本条例の制定も流行している。元栗山町議会事務局長の中尾氏の話 (9月7日札幌市内) によると「議会基本条例は近日中に自治基本条例の制定数を超える」とのことある。
 だがこのような議会基本条例を制定しても「議会不信」「議会不要論」は解消しないであろう。
 顧みれば、70年代以降、「情報公開条例」「環境アセスメント条例」「オンブズパーソン制度」「政策評価制度」などの「市民自治制度」が相継いで制定された。 
 だが、それらの「自治制度」は如何ほどに役立ち機能したであろうか。形骸化して役立っていないのが実態である。
 学者は「新しい言葉」を言説し「新しい制度」を提案すれば状況が変化すると考える。それを「安直思考」と言うのである。 
  
基本条例制定の意味
 基本条例は何のために制定するのか。
 選挙で代表権限を信託した「首長と議員」が、「当選すればこっちのもの」と「白紙委任の如くに」代表権限を行使しないように「枠を定める」。それが基本条例である。 
 しかるになぜ、四年任期の「首長と議会」だけで基本条例を制定できると考えるのか。なぜ「市民」を制定手続の当事者とする方式を考案し実行しようとしないのか。どうして「住民投票による住民の合意・決裁」を避けるのか。
 現在のやり方は「自治主体である市民」は「そっちのけ」である。 
市民には事後に「広報やホームページで知らせばよい」である。それが「市民自治」であるのなら、まことに奇妙な理論ではないか。
 「最高規範意識」を地域社会に醸成しようとする「意思と工夫」の欠落したやり方である。そのようなやり方で制定した基本条例が機能する筈がないではないか。制定することが目的になっているだけである。 
 それらの自治体では、首長や議員の行動様式が変わり、行政運営と議会運営が変化し、役所と議会への市民の信頼は上昇しているであろうか。
何も変わっていないのではあるまいか。
 
制定当事者は市民である
 憂慮すべきは「基本条例の制定」を「一過性の流行」にして自治体改革の重大な節目 (チャンス)を消失している事態である。 
 かかる事態の遠因は「ニセコ町のまちづくり基本条例」の似非制定手続にある。そして、主要な原因は「学者」の安直思考にある。
 なぜに「最高規範条例」と言いながら「通常の条例制定手続」でよいとするのか。条例文言に「最高条例である」と書けば、それで「最高規範条例」になると考えるのはなぜか。
 信託した代表権限の行使に「枠を定める」のは市民である。制定の当事者は市民である。しかるになぜ、「定められた枠を遵守する立場」の首長と議会を、基本条例の制定権者と考えるのか。推察するに「違法条例だと言われてはならぬから」であろう。その思考態度を「現状追随」というのである。 
 
学者の安直思考
 「現状追随」とは、現在の地方自治法では「条例制定は首長が提案し議会が議決する」と定めているから、この定めと異なれば「違法の条例だ」と総務省からも批判される。「それは避けなくてはならぬ」と考える。しかし他方では、基本条例を最高規範条例であると言いたい。そこで「条例文言にそう書けばよいのだ」と考えた。それを「現状追随の安直思考」というのである。
 そこには、「最高規範」を創り出さんとする「規範意思」が欠落している。
 学者の存在意味は「理論構想力」にある。「理論構成」が学者の公共社会における役割である。そもそも、「市民自治」も「基本条例」も規範概念ではないか。「規範概念による規範論理」を透徹せずして「現状追随の論理」で基本条例の制定を誘導した。それが今日の事態の原因であるのだ。この事態は、全国各地の学者の責任である。その条は市町村合併で演じた学者の心底と同様である。
 おそらく、「規範論理」「実践論理」「規範概念」「批判的思考」の意味も理解できないであろう。それでいて「市民自治」「信託理論」「自治体改革」を口にするのは撞着である。「自治体の憲法」「最高規範条例」を言説するのは不誠実である。 

憂慮すべき重大事態
 重大な問題は「自治基本条例の制定」という「市民自治社会への重大な節目」を「無意味な流行現象」にしていることである。日時が経過すれば「一過性の流行」で終わってしまうであろう。
 「最高規範条例」を創出するのである。現在のような「安直なやり方」で制定できる筈がないではないか。少しは真面目に真剣に考えることである。
 学者は「理論責任」を三思すべきである。

議会基本条例  
 なぜ、「自治基本条例」でなくて「議会基本条例」なのか。何故に議会が突出して、恰も「独りよがり」のように「これ見よがし」のように「議会基本条例」を制定するのか。自治基本条例には「行政基本条例」と「議会基本条例」が、それぞれ別にあってよいと考えるのは (説明するのは)、まことに奇妙な理屈である。
自治体は二元代表制度である。首長と議会の「良き緊張関係」で運営されるのが望ましい。だが、基本条例を別々に制定するのは正当でない。
何か余ほど特別な事情があって、先ずは「議会基本条例」を制定して「首長部局の基本条例」が成案になれば、その時点で「自治基本条例」として合体する。そのようなことも例外として考えられないこともないが、しかし、やはり不自然で不合理である。
栗山町の議会基本条例のつくり方が「良いモデル」のように流行するのは異常である。それを推奨するが如き言説は誤りである。 
省庁支配の「地方公共団体」から「市民自治の自治体」に進展して「最高規範条例」を制定する段階に至ったのである。市民自治の蓄積充実を誤ってはならない。今、流行現象となっている「議会基本条例の制定」を進める議員と薦める学者の心底は評価できるものではない。

基本条例は自治体の最高規範
 基本条例は「自治体の憲法」であると説明される。
 憲法は、「権力の行使」に枠を定める最高規範( 98条)である。これが近代立憲制の民主政治の制度理論である。
自治体の基本条例は、市民が選挙で首長と議会に信託した代表権限の行使に枠を定めた「最高規範」である。制定 当事者は有権者市民でなくてはならない。
 首長と議会は基本条例を「遵守する立場」である。
 選挙とは「代表権限を信託する契約」である。条例制定の権限は「信託契約」によって「首長と議会」に託されているのだが、「代表権限の逸脱」を制御する「最高規範条例の制定権限」は託されていないのである。
 
自治体の成熟
 自治体が「最高規範条例」を制定するのは「自治体が成熟した」からである。
 民主党の「地方主権」の言い方 (理論的には誤り) に、多くの人々が疑問を呈さないのは「市民自治」の理念に共感し納得しているからであろう。 
 つまりそれは、現憲法での65年の自治制度の実績が「中央集権の地方公共団体」を「自治分権の自治体」に成熟させているからである。自治体は基本条例を制定する段階にまで至ったのである。この自治の進展を後退させてはならない。しかるに、栗山町議会の「議会基本条例」の出現によって、安直な「議会基本条例の制定」が全国に広がっているのである。

 
栗山町議会基本条例の根本的欠陥
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
  栗山町議会基本条例の問題点

北海道栗山町の議会基本条例
1 優れた自己規律の定
 栗山町議会基本条例は、高い倫理感に基づく一歩も二歩も進んだ内容である。だがこれは「基本条例」とは言い得ない。
 これは、代表権限を託された議会が定めた「自己規律の定」であって「最高規範条例」ではない。代表権限を信託した有権者町民が合意決裁したものではないからである。 
 栗山町議会は、制定の前後に説明会を開き賛同を得る努力は重ねた。だが「町民投票による合意決裁」を得てはいない。であるから、町民には「吾が町の最高条例」を「自分たちが関わって制定した」との規範意識が醸成されていない。議会が、(実態は議長と事務局長の主導で) 制定した「自己規律の定」である。しかしその内容は議員職責を自覚した優れた内容である。遵守されるであろう。絵に描いた餅ではない。
栗山町議会の方々は、「ニセコ町の悪しき先例」によって「このやり方」で良いと考えたのであろう。

2 基本条例は自治体の憲法
 基本条例は「自治体の憲法」であると説明される。
憲法は、「権力の行使」に枠を定める最高規範( 98条)である。これが近代立憲制の民主政治の制度理論である。
自治体の基本条例は、市民が選挙で首長と議会に信託した代表権限の行使に枠を定めた「最高規範」である。制定当事者は有権者市民でなくてはならない。
 首長と議会は基本条例を「遵守する立場」である。
選挙とは「代表権限を信託する契約」である。条例制定の権限は「信託契約」によって「首長と議会」に託されているのだが、「代表権限の逸脱」を制御する「最高規範条例の制定権限」は託されていないのである。
 
3 自治体の成熟
 自治体が「最高規範条例」を制定するのは「自治体が成熟した」からである。
民主党の「地方主権」の言い方 (理論的には誤り) に、多くの人々が疑問を呈さないのは「市民自治」の理念に共感し納得しているからであろう。 
 つまりそれは、現憲法での65年の自治制度の実績が「中央集権の地方公共団体」を「自治分権の自治体」に成熟させているからである。自治体は基本条例を制定する段階にまで至ったのである。この自治の進展を後退させてはならない。しかるに、栗山町議会の「議会基本条例」の出現によって、安直な「議会基本条例の制定」が全国に広がっているのである。

4 なぜ「議会基本条例」なのか
 なぜ、「自治基本条例」でなくて「議会基本条例」なのか。何故に議会が突出して、恰も「独りよがり」のように「これ見よがし」のように「議会基本条例」を制定するのか。自治基本条例には「行政基本条例」と「議会基本条例」が、それぞれ別にあってよいと考えるのは (説明するのは)、まことに奇妙な理屈である。
 自治体は二元代表制度である。首長と議会の「良き緊張関係」で運営されるのが望ましい。だが、基本条例を別々に制定するのは正当でない。
 何か余ほど特別な事情があって、先ずは「議会基本条例」を制定して「首長部局の基本条例」が成案になれば、その時点で「自治基本条例」として合体する。そのようなことも例外として考えられないこともないが、しかし、やはり不自然で不合理である。
 栗山町の議会基本条例のつくり方が「良いモデル」のように流行するのは異常である。それを推奨するが如き言説は誤りである。 
 省庁支配の「地方公共団体」から「市民自治の自治体」に進展して「最高規範条例」を制定する段階に至ったのである。市民自治の蓄積充実を誤ってはならない。今、流行現象となっている「議会基本条例の制定」を進める議員と薦める学者の心底は評価できるものではない。

5 憂慮すべき重大事態
 さらに重大な問題は「自治基本条例の制定」という「市民自治社会への重大な節目」を「無意味な流行現象」にしていることである。日時が経過すれば「一過性の流行」で終わり忘れ去ってしまうであろう。
 「最高規範条例」を創出するのである。現在のような「安直なやり方」で制定できる筈がないではないか。少しは真面目に真剣に考えることである。
 学者は「理論責任」を三思すべきである。

市民自治基本条例の最高規範性
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
 市民自治基本条例の最高規範性 (その1) 
 
 自治体改革とは「地方公共団体」を「自治体政府」に変革することである。
すなわち、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置し、「中央集権」を「地方分権」に組換え、「行政支配」を「市民参加」に変革するのである。
 自治体改革は「実践概念」であって解説的な「認識概念」ではない。そして、改革はいつの場合にも「主体の変革」が問題である。
 70年代に「革新自治体から自治体革新へ」と盛んに言われた。その意味は、首長が革新系というだけではダメで、自治体の「機構」も「政策」も「制度」も変革しなければならないとの反省から出た言明であった。
それから37年の歳月が経過した。

 自治制度と行政文化
 七十年代と比べて「自治体理論」「政策形成力」「市民自治制度」は相当に前進した。前進はしたが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっている。  
 なぜであろうか。
 情報公開条例、環境アセスメント条例、住民投票条例、パブリックコメント制度、オンブズパーソン制度、政策評価制度、自治基本条例、などを制定する自治体が増えている。画期的な展開である。
 しかしながら、「行政内で起案し決裁し議会で議決すれば」それで「政策評価」や「自治基本条例」などの市民自治制度ができたと考える安直思考が広がっている。統治行政の実態を変革せずして「自治制度の創設」を競っているかの如き風潮すらもある。
 制度は定着し運営しなければ意味がない。自治制度を創設したと表明した自治体を眺めてみよ。首長が「自治制度の創設はゴールではなくスタートであります」と挨拶をする。だが、挨拶した後は従来行政に戻る。「ゴールではありません」と言うのだが「制度定着を阻む障害」が何であるかは分かっていない。だから、行政内の「政策策定と政策実行の実態」は変らない。「自治制度」は既存行政に取り込まれ、やがて「有名無実の制度」として形骸化する。
 「制度定着を阻む障碍」が見えないのは「自身の問題に引き付けて」自治体改革を考えたことがないからである。自分自身のことは常に「考察の対象外」である。 
 「自治制度」と「行政文化」は原理的に異質である。行政文化とは、長い歳月によって行政内に堆積した慣例・手続き・手順・流儀・作法である。公務員の職業倫理観・住民観も行政文化である。それらの行政文化が自治制度を形骸化し無為化するのである。であるから、自治制度の装備には行政文化の革新が不可欠であるのだ。80年代、時代の潮流となって自治体に広がった文化行政は「今の行政のままでは文化行政にならない」と自己認識し、文化行政を「自己革新した市民と行政との協働の営為である」と定義した。そして、「行政文化の自己革新」を「行政の文化化」という言葉で表現し、「自己革新した主体の協力」を「協働」という言葉で表現した。いずれも造語である。翻訳語ではない。
 (協働をめぐる論点は、北海道土曜講座ブックレット「協働の思想と体制(№90)」
に詳述した)

 自治体理論と自治基本条例
 自治体理論とは住んでいる人々が公共社会の主体であり、公共社会を管理するのは「市民」であると考える理論である。
 市民は社会を管理するために政府をつくる。首長と議会は市民から信託された範囲内で権限を行使し、信託に反する場合には市民が交代させる。これが「市民自治の政府信託理論」である。「市民」は規範概念である。
市民が「政治主体」であり、首長と議会は「制度主体」である。
 さきほどの「行政内決裁と議会議決」で自治基本条例をつくるという考え方は、「制度主体」が「政治主体」である市民を「そっちのけ」にして「自治体の憲法」をつくるということである。これでは、統治行政のやり方と同じである。「官治の憲法」であって「市民自治の憲法」ではない。
 問題の要点は、地域に「最高条例の規範意識」を如何にして創り出すかの工夫と実践である。なぜ、住民投票を避けるのか。「それは理想論である」と弁明するのは、現状変革の困難を避け便宜に流れる安直思考である。もしかして、住民投票を避けるのは、「制定ができなくなる」を恐れてのことであろうか。
 なぜに、住民の自治意識の高まりを「望まず」「軽視する」のか。「住民合意・住民決裁」を避けて「最高規範の制定」を論ずるのは「市民自治」の規範論理が透徹していないからである。
 「最高規範の社会意識」を地域に醸成せずして何が「最高条例」であるのか。

 最高条例の規範意識
 自治基本条例は「自治体の憲法」であって「中央政府の法律」にも優越すると主張しても、説得力はない。既存の「○○基本条例」とは異なるのだと言明し条例文言に「この条例に反する条例や規則を制定してはならない」と規定しても、「最高規範性」は生じない。その論者が「そう言っているだけ」のことである。主張を担保する規範意識が地域社会に生じていないからである。
 「最高条例の規範意識」を地域に醸成する工夫と実践が「自治制度創設」の営為である。自治制度創設は現状変革の実践であるのだ。
 70年代ならばともかくとして、現在は「言葉が広がれば良い」「制度が出来れば前進だ」ではないのである。
たしかに、自治体理論は広がり、政策形成力は高まり、市民自治制度は装備された。画期的な展開である。ところが、「主体鈍磨」が生じ「状況追随思考」が広がっている。なぜ広がるのか。自分自身は何も変らないで、「新しい言葉」を語れば「それで状況が動く」と考え、「新しい制度」をつくれば「それで事態は変化する」と考えるからである。改革はいつの場合にも「主体」の問題である。
市民自治基本条例の制定手続
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
市民自治基本条例の制定手続  

 市民自治基本条例は自治体の憲法(のようなもの)だと説明される。
ところが、現在制定されている自治基本条例の殆どは「代表権限を信託された」首長と議会が制定している。「代表権限を信託した」住民は事後に広報などで知らされている。案文作成の段階での公募市民の参加は「市民参加のアリバイづくり」である。
このような制定方式で「自治体の憲法」をつくることが出来るであろうか。
「行政内決裁と議会議決」で自治基本条例をつくるという考え方は、「制度主体」が「自治主体」である市民を「そっちのけ」にして「自治体の憲法」をつくるということである。これは、統治行政のやり方と同じである。「官治の憲法」であって「市民自治の憲法」ではない。

「住民投票は必要でない」とする理由
 市民自治基本条例の制定手続に「住民投票は必要でない」とする理由は、推測であるが、次の三つであろう。
一つ目の理由は議会の意向であろう。多くの議員は「基本条例の制定」そのものに不賛成である。「議会が正常に運営されているのに基本条例がなぜ必要なのか」「最高規範条例とは議会権限の上位ということか、それは議会の権限を弱めるものではないのか」「住民投票は住民代表議会への介入・干渉ではないのか」などの議会の意向である。
二つ目の理由は首長の考え方である。「基本条例の制定が目的」になっているからである。「議会の決議」さえあれば「面倒な住民投票」をやることはない。議会も住民投票には不賛成であろう。住民には広報やホームページで知らせばよいのだ。何よりも重要なのは、新聞・テレビで「基本条例の制定」が報道されることである。
三つ目は学者である。「制度をつくれば一歩前進だ」「住民投票をやるとなれば時間もかかる」「住民投票は理想論だ」「住民は市民自治基本条例への関心は低い、理解も難しいだろう」「住民投票が必要だと主張するのは自治原理主義者だ」であろう。  
現在、流行のように制定されている基本条例は、市民の「承認・合意」は「必ずしも必要ではない」との見解での制定である。北海道ニセコ町の安直な考え方(条例制定が目的)が悪しき前例になっているのであろう。さらにまた、「まちづくり基本条例」と「自治基本条例」との違いを認識せず「曖昧に混同」したままでの「最高条例の制定」である。
そして、日頃は市民自治を唱える学者も「制度をつくれば一歩前進だ」と加担しての制定である。しかしながら、自治制度は定着し機能しなければ意味がないではないか。

自治基本条例の必要理由
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
自治基本条例の必要理由
1 全国各地で「市民自治基本条例の制定」
パソコンで「自治基本条例」と記入し検索すればその動向に驚くであろう。そこに共通しているのは、市民と力を合わせて住み心地の良いまちを作ろうとする先進自治体の姿勢である。 
65年前、「天皇主権・国家主権」の憲法を「国民主権」の憲法に改めた。だが、マッカーサーの占領政策が「間接統治」であったために「内務官僚の思想」は殆んど無傷で温存された。地方行政関係者にも「国家官僚への平伏心理」と「権威的な統治思想」は保持され今日に至っている。しかしながら、65年を経過した今、自治体に「国家の地方団体」から「市民の自治政府」へと自らを脱皮成熟させる蠢きが生じてきた。それが「自治基本条例制定」の動向である。

2 市民自治の規範論理
自治基本条例とは、「市民自治の理念」を明示し「自治体運営の原則」を定める「自治体の最高規範」である。 
「市民自治」とは何か。首長と議会の代表権限は市民が信託した権限である。したがって、首長・議会が信託に背反したときには「市民の信託解除権」の発動となる。すなわち「解職請求」と「選挙」である。選挙は信頼委託契約であって白紙委任ではない。これが「市民自治の規範論理」である。ところがしかし、首長・議員にも、行政職員にも、そして住民にも、旧来の「統治思想」が根強く染み付いている。例えば、選挙のときの演説・発言は民主主義であるが本心は「権威主義」で「白紙委任の如き」行動心理である。役所の文書は市民自治的になったが、行政職員は役所内部では上下意識であり住民客体の統治行政である。住民の側にも権威従属意識が根強く残存し自治意識は劣弱である。 
すなわち、明治憲法的な統治思想が根強く残存している。自治基本条例を制定する目的は、「明治憲法的価値観」を払拭して「現行憲法の民主主義の価値観」を自治体運営に徹底するためである。憲法原理は市民自治であるのだが、現状況は統治支配である。だから、「市民自治を明示した最高条例」が必要なのだ。
「自治体運営の原則」とは「市民参画、情報共有、説明責任、法令の自主解釈など」である。先進条例を参考にして地域実情に即して定めればよい。
問題は市民がその基本条例を「最高条例」として受け入れるか否かである。

3 最高条例の規範意識
案を作文し議会決議すれば「自治基本条例」ができたと言えるのか。
市民の心に「自分たちがつくった最高条例なのだ」の「規範意識」が伴わなければ「市民自治基本条例」とは言えない。
1970年代以降「自治体理論」「政策形成力」「自治制度の整備」は画期的と言ってよいほどの進展を遂げた。だがしかし、当事者の意識と行動は殆ど変っていない。「自治制度」は作られても「市民と政治・行政の関係」は変わっていない。これらを強めて言えば屍累々である。
市民の心の内に「最高条例の規範意識」を醸成せずして何が最高条例なのか。
全国各地の情況を観察すれば、「最高条例の規範意識」の醸成を逆に避ける安直思考が漂っているように見える。基本条例の策定が目的になっている。
例えば、首長の次期改選期に合わせた作成日程、あるいは、首長のお飾りのための基本条例づくり。そこには「市民と政治・行政の関係」を変革せんとする志しは見えない。
「最高条例の規範意識」を醸成する才覚・工夫なき「自治基本条例の制定」は作文行為である。「最高規範の意識」を地域に醸成する工夫と実践が「自治制度創設」の営為であるのだ。それが策定市民会議の責務である。
              
新憲法の制定と自治基本条例
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
新憲法制定と自治基本条例                               
現在の日本には、中央に「新憲法制定」を政権公約に掲げる首相がいて、地方には「自治基本条例の制定」が流行っている。
両者は共に「危うい」のではあるまいか。
「新憲法の制定」は、アメリカから要求されている「九条改定」を「解釈改憲」では間に合わなくなったからであろう。古来、権力者の「美しい言葉」は危険の兆候である。「美しい日本」も「危うい」であろう。
その日程は、教育基本法改定、共謀罪、憲法改定の実績づくりである。

小泉首相が八月十五日に靖国参拝をした直後に行なわれた「NHKのスタジオ討論」で、これからの外交で「中国をライバルと見るか」それとも「中国をパートナーと考えるか」についての、携帯メールでの「視聴者応答」は「中国はライバル」が多数であった。特に二十歳代は大幅に多数であった。
 スタジオでは、二十歳の女子学生が海外留学の体験を語った。韓国と中国の学友との会話で「近代史を知らなすぎる」と指摘され「中国に反感をもった」と述べた。別の番組でも、ハーバード大学に留学した男子学生が同室の韓国学友との会話で「知らない近代史」の体験を語っていた。
哀れなほどに日本の若者は「自国の近代史を知らない」のである。「知らない」のは「二十代の若者」だけではない。三十代も、四十代の人たちも「教えられていない」のである。長年に亘り中学・高校で「近・現代史」を教えなかったのである。それは「教科書検定」だけではない。「授業日程」が「近・現代の前」で卒業になるように仕組まれているのである。 
「教えない」は「保守政党と文部官僚」の長年の戦略であったのだ。今、ボクシングのボデーブローのように、その「効果」が現れているのである。

「状況追随思考」が社会に蔓延するのは「社会を全体的に考察する座標軸」が見えないからである。かつては、トータルに社会を眺めて批判する社会主義の思想が存在した。現在は争点が無くなったと言われる。無くなったのではない。見えていないのである。
かつての対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「統治」に対する「自治」である。「国家統治の中央支配」に対抗する「市民自治の実践」である。
憲法は「権力に枠を定める最高法規」である。この自明とも言うべき近代立憲制の原則に対して、憲法は「国民に義務を定める」ものでもあると「二世・三世議員」が中央で言い募っている。
地方では「市民自治基本条例」が流行っている。良いことではあるのだが、代表権限を信託された「首長と議会」が制定する方式での流行である。
代表権限を信託した市民の「承認・合意」は「必ずしも必要ではない」との見解での流行である。市民は「そっちのけ」である。最高規範意識は「市民」には「必要なし」と言い募っての流行である。
「まちづくり基本条例」と「市民自治基本条例」との違いも「曖昧に混同」しての「最高条例の制定」である。「制度をつくれば一歩前進」と学者も加担しての流行である。

そもそも「自治基本条例を制定する目的」は何か。
二元代表民主制度を正常に運営機能させるためである。
制定権者は代表権限を信託する「市民」である。
基本条例の名宛人は代表権限を託された「首長と議会」である。
① 市民は社会を管理するために首長と議会に代表権限を信託する。信託は白紙委任でない。
② 市民は自治体政府を市民活動によって日常的に制御する。住民投票は政府制御の一つである。
③ 市民は代表権限の運営が信頼委託を著しく逸脱したときには信託解除権を発動する。解職(リコール)、選挙である。
この「市民自治の理念」を明示し「自治体運営の原則」を定めるのが「市民自治基本条例」である。
只今、流行中の「自治基本条例」は「危うい」のではないか。何がなぜ危ういか。新憲法制定を支持する人々の思考と同根ではないか。
                             

2 自治基本条例
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
2 自治基本条例

自治体学の二十年を考察する論点の第一は「市民自治基本条例」である。

(1) 自治体改革

自治体改革とは「地方公共団体」を「自治体」に変革することである。改革はいつの場合にも「主体変革」の問題である。自治体改革は「実践概念」であって、解説的な「認識概念」ではない。

「自治体理論」「政策形成力」「市民自治制度」は進展した。

だが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっているのではあるまいか。  

情報公開条例、環境アセスメント条例、住民投票条例、パブリックコメント制度、オンブズパーソン制度、政策評価制度、そして自治基本条例を制定する自治体が増えている。画期的な展開である。

だがしかし、「行政内で起案し決裁し議会で議決すれば」それで「政策評価」や「自治基本条例」などの「市民自治の制度」ができたと考えるのは「安直思考」の「便宜態度」である。

現在の状況は「統治行政を変革せず」して「自治制度の創設」を競っているかの如くである。

制度は定着し機能しなければ意味がないではないか。

(2) 「自治制度」と「行政文化」

首長が「自治制度の創設はゴールではなくスタートであります」と挨拶する。だが、挨拶した後は従来行政に戻る。「ゴールではありません」と「わけしり顔」に言うのだが、「制度定着を阻む障害」が何であるかは分かっていない。だから「政策策定と政策実行の実態」は変らない。「自治制度」は既存行政に取り込まれて「人畜無害の制度」に形骸化する。

「制度定着を阻む障碍」が見えないのは、自治体改革を「自身の問題」として考えたことがないからである。自分自身のことは常に「考察の対象外」である。「現在の自分のまま」で自治体改革が可能だと考えるのである。

しかしながら「自治制度」と「行政文化」は異質である。

行政文化とは、長い歳月によって行政内に堆積した慣例・手続き・手順・流儀・作法である。職業倫理観・住民観も行政文化である。

それらの行政文化が自治制度を形骸化し無為化するのである。

であるから行政文化の革新が不可欠であるのだ。

80年代に潮流となって自治体に広がった文化行政は「今の行政のままでは文化行政にならない」と自己認識し、文化行政を「自己革新した市民と行政職員との協働の営為である」と定義した。そして、「行政文化の自己革新」を「行政の文化化」という言葉で表現し、「自己革新した主体の協力」を「協働」という言葉で表現した。いずれも主体変革を孕んだ造語である。コラブレーションの翻訳語などではないのである。

(3) 自治体理論と自治基本条例

自治体理論とは住んでいる人々が公共社会の主体であり、公共社会を管理するのは「市民」であると考える理論である。

市民自治とは

1. 市民は社会を管理するために代表権限を信託して政府をつくる。信託は白

紙委任ではない。首長と議会は市民から信託された代表権限の範囲内で権限を行使する。

② 市民は政府を市民活動によって日常的に制御する。住民投票は政府制御の一つである。

③ 市民は、政府の代表権限の運営が信頼委託を著しく逸脱したとき信託解除権を発動する。解職(リコール)または選挙である

自治体理論は松下圭一教授が40年にわたって創り続けている理論である。

「行政内決裁」と「議会議決」で「自治基本条例」が制定できると考えるのは、「制度主体」が「自治主体」である市民を「そっちのけ」にして「自治体の憲法」をつくるということである。

それは「統治」であって「市民自治」ではない。

そもそも「市民自治基本条例を制定する目的」は何であるのか。

代表民主制度を正常に運営し機能させるためである。

制定権者は代表権限を信託する「自治主体の市民」である。基本条例の名宛人は代表権限を託された首長と議会である。

代表権限の運営を逸脱させないために「運営の公開・透明性」「政策情報の公開・共有」「説明責任」などの原則を定めるのである。

なぜ、代表権限を信託する「自治主体の市民」の「合意・決裁」の手続きを避けるのか。「住民投票は理想論である」などと言うその真意は何か。

住民投票を忌避するのは、「基本条例の制定ができなくなる」と考えるからであろう。それは「自治の困難を避ける安直思考」である。

才覚を働かせ工夫し実践するべきは「最高条例の規範意識」を地域に如何にして創り出すかである。その工夫と実践が市民自治の実践であるのだ。

「制度を作れば一歩前進である」と考えるのは「死屍累々の過ぎし二十年」を顧みず学ばない「不誠実思考」である。 

なぜに、住民の自治意識の高まりを「望まず」「軽視する」のか。

「住民合意・住民決裁」を避けて「最高規範の制定」を論ずる人々は「市民自治」の規範論理を透徹しない思考態度である。

「最高条例の規範意識」を地域に醸成する「工夫と実践」なくして、何が「最高条例」であるのか。

(4)最高規範性

自治基本条例は「自治体の憲法」であって「中央政府の法律」にも優越するのだと主張する。だが、言うだけでは説得力はない。その論者が「そう言っているだけ」のことである。その主張を担保する規範意識が地域社会に生じていないからである。

条例文言に「この条例に反する条例や規則を制定してはならない」と規定しても「最高規範性」は生じない。

言葉は自治的であっても住民蔑視の「内務官僚の牧民観」と異ならない。

「最高条例の規範意識」を地域に醸成する工夫と実践が「自治制度創設」の営為である。その営為が市民自治である。

自治制度の創設は現状変革の実践であるのだ。そして、その実践が「行政文化」を革新し、「住民」が「市民」へと自己革新し、「行政と住民との関係」を変革するのである。

「理論認識」と「実践認識」は相関しなければならない。

七十年代ならばともかく、現在は「制度が出来れば一歩前進だ」ではないのである。自治体理論が広がり、政策形成力が高まり、市民自治制度は装備されたが「主体鈍磨」と「状況追随思考」が広がっている。

なぜ広がるのか。自分自身は何も変らないで「新しい制度」をつくれば「それで事態が動く」と考えるからである。一種のエリート意識である。

改革はいつの場合にも「主体変革の問題」である。「自身の変革」を「考察の外」におくから「主体鈍磨」になるのである。

「状況追随思考」は「思考の座標軸」が定まっていないからである。

「市民自治の規範論理」を透徹しないから「思考の座標軸」が揺らぐのである。

(5) 市民自治基本条例の論点         

(A) 市民自治基本条例とは

  ・「憲法のようなもの」の意味は何か

  ・その効力はいずこより生じるのか

・その根拠は何か

(B) 基本条例を制定する理由

・なぜ必要なのか

・分かり易い説明 - 独りよがりの抽象説明でなく

3. 何を書いておくのか ― 抽象文言は殆ど無意味

(a) 市民自治の理念を明示する

ア 市民が代表権限を信託する

イ 市民が代表権限を制御する

ウ 市民が信託解除権を発動する

(b)自治体運営の原則を定める

● 行政運営の原則   

ア 政策情報の公開と共有

イ 説明責任

ウ 財政・財務の公表

  エ 総合計画策定への参画

  オ 政策評価制度 

● 議会運営の原則

ア 公開性・透明性

   イ 議会運営への市民参加

ウ 提案者の反問権

   エ 常任委員会の議案提出権

   オ 議長の議会召集権

   ● 法令の自主解釈権 

   ● 住民投票手続き

(D) 最高規範性

   条例に最高規範と書けば「最高条例の効力」が生じるか

(E) 基本条例の制定権者

(F) 基本条例の主たる名宛人

(G) 制定に消極的な人々のホンネ論理は

1. 議員
2. 首長
3. 行政の管理職
4. 市民が基本条例の制定に関心が低いのはなぜか

(H) 市民自治基本条例と代表民主制度

1. 市民自治の理論
2. 政府信託の理論
3. 代表民主制度と住民投票

(I) 制定手続

住民合意・住民決裁としての住民投票を避ける真の理由は何か

(J) 基本条例に反する 

(ア) 条例、規則 が制定されたとき

(イ) 行政運営、議会運営が行なわれたとき
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