■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
自治体学会の運営
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
  自治体学会の運営
 
1 自治体学会の現状    
 1986年5月23日、「自治体学会」が横浜で誕生した。
 近代日本の夜明けを象徴する横浜開港記念会館で「発起人会議」と「設立総会」を開いた。発起人会議には135人、設立総会には620人が出席した。
 出席者の顔触れは、自治体職員、市民、学者、シンクタンク職員、コンサルタント、ジャーナリスト、団体役員、自治体首長など、 およそ学会の設立総会とは思えないほどに多彩な顔触れであった。発起人会議の提案で「自治体学の創造と研鑽」を会則第2条に定めた。

 ・自治体学会は設立時の理念を保持しているであろうか。
 ・自治体学の研鑽を継続しているであろうか。
 ・会員数は増えているか。魅力を失ってはいないか。
 ・会費は自治体職員中心の学会として妥当な額であろうか。
 ・全国大会の参会者は充実感に満ちて帰途についているか。
 ・同窓会的な状況になってはいないか

2 運営委員会
 運営委員会は会員の理論水準を高める「研究討論会」と「政策シンポジゥム」を適格に企画し開催しているであろうか。
例えば、
1 北国のある自治体学会の運営委員会で、「原発問題を次回政策シンポのテーマに」と運営委員が提案した。代表委員が「それは政治問題だから」「重たい問題であるから」と消極意見を表明した。他の運営委員は沈黙した。「原発問題は政策シンポのテーマ」にならなかった。
 
なぜ他の運営委員は沈黙したのか。代表委員が消極意見を述べたからか。それとも代表委員と同じ考えであったからなのか。運営委員会に自由闊達の雰囲気が消失しているのではあるまいか。   

 「原発問題」は現在日本の最大の問題である。「原発は国のエネルギー政策の問題であって自治体の問題ではない」との見解表明がよくなされる。だがそれは(原子力村の人たちの)意図的言説である。現に何万人という人が自宅に帰れない深刻な地域問題であるのだ。自治体の政策問題である。

 自治体学会は研究団体である。運動団体ではない。運動団体ではないが自治体学会は会員それぞれが「自身の思考の座標軸」をより確かなものにする場である。「沖縄問題」と「原発問題」は、現在日本の最大の政策問題である。最大の政策問題について会員が自由率直な政策意見を交流しないなら自治体学会ではない。運営委員会の役割は自由闊達な研究討論の場を設営することである。「政治問題だから」の理由で政策討論を避けるのは正当な運営委員会ではない。

 避けるのは(もしかして)代表委員が「行政当局によく思われたいから」の私心が働いたからかもしれない。とすれば自治体学会の代表委員としてはまことにふさわしくない。とかくに任期を重ねた長期在任の代表委員にはその傾向がありがちである。その傾向とは「自治体学会の在り方」よりも「自分に対する行政当局の評価」を優先する傾向である。 
 
 因みに、この自治体学会は会員相互の情報共有に必要な「メーリング」を中断しており、再開を求める会員の声も封じているとのことである。そして運営委員会のメーリングも会員は見ることができない。運営を「会員に知られたくない」ということである。そのためか「会費未納会員」が増えているとのことである。
 全国の自治体学会にも(運営委員会と代表委員に)同様の問題が生じているのではあるまいか。

2 交付税削減の兵糧攻で市町村合併が促進されたとき、「長と議会の合併決定」に対して、「住民の意思を聴いてからにせよ」と「住民投票条例制定を求める署名運動」が全国各地に起きた。この署名運動を「代表民主制度への問題提起」と見るか、「代表民主制度への介入」と考えるか、代表民主制度の重要論点であった)。
 
 このとき、学者会員の多くは「合併促進の側の委員」に就任した。そして「私は合併には中立です」と言明した。「特例債と兵糧攻」で3200の市町村が1700に減少したのである。
 自治体学会が、公開の「研究討論会」を企画開催したならば、あるいは「合併は何であったのか」の検証討論会を開催するならば、自治体学会の存在意味が高まったであろう。

3.自治基本条例の制定が全国に広がった。地方分権が現実化し始めた証左である。だが 「制定手続き」をめぐって見解が分かれている。基本条例制定手続の「見解の違い」をテーマにした「公開研究討論会」を開催するならば、自治体学会の求心力は高まったであろう。 

 自治体学会の活力源泉は自由闊達な論議にある。
 自治体学会の活力低下は運営委員会の問題意識に因があるのではあるまいか。   


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自治体の政策研究ー「政策研究」のことば
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
 自治体の政策研究ー「政策研究の用語」の由来

北海道自治体学土曜講座(2016-第五回)が2016年10月22日、「自治体活力を取り戻す」をテーマに北海学園大学で開催された。
開催趣旨は、
機関委任事務を廃止した地方分権改革は進展したであろうか。
首長と議員と職員のまちづくり能力は高まっているか、
職員は「自治体職員」から「地方公務員」に後戻りしたのではあるまいか、
議会は何をやっているのか分からないから「議会不信」が広がり「議会不要論」の声さえも生じている。自治体活力は後退しているのではあるまいか。
 現状打開の道筋を見出すため首長と議員と職員と研究者が討論した。討論者の氏名は(注1)

討論の柱は二つであった。
 一つは、自治体活力を高めるには何が必要か
 二つは、議会不信を解消する方策は何か
  (二つ目の論点は、時事通信社「地方行政」2017年2月2日号に記述した)

一 自治体活力
自治体職員の政策能力 
仕事をするのは職員である。
自治体活力を高めるには職員の政策能力が不可欠である。
政策能力とは担当する職務の「何が問題か」を考える能力である。考えて「どう改めるか」を思案し実行する能力である。
その政策能力は如何にすれば身に附くか。

職員を先進地域に派遣して交流体験をさせて政策能力を高めている首長もいる。先進地域との交流体験は重要である。だが、派遣され交流しても、自分自身の内部に問題意識が無ければ「触発のヒラメキ」は生じない。事例を「知っている」だけである。「知っている」と「分かった」との間には大きな距離がある。

90年代の自治体職員には熱気があった。1995年に開始した北海道自治土曜講座の二年目には872人の職員・議員・市民が「政策能力の向上」を目ざして受講した。その経緯を『北海道土曜講座の16年(公人の友社)』25頁に詳述した。
自治体活力が低下したのは、2001年の小泉構造改革が兵糧攻めで合併促進を強要したからである。そして今、職員は「自治体職員」から「地方公務員」に後戻りして意見を述べなくなっている。

しかしながら、職員の政策発言が低下したのは自治体だけではない。NHKを筆頭に新聞もテレビも政権批判を自己抑制して社会全体が保守的・保身的になっているのである。 
以下、自治体活力を展望するため80年代の熱気の高まりを検証する。

二 自治体職員の政策研究
1 政策研究の波
 1980年代に職員の政策研究が波となって広がった。この波は自治体が地方政府への転換を目指す胎動であった。  
戦後40年、ようやくにして自治体に省庁が定めた政策の「末端執行機関」の位置から、自前政策を策定し推進する「地方政府」へと転換するうごきが始まった。そのような「志」をもち自らの能力を高める自治体職員が全国各地に胎動しはじめた。即ち、自主的な研究グループが全国各地に叢生した。研究グループの数は全国で2.000とも3.000とも言われた。これらの研究グループは連絡をとり合い1984年5月、「全国交流集会」を東京中野サンプラザで開催した。

 政策研究は職員の自主研究だけではない。
  政策研究の「組織と制度」を設置する自治体が増えていた。
例えば、政策研究室(愛媛)、政策研究班(福井)、職員研修所を拡充して研究部の設置(神奈川)、地域独自の政策課題を調査し解決方策を探求するシンクタンクの設立(静岡、埼玉)も増えた。大学や市民団体と連携して地域課題を研究するうごきも始まった(兵庫、東京三多摩)。さらには「政策情報の交流」と「研究成果の発表」のための「研究誌」を発刊する自治体も増加した(神奈川、兵庫、徳島、埼玉)。政策研究の「制度」は新設していないが、多くの自治体で組織を見直すうごきが始まっていた。

1984年7月、(社)行財政制度調査会が実施した「政策研究の動向調査」によれば、全都道府県を含む175の調査対象自治体のうち、155の自治体(89%)がなんらかの形態で政策研究を始めていた。
①自治体が直面している課題の解決方策を見出すためのプロジエクト研究は128団体(73%)、②職員による研究チーム制度を設けた自治体は23(22%)、③政策研究のための専任組織を設置したもの19(11%)、④外部のシンクタンクとの提携をはかっているもの75(43%)、⑤職員の自主研究グループを奨励し支援しているもの67(38%)、⑥その他の形態で政策研究をすすめているもの64(37%)となっていた。(重複回答)。
そして、調査票に付記された意見には、自治体をとりまく環境条件の変化に対応するために「自治体独自の政策研究の必要性が高まっている」「従来の外部委託のあり方を見直す必要がある」と指摘していた。

三 政策研究の概念
1  政策研究
政策研究とはどのようなことであろうか。
一見ありふれた言葉である。だが自治体に「政策研究」という言葉の用法はなかった。「調査研究」の言葉はあったが「政策研究」の用語は無かった。「政策」の言葉も使われていなかった。使われなかったのは「政策を自ら策定する」の観念が乏しかったからである。「政策」は中央省庁が策定するもの、地方公共団体は中央から下降してくる政策を執行する、の考え方に馴らされていたのである。
しかしながら、政策とは「課題」と「方策」をセットにした「政府の指針」である。「政策を策定する」の言葉には「政策課題」と「実現方策」を主体的に選択する「政府の思想」が含意されているのである。「政策策定の観念」が希薄であるというのは「政策の主体」つまり「政府の思想」が欠落していたということである。

だから「政策」と言わずに「施策」とか「事務事業」と言っていたのである。だが80年代の後半に、都市政策室、産業政策課、政策推進室など、室・課の名前に政策のことばを使う自治体がふえた。それは「他治体」から「自治体」への転換がはじまったことを意味していた。だが「政策研究」の用語はなかった。

 省庁では「政策」は目常用語である。政策づくりが省庁官僚のしごとである。だが彼等もまた「政策研究」とは言わない。「研究」は実力のない者がやることであって「俺たちは政策そのものをやっているのだ」である。政策の研究は現実の問題処理に直接関係のない人がやることだと思っていたであろう。
  しからば、波となって高まった自治体の政策研究をどう定義すればよいのか。

2 行政学の「政策研究」 
 行政学に「Policy Studies」つまり「特定政策の実証研究」の用語がある。
だが、それでは、「自治体の政策研究」は「特定政策を対象にした事後的な実証的分析的な研究」の意味になる。事実として、行政学者は研修所などで自治体の政策研究とは「政策の調査研究のことである」と意味不明な説明をしていた。そして内心では(地方公務員がなぜ政策研究をするのだろうか)と思っていた。

1987年6月、徳島で第一回自治体学会を開催したときのことである。帰途、徳島空港の待合室で人事院の研修担当官に声をかけられた。「私は府県の研修所から(自治体職員の政策研究のテーマ)で講師を依頼されているのですが、地方公務員に(政策研究の研修)がなぜ必要なのか理解できないで困っているのです」「なぜですか」と尋ねられた。
そしてまた、そのころ自治体問題の第一人者であると自負していた東京大学の0教授は、有斐閣の法律実務セミナーに「吾々学者には政策研究は珍しい言葉ではない。アメリカには「Policy Studies」という学会もある。地方公務員が政策研究を始めたから話題になっているのである」と解説していた。
お二人には、地域に起きている「時代変革の意味」すなわち「自治体の政策自立への胎動」が理解できなかったのである。
 
しかしながら、自治体に始まった「政策課題研究」は、その内容に即して表現すれば、「政策研究」の語よりも「政策開発」あるいは「政策提案活動」の言葉の方が適切であった。それがなぜ「政策研究」という用語になったのか。
 ( この経緯を説明するため 私的叙述になることを了とされたい )

3 「政策研究」の言葉
1) 「政策研究」を自治体に広げる
筆者は1983年5月1日、神奈川県自治総合研究センター研究部長に赴任した。職務は「職員の研究活動」を盛んにすることであった。研究活動を盛んにするには「政策研究とは何か」を明晰にしなくてはならない。だが自治体に「政策」の用語は無かった。使われていたのは「事務事業」であった。「政策研究」ではなくて「調査研究」であった。「政策」は省庁の言葉だと思っていたからである。そこで「政策研究」の用語を自治体内に広げることを考えた。

 そのころ自治体を対象に刊行されていた月刊誌の編集長に電話をした。
 「自治体に政策研究の波が起きています」「特集されては如何ですか」「誌面企画に協力します」と提案した。
 月刊『晨』(1984年9月号)の「特集・政策研究へのプロローグ」が日本で最初の「自治体の政策研究特集」であった。
・巻頭対談「政策研究の意味と可能性」松下圭一・田村明
・自治体の政策研究の現状と課題   森 啓
・動き出した政策研究への大きな流れ 五十嵐富秀

続いて、『月刊・職員研修』も「自治体職員の政策研究」を特集した。 
 こうして「政策研究」が「旬の言葉」になり、自治省の自治大学校から「自治体の政策研究」の講演を依頼された。府県の研修所長が集まっていた。次のような話をした。
  神奈川県では「公務研修所」を「自治総合研究センター」に改組して「研究部」を新設しました。「職員の政策能力」を高めるには「政策研究」が必要であると考えたからです。政策研究が研修所の重要な役割になっていると思います、と話した。
  そして自治大学校の教務担当に、「政策研究の全国動向を調査されては如何ですか」と提案した。自治大学校から「政策研究の実態調査用紙」が届けば、回答を求められた自治体は「政策研究」が時代の潮流になっていると思うであろう。政策研究の言葉を広めるためである。

2) 自治体政策研究交流会議 
 政策研究への関心が高まって、全国各地から筆者の研究部に視察が来るようになった。この関心の高まりを「自治体の潮流」にするため、政策研究の「全国交流会議の開催」を考えた。
 所長も賛成して準備が進んでいたころ、所長室に呼ばれた。名称を「研究交流会議」にしてはどうかと言われた。「なぜですか」と訊くと、「地方公共団体が政策を言うのはどうだろうか」「神奈川県が偉そうなことを言っていることにもなるから」と言う。
 所長と研究部長の関係である。「ここで結論を出さないことにしなくては」と思った。「言われている意味は分かりますが、削ってしまうのもどうかと思います。考えてみます……」と言って所長室を出てきた。
  そして、研究部の人たちに「森研究部長は名称を変えると言っていたか」と、所長に訊かれたら、『知事に政策研究交流会議の名称が良いねと言われた』と言っていました、と答えるように頼んでおいた。 
 もとより知事と話をした訳ではないが、そのようなときには、知事の名前をよく使ったものである(自治体職員が何か意味あることをしたいと思ったときには「首長の意向である」と言うのがよい。選挙で出てきた首長は概ね現状変革を求めるものである。役所内で改革を遮るのは現状維持の管理職である。そして部課長は首長に「本当にそう言ったのですか」と尋ねないのである)。   
 
 「政策研究の言葉」を広めるための交流会議である。「政策」の言葉を削ることはできない。さりとて所長の意向を無視することもできない。そこで、懇意にしていた横浜市企画財政局都市科学研究室、川崎市企画調査部、埼玉県県民部自治文化振興課に赴いて「政策研究交流会議」の共同開催を提案した。「経費負担は不要、当日主催者の席に座していただく」ことで賛同を得た。共同開催であるから所長の一存で名称変更はできないことになった。
 
 こうして、全国への案内文書も、当日のパンフレットにも「自治体政策研究交流会議」と印刷した。「第一回自治体政策研究交流会議」と書いた看板も出した。そして、会場入口に次の「メッセージ」を張り出した。

  自治体に政策研究の波が高まっている。
  この波は、自治体が自立的な政策主体になった
  ことを示すものである。

  戦後四十年、いまや「政策の質」が問われ、
  自治体では総合的な観点からの政策研究が必然に
  なっている。

  自治体は現代社会の難問に挑み問題解決をはかる
  現場であり、仕事を通して議論をたたかわせる論壇
  である。

  自治体を舞台に「自治体学」の研究がすすみ、
  新しい理論が確立されることを
  「時代」と「地域社会」が求めている。

 参加者は立ち止まってこの「メッセージ」を読んでいた。カメラに写す人もいた。 
  1984年10月18日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で「第一回・自治体政策研究交流会議」を開催した。北海道から九州までの全国から、一四〇団体・三五二人の自治体職員と市民と研究者が参加した。この「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生したのである。
  政策研究交流会議から自治体学会が誕生するに至る経緯は『新自治体学入門』(時事通信社)第10章「自治体学会設立の経緯」に詳述した。第一回政策研究交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政(84年11月10日号)」と「地方自治通信(85年2月号)」に掲載されている。

3) 曖昧さと誤解
 「政策研究」の言葉には曖昧さと誤解が伴う。
 だがその曖昧さが大事であると考えた。
その意味は次のとおりである。
  科学技術が発達して都市的生活様式が全般化した。「前例のない公共課題」が噴出した。自治体はこれらを「政策課題と設定して解決方策を考案」しなければならない。ところが、当時の部課長は省庁政策への従属が習い性になっていたから「自治体の政策自立」が展望できない。前例なき公共課題を解決実現する政策を構想することができない。しかしそれでは、省庁政策の下請団体の位置から脱することはできない。

 「地方公共団体」が「自治体(地方政府)」に成熟するには「政策形成システム」を自治体内に構築しなければならない。そのシステムは「政策立案」の前段階に様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の営為を位置づけて「政策の質を高める」仕組みである。そして、「その仕組み」を部課長に容認させなければならない。 
   ところが、所管の業務に外から政策提案される(言われる)ことを極度に嫌がるのが部課長である。部課長が容認せざるを得ない状況にするには、様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の研究成果を多様に積み上げることである。
 だが、「政策開発」や「政策提案」と言えば部課長は一斉に嫌悪反発するから、当分の間は「政策研究」なる「曖昧なことば」を使いながら、「課題発見」と「方策開発」の成果物を自治体内に蓄積し慣行化することである。
  それが、やがては「政策研究」の言葉を「明晰な概念」にして「輝くイメージ」を有するに至らせるであろう、と考えた。

  かくして現在、「政策研究」の言葉は行政内文書の用語になり、著作や論文も多数刊行され、「政策研究の概念」が熟成し定着した。
 すなわち、
行政学の政策研究は「特定政策の実証的分析的な事後的研究」である。
自治体の政策研究は「課題を設定し解決方策を開発する創造的研究」である。
 「政策研究」なる用語の選択は正解であったと思う。 

(注)討論者
  高橋正夫(本別町長)  谷 一之(下川町長)
  池田達雄(北斗市議長) 田村英樹(京極町議長)
  三浦和枝(自治労北海道本部書記長)
神原 勝(北海道大名誉教授)
   〈司会者〉 森    啓(NPO法人自治体政策研究所理事長)


講座・松下圭一「政策型思考と政治」
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
追悼 松下圭一先生
 講座・松下圭一「政策型思考と政治」を読む  
                   [さっぽろ自由学校・遊」 

第一回 (2016-11-2)
・本書『政策型思考と政治』は著者の「市民政治理論」の基本書である。
・著者は、本文の扉に「政治景観は一変した。新しい政治状況には、新しい政治理論が必要である。本書は『分節政治』の構想、ついで『政策型思考』の定位にともなう、国家観念との別れの書である」と記している。
・政策型思考とは「解決するべき課題は何か」「解決実現の方策は何か」の考察である。これまでの政治理論は、政治現象を実証分析する事後的な説明理論であった。政策型政治理論は、未来を展望して現在に課題を見出し実現方策を考える実践理論である。

(第一章) 政治・政策と市民
 政治・政策の主体は市民である。国家ではない。
  ・政治とは 4p 2行
  ・政策とは 10p 
  ・市民とは  
  ・市民と住民の違い → (末尾に資料)
  ・国家とは

1) 都市型社会 の日常生活
 ・現代社会では、人々の生活は(政策・制度)の網の目の中で営まれる。
   (都市型社会の意味は第二章で説明される)
 ・人々の日常生活 - 朝起きてまず顔を洗う 4p  
・地域規模から地球規模までの政策・制度のネットワークが不可欠となる。5p
 
2) 政治化と組織・制御技術  
・政治(争点)の日常化・全般化によって公共課題が広がり、市民活動、企業・団体、政党が政策形成に参入し、
政府は①自治 体レベルの政府、②国レベルの政府、③国際機構レベルの政府に三分化 する。
これを(政治の多元化)、(政 府の重層化)と言う。
 ・政治は政策・制度ないし政府の選択をめぐる市民の組織・制   御の技術となる。
 ・都市型社会では、政治は「君主や国家の観念」と結びつく聖性  を失い(社会工学)となる。

3) 政策の定義とレベル  
・政策とは問題解決の手法
・公共課題・公共政策    10p
(1)個人の解決能力をこえる「問題領域」で
(2)資源の集中効果を発揮できる解決手法があって
(3)ミニマムの政策・制度保障として「市民合意」が得られる
  ・公共政策と政府政策の区別が重要  → 13p 図1-1    
・政治主体と制度主体
    市民が政治主体で、政府は制度主体である。
 (政府は市民から権限を信託された機構である)
(政治権力と言われているものは、天空からぶら下がっているのではない。
   ・政策は全て個人思考の産物である。団体や機構は思考しないのである。

4) 日本における政策研究
・政策研究とは (二つの意味がある)
政策の事後的調査研究  政策の模索形成開発
・明治体制はもちろん、戦後の1960年代まで、日本における政策研究は、市民レベルでの自立した問題領域になっていなかった。変革期の明治維新前後をのぞけば、1960年代まで、政策形成はオカミないし政府の特権とみなされてきた。その政府政策も欧米先発国モデルの政策輸入であった。
・そのうえ、戦前の日本では、支配中枢すら天皇制幻想に自己陶酔する現実ばなれであった。 14p~15p
・当然、社会科学の自立も困難であった。旧帝大教授らがつくった『註解日本国憲法』も「国体」「国家統治」の『帝国憲法』の微修正であった。
・現在も社会科学者は「政策自体の構想」ではなく「政策過程の実証」に留まっている。
・日本の政策型・制度型思考の熟成には「三つの失敗17p」の検証が必要である。
• 前提転換の失敗 (農村型社会から都市型社会への転換
• 主体設定の失敗 (国家ではなく 市民である。 国家統治ではなく市民自治  
• 思考方法の失敗 (事後的説明ではなく 模索開発の政策型思考 

・ようやく政治について‥‥  17p (末尾の三行)  

資料・市民と住民の違い
[市民]
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」である。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味である(注2)。 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語である。福沢諭吉が「社会を担う主体的な個人」の成熟を念願し期待して翻訳した言葉である。 シティズンは、近代イギリス市民革命の担い手で「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民社会の主体」である。
 福沢は「一身の独立なくしては」と唱え、自由と平等の精神を持つ自立した人間が開国日本に育つことを希求したのであろう。「シティズン」が有している自由と平等の考え方を導入しなければと考えたに違いない。 自己の才覚で利益も損失も判断していきいきと市(いち)で働く庶民こそが「シティズン」の訳語にふさわしいと考えたのであろう。「市民」(いちみん)と翻訳した。だが、福沢が期待をこめて翻訳した「市民」は使われなかった。
 明治政府は、皇帝が君臨していた後進国ドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」によって忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだ。臣民とは天皇の家来である。絶対服従の家来である。自立して社会を担う主体の観念はタブーであった。
 1945年の戦後も使われなかった。弾圧されていた社会主義の思想が甦り、「市民」は「所有者階級」と考えられたからである。使われた用語は「人民」であった。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と翻訳された。
 都市的生活様式が日本列島に全般化し地方分権たらざるを得ない1980年代に至って、ようやく、福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々」によるまちづくりの実践が全国に広がったからである。
 しかしながら、人間は誰しも自分が体験しないことは分からない。国家統治の官庁理論の人々には「住民」と「市民」の違いが分からない。
 行政機構の内側に身を置いて官庁理論でやってきた公務員には、市民運動の人達は目先利害で行動する身勝手な人たちに見えるのであろう。そしてまた、公共課題の解決のために地域の人達と連帯して行動し、感動を共有した体験のない学者や評論家は「合理主義・個人思想・人権革命の歴史を持たない日本では市民などはいないのだ」などと言うのである。
 近代市民革命の時の市民は「有産の名望家」であった。しかしながら、現代の「市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々である。
 都市型社会が成熟して、普通の人々が市民である条件が整ったのである。
 「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」である。

[住民]
 「住民」とは、村民、町民、市民、県民など、行政区割りに「住んでいる人」のことである。そして「住民」という言葉は、住民登録・住民台帳・住民税というように、行政の側から捉えた言葉である。
 行政が統治し支配する客体が「住民」である。住民は被治者で行政サービスの受益者である。「住民」という言葉には上下意識が染み付いている。その上下意識は住民の側にも根強く存続しているのである。
 長い間、行政法学は「行政」を優越的主体と理論構成した。そして「住民」は行政執行の客体で被治者であった。「住民」という言葉には「自治主体」の観念は希薄である。そこで、「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存する(陰で不満を言う)人で、行政サ―ビスの受益者とされる人である。
 「市民」は、公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人。政策の策定と実行で自治体職員と協働することもできる人である。しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉である。理性がつくった概念である。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しない。
 実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在である。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのである。
 都市型社会が成熟して、生活が平準化し政治参加が日常化して、福沢の「市民」は甦ったのである。


講座・松下圭一「ロック『市民政府論』を読む」 (第五回)
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
講座・松下圭一「ロック『市民政府論』を読む」
 第五回 (最終回) 《官治集権》の日本とロック (岩波現代文庫版あとがき)

Ⅰテキストを読んで考える 
268p 「もし、日本国憲法をめぐって‥‥

272p 「だが1959年、二十歳末の前述拙著『市民政治理論』の形成‥‥

278p 「だが、すでに、当時は‥‥

Ⅱ市民政府論―論点
1) 「個人」の設定(発想) は画期的なことであった。
 現在では「何のこともない当然なこと」であるが、当時は身分社会・宗教社会の共同体の秩序社会であって、「自由な個人」の発想は無かった。

2) 市民政府信託論
個人の合意 (社会契約) で「市民社会」をつくり、基本権を守るため「政府」をつくり権限を信託する。政府権限は人々が信託した権限であるから信託違反には「信託解除となる。

3) 市民政治 市民政府 
 市民が政治主体である。(国家ではない)
 市民かけ政府を構築(つくり)して「政府」に権限を信託して(白紙委任ではない)、政府を日常的に制御する(批判と参画)。

4) 「国家観念」の擬制 「立憲君主制」
民主政治の後進国(ドイツ)は、君主政治(皇帝専制)を継続するため、「国家観念」を擬制し、偽憲法を制定して「立憲君主制」を主張した。いつの時代も「御用学者」が存在する。「国家観念」は擬制である。「国家三要素説」は団体概念(国民)と機構概念(統治権)をないまぜにした概念矛盾である。にも 拘わらず、日本では(現在も)「国家統
治」「国家三要素」が言説されている(言われている) なぜであろうか。
 

Ⅱ 論点を話し合う
1) なぜ、「国家」ではよくないのか (272p 1行目)
統治主体は「国家」ではない。「国家統治」ではない。「市民自治」である。 市民による「政府」の『構築・制御』である。
ロックは「統治」から「政府」へというかたちで「ガバメント」という言葉の用法の革命をおこなった‥‥

2) なぜ、「国家」を統治主体だとする「国家理論」が現在も続いているのか。
「国家」は擬制の観念であり、「国家三要素説」は論理矛盾である。 なぜ、良識ある(と思われる)学者までもが「国家理論」を講義するのか

3) 理論の普遍性
理論は、時々刻々に発生し到来する(具体場面で問題を)思考の座標軸を見定め、決断と実行を導く。

講座・松下圭一「ロック『市民政府論』を読む」(第三回)  
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
   講座・松下圭一「ロック『市民政府論』を読む」  
    第三回 (第六章・政治理論を現代へ)

(1節) 市民政治理論の構造転換         
 ロックの「市民社会」は、市民が(社会契約)で「社会」を形成し、基本権(固有券)を守るために「政府」をつくって権限を信託する『公共社会』である。 
1) その「市民社会」が、工業技術の発達進展によって「大衆社会」に変容する。さらに工業化・情報化が進展して「工業文明的生活様式」が (都市地域だけでなく農村・漁村・山村地域にも) 全般化して「都市型社会」に変容する。「都市型社会」は、農業人口が30%を切って成立、10%を切って成熟  
2) 大衆社会 
五千年来続いた農業社会(第一次産業社会)が、工業技術の発達によって、工業社会(第二次製造業)になり、情報技術の開発進展で情報産業社会(第三次産業)になる。これまで「個人」をつないでいた「共同体・身分」が崩壊し、社会を管理する官僚機
構が肥大して(大衆社会)となる。大衆社会(マス・ソサエテイ)の語は、マンハイムが造語して(現代社会の基本用語)になった。 
3) 大衆社会論争(1950年代)
大量生産・大量消費・大量情報の社会では「生活様式が平準化」し「生活意識も平準化」して、人々は賃金生活者になり官僚機構に管理され操作される対象(大衆)になる。つまり、体制外存在であった労働者階級は「生産の社会化・労働の商品化」によって(新
たに生じてきた新中間層を含めて)体制内存在としての「大衆」になる。

(2節) 19世紀ヨーロッパの思想状況
1) 「歴史」からの批判 
フランス革命の反動として展開された「反啓蒙の思想運動」が「ロックの(理性市民)は啓蒙哲学の理性である」と批判した。それは「後発型ドイツ」の国家理論(立憲君主制)であった。このドイツ理論を伊藤博文が日本に持ち帰り「天皇(官僚)統治の国家理論」として正統化して現在に至っている。
2)「階級」からの批判 
  市民社会内部に「階層分裂」→ ブルジョアジー対プロレタリアート
  ・ブルードン  ・ジョン・スチャート・ミル  
  ・カール・マルクス ― マルクスは「市民社会」主義者 
  何れもロック理論の枠内での論議であった
[論点]
マルクス理論の影響が (ドイツ・日本) (ロシア・中国)でなぜ強かったのか。 
・マルクスの予測 外れた  237頁
・マルクスは「革命」(窮乏化論―歴史の必然)
・ウエーバーは「官僚機構」

・「現代の問題」  (資本主義国も社会主義国も膨大な官僚機構を形成)  
   官僚機構が必要であるかぎり‥‥  238頁

(3節) 社会の平準化 政治の分節化   
1) 大衆社会(都市型社会)では、工業化―大量生産技術・大量伝達技術で、殆どの人々が賃金生活者になって官僚機構に管理操作される対象(大衆)になる。
2) 大衆社会では官僚機構がなければ生産から生活まで維持できない。 
都市型社会では「所得」だけでなく、「シビルミニマム」の公共整備が不可欠。 
シビルミニマムの整備とは「社会保障(福祉政策)・社会資本(都市政策)・社会保健(環境政策)」

[論点]
 なぜ「シビルミニマム」の公共整備が不可欠必要なのか
 都市型社会-前例なき公共課題が噴出する
 大気汚染 河川汚濁 温暖化 都市景観 緑地減少 都市砂漠  幸福追求権 生存権 現代的貧困
公共課題の三分類
政府三分化  
  国際社会で基準を約定して解決  世界政治機構     
  全国レベルでの解決       中央政府 
  地域ごとに解決         地方政府―自治体政府 
都市型社会の「新しい可能性」
・市民の成熟条件 (246頁)  教養と余暇の平準化 政治訓練の蓄積  
・分節政治理論 (247頁) 新たな可能性を追求するシクミ(自治・共和の制度)
・分節政治理論の課題 (250頁)    自治分権型政治体制の創出 241頁

(4節) ロック理論の今日的意義  251頁
1) 市民を(人間型)として定型化した=(提起して説明した)。
2) 社会(=市民)と政府を区別する二層論を提起した。
3) 政府理論を構成した
政府正統論―市民合意による政府の創出
政府機構論―政府は市民が基本権を守る権限を信託した機構(道具)
政府変動論―市民は政府が信託(契約)に反するときは交代させる(信託解除権の発動)  
[さっぽろ自由学校・遊」2016-8-3]
憲法学者の思考論理
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
   憲法学者の追随思考

 朝日新聞(2016-5-24.)11頁(オピニオン欄)「砂川判決の呪縛」掲載の南野森(九州大学教授)の所見を読み「このような思考論理の学者が増えているのだ」とまことに残念に思った。
  南野氏は憲法学者であるのだが「裁判所の違憲審査権」を重大視しない。いとも簡易にスルーする現状追随型の思考論理である。その論理は「前段に尤もらしいことを書き、後段で現状を是認する」思考論理である。
 例えば、『いま、目的のためなら、長年積み上げてきた法の論理でも踏みにじろうとする傾向が顕著です。法の秩序を保ち、法の支配を安定させるには、為政者に憲法を守らせ、司法の判断を尊重させなければなりません』と尤もらしく書く。だが後段で、『でも最高裁には後ろ盾もなく思い切った決断をしづらい、最高裁が(憲法の番人)として振る舞うことはできないのです』と書く。
 これが憲法学者南野氏の所見である。(詳細は朝日新聞(2016-5-24.) をご覧あれ)
 昨今の現状追随思考の蔓延は身分保障ある大学教師にも及んでいるのだ。
 他のお二人(吉永満夫氏、春名幹男氏)のご所見は「まことになるほど」である。
 オピニオン欄編集者は「朝日新聞偏向」の批判を避けるため、執筆依頼の配慮をしたのであろうか。それにしても憲法学者の驚きの所見である。

オバマ大統領の迎え方
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
塩野七生さんの「オバマ大統領の迎え方」に賛成
 
「静かに無言で大統領を迎え、静かに無言で送り出す」
「謝罪を求める声」も、「星条旗の小旗をふる歓声」も無い
もし私が日本の新聞の編集者だったら
『無言で立ち尽くす米国大統領オバマ』の写真一枚だけ
「頭を下げる姿の大統領は(もし、そうしたとしても) 絶対に載せない。
 それが日本の品位を高めます

         (朝日新聞(2016-5-25)16頁・インタビュー)
福島みずほ議員は貴重な本物の国会議員である。
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
 貴重な本物の国会議員
昨夕(2016-5-15) 札幌駅前で
福島みずほ(参議院議員)の街頭演説を聴いた。
現在日本が直面している政治課題を次々と熱情こめて語った。
心に響く演説であった。
福島議員は数少ない本物の国会議員である。
「積極的平和主義」は「積極的戦争主義」であると
国会質疑で安倍普三の正体を見破ったのも福島議員であった。
国会議員の知性と倫理が低下しているなかで福島議員は貴重な存在である。
環境・人権・女性・平和の四本柱政策を掲げて全国を巡っている。
 http://www.mizuhoto.org/ 参照
現代語訳で読む日本の憲法
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現代語訳で読む日本の憲法

朝日新聞(2016-5-12の13頁)はとても良かった。
翻訳家の柴田元幸さんの「現代語訳でよむ 日本の憲法」の紹介である。紹介の視点が良い。
例えば、憲法前文の出だしは「日本国民」であるが、柴田訳は「私たち日本の人びとは」で、主語は「私たち」である。
65条の「行政権は内閣に属する」は、柴田訳は「内閣には、法律に従い国政を執行する権限を与える」である。内閣に「権限を与える」存在が別にいる、つまり主権者(私たち)が与えるのである。これは「市民自治の政府信託理論」である。
1975年に岩波新書「市民自治の憲法理論」(松下圭一)が刊行されたとき、「国家統治の憲法学者」は誰一人反論できなかった。反論できないので「学会」をつくり「国家学理論」を(みんなで渡れば怖くない)と講義して現在に至っている。札幌「自由学校・遊」で
 「松下圭一『ロック・市民政府論を読む』を読む」(五回講座)を6月1日に開講する。

「現代語訳で読む日本の憲法」(アルク・刊)を
 池内紀さんが紹介しています。
 時宜に合ったとても良い紹介なので「紹介」します。

「戦後70年」の意味深い成果

 ほとんど知られていないことだが、日本国憲法は二つある。一つは日本語、もう一つは英語でつづられていて、ともに一九四六年十一月三日に公布された。

 「英語でつづられ」とくれば、すぐさまGHQ(連合国軍総司令部)作成の憲法草案をいわれそうだが、ちがうのだ。GHQ草案をたたき台にして日本国憲法が完成した。当時、日本はGHQ占領下にあり、官報は日本語と英語で出されていた。おのずと新憲法は英訳されて英文官報に載せられた。HIROHITO(天皇)につづいて吉田茂ほか、田中耕太郎、石橋湛山(たんざん)、金森(かなもり)徳次郎など、戦後の代表的な知性が英語のつづりで連署している。

 訳者が「はじめに」で述べている。

 「この本は、それを現代日本語に訳したものです」

 おおかたの人はアッケにとられるかもしれない。日本国憲法は現代日本語で書かれている。英訳されたものを日本語に訳すと、元の日本国憲法にもどるのではないのか?

 日本国憲法と「現代語訳日本の憲法」とは同じものだが、しかし違っている。たしかに日本国憲法に書かれているが、すぐには見えないものが現代語訳を通して見えてくる。ひそかに隠されたかもしれないものが明るみに出てくる。現憲法の語りの特性、これをつづった人たちの語感、感情の高ぶりまでもが見えてくる。

 なぜそのようなフシギが生じたのか。柴田元幸という得がたい翻訳者の力である。彼は原文のもつ「観念」を、過不足なくつたえる役をつとめた。より多からず、より少なからずつたえる。それはとてもとても難しいことなのだ。個性的に、独創的に訳すことがどんなにラクであるか。現代アメリカ文学で数々の修羅場をくぐってきた人だからこそできたことだろう。

 法律にはうとい訳者のために、憲法学者の木村草太が監修をつとめた。両者の対談「英語からみた『日本の憲法』」が収録されていて、そのなかで柴田元幸は述べている。憲法だから全体的には「法律の文章」だが、「前文」と(戦争の放棄を明記した)「第9条」と(基本的人権にかかわる)「第97条」は、「英文の質」「気合いの入り方」があきらかに違っている。主語がきちんと明示され、誤解の余地のない言葉が使われている。ためしに現代語訳第9条前半。

 「正義と秩序にもとづく国際平和を心から希(ねが)って、日本の人びとは永久に戦争を放棄する。国として戦争を行なう権利を放棄し、国同士の争いに決着をつける手段として武力で威嚇すること、また武力を行使することを放棄するのである」

 つねづね日本国憲法は悪文として槍玉(やりだま)にあげられてきた。とりわけ改憲派は声高く、憲法正文の和文脈と欧文脈がゴッタになった文体を、それこそGHQに「押しつけられた」ことの証拠であるように言い立てる。

 風変わりな仕事を引き受けたばかりに、訳者は一つの「法律の文章」が成長していく過程をつぶさに知った。人類の希望を一段と輝かせる条項を盛りこもうとしたのである。日本語がねじれ、ぎこちないのは当然だ。

 「日本国憲法英文版は、全体としては非常に明快だし、日本語の正文も十分口語的で明快です。そもそもこの英文版から、正文とはかけ離れた、ものすごく分かりやすくくだいた日本語が出てくるべきではないと思うんです」

 言葉を尊重する人のこの上なく誠実な見方である。「戦後70年」のカラ騒ぎのなかにはじめて、まさに今、とりわけ意味深い成果がもたらされた。 (池内紀)
北海道自治体学土曜講座
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第五回・北海道自治体学土曜講座  


 -市町村合併は何であったのか- 
午前 問題提起
  10.00~11.30 市町村合併は何であったのか    森  啓
  11.30~12.00 少人数町村はこれから        小林生吉
午後 討 論
討論者 北良治(奈井江町長) 山下英二(大空町長) 菅原文子(南幌町議員) 道林 實(津別町民) 小林生吉(中頓別町職員)

Ⅰ 合併とは
1 地域の自治権を失い 父祖伝来の地名が無くなること   
2 行政発注の財政の地域還流が無くなり
3人口も商圏も中心に移って周辺地域は寂れる 
4 合併は自治区域の変更であり地域の重大事である

Ⅱ 合併促進の経緯
1999年8月6日、自治省事務次官から都道府県知事に合併推進の指針(通知)
 ・地元学者などで委員会を設けて「合併促進要綱」を作成せよ
・「何処と何処が合併」とパターン(具体案)を示せ(こうなるのだと思わせる)  (そうしないと進まない)
・合併のメリットを説明せよ
①交付税を削減するが合併すれば
10年間は保障する ←(思い違いをさせるカラクリであった)
合併特例債 (使途は自由でない三分の一返済の借金)
3万人でも市に昇格を認める
 ・合併の懸念を下記のように説明せよ (デメリットとは言うな)
  行政サービスの向上 行政効率の上昇 地域イメージの上昇
  
市町村の側の対応
 ・交付税削減(兵糧攻め)で多くは「合併は避けられない」に 
・西尾発言(地方制度調査会)の効果→合併に慎重であった町村長を浮足立たせた
・矢祭町(福島県)‐「合併しない宣言」
・福島県知事(佐藤栄佐久)は 県庁内に「合併しない市町村を支援する課」を設けた

 さらなる合併促進策
 ・「三位一体改革」の宣伝流布 
①交付税削減 ②各省補助金を一括補助金に ③国税を地方税に税源移譲
騙しの論法であった ← 多くの学者が宣伝流布に協力した
 ・合併特例法の一部改正
   議会が合併反対を決議しても、住民署名→住民投票で、
「議会が合併決議したものと看做す」の法改正
衆議院総務委員会参考人意見陳述 (2001年12月4日収録)
 https://www.youtube.com/watch?v=2tqXt27Z3tU 

Ⅲ  全国各地に署名運動 
・住民投票条例制定の署名運動が広がった ← これは何を意味していたか
・殆どの議会は「住民投票の必要なし」と否決した。
・そしてまた、住民投票を行うに至ったときは
徳島の吉野川可動堰の 所謂「50%条項」を援用して「住民投票は成立せず」→「開票しないで焼却」にした。

Ⅳ 北海道の典型三事例
(1)南幌町  
(2)石狩市
(3)奈井江町 

Ⅴ 合併は長と議会で決定してよいのか
 ・合併は地域の将来に亘る重大事である。
 ・長と議会の権限は四年任期で信託した代表権限である。

Ⅵ 合併して今、どうなっているか 
1 合併して良かったことは何か。何が変り、何が変わらなかったか。 周辺地域はどうなっているか。 役場・市役所の内部はどうか。 職員に活気はあるか、行財政改革は始まっているか。それとも旧態以前であるのか。

2 特例債を当てにした合併ではなかったか。 その借金の返済はどうなるのか。
合併を進めた首長や議員に借金返済の責任意識はあるのか。
将来のことは「吾関せず」ではなかったか。 ツケは住民に返ってくる。

3 住民の「わがまちへの意識と行動」は合併論議で高まったか。
公正な判断資料を作成して提供したか。住民の質疑討論の場を設けたか。
合併協議会資料は合併前提の想定資料ではなかったか。

4 住民投票の署名運動が全国各地に起きた。
これは何を意味したか。
首長と議会への「不信表明」ではなかったか。
代表民主制度への「問い質し」ではなかったか。
住民投票は代表民主制度が機能不全になったときに生じてくる。

5 アンケートで住民意思を確認するのは公正誠実なやり方と言えるか。 アンケートは「設問と回答」の作り方で「集計結果」を誘導できる。

6 「投票率が低いから開票しない」とは「住民自治の否認」であろう。 「住民意思」を「闇から闇に葬る」ことではないのか。 50%条項は、徳島・吉野川可動堰をめぐっての「異常実例」であって 「住民投票の不成立」を意図した「組織的ボイコット戦術」であった。

7 地域の甦りで重要なのは故郷を愛し才覚を働かせる自立心であろう。 地方切捨ての合併強要をはね返す意識と行動は如何にすれば生じるか。

Ⅶ 少人数町村はこれから
 ・増田寛也レポート 
 日本創成会議・人口減少問題検討会 経済財政諮問会議
 (背後に経済界と霞ヶ関)
・「自治体が消滅する」の(キャンペーン)が意図するものは何か  
   「消滅する市町村」「壊死する地方都市」「人口急減社会」 
   「農村たたみ論」「制度リセット論」「道州制論」
   (岩波「世界」9月号188頁「増田レポート批判」、 201頁「人口減少社会の罠」)

・「選択と集中」「地方中枢拠点都市」の行き先は
 → 道州制 TPP(経済構造)
・脱成長―成熟社会化 低密度居住地域形成
・安倍内閣の統一地方選挙のための「地方創生」の実態 

(岩波「世界」10号64頁
「さらなる『選択と集中』は地方都市の衰退を加速させる」 岡田知弘(京都大学)
 (岩波「世界」10号74頁「地方創生」という名の「地方切捨て」 金子勝(慶応義塾大学)
 (岩波「世界」11月号181頁「地方創生ではしゃぐ前に」 片山善博(慶応義塾大学)
自治体学
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
 自治体学会設立の経緯

1 自治体学会設立の着想
 「自治体学会」は「政策研究交流会議」から生まれた。政策研究交流会議は自治体職員が全国持ち回りで開催する「政策研究」の交流会議である(注1)。
 第一回は横浜で一九八四年一〇月一八日に開催した。第二回は八五年一〇月、浦和で開催した。いずれも全国各地から三五〇人を超える自治体職員が参加した。
 「政策研究」の全国交流会議をなぜ開催するようになったか。
 それがことの始まりである。
 それまで自治体には、「政策研究」という言葉の用法はなかった。「政策」という言葉も自治体では通常用語でなかった。
 自治体は中央省庁が決定した政策を執行するものと考えていた。考えさせられていたのである。「他治体」であって「自治体」ではなかった。
 つまり、自治体は「政策の主体」ではなかったのである。
 ところが、地域の情勢が大きく変化した。工業化が進展して前例のない公共課題が噴出し始めた。「量的基盤整備」から「質的まちづくり」に公共課題が移行して「自治体のあり方」が問われ始めた。
 自治体は「省庁政策の下請け」から「自前の政策主体」へと位置変化を求められ、自前の政策づくりに着手せざるを得なくなった。
 政策研究とは「既成政策の事後的分析」ではない。「政策課題の発見」と「解決手法を発明する」研究開発の営みである。
 この動向を敏感に洞察した自治体首長は「地域独自の政策づくり」を目指して首長直轄の「政策研究室」「政策審議室」を設置し、あるいは企画課に「政策研究班」を置き、あるいはまた、職員研修所を改組し「研究部」を新設した。
 しかしながら、明治百年来の「中央屈従の惰性」から抜け出ることは容易ではなかった。例えば、優れた研究成果が印刷され配布されても立案権を持つ課長は取り上げない。それどころか、知事のいないところで「若い職員が勝手な夢物語を描いている」と冷淡に言って職員の研究意欲を萎えさせた。
 職員からは「何のための研究であったのか」との不満も出た。だが人事課長や研修所長は「政策研究は職員の能力開発が目的である」と弁解説明をしていた。これが当時(一九八三年前後)の先進自治体の状況であった。
 しかしこれでは「政策研究の波」は弱まり後退する。
 この状況を突き破らなくてはならない。目前の閉塞状況を打開するには、全国交流会議を開催して「政策研究が時代の潮流になっている」ことを内外に鮮明に印象付けることである。
 かくして、神奈川県自治総合研究センターが「自治体政策研究交流会議」の開催を企画した。「政策研究の観念」を全国的な潮流にするためである。

2 第一回政策研究交流会議
 自治省出身の総務省の人たちは今でも「地方公共団体」と言っている。意識して「自治体」の言葉を使わない。使う言葉に「統治支配の思想」が潜んでいるのである。省庁の人たちは「自治体」が「政策能力を高める」ことを望んでいない。地方の「公共的な団体」「地方の公務員」のままでいさせたいのである。
 すべからく、政治・行政の用語に無色中立な用語はない。言葉の使い方に価値観と利害が染み込むのである。「政策研究」の言葉も同様である。
  (以下、当時の雰囲気を伝えるために会話形で叙述する)
 「自治体政策研究交流会議」の開催を準備していたころのことである。
 自治総合研究センター所長が研究部長であった筆者を所長室に呼び込んで、「自治体政策研究交流会議という名称だが」と言い出した。
 「何か問題がありますか」と訊ねると、「政策の言葉を削って研究交流会議にしたらどうかね」。「どうしてですか」と聞くと、「地方公共団体が政策と言うのはどうだろうか」「神奈川県が偉そうなことを言っているということにもなるから」。
 そのころは、神奈川県庁の幹部職員は議会の保守会派から「長洲知事に得点をさせるな」と牽制されていたのである。
 所長と研究部長の関係であるから、「ここで結論を出さないことにしなくては」と思った。「言われている意味は分かりますが、しかし、削ってしまうのはどうか、とも思います。私も考えてみますから……」と言って所長室を出てきて、研究部員に「所長が、森研究部長は名称を変えると言っていたかと聞くに違いないから、その時は『知事に政策研究の名称は良いねと言われた、と言っていました』、と答えてくれ」と頼んでおいた。
 もとより知事と話したわけではないが、そのようなときには、知事の名前をよく使ったものであった(自治体職員が何か意味あることをしたいと思ったときには、首長の意向であると言うのがよい。選挙で出てきた首長は概ね現状変革を求めるものである。役所内で改革を遮るのは現状維持の管理職である)。
 さりとて、所長の考えを無視することもできない。だが「政策研究の観念」を全国に広めるための交流会議である。「政策」の言葉を削るわけにはいかない。そこで、共同開催方式を考えた。横浜市企画財政局都市科学研究室、川崎市企画調査部、埼玉県県民部自治文化振興課に赴いて「自治体政策研究交流会議」の共同開催を提案した。「経費負担は不要、当日主催者の席に座していただく」ことで賛同してもらった。共同開催であるから所長の意向だけで名称変更はできないことにした。
 かくして、全国への案内文書にも当日のパンフレットにも「自治体政策研究交流会議」と印刷した。「第一回自治体政策研究交流会議」と書いた看板も出した。そして会場入口に、次の「メッセージ」を張り出した。

  自治体に政策研究の波が高まっている。
  この波は、自治体が自立的な政策主体になった
  ことを示すものである。

  戦後四十年、いまや「政策の質」が問われ、
  自治体では総合的な観点からの政策研究が必然に
  なっている。

  自治体は現代社会の難問に挑み問題解決をはかる
  現場であり、仕事を通して議論をたたかわせる論壇
  である。

  自治体を舞台に「自治体学」の研究がすすみ、
  新しい理論が確立されることを「時代」と「地域社会」
  が求めている。
 参加者はこの「メッセージ」を立ち止まって読んでいた。カメラに写す人もいた。かくして「政策研究交流会議」の熱気は高まった。
 一九八四年一〇月一八日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で「第一回・自治体政策研究交流会議」を開催した。
 基調講演は「自治体理論」をつくり続けている松下圭一教授にお願いした。自治体理論が自治体の政策自立には不可欠だからである。
 北海道から九州まで、全国各地から一四〇団体・三五二人の自治体職員と市民と研究者が参加した。
 まさかこれほどの参加があるとは当時は誰も予想できなかった。
 なぜなら、「政策研究」なる言葉は一般的でなく、職員による政策研究の制度を設けた自治体も少数であった。ところが、打てば響くようにこれほど多数の参加があるということは「地域と自治体」に地殻変動が進行していたのである。
 当日の案内状に記載した開催目的は、

(1) 研究体制の組み方
(2) 研究テーマの決め方
(3) 研究手法
(4) シンクタンクとの連携のあり方
(5) 研究成果の活用策
 であった。
 だがしかし、真実の開催意図は次の二つであった。

3 二つの開催意図
 意図の一つは「政策研究」なる言葉が全国自治体に定着することを目指す。
 自治体が政策主体になるには地域課題を政策化しなければならない。それには、「政策研究の観念」が全国の自治体に広がる必要がある。ところが、当時の自治体には「政策研究」の言葉を避ける風潮があった。さらには、研究成果の活用を意図的に重要視しない心理すらもあった。例えば、研修所長は及び腰であった。本庁の課長が所管業務に関する研究開発を忌避するからである。
 そこで、全国会議の場で「政策研究が自治体自立の潮流になっているのだ」との認識を鮮明に印象付けることを目指した。
 そのために、当日の研究報告は「政策化された事例」を選りすぐった。
 「柳川の水路復活」は広松伝さん。
 「神奈川の韓国・朝鮮人」は横浜市職員の加藤勝彦さん。
 「緑の回廊計画」は二十一世紀兵庫創造協会の福田丞志さん。
 「都市の水循環」はソーラーグループの村瀬誠さん。
 「防災都市のまちづくり」国分寺市の小口進一さん。
 とりわけ、スライドによる「柳川掘割の復活」の報告に参加者は感動した(後日の話であるが、広松伝さんの「柳川掘割の復活」は、アニメ映画監督の宮崎駿・高畑勲両氏によって「柳川掘割物語」DVD・ジブリ学術ライブラリーになっている)。
 「政策研究の波」が起きていることを内外にアピールするために、新聞記者の方々に取材してもらう配慮もした。「自治体の政策研究」は新聞記事になり雑誌の特集にもなって伝播した。

4 学会設立の動議
 開催意図の二つ目は、全国各地から集まってきた人々に「自治体学会の設立可能性」を提起することであった。
 職員の研究だけでは自治体に「政策自立の潮流」をつくり出すのは難しい。職員と市民と研究者の「協働」が必要である。「実践と理論の出会いの場」が必要である。「政策研究交流会議」とは別に「自治体学の学会のようなもの」が必要であると考えた。
 「協働」の言葉はこのころから既に使用していたのである。
 そこで、二つの提案を動議形式で提出した。
 一つは「この交流会議を毎年全国持ち回りで開催しようではないか」。
 二つは「自治体学会を設立するために準備委員会を設置しようではないか」。
  (以下、個人名を記すことを了とされたい)
 東京江戸川区の田口正巳さんは江戸川区の自主研究活動のリーダーであった。
 田口さんに、「緊急動議的に『今日のこの交流会議は有益だから、二回、三回と続けるようにするのが良い』と提案すること」を依頼した。
 三鷹市の大島振作さんに、筆者と大島さんは大学時代からの知り合いで同じ寮にいたこともあるので、「貴方は職員組合の委員長をしていたので大勢の前で話すのに馴れているから、『この政策研究交流会議を自治体職員だけの会議にしないで、ここにいらっしゃる先生方にも入っていただいて、自治体学会というようなものをつくる、その準備会議をこの場で設立しようではないか』と発言してよ」と依頼した。
 前者の「継続開催の提案」は「全国持ち回りで開催する」ことを確認して次回は埼玉で開くことが決まった。
 後者の「学会設立の提案」は、三五二人の参会者全員が宿題として持ち帰り地域と職場で「学会設立の意義と可能性」の論議を起こし、その結論を次回埼玉会議に持ち寄ることを約定した。
 このような経緯で「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生するに至ったのである。
(この交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔84年11月10日号〕」と「地方自治通信〔85年2月号〕」に詳しく掲載されている)

5 埼玉会議の「前夜」
 埼玉の政策研究交流会議の場で「自治体学会設立の賛同」を得るにはどのような運び方をするのがよいか、それが次の課題であった。
 そのころ、自治体学会の設立発起人をめぐって、神奈川県庁内に(知事周辺との間で)意見の齟齬が起きていた。
 側近の方は「知事と高名な学者」が学会設立の発起人になるべきだ、であった。だが、自治体職員や学者はそれに不賛成であった。筆者も自治体に「自治体学の潮流」が起きるには「新鮮な胎動を予感させるもの」が必要だと考えていた。自治体学会は「高名な学者が呼び掛けて」設立するものではないと考えた。そのころ、次のようなことがあった。
  (当時の雰囲気を伝えるために会話調で再現する)
 所長から「本庁の総務部長室に行くように」と言われた。「学会設立準備会」の立ち上げを協議する「第二回埼玉会議」の直前であった。
 総務部長室に入ると、部長が顔を近付けてきて
 「森君、自治体学会だけどね──」と言った。
 「何を言いたいのか」はすぐ分かったので、「公務員が学会などと言っても簡単なことではないと思っております」と答えた。
 総務部長は目を覗き込むように顔を近付けて「そうだよな」と。
 それは、職員の人事権を握っている総務部長の顔であった。「勝手に派手なことはするなよ」「分かっているな」という眼光であった。自治体学会の旗揚げを抑える顔であった。
 部長室のドアを開いて廊下に出た時、「そんな脅しで自治体の政策自立の流れを止められてたまるか」、「あなたとは志が違うのだ」と呟いたことを想い起こす。決して「格好を付けて」述べているのではない。
 このころ小学生であった人々が自治体職員として活躍しているという時間の経過である。当時の緊張感を記しておきたいからである。
 いつの時代にも、現状維持的でない変革を試みれば、必ず「しっぺ返し、嫉妬と陰口、足ひっぱり」が伴うものである。「その覚悟が必要である」と言っておきたいから述べているのである。
 「埼玉会議に森を出張させない」と「知事側近の人」が言っている、というのも耳に入ってきた。そこで、埼玉会議の前夜、東京都内の大きなホテルのロビーで、多摩地域の研究会の人々と綿密に進行を打ち合わせた。
 協議しているどの顔にも「時代の波」を引き起こそうとする輝きが漲(みなぎ)っていた。

6 設立準備委員会の発足
 一九八五年一〇月一七日と一八日、浦和で開催した第二回政策研究交流会議は前回にも増して盛会であった。畑知事は歓迎挨拶で、にこやかに「自治体学会設立への期待」を語った。
 第一日目の日程が終わった後、別室で「自治体学会設立についての協議の場」を設けた。「代表委員に田村さんと塩見さんを選び、この場にいる七五人の全員が設立準備委員になる」「設立事務局は当分の間、神奈川県自治総合研究センター研究部が担当する」ことを決めた。
 その協議の場で目黒区職員の桑原美知子さんが「自治体学会設立への期待」を「私は今日のこのために来ているのです」と「喜びが匂い立つかのように」瞳を輝かして語ったのが印象的であった。
 協議の進行役を務めた筆者が翌日の全体会議に報告した。万雷の拍手で賛同された。
 翌一九日の朝日新聞は全国版(二面)に「自治体職員が学会設立準備会を結成」と三段見出しで報道した。記事を書いたのは第一回交流会議から取材を続けていた朝日新聞地域問題総合取材班の寺田記者であった。
 こうして、全国の自治体職員に鮮烈なイメージで「学会設立のメッセージ」が届いたのである。
(埼玉会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔85年11月9日号〕」と「地方自治通信〔86年2月号〕」に掲載されている)

7 「全国行脚」
 次の問題は「自治体学とは何か」である。
 「政策研究交流会議」はそれなりに理解できるが「自治体学の学会」は「よく分からない」というのが当時の多くの疑問であった。
 そこで、神奈川県自治総合研究センター研究部は「自治体学とは何か」の試論づくりに専念し「自治体学に関する研究」(B4判 一四一ページ)をまとめた。
 八五年の真夏、研究部員はこの「冊子」を携え、分担して全国各地に学会設立を呼び掛ける「全国行脚」に出かけた。それは第一回交流会議開催事務局の責務を果たすためである。
 「熱い期待」に迎えられた。「冷ややかな反応」もあった。
 全国行脚によって五〇〇人を超える人々が自治体学会加入の意思を表明した。

8 神戸・自治体学フォーラム
 関東だけの動きでは全国展開にならない。全国的な「自治体学会設立の機運」をつくり出さなくてはならない。直ちに「日本列島縦断・自治体学連続フォーラム」のイメージが浮かび上がった。
  (以下、具体叙述のために個人名を出すことを了とされたい)。
 関西で「自治体学・フォーラム」を開催しようと考えた。
 研究部主幹の森田徳さんと二人で大阪に出かけた(森田さんは現在横浜市中区海岸通りで行政書士の事務所を開業している)。
 自治体関係の方々に大阪東急ホテルに集まっていただいた。だが、顔を見合わせて「大阪府庁や大阪市がどう思うか」「自治労がどう言うだろうか」の発言ばかりであった。「フォーラムを開催しよう」との決断発言が出てこない。
 やむを得ず、翌日、神戸市役所収入役の安好匠さんに相談した。「神戸市が表面に出ると兵庫県が後ろに下がるので」背後から応援するとの確約を得た。
 そこで、第一回政策研究交流会議の報告者であった「21世紀ひょうご創造協会」の福田丞志さんに相談して、同行していただき兵庫県企画部に「自治体学フォーラム開催」の協力を依頼した。
 こうして、一九八六年二月一二日、「神戸自治体学フォーラム」が開催できた。会場は兵庫県農業会館。主催は「関西活性化研究会・21世紀ひょうご創造協会・神戸都市問題研究所・滋賀市民と自治研究センターと自治体学会設立準備委員会」であった。
 北海道から沖縄までの二五三人が参集した。会場発言は熱気に満ち確かな手応えがあった。
 この「神戸フォーラム」の詳細は「地方自治職員研修」八六年二月号に特集されている。その会場内で全国準備委員会を開催した。

会場内で開いた準備委員会の論点
名称・「自治体学会」よりも「まちづくり学会」または「自治体政策学会」ではどうか。
会費・年三〇〇〇円では財政独立がむずかしい。考え直すべきだ。
組織・既存の組織や団体を統合するのではなくて、グループや団体の活動をつなぐ組織を目指そう。
事業・事務局が事業を請け負うのではなくて、会員の地域活動が基本である。
活動・準備委員が核になって各地で「自治体学フォーラム」を開催しよう。

9 東京自治体学フォーラム
 一九八六年四月一九日、東京・府中市自治会館ホールで「東京自治体学フォーラム」が開催された。参加者は三一五人、市民と学者の参加が際立って多かった。
 このフォーラムで「自治体学会のイメージ」が見えてきた。すなわち、市民・学者・自治体職員の三者が一体となって地域課題を解明する「実践と理論の自治体学」のイメージが論議の中に現出していた。
 戦後、自治体革新のメッカであり続けた多摩だからである(この概要は新三多摩新聞、四月二六日号に報じられている)。
 八六年五月一〇日、仙台で「東北自治体学フォーラム」が、気仙沼で「まちづくり自治体学会フォーラム」が開かれた。沖縄でも、九州でも、中国でも、四国でも、北海道にも自治体学フォーラムが開催された。
 日本列島に「自治体学会の設立」が「自治のうねり」を起こし始めたのである。

10 「自治労」と「全国自治体問題研究所」
 「自治労」の「自治研究全国集会」には歴史がある。
 自治体学会の主要会員は自治体職員であるから、自治労から自治体学会設立に異論が出ると現場で混乱が生じる。
 神奈川県自治総合研究センター研究部は学会設立事務局であるから、研究部長は事務局長のようなものである。自治労本部に出掛けた。
 小倉政策局長にお会いして「自治体学会が目指す方向」を話した。「分かりました。設立発起人として丸山委員長が参加します」になった。
 「全国自治体問題研究所」も歴史と実績のある組織である。
 一九八五年九月二七日の午後、代表をなさっていた宮本憲一先生に鎌倉でお会いして設立発起人になっていただいた。

11 代表運営委員
 設立発起人代表を三人の複数制にすることは合意されていたのだが、三人の名前が決まるまでは難儀な経過であった。
 一九八五年一〇月一一日の夕刻、横浜駅ビル内の東急ホテル会議室で「埼玉会議に向けての打ち合わせ」の会合を開いた。その会合で「埼玉で学会設立の協議の時、自治体職員の経験もあり横浜市の都市デザインで全国的に著名な田村明さんを代表委員として提案してはどうか」と発言した。
 ところが、所長は知事側近の意向を汲んでか沈黙したままである。賛成と言わない。その場にいた田村さんも鳴海正泰さんも沈黙であった(注2)。
 重苦しい空気のままにその会合をオワリにした。
 それまで進めてきた「段取り」は崩れそうであった。その収拾劇のことはここに述べないが曲折の難儀であった。
 代表委員が決まるまでには松下圭一さんにずいぶん何度もお世話になった。
 自治体学会は自治体職員・市民・研究者の連携である。多摩の研究会の方々の努力もあって、自治体職員の代表として田村明さん、市民代表として関西地域から日経新聞の塩見譲さん、学者・研究者代表として西尾勝さんがご承諾なさって決まった。
 塩見さんに承諾をいただいたのは、松下さんも助言者として参加した「首都圏自主研究グループ」の熱海合宿の翌日であった。「地方自治通信」の大矢野修さんと三人でMOA熱海美術館の庭園で夕陽を眺めながらの語らいであった。

12 自治体学会の誕生
 一九八六年五月二三日、二年がかりで準備を進めてきた「自治体学会」が誕生した。
 近代日本の夜明けを象徴する横浜開港記念会館で「発起人会議」と「設立総会」を開いた。発起人会議には一三五人、設立総会には六二〇人が出席した。
 出席者の顔触れは、自治体職員、市民、学者、シンクタンク職員、コンサルタント、ジャーナリスト、団体役員、自治体首長など、およそ学会の設立総会とは思えないほどに多彩な顔触れであった。いずれの顔も二年がかりで進めてきた自治体学会の設立を喜びあう和やかさに満ちていた。
 会場のあちこちで初対面の人を相互に紹介し合い、テレビのライトに照らされた会場正面には「自治の歴史に新しい一ページを」と書かれた看板が掲げられていた。
 前例のない新しい学会の設立総会にふさわしく、会場は活気に満ち華やかで緊張した空気に包まれていた。満席の参会者はこの開港メモリアルホールでこれまでにも数々の歴史的な集会が開かれたことを思い起こしていたであろう。
 議長に佐藤驍氏(北海道庁)を選出し、前日の発起人会議からの提出議案が万雷の拍手で賛同されて「自治体学会」が誕生した。
 総会に報告された会員は一二四三人(発起人七八二人、既入会申込者四六一人)を数え、規約に基づき選出された運営委員は四六人(自治体職員二九人、学者・研究者・市民一七人)。代表運営委員に田村明、塩見譲、西尾勝の三氏を選出した。多数の人が発起人になって自治体学会を設立したのである(注3、4)。
 しかしながら、「自治体学会を設立する意味は何か」「具体的に何をするのか」、自治体学会の「役割は何か」「課題は何か」と問うならば、その答えは「各人各様で一義的に定まったものはない」というのが設立当時の実情であった。
 自治体学会は多数の方々の「思念と行動」によって設立されたのである。以上の「設立経緯」は、当時、神奈川県自治総合研究センター・研究部長であった筆者が関与したかぎりでの経緯である。

13 氷川丸船上の設立記念パーティ
 開港記念会館での「設立総会」は大成功であった。
 夕刻、横浜港の氷川丸船上でお祝いの「ビールパーティ」を開いた。
 折しも、金色の満月が東天に昇り、西空には夕陽が朱色に輝いていた。
 何とも言えない美しさであった。
 多くの方々が力を合わせたから自治体学会が設立できたのである。
 全国各地で自主的研究活動が広がっていたからでもある。そしてまた「自治体は市民自治の機構である」との「自治体理論」が浸透していたからである。
 朝日新聞八六年六月五日の「天声人語」は、自治体職員が中心になって「市民的視野に立ち、地域に根ざした研究・交流を目指す学会」を設立したと評して紹介した。
 ここに、少しく個人的な感慨を述べさせていただくならば、筆者が自治体学会設立への覚悟を定めたのは、八四年の真夏の夕刻、渋谷駅の近くで松下圭一さん鳴海正泰さんと三人で「自治体学会の可能性」を語り合った時であった。
 渋谷でのこの語らいが実質的な「自治体学会のスタート」であったと思っている。その後もお二人には折に触れ相談し助言をいただいた。
 また、「壁」にひるまなかったのは、法律専門雑誌「ジュリスト」にだいぶ以前に書いた論文が、八二年に県議会本会議で自民党議員に批判されて、八三年に「本庁課長見習職の総括企画主幹」から「自治総合研究センター研究部長」へ異動になったことが「内なるバネ」になったのだと思っている。

14 第一回自治体学会──徳島
 自治体学会の運営委員である徳島市の笹山哲氏から「何か意味のある集会」を徳島で開きたい。ついては「第一回の名前がほしい」と相談があった。
 そこで、開港記念会館での「自治体学会」は「設立大会にしよう」ということになった。こうして、実質は二回目であるのだが、一九八七年に徳島で「第一回自治体学会」と「第四回政策研究交流会議」を「徳島自治体会議」の名称で開催した。その詳細は『地域の自立をめざして──徳島自治体会議』(公人社)に記録されている(政策研究交流会議は第三回を兵庫で開催したので徳島は第四回である)。

15 学会設立の背景
 自治体職員が学会を設立しようと考えるに至った背景は何であったか。
 第一は、当時の市民活動の広がりである。
 市民活動が「省庁政策の下請け機関から地域の政府への転換」を自治体に迫っていた。全国画一の省庁政策では住んで誇りに思える地域をつくることはできない。自前の自治体政策が必要である。市民活動の広がりが「自治体学会」を設立する動きへと発展させたと言える。市民活動が自治体職員に政策開発の必要性を自覚させたとも言える。
 第二は、自治体職員の水準が上昇したからである。
 市民活動の成熟に刺激されて、自身を「公共事務専従職員」と位置付け、「自治体職員」としての職務を自覚する職員が育ってきた。「自主研究」から「政策研究」への展開が「学会設立」への拍車になったのである。
 「政策研究」とは、一見ありふれた「言葉」である。しかしそれまでは、自治体には「政策研究」という言葉の用法はなかった。「政策」という言葉も自治体では日常用語ではなかった。
 「政策」は中央省庁が策定するものだ、との考え方に馴らされていたのである。しかしながら、このころには、自治体職員が月刊誌に論文を発表し著作を出版するようになっていたのである。例えば、大相撲国技館の建設計画を変更させ雨水利用システムを導入させた東京墨田区職員のソーラー研究会は、NHKブックスから研究成果を出版していた。
 多摩の研究会は『職員参加』(学陽書房)『自治体の先端行政』(学陽書房)『政策法務と自治体』(日本評論社)を出版した。
 とりわけ『政策法務と自治体』は専門学者の水準をも超えた著作であると評された。
 神奈川県の職員研究グループは『神奈川の韓国・朝鮮人』(公人社)を出版して、朝日新聞の論壇時評で「本年度の最大の成果の一つ」と評価された。
 その他、自主研究の成果が施策に活用された例は数多くある。自主研究によって視界を拓き交流し自治体職員としての自身を成長させた。その自信が「学会設立」への意欲と気運を高めたのである。自治体職員の政策研究が明らかなる転回軸であった。
 第三は、自治体理論の広がりと浸透である。
 一九六〇年の安保闘争の後、「地域民主主義論」で、市民の自治機構として「自治体が発見」され「自治体改革理論」が提示された。
 以来、「市民参加の理論」「シビルミニマムの理論」「市民自治の憲法理論」と続いた。その自治体理論を市民と自治体職員は繰り返し読んだのである。そして自治体理論の視座で自身の職務を眺めて考えたのである。
 先に述べたように、自治体職員が自治体学会の設立を提案したのは、八四年一〇月一八日、横浜市内の神奈川県民ホール六階会議室で開催した第一回自治体政策研究交流会議の席上である。参会者の基本認識は自治体理論であった。自治体が政策自立するには自治体理論が不可欠であるとの認識が参会者共通の認識であった。

16 なぜ、自治体職員が学会設立を考えたか
 「自治体の政策自立」には「自治体職員の政策能力」が不可欠である。自治体職員が政策能力を高めるには「前例に従って何事も無難に」の行政文化を超えなくてはならない。行政文化を超えるとは、一歩前に出て「才覚と勇気」で職務を実践し「地域課題を解決する」ことである。だが、職務の実践だけでは政策能力は身に付かない。歴史の一回性である「実践体験の知見」を「普遍認識」にまで高めなければならない。そうでなければ、前例なき公共課題を解決する政策形成力は身に付かない。職務の実践を理論化しなければならない。
 「実践体験の知見」を「普遍認識」に高めるには「文章に書く」ことである。「文章に書く」とは「概念で実践を再構成する」ことである。その「再構成」が「普遍認識力」を高め「実践的思考力」を自身のものにするのである。
 「政策形成力と政策実行力」には実践的思考力が不可欠である。
 「実践を再構成する」には理論が重要になる。そこで「実務と理論の出会いの場」として「学会設立」を考えたのであった。
 しかしながら、「実務と理論の出会い」は「自身の内において」である。学者の会員がいることが「実務と理論の出会い」ではない。なぜなら、「既存の学問」と「自治体の政策研究」とは「思考の方向」が異なる。
 例えば、「行政学の政策研究」は政策と政策過程を事後的・実証的・分析的に研究する学である。「自治体の政策研究」は、現実を未来に向かって課題設定し解決方策を考え出す営為である。すなわち、行政学の政策研究は事後的な「政策の実証研究」であるが、自治体の政策研究は「政策の研究開発」であって、未来構想的で規範的創造的な政策開発の営みである。自治体職員の政策研究は実効性と未来予測性に意味がある。
 自治体学会は「実践的思考力」を「自身のものにする場」であるのだから、そのように運営されなくてはならない。

17 自治体学理論と自治体学会
 自治体学会は設立され二〇年を超える歳月を経過した。
 歴代代表委員、運営委員の方々、事務局を担当してくださった自治体の皆様方のお力である。学会設立のころには小学生であった人も自治体学会に参加し活動している。「市民自治」「政府信託」「基本条例」などの自治体学理論の概念・用語は普(あまね)く広がった。市民自治の制度整備も進んでいる。画期的な進展である。
 しかしながら、状況を切り拓く批判的思考力は保持され継続しているであろうか。例えば、合併(二〇〇五年前後)をめぐっての住民投票を「開票せずに焼き棄てる」の事態が生じた。その時「何ということを」の怒りも似た心情が自治体学会員の「心の内に」生じたか、それとも「それもあり」と他人事のように思うだけであったのか。
 それが問題である。平素、口にする「自治」「参加」には何の意味もないのである。また例えば、隣国の主席と大統領が「歴史の事実」を基にして「最大の外交問題」だと言った時、靖国参拝は「心の問題」であると加害国の首相が言った。その時も、「自身の内に」いかなる思念が生じたのか。
 あるいはまた、「戦争協力法」であるのを「国民保護法」と言い換え、市町村に荒唐無稽な「住民避難計画」を押し付けていることを、自治体学会員の市民自治理論はいかに納得するのであろうか。「住民避難計画」の作成担当の自治体学会員はいかに考えているのであろうか。
 日常の職場において、「間違っていること」を「間違っている」と発言する。その思念が「自身の内に」生じないのは「批判的思考力」が衰弱しているからである。一歩前に出て「壁」を越えた体験がないから「思考の座標軸」が定まらないのである。つまりは、理論視座が欠落しているのである。
 自治体学会の盛会ぶりは真に喜ばしいことであるのか。喜ばしいことであってほしいと切実に思う。
 北海道では、九五年に北海道自治体学会を設立し現在も意欲的に活動を展開している。同じく九五年に開講した北海道自治土曜講座も毎年開講し、ブックレットは一一五冊を超え「公人の友社」から刊行頒布されている。
 (本稿は「新自治体学入門」に収録されている。第十章)

自治体学会設立のころ
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
自治体学会設立のころ

設立動機
 設立動機は省庁政策に支配され従属していた状況から脱却するためであった。目指すは自治体の政策自立である。
七十年代の後半「自主研究グループ」が各地に叢生して全国交流集会が1984年5月、東京中野サンプラザで開催された。この「自主研究活動の波」が「政策研究の潮流」へと発展することを目指して、84年10月、横浜港を眼下に眺望する「神奈川県民ホール」で「自治体政策研究交流会議」を開催した。
 そして、その場で「自治体学会の設立動議」の提出を策した。(その詳細は末尾文献に)  

「自身の不利益をも覚悟して前に出る熱気」が七十年代にはあった。
 爾来三十年、自治体理論、政策形成力、市民自治制度は画期的とも言えるほどに進展した。だが現在は「主体鈍磨」と「状況追随思考」が蔓延しているように思える。
 例えば、「政策評価制度」が鳴り物入りで喧伝されると一斉に「制度導入」が始まる。しかし実効性のある制度はどこにもない。外部評価は言葉だけであった。熱気も冷却した。現在は「自治基本条例」の流行である。だが「首長の改選期までに」とか、「議会の反感を買わないための字句修正」である。これが多くの実態である。
 作文して首長が決裁して議会決議すれば、それで「自治基本条例の制定」である。「住民はそっちのけ」である。地域に「最高条例の規範意識」を醸成せんとする工夫はない。その手続きを編み出す情熱も才覚もない。「制度を作れば一歩前進だ」と考える。それでは「死屍累々」ではないか。
「今の自分のまま」「今の行政文化のまま」で「重要なことができる」と考える。それが問題なのだ。

 「かべ」と「覚悟」
 八十年代、「自治体の政策研究」は潮流となって広がった。だが、「財政が右下がり」になって政策研究の潮が退きだした。それならば、「行政内のシクミ」を研究開発すべきである。「政策評価」「パブリックコメント」「オンブズパーソン」「自治基本条例」はそれであるのだが、行政内には根強く統治の思想・手続・慣例・手順が堆積している。その「かべ」を崩さなければ「市民自治の制度」にならない。「今のままで」「自分自身は何も変わらないで」では「制度改革は死屍累々」になる。「意味ある何かを為そう」とすれば必ず「かべ」が出現する。その「かべ」を越えるには「覚悟」が必要である。
 自治体学会設立のときにも「かべ」が現れた。議会多数会派を気遣う県首脳部に呼び出され「目立つことはするなよ」と脅かされた。知事周辺からは「学会設立は知事が中心で」「設立準備会を立ち上げる埼玉会議に出張させない」との声も聞こえてきた。(これらのことも末尾の文献に記した)。

1984年の夏の夕刻、渋谷駅の近くで、松下圭一さん鳴海正泰さんと「自治体学会の可能性」を語りあった。そのとき「設立への覚悟」が定まった。
 自治体学会は二十年を経過した。感慨ぶかい。多くの方々のお力である。
北海道自治体学会と北海道土曜講座は本年で12年目に入る。私は本年四月から法学部二学年を対象に「自治体学」の講義を開始する。
                       (もり けい)

1「自治体の政策形成力(時事通信社) 六章:自治体学会、七章:自治体学」
 (自治体学会設立当時の資料と特集月刊誌は六章の本文に記した)。

2 設立時の「かべ」と「覚悟」は「北海道地方自治土曜講座ブックレット(公人の友社)」№50「自治体職員の政策水準」、№90「協働の思想と体制」、№99「自治体の政策形成力」に記した。

3 日本評論社「経済評論」臨時増刊(1986年9月号)「総集・いま草の根から自治体学の構築を」

4 岩波講座「自治体の構想」第四巻163頁に「自治体学会設立の背景」を記した。


自治体学会の設立意味
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
自治体学会の設立意味 
  
1 自治体学会           
 自治体職員が中心になって設立した学会である。
1986年5月23日、横浜開講記念会館で設立大会を開いた。前日の発起人会議には135人、当日の出席者は620人。自治体職員、市民、研究者、首長、議員、研究機関の職員、労組役員、ジャーナリスト、コンサルタント、文化団体役員など、およそ学会の設立とは思えない多彩な顔ぶれであった。会員は2006年現在で二千人。活動内容と事務局は「ホームページ」を参照。 
 
2 政策研究交流会議
自治体学会は「自治体政策研究交流会議」から生まれた。
その政策研究交流会議は次のような経緯で開催された。
七十年代に公害問題と社会資本不足で都市地域に住民運動が激発して革新自治体が群生した。革新自治体は「省庁政策の下請団体」から「地域独自の政策を実行する地方政府」への脱皮を目ざしていた。
これらの情勢を背景に自治体職員の「自主研究グループ」が叢生した。そして1984年5月、東京中野サンプラザで「自主研・全国交流集会」を開催した。この自主研究活動の広がりが政策研究交流会議を開催するに至る要因の一つであった。
もう一つの要因は「政策研究を時代の潮流にするため」であった。
神奈川県が1978 年に「公務研修所」を「神奈川県自治総合研究センター」に改組して「研究部」を設けた。その研究部の「神奈川の韓国・朝鮮人の研究」が朝日新聞の論壇時評で「本年度の最高の成果」と評され「自治体の政策研究」が注目を集めた(注1)。
この動向を敏感に洞察した自治体首長が「政策研究の組織と体制」を自治体内に設けた。例えば、政策研究室(愛媛)、政策研究班(福井)の設置、シンクタンクの設立(静岡、埼玉)、地域の研究所や大学との連携(兵庫、三鷹市)、政策研究誌の発刊(神奈川、兵庫、徳島、埼玉)などである(注2)。
かくて、神奈川県の「研究部設置」が引き金になって「自治体の政策研究」が潮流になりつつあった。ところが、本庁の課長は所管業務に関連する政策研究を嫌った。知事のいないところで「若い職員が勝手な夢物語を描いている」と冷淡に言い放って水をさしていた。これが当時(一九八三年前後) の先進自治体の状況であった。
この状況を突き破るには「全国交流会議」を開催して「政策研究が時代の潮流になっている」ことを内外に鮮明に印象づける必要があった。

3 自治体学会の設立動議
一九八四年十月十八日、神奈川県民ホールの六階会議室で「自治体政策研究交流会議」が開催された。北海道から九州までの各地から一四〇団体・三五二人の自治体職員と市民と研究者が参加した。
この交流会議の場で「二つの動議」が提出された。
一つは「交流会議の継続開催」。他の一つは「自治体学会の設立」。
前者は「全国持ち回り開催」を確認して次回は埼玉で開くことが決まった。後者の「学会設立の提案」は、参会者全員が地域と職場で「学会設立の意義と可能性」の論議を起こし、その結論を次回埼玉会議に持ち寄ることを約定した。
このような経緯で「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生した(注3)。だが、設立大会に至るまでには「壁と曲折」があった。その詳細は横浜で2006年8月に開催された第二十回自治体学会の「自治体学の二十年」の分科会に提出した「自治体学会の設立経緯」(公人の友社)を参照されたい(注4)。

4 自治体学
既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」である。政治・行政・経済学の理論枠組は「国家権力」「国家機構」「国家法」「国民経済」である。
 自治体学は「国家統治から市民自治へ」「中央集権から地方分権へ」「行政支配から市民参加へ」の組替えを目指す実践理論である。実践を理論化し、理論が実践を普遍化する「政策思考型」の自治体理論である。
「国家学」は「国家」を統治主体と擬制する。「自治体学」は「市民」が社会を管理するため「代表権限を信託する」と考える。
学会設立時には、自治体学を「自治体関連の諸学の総称の学」と仮定義した。
( 以下の叙述は、神奈川県の研究部員が「学会設立発起人」を求めて「全国行脚」の旅に出かけた際に携行した「自治体学に関する研究」の一部である )
日本の社会科学は「輸入学」として出発した。「国家」「国民社会」を理論枠とする「国家学」であった。国家学では現代の都市型社会が生起する、医療、資源、福祉、文化、環境などの「前例なき公共課題」に対して、部分的な問題点の指摘は出来ても、全容解明は出来ない。とりわけ、既成の学問にはこれら課題を生活の場で自治の問題として解決する「市民自治の視点」が根本的に欠落している。このため市民運動が提起する論点に回答が出来ない状況がつづいている。
 
5 なぜ、自治体職員が学会設立を考えたか
「自治体の政策自立」には「自治体職員の政策水準の高まり」が不可欠である。自治体職員が政策能力を高めるには「前例に従って何事も無難に」の行政文化を超えなくてはならない。行政文化を超えるとは、一歩前に出て「才覚と勇気」で職務を実践し「地域課題を解決する」ことである。だが、職務実践だけでは政策能力は身につかない。歴史の一回性である「実践体験の知見」を「普遍認識」にまで高めなければならない。そうでなければ、前例なき公共課題を解決する政策形成力は身につかない。実践を理論化しなければならない。
「実践体験の知見」を「普遍認識」に高めるには「文章に書く」ことである。「文章に書く」とは「概念で実践を再構成する」ことである。その「再構成」が「普遍認識力」を高め「実践的思考力」を自身のものにするのである。
「政策形成力と政策実行力」には実践的思考力が不可欠である。 
「実践を再構成する」には理論が重要になる。そこで「実務と理論の出会いの場」として「学会設立」を考えたのであった。 
しかしながら、「実務と理論の出会い」は「自身の内において」である。学者の会員がいることが「実務と理論の出会い」ではない。なぜなら、「既存の学問」と「自治体の政策研究」とは「思考の方向」が異なるのである。
例えば、「行政学の政策研究」は「政策・政策過程」を事後的・実証的・分析的に研究する学である。「自治体の政策研究」は現実を未来に向かって「課題設定し解決方策を考え出す」営為である。
すなわち、行政学の政策研究は「政策の実証研究」であるが、自治体の政策研究は「政策の研究開発」である。それは未来を構想する「規範的創造的な政策開発」の営みである。
自治体学会は「実践的思考力」を「自身のものにする場」である。そのように運営されなくてはならない。

5 北海道自治体学会と地方自治土曜講座
 1995年7月8日、北海道在住の自治体学会員が中心となって「北海道自治体学会」を設立した。都道府県単位としては全国で最初であった。以来、「総会・政策フォーラム」と「政策シンポジウム」を毎年1回ずつ開催して今日に至っている。北海道地方自治土曜講座も1995年から毎年開講され、講義を記録したブックレットは2006年現在で100冊を超えた。


注1 神奈川県自治総合研究センターの「ホームページ」を開けば当時から今日に至るまでの「自治体の政策研究の内容」が一覧できる。「ダウンロード」もできる。
注2 当時の政策研究の動向は「自治体の政策形成力」(時事通信社)の第二章に記した。
注3 自治体学会の設立経緯の掲載誌は「自治体の政策形成力・第六章」(時事通信社)に詳記した。交流会議の内容は「時事通信社・地方行政(84年11月10日号)」と「地方自治通信(85年2月号) (86年2月号)」に掲載された。
注4「自治体学の二十年・(公人の友社)」に「設立時の特集誌」も記した。