■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
ガレキ受け入れの是非
(カテゴリー: 原発災害と自治体政策
    ガレキ受け入れの是非
  -ガレキではなく人の受け入れを-

 安全の根拠を示せ
 北海道の高橋はるみ知事は「国が安全と言ったから信用して受け入れる」と「震災がれきの受け入れ」を表明した。これまで政府と官僚が言ってきたことは「信用できないの連続」であった。「信用できる」と言うのなら「信用できる根拠」を示すべきだ。
 例えば、藤村官房長官は大飯原発を再稼動しようとしたとき「専門家の意見に基づいて判断した」と言った。ところが、その専門家の名前は発表しない。“御用学者”が数多いことは公知の事実である。なぜ、高橋知事は「政府が安全と言ったからそれを信用する」と言えるのか。
 北海道は酪農と農産物の大地である。知事が先頭に立って汚染物質を北海道に招き入れることをやろうとするのは不届き至極である。
「助け合うべきだ」と情緒的に言うけれども、がれき以外にも被災地を助けるやり方は幾らでもある。汚染地域の方々は子供の将来を心配しているのだ。子供とその家族の受け入れに協力すべきである。

 莫大な復興資金に群がるゼネコン
 岩手と宮城のがれきは安全だと言う。だが福島と地続きである。汚染の濃度は福島が高いかもしれないが、風向きよっては福島より濃い地域もあるかもしれない。現実に千葉や茨城では農産物や水産物が出荷できない事態になっている。全国に放射性物質を撒き散らしてはならない。福島のがれきは福島で処理をすると言うのだから、宮城も岩手も費用は国費で負担して処理施設を新設し拡充して処理すべきである。
 莫大な復興資金、がれきの処理費、莫大な除染費に、ゼネコンと関連業者がハイエナの如く群がっている。これが現実である。地元産業の自立には「タテワリのスロー行政」で資金が届かない。莫大資金は本当に必要なところに届かない。
 2012年12月20日のNHK「百年インタビュー」で、経済評論家の内橋克人さんが「危機便乗型資本主義」が始まっていると指摘した。即ち、戦争や災害などの惨状に便乗して莫大利益を目論む資本主義(経済活動の自由主義)を警告された。莫大な災害復興資金の国会決議は衆議院選挙のためではなかったか。

 除染は無意味な無駄
 「がれき」と「除染」の論議は「原発再稼動」から国民の目をそらすためである。
セシウムは消えないのだ。表土を削っても置き場がない。水で流せば川を汚染する。滞留して高濃度の汚染になっている。海に流れて水産業を壊滅させる。
 原発は自然界に存在しなかった放射性物質をまき散らしたのだ。原発に絶対安全は無い。事故になれば手に負えないのだ。セシウムは消えないのだから莫大な金を除染に使うのは止めることだ。「一日も早く帰れるように」と国は言う。ごまかしである。帰れない地域を見極めて、人々の生活が成り立つよう「住まい」と「働く場」の提供に全国民が協力すべきである。
 「がれき」は拒否しても「人々の生活」を手助けする。海で働きたい水産業の方々には安全な海で働けるように協力することだ。



  FaceBook の友達 友利長栄さんから次のコメントを頂いた。

 ブログは読ませて頂きました。全面的に賛同いたします。「ガレキ処理」には大きな利権が絡んでおります。どうして、北海道から沖縄の知事さんまでが、ガレキ受け入れを考えるのだろうか?東京以南にガレキ処分するなら、処分費用が莫大な金額になる事は小学生にも理解できる。敢えて受け入れ検討を実施したり、受け入れを承諾したりしているのは、どんな理由からでしょうか。
 
公開談論「原発と自治体」
(カテゴリー: 原発災害と自治体政策
 
    公開談論「原発と自治体」

   主 催 NPO法人自治体政策研究所
   と き 2012年4月30日  13時~16時
   ところ エルプラザ (札幌駅北口) 4階(男女参画会議室)

 談論事項
1夏場の電力不足を新聞やテレビが宣伝を始めたが、
 その根拠は何か、根拠資料は何処から出たものか。
 原発再稼働のためか。
2知事や市長や町村長は
 「原発は危うい」「原発再稼働を急ぐのは問題だ」となぜハッキリ言わないのか。
3議員も「泊原発は危うい」と言わない。
 なぜ黙っているのか。北海道電力の労組が原発推進だからか、選挙の前と議員になった後で言うことが違うではないか。

4「自治体」とは、
 「首長と議員」のことか、「行政」のことか。
 「市民」は「自治体」と無関係なのか。 
 「自治体学―市民が首長と議員に代表権限を信託(契約)する。

5北海道電力から電気を買わない方法

 参加者全員で談論します。(参加費無料)

 連絡先 自治体政策研究所090-5071-1274
公開対論ー「夕張再生の道すじ」
(カテゴリー: 対論
 
  「夕張再生の道すじ」ー公開対論

 2012年4月22日、札幌市教育文化会館で「夕張再生の道すじ」をテーマに公開対論を行った。
 
 「夕張再生」
 夕張再生とは、一日も早く「禁治産」扱いから脱することである。
すなわち、「総務省支配」から一日も早く脱して、政策を自主的に立案し実行することである。
 夕張再生とは自治社会を確立することである。
 総務省官僚と道庁職員は、それは「自治法の定め」どおりに「債務を完済したときだ」と言うであろう。
 だが地方自治法を金科玉条のごとく解釈してはならない。
 「債務を完済」しなくとも「完済の道スジ」が定まれば「自治社会」に復帰する。それが自治法の正当な解釈である。
 夕張再生で最も重要なことは「夕張市民」と「夕張市職員」の主体的な「再生意思」である。禁治産者扱いが長年続けば「支配に屈従する習性」に堕し「自発的再生意思」を弱化させるではないか。
 「総務省と道庁」が心がけるべきは、夕張市民の主体意思を促し支援することでなければならない。
 地方自治法を懲罰法の如く解釈してはならない。

 「債務額」
① 道庁職員は「債務完済」と言うけれども、「その債務額」は、道庁が「みずほ銀行などの債権者」に一括立替え払いをして確定した「債務額」である。
 経済社会の通常では、「不良債権の処理」は「債権者会議」が開かれて「何割かの債権放棄と返済保証」の協議がなされる。北海道庁が為すべきは「権者会議の場を設ける」ことであったのだ。しかるに、北海道庁は「みずほ銀行」などの債権者に全額立替をして353億円の債務額を確定したのだ。
 北海道知事は「夕張市民の生活」よりも「金融機関の債権保護」を重視したのである。
 したがって、北海道庁は「可能であった債権放棄」の金額を担うべきである。

②  夕張市の財政破綻は国と道庁にも責任がある。
 夕張市の債務増大は、国の「内需拡大政策」のため、各省庁が「後日に返済を肩代わりするから」などの言い方で、借金財政を促進させた結果である。さらにまた、起債許可権を持つ総務省と北海道庁は「財政破綻を承知していた」のである。
 当時の北海道副知事は、総務省で「私どもは知らなかった」と弁明した。それは北海道庁の行政倫理の水準を表明する「恥知らず」の見本であった。
 国と道庁は債務を分担するべきである。
対論・「夕張再生の道すじ」
(カテゴリー: 対論
    対論・「夕張再生への道すじ」

     ・4月22日(日) 14時~17時
     ・札幌市教育文化会館301号室

  対論者 藤倉肇(前夕張市長、現夕張市会議員) 
        森 啓(自治体政策研究所)

  対論項目
     ・「首長」から「議員」への転身
     ・夕張再生と債務償還計画
     ・議会改革―議会を市民の手に取り戻す手立て
     ・行政不信の打開―「市民行政」の試み

 夕張市は2007年3月、財政破綻をして総務省の管理下に置かれた。
総務省の考えた「夕張再生計画」は353億円の債務額を18年間で返済することであった。それは「債務償還計画」であって「夕張再生計画」ではなかった。
 経済社会の通常では返済不能となった「不良債権の処理」は、債権者会議が開かれ「何割かの債権放棄と返済保証」の協議がなされる。「北海道庁の役回り」は「権者会議の場を設ける」ことであったのだ。ところが、北海道庁は「みずほ銀行」などの債権者に全額立替をして353億円の債務額を確定した。
 すなわち、北海道庁は「夕張市民の生活」よりも「金融機関の債権保護」を重視したのである。

 「夕張再生計画」は「夕張市民の生活が」が基本になくてはならない。
 夕張の人口は、2006年6月は13,165人、2007年4月は12,552人、2008年4月には11,998人と市外への流失が進行していた。公共施設の運営は指定管理者の返上で市民生活に不可欠な施設運営も困難になっていた。市営住宅の修繕もできない状態であった。職員の給与は全国最低で、職員数が減少し業務負担は増大し職員は心身共に疲労していた。総務省は夕張市職員に実質三割を超える削減を強制したのである。

 総務省の派遣職員が夕張再生室長に就任し、全国からの1億円を超える寄付金の使途も掌握した。
 「夕張再生室」の実態は「債務償還の管理」であるから、名称を「債務償還管理室」に改めて、新たに「夕張再生市民室」を設ける。再生市民室長には市長が委嘱した市民が就任する。行政職員にも市長が委嘱する市民が加わる。
 これからは、競争試験で採用される「公務員職員」と、首長が任期内で委嘱する「市民職員」の二種類の行政職員が存在するのである。

 「市民行政」とは市民が行政庁舎内で公務員職員と机を並べて「行政事務」に携わることである。
再びの「安全神話」-寺島実郎氏の独演スピーチ
(カテゴリー: 原発災害
   寺島実郎氏、再びの「安全神話」 

 昨夜(2012-3-29)の「報道ステーション」(テレビ朝日)は、寺島実郎氏の「原発安全の独演スピーチ」に、かなりの時間を提供して全国に放映した。語る寺島氏の表情をクローズアップした映像は異常であった。

 寺島氏は、「脱原発」などを言うのは、物事を考えない人の観念論です。日本の日立や東芝の原子力利用の技術は世界最高です。アメリカはスリーマイル島の事故で懲りて、30年も新たな原発を作らなかったから、その間に日本が追い抜いて原発技術で世界最高になったのです。この「日本の技術力の立ち位置」をしっかり考えなくてはなりません、と独演スピーチを行った。再びの「原発安全」の神話である。
 
 2011年6月9日、作家の村上春樹氏が「カタルーニャ国際賞(スペイン)」の受賞スピーチで「原発批判」を、自身の反省をこめて「東京電力と日本政府」を批判し、広告費で買収された「メディア」と、黙認してきた「国民」も、加害者であると述べた。
 そのとき、古館キャスターが「今のスピーチを聞いてどう思いますか」と寺島実郎氏に訊いた。「日本は3万5千人の電子工学卒の技術者を抱えているのです。平和利用の技術で世界に貢献するべきです」と述べた。
古館キャスターは「お言葉を返すようですが、福島で多くの人が現に苦しんでいます。原発安全を言っていたその技術が破綻したのではないですか」と返した。

 テレビ朝日は何故に、寺島氏に「原発安全の独演スピーチ」を再びさせたのであろうか。おそらく、電気事業連合会や経済界などから「原発54基がストップする」「再稼働させなくてはならぬ」の圧力がかかったのであろう。古館キャスターは今回はノーコメントであった。
 
 本日(2012-3-30)の新聞は「福島の米が出荷できない」「宮城の魚が出荷できない」と報じている。大熊町の全域「帰還困難」、双葉町の「避難区域の再編拒否」を報じている。連日報道される日本列島の悲惨を寺島氏はどう考えているのであろうか。生活のために被爆しながら働いている現場作業員の悲惨を考えないのであろうか。多くの人が苦しんでいるのである 
 
 寺島実郎氏の評価する日本の技術者は「安全神話を合唱した」人達である。「万一の事故」を考えず「マニュアル」も作らず、水素爆発に至らしめて放射物質をまき散らした元凶である。現在只今も「熔融落下したウラン燃料」を解決できず、大気・地中・海中への放出を止めることのできない技術者である。人の悲惨不幸を思いやる心の欠けた技術者・御用学者である。この人達を「世界最高」と言うのは何故であるか。原発は機械であるから事故が無いと言えない。事故になれば今日の如き事態になるのである。日本列島は地震帯の上に乗っているのである。

  巨大企業のシンクタンクの所長である寺島氏の「安全神話」と「役どころ」に疑問を持たざるを得ない。 

「市民行政」の可能性
(カテゴリー: 自治体学理論
 北海学園大学・第72回・現代政治研究会 

 と き :2012年4月7日(土)14.30-17.00
 ところ :第1会議室(北海学園大学4号館10階)
 テーマ :「市民行政」の可能性
 報告者 :森 啓
 連絡先 北海学園大学法学部山本研究室 
011-841-1161-(内線2390)


1 市民行政の概念 
 市民行政とは、市民が行政庁舎内で「行政事務」に携わることである。
 既成の行政法学は「行政事務は公務である」「公務は公務員身分を有する者が行う」と考える。そのため「市民行政の概念」が理解できない。
 これに対し自治体学は次のように考える。
 これからは、「公務員の行政職員」と、首長が任期内で委嘱する「市民の行政職員」の二種類の行政職員が存在する、と考える。
「市民行政」は「行政不信」の現状打開をめざす実践概念である。(実践概念の意味は「新自治体学入門(時事通信社)」の第三章に述べた)

 市民行政を理解するには「行政概念の再定義」が必要である。
国家学は「行政とは法の執行である」と定義する。自治体学は「行政を政策の実行」と考える。政策とは「課題と方策」であるから、「政策の実行」とは「公共課題を解決し実現する」ことである。行政とは「まちづくりの実践」であるのだ。
 現代社会の公共課題は公務員だけでは解決できない。「行政職員と市民」の「信頼関係を基にした協働」なくしては解決実現できない。優れたまちづくりの実践例がそれを実証している。「市民行政」が不可欠必要な時代になっているのである。
 国家学は「行政は公務であり、行政執行は公務員が行う」の観念から脱出できないから「市民行政の意味」を理解することができない。
 「市民行政」は、市民が庁舎内で公務員職員と机を並べ行政事務を担うことである。その「行政事務」は、臨時職員やアルバイトが担っている補助業務ではない。政策の立案・決定・実行・評価の事務である。

2 市民行政の着想 
 市民行政の観念は、2008年7月の「夕張再生の自治体学」の公開政策研究会の論議のなかで生まれた。2007年3月、夕張市は財政債権団体に指定され総務省の管理下に置かれた。
 総務省の考える「夕張再生」は、353億円の債務額を18年間で返済することであった。それは「債務償還計画」であって「夕張再生計画」ではない。
 しかも、債務総額の353億円は、北海道庁が「みずほ銀行」などの債権者に全額立替をして確定した債務額である。経済社会の通常では、返済不能となった「不良債権の処理」は、債権者会議の場で「何割かの債権放棄と返済保証」の協議がなされるのである。「北海道庁の役回り」はその「権者会議の場を設ける」ことではなかったか。 北海道庁は夕張市民の生活よりも金融機関の債権保護を重視したのである。
「18年で353憶円を返済」の財政再建計画は実質的には総務省と道庁が策定したものである。藤倉市長は「夕張の体力では10年間で100億円の返済が限界」と懸念を表明していた。「夕張の再生」には「夕張市民の生活が」が基本になくてはならない。
 夕張再生室長に総務省の派遣職員が就任した。全国からの1億円を超える寄付金 (黄色いハンカチ基金)の使途も総務省派遣職員が掌握した。

 夕張再生には「市民と行政の協働」が不可欠である。だが市民には、長年の経緯による「議会不信」と「市役所不信」がある。「市役所不信」を打開しなければ夕張再生はできない。「市役所不信」を打開するには、市民が行政の内側に入って「行政事務」を担うことである。

3 市民行政の現状 
 市民行政は既に様々な形態で行われている。
① 庁舎受付、庁舎清掃、庁舎警備
 これらは、公務員身分を有する者の業務であった。だが今では、どこでも外部委託になっている。
② 行政広報、総合計画、行政調査、
 表向きは公務員職員の業務であるけれども、実態は外部委託が多い。
③ 職員研修
 現在は「職員研修の企画・実施」までもが外部に託されている。一昔前ならば考えられないことである。尤も、「内向き公務員」が企画する研修よりも、「公共感覚のある市民」が企画する研修の方が民主行政になるであろう。
④ 公共施設の管理運営
 小泉構造改革の「官から民へ」の流れで「指定管理者制度」が流行になった。だが目的が「経費節減」であるから「様々深刻な問題」が生じている。改革名目で「公共性を無視・軽視」する事態になっている。問題は、何処(いずこ)に委託するか、如何に市民自治的運営にするかである。
⑤ ニセコ町立図書館―“あそぶっく”
 北海道ニセコ町は2008年から図書館運営を町民が担っている。
 役場の前に道路を挟んでニセコ郵便局があった。2 008年、その郵便局が別の場所に移転するので建物を譲り受けて町立図書館にした。そのとき町民から「運営一切をやりたい」の要望があり全面委託にした。以来5年間、何の問題も起きていない。役場職員が運営するよりも好評である。
 2011年11月18日の「市民行政を考える」公開政策研究会で、片山ニセコ町長は、「あのとき役場職員を一名も入れなかったのが成功の要因であった」「そのとき一人でも入っていたら、これは教育長の意見を聴かなくてはいけない」「この本を買うのは役場の許可を得なくてはならない」「こういうイベントは前例がない」などが始まったと思います。現在は「子どもの遊び場」になり「高齢の皆さんのたまり場」にもなって、実に自由な図書館運営になっております。なんでも役場がやる時代は終わっていると思います、と語った (北海学園大学開発研究所2011年度研究記録集61頁) 。

4 市民行政の論点
①秘密保持
 職務上知りえた秘密の保持は、「市民職員」であろうと「公務員職員」であろうと同じである。地方公務員法に基づかなくては「秘密保持が保たれない」と考えるのは無益思考である。そもそも、「守秘義務」とは何か。「○秘のハンコ」「部外秘の朱書」の実態を検証すべきである。その内容の多くは、「無難に大過なく」の管理職の保身である。
 条例で「秘密保持の宣誓」を定めればよいのである。
 
②行政責任 
 「故意または重大な過失」によって生じた損害の「求償責任」は「公務員職員」も「市民職員」も同様である。 問題は「行政責任とは何か」である。
 行政責任とは「為すべきことをしない責任」である。「不作為」が「行政責任」である。行政とは「積極的能動的に政策課題を解決実現する」ことであるのだ。保身のために「何事も無難に大過無く」で「為すべきことを為さない不作為」が行政責任であるのだ。「市民行政」は「無難に大過なく」の「行政体質」を打開するためである。

③委嘱任用の手続き
 行政職員は首長の私兵ではない。首長も職員も共に市民に信託されているのである。
 橋下(大阪維新の会)は「代表民主制の基本原則」を理解しない考え方である。行政職員は首長に雇用されてるのではない。
 そこで、市民職員の委嘱が首長の恣意にならないための「市民自治的手続」を条例で定める。

④公務とは何か
 公務とは「公共事務」であって「統治事務」ではない。行政事務も「統治事務」ではない。「自治事務」である。公務員(身分)でなければ行政事務は担えないと考えるのは国家学の統治理論である。「市民行政」「市民職員」は「市民自治の自治体学理論」である。

  *参考文献  
(1)森 啓『新・自治体学入門』(時事通信社、2008.3)
(2)森 啓「市民政治の可能性」『開発論集』88号(2011-8)所収)


 この研究会討論を基に下記の内容で「続・自治体学入門ー自治体学の実践論理」を刊行する予定である。

  自治体学の実践論理-続・自治体学入門

 第一章 市民自治
1 定義―市民自治
2 政府三分化説 政府信託理論
3 自治基本条例
4 栗山町議会基本条例の根本的欠陥

 第二章 市民行政
1 市民行政の概念-市民政治、市民自治、市民行政
2 市民行政の着想―行政不信を打開するため
3 市民行政の現状―様々な形態で既に行われている。
4 市民行政の論点―秘密保持 行政責任 委嘱任用の手続き
5 公務とは何か

 第三章 代表民主制
1 代表民主制の形骸化-実際例で検証 
2 政治不信 ヒーロー待望の危うさ 橋下維新の会検証
3 議会不信 議会不要論の声 議会改革の論点 議会基本条例
4 行政不信 行政不信の打開―市民行政の提起
5 直接民主制と間接民主制

 第四章 実践論理
1 説明理論と実践理論
2「知っている」と「分っている」
3 歴史の一回性である実践 実践の言語表現―経験的直観の意味
4 具体実例で検証

 第五章 自治体学会  
1 自治体学会の設立経緯 
2 自治体学会の運営
① 全国自治体学会
② 北海道自治体学会
3 北海道土曜講座の16年
4 自治体学会の存在意味


「議会不信」と「議員の言動」
(カテゴリー: 自治体議会
  「議会不信」と「議員の言動」

 本日は東北大災害一周年の3月11日である。

 1 地方議会は「不信の代名詞」
 世の中で一番「信用できない」のは「地方議会」であると言われ ている。
 そのため、議会不要論の声すらもある。
 議員は当選すると、所謂『議員』に化身する。
 即ち、白紙委任されたかの如く「身勝手な言動」になる。
 「市民の面前」と「議会内の言動」は異なる。
 すなわち、『議員』は「二足の草鞋思考」になる。
 それが「議会不信の原因」である。

 2 北海道自治体学会のML
 2012年3月7日、北海道自治体学会のMLに「代表民主制と議会不信」を考える情報として、下記の「MLメール」を転送した。

 > 泊1・2号機廃炉の紹介議員を道議会議員の小林郁子議員に お願いしていました。
 >「私は忙しいから、原発の事にかかわっていられません」と断っ て来たそうです。
 > 全道の市民45団体の申し入れです。
 > 石狩の友人たちが驚いて知らせてきました。
 > 原発の事に係わっていられない道議会議員の仕事とは他に何があるのでしょうか?

 3 なぜ、実名のままで転送したか。
  北海道議会議員は特権を有する公的立場である。
  その言動には公共責任が伴う。
  もとより、議員の「私的言動」は保護され尊重されなければならない。
 しかしながら、今回の小林道議の「請願紹介に係る言動」は「私的言動」ではない。市民の「請願紹介」の依頼 を「忙しいから」と断わり、断わられた市民団体の人々は「呆気にとられ、ビックリし、怒っている」のである。であるから、公共的批判が為されるは致し方なき仕儀である。
 匿名にすべきではないと考えた。

 4 当事者から「情景と経緯」聴いた
  筆者は、3月11日に、札幌市内の映画館・シアターキノの「原発映画祭」で偶然、小林道議に「請願紹介を断られた」当事者の石狩の方と出会った。
 映画の後、断わられたときの「情景と経緯」を詳しく聴いた。
 断わられた市民が「呆気にとられ、ビックリし、怒っている」のは真実である。
 小林道議は「事実にないことを書かれて、私も驚いており、議員としての活動に支障も出ますので困っています」と、MLに書いている。
 しかしながら、メールの内容は真実である。

  5 筆者も同じような体験をした
   沖縄の市民団体から、本州(ヤマト)の議会で「普天間基地返還・沖縄米軍基地撤去」を論議して貰いたいとの要請があって、市民の方と一緒に小林道議に請願紹介を依頼した。
 (道議会は「陳情」と「請願」で取り扱いに大きな違いがある) 
  そのとき、理由も言わずに断わられた。小林道議に失望した。

   2011年7月、道立市民活動支援センター(道庁別館西棟)が、突然「縮小移転」と通告された。利用団体、市民グループは困惑した。


 同センターの所在が中央区であったので、中央区選出の小林道議に「担当部長との面談」の斡旋を依頼した。
 そのとき、曖昧な言い方に終始して「協力します」とは言わない。
 そして何もしなかった。その不誠実さに大いに失望した。

  福島原発の水素爆発で、泊原発プルサーマル3号機への不 安が高まった。泊周辺市町村の女性がバスに分乗して知事との面談を求めて道庁に集結した。そのときも小林道議は姿を見せなかった。

  泊原発の危険・不安が高まり札幌市内の各所で「討論集会や街頭デモ」が何度も開催された。だが、そこに小林道議の姿はない。
 筆者が所属するNPO団体が主催した「原発問題と自治体議員」の討論集会に、小林道議の自宅に「ハガキ」で出席を要請したが姿を見せなかった。

 6 「事実でないことを書かれた」
 小林道議は「自治体学会のML」に「私は、原発は道政上重要な課題だと思っていますので、道議になってから議会で何回か取り上げています」と書いて「転送メール」は「事実でないことを書いている」と批判した。
 しかしながら、「転送メールの事実」は、
①「忙しいからと断わった」
②「その断わり方に市民がビックリして怒った」である。
「道議会で質疑をやっていない」ではない。

 7 答弁調整の北海道議会
  ところで、その議会での質疑であるが、北海道議会は、全国にも有名な「答弁調整の議会」である。すなわち、「質問と答弁」を事前に「文章ですり合わせる」のである。
 高橋はるみ知事は「泊3号機のプルサーマル」の「運転を承認したい」知事である。殆どの人々そのように見ているのだ。その知事との「質問・答弁」を擦り合わせての「質疑」である。
 すなわち、エネルギー政策の「抽象的な質問」と「原則的な言い回し答弁」である。その質疑に如何ほどの意味があるというのか。
 知事も小林道議も「心底から原発の危険」を考えていないのである。 
 小林道議がこれまでに「答弁調整の議会慣行」や「会派拘束で議員の自由な評決権を妨げている」ことを、少しでも改めようとしたことがあったのか。
 何もしていないと断じたい。

 8 小林道議のあり様
  市民派を標榜しながら市民と連携せず信頼されない。
 いちばん良くないのは「市民派を名乗りながら、市民の信頼を裏切る議員」である。小林道議はその典型的な議員であると思う。
  であるから、実名のまま「メールを転送した」のである。

「政策型思考と政治」の読書研究会を終えて
(カテゴリー: 自治体学理論
 2月22日、大阪自治体学会の方々と談論した。
 「橋下維新の会」が話題になった。橋下政治は「集権統治」である。「市民自治」ではない。
 されば今こそ「市民自治の自治体理論」である。そして「自治体学会に活力の蘇り」が必要である。それには「自治体理論の研究討論」の継続開催である。そのテキストには『政策型思考と政治(松下圭一著)』が最適である。

 そこで、北海道の自治体職員が刊行した『論集・政策型思考と政治を読む』の巻頭文を掲載する。
 
  「政策型思考と政治」の読書研究会を終えて

 2年9カ月で文字どおり全頁を精読した。
 本書が出版されて以来、全国各地でこの本をテキストにした読書会が数多く開かれている。だが「扉のことば」から「あとがき」までを完読した読書研究会は少ないであろう。
 なぜなら、この書物は「政治・政策と市民」の理論体系書であるから、既成観念に捕らわれていたのでは理解できない。完読するには集中力が必要である。集中力の持続を可能にする運営が読書会にないと息切れして閉店休業になる。大抵の読書会は完読できず終息している。

 「政策型思考研究会」と命名し月一回一章ずつの進行とした。
 夕刻の短い時間で一章を理解するのは困難で無理である。無理ではあるが、そうしなければ完読できない。理論体系書であるから完読しなければ意味がない。
 ところが、理論体系書であるからどの章も他の章と密接につながっているので、次の章で前章の意味と用語が判然としてくることが屡(しばしば)であった。
 また、目次の「星印」は体系の区分であるから、そのところで振り返りの自由論議を行って咀嚼を助け合うようにした。巻末の索引も重宝した。
 索引に示されているページを捲って書物を横に読めば用語の意味が判然としてくる。また、語句に付けられている四種の括弧「」『』〈〉《》の意味をその都度話し合つた。

 論議するべき点を見出すため各章毎の報告者を定めた。
 報告者は「書かれていることを理解するために」何回も読み返してメモを作成した。
 だが「テキストの文章と用語で」「このようなことが書いてある」の説明は不可とした。自分の言葉で言えなければ真に分かったではない、そうでなければ納得理解したにならないからである。全員が読んできているのだから、自身もよく分かっていない報告者の講釈は時間の浪費である。
 研究会であるから、まず、報告者自身が「よく分からない用語と叙述」「成るほどと思い賛同したのはどのようなことか」「このような理解でよいのだろうかと思うこと」を提出して話し合った。

 本書は難解か
 難解だと言う人が少なくない。文体が馴染めないと言う人もいる。
 問題はなぜ難解だと思い馴染めないと感じるのかである。
 この書物を納得し理解するには、自身の「政治イメージ」と「基礎概念」の再吟味が不可欠である。自身の政治イメージを問わず基礎概念の吟味を拒む人にはこの書物を正当に理解することはできないであろう。誰しも、自身の基礎概念を問い直すのは緊張感が伴ない苦痛であるから、無意識的に「難解の防御壁」をめぐらすのではあるまいか。
 この書物は扉にも書かれているように「国家観念との別れの書である」。既成の国家学理論を転倒するから易しくはない。易しい筈がないではないか。
 問題は、読んで成る程と納得するか否かである。確かにそうだと思うかどうかである。 納得すれば次第に難解と思わなくなる。そしていつの間にか「分かりやすくて読みやすい」書物になる。
 例えば実際の話として、松下教授の書物が刊行されるたびにテキストにして学習会を続けている大阪の市民文化団体の人達は「松下さんの本はどれも分かりやすくて読みやすいですな」と言う。明治以来の国家学の理論に呪縛されていないからである。自由で自立した市民であるからだろう。つまり、国家学の政治・行政の理論に馴れ親しんでいる人にはその分だけ難解になるのであろう。

 読書研究会の成果
 いつの間にか、当初は難解と言っていた「概念・用語」で語り合うようになった。
 例えば、岩波新書「日本の自治・分権」「政治・行政の考え方」は、実に分かりやすいと言うようになった。それは、漠然とした理解のままではあっても毎回一章ずつ進行した悪戦苦闘の手探り読書研究会の成果であると言えよう。
 なによりの成果は、自身の仕事を市民の立場で考えるようになった。政府間関係理論や政府信託理論で、道庁と市役所・役場のあるべき関係を語り合い、自治体をめぐる日常的な問題を「政策情報」「市民自治」「政策開発」「参加手続」などの概念で考えるようになった。つまり、事象を理論的に考察する視座を持ったと言えよう。それは「国家統治の官庁理論の呪縛」から自らを解き放ち、「市民自治の自治体理論の考え方」を確立したと言えるであろう。地方公務員から自治体職員への自己変革である。

 思考の座標軸に最適の書
 私は、北大の大学院の演習でもこの書物をテキストにした。現在の北海学園でも大学院で使用している。なぜこの書物をテキストにするか。
 この書物は、各人が自身の思考の座標軸を形成するに最適の書だからである。
 現在日本は都市的生活様式が全般化した社会である。どの山村、僻地、離島にも工業文明的生活様式、情報産業的生活スタイルが広がっている。かつてなかった事態である。そこには前例のない公共課題が噴出している。噴出しているのだが前例のない課題であるから公共課題として設定できない。前例のない課題であるから解決できない。これまでの手法は役に立たない。解決方策を開発しなければならない。何が課題であるかを考えるには座標軸が必要である。
 前提条件がガラリ変わっているのだから、既存の学問も「思考枠組」と「基礎概念」の再吟味が不可欠である。この書物は思考の座標軸を形成するに最適の書である。(1998年8月)
 
 そして「北海道土曜講座の16年」を検証した『自治体理論の実践』(公人の友社刊)を併せ薦めたい。


社会民主党ー新春講演会
(カテゴリー: 講演会

2012年 社会民主党 新春講演会 (当日のビラ)
  と き 2012年2月4日(土) 14時から16時
  ところ 札幌市北区民センター 1階集会室
  演 題 「混迷する政治と政党不信を考える。」
  講 師 自治体政策研究所理事長 森  啓
 
レジュメ
1 政党政治への不信
・どの政党も支持しない。どの政党にも投票したくない。
・有権者は「国会の論議」は「自分たちの生活」とかけ離れていると思っている。
・政治不信・議会不信・行政不信が蔓延して代表民主制度が機能していない。
・だが、民主制度下で「リーダー待望」が高まるのは「危うい」

 大阪で橋下が投票率を高め勝利した。
 なぜ投票率が高まり、橋下が勝利したか。
 内橋克人は、朝日新聞(1月8日)に
 ・新自由主義経済で貧困マジョリティが出現した。
 ・そのマジョリティは権力に抵抗する力なく 生活に追われ考える余裕もない。
 ・精神のバランスを保つために「鬱憤ばらし政治」を渇望し
 ・政治の混乱を面白がり自虐的に表面的評価で選挙権を行使したと分析した。

・橋下支持と小泉支持は同型
 公務員をバッシングし人々の憤懣を満たし「現状をひっくり返す」と叫んで、自らを「改革者」として演出した。有権者には、共産も加わった「反橋下連合」は「現状継続の連合」に見えた。
 小泉の「官から民へ」「構造改革」「既成緩和」のとき、政党・議員・学者・労働組合は「有効な反論」ができなかった。今回の橋下にも説得力のある反論を出せなかった。なぜ出せないか。「ハシズム批判」よりも、有権者は「それでも何かは変えてくれるだろう」と投票した。
・橋下の「大阪都構想」は「大阪の自立」ではない。橋下は国家権力志向である。衆院進出がその正体である。
 それにも拘らず、なぜ「選挙民の心に響く」反論を提出できないのか。
 民主の「地方主権」は「橋下の大都構想」と同程度の曖昧漠然である。共産の「民主中央集中制」は「市民自治」とは真逆の「集権」である。
 「反橋下連合」は心底から「現状変革」を望んでいない陣営であった。だから「有権者の心に響くメッセージ」が出せないのである。

2 現代社会の思考軸
・現代社会の対抗軸は「国家統治」対「市民自治」である。
 かつての対立軸は「資本主義―社会主義」であった。「ブルジョア対プロレタリア」の「イデオロギ対立」であった。しかしその頃の人々は「賃労働と資本」「ドイツイテオロギー」「共産党宣言」を学習した。当時の役員には献身性、自己犠牲、純粋性があった。
 だが今の労働組合の幹部は「根回しの多数派づくり」であり「状況追随思考」である。
かつての労働運動は反体制であった。現在の労働組合は「勲一等受勲団体」である。労組役員は「心底から現状打破」を望んでいない。現状打破の「情熱と論理」を失っている。だから橋下の煽動発言に対抗できないのである。

 現代は科学技術が高度に発達し生産力が増大した社会である。
 アメリカでは「1% 対 99%」「あまりに不公正だ」のプラカードが掲げられ「オキュパイ」の市民運動が広がっている。新自由主義政策で圧倒的多数は貧困層になり、中間(ミドル)層は没落し貧困化した。
 日本も、中曽根―小泉から、新自由主義政策が強まり「派遣労働・非正規労働」で若者は街頭に投げ出された。キャノンの御手洗は「非正規の若者が30代40代になっても50代になっても」このままでと要望した。政府は「分りました」と応じた。正規労働者の超過労働にも「割増賃金なし」でと要望した。
そのとき、国会議員と労働組合は本気で対決しなかった。反対したのは社会民主党であった。
 現在の労働組合の主流派は現状維持の既得権擁護である。役員は自分の役職を守る保守である。
 現代社会の変革主体は市民である。世界の動向もそうである。だが変革主体たるには「考える力」が必要である。「思考力」には「論理構成力」を高める「理論」が必要である。その理論は「市民自治の自治体学理論」である。国家統治の国家学理論は支配の側の理論である。
 すなわち、現代社会の対抗軸は「国家を隠れ蓑にする中央支配」対「地域における市民自治の実践」である。
 
3 「市民自治」とは如何なる理論か
 例えば、選挙は代表者選出の手続ではない。代表権限の信託契約である。身勝手な言動は信託契約の違反である。信託違反を監視するのは市民の責務であり権利である。市民は選挙の翌日に陳情請願の立場に逆転してはならないのだ。
 ところが、御用学者が「国家統治の国家学」で「市民の自治力」を眠らせているのである。そして残念ながら、国会議員も自治体議員も知事も市町村長も「国家統治の国家学理論」に飼いならされているのである。

4 社会民主党
・チャンスである。だが「同じ穴のムジナ」と思われている。言葉でなく行動である。
 市民運動との連帯である。かつて土井たか子さんは「市民と連携」を唱えた。
・社民党は地域で公開政策討論会を開催し定例研究会を継続開催することだ。
・思考力を高めるため「岩波・世界」の購読を薦める。

北海道の未来と新幹線工事
(カテゴリー: 政策提言
 北海道の未来と新幹線工事

 莫大な工事費
 「新幹線の札幌延伸」は莫大な工事費用である。
 その費用を「道民の生活」に使うべきである。
 札幌延伸は、道民には「差し迫った必要」ではない。札幌商工会議所の幹部だけが「悲願だ」と言っているのである。
 新幹線よりも、不景気で働く場所がないのだから「雇用の場」の創出が先である。新幹線工事は若者を雇用することにならない。
 高年齢化が進行して老人介護のマンパワーが絶対的に不足しているのだから、介護ヘルパーの方々が「正当な賃金と勤務時間」で安心して働けるようにすることである。それには、現在の利益本位の福祉業者への委託事業を取りやめて、市民の自治力による新ビジネスを開発することである。
 
 電力の自由市場化
 そしてまた、危険なプルサーマルの泊原発を廃炉にして、北海道を安全な自然再生エネルギーの先端地域にする。原発に依存しない仕組みを構築することである。
 それには、北電が独占している送電線を買い取って、電力の「自由市場化」を推進する。そしてそれを管理運営する公正な会社を設立する。
 自然再生エネルギーの新ビジネスを始める企業と団体への「技術援助と資金援助」に金をかける。そうすれば、そこに雇用が生まれる。
 このようなことが「経費の使い方」として「新幹線延伸」よりもはるかに賢い公共政策である。即ち、北海道の将来を創出することに公共財政を使うべきである。

 在来線が不便になる
 これまでの実際を見ると、新幹線が開通すると在来線が不便になり、乗客が少なくなり廃線になる。そして駅前商店がなくなり、在来線に付随していた雇用の場が失われてしまう。
 札幌開通は2035年とされている。公共工事は着工してしまえば「今さら止められない」の言い方で、その間に予算が追加されて当初予算の数倍の税金が費やされる。新幹線延伸を悲願と言う人達はそれが狙いである。新幹線工事費を「飯のタネ」にするのが目当てである。
 沿線市町村は同意したと言っているが、泊原発の周辺自治体と同じことで、こういうものは首長が賛成しても、住民に判断材料が提供されて賛否の問題点が明らかにならなければ、「地元が了承した」にはならないのだ。 
 賛成している住民も、実際に新幹線が開通して在来線がどうなるかを承知した上での賛成であるのか、疑問である。

 高橋知事は何を考えているのか
 札幌商工会議所の幹部は「新幹線で景気回復を」と言う。それなら、具体的に景気回復の筋道を説明すべきである。説明できないのは「建設工事費」を景気浮揚と言っているに過ぎない。現在只今、新幹線が通っていないことで誰が困っているというのか。
 高橋知事も悲願だと言っている。日本は一千兆円を超える借金で財政破綻に陥りかけているではないか。知事は一体何を考えているのか。公共工事は最初の試算額よりもはるかに莫大な税金が投入されるのである。高橋道政は政策構想力のある職員を登用せず遠ざけている。だから「北海道の未来」を創出する政策が出せないのだ。

 政策討論会
 新千歳から東京まで飛行機で1時間半。航空運賃も価格破壊で低額になった。航空機に馴れた人達が時間のかかる新幹線に乗り換えるとは思えない。
 公共性の高い国有鉄道をJR北海道の営利会社にしてしまったから、利益重視になって「北海道の南北・縦軸」の庶民の足の「ふるさと銀河線」も廃線にした。JR北海道は、儲かる路線だけに資金を投入して「少人数地域と弱者」を切り捨てる。新幹線も同じことである。
 そこで、北海道の未来を創るための公開討論会を開催して市民の自治力で公正な世論を作り出すのだ。そこに、札幌商工会議所の幹部も出席して討論をする。高橋知事も討論者として参加する。メディアはその論議を報道する。この公開討論会をまずは沿線市町村から始めることだ。

 新幹線は選挙対策
 八ッ場ダムをはじめ、ここに来てまたぞろ公共工事が始まってきた。年内と言われる衆議院解散総選挙のためであろう。建設業者とつながりのある政治家は多い。公共工事で建設業界を潤わせ、その見返りで選挙を目論んでいるのであろう。
 北海道民は「誰が何の目的で北海道新幹線を言っているか」を見抜かなくてはならぬ。
騙されてはならない
(カテゴリー: 原発災害
 「騙されてはならない」

 報道によれば、気仙沼や陸前高田などの海岸一帯に、高い津波防壁を建設するとのことである。
 海が見えなくなる壁の建設である。
 日常生活と海との遮断壁である。
 先年、奥尻島に行ったとき、海岸一帯の「巨大壁」を目撃して「刑務所の塀」を連想した。
 映画「老人と海」では、老人(スペンサートレイシー)が毎朝、海の色を眺めて「今日の漁獲」を呟いていた。
 朝に夕に漁民は海を眺めるのである。

 現地の方々に申し上げたい。
「遮断壁の建設」を主張している人に注目することです。「生命(いのち)には代えられない」の言い方で、誰が「声高に壁の建設」を主張しているかです。「後は野となれ山となれ」の人に騙されてはならない。
海岸地帯の故郷で暮らすには、海が見えない「遮断壁の建設」ではなくて、「地震のときには避難する」の習慣です。避難場所と避難経路の整備です。
 津波は海面の上昇ですから巨大な力です。壁では停止できないのです。

 被災地の暮らしに「何が最重要か」の論議を為さずして、巨額の復興予算が民主・自民・公明の賛成で決まった。
 だがしかし、巨額予算を決議した政党の何人の議員が、現地を視察したであろうか。国会議員の何人が福島の放射能被災地に赴き「自身の責務」を顧みたであろうか。
 現地では「巨額復興予算」にハイエナの如く群がり熱気が高まっているであろう。これらハイエナと巨額予算を決議した議員の多くは繋がっているのであろう。

 12月20日のNHK「百年インタビュー」で、経済評論家の内橋克人さんが「危機便乗型資本主義」が始まっていると指摘した。即ち、戦争や災害などの惨状に便乗して莫大利益を目論む資本主義(経済活動の自由主義)を警告された。

 「安全」よりも「建設費(コスト)」優先で、原子力発電所を建設させたのは「誰であったか」。今日の惨事を招来させた犯人は誰か。
 NHK・ETV特集「原発事故への道程」を視れば「誰であるか」が判る。(それは三人である)。
 今回の大惨事の責任者は誰か。責任者が居なくて惨事は生じない。
 しかるに、国会もメディアも学者も、政党も労働組合も、「それ」を言わない。
 「テレビ番組」は「自然災害」と「利権災害」を意図的に混同する。混同して「責任者を問う」を意識的に避けている。

 現在日本の「タブー」は「責任者は誰かを問題にしてはならぬ」である。
 科学者はなぜ「地域全体をすべて除染することはできないのです」「自宅には帰れないのです」と真実を語らないのか。語るのが「科学者の良心」ではないか。
 語らないばかりか、電子工学の講座がなくなっては「メシの食いあげだ」と「原発安全」を唱える学者が現にいる。北大工学部にもいる。

 いつの時代にも権力(利権)は人々を騙す。「騙す権力」は邪悪である。
 だが「騙される人々」も愚かである。騙されてはならない。
 内橋克人さんは「百年インタビューの結び」でそのことを強調された。

「市民行政」
(カテゴリー: 自治体学理論
   「市民行政」

 「市民行政」を主題にした公開研究討論会が、北海学園大学開発研究所と自治体政策研究所の共同主催で2011年11月19日、北海学園大学で開催された。
 当日の論点であつた「市民行政の概念」について要点を掲載する。
 (なお「討論内容」は「月刊・財界さっぽろ」2012年1月号に6頁に亘って掲載されている)

1 市民行政

「市民行政」とは「行政不信」の現状打開をめざす実践概念である。
「実践概念」であるから、既成学の「説明理論」では理解が困難である。理解できないから「疑問」と「誤解」が生じる。現に北海道自治体学会のMLに「反感的疑問」が流れた(2011-11-18)。

 市民行政とは、市民が行政庁舎内で「行政事務」に携わることである。
 既成の行政法学は「行政事務は公務である」「公務は公務員身分を有する者が行う」と考える。だから「市民行政」が理解できず容認できない。
 これに対し、市民自治の自治体学は次のように考える。
これからは「公務員の行政職員」と「市民の行政職員」の二種類の行政職員が存在する。「市民の行政職員」は「代表権限を有する首長」が任期内で委嘱する。

 以下、「市民行政の概念」について論点を記述する。

 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
「説明理論」は事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する。
「実践理論」は未来を構想し現在に課題を設定して解決方策を考え出す。  
 実践理論は歴史の一回性である実践を言語叙述によって普遍認識に至らしめる。

「実践の言語叙述」とは「経験的直観を言語化する」ことである。
「何が課題で何が解決策であるか」を考えるのは「経験的直観の言語化」である。
 (「実践概念の意味」は「新自治体学入門(時事通信社)」の第三章に述べた)。

「経験的直観の言語化」
 経験的直観の言語化は困難を覚悟して一歩前に出た実践によって可能となる。大勢順応の自己保身では経験的直観の言語化はできない。
 即ち、「知っている」と「わかっている」は同じでない。
「何も分かっていない人」とは、波風がないときには (自分に非難が返ってこないときには)立派なことを言うけれども、素早く不利になると判断したときには「黙り、曖昧なこと」言う人である。両者の違いは「覚悟して前に出た実践体験」の違いである。
 人は体験しないことは分からない。分らないから言語叙述ができないのである。

「規範概念による思考」
 未来を構想し現在条件を操作するのは「規範概念による思考」である。
「市民行政」も「市民自治」も規範概念である。「規範概念」を了解し会得するには「実践による自己革新」が不可欠である。利いた風な言葉を操るだけの現状容認思考の人には「規範概念の認識」は曖昧漠然である。
「実践」と「認識」は相関するのである。
 主体の変革なくしては「課題と方策を言語叙述する」ことはできないのである。

 (以上のことを「話し言葉で叙述する」と次のようになる)

 理論にはA型とB型の二つがあると考えてみます。
 A型は「言葉を知っているが本当は分かっていない」人の理論です。
 例えば、役所の出世コースのエリートは最新流行の用語を巧みに使います。だが自身の職務の改革はしません。不利益を覚悟した行動はしないのです。実践行動は常に何らかの不確定要素を孕むからです。エリート職員は上司には優秀職員と評価されますが、市民からは信頼されません。そのような「言葉を知っているだけ」がA型理論です。
 学者はA型理論が多いです。審議会で役所の原案に賛成して外では市民向けの言い方をする。この学者はA型理論です。

 B型は実践理論です。
 実践理論は規範概念で理論構成をします。だが常に「御身大切の安全地帯」にいて行動しない人には「規範概念の意味」が分りません。つまり「何が課題で何が方策か」が分らないのです。ですから「規範概念」の意味が了解会得できないのです。不利益を覚悟して行動したことのない人には「市民活動の能動イメージ」が理解できないのです。「市民行政」のイメージが理解できないのです。
 既成学も「市民自治」「市民参加」「情報公開」の言葉を使いますが、同時に「国家統治権」を自明のように使います。その学者は、「市民」を「非協力的な一部の人たち」と思っている行政管理職と同類思考です。

 例えば、学者や行政幹部の人と話しているときに、「あの人は見えている」「彼はまるで分かっていない」という体験をされるでしょう。「問題が見えて意味が分かる」人は「リスク(困難)を覚悟して行動した人です。
 改革とは「自身の行動様式」を変革することです。改革は常に「主体の問題」です。でありますが「人事昇進が最優先」の行政内では「主体変革は不可能」に思えます。

 しかし「主体変革」とは「その不可能を越える」ことです。「越える」のは「知識」でなくて「実践」です。実践とは「一歩前に出る」ことです。実践は矛盾の構造です。
「実践が認識を明晰に」し「認識が実践を導く」のですね。実践理論と認識理論が相関しているのがB型の自治体理論です。

2 行政概念
 市民行政を理解するには行政概念の再定義が必要です。
 既成学は「行政を法の執行である」と定義します。
 自治体学は「行政を政策の実行」と考えます。

 政策とは「課題と方策」でありますから、政策の実行とは「公共課題を解決し実現する」ことです。つまり、行政とは「まちづくりの実践」です。
 現代社会の公共課題は公務員だけでは解決できません。「行政職員と市民の協働」なくしては解決実現できないのです。優れたまちづくりの現場がそれを実証しています。
 つまり「市民行政」が不可欠な時代になっているのです。

 既成学は「行政は公務であり、行政執行は公務員が行う」の観念から脱出できないので「市民行政の意味」を理解することができないのです。

 以上の論点の詳細は、北海学園大学開発研究所「開発論集」88号に「市民政治の可能性を拓く」として掲載した)



 公開研究討論会に参加していた方から下記のメールが届いた。
 「市民行政」理解の参考までに掲載する。


 森先生のブログ自治体学の『「市民行政」-公開研究討論会』を拝読いたしました。
 感想などをお送りするのは失礼かと思いましたが、どうしても聞いていただきたくメールしました。

 森先生の言わんとしていることが、なぜか全文1度読んだだけで理解できました。自分でも驚いています。
 今まで「地方自治」や「市民自治」等の文献や書物など、少ないながら読んできましたが、多くの場合、言葉の定義や使い方に疑問を持ったり、論理的に理解できなかったりする点がままありました。キチンと理解できないままに過ぎてきたように思います。

 しかし今回のブログは、言葉は難しかったものの論理的に共感でき、納得できたのです。感覚ではなく言葉として私の中に入ってきました。そのお陰で私の中にあった分別不完全な感覚が、スッキリと形になりました。

 こんな感覚になれたのは、先生がおっしゃるように「覚悟して前に出た実践体験」を経たからなのかもしれません。
 先日の公開討論会は私に様々な経験と感覚を与えてくれました。
 ありがとうございました。   2011-12-19


沖縄の旅
(カテゴリー: 自治体学理論
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    沖縄の旅 写真は「首里城・蘇鉄の実」

 2011年11月中旬、沖縄に出かけた。
 目的の第一は、沖縄の無防備平和条例運動の方々と出逢うためである。国際通り「てんぼす会館3階」の拡大幹事会に出席して所見を述べた。
 これまで、日本列島の28地域で無防備平和条例の署名運動を行い、全有権者の2%を超える賛同署名に全て成功した。だが議会で全て否決された。
 「議会否決」の壁を越えなければならぬ。
 これまでの署名運動は、議会が「無防備平和条例の制定」を「拒否する権限」を持っていると考えた。この考え方が間違っていたのだ。
 議会の権限は、四年任期で有権者が信託した「代表権限」である。無防備平和条例は「未来永劫の平和地域宣言条例」である。国会が批准したジュネーブ条約に基づく宣言条例である。四年任期の議会に「拒否する権限」はないのだ。
 首長と議会が為すべき任務は「全有権者投票」に付することである。

 地方議会は「不信の代名詞」
 議会は年齢も性別も職業も地域社会を代表していない。議員は当選すると「異なる世界」の人になる。新人議員も『議員』に化身する。議員になる前に言っていた「議会改革」も二枚舌で正当化するようになる。初心堅持の議員は例外的少数である。積年の特権が『議員』に化身させるのである。議会不要論の声すらある。このような議会に「無防備平和地域宣言条例」を拒否する権限も資格もない。
 (これからの無防備署名の進め方の詳細はこのブログの別項目に記載した)

 第二は、沖縄自治体学会の研究会に出席するためである。
 「代表民主制度を甦らせる方策」と「自治体学の理論問題」を提起した。
 ・国家を統治主体と擬制する「国家学」を「市民自治の自治体学」に転換することである。「国家」の言葉は「権力の隠れ蓑」である。「国家」ではなくて「政府」である。民主主義の理論は「市民と政府の理論」「政府責任を追及する理論」でなければならない。
 ・代表民主制度が形骸化し政治不信が増大して大阪では擬似改革論が横行している。民主政治が正常に機能するには「騙されない思考力」が必要である。邪なる権力は常に言葉で人々を騙すのである。

 ・現在日本の問題は「状況追随思考の蔓延」と「批判的思考力の衰退」である。自治体学会の役割は「論理的思考力」と「批判的思考力」を高める場でなければならない。
 自治体学会は「市町村合併」「原発災害の元凶」「米軍基地問題」などの重大問題を取り上げたであろうか。「論理的・批判的思考力」を高める討論の場を設けたであろうか。腰が引けた擬似対応が続いているのではあるまいか。
 
・沖縄自治体学会は2012年の春、「自治体議会改革」をテーマに政策フォーラムを開催する。「問題意識」と「論議の深さ」で沖縄自治体学会が開催する政策フォーラムに、全国各地から参集者が増えて最先端の討論の広場になるであろう。

 第三は、読谷村の自治基本条例の研究会に出席するためであった。
依頼されて話をした。
 ・「まちづくり基本条例」と「自治基本条例」を混同してはならない。基本条例は「首長と議会」が代表権限の行使を逸脱したときは信託解除権を発動する「最高規範条例」である。制定権者は代表権限を信託する有権者市民である。
 ・200の自治体が基本条例を制定しているが、意味ある役割を果たしているところはどこにもない。
 何故であるか、を話した。(その詳細は「北海道土曜講座の16年」の本に書いた)。読谷村で、日本で初めての「本物の自治基本条例」が制定されることを期待したい。

 第四は、辺野古テントの皆さんとの交流である。この美しい海を米軍海兵隊の訓練場にさせてはならぬ。日米政府合意に怒りの念があらためて湧き上がった。
 夕刻、名護市長と面談し、議員と職員の政策討論会で所見を述べた。

 以上の四つに共通するのは「代表民主政治制度の甦り策」である。すなわち「地域の将来に亘る重大事項の決定」は「全有権者の同意・決裁」を必要とする。「四年任期の首長と議員」だけで決めてはならない。

 名護から那覇空港までの高速バス内で、四夜連続の古酒泡盛の美味と美しい辺野古の海を想い、多くの人が「騙されない思考力」を持たねばならぬと強く思った。


NHKの番組意図を疑問に思う
(カテゴリー: メディア批評
   NHKの番組意図を疑問に思う

 2011年11月3日のNHKテレビ「TPP論議」を視た。
 賛成論者が「TPPは農業と農業者にとつて良いことなのだ」と繰り返し述べるのを眺めて違和感を覚えた。TPPはアメリカの強い要求によるものである。すなわち、オバマ大統領は当初はTPPに消極であったが、支持率低下での再選のために、農業、医薬品業、金融業界の意をうけてTPP推進に舵を切ったものである。
 野田首相が11月の太平洋経済協力会議(APEC)の席上で参加を表明するために「前のめりになっている」問題である。アメリカの要求には「反対できない」という問題である。TPPはアメリカの利益のための協定であるのだ。
 それを「TPPは農業のためでもある」と繰り返し述べる論者の表情は、「原発は安全」を繰り返し言説したかつての御用学者の表情に似て見えた。
 NHKの番組意図は11月APEC会議への御用企画に思える。例えば、論議の合間にメールとFAXで届いた「賛成意見」と「反対意見」を交互に紹介して、恰も賛成と反対が同数であるかのように視聴者に印象づけるやり方である。寄せられた2130通の意見の内訳は説明しない。
 「反対意見ばかりではない」とするための、原発問題の「やらせ」と同じ手口である。
ザ・討論~原発災害・広がる放射能汚染
(カテゴリー: 原発災害
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  「ザ・討論~原発災害・広がる放射能汚染」

 2011年10月21日、札幌駅前・エルプラザで「原発災害・広がる放射能汚染」をテーマに公開討論会を開催した。
参加者が予想を超えて集まり椅子が足りず立ったまま討論する人もいた。

 論点は四つであった
1 現地は収束に向かっているのか。
・政府は「準備避難地域を解除する」と発表して「除染計画」を言う。だが地域を隅々までも除染するのは不可能である。「費用が莫大」というよりも「事実として」できない。
・それを恰も「除染が可能である」かのように言うのは、「今直ちには身体に被害はありません」と同類の「騙し」である。国民を騙して検査停止中の原発を運転再開させるためである。
・討論会では、福島から札幌に避難してきた「母と子の会」の女性が、私たちは「逃げ出して行った」と言われています。だが危なくて帰れないのですと発言した。

2 泊原発と高橋はるみ知事
・泊原発3号機プルサーマル計画を巡っての「やらせ」が発覚した。第三者委員会は「道庁も関与した」と報告した。だが高橋知事は今に至っても「プルサーマル計画を振り出しに戻す」と言明しない。泊周辺の女性がバス二台に分乗して24日、高橋知事に面談を求めて道庁にやってきたが、知事は日程を理由に面談に応じなかった。
・沈黙を強いられていた泊村の住民も「原発はいのちの代償ですわ」と言い始めている。

3 議員は何処にいるのか。
・高橋知事が泊原発3号機の営業運転を容認すると表明したとき、北海道議会は上辺だけの論議で終始した。議員の多くが「北海道電力と北電労組」に選挙のとき世話になっているからであろう。
・各地で開催される「原発を考え・被災者を支援する集い」に議員は誰も顔を出さない。議員は当選すると別の世界に住む。市民派を名乗って当選した道会議員も心底から原発災害を考えていると思えない。
・国会も「電力会社と電力労連」の利害を代弁する議員が多い。日本政治は「原子力村に加担する政治」である。
・根本問題は、有権者が「義捐金を拠出」し「ボランティアには出かける」が「莫大利権に群がる政治勢力」を減少させないことにある。

4 メディアは真相報道をしない。
・水素爆発のとき、テレビ各局は「大したことではありません」「身体に影響する程のものではないです」と解説する学者ばかりをスタジオに招いた。「原発は危うい」と言い続ける学者は呼ばなかった。原発推進の姿勢は今も変わっていない。
・新聞もテレビも、災害地の「自宅には帰れない現実」に迫らない。電力業界と政府に従属して巧みに真相究明を避ける。
・ドイツテレビは立ち入り禁止区域の内部を取材して「福島原発労働者の実態」は報道した。
ドイツZDFの「動画」を是非ご覧いただきたい。
   http://www.youtube.com/watch?v=aAE-QBmC1VA  
   http://www.youtube.com/watch?v=kH00psyB4lc

 
 
本筋は高橋知事の態度である
(カテゴリー: 原発災害と自治体政策
  本筋は高橋知事の態度である。

 10月17日の新聞各紙は、道が「やらせに関与したか否か」を調査する「第三者検証委員会」を北海道庁が設置したと一斉に報道した。
 しかし、今重要なことは知事の態度である。
 すなわち、「やらせ」を指摘した北電の「第三者委員会報告」が出たのだから、次は高橋知事が「原発3号機プルサーマル計画」に如何に対処するかを答えるべきである。
 道庁職員が「やらせに関与したか否か」よりも、こちらが本筋である。
 これまで、知事は「3号機プルサーマル計画」に、地元の多くは反対ではないのだとして運転再開を容認した。だが今、北電は「やらせ」を指摘されて認めた。道民は「高橋知事はどうするのか」と見守っている。新聞記者は道民に代わって質問する。それが新聞の役割である。高橋知事は「プルサーマル計画を振り出しに戻す」と言明すべきである。
 
 18日、高橋知事は「道の第三者検証委員会」の調査結果を待ちたいと記者会見で述べた。前回は「北電の第三者委員会」の報告を待ちたいと言ったのである。
 なぜ新聞は、「道が第三者検証委員会を設置した」ことをまるで「問題の本筋」であるかのように報道するのであろうか。道職員が「やらせに関与」したか否かよりも、北電の「やらせ」が指摘されたのであるから、新聞は「高橋知事の態度」に迫ることである。知事の「時間稼ぎ」に手を貸してはなるまい。「スジミチをズラス」ことに協力してはならない。

19日の報道(毎日新聞)によれば「道の検証委員会」は道職員が事務方と称して調査を行うのである。外部だけの「北電の第三者委員会」とは異なるのである。人事昇進が第一の公務員が知事に都合の悪い調査を行う筈はないのである。知事は最初から「北電に協力・原発には賛成」と見られているのだから、聴取を受ける道職員が真実を話す筈はないのである。

 
北電「やらせ問題」の調査委員会報告ー北電社長と北海道力知事の責任
(カテゴリー: 原発災害
  北海道電力「やらせ問題」の調査委員会報告
    -北電社長と北海道知事の責任―

 本日(10月15日)の新聞各紙は、北海道電力の泊原発3号機プルサーマル計画をめぐる「やらせ問題」の調査委員会報告を一斉に報じた。
 報告は「北電の組織的関与があつた」「道庁職員が賛成意見を出させる要請をした」と指摘した。
 北電副社長が「関係者を処分する」と語ったのは筋違いである。北電の関係者が勝手に「やらせを画策する」などあり得ないのだ。社長が表に出てきて「北電として誠に申し訳ないことでありました」と「北電の責任」を認めて道民に謝るべきである。
 北海道庁の責任も同じである。高橋知事は「調査をします」と記者会見で語った。何を今さら調査であろう。道庁職員が「やらせに関与した」ことは明白である。高橋はるみ知事が為すべきは、「やらせの賛成意見」を口実に「原発容認」に舵を切ったのだから、「プルサーマル計画」を振り出しに戻すべきである。そして「シンポジュウム」ではなくて、道民が「正当な判断」が出来るよう「学習活動を支援」すべきである。
原発災害を心底から考えない議員
(カテゴリー: 原発災害と自治体政策
 原発災害を真剣に考えない議員と有権者と新聞報道
   をテーマに公開討論集会を開催する

     ザ・討論
  ~原発災害・広がる放射能汚染~
    真剣に考えない有権者
    心底から考えない議員
    肝心なことは報道しない新聞
  
   10月21日(金)  午後6時半~
   札幌エルプラザ 2階 環境研究室 (無料)
   (札幌市北区北8条3丁目  011-728-1222)

 進行司会 谷百合子
 パネラー 布施哲也(元清瀬市議 反原発議員連盟)
       佐藤英行(岩内町議)
       宍戸隆子(福島から札幌市民へ)
       報道関係者
       被災地支援活動の市民
 討論司会  森 啓

  主催  NPO法人自治体政策研究所
      無防備平和のまちをつくる札幌市民の会
      市民自治を創る会
  
鉢呂辞任と新聞報道
(カテゴリー: 原発災害と自治体政策
  鉢呂辞任と新聞報道  

 鉢呂氏の経産大臣辞任を巡る一連の新聞報道を疑問に思う。
 発端は二つの新聞記事であった。
 一つは「まるで死の町のようであった」と被災地の印象を語った。
 二つは、宿舎の玄関前に集まった記者の非公式取材のときに「防災服の放射能をつけるぞ」と言った、との記事である。
 たちまち、「被災者の心情を逆なでにした」「立場を弁えない軽率な言動」の批判と非難の記事が渦巻いた。なぜ渦巻いたかは後に述べる。
 
前者の「死の町のようであった」は、その言葉だけを切取れば、「被災者感情を逆なでする言葉」にもなるであろう。だがしかし、人ひとり居ない無人の被災地は異常で不気味である。「死の町のようであった」の感想のどこが良くないのか。
 後者の「防災服をこすり付けられた」と告発した記者の職業倫理については後日に述べる。

 「取材に同行した記者」と「非難する論評子」にお訊ねしたい。

 まず、同行した記者に訊ねたい。
 鉢呂氏は被災地を視察しているときどのような態度と眼差しであったのか。被災者と言葉を交わすときの鉢呂氏の表情はどうであったか。記者はそれを見ていた筈である。見ていなければ頓馬な記者である。
 現在の国会議員は「口先だけで同情する議員」と「利権に群がり保身を第一にする議員」が大多数であると思う。
 その中にあって、鉢呂氏は生真面目で涙腺も豊かな人間的感性の持ち主であると思う。鉢呂氏が被災地の惨状に寄せる心情は「そこいらに居る国会議員」のレベルをはるかに越えるものだと思う。同行した記者はなぜそれを黙っているのか。いかようにも記事にできるではないか。それが職業ではないのか。

 次に論評子にお訊きしたい。
「如何なる言葉」であれば良かったのか。
「まるで死の町のようであった」に代わる「適切な言葉」を示して頂きたい。
 被災地の方々は、家族と離れ、隣人とも、クラスメーともバラバラになって暮らしているのである。可愛がっていた猫を想って悲嘆にくれる少女もいるのだ。

 一日も早く自宅に帰りたい。帰って農耕畜産をしたいのである。だが「何時になれば帰れるのか」が分からない。
 被災者は現実を認めたくないのである。現実を受け入れられないのである。被災地の現実を語ってもらいたくないのである。
 であるから、如何なる言葉も「心情を逆なでする言葉」になる。
 新聞を読んで鉢呂氏を批判される方々は、自分であれば「どのように語るか」を考えてみてもらいたい。

 新聞は話題になればどのようにでも報道する。大臣を辞任に追い込む記事を書けば勲章ものである。新聞はまことに無責任である。だから新聞記事をそのまま受け取ってはならない。そのまま受け取るから日本は低レベルの民主主義になっているのである。
 
 新聞記者には、本物のジャーナリストもいるが少数である。多くは日和見のサラリーマン記者である。そして風上に置けない悪質非道な記者もいる。それらが「新聞」の名に隠れて「記事」を書いているのである。新聞社ほど官僚的で風通しが悪くて要領のいい人物が昇進する職場はないと言われている。そして幹部になれば「現状の継続に利益を得る勢力」と溶融するのである。
 
読者は賢明でなくてはならない。メディアの背後にいる黒幕に騙されてはならない。これまで「原発安全」の記事に騙されたのだから。

 鉢呂氏が非難されているのは「被災地の現状を率直に語ったから」である。表現の問題ではないのである。考えても見よ。
 長閑に見える無人の風景は不気味で異様で不条理ではないか。「あってはならない光景」ではないか。
 この惨状に衝撃を受けた鉢呂氏が「まるで死の町のようであった」と語ったことを、「冷たく思いやりがない言葉」だと非難する新聞に、加担するのは賢明ではあるまい。
 
 狡賢い保身の政治家であれば、心中に「いつになれば帰れるであろうか」の同情心もなく、「政府として一日も早く帰れるよう努力をします」と語るであろう。現地の感想を訊かれても真摯に語らないであろう。
 なぜ語らないか。「タブー」に触れるからである。

 現在日本の「タブー」とは「被災地の運命を語ってはならない」である。
 チェルノブイルは、25年を経過した今も「住めない地域」が続いているのだ。
 福島被災地の、その運命を語れば、「やっぱり原発は危ういのだ」「原発は事故になれば住めない土地になるのだ」「だから点検中の原発も再稼動してはならないのだ」と人々が考え始めて原発反対の世論が高まる。
 
そうなれば「莫大利権」を損なうことになる。原発は「莫大利権」である。「莫大利権の人達」が「タブーの元凶」であるのだ。
 だから、政治家も学者もメディアも「被災地福島のありのままの現実」を語らないのである。新聞読者は「これはオカシイ」と思わなくてはなるまい。

 本論は「鉢呂氏の擁護」が目的ではない。新聞読者に「死の町のように」なったのは、「何が原因で」「なぜこうなったのか」「住める町になるであろうか」「故郷に帰れるであろうか」を考えることが重要だと言っているのだ。
 論評子も、鉢呂氏の「不用意な感想」を咎めるよりも、現在日本の「タブー」に読者の注目を誘う(いざなう)べきである。ジャーナリストの本来職分は「タブーへの挑戦」ではないのか。現在日本に「タブー」が存在しているではないか。本物のジャーナリストならば挑戦するであろう。
 
鉢呂氏の発言を「不用意」と述べたのは、鉢呂氏は大臣就任の直後から「安全委員会の委員に原発批判の人も入れて委員を差し替える」と言い、「TPPは農業・水産業に大きな影響があるから慎重に」と語った。であれば、罠が自分に近づくことを予想し警戒すべきであった。親しげに近寄ってくる記者が罠を隠していることにも注意をするべきであったのだ。
 
昵懇の月刊誌編集長から、「伝聞の域を出ませんが、記者からの「放射能まみれですね」との軽口に、鉢呂氏が既報のような言動で返したようです。」のメールが届いた。
 その場の真偽は不明であるが、新聞記事を読む側が「一歩前に出た体験のある人」と「常に御身大切な生活態度の人」とでは所見が異なるであろう。前者は「刺されたな」とまず直感する。後者は「大臣ともあろう人が何ということを」と新聞記事に同調するであろう。


 福島原発は未だ収束していない。現在只今も、大気中と海中と地中に放射性物質が飛散し流出が続いている。被災地周辺の子供たちが成長して思春期になったとき「ホルモン異変」の障害が生ずる不安がある。チェルノブイルでは多数の異変が生じたのだ。

 しかるに、その原因者の東電は今もなお「黒く塗り消した情報だけ」を提出する。それを咎める権限を持つ側に「電力会社と電力労連からの支援」を受ける人達がいるからである。北海道民主党は泊原発に関して電力労連から文書で抗議されて「党は原発に反対ではないのです」と弁明に四苦八苦した。

 菅首相が水素爆発の直後に「福島はもう帰れないのではないか」と言ったとき、議員と官僚と新聞が寄って集って(たかって)「その発言を圧殺した」ではないか。
 東電から「第一原発が危険になったから全員撤退したい」と連絡があったときも、経産官僚と海江田経産相は何時間も菅首相に報告しなかったではないか。(TBSスペッシャル「原発攻防180日の真実」)
 
自民にも、公明にも、民主にも「莫大利権に繋がっている人達」がいるのだ。メディアにもいる。だから、これほどの大災害になっても、原発推進派が巻き返すのである。野田首相も原発維持と原発輸出を表明して経団連に歓迎されたではないか。
 これらの人達が、「福島の現実を語る」ことを抑えているのである。だから、誰も「被災地の現実と運命」を語らないのである。
 
これがタブーの構造である。
 この構造にメスを入れるのがジャーナリストであるのだが、なんとも情けない「新聞各紙」であることよ。
 科学者はなぜ「地域全体をすべて除染することはできないのです」「自宅には帰れないのです」と真実を語らないのか。語るのが「科学者の良心」ではないのか。語らないばかりか、電子工学の講座がなくなっては「メシの食いあげだ」と「原発安全」を唱える学者が現にいる。北大工学部にもいる。

 被災地の首長に申し上げる。
 原発立地交付金で財政が潤い、公共施設を整備し地元に働き場所ができたと喜び、「安全な原子力で平和な豊かな町」の看板を掲げたが、今になって考えれば「国策いう名の巨大利権」に「長閑で豊かな故郷」を売り渡したのではあるまいかと自省し、電源三法交付金で潤った自治体が軒並み財政窮迫になっている現実を顧みる。それが被災地首長の責務である。

「住民全員で元の生活に戻れることを切実に希求する」のは尤も至極なことである。だが同時に「元の生活に戻ることができるであろうか」を冷静に考えるのも地域のリーダーの責務である。チェルノブイルの実情を苦しくとも直視するのがリーダーの役割である。
 
電力会社は今になっても平然と黒く塗り消した情報を提出しているのである。それを咎めない政府とメディアである。「これは何故か」を洞察するのが被災地首長の責任である。
 鉢呂氏の発言を「被災地住民の感情を逆なでした」と怒るのではなく「冷静に現実を直視する」ことだ。敵を見誤ってはならない。口先だけの災害復興に再び騙されてはなるまい。

 原子力発電は機械であるから「絶対安全」はない。原発は事故になれば手に負えない。日本の技術は原子力村に身を寄せ「自己の保身」を第一にする「科学者の良心を失った」人達の技術である。「安全神話」で「万一の備え」もせず「事故マニュアル」もない技術である。
 
放射能収束には10万年を超える年月を要する。日本は地震帯の上にある。使用済み核燃料の処理技術はない。その危険な使用済み核燃料を原発建屋内に大量に保管し続けているのである。狂気の沙汰ではないか。

 それでも「原子力発電は必要なのでは」と思う方には、経済同友会終身幹事の品川正治氏が岩波「世界」5月号に寄稿した「原子力と損害保険(ブレーキをかける矜持と見識)」と伊東光晴氏の「経済学からみた原子力発電」岩波「世界8月号」を薦めたい。

原発災害ー村上春樹と寺島実郎
(カテゴリー: 原発災害
 原発災害―村上春樹と寺島実郎

 作家の村上春樹さんが6月9日、「カタルーニャ国際賞(スペイン)」の受賞スピーチで「原発批判」を、自身への反省をこめて語った。
 「東京電力と日本政府」を批判し、広告費で買収された「メディア」と黙認してきた「国民」も、加害者であると述べた。
 YouTubeは「ノーカット動画」を世界に配信した。http://www.youtube.com/watch?v=Ov_eqERdKi4 (参照されたし) NHKは翌日午後七時の全国ニュースで「村上スピーチ」を放映した。報道ステーションも「スピーチ映像」を紹介した。問題は「そのとき」である。

 古館キャスターが「今のスピーチを聞いてどう思いますか」と寺島実郎氏に訊いた。「原爆]と「原発」を同じ「核」だと語った作家の言葉は重いと思うが、私は立場を異にする。日本は3万5千人の電子工学卒の技術者を抱えている。平和利用の技術で世界に貢献するべきです、と持論を述べた。
 古館「お言葉を返すようですが、福島で多くの人が現に苦しんでいます。安全と言ったその技術が破綻したのではないですか」と返した。
 寺島「日本が原発を止めても中国は8千万キロWの原発計画です。日本は技術で国際社会に貢献するべきです」と繰返した。
 古館は視線を正面に戻して「私は到底そうは思えないです」と呟いた。

 人の内心は表情に現れる。番組司会のキャスターに「私は到底そうは思えないです」と呟かれたとき、寺島氏の「内心」が表情に現れた。そこには「識者の矜持」は無かった。そして古館の表情には「正当性の自負心」があった。
 村上春樹氏は賞金930万円を被災地に寄付する。

 原子力発電は事故になれば手に負えない。使用済み核燃料の処理技術はない。その危険な使用済燃料を原発建屋内に大量に置き続けている。狂気の沙汰である。
 だが「利権と保身」が「原発容認派」を存続させるのだ。
 寺島氏が言う東大電子工学卒は「原子力村に身を寄せて安全神話を合唱した保身の人々」である。科学者の良心と勇気を放棄した人々である。福島水素爆発のときにはテレビスタジオに現れて「心配ありません」と言った人達である。
 経済同友会終身幹事の品川正治氏が岩波「世界」5月号に寄稿した「原子力と損害保険(ブレーキをかける矜持と見識)」を、寺島氏には是非お読み頂きたいと思う。

 北海道の高橋知事は8月17日、泊原発3号機の運転容認を表明した。
 その理由は「国の安全宣言を信頼する」「3号機を運転しないと冬場の電力需要に対応できない」であった。
「何を根拠に国の安全宣言を信頼するのか」「何を根拠に電力不足を言うのか」「正確詳細な資料を北電に要求し提出させたのか」。それを訊きたい。
 高橋知事は最初から泊原発の運転再開に賛成であったと思う。

 北海道議会は「抽象的な言葉で質問」し「抽象的な言い回しの答弁」で終始した。「泊村の近くに活断層が判明した」「道民の生命安全を守るのが議会の責務だ」と、心底から真剣に考える道議会議員は唯の一人もいないように思えた。
 議員は「自分は知事表明に賛成ではないのだが、会派の見解がそうではないから」などと弁明するのでもあろう。
 議員は選挙が終われば「言葉だけで行動は別」になる。
 市民派を名乗っている二人の道会議員も同じである。

 9月4日の新聞各紙は、北海道電力泊原発3号機のプルサーマル計画を巡るシンポジウムの「やらせ」問題で、「北海道電力は事実関係を調査する第三者委員会を設置したと発表した」と報じた。この新聞報道を疑問に思う。
 記事の見出しは「第三者委員会」である。だが委員の人選は北電である。これは「北電の調査委員会」である。
 なぜ、何の注釈もつけずに「第三者委員会」と報道するのか。
 「第三者を装う北電の意図」を黙過する報道感覚を疑問に思う。これでは北電意図のお先棒担ぎではないか。
 この記事には、これまで(今日の重大な事態に至るまで)「安全神話」を報道し続けたメディアであったことへの反省がない。
 考えてもみよ! 北電が委嘱する委員会が、重要で微妙なこの時期に、「やらせの有無」と「行政判断への影響」を、的確公正に調査し報告するとは思えないではないか。
 新聞は、北電発表記事と同時に「高橋知事と北海道議会」の責務を質す記事を報ずべきである。即ち「調査委員会の設置」は、北海道民が代表権限を信託した北海道政府の責務であるのだから。北電委員会は偽委員会であるのだから。
「市民政治」と「市民行政」
(カテゴリー: 自治体学理論
 「市民政治」と「市民行政」

 現在「市民政治の可能性」の刊行を準備している。 
 その構成は次のようなものである。
 
  市民政治の可能性
   1 市民政治
   2 市民政治の主体
   3 批判的思考力
   4 市民行政
   5 市民の政策形成力

  以下の文章はその一部である。   

 市民政治
 (1)市民政治とは「政策の形成と実行」に市民が実質的に関与する政治システムである。即ち「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置し、「中央集権」を「地方分権」に組み換え、「行政支配」を「市民参加」に転換して「地方公共団体」を「自治体」に変革した政治システムである。
 現在日本の代表民主制度は形骸化し議会不信が普く増大している。議員は選挙が終われば白紙委任の如く身勝手に行動し、有権者は選挙の翌日には「陳情・請願の立場」に逆転している。そのため、行政と議会に対する市民の不信は高まり、自治体では「議会不要論」の声さえも生じている。
 しかしながら、選挙は「白紙委任」ではない。選挙は代表権限の「信託契約」である。首長と議員の身勝手な言動は「信託契約」違反である。
 代表権限を制御するために「自治基本条例」が考案されて基本条例の制定が広がった。だが「行政不信」と「議会不信」は一向に改まらない。制定方法に根本的欠陥があるからである。(制定方法の根本的欠陥は北海学園大学開発研究所・開発論集87号に記述した)
 「市民政治」とは、民主的政治制度の再構築をめざす規範概念である。

(2)代表民主制度が形骸化した主要な原因は、政治権力の場にいる人達が報道機関を支配し世論を誘導し有権者を被治者に貶めているからである。
 そしてまた、有権者の側が「御用メディア」「御用学者」にたやすく騙されるのも形骸化の原因である。
 民主政治制度の再生には「政治理論の転換」と「市民の政策形成力」の高まりが必要である。

(3)政治理論の転換とは「国家統治理論」を「市民自治理論」に転換することである。
 政治権力の場にいる人達が今もなお「明治憲法の国家理論」を保持しているから「理論転換」が必要なのである。
 国家試験を出題し採点する学者の多くも「国家統治の国家学理論」である。代表民主制度が形骸化するのは制度を運営する人達に問題があるからだ。 
 国家理論とは「国家」を統治主体と擬制する理論である。即ち国民を被治者とする国家学理論である。それは「明治憲法の基本原理」を踏襲した「国家学」である。
 「国家観念」の吟味が必要である。「国家三要素説」と「国家法人理論」は天皇主権を偽装する国家理論であったのだ。「国家」が統治主体であれば、主権者の国民は「国家」を批判も制御もできず交代もさせられない。
 民主政治は「市民と政府」の関係である。即ち「主権者である市民」と「市民が代表権限を信託した政府」との関係である。「市民」が「政府を選出し制御し交代させる」のである。民主政治の理論で重要なのは「政府責任の理論」「政府制御の理論」である。論点は「国家」ではなく「政府」である。
 「国家」という言葉は、官僚と権力政治家の「隠れ蓑」の言葉である。国家理論に騙されてはならない。「国家」の言葉を安直に使ってはならない。明治憲法原理の「国家三要素説」が現在もなお蠢いているからである。即ちそれは「国民を国家の一要素とする」国家学の理論である。 
 市民自治とは、「市民」が公共社会の政治主体であり、市民が公共社会を管理するために「代表者を選出し制御し交代させる」とする自治体学の理論である。


 市民行政
 市民行政とは市民が市役所に入って職員と一緒に仕事をすることである。
 市民が選出した首長が「期間と職務」を限定した「市民行政・職員」を委嘱するのである。
国家学の行政法学は、行政は行政職員(公務員)が行なうものである、の観念に縛られているから、「市民行政」という言葉に違和感を抱き了解できない。
 了解できないのは既成の行政法学理論に固執するからである。
「国家統治の国家学」から「市民自治の自治体学」への理論転換が不可欠である。国家学の行政法学理論では「地域活性化の道筋」は見出せない。「行政不信」を解きほぐすことは出来ない。市民との信頼関係を構築することもできない。
 まずは、「行政概念」の転換が必要である。
「行政概念の転換」とは次のようなことである。
 国家統治学は「行政とは法の執行である」と定義する。自治体学は「行政とは政策の実行」であると考える。「政策」とは課題と方策のことであるから、「政策の実行」とは課題を解決することである。「地域課題の解決」は公務員だけではできない。
「市民と行政職員の協働」が不可欠である。協働とは「主体双方の自己革新」と「相互信頼」を前提にした言葉(造語)である。「学者」も「行政職員」も「協働」の言葉を連発する。連発する学者と行政職員が「市民行政」を忌避するのは矛盾である。重要なことは、国家学の行政法学理論に固執せず、柔軟に発想し論理思考を働かせることである。
 これまで、参加・参画・協働という言葉が使われた。実質内容にさほどの違いはない。「市民行政」を「市民参加」と考えればよいのである。
「市民参加」とは、市民が政策立案、政策決定、政策執行、政策評価の各過程に実質的に関与することである。つまりは、市民が地域社会の当事者として政策の実行に関わることである。
 市民行政とは市民が行政職員と協働して政策の実行に関わることである。

 
公開討論会
(カテゴリー: 自治体学とシンポジュウム
  公開討論会 「市民自治の実践と継続性」
~原発事故が教えるもの~

 日本人は世界の人々から、災害に遭遇して「礼節であり」「秩序ある態度」であると賞賛されているが、日本人は賞賛に値するであろうか。
 「自然災害」と「利権災害」を混同してはならない。
 「利権災害への諦め」は幾世代もの歳月で堆積した「処世術」であり「公共社会への参画意識」の劣弱さである。公共社会への関心低下は重大な事態であり、この状態を打開するには実践に繋がる学習活動が必要であるとの認識から、下記の公開討論会を開催する。

  ザ討論 市民自治の実践と継続性~原発事故が教えるもの~

 主 催 北海学園大学開発研究所  NPO法人自治体政策研究所
 日 程 2011年7月9日(土)13時30分~16時30分
 場 所 北海学園大学・AV 4番教室

 進行司会 谷百合子
  実践報告
   北海道自治土曜講座
   さっぽろ自由学校「遊」
   札幌都市研究センター
  討 論
   川村喜芳(北海道土曜講座実行委員)
   大西有二(北海学園大学法学部教授)
   山口 たか(市民自治を創る会代表)
   鈴木 一(札幌地域労組書記長)
   浅野輝雄(自治体政策研究所理事)
  司会 森 啓(開発研究所特別研究員)
   論点 
    何を学ぶか
    何のために学ぶのか
    「知っている」と「分かっている」は同じでない。
    「知っている」が「分かっている」になるには何が必要か。

 参加者  市民  議員  教職員  学習団体役職員  学生
 参加費  無料
  会場で、「北海道土曜講座の16年」を特価頒布する。
世界の人々から賞賛されているけれど
(カテゴリー: 原発災害と自治体政策
    日本人は賞賛されているけれど

 日本人は世界の人々から、災害に遭遇して「礼節であり」「秩序ある態度」であると賞賛されているが、日本人は賞賛に値するであろうか。

 NHKスペッシャルで山折哲雄(宗教学者)と荒俣宏(博物学者)が災害現地で惨状を眺めながら対談した。日本人が「怒らない」のは、総ては移ろい輪廻する「仏教的無常観」が根底にあるからだと語り合った。
 この対談に違和感を覚えた。そして問題であると思った。 

 「自然災害」と「利権災害」を混同してはならない。
「津波」は自然災害であるが、「原発災害」は利権災害である。
「利権災害への諦め」を無常観で説明してはならない。「この諦め」は幾世代もの歳月で堆積した「負け犬根性」の「処世術」であるのだから。

 すなわち、「長いものには巻かれろ」「お上には逆らえない」「何事も大勢順応で」の「世渡り術の諦め」である。その諦念は、「公共社会への参画意識」の劣弱さであるのだ。四年に一度の選挙も「どうせ何も変わらないのだから」とする諦めである。そしてまた、東大電子工学出身の人々が「原子力村に身を寄せ原発推進派になる精神構造」に共通する心性である。
 その心性を「無常観」で言説するのは「公共社会の認識無智」である。「利権災害」は宗教論ではない。政治理論の問題である。

「利権災害」を「自然災害」と意図的に混同するのは、電力会社に買収された「メディア」と「学者」と「政治家」である。その混同は「正当な怒りの心情」を「はぐらかせて抑える」ためである。
 石原都知事の記者会見も意図的混同である。荒俣・山折対談もこれと同根ではあるまいか。お二人を登場させたNHKスベッシャルの番組意図は何処にあったのであろうか。

 メディアは、石巻や気仙沼などの「無残なガレキの惨状」を盛んに報道するが、原発災害の惨状は報道しない。報道するのは災害を起こした東京電力の発表情報ばかりである。それは「都合の悪い情報」を隠し「事故を小さく見せる」情報である。

 石巻や気仙沼の「ガレキの惨状」は絵になるが、原発周辺地域の「長閑な田畑の風景」は映像になり難いであろう。だがしかし、報道するべきは、長閑に見える「無人風景」の不気味さである。「ガレキの惨状」よりも「無人の田園風景」を「不気味」「不条理」「あってはならぬ事態」と洞察するのが、報道関係者の職業感覚でなければなるまい。

 石巻や気仙沼では遅かれ早かれ復興が始まるが、放射能災害は「吾が家・吾が土地にも帰れぬ」無残で深刻な災害であるのだ。神奈川の足柄茶も静岡の名産茶もセシウム汚染で出荷できない。人体への被害は広範囲に進行しているのである。

 政府も東京電力も事故は「想定外の津波」で発生したと言う。だが真実は、津波到来の前に地震で配管が破損し気圧漏れが始まったのだ (広瀬隆「福島原発メルトダウン」朝日新書56頁)。
 NHK報道局は3月21日付文書で被災地の放送局長に「取材は政府の指示に従うように」と取材コントロールを発している (岩波「世界」7月号153頁)。メディアは肝心なことは報道しない。

 避難者は互いを思いやり、ボランティアは駆けつけ手を差し伸べる。その人倫的で礼節な行動は賞賛に値する。だが日本人の多くは「御用メディア」と「御用学者」にたやすく騙され、災害を社会公共の問題として解決する行動には連帯しない。七十年代には社会に純粋な熱気があった。革新団体の役員には自己犠牲をも厭わぬ献身があった。それらが今はない。

  政府とメディアに騙されて怒らない従順な日本人は賞賛に値しないのではあるまいか。
  

自治体理論の実践ー北海道土曜講座の16年
(カテゴリー: 北海道自治土曜講座
 刊行「自治体理論の実践―北海道土曜講座の16年」

「北海道土曜講座の16年を顧みる」を公人の友社から刊行した。
 本書は「北海道土曜講座の16年」は何であったか、を顧みる書である。土曜講座の役割が終わった訳ではない。解明するべき自治体課題は次々と生起する。市民自治の実践理論の研鑽と行政の責任回避の構造究明が終わる訳はないのである。

 土曜講座が目指したのは「自治体理論の習得」であった。
 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
 説明理論は事象を事後的に客観的実証的に分析して説明する認識理論である。
 実践理論は現在の課題を未来に向かって解決する理論である。「課題は何か・如何なる方策で解決するか」を考えるには「経験的直観」が不可欠である。経験的直観は一歩前に出る実践によって得られる。自己保身の状況追随思考では経験的直観は身に付かない。実践理論は歴史の一回性である実践を普遍認識に至らしめる理論である。

「知っている」と「分かっている」は同じでない。
 その相違は、困難を覚悟して一歩前に出た「実践体験の有無」にある。自治体理論にも同様の問題が存在する。

 本書は三部構成になっている。
 第一部は、自治体改革をめざす土曜講座第二幕を展望する論述である。
すなわち、都市型社会の構造特性を明示し2000年代の自治体改革の基本論点を提示し、次いで自治体改革の課題と解決方策を見究めるには実践理論が重要であることを論証し、土曜講座16年間の経過を詳細に検証した。それは講座の第二幕を展望するためである。
 
 第二部は、講師を務めて下さった先生方、講座を報道して下さった記者の方々、裏方として運営事務を担ったスタッフ、そして受講者の方々による土曜講座への「愛着と感慨」の文章である。

 第三部は資料である。
 新聞等に報道された記事、全91回の講座のタイトルと講師一覧、実行委員とスタッフの一覧である。詳細に記録したのは自治体理論の研鑽習得をめざす自治講座が北海道のみならず全国各地で再び開講することを希求するためである。

(主要な内容)
 2000年代の自治体改革にむけて 松下圭一
 自治体学の実践論理        森  啓
 地方自治土曜講座・16年を振り返る 川村喜芳
 市民の自治力は学習で培われる 宮本憲一





原発災害と自治体政策
(カテゴリー: 原発災害と自治体政策
  原発災害と自治体政策

 2011年4月28日に札幌で「福島原発」と「今回の選挙」を考える公開討論会を開催した。
 発生すれば手に負えない「原発災害」を未然に防ぐ自治体政策を討論するためである。
 主催は自治体政策研究所、市民自治を創る会、自由学校 「遊」、無防備平和のまちをつくる札幌市民の会

 討論項目
 1「官房長官と保安院」の説明、「東京電力」の記者会見、「切り込み質問」をしない記者、「テレビスタジオの学者」の解説態度、それらを眺めている有権者。

 2 アメリカ・韓国は「80キロメートル内に立ち入るな」、日本は「30キロメートル」の外に避難。
 事故は未だ収束せず「空中と海中」に放射性物質を放出し続けている。世界は大事件と見ているが日本人の現状認識はどの程度か。

 3 原子力発電所の「絶対安全」は何であったか。政府と学者とメディアは「安全」と言っていた。
 学校の教科書にも書かれている「安全神話」は如何にして作られたか。「原発マフィア」「原子村」とは何のことか。御用学者は存在するのか。原子力発電所の背後には莫大利権。現内閣の原発輸出政策―ヴェトナムで調印した。

 4 下請け企業の作業員を英雄的行動と称賛するが「危ういからイヤです」と断わることができるのか。
  無責任な設置をした東電幹部は東京の安全場所にいる。東電に事態収束の能力はあるのか。計測調査はなぜ「東電発表」だけなのか。

 5「外国から称賛される日本人」と「今回の選挙結果を出した有権者」は如何に相関するのか

 6 選挙運動中の「自粛」は何なのか。誰もオカシイと言わなかった。「ハッキリ考えず」「ハッキリ言わない」曖昧な吾々ではあるまいか。

 討論者
   山口 たか (市民自治を創る会)
   松井 豊 (民主党・北海道)
   原田優子 (札幌地域労組)
   谷百合子 (北海道電力と共に脱原発を目指す会)
   川村史子 (石狩風力発電を考える会)
 司 会 森 啓(自治体政策研究所)
   
討論内容は後日に記述する。

議会改革の論点
(カテゴリー: 自治体議会
 議会改革の論点

 自治体議会はあまりにも旧態以前で問題が多過ぎる。だが殆どの議員は「議会にさほどの問題あり」とは思っていない。小手先改革で議会批判をかわせると思っている。そのような認識水準の議員が議会基本条例の制定を競い合っているのである。そしてそれを、学者は一歩前進であると評価し協力しているのである。これが現状である。
議会改革とは端的に言えば「旧態依然の議員」を総取替することである。
しかしそれは、住民自身が「目先利益の住民」から「公共性の意識で行動する市民」へと自己を成熟させねばならぬ。

(1)議員特権
 議員は当選したその日から普通の市民とは「異なる世界」の人になる。新人議員も「特権の渦中」に自ら没入して次第に『議員』に化身する。議員になる前には「改めるべきだ」と言っていた「議会改革の問題点」も「二枚舌の思考回路」で正当化し弁護するようになる。初心を堅持する議員も存在するが例外的少数である。大抵の議員は有形無形の不利益・圧力に妥協して『議員』になる。議員になってみれば分かることであるが、積年の慣例・慣行の特権が『議員』に化身させるのである。

(2)会派拘束
 会派害悪の第一は「会派決定で議員の評決行動を拘束する」ことである。会派とは、議長・副議長・常任委員長などの役職配分を得るための「集まり」である。「政策会派」とは名ばかりで、その実態は「便宜と利害」である。
評決権は議員固有の権利であり責務であるのだ。「会派決定による評決権拘束」は議会改革の第一番目の論点である。しかるに議員も学者も、基本条例に否認規定を定める論議をしない。議会改革の急所が見えていないからである。

(3)議会構成
 現在日本の殆どの議会は高齢男性議員である。家計を担う子育中の年代の人は、議会開催が平日であるから当選しても議員は勤まらない。
自治体議会は性別も職業も年齢も地域を代表していない。住民代表議会と言えない実態である。議会開催日を平日夕刻と休日にすれば普通の人が立候補して議員になれる。家計収入の働きをした後の時間で議員活動が出来る制度に改めれば良い。議会で決議すれば出来るのだが議員が改めない。特権を守るためである。
女性議員も極めて少ない。この問題は、女性の有権者が (暫くの間は) 女性候補者に全員が投票すれば、ダントツで当選して次の選挙に女性候補者が増えて再び全員が上位当選して (フィンランド議会やルワンダ議会のように) 半数は女性議員にすることができる問題である。

(4) 議員員数
 全国的に「痛みを共にして」の言い方で、議会が議員定数を減らしているが、「議員の数を減らす」のではなく「議会不信と議員特権を改める」ことである。議員の数が減るのを喜ぶのは首長と幹部職員である。定数減は議会の監視力を弱めるのだ。監視力低下のツケは住民に還ってくる。
 住民が定数減に賛同するのは議会不信が根底にあるからだが、それは浅慮である。経費のことを言うのならば議員報酬を日当制に改めることだ。
 北海道議会は定数106名で札幌市内選出の道会議員は28名である。「政令市は府県並の権限だから、札幌市域は各区1人でよい」「人口割定数に合理性はないのだ」
 現代は「NPO活動の市民感覚」が「議員特権の議員感覚」を超えている社会である。市民感覚のあるアマチュア議員でよいではないか。

(5) 政務調査費
 政務調査費は実費なのだから、全員に同じ額を前渡しするのは「公金詐欺取得」になる。現に裁判になっている。調査活動の実費が必要であるのならば、現在の全額前渡しのやり方をやめて、事後に証票を添付して請求する制度に改めることである。なぜ、その改正に議員は反対をするのか。事後請求を「面倒だ」などの理由で賛成を拒むのは公金への感覚麻痺である。

(6) 与党と野党
 中央政治の政党系列を自治体議会に持ち込むのは間違いである。自治体議会は議院内閣制の国会とは制度原理が異なるのだ。自治体は二元代表制の機関対立制度であるから、自治体議会に与党・野党が存在してはならない。議会の全体が執行部と向かい合うのが自治体議会である。「与党だから批判質問はしない」というのは、制度無智であり有権者への背信である。オール与党のなれ合いも感情的対立も議会制度の自殺行為である。機関対立を意図的に誤認して「独りよがり」の議会基本条例の制定が広がっている。異常な事態の流行である。

(7)議会改革と基本条例
 基本条例にはこのようなことを明記するのだ。だが特権に胡坐する「首長と議員」が制定するのだから明記する筈がない。学者はなぜ「首長と議会で制定してよい」と言うのか。最近は学者も「制定に市民参加を」と言う。だが具体手法は述べない。言葉だけの「市民参加」である。不誠実で狡猾である。
自治体議会の改革
(カテゴリー: 自治体議会
 曖昧な議会改革論

「議会改革」が論点になったのは栗山町議会基本条例の功績であるのだが、何ら実質を改めない議会基本条例が大流行しているのは、栗山町議会基本条例の根本的欠陥に原因がある。(栗山町議会基本条例の根本的欠陥は2010-9-21のフログで述べた)
 東京財団・主催の「ニセ議会基本条例を斬る」の討論 (2010-1-28) で、前・栗山町議会事務局長の中尾氏は「住民としっかり向き合って」と述べた。だが中尾氏の「住民と向き合って」の意味は曖昧である。「住民と向き合って」ではなくて、「有権者投票の合意決裁」によって「市民の規範意識を高める」ことが重要である、となぜ明晰に言明しないのか。基本条例の制定権限は有権者市民にあるのだから。
 同日の討論では「制定過程に市民の参加を図る」との政策提言を掲げたが、どのような市民参加であるかは述べない。言葉だけの「市民参加」である。
 当日の「ニセ議会基本条例を斬る」の論客は、議会改革の「急所」を認識せず、時流に乗った表皮的論議をしているように思える。なぜそう思うか。
「最高規範条例の担保力は有権者市民である」「市民自治とは市民の自治力が高まることである」の論理認識が希薄だからだ。
 (財)明るい選挙推進協会の「会報316号(2011-1-24)」も「地方議会改革」を特集している。だがそこには、「議会報告会」や「反問権」の有無を、議会改革の先進事例として紹介している。しかし「議会報告会」や「反問権」は、目新しさが薄れて現在どういうことになっているか、を検証すべきである。
 議会改革の論点はこのようなことではない。(議会改革の論点はこのブログに後日述べる)
自治体学の概念
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学の概念

 自治体学会は一九八六年に「自治体学の創造と研鑚」を目指して設立された。学会の設立時には自治体学を「自治体関連諸学の総称の学」と仮定義した。爾来、二〇年を超える歳月が経過した。
 現在の憲法学、政治学、行政学、行政法学は「国家」を理論前提とする「国家学」である。国家学では現代社会が噴出する環境、資源、医療、福祉、文化などの「前例なき公共課題」に対して、部分的な問題点の指摘はするが全容の解明はできない。
生活の場で自治の問題として解決する「市民自治の視点」が欠落しているからである。
 国家学は「国家」を統治主体と擬制する。自治体学は「市民」を自治主体と考える。
 自治体学は実践の学である。すなわち、歴史の一回性である実践を理論化し、理論が実践体験を普遍認識に至らせるのである。実践を理論化するから規範概念が重要になる。
「規範概念」とは、未来を目的に設定し現在を手段とする「政策型思考の動態的実践概念」である。現状変革の意識が微弱であれば規範概念の理解は困難である。
八〇年代に流布した「行政の文化化」は規範概念である。行政の現状況に対する変革意識が薄弱であれば行政の文化化は意味不明の言葉になる。同様に「市民」も「自治」も「自治体」も規範概念である。市民自治の実践体験が微弱であればその概念認識は漠然である。
 自治体学は「市民と政府の理論」「政策形成理論」「自治制度理論」を包含する学の体系である。しかしながら、自治体学は完結した学の体系ではない。
 自治体学会は規約第二条に「自治体学の創造と地域自治の発展に寄与する」と定めている。すなわち、自治体学は「国家統治」を理論前提としてきた既成の国家学を「市民自治の学」に組み替える生成中の学である。
土曜講座を顧みて
(カテゴリー: 北海道自治土曜講座
 土曜講座を顧みて

土曜講座は何を目指したか
土曜講座が目指したのは受講者それぞれが「自分の見解」をもつことである。
「自身の思考力」を高めることである。
土曜講座は「知識習得」の場ではない。講師の話を丸ごと受容するのではない。講師の話は「思考の座標軸」を確かなものにするためである。
  
 土曜講座の成果
第一の成果は「受講者がお互いに知り合った」ことである。
 土曜講座の受講者は職場でも地域でも少数者であった。問題意識を有するが故に「何とかしなくては」と思い、発言し行動して評価されず、ときには「切ない思い」もしていたのである。
 その受講者が、満席の会場で熱気を体感し隣席と言葉を交し名乗り合い、問題意識を共有し知己となった。
土曜講座の当初のころは「講師を囲む」交流懇談会を盛んに開催した。全員の「一分スピーチ」を毎回行った。自分と同じ考えの人が「これほど沢山いるのだ」を実感した。
 北海道は地域が広すぎるので、他の地域の人と言葉を交わす機会は少なかった。土曜講座で知り合い語り合って「仲間の輪」が北海道の全域に広がった。何かあれば連絡し合える「親密な仲間の輪」である。活力は地域から生まれる。
「知り合った」ことが土曜講座の第一の成果であろう。

成果の第二は、「話す言葉」「考える用語」が変わったことである。
 「地方公共団体」が「自治体」に変わり、「地方公務員」が「自治体職員」に変わった。これまで使わなかった「自治体政策」「政策自立」「地方政府」「政府信託」などの「用語」で考えるようになった。
 「言葉・用語」は思考の道具である。「言葉が変わる」ことは「思考の座標軸」が変わり、「発想」と「論理」が変わることである。
 「地方公務員」から「自治体職員」への用語変化は「職業意識」「職業倫理観」をも変化させる。「国家統治」から「市民自治」への論理に共感するようになる。「中央が地方の上位」と思っていた(思わせられていた)長い間の思考習慣からの離脱が始まったのである。かくして北海道の各地に「目先の問題」を「未来への時間軸」で考える主体が成熟した。土曜講座第二の成果である。

第三は、116冊のブックレットを刊行したことである。
 講座での感銘は時間の経過と共に薄れる。ブックレットにしたことで感動が甦る。講義を刊行物にするのは手間のかかることであったが、受講しなかった人にも講座内容を伝えることができた。㈱公人の友社から刊行して全国の書店に出回り、自治体関係者の間で北海道土曜講座が話題になった。評価も高まった。
 例えば、講師依頼のときには「やっと私に話が来た」と言って快諾して下さるようになった。大学院のゼミでも教材に使われた。
 116冊のタイトルを総覧すれば「自治体課題の変遷」を知ることができる。

代表民主制度と自治基本条例
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
  代表民主制度と自治基本条例 
      
行政不信・議会不信
 市民は選挙の翌日には「陳情・請願の立場」に逆転し、首長と議員は「白紙委任」の如く身勝手にふるまう。
 このため、行政と議会に対する市民の不信は高まり、代表民主制度は形骸化して「議会不要論」の声さえも生じている。
 選挙は「白紙委任」ではないのである。「代表権限の信頼委託契約」である。身勝手な代表権限の行使と運営は「信託契約の違反」であるのだ。そして「代表権限の逸脱」を制御するのは有権者市民の責務である。
 かくして、考案されたのが「自治基本条例」である。
 現在、日本列島に自治基本条例の制定が広がっている。良いことである。良いことであるのだが「行政不信・議会不信」は一向に改まらない。
 なぜであろうか。これが「論点」である。

自治基本条例の制定権限
 自治基本条例は自治体の最高規範である。自治体の憲法であるとも説明される。憲法は権力の行使に枠を定めた最高規範である(憲法98条)。
自治体の自治基本条例は「代表権限の行使・運営」に枠を定める最高規範である。であるから「制定権限者」は有権者市民でなくてはならない。首長と議会は遵守する立場である。これが近代民主政治の制度原理である。
 しかるに、今全国に流行している基本条例は「首長と議会」が制定している。「有権者市民」には、制定後に広報やホームページで知らされている。
自治基本条例が役に立たない原因はここにある。なぜそうなったのか。
学者が「普通の制定手続きでよい」と説明するからである。

学者の理論責任
 推測するに、地方自治法は「条例制定は首長が提案し議会が議決する」と定めているから、この定めと異なれば「違法の条例だ」と批判される。「それは避けなくてはならない」と考えた。だが他方では「基本条例を最高規範条例である」と主張したい。そこで「条例文言にそう書けばよいのだ」と考えたのであろう。学者は「安直思考」と「矛盾論理」に気付くべきである。 
一方で「自治基本条例は自治体の最高規範である」と説明し、他方で「基本条例の制定は通常の条例制定手続きでよい」とする。それは矛盾論理である。
 学者は「新しい言葉を言説」し「新しい制度を提案」すれば、それで世の中が動くと考える。それを「学者の安直思考」というのである。 
 ことは「自治体の憲法」の創出である。安直な方法で制定できる筈はないのである。そしてまた、白紙委任の如くに身勝手に振舞っている「首長と議員」が容認する筈はないのである。学者が「通常の条例制定の手続きでよい」と説明するから「無内容な基本条例」が広がっているのである。
 なぜ、「代表権限の逸脱を制御する最高規範」の制定に市民は関わらないの
か。「市民の合意決裁」を不必要と考えるのはなぜか。なぜ「市民自治の規範
意識を地域に醸成する機会」を重要視しないのか。
 
自治基本条例に定める事項
 市民自治の理念(信託契約の意味)を明示する。
 説明責任―役職を異動しても決定した役職者に責任回避をさせない。
 情報公開―重要な判断資料を秘匿させない。
 全有権者投票―地域の将来に係る重大なことは首長と議会だけで決めないで有
 権者市民の意向を事前に聴く。
 自治・分権―中央省庁(官僚)の意のままにならない。
  ・自治体立法権
  ・自治体行政権
  ・自治体国法解釈権
 これらを定めておくのが自治基本条例である。

まちづくり基本条例と自治基本条例
  両者を混同してはならない。
・まちづくり基本条例の制定権限
  環境基本条例、福祉基本条例、災害基本条例などの制定権限は、首長と議会にある。選挙(信託契約)で市民が託したからである。
・自治基本条例の制定主体
  自治基本条例は「代表権限の行使に枠を定める最高規範」であるのだから「制定主体は市民」である。自治基本条例の制定権限は首長と議会に託されてはいないのである。

 有権者市民が合意決裁をする(有権者投票をする)ことによって、「吾がまちの最高規範を自分たちが制定したのだ」との規範意識が人々の心に芽生える。その芽生えが「市民自治社会の成熟」には不可欠必要である。