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■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
自治体学理論 ー市民行政
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学理論 ー市民行政

大学で学生に講義をする生業(なりわい)は終わったが、研究活動を続けるために「NPO法人自治体政策研究所」を設立した。

1) 夕張再生支援
・NPO法人自治体政策研究所の最初の活動は財政破綻した夕張市の再生支援であった。
夕張市は、2007年3月、財政再建団体に指定され総務省の管理下に置かれた。
 総務省の考える「夕張再生」は「353億円の債務額を18年間で返済する」である。だがそれは、「債務償還」であって「夕張再生」ではない。しかも、その債務総額353億円は、北海道庁が「みずほ銀行」などの債権者に、全額立替払いをして確定した債務額である。

・経済社会の通常では、返済不能になった「不良債権の処理」は、債権者会議の場で「何割かの債権放棄と返済保証の協議」がなされるのが通常である。財政破綻が見えていた夕張市に多額の融資を行った金融機関にも責任があるのだから、
北海道庁が為すべきは「債権者会議を設ける」ことである。だが、総務省と北海道庁は「夕張市民の生活」よりも「金融機関の債権保護」を重視したのである。

・NPO法人自治体政策研究所は、「夕張再生室」は「債務償還の管理」であるから名称を「債務償還管理室」に改め、新たに「夕張再生市民室」を新設して室長を任命し、市民室に市長が委嘱する市民を行政職員として加えることが「夕張再生を可能にする」と、夕張市長に献策した。

2) 市民行政
・NPO法人の二つ目の活動は「市民行政」の考え方を構想し提起したことである。
現代社会の公共課題は統治行政では解決できない。公務員だけでは解決・実現できない。行政職員と市民の「信頼関係を基にした協働」が伴わなければ解決できない。各地のまちづくりの実例がそのことを実証している。

・夕張再生には「市民と行政の協働」が不可欠なのだが、「市役所不信」が市民の側に堆積
している。市民が行政の内側に入って「行政事務」を担うことが信頼回復に必要であった。
・そこで、行政職員には、首長が任期内に委嘱した「市民の行政職員」と「公務員の行政職員」の二種類の行政職員が存在すると考える。つまり、「市民参加」とは、市民が行政機構の外から行政を批判し参画することであり、「市民行政」とは、市民が行政機構の内部で日常的に「行政事務」に携わることである。

・国家学の学者は「行政事務は公務である」「公務は公務員身分を有する者が行う」と考えるから、「市民行政の概念」が理解できず忌避する。だが、公務員の「身分」がなければ、行政事務を担えないと考えるのは、「国家が国民を統治する」と考える誤った考え方である。

 公務とは何か
・公務は「統治事務」ではない。「公共事務」である。
行政事務は「統治事務」ではなく「自治事務」である。
自治とは「それぞれ」「マチマチ」ということである。
自治体運営は「地域の人々の自由で創造的な運営」でなくてはならない。
地方自治法は自治体運営を画一的に統制し規律する国家法であってはならない。

・地方自治法は自治体運営の準則法である。地方公務員法も準則法である。
 これが自治体学理論は実践理論である。
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自治体学理論の系譜 まえがき
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学理論の系譜 まえがき

自治体学理論は実践理論である。
理論には「説明理論」と「実践理論」がある。
「説明理論」は事象を事後的に実証的分析的に考察して説明する理論である。
「実践理論」は未来に課題を設定し解決方策を考え出す理論である。
丸山真男教授は『日本の思想』(153頁)に「…である」と「…をする」の思考論理の違いを鮮やかに叙述した。実践理論は「…をする」の思考論理である。

1980年代、自治体に台頭した政策研究は「自治体の政策自立」を目ざす実践理論である。
 行政学の政策研究は「特定政策の実証的分析的な事後的研究」である。
 自治体の政策研究は「未来に課題を構想し解決方策を考え出す創造的研究」である。
課題を構想するとは夢想するではない。「課題を構想し」「解決方策を考え出す」のは、経験的直観の言語化である。経験的直観の言語化は「困難を覚悟して一歩踏み出し壁を解決した実践体験」によって可能となる。

 本書を刊行することができたのは、大塚信一氏(元岩波書店社長)が本書原稿をお読み下さり、「一人の市民がどれだけ既存の社会を変革できるかを示す稀有の本になると確信します」と推奨して下さったからである。深く感謝申し上げたい。
 大塚信一氏は岩波編集者として松下先生の著作『都市政策を考える』『市民自治の憲法理論』『日本の自治・分権』など数多く出版された。2014年には自ら『松下圭一 日本を変える』(㈱トランスビュー)を刊行なさった。

 本書を執筆することができたのは、松下圭一先生から40年に亘って示唆を頂くことができたからである。自治体学理論は「規範概念による規範論理」である。規範概念による思考を会得することができたのは、松下先生の「政策型思考と政治」を熟読したからである。

 1975年、『市民自治の憲法理論』が刊行されたとき、憲法学者も行政法学者も誰ひとり反論できなかつた。にもかかわらず、明治憲法感覚の「国家統治の観念」から脱却することができなかった。松下理論の市民自治を容認すると「学会で相手にされなくなる」からである。

民主主義は国家の統治ではない。市民の自治共和である。
松下理論を継承する。
自治体学理論とは
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学理論

 自治体学理論は「事態を事後的に実証分析する」説明理論ではない。「未来に目的を設定し現在条件を手段として操作する実践理論」である。
 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。「説明理論」は事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する理論である。「実践理論」は未来に向かって課題を設定し解決方策を考え出す理論である。実践理論は「何が課題で何が解決策であるか」を言葉で述べる。「言葉で述べる」とは「経験的直観を言語化する」ことである。

1市民自治
 「市民自治」とは、「市民が公共社会の主体であり公共社会を管理するために市民が政府をつくる」という意味である。
 自治体学は「国家を統治主体と擬制する国家学理論」に対して「市民が政府を選出し制御し交代させる自治の主体である」と言明する。すなわち、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置するのである。
 自治体学は「国家」ではなく「市民」から発想して理論を構成する。
「市民自治」は規範概念であるから、それを理解し納得するには、「国家統治の観念」に対置した「市民自治の理念」の明晰な所見が不可欠である。
 例えば、「自治とは自己統治のことである」と説明されている。だがこの説明は「自治」が規範概念であることの意味が理解できていないのである。「統治」というのは「統治支配する主体」と「統治支配される被治者」を前提にする観念である。「自治」を説明するとき「統治」の言葉を用いるのは、「自治」を「統治」に対置した規範意味が「理解できていない」のである。「市民自治」は自治体学の規範概念である。

 岩波新書『市民自治の憲法理論』(松下圭一)が出版されたのは1975年であった。それまでは「憲法は国家統治の基本法である」が通説であった。この本は「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置し「憲法は市民自治の基本法であるのだ」と明快に論述する。かくて、憲法理論と行政法理論は一八〇度の転換が必要になったのだが、憲法学者も行政法学者も「国家統治の観念」から離れられない(学会で相手にされなくなる)ので「市民自治の信託理論」を容易に認めない。だが、市民と自治体職員は自身の実践体験によって「市民自治の理論」を納得し理解する。

 例えば、菅直人衆院議員は、著作『大臣』(岩波新書)に「私は市民自治の憲法理論で育った世代です」と書き、橋本内閣の時「憲法65条で規定する内閣の行政権の範囲はどこまでなのか」と国会で質問をして「憲法95条の地方公共団体の行政権を除いたものである」との公式政府答弁を引き出した。そしてその経緯を著作『大臣』に国会速記録を付して記述している。

 筆者も学生のころは弁護士志望で司法試験の勉強をした。選択科目は行政法で、弘文堂から出ていた田中二郎『行政法』を熟読していたので、「市民自治の憲法理論」を読んだときは「目からウロコのショック」であった。このような経験を多くの人が語る。それが「市民自治の憲法理論」である。
 
2 国家法人理論と政府信託理論
 明治の時、「State」を「国家」と翻訳した。しかしながら、「ステート」は「全国規模の政治・行政機構」の意味であって、今風に言えば「中央政府=セントラルガバメント」である。「幽玄の国家」ではないのである。

 「言葉」は「思考の道具」であるから、思考を明瞭にするには「概念」を明晰にしなくてはならない。
 福田歓一氏(元日本政治学会理事長)は、一九八五年パリにおいて開催された政治学世界会議での報告で「われわれ政治学者は国家という言葉を使うことを慎むべきである」「規模と射程に応じて、地方政府、地域政府、全国政府と使いわけるのがよい」「人類の政治秩序の諸概念を再構築することが切実に必要であると信じる者として、過度に一九世紀の用語に囚われていることを告白しないではいられない」と述べた。

 ところが、国会議員と官僚は、現在も「国家観念」を言説し、「政治主体である市民」を「国家統治の客体」に置き換えている。「国家」を隠れ蓑にして「統治論理」を振り回すのである。「国家の観念」に「国民」を包含させるから(国家三要素説)、「国家責任」は「国民自身の責任」のようにもなって、国民の「政府責任」「官僚責任」追及の矛先をはぐらかすのである。

 国家法人理論は、「国民主権」と「国家主権」を曖昧に混同させ、「政府」と「国家」の区別を混同させる理論である。
 国家学は「国家統治」の「国家法人理論」である。自治体学は「市民自治」の「政府信託理論」である。政府信託理論は「市民」が「政府」をつくって代表権限を信託すると考える。
 民主政治で重要なのは「政府責任の理論」「政府制御の理論」である。

 [政府信託理論]
 政府信託理論を要綱的に整理すれば次の通りである。
(1)市民は公共社会を管理するために政府(首長と議会)を選出して代表権限を信託する。信託は白紙委任ではない。政府の代表権限は信託された範囲内での権限である。
(2)市民は政府の代表権限の運営を市民活動によって日常的に制御する。住民投票は政府制御の一方式であって代表民主制度を否認するものではない。住民投票は政府の代表権限を正常な軌道に戻らせる市民の制御活動である。
(3)市民は政府の代表権限の運営が信頼委託の範囲を著しく逸脱したときには信託解除権を発動する。信託解除権とは解職(リコール)または選挙である。

 70年代には「保守」「革新」のイデオロギー対立があった。そのころは「自治・分権・参加」は「革新の側」の用語であった。今は、保守・革新の別なく「市民参加」を口にする。知事も市長も町村長も省庁官僚すらも「分権」「自治」を言う。それはそれで良いのであるが、行政実態は「制度運営」も「手続き」も「統治行政」のままである。すなわち、言葉だけの革新理論である。「自身は何も変わらない」で「自治」「分権」「参加」を唱えているのである。

 「統治行政」を「自治行政」に革新するには「主体の自己革新」が不可欠であるのだ。しかしながら、行政職員は「現状維持的安定」が「保身の価値軸」であるから、自分自身は現状のままである。現状のままで「新しい言葉」を使うのである。そのため「市民自治」も「協働」も「内容空疎な言葉」となる。

 これは学者も同様である。「新しい概念」を語り「新しい制度」を提案すれば「事態が変化する」と考える。自分自身に市民としての実践活動が欠落しているから「規範概念の意味」が理解できない。
 例えば、首長も学者も、自治基本条例の制定手続きに「住民合意・住民決裁の手続き」は必要ではないと考える。「首長決裁と議会決議」だけで「市民自治制度」が創設できると考える。それは言葉だけの「市民自治」である。認識理論が実践理論と相関していないのである。

3 実践理論
 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
 「説明理論」は事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する理論である。
 「実践理論」は未来に向かって課題を設定し解決方策を考え出す理論である。実践理論は「何が課題で何が解決策であるか」を言葉で述べる。「言葉で述べる」とは「経験的直観を言語化する」ことである。歴史の一回性である実践を言語叙述することによって普遍認識に至るのである。

 「経験的直観の言語化」は、困難を覚悟して一歩前に出た実践によって可能となる。大勢順応の自己保身者には経験的直観を言語化することはできない。人は体験しないことは分らないのである。「一歩踏み出した実践」による「自身の変革」なくして「課題と方策の言語叙述」はできない。「実践」と「認識」は相関するのである。
 
4「知っている」と「分かっている」
 「知識として知っている」と「本当に分かっている」は同じでない。「知識としての自治体理論」だけでは「実践の場面」で役に立たない。それでは、「知っている」が「分かっている」に転ずるのは、如何なる「すじみち」であろうか。
 社会生活の場で一歩踏み出せば「嫉妬・非難・左遷」に遭遇する。現状の継続に利益を得る陣営からの反撃に遭遇する。不利になり辛い立場になるから多くの人は「大勢順応」になり「状況追随思考」になる。だがしかし、一歩踏み出せば「壁を破って真相を見る」の体験をする。その体験が「分かる」に至る「すじみち」である。

 知っている人と、分かっている人の違いは、「一歩前に出た実践体験」の違いである。「人は経験に学ぶ」という格言の意味は、一歩踏み出し困難に遭遇して「経験的直観」を自身のものにすることである。「分かる」とは実践を経て獲得した認識である。経験的直観とは「実践の概念認識」である。
小平市の住民投票ーなぜ開票しないのか
(カテゴリー: 自治体学理論
 小平市の住民投票 - なぜ開票しないのか 

 東京・小平市で2013年5月26日、都の道路計画を巡り住民投票が行われた。
5万1010人が投票した。だが投票率は35.17%であった。
 小林正則市長は、投票率が住民投票条例に定めた50%に満たないから「開票しない」と言明した。なぜ、開票をしないのか。これが問題である。

 投票箱の内にあるのは、投票場に足を運んで投じた「市民の意思」である。「小平の生活環境を真剣に考えた」市民の意志である。なぜ開票しないのか。「他都市にも例がある」とか「小平市住民投票条例で定めているから」は、理由にならない。これは民主政治(市民自治)の根幹に関わる問題である。

「開票しない」との市長の言動は、市民から代表権限を信託された首長にあるまじき(あってはならない)言動である。住民意思を「闇から闇に葬る所業」である。投票率が如何ほどであろうとも開票すべきである。

 5月20日。市役所で行われた記者会見で、記者の「なぜ開票しないのか」の質問に(しどろもどろの弁明)返答であった。政治信念の無さを露呈していた。おそらく、小林市長と市議会多数派は、仮に投票率が50%を超えて開票したとしても、「住民投票には拘束力は無いのだ」と言い募り、投票に示された「住民意思」に従わない(=尊重しない)であろう。その延長が「開票しない」であるのだ。

 開票しない(したくない)と言明する市長の真意は何処にあるのか。それを見抜く賢明さが民主主義には不可欠必要である。
 市長は、四年の期限で「代表権限を信託された」のであって、小平市の重大問題に投票した住民意思を「開票しないで廃棄」する権限は、市長にも議会にもない。信託は白紙委任ではないのである。 

 市長の「開票しない」の言明について、「弁護士ドツトコム事務所」の稲野正明弁護士の見解がインターネットに流れている。
 「間接民主主義ですから、住民投票は議会や市長が参考にするものです」「住民投票はそんな程度のものです」「住民投票に法的拘束力はないのです」「税金を使って行った住民投票だから、開票しないで捨ててしまうのは、少々もったいないとも言えるが」と述べている。

 この所見は「裁判法廷の場を職業とする者」の思考である。「法律条文を唯一と考える人」の所見である。つまり、司法試験に「合格するための法律の勉強」をしただけで、法律条文を超える世界を想像することができないのである。そのような人には(失礼ながら)現代社会の重大問題に応答する才覚は無いのである。

 小平市の住民投票の問題は「市民自治の問題」である。住民投票の「政治的効果」が重要なのだ。「市民の自治力」が「市民社会を良きものにする」のである。思考の座標軸にその視点が無い弁護士の所見には「三文の値打」もないである。

 弁護士だけではない、大新聞の論説にも問題がある。
 本日(2013年5月28日)の朝日新聞の社説「小平住民投票」を一読して「腰の引けた」社説であると思った。例えば、投票に行く人を「見直し派」、投票しない人を「見直し不要派」と尤もらしく分析する。だが「道路計画に賛成だから投票に行かない人」と「無関心だから投票に行かない人」を合算させるやり方で、投票率を50%以下にさせようしている(企み)を分析しない。 
 この「50%条項」なるものは、吉野川可動堰に反対する住民運動に対して、徳島市議会で公明党議員が考え出した「住民投票を不成立にする狡猾な戦術」である。すなわち、「50%条項」は「住民投票を不成立にする」ための「組織的投票ボイコット戦術」であったのだ。

 そのことは、岩波新書「住民投票」(今井一)に明確に記述されている。朝日の論説委員が「話題になった岩波新書」を知らない訳はないのだ。だが朝日新聞の論説は「50%条項そのもの」に言及しない。
 そしてまた、社説冒頭に「投票率が50%以上でなければ成立せず開票もされない。そんなルールで行われた」と書き始める。この書き出しが「執筆委員の感覚=(批判的思考力を退化した現状肯定の人生態度)」を物語っている。

  論評するべきは「そのルール」であるのだ。しかるにそのルールを所与の如くにまず書いて「論点をズラした文章」にする。
(これが大新聞の論説員の通常であるのか。朝日の社説は読む気がしないとの声を聞くが、このことか)

 「投票率が50%以下であれば住民投票は成立しないものとする」としたそのことを社説は論じるべきである。
「住民投票は行われた」のである。「住民投票は成立しなかったものとする」は、道理に反するではないか。投票率に拘らず「開票する」のは当然のことではないか。
 投票率があまりにも低い場合には「投票結果の評価」の問題が生じるであろうが、それは開票後の問題である。徳島市議会の異常な事例(組織的投票ボイコツト戦術の企み)を先例のように考えるのは誤りである。

 「なぜ開票しないのか」「開票を避けるのは何故か」「なぜ開票を怖れるのか」
 市民は小平中央公園の雑木林や玉川上水の緑道を損ね、住宅二百二十戸の立ち退きを迫る道路計画に反対しているのである。これが小平住民投票の真正の論点である。

 さらにまた、朝日社説は「投票率の要件を定めた方が良いこともある」と、尤もらしく論点を追記する。だが目前にある自民改憲の「国民投票法は投票率を定めていない」ことには言及しない。この問題は参院選を目前にした国民には重要論点ではないか。

「重要論点であるから言及しない」のであるのならば「何をか謂わんや」である。
自治体学ー自伝のようなもの (下)
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
自治体学―(自伝のようなもの)  (下)

Ⅲ 北海道での25年(1993-2018) (その1)

[思いもかけずの転変]
1993年2月25日、北海道大学学長から長洲神奈川県知事宛てに「筆者割愛の依頼文書」が届き、4月1日、北海道大学法学部教授に赴任した。 思いもかけずの転変であった。
担当科目は公共政策論。神奈川県庁時代に8年間(1985-1993)、神奈川大学で非常勤講師としで地方自治論を講義していたので、北大の講義にさして苦労はなかった。

 北海道大学の前身は札幌農学校であったから、農場もあって広大である。自転車を購入して毎日のように大学内を散策した。10月の銀杏並木は実に見事であった。
春は萌えいずる翠、夏は緑陰、秋は農場に寝転び白雲を眺め、冬は一面の銀世界の絶景。まさに天国の如き楽園であった。

 北海道での25年は、北大で5年、北海学園大で10年、北海学園法科大学院非常勤講師で10年の歳月であった。
(居住地の町内会役員から「北海道での25年」の話を頼まれ、最初は「話す内容もありま
せんから」と辞退したが、自分を顧みるよい機会だと思い話をした。以下は二丁目町内会「サロン」での話である。)

1 地方自治土曜講座
 北海道生活の思い出の第一は、地方自治土曜講座の実行委員長の役割を21年間担ったことです。1995年に北海道町村会の川村喜芳常務の提案で市町村職員を対象に、大学院レベルの講義を行う地方自治土曜講座が開講されました。
 1995年から2011年までの16年間に91回の講座を開催しました。地方自治土曜講座の詳細は『北海道自治土曜講座の16年』(公人の友社-2011年刊行)をご覧下さい。この本です。50ページの川村喜芳「土曜講座16年の歩み」が詳細です。

土曜講座が目指したのは
 土曜講座がめざしたのは受講者それぞれが「自分の見解」をもつことです。「自身の批判的思考力」を高めることです。土曜講座は「知識習得」の場ではない。講師の話を丸ごと受容するのではなく、講師の話は自身の「思考の座標軸」を確かなものにするためです。 
 東京では、細川内閣による地方分権の論議が盛んになり「自治分権の時代」が始まろうとしていました。

受講申込を断らないで下さい
 開講準備のときには「七回講座で受講料1万円」の講座に市町村職員が集まるかを心配しました。だが申し込みが殺到して、事務局は360人で締め切り受講申込を断わりました。
 筆者は「受講したい人を断らないで下さい」と事務局に要望しました。「会場に入れなくなります」「受講料を受取って会場に入れないでは責任問題です」が事務局の返答でした。「断らないで下さい、責任問題にはなりませんから」と言い続けました。

 二年目は受講申込を断らず受け付けました。874人の受講者を収容できる会場が見つかず、借用費は高額だが厚生年金会館の大ホールを借りました。 
初日午前の講師は、元内閣官房長官の五十嵐宏三さんでした。感銘深い講義でした。
三年目から受講者を500人で締め切り北大教養部の長細い講堂で開催しました。このときも「受講したい人を断らないで下さい」と事務局に言いました。

土曜講座を歴史に刻む
 私は、『会場内は満席で後方は立っており、通路にも演壇の周りにも座して聴講している。
会場に入れなくて窓から覗いている人もいる』そのような光景を現出したいと思い続けたのです。事務局は無茶で無責任だと言う。けれども、遅れて来た人が怒って文句を言うであろうか。そうではなくて、その光景に驚き「これは何事であろうか」と思い「次回は早く来よう」と思うであろう。それが「土曜講座を歴史に刻む」ことになるのだと思います。

 「省庁政策の従属」から「自分たちで政策をつくる」への転換、即ち「自治体の政策自立」は容易ではない。容易ではないが実現しなければならない。講義を聴いて感銘を受けても、それだけでは職場での実践行動には繋がりません。
人が「実践行動」に至るのは「価値軸の転換」です。価値軸の転換には「驚き」と「心の揺らぎ」が必要です。「講義を聴く」のも大切だが、「何かが始まっている」を目撃しそれを「身体で感じる」ことが何倍も重要です。

私は、開講挨拶で「この学習熱の高まりは事件です。時代の転換期には学習熱が高まります。この土曜講座は時代転換の兆しが現実になり始めた象徴的な出来事です」と述べました。

学習熱の高まり
 北海タイムスは、立見席で聴講する満席風景を写真入りで報道しました。北海道新聞はコラム・卓上四季に「公務員が自費で勉強を始めた」と書きました。

「今年も土曜講座が始まる」の報道で「土曜講座は札幌の五月の風物詩」になりました。
 それまで、地方公務員は元気のない職業集団と思われていた。その公務員が自費で勉強を始めた。しかもその内容は「自治体自立の政策課題」です。 

土曜講座の成果
 成果の第一は、受講者が相互に知り合ったことです。
 当初のころは講義の後「講師を囲む交流懇談会」を開催して、全員が「一分スピーチ」を行い、自分と同じ考えの人が「沢山いる」ことを実感し合いました。

 北海道は広いので他の地域の人と言葉を交わす機会が少ない。土曜講座で知り合って「仲間の輪」が北海道の全域に広がった。何かあれば連絡し合える「親密な仲間の輪」です。
「知り合った」ことが第一の成果です。 

第二は「話す言葉・用語」が変わりました。
 「地方公共団体」が「自治体」に変わり、「地方公務員」が「自治体職員」に変わった。「政策自立」「地方政府」「政府信託」などの「用語」で考えるようになった。

 「言葉・用語」は思考の道具です。言葉が変われば「思考の座標軸」が変わり「発想」も「論理」も変わります。
 「地方公務員」から「自治体職員」への用語変化は、「職業意識」「職業倫理観」をも変化させます。「中央が地方の上位」と思っていた(思わせられていた)長い間の思考習慣からの脱却が始まったのです。北海道の各地に「地域を考える主体」が誕生しました。土曜講座第二の成果です。

第三は、ブックレットを刊行したことです。
 講座での感銘は時間の経過と共に薄れるので「ブックレット」を作りました。講義をブックレットにするのは手間のかかることですが、受講しなかった人にも講座内容を伝えることができます。116冊のタイトルが「自治体課題の変遷」を物語っています。
 
[北海道自治体学土曜講座]―北海学園大学
 北海学園大学で2014年から2017年まで「北海道自治体学土曜講座」の名称で土曜講座を再開しました。再開できたのは北海学園大学経済学部の内田和浩教授が事務局長を兼任して共同代表になって下さったからです。そして、斎藤仁史さんのまことに丁寧な資料作成の尽力で21回の講座を開催することができました。

 毎年5回の講座でしたが、実行委員とスタッフの事情で、2018年は1回の開催になりました。そこで最終回講座を、松下圭一先生追悼・「松下理論の今日的意義」を考究する公開講座にしました。
以下、主要なテーマを記します。
     
(2014年)
「自治体学とはどのような学か」
 第一回の主題を「自治体学とはどのような学か」にしたのは、自治体学会を設立して35年が経過し、設立当時の状況を知らない会員が多くなり、「自治体学」の共通認識が希薄になっていたからです。
  広瀬克哉(自治体学会代表)
  土山希実枝(龍谷大学准教授)
  神原 勝 (北海道大学名誉教授) 
  宮下裕美子(月形町議会議員)
  (司会) 森 啓
    

(2015年)
「メディアの現状―日本の民主主義」
官邸の「メデイア監視」と「番組への介入」で、ラジオ・テレビの「政権批判番組」は萎縮し減少しました。とりわけNHKは籾井会長が就任して「ニュース番組の原稿」を「政治部が修正変更する」という「凄まじい事態」になっています。
 永田浩三 (もとNHK番組ディレクター)
 菅原 淳 (北海道新聞編集局解説委員) 
徃住嘉文(日本ジャーナリスト会議北海道支部)
林炳澤 (さっぽろ自由学校「遊」共同代表)

(2016年)
「沖縄の人々の苦難は他人事ではない」
 「沖縄問題」は現在日本の最大の緊急課題です。警視庁機動隊を常駐させて空港・軍港の米軍基地の建設を暴力的に強行しています。この実態を日本の人々は知っているであろうか。「本土(ヤマト)のメディアは、NHKを筆頭に沖縄差別に加担しているのではないか」
基調報告
 「沖縄の自治権と環境権」 宮本憲一 (大阪市立大学名誉教授)
 「沖縄の現状とヤマト(本土)の報道」松元 剛 (琉球新報編集局次長兼報道本部長)
討論
 宮本憲一 松元 剛 徃住嘉文 (北海道ジャーナリスト会議)
  (司会) 森 啓 (自治体政策研究所)
  
(2017年)
「現在日本は民主主義か」 
 70年前、日本中が焼野原になり、天皇主権(国家統治)の憲法を国民主権の憲法に転換した。だが憲法学者と行政法学者は「憲法は国家統治の基本法である」と講義しています。。
 山内亮史(旭川大学学長)  内田和浩 (北海学園大学教授)  池田賢太 (弁護士)
 河上暁弘 (広島市立大学准教授)   高橋 悟 (自治体政策研究所)
 (司 会)  森  啓 
 

(2018年)
松下圭一先生追悼『松下理論の今日的意義』
1995 年から通算21年をかけて土曜講座がめざしたのは、受講者それぞれが「自分の見解を持つ」ことでした。それが「市民が主体となって社会を管理する市民自治」です。市民自治を提唱し続けた松下理論を考究する最終講座です。
講義
「松下圭一・日本を変える」    大塚信一(元・岩波書店社長)
「シビルミニマム論・市民参加論」 西尾 勝(東京大学名誉教授)
「松下理論の骨格」     森  啓(自治体政策研究所理事長)

鼎談 「松下理論の今日的意義」
  大塚信一  西尾 勝  森  啓

 (567) 北海道自治体学土曜講座・最終回「松下圭一先生追悼『松下理論の今日的意義』」ー鼎談論議ー(大塚信一、西尾勝、森啓) - YouTube

2 市町村合併
25年の北海道生活を振り返って良かったことの二つ目は、小泉構造改革の「地方交付税22兆円を削減するための合併強要」を批判し反対したことです。北海道は、町村面積は広大ですが人口は減少しています。人口1萬人まで一律に合併させるのは「住民自治の侵害」です。合併は「行政区域の変更」ではないのです。住民が自分のまちを良くする「自治区域の変更」です。
 

[学者はブレル]
全国各地から幾度となく合併反対の講演を頼まれました。神奈川県庁での文化行政のときも講演を依頼されて全国各地に出かけました。合わせると47都道府県のすべての地域に出かけました。

熊本県の町村議長会から講演依頼の電話が架かってきたとき、「なぜ北海道の私ですか、そちらにも講師がいらっしゃるのでは」と言うと、「政府がすすめる合併を批判する人が居ないのです、全国町村議長会に訊いて貴方に電話をしているのです」とのこと。 

平素、「地方自治の確立」を唱えている学者が、府県から「合併検討委員会委員」を委嘱されると、途端に合併促進の側になってしまう。北海道でも普段は「市民自治」を言っていた学者が「私は合併に賛成でも反対でもない、中立である」と言いました。だが、政府が(府県に命じて)合併促進を強要しているのです。賛成か、反対か、であって、中立などは無いのです。

投票箱を開かず投票を焼き捨てる
 全国各地で「住民の意見を聴け」の声が高まり、住民投票条例制定の署名運動が始まりました。だが議会が住民投票条例制定の提案を否決しました。否決する手段として「50%条項」を援用しました。
 「50%条項」とは、徳島市議会で1999年12月「吉野川河口堰の住民投票を葬るため」公明党市議団が提案した組織的な投票ボイコツト戦術です。つまり「投票率が50%を超えない」ときには「住民投票が成立しなかったのだ」として「投票箱を開かず(合併に対する住民の意志)である投票を焼き捨てる」という条例です。この(50%条項)が全国各地で悪用援用されたのです。 

東京・小平市で2013年5月26日、
 都の道路計画を巡り住民投票が行われた。5万1010人が投票したが、投票率は35.17%であった。小林正則市長は、投票率が住民投票条例に定めた50%に満たないから「開票しない」と言明した。なぜ、開票しないのか。これが問題である。



北海道の典型的な事例
南幌町
 町長は北海道庁の指図通りに合併しようとしましたが、「町民の意見を聴け」の声で町民投票になり、結果は「合併反対」が多数でした。町長は「僅差である」と (テレビでも) 言明して合併を強行しました。町民は怒って「町長解職(リコール)運動」を始め、町長支持であった議会内勢力も変わり町長は辞任するに至りました。
石狩市
 (南幌町の合併不成功の経緯を見て) 石狩市長と議会は「投票率が60%を超えなければ市民投票は成立しなかつた」とする条例をつくり、投票箱内の市民の意志 (投票用紙)を焼却しました。だが、市長選挙でも市議会議員の選挙でも、投票率が50%を超えることは殆どないのです。
 (2021年8月の横浜市長選挙は8人の立候補者が有権者に自分への投票を呼びかけましたが投票率は49.1%でした)。60%の条例は「市民の意見は聴かない」ということです。
奈井江町
町長と議会は「合併は町民生活にとって重大問題である」として「合併の利害得失を分かり易く書いた資料」を全所帯に8回配布し、集落毎に懇談会を開いて説明しました。中学生・高校生にも「町の将来を考える合併説明会」を学校で行いました。
 そして投票日には小学五年以上の「子どもの投票箱」を設けました。町民投票で「合併はしない」が、近隣市町村と事業を協力し合うことにしました。
 
[衆議院総務委員会で陳述]
政府は3200の市町村を1000に合併しようとしたが、思うほど合併がすすまないので、地方自治法を改正して「市町村議会が合併反対を決議」しても「議会が合併の議決したものと見なす」という法改正を企みました。

その地方自治法改正について衆議院から意見を求められ総務委員会で改正反対の意見を陳述しました。そのときの映像がインターネットに流れていますのでご覧ください。 https://www.youtube.com/watch?v=2tqXt27Z3tU
 (衆議院総務委員会・参考人意見陳述・森啓(北海学園大学) - 合併特例法改正審議)

政府の交付税削減の兵糧攻め(脅し)で3.200の市町村が、1.300になりましたが、「合併して良かった」というところは殆どありません。

3 無防備平和の署名運動
北海道の思い出の三つ目は、無防備平和の署名運動に加わったことです。
「学生に講義をする仕事が終わったら、無報酬で反戦平和の市民運動をやろう」と思っていました。ちょうどそのころ、北海道庁正面の赤レンガ池を眺望できるKKRホテル二階のレストランで、市民の方から「無防備平和地域宣言」の署名運動の代表人を頼まれて引き受けました。

 札幌を無防備平和都市にする宣言条例制定の署名運動です。条例制定の署名運動は「姓名・住所・生年月日・捺印」の署名を集めるのです。一か月(60日)で有権者総数の2%の署名を集めるのです

 札幌市の有権者数は155万9千557人(2.007年当時)でしたから、その2%は(31.192人)です。最初は(できない・無理)だと思いました。だが、多くの人々が本気になり、私も本気になって、4万1千619筆の署名を集めて成功しました。

「思考回路」の違い
団体や組織の役員と市民運動の人とは「発想」「思考回路」が異なります。団体や労組の役員は「組織決定して組織動員」です。そして「失敗したときの責任」を常に考えます。ですから「やりましょう」にならない。時期尚早と言います。決断できないのです。
 市民運動の人は「自分の考えで決断します」「やってみよう」です。失敗したときの責任よりも「やらなくては、やってみようよ」と発想します。

 署名が始まると、「お前はアカだ」「お前の講義を聴く学生は哀れだ」「ヤメロ」のメールが毎日何百通も届きました。その一部をパソコンに今も保存してあります。

 当初のころの大学の用務で何もできなかった日のことです。札幌エルプラザでの夕刻の「署名獲得数の報告会」で、(代表人でありながら今日は何もしなかった)と、その場に居たたまれぬ辛い思いになりました。
 でその翌日から足を棒にして、最高は一日で179筆の署名を獲得しました。(この数は今も全国トップで破られていません) 
  書物-『無防備平和・谷百合子編』(高文研社刊・2009年・1.600円) 
  ビデオ-『無防備地域宣言-平和なまちをつくる』 

 中国の西安と延安に旅した
 延安大学で日本語を教えている知人と再会するため(2009年5月9日~5月16日)、中国の西安と延安に旅した。
西安は、遣隋使・遣唐使のころは「長安の都」である。
 西安空港からリムジンバスで一時間の道のりであった。城門をくぐり長安の都大路に入ったときには、古代日本の修学僧に想いを馳せ心にときめきを覚えた。奈良平城京の朱雀大路は長安を模して造営されたと言われている。

 宿舎の向かいに「招待所」の看板が見えた。招待所とは貧困層の宿泊施設である。不躾にならぬよう注意しながら見て歩いた。富裕層の生活水準は急速に上昇している中国であるが、圧倒的多数の貧困層の生活が工業文明の恵沢を得るに至るには如何ほどの歳月を要するであろうか、と思った。

西安での目当ては、張学良が蒋介石を拘束した西安事件の歴史の現場である。蒋介石の寝室の窓枠には弾痕が残されていた。案内してくれた女子学生が「寝台の向こう側の窓から逃げたのです」「あの山腹の建物に幽閉されたのです」と説明した。
 国共合作の歴史の現場に佇み山腹の建物を見上げて、しばし「中国近代史と日本の軍事侵略」を想った。そこは「華清池」という楊貴妃の浴室も残されている著名な温泉地である。  

 延安、西安駅24時発の夜行寝台車に乗った。深夜の西安駅待合室は辺境に向かう乗客がいっぱいで、その風景は印象深いものであった。百八十元の軟座で眠った。一元は17円で軟座料金は3,060円である。因みに硬座料金は百元(1.700円)。
 
 朝の七時に延安駅に着いた。国立延安大学の外事処の職員に出迎えられた。

 延安は紅軍の長征で有名な中国革命の根拠地である。毛沢東、朱徳、周恩来、劉少奇の洞窟居宅が保存されていた。毛沢東は中国革命の著作の多くをここで書いた。国民党の爆撃攻撃が11年で17回あったと説明された。
正面に「在毛沢東的旗幟下勝利前進」「中国共産党第七次全国代表大会」と書かれた会議場が生々しく保存されていた。

中国の延安大学で講演
国立延安大学で講演を頼まれ「日本の近代化」のタイトルで話をした。
日本は1945年に軍国主義国家体制を解体し国際協調と無防備平和の憲法を制定した。現在の日本政府はアメリカとの軍事同盟に傾斜していると説明して、日本の市民は平和憲法の実現をめざし「無防備平和宣言条例」の制定運動を展開しているのです。
 この本が「札幌市民の会の活動記録」です。この本には「国家統治」に対抗する「市民自治」の論文も収録されています、と本を掲げて日本の無防備運動の現状を説明した。講演のあと「無防備平和・谷百合子編」を延安大学に寄贈しました。

 夜遅くまで日本語学科の学生に囲まれて談論した。向上心旺盛な中国の若者との語らいは楽しいものであった。「日本人は中国をどのように見ていますか」と学生に訊ねられた。 
 「殆どの日本人は現在の中国を知らないのです」と答えた。そして、友好は互いに知り合うことから始まるのだと強く思った。

 帰国の前夜、北京で映画「南京、南京」を観た。(2009年5月15日の朝日新聞はこの映画を「脱・反日」と紹介していた)。 日本での上映は難しいであろうか。

 数日後、延安大学の知人から「学生との談論の感想文」がFAXで送信されてきた。延安大学のホームページは「日本人が来校して講演した」と報じていた。   
   
4 原発民衆法廷   
 思い出の四つ目は、原発災禍の責任者を弾劾する民衆法廷で証言したことです。札幌の民衆法廷は、泊り原発の危険極まるプルサーマル計画に賛成した高橋はるみ知事と奈良林直(北大教授・元東電社員)の責任を弾劾する民衆の法廷です。

 原子力発電の事故は「人間の手には負えない」のです。そして「機械に絶対安全」は無いのです。10年が経過しても「廃炉のメドもたたず」「放射性物質を海に流し続け、海を汚染し続けている」のです。何万人もの人が、今も「生まれた土地に戻れず」「粗末な避難住宅で神経症に苦しみ孤独死している」のです。

 しかるに、悪人たちは「利権の原子力ムラで結託」して「誰も罪に問われない」でいる。この理不尽を放置してはならないのです。
民衆法廷は(民衆の怒りを基に)この理不尽を弾劾し断罪する正義の法廷です。模擬裁判で遊んでいるのではないのです。
  
 現在日本の司法制度は「巨悪の悪行」を断罪しない運用です。
「国会でいくらウソを言い続けても」「公務員が公文書を改竄し廃棄しても」「莫大利益を目論んで原発事故を引き起こしても」糾弾しない運用です。

 「証拠を探し出す努力をしない」で『証拠がないのです』と放任する運用です。賭け麻雀が発覚しなければ「かの人物」が検事総長になり非道不正の法運用を倍加したのです。

 筆者は「悪行を為したる者を弾劾し断罪する民衆法廷」に、証人として出廷して『市民自治規範による悪行断罪の法論理』を証言しました。そのときの映像がインターネツトに流れていますのでご覧ください。
 https://www.youtube.com/watch?v=9CToAeO175Y 

5 テレビで「バトル対論」
2001年6月、札幌テレビ局の企画で25の業界代表の方々と日曜対論を行った。様々な業界の課題を聴くことができ有益な楽しき体験であった。
1 北海道大学学長 
2 日本航空女性管理職 
3 雪印ホッケー主将       
4 エアドゥ(北海道航空)社長    
5 北海道中小企業家同友会代表理事   
6 ラルズ(スーパーマーケットチェーン)社長           
7 小学校教師(父と娘の対話)          
8 介護を受ける人の服飾デザイナー   
9 在札幌ロシア連邦総領事 
10 日本ダルク(薬品依存症救出)代表    
11 精神科医師     
12 温泉博士      
13 食材コーディネーター
14 北海道土産品会長
15 加森観光グループ社長  
16 外食産業アレフ社長
17 ドンキー食品社長
18 北海道ワイン(小樽観光)社長    
19 JR北海道社長
20 グラジア感染症医師
21 智恵子探偵局・探偵長
22 スキーヤー・三浦雄一郎       
23 北海道庁改革担当参事    
24 奈井江町長       
25 北洋銀行会長

映像を例示します
(22) 20210825 スキーヤー・三浦雄一郎 10分 - YouTube
(25) 20210825 北洋銀行会長・武井正直 14分 - YouTube
 北大学長 丹保憲仁 
https://www.youtube.com/watch?v=tdhFwCXoEHA&t=51s

ー「ここまでが、町内会サロンでの話です」ー

6 自治基本条例 
・自治基本条例とは、選挙で当選した首長と議員が「当選さえすればこっちのものだ」と「身勝手な言動をしない」ための自治体の最高規範である。

 2010年代に憲法(のようなもの)を制定する動きが、自治体に始まった。自治体は戦後60年の市民自治の成果として最高規範条例を制定する段階に至ったのである。

・すなわち、国の憲法には国政に携わる者の権限行使に枠を定める最高法規がある。自治体の自治基本条例は、住民から代表権限を信託された首長と議員の権限行使に枠を定める最高規範である。「最高法規」と「最高規範」は立憲制の政治制度である。

・ところが、自治基本条例の制定を通常の条例制定と同様に「首長と議会で制定できる」「住民は基本条例の制定に関与しなくてよい」とする言説が出現した。

 しかしながら、一方で自治基本条例を自治体の憲法であると解説しながら、他方で住民は基本条例制定に関与しなくてよいとする言説は矛盾論理である。この言説は基本条例の制定を安易に誘導しようとする安直思考である。

・ さらにまた首長部局とは別に、議会が独自に議会基本条例を制定することを推奨する言説も現れた。しかしながら、そのような議会基本条例は「議会の自己規律の定書き」であって自治体の最高規範条例ではない。

・自治基本条例の制定は市民自治社会への重要な節目であるから、安直な制定手続きで「一過性の流行現象」にしてはならない。  
 筆者の所見を「時事通信社・地方行政(2010年11月1日号)」に掲載した。

・ところが、掲載した筆者の所見に対して、学者会員が北海道自治体学会運営委員会で「森論文は問題である」と強く意見を述べ、代表委員が賛同して、学会のホームページに「森論文は北海道自治体学会の公式見解ではありません」と掲載した。そこで止むなく、下記の見解をメーリング(ML)で全会員に送信した。
 
・メーリングに送信した筆者の見解 (2010-12-12)
   

 今回の問題は「自治基本条例の制定に住民の参加はなくても良いのだ」と言説している人が、「基本条例の制定に有権者住民が自治主体として関わらなければ最高規範条例と言えない」の所見が広まっては、自分の立場が悪くなるので、「何とか封じ込めたい」と考えたことにある。

自治体学会は多様な見解を論議する(自由な討論の)広場であるのだから、反駁の所見を公表して頂きたく思った。 

7 NPO法人自治体政策研究所
 大学で学生に講義をする生業(なりわい)は終わったが、研究活動を続けるために「NPO法人自治体政策研究所」を設立した。

1) 夕張再生支援
・NPO法人自治体政策研究所の最初の活動は財政破綻した夕張市の再生支援であった。
 夕張市は、2007年3月、財政再建団体に指定され総務省の管理下に置かれた。総務省の考える「夕張再生」は「353億円の債務額を18年間で返済する」である。だがそれは、「債務償還」であって「夕張再生」ではない。
 しかも、その債務総額353億円は、北海道庁が「みずほ銀行」などの債権者に、全額立替払いをして確定した債務額である。

・経済社会の通常では、返済不能になった「不良債権の処理」は、債権者会議の場で「何割かの債権放棄と返済保証の協議」がなされるのが通常である。財政破綻が見えていた夕張市に多額の融資を行った金融機関にも責任があるのだから。

 北海道庁が為すべきは「債権者会議を設ける」ことである。だが、総務省と北海道庁は「夕張市民の生活」よりも「金融機関の債権保護」を重視したのである。
 
・財政破綻後に就任した藤倉市長は「夕張の体力では10年間で100億円の返済が限界」と懸念を表明した。総務省と北海道庁は「その発言を続けるのなら支援をしない」と脅して市長の発言を封殺した。

  しかしながら「夕張再生計画」は「夕張市民の生活が成り立つ」ことが基本になくてはならない。総務省の「債務返済計画」では夕張市民の生活が成り立たない。

・夕張市は市外への人口流失が続いていた。2006年6月-1万3千165人、2007年4月-1万2千552人、2008年4月-1万1千998人。そして、公共施設の指定管理者が管理運営を返上して市民生活が困難になり、市営住宅の修繕もできない状態になり、職員給与は全国最低で職員数が減少して業務負担が増大していた。

・さらにまた、総務省職員が夕張再生室長に就任して、全国からの1億円を超える寄付金(黄色いハンカチ基金)の使途も掌握して、夕張市長の財政権限を極度に制約したのである。

・NPO法人自治体政策研究所は、「夕張再生室」は「債務償還の管理」であるから名称を「債務償還管理室」に改め、新たに「夕張再生市民室」を新設して室長を任命し、市民室に市長が委嘱する市民を行政職員として加えることが「夕張再生を可能にする」と、夕張市長に献策した。

2) 市民行政
・NPO法人の二つ目の活動は「市民行政」の概念(考え方)を構想して提起したことである。
 夕張再生には「市民と行政の協働」が必要だが、市民の側に「市役所不信」が堆積していたので、市民が行政の内側に入って「行政事務」を担うことが信頼回復に必要だと考えた。

・現代社会の公共課題は公務員だけでは解決できない。行政職員と市民の「信頼関係を基にした協働」がなければ解決できない。 
 各地のまちづくりの実例がそのことを実証している。「まちづくり」の言葉が流布するのも、「市民と行政との信頼関係」が不可欠であることを示している。

・行政職員には二種類の職員が存在すると考える。「公務員の行政職員」と「首長が任期内に委嘱した市民の行政職員」。
 「市民参加」は、市民が行政機構の外から行政を批判し参画することであり、
 「市民行政」は、市民が行政機構の内部で日常的に「行政事務」に携わることである。

・国家学の学者は「行政事務は公務である」「公務は公務員身分を有する者が行う」と考えるから、「市民行政の概念」が理解できず忌避する。公務員の「身分」がなければ、行政事務を担えないと考えるのは、「国家が国民を統治する」と考える国家学である。

 公務とは何か
・公務は「統治事務」ではない。「公共事務」である。
行政事務は「統治事務」ではなく「自治事務」である。
自治とは「それぞれ」「マチマチ」ということである。

自治体運営は「地域の人々の自由で創造的な運営」でなくてはならない。地方自治法は自治体運営を画一的に統制し規律する国家法であってはならない。
・地方自治法は自治体運営の準則法である。地方公務員法も準則法である。

優れた市民行政の実例
 北海道ニセコ町では、2008年から町立図書館の運営を町民が担っている。

 町民が担うに至った経緯は、役場の前に道路を挟んでニセコ郵便局があって、2008年にその郵便局が別の場所に移転することになったので、町が建物を譲り受けて町立図書館にした。そのとき町民から、「運営一切をやりたい」の要望があって町民に委託した。
  以来5年間、役場職員(公務員)が運営するよりもはるかに好評で、何の問題も起きてい ない。

「市民行政を考える」公開政策研究会
・NPO法人自治体政策研究所は、2011年11月18日「市民行政を考える公開政策研究会」を北海学園大学で開催した。
 そのとき、片山健也ニセコ町長は、『あのとき役場職員を入れなかったのが成功の要因であった。一人でも公務員職員が運営に加わっていたならば、「これは教育長の意見を聴かなくてはいけない」「この本を買うのは役場の許可を得なくてはならない」「こういうイベントは前例がない」などのことが始まっていたと思います』『現在は「子どもの遊び場」にもなり「高齢の皆さんのたまり場」にもなっていて、実に自由な図書館運営になっています。役場がなんでもやる時代は終わっていると思います』と語りました。

市民行政の良き実際例です。因みに「あそぶっく」とは「Book と遊楽する」の意。
(北海学園大学開発研究所2011年度研究記録集61頁)

「自治体政策研究所」の ブログは、http://jichitaiseisaku.blog.fc2.com/
(法人は解散しましたが、ブログ左覧の「政治不信の解消策を探る」「シンポジュウムのあり方」などの講座や提言をご覧ください)

8 市民学習講座―さっぽろ自由学校「遊」
・民主主義を維持継続するには「市民の批判的思考力」が不可欠である。不正義な政治を糾すには「市民の批判的思考力」を高めなくてはならない。批判的思考力を高めるには市民学習が必要である。

学生に講義する生業が終ったので全力を市民学習に集中しようと考えた。

・札幌に、「さっぽろ自由学校(遊)」という全国でもユニークな市民学習団体が在った。その自由学校に、市民講座を企画して提案した。2014年から2018年までの5年間、毎月一回の市民講座を継続開講した。

講座の準備ため殆ど連日、近所のコーヒ店に通って考えた。講座内容は下記のとおりである。(講師謝金は「自由学校(遊)」に全てカンパした) (講座を継続したのは自分自身の思考力減退を防ぐためでもあった)

 
2014年 民主主義講座 全5回

                        
2015年前期 全5回
松下圭一『市民自治の憲法理論』を読む
   
2015年後期 全6回
松下圭一『成熟と洗練―日本再構築ノート』を読む
  
2016年前期 全5回
松下圭一『ロック市民政府論を読む』を読む     
       
2016年後期 全5回
松下圭一『政府型思考と政治』を読む
    

2017年前期 全五回
松下圭一『市民自治の憲法理論』を読む Ⅱ


2017年後期 全5回
  森 啓『新自治体学入門』を読む 
    

2018年前期 全5回
現在日本は民主主義か


2018年後期 全5回
 役所文化の改革は可能か
 


9 自治体学の理論構成
「自治体学理論の構成」は筆者長年の懸案であった。
1985年10月17日と18日、浦和で開催した第二回政策研究交流会議で、神奈川県自治総合研究センター研究部が学会設立事務局を担うことになって以来の懸案であった。
  

自治体学の概念
自治体学は市民自治の自治体理論である。それは「市民と政府の理論」「政策形成理論」「自治制度理論」を包含する学の体系である。国家学の「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置して、国家を統治主体と擬制する国家学を克服する学である。 
 
国家学
 国家学の「国家」は擬制の観念である。国家を「国民・領土・統治権」と説明するが、その「国家三要素説」なるものは、性質の異なる (団体概念)と(機構概念)をないまぜにした曖昧な二重概念である。

「国家」は、政府、官僚、議員など権力の場に在る人達の「権力行使の隠れ蓑」の言葉である。少し注意してそれら権力者の言動を観察すれば「国民主権」を「国家主権」と巧みに(狡猾に)言い換える場面を目撃するであろう。

 権力の場に在る人たちには、国家が統治主体であり国民は被治者であるの観念が抜き難く存在する。統治支配がやり易いからである。 
 
 現在日本の憲法学、政治学、行政学、行政法学の大勢は「国家統治の国家学」である。
例えば、国家試験で憲法学の最適教科書と評される芦部信喜「憲法」(岩波書店)の第一頁第一行は「国家統治」であり「国家三要素説」であり「国家法人理論」である。国家法人理論は「国民主権」と「国家主権」を曖昧に混同させる理論である。

 そして、議員と官僚は「国家観念」を言説し、「政治主体である市民」を「国家統治の客体」に置き換え、「国家」を隠れ蓑にして統治論理を振り回すのである。

 「国民」を「国家」に包含させるから(国家三要素説)、「国家の責任」は「国民自身の責任」のようになって、国民の「政府責任」「官僚責任」追及の矛先をはぐらかすのである。
 
自治体学
「国家」を「市民と政府」に分解して「市民と政府の理論」を構成する。すなわち、市民が政府を「構成して制御し交代させる」のである。民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。
 (国民は「国家の国民」になるから、なるべく使わないのがよい)。

 市民は国家に統治される被治者ではない。民主主義は「国家の統治」ではなくて「市民の自治」である。
 国家学は「国家統治の国家法人理論」である。 自治体学は「市民自治の政府信託理論」である。 
  
市民自治
 市民自治とは「市民が公共社会の主体であり、公共社会を管理するために政府をつくる」という意味である。「市民自治」の意味を理解するには、「国家統治」に対する自身の所見が明瞭でなければならない。

 例えば「自治とは自己統治のことである」と説明されているが、「統治」とは「統治者と被治者」を前提にした支配の観念である。「自治」を説明するときに「統治」の言葉を用いるのは、「統治」に対置した「自治」の規範意味を理解していないのである。

 市民自治を要綱的に説明すれば
① 市民は公共社会を管理するために政府(首長と議会)を選出して代表権限を信託する。選挙は信頼委託契約であって白紙委任ではない。政府の権限は信託された範囲内での権限である。

② 市民は政府の権限を市民活動によって日常的に制御する。
全有権者投票は政府の代表権限を正常な軌道に戻らせる市民の制御活動である。 (「住民投票」の言葉には「国家学の貶め」が付き纏っているので「全有権者投票」の用語が良い)

③ 市民は代表権限の行使運営が信頼委託の範囲を著しく逸脱したときには「信託解除権」を発動する。信託解除とは解職または選挙である。 
  
政府信託理論
 選挙の翌日に、市民は「陳情請願の立場」に逆転し、議員は白紙委任の如く身勝手にふるまい、代表民主制度が形骸化し政治不信が増大する。しかしながら、選挙は「白紙委任」ではないのである。選挙は代表権限の「信託契約」である。代表権限の身勝手な行使運営は「信託契約違反」である。そして信託契約の著しい逸脱には信託解除権の発動となる。

 主権者は国民であって国家ではない。政府と議会の権限は選挙によって国民が信託した権限である。

実践理論
 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
 「説明理論」とは、事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する理論である。「実践理論」は未来に向かって課題を設定し解決方策を考え出す理論である。

 実践理論は「何が課題で何が解決策であるか」を言葉で述べる。「言葉で述べる」とは「経験的直観を言語化する」ことである。
歴史の一回性である実践を言語叙述することによって普遍認識に至るのである。

 「経験的直観の言語化」は、困難を覚悟して一歩前に出た実践によって可能となる。
大勢順応の自己保身者には経験的直観を言語化することはできない。人は体験しないことは分らないのである。「一歩踏み出した実践」による「自身の変革」なくして「課題と方策の言語叙述」はできない。「実践」と「認識」は相関するのである。
 
「知っている」と「分かっている」
 「知識として知っている」と「本当に分かっている」は同じでない。「知識としての自治体理論」だけでは「実践の場面」で役に立たない。
 それでは、「知っている」が「分かっている」に転ずるのは、如何なる「すじみち」であろうか。
 社会生活の場で一歩踏み出せば「嫉妬・非難・左遷」に遭遇する。現状の継続に利益を得る陣営からの反撃に遭遇する。不利になり辛い立場になるから多くの人は「大勢順応」になり「状況追随思考」になる。だがしかし、一歩踏み出せば「壁を破って真相を見る」の体験をする。その体験が「分かる」に至る「すじみち」である。

 知っている人と、分かっている人の違いは、「一歩前に出た体験」の違いである。
「人は経験に学ぶ」という格言の意味は、一歩踏み出し困難に遭遇して「経験的直観」を自身のものにすることである。
「分かる」とは実践を経て獲得した認識である。経験的直観とは「実践の概念認識」である。


Ⅳ 松下圭一先生との出会い
 松下圭一先生は学問上の恩人である。 
 「自分の頭で考えて文章を書く」ことを教わった恩人である。

・最初に読んだ先生の著書は、岩波新書『市民自治の憲法理論』であった。
学生のとき、司法試験の勉強で田中二郎・行政法(弘文堂)を熟読していたので、「憲法は市民自治の基本法である 国家統治の基本法ではない」の論理は「目からウロコ」の衝撃であった。この衝撃で「自治体の政策自立」が生涯の目標になった。

・「規範概念による規範論理」を「了解し会得する」ことができたのは、先生の著作『政策型思考と政治』を熟読したからである。 
・『新自治体学入門』(時事通信社・2008年)を上梓することができたのは、30年にわたって先生から示唆を頂いたからである。その『新自治体学入門』の紹介・書評も書いて下さった。

・最初にお目にかかったのは、朝日新聞本社の最上階レストラン「アラスカ」であった。その日、先生は「論壇時評のゲラ校正」で朝日新聞社にお出でになっていた。(そのころ朝日新聞本社は東京有楽町駅前に在った) 

その「アラスカ」で「第一回全国文化行政シンポジュウム(1979年11月8日-9日)のバネリストをお願いした。 
「何を話せばよいのかネ」「行政が文化を政策課題にすることに市民の立場から発言して頂きたいのです」「何を言ってもよいかネ」「ハイ自由に言って頂きたいのです」「分かった」であった。
(後日、「頼まれ方が気にいった」と先生が言っていた、と多摩の友人から聞いた)

・「市町村文化行政交流シンポ」を藤沢市で開催したのときも基調講演をお願いした。
その日は衆議院議員の五十嵐広三さん(元旭川市長)も参加されていて「今、国会では財政改革の話ばかりだか、ここでは文化を論議している。まことに素晴らしい」と話された。 

文化行政を政策潮流に
・文化行政を自治体の政策潮流にするため書物の刊行を考えた。
1980年5月20日、伊豆から帰途の松下先生に横浜で中途下車していただき、横浜東急ホテルで書物刊行の協力をお願いした。「それは良いが、この本の編者は誰かね」「先生と私です」と臆面もなく言った。「いいだろう」と共編著を快諾して下さった。

・日本で最初の文化行政の書物『文化行政―行政の自己革新』(学陽書房-1981年5月15日)を刊行することができた。・松下先生が文化行政を自治体理論に位置付けて下さったことで、「文化行政が自治体の政策潮流として全国に広まった。

・さらにまた、朝日新聞の論壇時評(1979年10月30日)で『自治体の文化行政は自治体行政のすべての分野に文化的視点を取り入れようとする総合行政である』と紹介して下さった。そして高名な加藤周一先生と並んで私の写真も掲載していただいた。
( 1979-10-30・朝日新聞(夕刊)論壇時評・松下圭一.pdf - Google ドライブ )

・北海道自治土曜講座には講師として札幌に6回お出で下さった。

松下先生は2015年5月6日東京小平市の自宅で逝去された。

・時事通信社の「地方行政」に松下先生追悼の文章を書いた。
   
・2017年5月21日、松下先生追悼の集い」を北海道自治労会館で開催した。、
 集いで「松下理論の骨格」を話した。
    
・2018年10月13日、松下圭一先生追悼・北海道自治体学土曜講座を開催した。
 
    
『松下理論の今日的意義』
  鼎談 大塚信一・西尾勝・森 啓
https://www.youtube.com/watch?v=qxktaO9SBVk&t=152s

『松下理論の骨格」森 啓
https://www.youtube.com/watch?v=3WJoqoXyLzY

Ⅴ  吾が人生は何であったか
・顧みれば、吾が人生は、「反省すべきこと」「恥ずかしきこと」「配慮足らざること」多々ありの人生であった。しかしまあ、工業高校電気科卒が徳島から出てきて「よくやった」と言えることもあったであろう。

・第一は、人生の目標を「自治体の政策自立」と見定め、自治体学理論を構成し『新自治体学入門』を上梓刊行することができた。
・第二は、市民と自治体職員が批判的思考力を研鑽する「自治体学会の設立」に関わった。
・第三は、「北海道自治土曜講座」を21年間、「市民学習講座」を5年間、継続開催した。

・在任期間・史上最長の首相であった安部晋三の「レガシー」は、「国会審議を汚し続けた未曽有の所業」である。安倍晋三は米国トランプにも似た「嘘を言い続ける首相」であった。そしてかかる首相を容認した日本社会である。
批判的思考力が衰弱した日本社会は、これから、如何なる方向に向かうであろうか。 

略 歴
1960年3月 中央大学法学部法律学科卒業
1960年4月 神奈川県庁入庁(労働部横浜労政事務所)
1968年   労働部労政課教育係長
1976年    財団法人地方自治研究資料センター研究員(自治大学校)
1977年    県民部文化室企画副主幹
1980年    県民部総括企画主幹          
1983年    自治総合研究センター研究部長
1986年   地方労働委員会総務課長
1989年    青少年センター副館長
1992年    埋蔵文化財センター所長

1993年   北海道大学法学部教授(公共政策論)
1998年   北海学園大学法学部教授 (自治体学)
1999年   北海学園大学法科大学院非常勤講師

著 作
「自治体の政策課題と解決方策」 日本経営協会 1986年
「自治体の政策研究」    公人の友社 1995年
「自治体理論とは何か」   公人の友社  1997年
「行政の文化化」       公人の友社  1998年
「議会改革とまちづくり」   公人の友社  1999年
「自治体職員の政策水準」 公人の友社  2000年
「町村合併は自治区域の変更」 公人の友社  2001年 
「自治体人事政策の改革」    公人の友社  2002年
「自治体の政策形成力」      時事通信社  2003年            
「協働の思想と体制」       公人の友社  2003年
「市町村合併の次は道州制か」 公人の友社  2006年
「自治体学の二十年」       公人の友社  2006年       
「新自治体学入門」        時事通信社  2008年
「文化の見えるまち」       公人の友社  2009年
「自治体学とはどのような学か」 公人の友社  2014年 

共 著
「文化行政読本」    月刊・職員研修(臨時増刊号) 1954年 共著
「都市の文化行政」 学陽書房  1979年 共著
「文化行政-行政の自己革新」 学陽書房 1981年 共編著 (松下圭一)
「文化行政とまちづくり」      時事通信社  1983年 共編著 (田村 明)
「行政の文化化」         学陽書房   1983年 共著
「自治体政策研究の実践」    労働研究所  1983年 共編著 (田村明・村瀬誠)
「文化行政と企業の文化戦略」 宣伝会議  1984年 共著 
「新編・文化行政の手引き」   公人社    1991年 文化行政研究会・編
「まちづくりと文化」      都市文化社   1991年 共著
「文化ホールがまちをつくる」  学陽書房   1991年 編著
「市民文化と文化行政」 学陽書房  1991年 編著
「水戸芸術館の実験」    公人の友社  1992年 共著 
「『市民』の時代 」   北海道大学図書刊行会 1998年 共著 
「自治体の構想(第四巻・機構)」 岩波書店   2002年 共著
「自治体学理論の実践」      公人の友社  2011年 共編著 (川村喜芳)

北海学園大学「開発論集」
開発論集78号「21世紀の文化戦略」        (2006年8月)
開発論集79号「地域文化の甦り」        (2007年3月)
開発論集80号「自治体の政策開発」 (2007年9月)
開発論集81号「自治体の文化戦略と企業の文化戦略」 (2008年3月)
開発論集83号「自治体の文化戦略―沿革」 (2009年3月)
開発論集84号「文化の見えるまち」 (2009年9月)
開発論集87号「自治体の議会改革と自治基本条例」 (2011年3月)
開発論集88号「市民政治の可能性」 (2011年9月)
開発論集90号「市民行政の可能性」 (2012年9月)
開発論集93号「自治体学とはどのような学か」 (2014年3月)
開発論集97号「市民政府信託理論」         (2016年3月)
開発論集99号「政策研究の用語」の由来       (2017年3月)
開発論集101号「自治体議会の改革」         (2018年3月)
開発論集103号「松下圭一市民政治理論の骨格」 (2019年3月)
開発特別講義 「地方分権と道州制改革」 (2009年12月)
経歴と言説
ブログ「自治体学」 http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/








自治体学 - 自伝のようなもの (上)
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学 - 自伝のようなもの (上)

[幼年時代]
・元日早朝、家族全員が玄関を出て家を一周し、裏手のポンプで若水を汲み、口を漱いで顔を洗い、母が若水で作った雑煮を食べた。
・祖母は貸本の行商で、押入書棚に二千冊の講談本(フリガナ付き)があり、小学前に全てを読んだ。(筆者の教養は講談本である)
・兵隊サンが家の近くで休憩したときの「汗と皮革」の強臭を覚えている。
・小学三年の学芸会で「野口英世の半生」を二人で朗読した。
・10歳のとき、20キロ離れた徳島市の空襲が夜空に花火のようにキレイであった。翌朝、頭の上まで黒煙が広がっている異様な光景を見た。
・四年のとき、代用教員の若い先生から「七つボタンはサクラとイカリ…」を何度も何度も合唱させられた。 
 
[高校時代]
・長兄は工業高校機械科、次兄は土木科で、三男の筆者は電気科が新設された県立東工業高校に入学した。だが電気の授業に興味なく野球部に入部した。中学時代と異なる硬式野球で嬉しかった。授業中運動場を眺めて放課後になるのをひたすら待った。
・最初の小松島高校との試合が5打数3安打でレギュラーになつた。中学のときと同じショート(遊撃手)である。この上無しの嬉しさであつた。
・だが、甲子園への春と夏の県内予選では、ただの一度も勝利しなかっち。
・三年になり、立候補して生徒会長になった。県の社会教育主事の助言と指導で徳島県高等学校弁論部連盟を結成した。そして県立阿波高校で第一回弁論大会を開催して第二席に選奨された。

・明治大学で三木武夫さんの先輩であった徳島市長の長尾新九郎さんの知遇を得た。全国市長会の副会長であった長尾さんは東京にお出での度に大森の宿舎に招いて歓談して下さった。 (後年の大学時代に選挙の応援弁士で徳島に三度帰った) 
・卒業間際になって就職先が決まらないのは(電気科50人のうち)数人であった。だが意気軒高であった。「東京に出て大学に進学して弁護士になるのだ」と思っていた。

「東京の落ち着き先」を探さなくてはならない。
・県選出の国会議員、県会議員、徳島市内の弁護士宅を、次々訪問して「東京に出て大学に進学するのですが、人生の先輩としてご助言を下さい」と言った。「東京に知り合いはいるのか」と訊いて下さる方もいた。
・二人の方が「東京の落ち着き先」を紹介して下さった。弁護士さんが紹介して下さった(吉田茂内閣の労働大臣小坂善太郎の秘書官の)堀井喜良氏宅を落ち着き先と定めた。 
・親に東京までの旅費を貰って1954年春、東京に出発した。いささかの不安も無かった。
 
[書生時代]
・堀井喜良宅(東京都世田谷区下馬1丁目)の書生(居候)で東京での人生が始まった。居候にはさしたる用はなく、大学受験のために代々木予備校に通わせて頂いた。だが居候は居づらい。堀井氏の了解を得て、近隣の朝日新聞専売所の住込配達員になった。

・暫くして、堀井氏の紹介で国士館大学の学生食堂の会計事務担当として学生寮に住みついた。国士館大学は渋谷発の玉川電車で三軒茶屋から下高井戸の中間、(吉田松陰)神社前下車である。

・寮舎監の東木さんの好意で「大学の講義を聴いてもよい」になった。代々木予備校に通うよりはるかに有益であった。
講義の後、早稲田大学の民訴の教授に「人間には自由は不可欠なものですか」と尋ねた。笑みを浮かべ「私にその問に答えられるか疑問ですが」と真顔になって懇切に話して下さった。そのときは、よく分からなかったが感銘のようなものを戴いた。

国文学の教授に「俗世を離れて山中に住むことが、意味のあることなのですか」と質問した。生意気で無礼な質問をしたものだと、今恥ずかしく懐かしく思う。

・夏休みの誰もいない学生寮で『近代ヒューマニズムとカント』金子武蔵(東大教授)を読んだ。何を書いてあるのか分からない。意地になり繰返し読んだ。分からない。誰もいない学生寮である。大声で繰返し繰返し読んだ。「論語の読書百篇意自ずから通ず」で、「思惟の形式は時空である」の意味が分かってきた。そしてついに文章の各行が了解納得できた。一夏の良き体験であった。

・昭和女子大学 (玉電・三宿駅) 前の古本屋で買った阿部次郎『三太郎の日記』を読み耽けった。書物はいつも古本屋であった。河合栄治郎『社会思想家評伝』『ファッシズム批判』、倉田 百三『出家とその弟子』に感銘をうけた。

[中央大学法学部に入学]
・生活費と学費をアルバイトで稼ぐには、夜間部が良いと考えて法学部二部に入学した。入学してみると不正規なアルバイトは夕刻からが多いので二年から一部(昼間部)に転部した。

・下宿代が要らない住込新聞配達員になった。馴染んだ世田谷はお茶の水の大学までの時間と経費が嵩む。大学に近い神田神保町鈴蘭通りの東京新聞に住み込んだ。古書街を覗くのが楽しみであった。歳末に近隣の救世軍本部の救世鍋を眺めた印象が鮮明に残っている。
夕刊配達後に大学図書館に通うには、より大学に近い新聞店が良いので、銭形平次で有名な神田明神下の朝日新聞専売店に移った。ニコライ堂、日大病院、中央大学の自治会室にも配達した。学友と出会うこともあった。

・そのころの中央大学は司法試験合格者数がダントツ一位であった。大学は校舎五階に数多くの研究室を設けて受験学生を優遇していた。済美会研究室の入室試験(小論文と面接)を受験して研究室員になった。勉強机を専有できたがバイトでさほど使えなかった。世間は栃錦・若乃花の大相撲人気で盛り上がっていた。

・お茶の水駅ニコライ堂出口の古書店( 60年後の今もある)で『法哲学概論・碧海純一』東大教授(当時は神戸大学)を購入して熟読した。論理実証主義の法哲学である。橋本公亘教授の憲法講義で挙手し立上がり滔々と弁じた。橋本教授はにこやかに「学部四年ともなると法哲学を論じますネ」と言って下さった。懐かしき思い出である。

[新宿花園神社裏ゴールデン街の女性救出]
・大学二年のころ、新聞店の先輩に誘われて新宿ゴールデン街に行った。ベニヤ板で区切られた隣室の女性と話しをした。「助けよう」と思った。
(後日に聴いたハナシ)
山陰の高校を出て伯父を頼って上京して、就職先を探してくれるまで近所の中華店で働いた。若い男と知り合いヤクザと分かって「別れたい」と言ったら、凄まれてアッという間に特飲街に売られたの由。

 早朝四時のゴールデン街は街全体が眠っていた。窓下で二階からの荷物を受け取り女性とタクシーに乗った。運転手に新宿駅南口(甲州街道口)へと言い、車が動き出したときは「ホッとした」のを覚えている。世にいう(足抜き)である。そのときは「自分は何をしているのか」が分かっていなかった。ただ「助けよう」の思いであった。

  国士館学生寮で知り合った食堂の残飯をブタの餌に集めにくる農家のオジサンに頼んで女性を預かってもらった。女性はその農家のオジサンの紹介で下高井戸のさる邸宅の「住込みお手伝い」として落ち着き、何か月かして山陰の実家に帰ったの由。
 (これまで誰にも話さなかったハナシである。60年が経過しているので何処にも迷惑は掛からないであろう)

[下宿生活] 
・学生はたいてい試験の直前に一夜漬けの詰め込み勉強をする。新聞配達は試験の前夜も当日も休めない。三年の学年末試験で「住込配達員」をヤメた。新宿駅南口の甲州街道沿いに篤志家が始めた低額の学生下宿が在った。ベニヤ板で区切った三畳部屋が並んでいた。そこに下宿して新宿でサンドイッチマンになった。1時間100円。試験のときは休めた。

 [コマ劇場前・トリスバー・ヤマ]
・試験期間が終わって、コマ劇場前の「トリスバー・ヤマ」の専属呼び込みになった。夕刻7時から12時までの5時間-500円、寒い冬は足が凍った。ときおり、コマ劇場周辺に大行列ができた。恒例の「美空ひばり公演」である。無縁の世界の行列であった。

・帰途の楽しみは、新宿西口飲食街での鯨カツ定食であった(丼メシ・みそ汁・キャベツ大盛の鯨カツ)。500円の収入で150円の夜食であるがとても美味で満足であった。(その西口飲食街は2021年の現在もある) 

 [羽田空港座り込み]
・学生証などポケット内のものを済美会研究室に置いて、岸信介渡米阻止の羽田デモに出かけた。空港内でバリケートづくりを手助けしてスクラムを組み座り込んだ。機動隊がやってきて排除を始めた。蹴りとばしゴボウ抜きする手荒い排除であった。
次々と排除され自分の番になった。抵抗せず立上がり離れた場所に立って見守った。空港職員が自分の方を指さし「あれがバリケードを指図していた」と言っていた。
「労働新聞」の腕章をつけた人の横に並んだ。その記者は機動隊の排除が終わりかけたころ「出ようか」と小声で言って歩きだした。後ろに従い空港の外に出た。お茶の水駅で車から降ろしてくれた。国電で新宿の下宿に帰って眠った。翌朝の毎日新聞の羽田デモの写真に自分の姿が写っていた。キリ抜いて日記帳に貼り付けた。

[泥棒君を捕らえる]
・ある夜、掛け布団が擦られた感触で目覚めた。頭上に男が立っていた。「泥棒だ」と直感した。サッと起き上がった。出ていこうとする男の後ろ首を掴んで引き戻し、大声で「座れと命じた。反撃させぬため咄嗟に言った、と後になって思う。
 男は「済みません」と言いポケットから時計を出した。枕元に置いてあった腕時計である。

布団を擦ったのは、反対側の壁に掛けてあったオーバーを取ろうとして裾が布団に触れたのである。「さてどうするか」と考えた。交番に突き出すと状況調書などで時間をとられる。警察は好かない。ベニヤ板の仕切りであるから隣室の学生には「何が起きているのか」は分かっている筈だが出てこない。関わりたくないのである。

 「今後盗みはいたしません」と書け、と言ったが、「許して下さい」としきりに詫びる。
少し説教をして「かえっていいよ」と放免して眠った。翌朝、下宿の女将から「森さん昨夜、泥棒を捕まえたんだって、どうして勝手に逃がしたのよ」と叱られた。

[寝るところが無くなる]
・大人数の学生を卒業させる中央大学には「卒業論文」は無い。であるから、卒業学年末試験は重要である。アルバイトを一切ヤメた。たちまち財力ピンチになった。下宿代が払えなくなり友人に荷物を預かってもらって下宿を出た。寝るところが無い。東大久保のドヤ街に泊まったが、独特の臭いで眠れない。「さてどうするか」の事態になった。

・「窮すれば脳が働く」で、最初の住込み新聞配達の世田谷下馬町を思い出した。(八幡太郎源義家が奥州征伐のとき駒を繋いで戦勝祈願したの言い伝え)がある駒繋神社が、朝日新聞専売所の隣に在ったのを思い出した。たしか木造の神輿置場が在り鍵は架かっていなかった。
 早速、渋谷から玉電で三軒茶屋へ、徒歩で下馬町の駒繋神社に行き視察した。鍵は架かっていなかった。暗くなって人に見咎められないよう忍びこんだ。茣蓙が敷いてあり上等の寝場所であった。朝は早朝に起きそっと出て三軒茶屋で朝食した。

かくして寝場所を確保し、全ての時間を学年末試験の準備に使うことができた。試験の結果はまずまずであった。(それから59年が経過した2020年6月、お世話になった駒繋神社に娘と参詣した。「神輿置場」はコンクリートの堅固な建物に変わっていた) 

・三年のゼミで終生の友人に巡り合った(今もときおり逢って談笑する)。その友の発案で卒業記念文集を刊行することになった。冊子の題名は「抵抗」である。そこに『四年間の収穫』と題して小論を書いた。
今読めば気恥ずかしい文章だが、当時の自分と社会を懐かしく思い起こす。編集者が「誰か詩を書かないか」と言ったので、『悲鳴力』と題して「新宿の酷寒の夜の舗道での感懐」を詩文形式に綴って投稿した。

大学の会計窓口に四回提出して1960年3月、中央大学法学部法律学科を卒業した。

[Ⅱ] 神奈川県庁時代(1960-1993)
・神奈川県上級職員募集の新聞記事を見て受験した。ひとまず、安定収入を得て司法試験を目指そうと考えた。四年間のアルバイト生活に疲れていたからであろう。ゼミの友は(背水の陣で)小学校の夜間警備員になり二年後に弁護士になった。

・最初の職場は労働部の横浜労政事務所であった。職場の先輩に頼まれ県職労組の大会に出席した。「全県の組織なのだから車を購入すべきではないのか」と質問した。執行部は顔を見合わせ(そんなこと言っても組合費140円の組合なんだ)であった。

 数日して、労組委員長に「執行委員にならないか」と誘われた。そのときふと「やってみようか」と思った。その瞬間が司法試験への道筋から逸れる場面であった。背水の陣でなかったからである。

[職員労組書記長]
・三年目に書記長になった。自治労大会は『ベトナム反戦10・21全国統一行動』として「半日スト」を決議した。書記長として全力で取り組んだ。県庁の組合が「ストライキをやる」というので、民間労組の方々は(内心ではホントにやるのかと驚きながら)、本庁舎と分庁舎入り口の入庁阻止ピケに協力してくれることになった。

スト当日、運動靴姿で本庁舎と分庁舎入り口のピケ態勢を視て廻った。午前8時57分、分庁舎入り口で機動隊指揮者がピーッと笛を吹いた。「かかれ」である。筆者はそこにあった工事中のマンホール管に飛び上がって「スト中止」と叫んだ。ピケが解かれ県職員が入庁しはじめた。本庁舎前に駆け戻り「ストを中止します」と叫んだ。
 一連の対応は芝居めくがホントのことである。

・県の内規では、入庁阻止が30分を超えるとスト参加者は懲戒処分になる。翌日の新聞は「8時57分のスト中止は労組も考えたものだ」と書いた。だが、8時57分で中止すると考えていたワケではない。機動隊のピーの「かかれ」で「ピケと機動隊の衝突混乱」を避けたのである。ピーの笛が9時を過ぎていれば、ストは9時過まで続いたのである。

[公民権停止3年]
・自治労は二名の参議院議員候補者を組織内候補として大会決定した。神奈川県職労は北海道自治労の山崎昇氏を当選させるべく活動した。いつものように早朝、出勤してくる職員に組合ビラを手渡した。

・人事課長から「来てくれないか」の電話がきた。県警本部の選挙違反取締担当が「違反ビラを手渡されては県職書記局を強制捜査(ガサ入れ)せざるを得ない」(県庁舎に警察本部も入っていたから「組合ビラ」を手渡すことになる)「責任者が名乗り出ればガサ入れはしない」と言っている。「どうするかね」と人事課長が言う。即座に「私が出頭します」と返答した。「県職労組書記局に警察の強制捜査」の新聞記事が出れば、組合員が動揺し組合脱退の口実にも為りかねない。

・所轄の加賀町警察署に出頭した。「私の一存でビラを作り印刷して配布した。他の執行委員は何の関与もしていない」と述べた。「そんなことはないであろう」などの追及はなく「取調調書」がつくられた。だが公民権停止三年の処分になった。
そして山崎昇氏は参議院議員に当選した。
 
・専従役員を止めて五年ぶりに職場に復帰した。専従役員とは「身分は公務員のままで(職務専念義務免除の扱いで)組合活動に専従する」である。後年、保守政党がこの労使慣行を「ヤミ専従である」と攻撃した。

・職場に復帰して、司法試験の勉強を再開した。中央大学の答案練習会にも参加して精力的に勉強した。ところが、試験当日の朝、39度の熱が出た。フラついて立ち上がれない。まことに「何たることか」であった。
かくて弁護士への望みを断念した。だが、その後の生活で、弁護士生活では得られなかったであろう「国家観念への疑念」を獲得した。

・国家は「擬制の観念」である。擬制とは実体があるらしく見せかける虚構である。
 民主政治は「国家が国民を統治する」ではない。「市民が政府を選出して代表権限を信託する」である。「信託」は白紙委任ではないのである。
・国民が戦争に反対しても、国民の多くが(コロナ感染急増での五輪開催に)反対しても、政権が強行するのは、それを人々が無力感で諦めるからである。諦めるのは「国家の観念」を論理的に克服していないからである。問題は「国家」ではない「政府」である。

・「国家」なるコトバは、不正悪辣な政府の悪行を隠蔽し、国民を騙す隠れ蓑のコトバである。民主政治で重要なのは「政府責任の理論」「政府制御の理論」である。政治理論は「政府責任追及の理論」でなくてはならない。(自治体学理論の論理思考)

[神奈川労働大学の講師総取替]
・人事異動で本庁労政課労働教育係長に赴任した。そこに18年続いている神奈川労働大学があった。受講者のアンケートには講師への不満・批判が年々増大していた。
 講師の総取替を考えた。だが管理職は「自分にとって困る問題が起きないかを常に第一に考える」。労政課長は「総取替で問題が起きないか」「長年の講師から反発は出ないか」を考えるであろう。「総取替はストップ」が出るかもしれない。
 そこで、課長不在のときに、労働部長に「労働大学は古くなって受講者の不満が増大しています」「刷新したいのです」と 言った。部長は「受講者から不満が出ているのか、刷新は良いことだ」と言う。そこで部長に「労働大学の刷新をやれと森君に言ったよ」と課長に話しておいて下さいと頼んだ。

・憲法科目を新たに設けた。憲法は小林直樹(東大)、労働法は青木宗也(法政大)、社会福祉は一番ケ瀬康子(日本女子大)など、第一級の講師に総取替した。
・刷新した内容を、多くの人に知らせなくてはならない。記者クラブへの資料配布だけでなく、新聞各社を訪問して[科目と講師名]をすべて掲載して下さいと依頼した。

[右翼二人が現れた]
・新聞各紙に刷新した労働大学の科目・講師名が掲載されて数日後、「菊水行動隊」「不敬言論審査会」を名乗る二人の男が労働部にやって来た。部長も課長も応対に出ない。係長の筆者が一人で対応した。二人の男は小柄であった。掴み合いになっても「恐るるに足らず」と思った。だが、いつの間にか背後に座していた目つきの鋭い大きな男が気がかりであった。

・「左翼の講師ばかりではないか」と言うので、「この方々は現在日本の第一級の講師です…」と説明を始めると、とたんに大声で「お前はアカか」と恫喝してきた。すかさず「ドン」とテーブルを叩いて「アカとはなんだ。公務員にアカと言うのは最大の侮辱である」と、大声で怒鳴り返した。(アカなる言辞は権力側の不正な抑圧コトバである) だがここでは、こう反論するのが得策だと考えた。暫く論議が交錯して右翼の二人は帰った。(後方に座していた人は県警公安二課(右翼担当)の警官であった)。
(後日に分かったことだが、課長が右翼に来年から講師を変更すると約束したらしい)

[神奈川県労政学博士]
・大内さんという労政事務所長がいた。少しお酒が入ると、熱情を込めて労政行政を談論する。嫌がり陰口を言う人もいるが、まことに愛すべき情熱ある所長であった。横浜市立大学の三浦惠司教授と「大内さんの退職時に労政学博士号贈呈式を挙行する」ことを企んだ。

贈呈式会場は箱根大平台の地方共済の温泉宿にした。『神奈川県労政学博士審査委員会印』なる大きな角印を作り、県庁内の賞状を墨書する方に書いて貰って角印を押印した。立派な博士号の証書ができた。労政所長全員に案内状を送付した。
労働部長にも出席を依頼した。部長が出席するのなら出ないわけにはと、架空の労政学博士贈呈式に全所長が出席することになつた。
 当日の朝、大磯の大内さん宅に確認の電話をした。「本当に出て行って良いのか」の喜びの声であった。三浦教授のユーモアあるスピーチで贈呈式は楽しく盛り上がった。『神奈川県労政学博士審査委員会印』の大きな角印は58年後の今も横浜市緑区鴨居の自宅の机の引出しに入っている。

・「労政行政とは何か、労使関係に行政が関わってよいのか」¬¬を考えた。『これからの労政行政』と題して小論を書いた。コピー印刷をして「問題提起」の心算で職場の数人に配った。
 労働部長がこれを読み、労政課長に「職員にこれを討論させてはどうか」と言った。上司に従順な課長がめずらしく反対した。労政行政を批判する風潮が広まることを危惧したのであろう。何よりも自分の職務への批判になることを怖れたのである。 

・そのころの労働組合は「春闘」という統一行動で「賃上げ」を、ときには「反戦平和」の運動を展開して活気があった。そのころの労組役員には「自分が不利になることをも厭わぬ献身」と「未来を切り拓く気概」があった。2000年代の「連合」とは大きく異なっていた。

・労働部の仕事の殆ど総ては、労働省が策定して指図する事業であった。労働行政だけではない。国の各省庁は「機関委任事務」の名目で府県を下請執行機関にしていた。府県は国の地方代官であった。憲法の「地方自治」は名のみであった。
(筆者の問題意識はこのころから「自治体の政策自立」に向かっていた) 

 [自治大学校]
・課長から「自治大学校の研修に行かないか」と勧められて応諾した。
自治大学校とは、自治体の中堅職員を対象に研修を行う自治省の組織である。府県職員は6カ月、市町村職員は3カ月の全寮制研修である。恵比寿駅から南部坂を上った有栖川公園正面に所在していた。

・60年代70年代の日本社会は保守と革新のイデオロギー対立の時代であった。
講師は大学教授もいたが、主として自治省官僚であった。自治省の考え方を都道府県・市町村に伝達(注入)する研修である。しかしながら、佐藤功(成蹊大教授)の憲法講義は明快で小気味よくすこぶる人気があった。

・研修内容はともかく、6ケ月の寮生活最大の成果は、同じ年代の「親しき知り合い」が全国に出来たことである。隣室の石川県の木村さんが街から女性の民謡師匠を見つけてきて民謡クラブをつくり、生まれて初めて民謡を習った。青森の八戸小唄、新潟の十日町小唄、宮城のさんさしぐれ、岡山の下津井節、鳥取の貝殻節、宮崎のシャンシャン馬道中唄などを合唱した。まことに楽しきことであった。

[自治資料研究センター研究員]  
・自治大の6ケ月研修が終わるころ、加藤道子氏(自治省内で有名な?女性官僚)から、自治大学校に「財団法人・地方自治資料研究センター」が付置されるので、研究員として1年協力してもらいたいと言われた。「知事が長洲一二氏に交代したので神奈川に帰りたい」と辞退した。
 だが加藤氏は「神奈川県の上層部に話して了解を得ている」と言う。自治省内での加藤氏の「有名」とはこの強引さであろう。
だがここで、加藤富子氏の強引さ(意志を通す)を評価して紹介する。夫君は「学術研究誌・自治研究」に屡々論文を発表する自治省官僚の鹿児島重治氏である。結婚はしたが姓を改めず「加藤富子」を自治省内で押し通し認めさせた。

[自治体学理論の萌芽]
・自治資料研究センターの1年に、さしたる収穫は無かったが、唯一の収穫は、「内務官僚の座談会記録を読んだ」ことである。戦後間もないころの座談会である。『知事公選をGHQに押し付けられたときほど、戦争に負けた悲哀を感じたことはなかった』と語り合う内務官僚の座談会記録である。

日本中が焼け野原になり、食べるものも無く、住む家も無い悲哀、「星の流れに身を占って…」の歌謡の悲哀にも、いささかの思いを馳せることの無い、度し難い内務官僚の特権習性を視た。『自治体の政策自立を実現しなくては』と、強く思った。
「自治体学理論」への萌芽である。

 [文化行政]
1977年3月、神奈川県庁に復帰した。
・文化行政は、大阪府の黒田了一知事が1972年8月、宮本又次、梅棹忠夫、司馬遼太郎など10人のメンバーによる「大阪文化振興研究会」を設置し、三か年の研究成果が二冊の本となって刊行され、大阪府企画部に文化振興室を新設した。これが自治体文化行政の始まりである。

・長洲知事の発案で県民部に文化室が新設され、筆者は企画担当に配置された。企画担当の仕事は三つだと考えた。 
① 文化とは何か
② 文化行政とは何をすることか
③ 行政が文化を政策課題にできるのか
皆目見当がつかない。独りで考えたのでは思案がまとまらない。

「考える場を三つ」つくった。   
 一つは、仲間を集めて時間外の自主研究会
 二つは、県庁内のメンバーによる「文化行政・研究プロジェクトチーム」
 三つは、文化問題に見識のある方に委嘱する「文化行政懇話会」の設置

・ 自主研究会、庁内プロジェクトチーム、文化行政懇話会の三つの報告書・提言書が、神奈川県の文化行政の指針であった。自主研究会の報告書は月刊「職員研修」79年4月号で全国に紹介された。文化行政の草創期のころである。

文化行政壁新聞
 知事の発想で「文化室」は新設されたが、議会の多数会派は長洲知事に得点をさせたくない。幹部職員は人事権を持つ知事に従うけれども面従腹背であった。文化行政に冷たい空気が漂っていた。庁内に「文化行政の市民権」を確立しなければならぬと思った。
「文化行政壁新聞」を刊行しようと考えた。パンフレットの類は直ぐに紙屑になってしまう。「一か月貼り晒し」の壁新聞が良いと思った。ところが、文化室長も県民部長も壁新聞の予算要求に(内心では)不賛成であった。 
 
 消極的な室長と部長が予算を財政課に要求することが(ようやっと)決まった。
ところが、年休で一日休んで出勤すると何やら雰囲気がおかしい。若い職員に問い質すと、昨日部長室で『壁新聞はDランクで要求する』と県民部として決めた」とのことであった。「Dランク要求」とは「削って結構です」の予算要求である。

 原総務部長は副知事になりたいと思っている。副知事は知事の胸三寸である。文化行政は知事の目玉政策である。総務部長は知事に忠誠を示さなくてはならない。

総務部長に会いに行った。「森君、壁新聞を毎月出せるのかね」と訊く。「壁新聞だけでなく七項目の文化行政予算を全て知事査定に上げて下さい」と頼んだ。「七項目全てを知事査定に上げて大丈夫かね」(知事には何も言ってはいないが)「大丈夫です、知事には話してありますから」と言った。
 総務部長査定が終わった直後の県民部総務室で「おかしいなぁ、Dランクがみんな通った」と職員が話しているのを耳にした。
 
 次は知事査定である。1978年1月7日、いつもより早く出勤して秘書室職員に「知事に話があるので査定前に会わせてほしい」と頼んだ。秘書は「文化室の森は知事と特別な関係がある」と錯覚したのか、「知事さんがお出でになりお茶を差し上げ日程を説明した後に一番でお会い頂きます」となった。

 部屋に入っていくと知事は独りであった。「文化行政予算を全て認めて下さい」「森君、これ全部やれるのかね」「やります」「分かった」になった。かくして、文化室の文化行政予算は全て実行可能の予算になった。
  1 文化行政壁新聞の発行
  2 文化行政推進本部の設置
  3 文化のための1%システムの開発
  4 地方の時代映像祭の開催
  5 行政のデザインポリシーの策定
  6 文化の第三セクターの設立
  7 全国文化行政学会の設立

文化行政壁新聞 (ポパール) 
 話は少し遡るが、財政課に予算要求をする段階で、壁新聞に名前をつけることになった。いろいろと考えたが「良い愛称」が浮かばない。当時売れていた雑誌に「ポパイ」「ポスト」があった。「パピリオン」という商品もあった。発音はパ行である。「ポパール」という音が浮かんだ。語感が良い。何度か唱えていると「これで良い」と思った。苦し紛れの命名で特別な意味はない。

 財政課長査定で「ポパールの意味」が訊かれた。筆者はその日は出張で県庁にいなかった。誰も答えられない。出張先に電話がかかってきた。音(オン)で「ポパール」としたのだから意味はない。だが「意味はない」とも言えないので、咄嗟に「ラテン語」で「人々の芸術」という意味です。英語なら「ピープル・アート」ですと返答した。

 翌日、出勤すると「昨日は大変だったのよ」と東京外大卒の女性職員が言う。財政課からポパールの綴り「スペル」を訊かれて、その女性が図書館からラテン語辞典を借りてきて調べたが見つけられなかったとのことであった。「出てなかったかねー、POPALだよ」と苦笑して呟いた。「綴り」なんぞ「どうだって良いではないか」と思った。

「ポパール刊行」の予告記事
 知事査定で壁新聞「ポパール」の発刊は定まった。
 壁新聞の標的は県庁職員である。当時の神奈川県庁には二代前の内山岩太郎知事が「教養月報」と命名した全職員配布の月刊の広報紙があった。その「教養月報」に「論説的予告記事」を掲載しようと考えた。小村喜代子さんという庁内でも有名な女性編集者に会いに行った。快諾を得た。

 役所では、業務に関する原稿を庁内広報紙に書くときには、上司の「事前了解」と「原稿内容の承認」を得るのが通常である。それを知らないわけではない。だが、文化室長は庁内広報紙に掲載することを(自分では)決められないだろう。次長に相談するであろう。そして「時期尚早」などの言い方で掲載は先送りになるであろう。「波紋が庁内に広がる」ことを極力避けたいのが面従腹背の幹部の常套である。

 そしてまた、「教養月報」に掲載することになったとしても、「原稿」は無意味な内容に変質するであろう。そうなれば、壁新聞発刊の「新鮮な衝撃イメージ」は職員に届かない。そこで、誰にも相談しないで原稿を書いて職員課に届けた。(教養月報に掲載された原稿は今もパソコン内にある)
 
「ポパール」から「かもめ」に
 県民部担当の湯沢副知事から電話で呼び出された。副知事室に入っていくと「森君、壁新聞の名前は知事さんに付けてもらったらどうかね」と言われた。「やっとここまで漕ぎつけた」の想いがあったから内心不満であった。

だが嫌とは言えない。「そうですか」と言って退室した。自席で「どうしたものか」と思案した。そしてふと思った。この壁新聞は現状維持の庁内文化に異質の価値観を提示するのだから、必ず悶着を起こすであろう。そのとき「知事命名」は役に立つ。そう考えて秘書課に「知事に命名して貰いたい」と電話した。

翌日午前、特命秘書の蔵から「知事が考えてきたよ」と電話がきた。「何という名前?」「かもめだよ」。瞬間「悪くない」と思った。
 「県の鳥」は「かもめ」である。知事がそれを「壁新聞」の名前に付けた。「かもめのイラストも描いてあるよ」と蔵がつけ足した。
(特命秘書であった蔵さんは現在札幌市内で喫茶店を開業している)

 そのとき「アッ」と気付いた。「教養月報」に出した原稿のタイトルは「ポパールの発刊」である。大慌てで職員課に電話した。「小村さんは神奈川新聞社の校正室に行っています」。神奈川新聞社に電話した。「最終校正をしています」と小村さん。「タイトルも文章も全て『ポパール』を『かもめ』に訂正して下さい」。危ないところで間に合った。かくして「ポパール」は「かもめ」に改名された。
 
庁舎管理課長
 次の問題は「文化行政壁新聞・かもめ」を何処に貼るかである。各課の室内壁面はロッカーが占拠して貼る場所が無い。エレベーター内を考えたが身体に近すぎて読めない。玄関入口に貼っても県庁職員は早足に通り過ぎるから読まない。そこで「新庁舎のトイレ」に貼ろうと思った。

 だが、庁舎管理は年々厳しくなっていた。革新団体が県庁にやってきて敷地内でビラ配りをするのを規制していた。トイレに壁新聞を貼るのは容易なことではない。容易ではないが「貼る場所」を確保しなくてはならない。

 庁舎管理の責任者である出納長総務課長に会いに行った。
「聞いていられると思いますが、文化室の『壁新聞』の掲示場所の件ですが…」と切り出した。課長は怪訝な表情で「何の話しですか」と言う。「まだお聞きになっていませんか、秘書課から話しはきていませんか」「実は過日、知事と話していたとき『かもめ』の掲示場所の話しになって、新庁舎トイレの洗面場所が良いと言ったら、知事が『それはおもしろいね』となつて、『知事からも庁舎管理課長に言っておいて下さい』ということだったのです」と話した。

 総務課長は「聞いていませんが『トイレ』にですか、一度認めると職員組合もステッカーも貼らせろとなると困るしねー」と。当然ながら「それはダメです」の表情であった。

 ところが、翌月は「定期人事異動」である。部課長クラスの大幅人事異動が噂されている時期である。部課長の人事は知事の専権である。総務課長の脳裡には「職務を無難に」と「昇格への期待」が交錯する。しかし「トイレに壁新聞はねー」と呟く。天秤が脳裡で右と左に傾く。そこで「こうしたらどうでしょうか」と提案した。

 「一回だけ試行的に認めて、二回目の『継続するか』『止めるべきか』の判断は『総括管理主幹会議』で行う」「『総括管理主幹会議』の議題にすることは文化室の責任でやりますから」と言った。総務課長は「文化行政壁新聞は知事の肝いりである」「継続して貼るか否かは庁内会議が判断する」と考えたのであろう。「試行的ならいいかな」と呟いた。間をおかず颯と用意してきた「トイレに掲示」の「伺い文書」を差し出した。

県庁のトイレに貼る
 庁舎管理の責任者である出納総務課長のハンコを貰うことに成功した。(知事との過日の話はもとより架空のことである)
 直ちに県民部に戻って県民部長に決裁をお願いした。県民部長は「出納総務課長はよく認めたねぇ」と言いながらハンコを押した。

次は次長である。次長は部長が決裁しているから「内心で何と思ったか」は別としてハンコを押した。最後に文化室長の決裁である。
役所の通常では手続きが逆である。文化室長も内心に複雑以上のものがあったであろう。普通ならば認めがたいやり方である。だが県民部の幹部にも「翌月の人事異動」が作用していたのかもしれない。

 しかし「庁内ルールを無視するふるまい」の烙印は確実に吾が身に刻印されていく。しかしながら、通常の手続きでは何もできない。役所文化では「文化行政」はできない。もともと「文化」と「行政」は異質である。

 文化室の職員に頼んだ。男性と女性の二組で「今直ぐ、新庁舎地階から十二階までのトイレに貼ってよ」と。トイレに壁新聞を貼るのだから、ボヤボヤしていると「ちょっと待った」がこないとも限らない。男性トイレには「小用を足す目の前」に貼った。(役人意識が脱けているときである)。女性トイレは身だしなみを整えるスペースに貼った。
 文化行政の初期のころは全てが「役所作法」との「綱渡り競争」であった。
 本庁舎と分庁舎のトイレにも貼った。後は急ぐことはない。順次に掲示場所を確保していった。十二階の職員食堂、屋上の図書室、別館の職員会館、地階の売店にも貼った。

 オレンジ色に黒色で「文化行政壁新聞・かもめ」と書いたラベルを「発砲スチロール」に貼りつけて表札を作った。表札の裏面には両面粘着テープが付着してある。一度貼ると剥がせない。剥がすと「発砲スチロール」が壊れる。 
 
出先の職場にこの「表札」を「壁新聞」と一緒に送付した。「教養月報」に予告されていた壁新聞であるから、職員が適宜な場所に表札を貼りつけ掲示した。その瞬間、そこが「かもめ」の専有掲示場所になる。全国の都道府県にも送付した。その話は後で述べる。

編集委員
編集委員には覚悟と才覚が必要である。そこで委員の選出に工夫を凝らした。
 問題意識と感覚の優れた職員と個別に会って同意を得た。その後で「文化室長名の文書」で所属長に「この職員を推薦して頂きたい」と依頼した。そして、編集委員が腹を括るべく、知事室で、『文化行政壁新聞・かもめの編集委員を委嘱する』と墨書した依嘱状を知事から七名の編集委員に手渡して貰った。
 
(ここで断っておくが長洲知事と筆者は特別な関係ではない。文化室に異動になる前には会ったこともない。だが知事の目玉政策を現実化するのだから、この程度のことは知事にやって貰ってよいではないかと思っていた)。

「毎号の内容」は七人の編集委員で決めるのだが、紙面にその内容を表現する「デザイン力」は素人では難しい。そこで東京芸術大学講師の吉本直貴さんにお願いした。吉本さんは「県庁内に貼り出す壁新聞を珍しい」と思ったからでもあるが、無料で最後まで協力して下さった。

 そこで、紙面づくりの一切を吉本さんにお任せした。「イラスト」も「キャッチコピー」もお任せした。責任は文化室企画担当の筆者である。壁新聞は文化室の予算であるが、文化室長にも事前の了承を得なかった。知事室での「依嘱状の手渡し」は「知事特命の編集」にするための工夫であったのだ。

 ある号で、次長室に呼ばれた。「森君、この文章はこう書くのが良かったのでは」と助言された。「そうだとは思いますがお任せください」と答えた。一度「助言」を受け入れると次第に「事前了承」になってしまうからである。「真に相済みませんが、気づいても助言はしないで下さい」とお願いした。
  
 第一号のタイトルは「服装は思想です」である。
 役所は形式的で画一的で「前例と規則」である。「無難に大過なく」である。公務員の服装は「ドブネズミ」と言われている。葬式でもあるまいし同じ色のスーツである。個性的な洒落た服装であるべきだ。真夏にネクタイは暑苦しい。「個性のない服装」だから仕事も「無難に大過なく」になるのだ。開襟シャツを着こなせばよい。

 文化行政には公務員の変身が必要である。そこで「服装は思想です」にした。この壁新聞を「県庁舎のトイレ」と「全ての県内職場」に貼り出した。新聞各社はこれを写真入りで報道した。創刊号「かもめ」は初夏の空に飛翔した。1979年5月15日であった。

 第十一号は「県庁のムダの考現学」である。
 1980年3月9日の壁新聞は「会議が多過ぎる」「多過ぎる役職者」「職員配置の不均衡のムダ」「コピー時代に流されて安易に資料をつくる」「仕事の質より職員の数が多ければエライ思い込んでいる所属長のお役人気質」「女子職員のお茶くみ」「議会開催中に五時以降の居残り職員が多過ぎる」など。新聞各紙は朝刊で「壁新聞が内部告発」、「県庁のムダをヤリ玉に」などの見出しで一斉に報道した。

 新聞とテレビが報道して話題になり議会で論議になった。議会で話題になるのは良いのだが、自由な紙面づくりが出来なくなることを心配した。県民部幹部の事前決裁(検閲)になっては困る。信頼できる議員に頼んで県民環境常任委員会の論議を聴いた。「部長が紙面を抑制することはしないだろうな」「文化室から出ていることが良いのだから」などの激励発言であった。
 
 「かもめ」が、議会の論議になり新聞で報道されたので、管理職も読むようになった。
800部刷って県の職場だけでなく県内市町村にも配布した。全国の都道府県にも先に述べた「発砲スチロールの表札」を付けて送付した。「文化行政の全国情報紙」にするためである。後日、他府県の文化行政担当課を訪れると「かもめ」が「発砲スチロールの専有掲示場所」に貼られていた。 

 各号の「タイトル」と「内容」は『物語・自治体文化行政史─10年の歩み』(新曜社-1988)に掲載されている。

 [文化行政を研修科目に]
神奈川県は30年続いた「公務研修所」を「自治総合研究センター」に改組した。
松下圭一教授の助言を得て「地方公務員の養成所」から「自治を研究するセンター」に改革した。その自総研センターの所長に会いに行った。「文化行政を研修科目にしてもらう」ためである。

 武井所長に「研修所を改革したのだから、変化がハッキリ見えることが大切です」と切り出した。「何か良い考えがあるかねぇ」と返ってきた。用意してきた「政策研修の手法」と「講師名」を書いたメモ(井上ひさし「未来への想像力」、谷川健一「文化の火種としての地名」、松下圭一「市民文化の可能性」、色川大吉「自治と自由民権」)を差し出した。

「こんな著名講師が通常の講師謝金で来てくれるのかね」と尋ねる。「行政革新をやりたいと心情を披歴して頼むのです。謝金の額ではないのです」と弁じた。所長は「それなら君が折衝してくれないか」と言う。文化行政を研修科目にすることを交換条件に折衝を請け負った。

井上ひさし(作家)
 電話をしたが、よし子夫人のガードで本人と話しができない。人気作家の井上さんには多様な依頼がくる。だが「こまつ座の脚本」も開演初日までに間に合わないときがある。健康管理もあってよし子夫人の関所は鉄壁で、研修講師 は頼めなかった。

だがこの七年後に「文化ホールがまちをつくる」を学陽書房 から出版したことで、井上さんが郷里の山形県川西町で毎年開いている「生活者大学校」の講師に招かれることになり、そこでの見聞を講談社の「月刊・現代」1993 年 11 月号に「川西町」を書いた。

生活者大学校での二回の講義は「井上ひさしの農業講座」(家の光協会) に収録された。それ以来、井上さんから新刊のご本をその都度頂いた。書架には最期の長編小説「一週間」(新潮社・ 2010-6-30 発行)と最期の戯曲「組曲虐殺」(集英社・2010-5-10 発行)までの 47 冊が並んでいる。
 
谷川健一(民俗学)
 谷川さんの「文化の火種としての地名」の講義は刺戟的であった。これがご縁になり、そのころ谷川さんが念願していた「地名全国シンポジュウムの開催」に協力することになった。知事室と連携して、川崎駅前の日航ホテルで、長洲知事と伊藤三郎川崎市長が揃って記者会見を行い「地名全国シンポ」を「神奈川県と川崎市が共同して開催する」と発表した。これは画期的なことである。

なぜなら、自治体は自治省の指図で「住居表示に関する法律」の先兵として地名を破壊しつづけていたからである。
 「地名全国シンポジュウム」は、谷川さんの人脈で全国から著名な学者、郷土史家、作家、出版関係者、行政職員が参集した。まことに多彩な顔ぶれであった。 開催日の直前には、桑原武夫氏が「地名と柳田学」の記念講演を行った。メディアはこれらを全国に報道した。

松下圭一(政治学)
 松下さんと最初にお会いしたのは、横浜国際会議場で開催した全国文化行政シンポジュウムのパネリストを依頼したときであった。場所は朝日新聞社の最上階レストラン「アラスカ」であった。爾来35年のご交誼を頂いている。
 日本で最初の文化行政の本である「文化行政─行政の自己革新」(学陽書房)の共編著者にもなって下さった。北海道の自治土曜講座にも講師で度々お願いした。「新自治体学入門」時事通信社刊(2008年)の推薦書評も書いて下さった。
https://drive.google.com/file/d/1R3KZiejtrXETJ4V6cSLuGUq4fHSeECfu/view?usp=sharing


色川大吉(近代史)
 電話で話すと「その内容なら神奈川県史編纂委員の近代史の江村栄一先生に依頼されるのが筋です」と断られた。電話では意が伝わらない。「会って下さい」、「会っても同じです。引き受ける訳にはいきません」、「会って下さい。会って下されば今の話しはしませんから」。「それなら何のためにやって来るのか」と色川さんは思ったであろう。だが「とにかく会って下さい」の語調に「何かを感じた」のかもしれない。会う約束をもらった。

 1980年4月28日、書棚から色川さんの本8冊を取り出しボストンバックに入れて国鉄横浜線に乗った。指定された場所は研究棟の玄関ロビーであった。「会うだけ」だからであろう。ボストンバックから本を出しテーブルに並べ、朱線の入った頁を開いて「ここのところを」「ここのところが良い」と言い始めた。色川さんは笑い出して「寄り切りで私の負けですな」「何日にいけば良いのですか」と言ってくださった。 

研修当日は自治総合研究センターの玄関で出迎えて聴講した。昼食は所長の配慮で長洲知事お気に入りのレストラン(かおり)に行った (通常は講師控室での出前弁当である)。

[自由民権百年大会の会場] 
 食事の後、色川さんから「自由民権百年全国集会の会場」が見つからないで苦慮しているとの話が出た。即座に「神奈川で開催して下さい」「相模は自由民権の歴史のある土地ですから」と言った。「三千人くらい集まります。会場がありますか」と訊く。「神奈川県民ホールは2450人の座席があります、会議室もあります」「それは有難い話ですが、二日間借りられますか」「大丈夫です」と答えた。全国集会は翌年の81年11月21日と22日である。

[会場を確保]
 県庁には役所流儀の処世術に長けた人がいる。県庁内の人脈に詳しい人である。そのK氏に事情を話して頼んだ。「分かった」と引き受けてくれた。
 
暫くして、色川さんから「会場のお礼」と「当日の祝辞のお願い」で長洲知事にお逢いしたいと連絡があった。文化室長にその旨を伝えた。廊下を歩いていると部長室から怒声が聞こえた。応接の女性に「誰がやられているの」と訊いたら「貴方のとこの文化室長さんですよ」と言う。県民部長は大声で部下を叱責することで有名であった。「廊下まで怒声聞こえる県民部」という川柳めいた噂のある部長である。 
 
文化室に室長が帰ってきたので「何のことですか」と訊ねると「自由民権大会のことだよ」「自由民権が文化室と何の関係があるのか」と叱られたと言う。「何と答えたのですか」「あまりの剣幕で返答できなかった」とのこと。「文化行政は明治百年来の近代化の文化を問い直す仕事です」と答えてもらいたかった。

[部長・次長・室長―突然の不在]
「知事表敬」の当日のことである。著名な歴史学者である遠山茂樹、色川大吉、後藤靖、江村栄一の方々が県庁にやってきた。当日の手順は、県民部長室に来て頂いて、県民部長が知事室に案内することになっていた。筆者は玄関で出迎えて八階の県民部長室に案内した。

ところが部長室には誰もいない。部長、次長、文化室長の三人がそろっていない。応接の女性に訊いたが「知らない」と言う。「ハハーン」と思い「それならば」と思った。
応接の女性にお茶を出してもらって、内心で「今日は自分が県民部長である」と思いながら、「急用で部長は不在になりました」と言って一人で応対した。練達な先生方はこの日の情況を了察して「長洲さんもたいへんだな」と思ったであろう。

 先生方に「これから知事室にご案内いたしますが、県庁の流儀では『どの部署が自由民権百年大会を担当するか』が重要なことです」そこで「先生方から文化室にお願いしたいと言って下さい」と話しておいた。

 知事はにこやかに応対した。知事室には四人の客と知事と筆者の六人だけであった。案の定、知事は筆者に顔を向けて「担当は何処になるかな」と訊いた。「文化室でお願いできれば」と手筈どおりに遠山実行委員長が言った。「県民部でよいかね」と知事は筆者に言い「結構です」と答えた。それで県民部が担当することに決まった。

先生方は少し談笑して帰られた。この間、県民部幹部は何処に居たのであろう。示し合わせて不在になったのは、議会の多数会派に「自由民権百年大会」を県民部が望んで支援したのではないのだと、示したかったのであろうか。部長、次長、室長の三人はその間「何の話」をしていたであろうか。

[自由民権百年全国集会]
 1981年11月21日と22日の両日、神奈川県民ホールで自由民権百年全国集会が開催された。全国から研究者、教員、学生、市民の約四千人が参集した。 

 会場は熱気に包まれ参加者は自由民権運動の歴史的意義について論じ合った。なかでも参加者が激しい拍手を送ったのは、壇上に並んだ、秩父事件(1884年、埼玉県秩父で農民らが借金の据え置きなどを求めて蜂起した事件)など、自由民権期に各地で起きた激化事件で殉難した民権家の遺族約70人に対してであった。一世紀にわたって「暴徒」とか「逆賊」とかのレッテルを張られてきた民権家の子孫が名誉を回復した感動的な場面であった。

 長洲知事は祝辞を述べ萬雷の拍手で会場提供を感謝された。歴史学者家永三郎、松本清張、小田実などの著名な方々が次々と登壇した。前年放映されたNHK大河ドラマ「獅子の時代」で主役を演じた加藤剛さんは「自治元年」のセリフを朗唱した。新聞・テレビはこれらを連日大きく報道した。

かくして、「文化行政」は職員研修の必修科目になり筆者は講師を何度となく務めた。

[文化のための1%システム]
「文化の1%システム」とは、建設工事費に1%の額を加算して、魅力ある地域文化を創りだそうとする文化行政の政策である。神奈川県が始めたこの施策が全国に広がつた。
  神奈川県 文化のための1%システム  
  兵庫県  生活文化をつくるための1%システム事業
  福島県  文化のための1%システム
  東京都  文化のデザイン事業 
  長野県  公共建築物文化高揚事業
  石川県  教育環境整備事業
  滋賀県  美しいマチをつくる1%事業
  広島県  公共施設等修景化事業
  高知県  施設等への文化性付加等推進事業
  鹿児島県 かごしまの美とうるおいを創る事業
  尼崎市  公共施設の文化景観の創造事業
  伊丹市  ゆとりある文化的境整づくりのためのプラスアルファシステム
  広島市  公共施設文化投資事業

[建設省大臣官房から電話]
・建設省大臣官房から電話で「文化の1%システムの資料を送って貰いたい」と言ってきた。
筆者は(自治体の政策自立が必要だと思っていたので)、「自治体が考案した政策資料が欲しいのなら、神奈川県にいらっしゃい、来れば説明して資料をあげます」と応答した。

 すると「貴方の名は何というのか」と言うので、「名前を訊くなら、自分が先に名乗るのが礼儀でしょう、あなたの名前は何というのですか」と言った。「自分は大臣官房の渡辺だが君の名は」と言う。その語調は「天下の建設省の大臣官房に対して地方の公務員が何という返答か」であった。
 そこで「自治体が考案した政策手法を省庁が聞き集めて、あたかも国が考え出したかのように、一律に通達で自治体を政策指導するやり方は宜しくない」と言うと、途端に電話を切った。(おそらく神奈川県の土木部職員は「イヤガラセ」をうけることになるであろう)

[中央都市計画審議会委員]
(後日の北海道大学に赴任してからのハナシであるが、文化行政に関わるので此処に書く)
深夜、建設省大臣官房から電話が架かってきた。「中央都市計画審議会委員になっていただけますか」の電話である。事情が分からないので「どういうことですか」と訊いた。「貴方はうちの大臣とお知り合いですか」と言う。

 建設大臣は社会党の五十嵐広三氏である。それで「ハハーン」と了察した。察するに、建設省大臣官房がまとめた「中央都市計画審議会委員の名簿」の大臣決済のとき、五十嵐さんが「自治体の文化行政に詳しい人を加えなさい」と指示したのであろう。「都市計画審議会委員、承知しました」と返答した。 

五十嵐さんは旭川市の市長のとき、国道である「駅前大通り」を「買い物公園」に改めた(文化のまちづくり)で有名な人である。その五十嵐さんから、社会党が水戸で開催した「文化のまち政策シンポジュウム」の司会を頼まれたことがあった。学陽書房から『文化ホールがまちをつくる』を刊行したときである。それ以来の知り合いである。

そして、建設省の審議会の場で「この資料に書かれている施策は、すべて自治体が考案した施策です。そして、旭川買い物公園通り、釧路幣舞橋の四季像、宝塚大橋のデザインなどは、最初は建設省が無駄だと反対したものです。「地域の美しさ」や「まちの魅力」は中央省庁が指図して現出するものではない。そのことを銘記するべきである、と発言した。

東京都から出ていた女性の審議委員が「建設省の審議会でこのような発言が聴けて感動です」と応援発言をした。 

 自治体の政策潮流
 文化行政を自治体の政策潮流にするため三つの仕組みを作った。
  [全国文化行政会議]
  [全国文化行政シンポジウム]
  [文化のみえるまちづくりフォーラム]

[全国文化行政会議]
・文化行政担当職員の交流会議が必要と考え府県に呼びかけた。1977年9月、宮城、埼玉、愛知、京都、大阪、兵庫、神奈川、横浜の7県1市の19名が箱根湯本に集まった。この情報交流会議がのちに全国文化行政会議に発展した。

・第二回会議は埼玉・浦和で開催しました。第三回会議は1979年3月19日と20日の二日間、鹿児島県指宿に全国の半数近い20の道府県が集まって開催された。この種の会議にありがちな「形式的な情報交換・はやめの懇親会」ではなく「熱っぽい討論」を深夜まで繰り広げた。

 筆者は文化行政を自治体の政策潮流にするため「全国シンポジュウムの開催」を提案して、「11月に横浜で開催」が全員一致の賛同を得た。 

・第六回宮城会議で「文化行政の手引き」の作成を提案した。『地方の時代を拓く文化行政の手引き』は数万冊印刷され、全国の自治体職員に読まれた。この「手引き」が「自治体の政策自立」の潮流に弾みをもたらした。

全国文化行政シンポジュウム
・1979年11月8日と9日の二日間、横浜国際会議場で「自治と文化―地方の時代をめざして」を主題に、第一回全国シンポジュウムを開催した。主催は、全国文化行政会議・総合研究開発機構・神奈川県の三者で、参加者は43都道府県167人、32市町村103人、研究者26人、市民32人、出版関係18人、報道関係42人の総計388人であった。

 会場は満席で熱気に包まれた。シンポジュウムの目的(ネライ)は「自治体の政策自立」である。
・シンポジュウムを傍聴したNHK縫田曄子解説員がこの日の夕刻、「番組・コラム」で当日の論点であった「行政の文化化」の意味を解説した。

・行政の文化化とは
 行政職員は「必要なムダ」「見えない価値」「美しいまち」などの言葉を起案文章に書く。だが、実際の仕事は「行政は法律規則によって業務を執行するものです」「現行制度では致し方が御座いません」と市民には応答する。行政職員は「自分で判断をしない」「何事も上司に伺って」である。「何とかならないものか」と才覚を働かせることをしない。

 そして管理職もその態度を職員に求める。ところが、その幹部職員が最大細心に注意をしているのは「責任回避」である。これが行政文化である。これでは「文化のまちづくり」にならない。行政の文化化とは行政文化の自己革新である。
 
第二回全国文化行政シンポジュウム
・1980年11月17日と18日の二日間、兵庫県三木グリーンピアで「生活と文化」をテーマに第二回全国文化行政シンポジュウムが開催された。32道府県、37市町村、11の研究団体と市民が参加した。第三回は秋田県で開催された。

かくして、中央省庁と関わりなく、文化行政を討論する自治体の会合が開催されるようになった。「自治体の政策自立」の画期的展開である。

・これまで、国が関与しないで全国の自治体が会合し政策課題を討論するということは皆無であった。前例のないことである。省庁官僚は内心で「いまいましく・あってはならないことだ」と思っていたであろう。

[文化のみえるまちづくりフォーラム]
・自治体が政策自立をするには戦略思考が必要である。  「文化行政」の呼称では「タテワリ所管事業の執行行政」と受け取られる。そして「文化行政」では「行政が文化を仕切る」と誤解される。

 その誤解を避けるために「文化行政」を「文化の見えるまちづくり」と言い換えることにした。
・「文化の見えるまちづくり」ならば、タテワリ省庁が文化行政を傘下に組み敷くことが出来なくなる。自治体職員も「省庁政策の支配」から脱して「自治体独自の政策発想」をする可能性が出てくる。

市民と文化団体と行政職員が同一地面に立って話し合う「文化の見えるまちづくりフォーラム」を開催することにした

・文化の見えるまちとは「住んでいることが誇りに思えるまち」である。  文化は計量化できない価値であり目に見えるものでもない。見えない価値を保存し創出する営為が「文化の見えるまちづくり」である。  
自治体の存立意味は「文化の見えるまちをつくる」ことにある。    
・論議を広げるため、書物『文化のみえるまち』を刊行した。宮本憲一先生が紹介書評を書いて下さった。
          
  
第1回「参加から協働へ」        1991-2/ 1~2    徳島市 
第2回「地域の人・こころ・ロマン」  1992-2/ 5~6 宇都宮市 
第3回「文化を発信するまちづくり」  1993-11/11~12 沖縄市
第4回「もう一つの文化発見」     1994-11/17~18 宮城県(仙台)
第5回「自然と文化の共生」     1995-7/20~21  高知県中村市
第6回「文化のネットワーク」    1996-10/17~18 北海道(札幌)
第7回「歴史と未来が出会うまち」  1997-10/16~17 静岡県(伊豆長岡)
第8回「水俣で21世紀を発想する」    1998-11/11~13 熊本県(水俣)
第9回「自治文化政策ルネッサンス」  2002-11/21~22 吹田市
第10回「土と炎のまち・文化メッセージ」2003-11/20~21 多治見市  
第11回「街に文化の風を」   2009-8-27~28 大阪・池田市
  

「自治体の政策自立」
次の課題は、「自治体職員の政策能力」「自治体の政策形成力」を高めることである。「文化の見えるまちをつくる」には自治体の政策能力を高めなくてはならぬ。

1984年10月18日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で第一回自治体政策研究交流会議を開催した。この交流会議で「自治体の政策研究」の言葉が新聞記事になり月刊誌の特集にもなって広がった。「言葉の広がり」が「政策自立の考え方」を広めた。

・1987年10月、教育委員会事務局から「文化行政の話を社会教育審議会でして貰いたい」と文部省から依頼がきたので「文部省に行ってもらえないか」と電話がきた。

文部省は 家永三郎教授の教科書裁判のように、教科書を検定(検閲)して「日本がアジアで何をしたか」を生徒に教えない。明治維新のところで授業が終わるように「学習指導要領で」させている。だから、日本の人々は「自分の国の歴史」を哀れなほど知らない。
「文部省にはいきたくない」と断った。
 
・ところが、幾度も教育庁総務課から「文部省に行って貰いたい」と頼まれた。神奈川県教育庁は文部省から言われると嫌と言えないのである。気がすすまないが文部省に出かけた。文部省の玄関を入るとき、ここが「不正反動教育行政の元締め」なんだ、と思った。
・文部省社会教育審議会の審議委員の方々が座していた。依頼されたのは「自治体の文化行政」である。(当日のレジュメは下記)
・工業的都市開発で「地域の魅力」が失われた、文化行政はその「取り戻し」です。
・自治体の文化行政は自治体それぞれが工夫して展開するものです。 
・国の省庁が通達で自治体を指図するのはとてもよくない。
・文部省の社会教育行政は「行政が市民を指導教育するやり方」だと思う。
・多様に広がった市民文化活動は、もはや社会教育行政の対象ではない。とズバリ話した。
 数日後、愉快な(オモシロイ)話を聴いた。その話は(少し自慢めくので)ここでは省略する。(機会あれば話してもよいと思っている) 
      
 [講演レジュメ]  
自治体の文化行政(1987.10.23) 
〔1〕文化行政の現状况
    事業内容を列挙
〔2〕自治体文化行政の系譜
   ・NIRA(CDIレポート)
   ・文化ディスチャージ論
   ・大阪文化振興研究会(2冊の本)
   ・全国文化行政会議、
   ・全国文化行政シンポジュウム、                                          
〔3〕文化行政とは何か
   ・行政の文化化-(行政が為すべきこと)(行政がしてはならないこと)
   ・市民文化活動-「文化活動」の広がり
   ・文化の見えるまちづくり              
〔4〕問題点
   ・公立文化ホールをめぐる問題
   ・いまこそ「文化」-心のゆとり、うるおい
   ・国政が為すべきこと。

[文化行政の著作]
 下記は、文化行政の実践で論議し考えたことを文章にしたものである。  
 ・『文化行政読本』 月刊・職員研修(臨時増刊号) 1954年 共著
 ・『文化行政―行政の自己革新』松下圭一・森 啓編著 学陽書房 (1981年)
 ・『文化行政とまちづくり』田村 明・森 啓編著 時事通信社 (1983年) 
 ・『市民文化と文化行政』森 啓編著 学陽書房 (1988年)
 ・『文化ホールがまちをつくる』森 啓著 学陽書房 (1991年)
 ・『水戸芸術館の実験』森 啓・横須賀徹共著 公人の友社 (1992年)
 ・『文化の見えるまち』森 啓著 公人の友社 (2009年)
 
神奈川県情報公開条例  
(1) ことの始まり
 長洲一二知事は1975年の就任直後から「県政への県民参加」を唱え、職員にも政策提案を幾度となく呼びかけた。これに応えて県民部は「県政参加の方策を考えるプロジェクトチーム」を設けた。増田次長をキャップに県民部の室課からメンバーが選ばれ、筆者も文化室からチーム員として加わった。七ヶ月の論議を経て三つの制度が報告書に書き込まれた。
  ・県政情報の公開と提供の条例
  ・県政参加の県民会議の設置
  ・県行政への苦情手続の制度 

 県民部長は具体的な制度提案に困惑した。報告書は「「部外秘扱い」になった。議会の了解納得が得られないと思ったからであろう、

(2) 事態の転回
 このころの長洲知事は県政革新に「やる気」があった。
 知事室の隣に「調査室」をつくり、「調査担当参事」の職名で外部から久保孝雄さんを知事特命として入れていた。その調査室に「県民部でプロジェクト報告書が部外秘になった」と伝わった。

 知事が部長会議の席上で、県民部長に「県民部ではプロジェクトチームの報告書が纏まったようですね」と言った。「ハイそうです」と答えざるを得ない。「今日の午後、時間を空けますから、チームリーダーに説明に来るように伝えてください」と言った。
(以下は増田次長から聞いた話)

 増田さんは一人で知事室に行くことを懸念した。部内扱いになった報告書である。県民部担当の湯沢副知事に相談した。県民部長も一緒に行くことになった。
 知事室で説明すると、「増田君、提案は三つだが、最初にやるのはどれですか」と訊かれたので、「県民に県政参加を呼びかけるのなら県政情報の公開をしなくてはなりません。情報公開条例が一番目だと思います」と答えた。「そうだね、良い報告書です。ご苦労様でした」と言ってくれた、と増田さんから聞いた。

(3) 定例記者会見で発表
 長洲知事は翌日の定例記者会見で「県政情報の公開条例を制定します」と発表した。新聞は「神奈川県が情報公開条例の制定に着手」と一面トップの七段見出しで一斉に報道した。矢は弦を放れた。もはや引き返すことは出来ない。県庁内の幹部は新聞を見て驚いた。霞ヶ関の省庁官僚も驚いた。事件であった。

 東京の隣の神奈川県が「公文書を公開する条例」を制定するというのである。驚愕が霞ヶ関を駆け巡ったであろう。
 後藤田内閣官房長官が「機関委任事務は国がお願いした仕事ありますから、自治体の判断で文書公開するのは如何なものか」とテレビで語っていた。神奈川県の地理的有利性で、著名な学識者による条例案策定委員会が設けられた。
 
(4) 匿名座談会
 全国の革新首長は、「お上の統治行政」から「市民の自治行政」への転換を目ざしていたので、神奈川県の情報公開条例の策定を、固唾を呑んで見守った。 

 革新市長会は「地方自治通信」という月刊の政策情報誌を刊行して市販していた。
編集長の大矢野修さんが「神奈川県の情報公開条例案を考える」という匿名座談会を企画した。そこに筆者も参加した。県職員でありながら参加したのは、検討中の条例案を「欠陥条例」だと思っていたからである。

 欠陥の第一は、原則公開を掲げながら、「公開しなくてもよい公文書」を抽象文言で列挙し、その文言解釈を行政職員(所管の所属長)が行うことにして、非開示に不服があれば、開示請求者が「審査委員会に申立てる」という制度手続にしたことである。これでは、行政の判断で「見せたくない文書」を「非公開にして時間稼ぎ」ができることになる。

欠陥の第二は、市民の開示請求権を「意図的に妨害する行政職員」を抑止する規定を定めていない。すなわち「請求された表題の文書は見当たりません」などと言って、公開に伴う上司の困惑を「庇う職員」の出現を抑止しない条例である。すなわち、「故意または重大な過失」で、県民の開示請求を「妨げた行政職員の行為」を罰する規定を欠いていた。

神奈川県の公開条例は全国自治体の先例になる。欠陥条例であってはならないと思って匿名座談会に出席した。 
 神奈川県庁内で条例案の検討中に「神奈川県の情報公開条例を考える」を掲載した月刊誌「地方自治通信」が書店に並んだ。県民部幹部は県の職員が参加しているのでは、と神経を苛立たせた。
 
(5) 神奈川新聞のスクープ報道
 条例案の検討が最終段階に入ったころ、神奈川新聞に「条例案の全文」が掲載された。すっぱ抜き報道である。(その経緯をここに記しておく)
 ある日、顔見知りの神奈川新聞の松本記者が文化室にやって来て「検討中の条例案の内容が皆目分からない」「これでは県民は蚊帳の外だ」と呟いた。筆者は「検討案はこれだよなぁー」と呟いて机上に置いてあった資料を眺めた。M記者は「いいですか」と目顔で訊く。「いいよ」と言ったわけではないが、「ちょっとトイレに行って来る」と呟いて席を立った。 

 後日に聞いたことであるが、神奈川新聞の編集責任者が掲載前日に県民部幹部と対面して、「これを報道するが、事実と異なる部分はあるか」と質した(裏をとった)とのことであった。検討案全文が神奈川新聞で報道されて県民部幹部はまたもや神経を苛立たせた。

ジュリスト論文顛末記
(1) 有斐閣から原稿執筆依頼
1980年10月、有斐閣編集部から「ジュリスト総合特集」への原稿執筆の依頼がきた。「月刊・ジュリスト」は「法律専門誌」である。法学部出身の筆者には悪い気はしない。依頼されたテーマは「首長・議会・職員の相互関係」であった。 
 年末年始の休みを使って執筆した。

 御用始めの1月4日の夕刻、新橋駅前の郵便ポストに投函した。そのときの「ポトリ」の音を妙に憶えている。一心に集中して執筆したからであろう。 

(2) 議会本会議で批判される
 ジュリスト総合特集(22号)が刊行されて3カ月が経過した1981年4月2日、議会本会議で自民党議員が「県職員が議会を批判している」と知事に批判の質疑をした。
 本会議で、「職員を名指して批判する」のは異例のことである。長洲知事は「遺憾である」と答弁した。その直後、ドヤドヤと数人の記者がやって来て筆者の座席を取り囲み、「知事は陳謝した、執筆した君はどう思うか」と意見を求められた。「何も申しあげることはありません」と答えた。記者は「なんだ、それじゃ記事にならん」と引き上げて行った。

(3) 翌日の新聞
新聞各紙は大きな見出しで一斉に報道した。
朝日  県幹部職員・雑誌に県政批判論文
      ─「無責任」と議会がヤリ玉 ─
読売  職員の論文で物議 「大人げ」ないの声も出て
     役職者は「ことなかれ」「50歳以上無気力」
サンケイ 県幹部の「県議批判論文騒動」正論?
       議員はカンカン─長洲知事あっさり『遺憾でした』
毎日   議員を痛烈に批判─中堅県職員の論文に論議─
東京   県幹部が 県と県議会を「無気力、無能」と批判
       ─議会の追及に知事陳謝─   
神奈川  「知事の〝陳謝〟「庁内に不満も」
      ― 県職員論文問題で─
     
 県民から、「議会」と「知事」に抗議電話が殺到した。筆者には「新年茶会の初釜に招待したい」などの激励電話が届いた。

・神奈川新聞の渡辺デスクが、横浜市の飛鳥田市長はこのようなときには職員を庇うが、長洲知事は遺憾ですと陳謝したと、論評を書いた。
・朝日新聞は全国版に、弁護士の投稿「公務員の表現の自由確保を─議員活動に名を借りた介入を防げ」を掲載した。
・朝日新聞・神奈川地方版は、「人・ひと」欄に「筆者のインタビュー」を写真入りで掲載した。
・小林直樹(東大教授)は「自治体職員の言論の自由」のタイトルで、
「地方の時代」という標語の発案者として先駆的な自治行政を推進している長洲知事さえも、「陳謝」と 弁明」に終始したらしい。県民からすれば、知事の陳謝こそが、「誠に遺憾」と言うべき事態であろうと評した。(ジュリスト・1981-12-1号)

 それらの後日、長洲知事が「森君には今後も頑張って貰いたいと思っている」と部長会議で異例の発言をした、と幹部の方から教えられた。 
 だが、壁新聞を庁舎の洗面所に貼り、自由民権大会に会場を提供し、情報公開条例案の検討中に座談会に出た(に違いない)など、庁内の作法に反し上司に従順でない職員への高瀬県民部長の怒りは「知事の発言」では治まらなかった。
 
(4) 県民部長室に森文庫
 暫くして、県民部長室の書棚に、筆者がこれまでに執筆した「書物」と「掲載雑誌」が収集されていた。それは、「総務室職員が総がかりで、地方公務員違反の文章表現を探した」ものであった、と部長応接の女子職員がこっそり教えてくれた。(かく記述しても、40年が経過しているので迷惑にはならないであろう)

 知事が庇おうとも、筆者の首を「地方公務員法違反」として、議会多数会派に差し出すためであった。(そのとき撮影した県民部長室書棚の「森文庫」の写真は今も手元にある)
 それからの二年間、県民部総括企画主幹の座席に座すだけの毎日であった。何もすることがないので、『文化行政とまちづくり』を(田村明さんと共編著で)時事通信社から刊行した(1983年3月1日刊行)。

1983年5月、人事異動で「自治総合研究センター研究部長」に赴任した。
 新たな職場は座席から横浜港と氷川丸が眺望できた。まことに快適な気分であった。

自治総合研究センター
 新たな仕事は、県職員の「政策研究」を盛んにすることである。盛んにするには「政策研究とは何か」を明晰にしなくてはならない。
 ところが、そのころの自治体には「政策」の用語は無かった。使われていたのは「事務事業」であった。「政策研究」ではなくて「調査研究」であった。「政策」は中央省庁の言葉だと思っていたのである。省庁が策定して補助金つきで通達してくる業務を執行するのが自治体の仕事だと思っていたからである。府県は中央省庁の下請け執行団体になっていた。

「自治体の政策自立」が不可欠必要だと思った。「政策自立」は自治大学校で内務官僚の座談会記録を読んだとき以来の決心である。

「政策研究」の言葉
 自治体職員が政策能力を高めるには「政策研究」の言葉に慣れなくてはならない。「政策研究の言葉」を自治体内に広げることを考えた。
 
そこで、自治体職員を読者対象にしていた複数の月刊誌の編集長に電話をした。「自治体に政策研究の波が起きています」「特集されては如何ですか」「誌面企画に協力します」と提案した。

 月刊『晨』1984年9月号の「特集・政策研究へのプロローグ」は、日本で最初の「政策研究の特集」であった。
 ・巻頭対談「政策研究の意味と可能性」・(松下圭一vs田村明)
 ・自治体の政策研究の現状と課題   森 啓
 ・動き出した政策研究への大きな流れ 五十嵐富秀
 続いて、月刊『職員研修』も「自治体職員の政策研究」を特集した。

自治大学校で講演
「政策研究」が「旬の言葉」になり、自治大学校から「自治体の政策研究」の講演を依頼された。都道府県の研修所長が集まっていた。次のような話をした。
 神奈川県では、「公務研修所」を「自治総合研究センター」に改組して「研究部」を設けました。「職員の政策能力」を高めるには「政策研究」が必要であると考えたからです。政策研究が研修所の重要な役割になっていると思います、と話した。

 そして自治大学校の教務担当に、「政策研究の全国動向を調査されては如何ですか」と提案した。自治大学校から「政策研究の実態調査用紙」が届けば、回答を求められた自治体は「政策研究」が時代の潮流になっているのだと思うであろう。政策研究の言葉を広めるためである。

[挿話]
「エピソード」を一つ
1987年、徳島で第一回自治体学会を開催したときのことである。その帰途、徳島空港で人事院の研修担当の方から聲をかけられた。「私は最近、府県の研修所から政策研究の話をよく頼まれます。だが、地方公務員がなぜ政策研究をするのかが分かりません。頼まれるから研修所には行きますが、何を話せばよいのか分からないので困っているのです。それで自治体学会に出てきたのですが、よく分からない。府県職員の研修に政策研究が必要なワケを教えて下さい」と言われた。そのとき、「ご説明しますので、その代わりと言うと何ですが、『研修』という言葉を人事院で最初に使った経緯を教えて下さい」と訊ねた。

自治体職員の政策研究は「既成政策の事後的分析」ではない。「政策課題の発見」と「解決手法を考案する」研究開発の営みである。

なぜ「政策研究」の言葉にしたか
 一方では、行政学に「Policy Studies」つまり「特定政策の実証研究」の用語がある。「政策研究」では「特定政策の事後的な研究活動」の意味に受け取られる。事実としてそのころ、学者は「自治体の政策研究とは政策の調査研究のことである」と意味不明な説明を研修所で話していた。
 そして内心では、(公務員がなぜ政策研究をするのだろうか)と思っていた。国家学の学者には「自治体と地域に起きている政策自立の意味」が理解できないのである。

 そして他方では、自治体で始まった「自主研究」や「政策課題研究」は、内容に即して言えば、「政策研究」よりも「政策開発」あるいは「政策提案活動」の言葉が正当であった。
それをなぜ、「政策研究」の言葉にしたか。 
 「政策研究」の言葉には曖昧さが伴う。その曖昧さが大事であると考えたからである。

その意味は次のとおりである。
 科学技術が発達して、都市的生活様式が全般化して前例のない公共課題が次々と噴出した。自治体はこれらを「政策課題として設定」し「その解決方策を開発」しなければならない。

 ところが、自治体の部課長は省庁政策への従属が習い性になっている。展望的視界を失っている部課長には、前例なき公共課題を解決する政策を構想し立案することができない。しかしそれでは、省庁政策の下請団体から脱することはできない。

参加とは「政策の立案・決定・実行・評価」に参画することである。 
 新たな政策形成システムを自治体内に構築しなければならない。即ち、政策立案の前段階に、様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の営為を位置づけて「政策の質を高める仕組」を自治体内に構築しなければならない。そしてその仕組みを部課長に納得(容認)させなければならない。だが、所管業務に政策提案される(外から言われる)ことを極度に嫌がるのが部課長である。簡単には納得しない。

 部課長が納得せざるを得ない状況をつくるには、様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の実績を積み上げることである。政策研究の成果物を多様に蓄積することである。

自治体職員や市民が政策形成に関与する道筋を拓くことは、政策立案をラインの独占から解き放つことである。それは、所管セクショナリズムの枠を緩めることでもある。すなわち、「政策立案」の前段階に「政策研究」(実質は政策提案)の段階を位置づけることが、真正な意味での「職員参加」「市民参加」に繫がるのである。参加とは「政策の立案・決定・実行・評価」に参画することなのだから。

 しかしながら、当然それは容易なことではない。だが、それをやらなければ、自治体は政策主体になれない。前例なき公共課題を解決する政策形成システムが装備できなければ「地方政府」になれない。地方政府とは自前政策を立案し実行することである。
 だが、「政策開発」あるいは「政策提案」と言えば、部課長は一斉に嫌悪反発する。だから今は、曖昧な「政策研究」の言葉が良いと考えた。

 そこで、当分の間は「政策研究」なる「曖昧なことば」を使いながら、「課題発見」と「方策開発」の成果物を蓄積する作業を自治体内に慣行化することである。そうすることで、やがては、「政策研究」なる言葉が「明晰な概念」になり、「輝くイメージ」を有するに至るであろうと考えた。 

 かくして現在
「政策研究」の言葉は熟成して行政内文書の用語になり、著作や論文も多数刊行されて定着した。すなわち
 ・行政学の政策研究は「特定政策の実証的分析的な事後的研究」である。
 ・自治体の政策研究は「課題を設定し解決方策を考え出す創造的研究」である。
  「政策研究」なる用語の選択は正解であったと思う。 

政策研究の広がり伴い、全国各地で独自のまちづくり政策が展開された。
仙台市公害市民憲章、川崎市建築協定条例、武蔵野市生活環境指標、京都市美観条例、横浜市日照指導要綱、町田市福祉まちづくり要綱、金沢都市美文化賞、盛岡市伝統建造物保存指定、釧路市幣舞橋四季像、旭川市買い物公園、北海道池田町CATV、帯広市民の森。

1978年に「地方の時代シンポ」、79年に「全国文化行政シンポ」が開催された。これは、自治体が政策自立をするための全国交流の仕掛けである。

自治体政策研究交流会議 
 政策研究への関心が高まり全国各地から筆者の研究部にも視察が来るようになった。
この関心の高まりを「自治体の政策潮流」にするため、政策研究の「全国交流会議の開催」を考えた。所長も賛成して準備が進んでいたころ、所長室に呼ばれた。

 名称を「自治体研究交流会議」にしてはどうかと言われた。「なぜですか」と訊くと、「地方公共団体が「政策」を言うのはどうだろうか」「神奈川県が偉そうなことを言っていることにもなるから」と言う。「長洲知事に得点させるな」の議会多数派への忖度である。
 所長と研究部長の関係である。「ここで結論を出さないことにしなくては」と思った。
「言われている意味は分かりますが、削ってしまうのもどうかと思います。考えてみます……」と言って所長室を出てきた。

 そして研究部の人たちに、「森研究部長は名称を変えると言っていたか」と、所長に訊かれたら、『知事に政策研究交流会議の名称が良いねと言われた』と言っていました、と答えるように頼んでおいた。 

 もとより知事と話した訳ではないが、そのようなときには、知事の名前をよく使ったものである(自治体職員が何か意味あることをしたいと思ったときには、「首長の意向である」と言うのがよい。選挙で出てきた首長は概ね現状変革を求めるものである。役所内で改革を遮るのは現状維持の管理職である。そして、部課長は首長に「本当にそう言ったのですか」とは確かめないのである)。   
 
 「政策研究の言葉」を広めるための交流会議である。「政策」の言葉を削ることはできない。さりとて所長を無視することもできない。
 そこで、横浜市企画財政局都市科学研究室、川崎市企画調査部、埼玉県県民部自治文化振興課に赴いて、「自治体政策研究交流会議」の共同開催を提案した。「経費負担は不要、当日主催者の席に座していただく」ことで賛同を得た。共同開催であるから所長の一存で名称変更はできないことになった。
 
 こうして、全国への案内文書にも、当日のパンフレットにも「自治体政策研究交流会議」と印刷した。「第一回自治体政策研究交流会議」と書いた看板も出した。そして、会場入口に次の「メッセージ」を張り出した。

  自治体に政策研究の波が高まっている。
  この波は、自治体が自立的な政策主体になった
  ことを示すものである。

  戦後四十年、いまや「政策の質」が問われ、
  自治体では総合的な観点からの政策研究が必然に
  なっている。

  自治体は現代社会の難問に挑み問題解決をはかる
  現場であり、仕事を通して議論をたたかわせる論壇
  である。

  自治体を舞台に「自治体学」の研究がすすみ、
  新しい理論が確立されることを
  「時代」と「地域社会」が求めている。

 参加者は立ち止まってこの「メッセージ」を読んでいた。カメラに写す人もいた。
 
 1984年10月18日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で「第一回・自治体政策研究交流会議」を開催した。北海道から九州までの全国から、140団体・352人の自治体職員と市民と研究者が参加した。
 この「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生したのである。
(政策研究交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政(84年11月10日号)」と「地方自治通信〔85年2月号〕」に掲載されている)

11 自治体学会設立
自治体学会設立の着想
「自治体学会」は「政策研究交流会議」から生まれた。
政策研究交流会議は自治体職員が全国持ち回りで開催する「政策研究」の交流会議である。
 第一回は横浜で1984年10月18日に開催した。第二回は85年10月、浦和で開催した。いずれも全国各地から350人を超える自治体職員が参加した。
 政策研究とは「既成政策の事後的分析」ではない。「政策課題の発見」と「解決手法を考案する」研究開発の営みである。
 この動向を敏感に洞察した自治体首長は「地域独自の政策づくり」を目指して首長直轄の「政策研究室 (愛媛) 」、「政策審議室 (静岡) 」を設置し、あるいは企画課に「政策研究班 (福井) 」を置き、あるいはまた、職員研修所を改組して「研究部 (神奈川) 」を新設した。
 
 しかしながら、明治百年来の「中央屈従の惰性」から抜け出ることは容易ではなかった。例えば、優れた研究成果が印刷され配布されても立案権を持つ課長が取り上げない。それどころか、首長のいないところで「若い職員が勝手な夢物語を描いている」と冷淡に言って職員の研究意欲を萎えさせた。

 職員からは「何のための研究であったのか」との不満も出た。だが人事課長や研修所長は「政策研究は職員の能力開発が目的である」と弁解説明をしていた。これが当時(1983年前後)の先進自治体の状況であった。しかしこれでは「政策研究の波」は弱まり後退する。

 この状況を突き破らなくてはならない。全国交流会議を開催して「政策研究が時代の潮流になっている」ことを内外に鮮明に印象付けることである。
 かくして、神奈川県自治総合研究センターが「自治体政策研究交流会議」の開催を企画した。「政策研究」を全国的な潮流にするためである。
 
「地方公共団体」ではなく「自治体」
 自治省出身の総務省の人たちは今でも「地方公共団体」と言っている。意識して「自治体」の言葉を使わない。使う言葉に「統治支配の思想」が潜んでいるのである。省庁の人たちは「自治体」が「政策能力を高める」ことを望んでいない。地方の「公共的な団体」「地方の公務員」のままでいさせたいのである。

 すべからく、政治・行政の用語に無色中立な用語はない。言葉の使い方に価値観と利害が染み込むのである。「政策研究」の言葉も同様である。
  
二つの開催意図
 意図の一つは、「政策研究」の言葉が全国自治体に定着することを目指す。
 自治体が政策主体になるには地域課題を政策化しなければならない。それには、「政策研究の言葉」を全国自治体に広げる必要がある。ところが、当時の自治体には「政策研究」の言葉を避ける風潮があった。さらには、研究成果の活用を意図的に重要視しない心理すらもあった。そしてまた、本庁の課長が所管業務に関する研究開発を忌避するから、研修所長は及び腰であった。

 そこで、全国会議の場で「政策研究が自治体自立の潮流になっている」との認識を、鮮明に印象付けることを目指した。
 そのために、当日の研究報告は「政策化された事例」を選りすぐった。
 「柳川の水路復活」は、柳川市職員の広松伝さん。
 「神奈川の韓国・朝鮮人」は、横浜市職員の加藤勝彦さん。
 「緑の回廊計画」は、二十一世紀兵庫創造協会の福田丞志さん。 
 「都市の水循環」は、墨田区職員の村瀬誠さん。
 「防災都市のまちづくり」は、国分寺市職員の小口進一さん。

 とりわけ、スライドによる「柳川掘割の復活」の報告に、参加者は感動した(後日の話であるが、広松伝さんの「柳川掘割の復活」は、アニメ映画監督の高畑勲・宮崎駿両氏によって「柳川掘割物語」DVD・ジブリ学術ライブラリーになっている)。

 「政策研究の波」が起きていることを内外にアピールするために、新聞記者の方々に取材してもらう配慮もした。かくして、「自治体の政策研究」は新聞記事になり雑誌の特集にもなって全国に伝播した。

自治体学会設立の動議
 開催意図の二つ目は、全国各地から集まってきた人々に「自治体学会の設立可能性」を提起することであった。
 職員の研究だけでは自治体に「政策自立の潮流」をつくり出すのは難しい。職員と市民と研究者の「協働」が必要である。「実践と理論の出会いの場」が必要である。「政策研究交流会議」とは別に「自治体学の学会のようなもの」が必要であると考えた。

  そこで、二つの提案を動議形式で提出した。
 一つは「この交流会議を毎年全国持ち回りで開催しようではないか」。
 二つは「自治体学会を設立するために準備委員会を設置しようではないか」。 

 (以下、個人名を記すことを了とされたい)
 東京江戸川区の田口正巳さんは江戸川区の自主研究活動のリーダーであった。
 田口さんに、「緊急動議的に『今日のこの交流会議は有益だから、二回、三回と続けるようにするのが良い』と提案すること」を依頼した。
 三鷹市の大島振作さんに、筆者と大島さんは大学時代からの知り合いで同じ寮にいたこともあるので、「貴方は職員組合の委員長をしていたので大勢の前で話すのに馴れているから、『この政策研究交流会議を自治体職員だけの会議にしないで、ここにいらっしゃる先生方にも入って頂いて、自治体学会というようなものをつくる、その準備会議をこの場で設立しようではないか』と発言してよ」と依頼した。

 前者の「継続開催の提案」は「全国持ち回りで開催する」ことを確認して、次回は埼玉で開くことが決まった。
 後者の「学会設立の提案」は、353人の参会者全員が、宿題として持ち帰り地域と職場で「学会設立の意義と可能性」の論議を起こし、その結論を次回埼玉会議に持ち寄ることを約定した。

 このような経緯で「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生するに至ったのである。
(この交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔84年11月10日号〕」と「地方自治通信〔85年2月号〕」に詳しく掲載されている)

埼玉会議の「前夜」
 埼玉の政策研究交流会議の場で「自治体学会設立の賛同」を得るには、どのような運び方をするのがよいか、それが次の課題であった。
 そのころ、自治体学会の設立発起人をめぐって、神奈川県庁内に(知事周辺との間で)意見の齟齬が起きていた。側近の方は「知事と高名な学者」が学会設立の発起人になるべきだ、であった。だが、自治体職員や若い学者はそれに不賛成であった。筆者も自治体に「自治体学の潮流」が起きるには「新鮮な胎動を予感させるもの」が必要だと考えていた。
自治体学会は「高名な学者が呼び掛けて」設立するものではないと考えた。

そのころ、次のようなことがあった。
  (当時の雰囲気を伝えるために会話調で再現する)
 所長から「本庁の総務部長室に行くように」と言われた。「学会設立準備会」の立ち上げを協議する「第二回埼玉会議」の直前であった。総務部長室に入ると、部長が顔を近付けてきて、「森君、自治体学会だけどね─」と言った。

 「何を言いたいのか」はすぐ分かったので、「公務員が学会などと言っても簡単なことではないと思っております」と答えた。
 総務部長は目を覗き込むように顔を近付けて「そうだよな」と。それは、職員の人事権を握っている総務部長の顔であった。「勝手に派手なことはするなよ」「分かっているな」という眼光であった。自治体学会の旗揚げを抑える顔であった。

 部長室のドアを開いて廊下に出た時、「そんな脅しで自治体の政策自立の流れを止められてたまるか」、「あなたとは志が違うのだ」と呟いたことを想い起こす。決して「格好を付けて」述べているのではない。

 このころ小学生であった人々が自治体職員として活躍しているという時間の経過である。当時の緊張感を記しておきたいからである。いつの時代にも、現状維持でない変革を試みれば、必ず「しっぺ返し、嫉妬と陰口、足ひっぱり、左遷」が伴うものである。「その覚悟が必要である」と言っておきたいから記述しているのである。

 「埼玉会議に森を出張させない」と「知事側近の人」が言っている、というのも耳に入ってきた。そこで、埼玉会議の前夜、東京都内の大きなホテルのロビーで、多摩地域の研究会の人々と綿密に進行を打ち合わせた。協議しているどの顔にも「時代の波」を引き起こそうとする輝きが漲(みなぎ)っていた。

設立準備委員会の発足
 1985年10月17日と18日、浦和で開催した第二回政策研究交流会議は前回にも増して盛会であった。畑知事は歓迎挨拶で、にこやかに「自治体学会設立への期待」を語った。
 第一日目の日程が終わった後、別室で「自治体学会設立についての協議の場」を設けた。「代表委員に田村さんと塩見さんを選び、この場にいる75人の全員が設立準備委員になる」「設立事務局は当分の間、神奈川県自治総合研究センター研究部が担当する」ことを決めた。
 その協議の場で目黒区職員の桑原美知子さんが「自治体学会設立への期待」を「私は今日のこのために来ているのです」と「喜びが匂い立つかのように」瞳を輝かして語ったのが印象的であった。

 協議の進行役を務めた筆者が翌日の全体会議に報告した。万雷の拍手で賛同された。
 翌19日の朝日新聞は全国版(二面)に「自治体職員が学会設立準備会を結成」と三段見出しで報道した。記事を書いたのは第一回交流会議から取材を続けていた朝日新聞地域問題総合取材班の寺田記者であった。

 こうして、全国の自治体職員に鮮烈なイメージで「学会設立のメッセージ」が届いたのである。
(埼玉会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔85年11月9日号〕」と「地方自治通信〔86年2月号〕」に掲載されている)

「全国行脚」
 次の問題は「自治体学とは何か」である。
 「政策研究交流会議」はそれなりに理解できるが「自治体学の学会」は「よく分からない」というのが当時の多くの疑問であった。
 そこで、神奈川県自治総合研究センター研究部は「自治体学とは何か」の試論づくりに専念し「自治体学に関する研究」(B4判141ページ)をまとめた。

 85年の真夏、研究部員はこの「冊子」を携え、分担して全国各地に学会設立を呼び掛ける「全国行脚」に出かけた。それは第一回交流会議開催事務局の責務を果たすためである。「熱い期待」に迎えられた。「冷ややかな反応」もあった。
 全国行脚によって500人を超える人々が自治体学会加入の意思を表明した。

神戸・自治体学フォーラム
 関東だけの動きでは全国展開にならない。全国的な「自治体学会設立の機運」をつくり出さなくてはならない。直ちに「日本列島縦断・自治体学連続フォーラム」のイメージが浮かび上がった。

 (以下、具体叙述のために個人名を出すことを了とされたい)。
 関西で「自治体学・フォーラム」を開催しようと考えた。
 研究部主幹の森田徳さんと二人で大阪に出かけた(森田さんは現在横浜市中区海岸通りで行政書士の事務所を開業している)。
 自治体関係の方々に大阪東急ホテルに集まっていただいた。だが、顔を見合わせて「大阪府庁や大阪市がどう思うか」「自治労がどう言うだろうか」の発言ばかりであった。「フォーラムを開催しよう」との決断発言が出てこない。

 やむを得ず、翌日、神戸市役所収入役の安好匠さんに相談した。「神戸市が表面に出ると兵庫県が後ろに下がるので」背後から応援するとの確約を得た。
 そこで、第一回政策研究交流会議の報告者であった「21世紀ひょうご創造協会」の福田丞志さんに相談して、同行していただき兵庫県企画部に「自治体学フォーラム開催」の協力を依頼した。

 こうして、1986年2月12日、「神戸自治体学フォーラム」が開催できた。会場は兵庫県農業会館。主催は「関西活性化研究会・21世紀ひょうご創造協会・神戸都市問題研究所・滋賀市民と自治研究センター、そして自治体学会設立準備委員会」であった。

 北海道から沖縄までの253人が参集した。会場発言は熱気に満ち確かな手応えがあった。
 この「神戸フォーラム」の詳細は「地方自治職員研修」86年2月号に特集されている。その会場内で全国準備委員会を開催した。

会場内で開いた準備委員会の論点
名称・「自治体学会」よりも「まちづくり学会」または「自治体政策学会」ではどうか。
会費・年三〇〇〇円では財政独立がむずかしい。考え直すべきだ。
組織・既存の組織や団体を統合するのではなくて、グループや団体の活動をつなぐ組織を目指そう。
事業・事務局が事業を請け負うのではなくて、会員の地域活動が基本である。
活動・準備委員が核になって各地で「自治体学フォーラム」を開催しよう。

東京自治体学フォーラム
 1986年4月19日、東京・府中市自治会館ホールで「東京自治体学フォーラム」が開催された。参加者は315人、市民と学者の参加が際立って多かった。このフォーラムで「自治体学会のイメージ」が見えてきた。すなわち、市民・学者・自治体職員の三者が一体となって地域課題を解明する「実践と理論の自治体学」のイメージが論議の中に現出していた。

 戦後、自治体革新のメッカであり続けた多摩だからである(この概要は新三多摩新聞、4月26日号に報じられている)。
 86年5月10日、仙台で「東北自治体学フォーラム」が、気仙沼で「まちづくり自治体学会フォーラム」が開かれた。沖縄でも、九州でも、中国でも、四国でも、北海道にも自治体学フォーラムが開催された。日本列島に「自治体学会の設立」が「自治のうねり」を起こし始めたのである。

「自治労」と「全国自治体問題研究所」
 「自治労」の「自治研究全国集会」には歴史がある。自治体学会の主要会員は自治体職員であるから、自治労から自治体学会設立に異論が出ると現場で混乱が生じる。
 神奈川県自治総合研究センター研究部は学会設立事務局であるから、研究部長は事務局長のようなものである。自治労本部に出掛けた。小倉政策局長にお会いして「自治体学会が目指す方向」を話した。「分かりました。設立発起人として丸山委員長が参加します」になった。

 「全国自治体問題研究所」も歴史と実績のある組織である。
 1985年9月27日の午後、代表をなさっていた宮本憲一先生に鎌倉でお会いして設立発起人になっていただいた。

代表運営委員
 設立発起人代表を三人の複数制にすることは合意されていたのだが、三人の名前が決まるまでは難儀な経過であった。
 1985年10月11日の夕刻、横浜駅ビル内の東急ホテル会議室で「埼玉会議に向けての打ち合わせ」の会合を開いた。その会合で「埼玉で学会設立の協議のとき、自治体職員の経験もあり横浜市の都市デザインで全国的に著名な田村明さんを代表委員として提案してはどうか」と発言した。

 ところが、所長は知事側近の意向を汲んでか沈黙したままである。賛成と言わない。その場にいた田村さんも鳴海正泰さんも沈黙であった。重苦しい空気のままにその会合をオワリにした。
 それまで進めてきた「段取り」は崩れそうであった。その収拾劇のことはここに述べないが曲折の難儀であった。

 代表委員が決まるまでには松下圭一さんにずいぶん何度もお世話になった。
 自治体学会は自治体職員・市民・研究者の連携である。多摩の研究会の方々の努力もあって、自治体職員の代表として田村明さん、市民代表として関西地域から日経新聞の塩見譲さん、学者・研究者代表として西尾勝さんがご承諾なさって決まった。

 塩見さんに承諾をいただいたのは、松下さんも助言者として参加した「首都圏自主研究グループ」の熱海合宿の翌日であった。「地方自治通信」の大矢野修さんと塩見さんとの三人でMOA熱海美術館の庭園で夕陽を眺めながらの語らいであった。
  

自治体学会の誕生
 1986年5月23日、二年がかりで準備を進めてきた「自治体学会」が誕生した。
 近代日本の夜明けを象徴する横浜開港記念会館で「発起人会議」と「設立総会」を開いた。発起人会議には135人、設立総会には620人が出席した。

 出席者の顔触れは、自治体職員、市民、学者、シンクタンク職員、コンサルタント、ジャーナリスト、団体役員、自治体首長など、およそ学会の設立総会とは思えないほどに多彩な顔触れであった。いずれの顔も二年がかりで進めてきた自治体学会の設立を喜びあう和やかさに満ちていた。

 会場のあちこちで初対面の人を相互に紹介し合い、テレビのライトに照らされた会場正面には「自治の歴史に新しい1ページを」と書かれた看板が掲げられていた。

 前例のない新しい学会の設立総会にふさわしく、会場は活気に満ち華やかで緊張した空気に包まれていた。満席の参会者はこの開港メモリアルホールでこれまでにも数々の歴史的な集会が開かれたことを思い起こしていたであろう。

 議長に佐藤驍氏(北海道庁)を選出し、前日の発起人会議からの提出議案が万雷の拍手で賛同されて「自治体学会」が誕生した。
 総会に報告された会員は1243人(発起人782人、既入会申込者461人)を数え、規約に基づき選出された運営委員は46人(自治体職員29人、学者・研究者・市民17人)。代表運営委員に田村明、塩見譲、西尾勝の三氏を選出した。多数の人が発起人になって自治体学会を設立したのである。

 しかしながら、「自治体学会を設立する意味は何か」「具体的に何をするのか」、自治体学会の「役割は何か」「課題は何か」と問うならば、その答えは「各人各様で一義的に定まったものはない」というのが設立当時の実情であった。自治体学会は多数の方々の「思念と行動」によって設立されたのである。
以上の「設立経緯」は、当時、神奈川県自治総合研究センター・研究部長であった筆者が関与したかぎりでの経緯である。

氷川丸船上の設立記念パーティ
 開港記念会館での「設立総会」は大成功であった。夕刻、横浜港の氷川丸船上でお祝いの「ビールパーティ」を開いた。
 折しも、金色の満月が東天に昇り、西空には夕陽が朱色に輝いていた。何とも言えない美しさであった。

 多くの方々が力を合わせたから自治体学会が設立できたのである。
 全国各地で自主的研究活動が広がっていたからでもある。そしてまた「自治体は市民自治の機構である」との「自治体理論」が浸透していたからである。
 朝日新聞86年6月5日の「天声人語」は、自治体職員が中心になって「市民的視野に立ち、地域に根ざした研究・交流を目指す学会」を設立したと評して紹介した。

設立して35年が経過した自治体学会の現状
[第35回自治体学会研究大会]は、
2021年8月21日(土)、22日(日)、10月9日(土)の三日間、10分科会でZoomを使用してのWEB大会として開催される。

筆者が自治体学会設立への覚悟を定めたのは、1984年の真夏の夕刻、渋谷駅の近くで松下圭一さん鳴海正泰さんと三人で「自治体学会の可能性」を語り合った時であった。渋谷でのこの語らいが実質的な「自治体学会のスタート」であったと思っている。
その後もお二人には折に触れ相談し助言をいただいた。

 また、「壁」にひるまなかったのは、法律専門雑誌「ジュリスト」に書いた論文が、82年に県議会本会議で自民党議員に批判されて、83年に「本庁課長見習職の総括企画主幹」から「自治総合研究センター研究部長」へ異動になったことが「内なるバネ」になったのだと思っている。

1993年2月25日、北海道大学学長から長洲神奈川県知事宛てに「筆者割愛の依頼文書」が届き、4月1日、北海道大学法学部教授に赴任した。
自治体学理論の系譜(自伝のようなもの)
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学理論の系譜 (Ⅲ)
北海道での25年 (その2)  

5 テレビで「バトル対論」
2001年6月、札幌テレビ局の企画で25の業界代表の方々と日曜対論を行った。
様々な業界の課題を聴くことができ有益な楽しき体験であった。
1 北海道大学学長 
2 日本航空女性管理職 
3 雪印ホッケー主将       
4 エアドゥ(北海道航空)社長    
5 北海道中小企業家同友会代表理事   
6 ラルズ(スーパーマーケットチェーン)社長           
7 小学校教師(父と娘の対話)          
8 介護を受ける人の服飾デザイナー   
9 在札幌ロシア連邦総領事 
10 日本ダルク(薬品依存症救出)代表    
11 精神科医師     
12 温泉博士      
13 食材コーディネーター
14 北海道土産品会長
15 加森観光グループ社長  
16 外食産業アレフ社長
17 ドンキー食品社長
18 北海道ワイン(小樽観光)社長    
19 JR北海道社長
20 グラジア感染症医師
21 智恵子探偵局・探偵長
22 スキーヤー・三浦雄一郎       
23 北海道庁改革担当参事    
24 奈井江町長       
25 北洋銀行会長

映像を例示します
(22) 20210825 スキーヤー・三浦雄一郎 10分 - YouTube
(25) 20210825 北洋銀行会長・武井正直 14分 - YouTube
 北大学長 丹保憲仁 
https://www.youtube.com/watch?v=tdhFwCXoEHA&t=51s
「ここまでが、町内会サロンでの話です」

6 自治基本条例 
・自治基本条例とは、選挙で当選した首長と議員が「当選さえすればこっちのものだ」と「身勝手な言動をしない」ための自治体の最高規範である。
2010年代に憲法(のようなもの)を制定する動きが、自治体に始まった。自治体は戦後60年の市民自治の成果として最高規範条例を制定する段階に至ったのである。

・すなわち、国の憲法には国政に携わる者の権限行使に枠を定める最高法規がある。
自治体の自治基本条例は、住民から代表権限を信託された首長と議員の権限行使に枠を定める最高規範である。「最高法規」と「最高規範」は立憲制の政治制度である。

・ところが、自治基本条例の制定を通常の条例制定と同様に「首長と議会で制定できる」「住民は基本条例の制定に関与しなくてよい」とする言説が出現した。

しかしながら、一方で自治基本条例を自治体の憲法であると解説しながら、他方で住民は基本条例制定に関与しなくてよいとする言説は矛盾論理である。
この言説は基本条例の制定を安易に誘導しようとする安直思考である。

・さらにまた首長部局とは別に、議会が独自に議会基本条例を制定することを推奨する言説も現れた。しかしながら、そのような議会基本条例は「議会の自己規律の定書き」であって自治体の最高規範条例ではない。

・自治基本条例の制定は市民自治社会への重要な節目であるから、安直な制定手続きで「一過性の流行現象」にしてはならない。
筆者の所見を「時事通信社・地方行政(2010年11月1日号)」に掲載した。

・ところが、掲載した筆者の所見に対して、学者会員が北海道自治体学会運営委員会で「森論文は問題である」と強く意見を述べ、代表委員が賛同して、学会のホームページに「森論文は北海道自治体学会の公式見解ではありません」と掲載した。
そこで止むなく、下記の見解をメーリング(ML)で全会員に送信した。
 
・メーリングに送信した筆者の見解 (2010-12-12)
   

 今回の問題は「自治基本条例の制定に住民の参加はなくても良いのだ」と言説している人が、「基本条例の制定に有権者住民が自治主体として関わらなければ最高規範条例と言えない」の所見が広まっては、自分の立場が悪くなるので、「何とか封じ込めたい」と考えたことにある。
自治体学会は多様な見解を論議する(自由な討論の)広場であるのだから、反駁の所見を公表して頂きたく思った。 

7 NPO法人自治体政策研究所
大学で学生に講義をする生業(なりわい)は終わったが、研究活動を続けるために「NPO法人自治体政策研究所」を設立した。

1) 夕張再生支援
・NPO法人自治体政策研究所の最初の活動は財政破綻した夕張市の再生支援であった。
夕張市は、2007年3月、財政再建団体に指定され総務省の管理下に置かれた。
 総務省の考える「夕張再生」は「353億円の債務額を18年間で返済する」である。だがそれは、「債務償還」であって「夕張再生」ではない。
 しかも、その債務総額353億円は、北海道庁が「みずほ銀行」などの債権者に、全額立替払いをして確定した債務額である。
・経済社会の通常では、返済不能になった「不良債権の処理」は、債権者会議の場で「何割かの債権放棄と返済保証の協議」がなされるのが通常である。

財政破綻が見えていた夕張市に多額の融資を行った金融機関にも責任があるのだから、
北海道庁が為すべきは「債権者会議を設ける」ことである。だが、総務省と北海道庁は「夕張市民の生活」よりも「金融機関の債権保護」を重視したのである。
 
・財政破綻後に就任した藤倉市長は「夕張の体力では10年間で100億円の返済が限界」と懸念を表明した。総務省と北海道庁は「その発言を続けるのなら支援をしない」と脅して市長の発言を封殺した。

  しかしながら「夕張再生計画」は「夕張市民の生活が成り立つ」ことが基本になくてはならない。総務省の「債務返済計画」では夕張市民の生活が成り立たない。
・夕張市は市外への人口流失が続いていた。2006年6月-1万3千165人、2007年4月-1万2千552人、2008年4月-1万1千998人。そして、公共施設の指定管理者が管理運営を返上して市民生活が困難になり、市営住宅の修繕もできない状態になり、職員給与は全国最低で職員数が減少して業務負担が増大していた。
・さらにまた、総務省職員が夕張再生室長に就任して、全国からの1億円を超える寄付金(黄色いハンカチ基金)の使途も掌握して、夕張市長の財政権限を極度に制約したのである。

・NPO法人自治体政策研究所は、「夕張再生室」は「債務償還の管理」であるから名称を「債務償還管理室」に改め、新たに「夕張再生市民室」を新設して室長を任命し、市民室に市長が委嘱する市民を行政職員として加えることが「夕張再生を可能にする」と、夕張市長に献策した。

2) 市民行政
・NPO法人の二つ目の活動は「市民行政」の概念(考え方)を構想して提起したことである。
夕張再生には「市民と行政の協働」が必要だが、市民の側に「市役所不信」が堆積していたので、市民が行政の内側に入って「行政事務」を担うことが信頼回復に必要だと考えた。

・現代社会の公共課題は公務員だけでは解決できない。行政職員と市民の「信頼関係を基にした協働」がなければ解決できない。各地のまちづくりの実例がそのことを実証している。「まちづくり」の言葉が流布するのも、「市民と行政との信頼関係」が不可欠であることを示している。

・行政職員には二種類の職員が存在すると考える。「公務員の行政職員」と、首長が任期内に委嘱した「市民の行政職員」。 「市民参加」は、市民が行政機構の外から行政を批判し参画することであり、「市民行政」は、市民が行政機構の内部で日常的に「行政事務」に携わることである。

・国家学の学者は「行政事務は公務である」「公務は公務員身分を有する者が行う」と考えるから、「市民行政の概念」が理解できず忌避する。公務員の「身分」がなければ、行政事務を担えないと考えるのは、「国家が国民を統治する」と考える国家学である。

 公務とは何か
・公務は「統治事務」ではない。「公共事務」である。行政事務は「統治事務」ではなく「自治事務」である。自治とは「それぞれ」「マチマチ」ということである。自治体運営は「地域の人々の自由で創造的な運営」でなくてはならない。地方自治法は自治体運営を画一的に統制し規律する国家法であってはならない。
・地方自治法は自治体運営の準則法である。地方公務員法も準則法である。

優れた市民行政の実例
 北海道ニセコ町では、2008年から町立図書館の運営を町民が担っている。 町民が担うに至った経緯は、役場の前に道路を挟んでニセコ郵便局があって、2008年にその郵便局が別の場所に移転することになったので、町が建物を譲り受けて町立図書館にした。そのとき町民から、「運営一切をやりたい」の要望があって町民に委託した。 以来5年間、役場職員(公務員)が運営するよりもはるかに好評で、何の問題も起きていない。

「市民行政を考える」公開政策研究会
・NPO法人自治体政策研究所は、2011年11月18日「市民行政を考える公開政策研究会」を北海学園大学で開催した。
そのとき、片山健也ニセコ町長は、『あのとき役場職員を入れなかったのが成功の要因であった。一人でも公務員職員が運営に加わっていたならば、「これは教育長の意見を聴かなくてはいけない」「この本を買うのは役場の許可を得なくてはならない」「こういうイベントは前例がない」などのことが始まっていたと思います』『現在は「子どもの遊び場」にもなり「高齢の皆さんのたまり場」にもなっていて、実に自由な図書館運営になっています。役場がなんでもやる時代は終わっていると思います』と語りました。 市民行政の良き実際例です。因みに「あそぶっく」とは「Book と遊楽する」の意。 (北海学園大学開発研究所2011年度研究記録集61頁)

「自治体政策研究所」の ブログは、http://jichitaiseisaku.blog.fc2.com/
(法人は解散しましたが、ブログ左覧の「政治不信の解消策を探る」「シンポジュウムのあり方」などの講座や提言をご覧ください)

8 市民学習講座―さっぽろ自由学校「遊」
・ 民主主義を維持継続するには「市民の批判的思考力」が不可欠である。不正義な政治を糾すには「市民の批判的思考力」を高めなくてはならない。批判的思考力を高めるには市民学習が必要である。

学生に講義する生業が終ったので全力を市民学習に集中しようと考えた。

・札幌に、「さっぽろ自由学校(遊)」という全国でもユニークな市民学習団体が在った。その自由学校に、市民講座を企画して提案した。 2014年から2018年までの5年間、毎月一回の市民講座を継続開講した。講座の準備ため殆ど連日、近所のコーヒ店に通って考えた。 講座内容は下記のとおりである。(講師謝金は「自由学校(遊)」に全てカンパした) (講座を継続したのは自分自身の思考力減退を防ぐためでもあった)

 
2014年 民主主義講座 全5回

                        
2015年前期 全5回
松下圭一『市民自治の憲法理論』を読む
   
2015年後期 全6回
松下圭一『成熟と洗練―日本再構築ノート』を読む
  
2016年前期 全5回
松下圭一『ロック市民政府論を読む』を読む     
       
2016年後期 全5回
松下圭一『政府型思考と政治』を読む
    

2017年前期 全五回
松下圭一『市民自治の憲法理論』を読む Ⅱ


2017年後期 全5回
 森 啓『新自治体学入門』を読む 
    

2018年前期 全5回
現在日本は民主主義か


2018年後期 全5回
 役所文化の改革は可能か
 


9 自治体学の理論構成
「自治体学理論の構成」は筆者長年の懸案であった。1985年10月17日と18日、浦和で開催した第二回政策研究交流会議で、神奈川県自治総合研究センター研究部が学会設立事務局を担うことになって以来の懸案であった。
  

自治体学の概念
自治体学は市民自治の自治体理論である。それは「市民と政府の理論」「政策形成理論」「自治制度理論」を包含する学の体系である。国家学の「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置して、国家を統治主体と擬制する国家学を克服する学である。 
 
国家学
 国家学の「国家」は擬制の観念である。国家を「国民・領土・統治権」と説明するが、その「国家三要素説」なるものは、性質の異なる (団体概念)と(機構概念)をないまぜにした曖昧な二重概念である。
「国家」は、政府、官僚、議員など権力の場に在る人達の「権力行使の隠れ蓑」の言葉である。少し注意してそれら権力者の言動を観察すれば「国民主権」を「国家主権」と巧みに(狡猾に)言い換える場面を目撃するであろう。
 権力の場に在る人たちには、国家が統治主体であり国民は被治者であるの観念が抜き難く存在する。統治支配がやり易いからである。 
 
 現在日本の憲法学、政治学、行政学、行政法学の大勢は「国家統治の国家学」である。
例えば、国家試験で憲法学の最適教科書と評される芦部信喜「憲法」(岩波書店)の第一頁第一行は「国家統治」であり「国家三要素説」であり「国家法人理論」である。国家法人理論は「国民主権」と「国家主権」を曖昧に混同させる理論である。
 そして、議員と官僚は「国家観念」を言説し、「政治主体である市民」を「国家統治の客体」に置き換え、「国家」を隠れ蓑にして統治論理を振り回すのである。
 「国民」を「国家」に包含させるから(国家三要素説)、「国家の責任」は「国民自身の責任」のようになって、国民の「政府責任」「官僚責任」追及の矛先をはぐらかすのである。
 
自治体学
「国家」を「市民と政府」に分解して「市民と政府の理論」を構成する。すなわち、市民が政府を「構成して制御し交代させる」のである。民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。
 (国民は「国家の国民」になるから、なるべく使わないのがよい)。市民は国家に統治される被治者ではない。民主主義は「国家の統治」ではなくて「市民の自治」である。国家学は「国家統治の国家法人理論」である。自治体学は「市民自治の政府信託理論」である。 
  
市民自治
 市民自治とは「市民が公共社会の主体であり、公共社会を管理するために政府をつくる」という意味である。「市民自治」の意味を理解するには、「国家統治」に対する自身の所見が明瞭でなければならない。
 例えば「自治とは自己統治のことである」と説明されているが、「統治」とは「統治者と被治者」を前提にした支配の観念である。「自治」を説明するときに「統治」の言葉を用いるのは、「統治」に対置した「自治」の規範意味を理解していないのである。

 市民自治を要綱的に説明すれば
① 市民は公共社会を管理するために政府(首長と議会)を選出して代表権限を信託する。選挙は信頼委託契約であって白紙委任ではない。政府の権限は信託された範囲内での権限である。
② 市民は政府の権限を市民活動によって日常的に制御する。
全有権者投票は政府の代表権限を正常な軌道に戻らせる市民の制御活動である。 (「住民投票」の言葉には「国家学の貶め」が付き纏っているので「全有権者投票」の用語が良い)
③ 市民は代表権限の行使運営が信頼委託の範囲を著しく逸脱したときには「信託解除権」を発動する。信託解除とは解職または選挙である。 
  
政府信託理論
 選挙の翌日に、市民は「陳情請願の立場」に逆転し、議員は白紙委任の如く身勝手にふるまい、代表民主制度が形骸化し政治不信が増大する。しかしながら、選挙は「白紙委任」ではないのである。選挙は代表権限の「信託契約」である。代表権限の身勝手な行使運営は「信託契約違反」である。そして信託契約の著しい逸脱には信託解除権の発動となる。主権者は国民であって国家ではない。政府と議会の権限は選挙によって国民が信託した権限である。

実践理論
 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
 「説明理論」とは、事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する理論である。「実践理論」は未来に向かって課題を設定し解決方策を考え出す理論である。実践理論は「何が課題で何が解決策であるか」を言葉で述べる。「言葉で述べる」とは「経
験的直観を言語化する」ことである。歴史の一回性である実践を言語叙述することによって普遍認識に至るのである。

 「経験的直観の言語化」は、困難を覚悟して一歩前に出た実践によって可能となる。大勢順応の自己保身者には経験的直観を言語化することはできない。人は体験しないことは分らないのである。「一歩踏み出した実践」による「自身の変革」なくして「課題と方策の言語叙述」はできない。「実践」と「認識」は相関するのである。
 
「知っている」と「分かっている」
 「知識として知っている」と「本当に分かっている」は同じでない。「知識としての自治体理論」だけでは「実践の場面」で役に立たない。それでは、「知っている」が「分かっている」に転ずるのは、如何なる「すじみち」であろうか。社会生活の場で一歩踏み出せば「嫉妬・非難・左遷」に遭遇する。現状の継続に利益を得る陣営からの反撃に遭遇する。不利になり辛い立場になるから多くの人は「大勢順応」になり「状況追随思考」になる。だがしかし、一歩踏み出せば「壁を破って真相を見る」の体験をする。その体験が「分かる」に至る「すじみち」である。
 知っている人と、分かっている人の違いは、「一歩前に出た体験」の違いである。人は経験に学ぶ」という格言の意味は、一歩踏み出し困難に遭遇して「経験的直観」を自身のものにすることである。「分かる」とは実践を経て獲得した認識である。経験的直観とは「実践の概念認識」である。

Ⅳ 松下圭一先生との出会い

松下圭一先生は学問上の恩人である。「自分の頭で考えて文章を書く」ことを教わった恩人である。
・最初に読んだ先生の著書は、岩波新書『市民自治の憲法理論』であった。学生のとき、司法試験の勉強で田中二郎・行政法(弘文堂)を熟読していたので、「憲法は市民自治の基本法である 国家統治の基本法ではない」の論理は「目からウロコ」の衝撃であった。この衝撃で「自治体の政策自立」が生涯の目標になった。
・「規範概念による規範論理」を「了解し会得する」ことができたのは、先生の著作『政策型思考と政治』を熟読したからである。 
・『新自治体学入門』(時事通信社・2008年)を上梓することができたのは、30年にわたって先生から示唆を頂いたからである。その『新自治体学入門』の紹介・書評も書いて下さった。

・最初にお目にかかったのは、朝日新聞本社の最上階レストラン「アラスカ」であった。その日、先生は「論壇時評のゲラ校正」で朝日新聞社にお出でになっていた。(そのころ朝日新聞本社は東京有楽町駅前に在った) 
その「アラスカ」で「第一回全国文化行政シンポジュウム(1979年11月8日-9日)のバネリストをお願いした。「何を話せばよいのかネ」「行政が文化を政策課題にすることに市民の立場から発言して頂きたいのです」「何を言ってもよいかネ」「ハイ自由に言って頂きたいのです」「分かった」であった。(後日、「頼まれ方が気にいった」と先生が言っていた、と多摩の友人から聞いた)

・「市町村文化行政交流シンポ」を藤沢市で開催したのときも基調講演をお願いした。その日は衆議院議員の五十嵐広三さん(元旭川市長)も参加されていて「今、国会では財政改革の話ばかりだか、ここでは文化を論議している。まことに素晴らしい」と話された。 

文化行政を政策潮流に
・文化行政を自治体の政策潮流にするため書物の刊行を考えた。1980年5月20日、伊豆から帰途の松下先生に横浜で中途下車していただき、横浜東急ホテルで書物刊行の協力をお願いした。「それは良いが、この本の編者は誰かね」「先生と私です」と臆面もなく言った。「いいだろう」と共編著を快諾して下さった。

・日本で最初の文化行政の書物『文化行政―行政の自己革新』(学陽書房-1981年5月15日)を刊行することができた。・松下先生が文化行政を自治体理論に位置付けて下さったことで、「文化行政が自治体の政策潮流として全国に広まった。

・さらにまた、朝日新聞の論壇時評(1979年10月30日)で『自治体の文化行政は自治体行政のすべての分野に文化的視点を取り入れようとする総合行政である』と紹介して下さった。そして高名な加藤周一先生と並んで私の写真も掲載していただいた。
( 1979-10-30・朝日新聞(夕刊)論壇時評・松下圭一.pdf - Google ドライブ )

・北海道自治土曜講座には講師として札幌に6回お出で下さった>

松下先生は2015年5月6日東京小平市の自宅で逝去された。

・時事通信社の「地方行政」に松下先生追悼の文章を書いた。
   
・2017年5月21日、松下先生追悼の集い」を北海道自治労会館で開催した。、
 集いで「松下理論の骨格」を話した。
    
・2018年10月13日、松下圭一先生追悼・北海道自治体学土曜講座を開催した。
 
    
『松下理論の今日的意義』
  鼎談 大塚信一・西尾勝・森 啓
https://www.youtube.com/watch?v=qxktaO9SBVk&t=152s

『松下理論の骨格」森 啓
https://www.youtube.com/watch?v=3WJoqoXyLzY

Ⅴ  吾が人生は何であったか

・顧みれば、吾が人生は、「反省すべきこと」「恥ずかしきこと」「配慮足らざること」多々ありの人生であった。しかしまあ、工業高校電気科卒の18歳が徳島から出てきて「よくやった」と言えることもあったであろう。

・第一は、人生の目標を「自治体の政策自立」と見定め、自治体学理論を構成し『新自治体学入門』を上梓刊行することができた。
・第二は、市民と自治体職員が批判的思考力を研鑽する「自治体学会の設立」に関わった。
・第三は、「北海道自治土曜講座」を21年間、「市民学習講座」を5年間、継続開催した。

・在任期間・史上最長の首相であった安部晋三の「レガシー」は、「国会審議を汚し続けた未曽有の所業」である。安倍晋三は米国トランプにも似た「嘘を言い続ける首相」であった。かかる首相を容認した日本社会である。
・批判的思考力が衰弱した日本社会は、これから、如何なる方向に向かうであろうか。 

略 歴
1960(昭和35)年3月 中央大学法学部法律学科卒業
1960年4月       神奈川県庁入庁(労働部横浜労政事務所)
1968年         労働部労政課教育係長
1976年        財団法人地方自治研究資料センター研究員(自治大学校)
1977年          県民部文化室企画副主幹
1980年          県民部総括企画主幹          
1983年         自治総合研究センター研究部長
1986年       地方労働委員会総務課長
1989年        青少年センター副館長
1992年      埋蔵文化財センター所長

1993年        北海道大学法学部教授(公共政策論)
1998年        北海学園大学法学部教授 (自治体学)
1999年        北海学園大学法科大学院非常勤講師

著 作
「自治体の政策課題と解決方策」 日本経営協会 1986年
「自治体の政策研究」       公人の友社 1995年
「自治体理論とは何か」      公人の友社  1997年
「行政の文化化」         公人の友社  1998年
「議会改革とまちづくり」     公人の友社  1999年
「自治体職員の政策水準」     公人の友社  2000年
「町村合併は自治区域の変更」  公人の友社  2001年 
「自治体人事政策の改革」     公人の友社  2002年
「自治体の政策形成力」      時事通信社  2003年            
「協働の思想と体制」       公人の友社  2003年
「市町村合併の次は道州制か」  公人の友社  2006年
「自治体学の二十年」       公人の友社  2006年       
「新自治体学入門」        時事通信社  2008年
「文化の見えるまち」       公人の友社  2009年
「自治体学とはどのような学か」 公人の友社  2014年 

共 著
「都市の文化行政」 学陽書房  1979年 共著
「文化行政-行政の自己革新」  学陽書房 1981年 共編著 (松下圭一)
「文化行政とまちづくり」     時事通信社 1983年 共編著 (田村 明)
「行政の文化化」         学陽書房   1983年 共著
「自治体政策研究の実践」    労働研究所 1983年 共編著 (田村明・村瀬誠)
「文化行政と企業の文化戦略」  宣伝会議  1984年 共著 
「新編・文化行政の手引き」    公人社     1991年 文化行政研究会・編
「まちづくりと文化」      都市文化社 1991年 共著
「文化ホールがまちをつくる」   学陽書房   1991年 編著
「市民文化と文化行政」 学陽書房  1991年 編著
「水戸芸術館の実験」    公人の友社  1992年 共著 
「『市民』の時代 」   北海道大学図書刊行会 1998年 共著 
「自治体の構想(第四巻・機構)」 岩波書店   2002年 共著
「自治体学理論の実践」      公人の友社  2011年 共編著 (川村喜芳)

北海学園大学「開発論集」
開発論集78号「21世紀の文化戦略」       (2006年8月)
開発論集79号「地域文化の甦り」        (2007年3月)
開発論集80号「自治体の政策開発」 (2007年9月)
開発論集81号「自治体の文化戦略と企業の文化戦略」 (2008年3月)
開発論集83号「自治体の文化戦略―沿革」 (2009年3月)
開発論集84号「文化の見えるまち」 (2009年9月)
開発論集87号「自治体の議会改革と自治基本条例」 (2011年3月)
開発論集88号「市民政治の可能性」 (2011年9月)
開発論集90号「市民行政の可能性」 (2012年9月)
開発論集93号「自治体学とはどのような学か」 (2014年3月)
開発論集97号「市民政府信託理論」         (2016年3月)
開発論集99号「政策研究の用語」の由来      (2017年3月)
開発論集101号「政策研究の用語」の由来      (2017年3月)
開発論集103号「松下圭一市民政治理論の骨格」 (2019年3月)
開発特別講義 「地方分権と道州制改革」 (2009年12月)
経歴と言説
ブログ「自治体学」 http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/
自治体学理論の系譜 「鈴木庸夫氏の論稿を批判する」
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学理論の系譜

「なぜ市民自治の憲法理論が学者に無視されたのか」
鈴木庸夫氏(元千葉大)の論稿を批判する

鈴木氏の「自治総研通巻509号 2021年3月号・4月号」を見つけて、大いに期待し一読した。だが、期待外れであった。以下にその理由を述べる。 

1. 鈴木氏は3頁に「松下先生の主たる攻撃対象は国家法人論であった」と書かれている。だが松下先生の主意はそうではない。「民主政治は国家統治でなく市民自治である」です。 これが本書の表題である。「国家法人論」と「国家三要素説」は、国家を統治主体に擬制するめの(用具の)擬制概念です。松下先生の批判対象は「国家観念」「国家統治」です。

2. 鈴木氏は、当時の学者(現在の学者も)が、『市民自治の憲法理論』をなぜ無視したかを、ご自分の言葉で、まず直截に説明するべきです。それが鈴木氏の論稿のタイトルであるのだから。だが説明できないから「やたらと外国学者の名を借りて」長文(上下)の意味不明の文章を綴っている。

 意味不明とは、例えば 5頁に「規範構想論を少し説明すると、規範的制度、法制度の基礎をなす制度思想やその方向づけのことである」と書いてある。これは同語反復で説明になっていない。このような意味不明の叙述が随所に存在する論稿である。

そしてまた、松下先生が、大塚信一著『松下圭一 日本を変える』の352頁に『私の社会・政治・行政理論の〈方法論〉は「歴史の変化のなかに現実の構造変化を見出し」、「現実の構造変化をおしすすめて歴史の変化をつくりだす」という考え方です』と書いてあるにもかからず、鈴木氏は「松下先生の方法論は研究者の態度の問題であり、統一的な方法論を樹立する意図はなかったと思うと書いている。(12頁)

これは、鈴木氏が「構造変化をおしすすめて歴史の変化をつくりだす」という規範論理の意味がまるで分っていないということである。

3. 大学院生の研究レポートに「やたらと外国学者の名を並べた『よく勉強しましたね』だけのレポート」がある。鈴木氏の論稿も同じに思える。直截に明晰に「松下理論を学者が無視したのは何故か」を論述すべきですが、私は鈴木氏の論稿を通読して、鈴木氏は「なぜ学者が無視したか」を説明することができないのだと分かった。 

4. 明治憲法時代の戦前は「国家が臣民を統治する」に疑念を抱くことすら禁圧された。1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家学」を正統学とした。さらに「私立法律学校特別監督条規」を定めて(現在の主要私大法学部の前身である)私立法律学校を東大法学部の統制下においた。

5. 1946年、「天皇統治の明治憲法」から「国民主権の憲法」に180度転換したが、その東京帝国大学の学者14人が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上・中・下)を分担執筆して刊行した。だが帝国大学の学者が、禁圧していた「国家統治の観念」から自由になることはできる筈もなかった。逐条解説の分担執筆を提案した田中二郎は、「国家の優越的地位の論理」を自身の著作に書き続けたのである。

これらの学者が「民主政治は国家統治ではない市民自治である」との松下理論に賛同できるはずはないのである。だが反論もできないのである。

6. 戦後の公法学会をリードしたのはその田中二郎氏である。鈴木氏の今回の論稿には「松下理論が公法学会から冷淡視されるのは(致し方なし)との記述が透けて見える。鈴木氏は、松下理論を解説する前に、自分もその一人である「公法学会の通説」をこそ批判なさるべきであろう。

例えば 論理として、「君主主権」か「国民主権」のどちらかである。にも拘わらず「国家主権」を言い続けるのは何故であろうかと、自身に問を発して、自分の言葉で明晰に説明して頂きたい。

 国家統治・国家法人論・国家主権は、民主理論として正答ではないと思っても、タブーだから言えない。市民自治の松下理論に賛同すれば、学会で相手にされなくなる。松下理論に反論もできないので「次元が違う」などと言うか、無視して読まない本にする。学生には、松下理論では国家試験に合格できないと教授する。鈴木さんは「そうではない」と言えますか。

鈴木さんは、公法学通説の場から外れるワケにはいかないとお考えになっている、と今回の論稿を通読して思いました。

鈴木氏は22頁の(結びにかえて)で、下記のように記述している。
 松下憲法学は、時代的制約を除くと、国家と いうものがどのように理論化されるべきなのかという大きな課題を提示していた。憲法学 や行政法学が前提にしていた国家法人説を根本的に批判することによって、市民自治国家 という規範構想を示し、これを軸に分節的自治体論をその選択肢として示していた。その ことによって理論のない憲法学・行政法学に鋭い警鐘を鳴らしていたわけである。規範構想学のない当時の公法学は、松下理論にどのように対応してよいか、何を議論しているのかすら理解できなかった。私の一応の答えはこれである。

 これが鈴木氏の「学者がなぜ岩波新書『市民自治の憲法理論』を無視したか」の説明であるのだろうが、理解するはまことに困難である。市民自治国家とは何ですか?、松下理論にそのような言辞はありません。
  松下先生は『政策型思考と政治』の扉(2頁)に、「本書は、国家観念との別れの書である」とお書きになっているのです
  
鈴木氏にお尋ねしたい。
・丸山真男 岩波新書「日本の思想」153頁の「である」の論理思考と「する」の論理思考の、違いと関係
・説明概念と実践概念の違いとその関係
・規範概念による規範論理とはどのようなことか
・政策型思考とはどのようなことか、を説明して頂きたい。

私(森)は、これらの説明ができなければ、(これらが分かっていなければ)、なぜ学者が「市民自治の憲法理論」を無視したのか、の説明はできないと考えます。
私の所見は下記をご覧ください
 https://www.youtube.com/watch?v=3WJoqoXyLzY
https://www.youtube.com/watch?v=qxktaO9SBVk&t=152s

 鈴木先生の反論をお待ちしています。

北海道大学公共政策大学院シンポジウムを聴いて 
(カテゴリー: 自治体学とシンポジュウム
本稿は、2013年6月29日開催の北海道大学公共政策大学院シンポジウム「地方のからのガバナンス」を聴いて、「北海道大学公共政策大学院公開ブログ」に投稿した所見である。ここに掲載する主意は、国立大学の教育内容の現況が、あまりにも問題意識が低すぎると思うからである。              

 2013年6月、北大正門の掲示板で、北大公共政策大学院の教官が「地方のガバナンス」を主題に公開討論を行うことを知った。日本社会は長い間、官僚が国家統治の名目で地方を支配してきた。その「カラクリ」と「地方政府への展望」が討論されるかも、と少しく期待して出席した。ところが「これが北大大学院の知的水準であるのか」と、あまりの低さに唖然とした。 

基調講演は二人
 最初のTa教授は、『(北海道の)潜在力を「カタチ」にかえるために』の演題で政策提言を行った。
 提言の第一は、新千歳空港から札幌までの所要時間を、現在の36分を20分に短縮するため、「新幹線」または「ノンストップ特急」を整備する。その費用は「条例で法定外目的税を課税し」「空港施設利用料を引上げる」

 第二は、抜本的制度改革として「議員定数の是正」を提言した。
九州新幹線が北海道新幹線よりも先に完成したのは、北海道選出の国会議員の数が、九州よりも(人口比率で)少ないからである。北海道のために国会議員の定数を是正すべきだと述べた。さらにまた、札幌市域は192万人で28人の道会議員であるが、紋別市は2万人で1人である。札幌地域の道議会議員を増やすため、北海道議会の議員定数も是正すべきである、と述べた。

(このブログを読まれる方は、そのように本当に話したのかと思うであろう。だがこのように話したのである。この他にも幾つかの提言を行ったが、あまりにも幼稚で粗雑であるので省略する)

二人目のNi准教授は
「情報技術による地域産業の活性化策」の研究実績を披露した後に
1 合意可能な「地方の価値」を見定めることが重要である。
2 道州制の線引きは「どこで 誰が」決めるのか。
3 そのための「ガバメント 政策技術」はどのようなものか、
と論点を列挙した。だが、自身の所見は述べなかった。基調講演としてまことに不十分である。

 基調講演は(シンポ後半の)討論のためである。
 二人の話は主題と無関係でありすぎる。

 会場に配布された資料にも討論にも、「地方のガバナンス」が主題であるにも拘らず、「市民」「市民政府」「自治」の言葉は一言も無かった。世界の民主政治の潮流は、「集権・統治」から「分権・自治」である。しかるに、北大教官は、旧態依然の「国家」「統治」「エリート政治」の政治学である。この方々の「ガバナンス」なるものは、「国家の政府」であり「国家による統治」である。ジョン・ロックの「市民の政府」でもなく「市民社会の政府」でもないのである。

 討論の締めくくりとして、司会をしていたYo准教授が、会場からの質問に答えて、「自治」も「統治」も同じことである、と述べた。
 この北大教官には、「市民自治」も「国家統治」も同じなのである。

 しかし、院生から(別の場所で) 例えば「市民社会」を質問されたなら、カタカナ言葉を交えて得意然と饒舌に答えるのであろう。だがその知識は、状況追随思考が蔓延する現在の日本を見据えて、「市民社会への道筋」を模索する思考には役立たないであろう。
 おそらく、北大教官には「市民自治」も「市民自治の政府」も意味不明な言葉なのであろう。「国家統治」に対置する「市民自治」の概念も理解できないのである。
 
 少しく失礼になったが、会場に3時間を坐し司会の締めくくりの言説で、不満が増大して「所見」書く気になった次第である。

 もう一つ、書き添えておく。

 2013年6月30日発行の「北大政治研究会会報」第34号に、山口二郎氏が「北大政治学の30年」の表題で所感を載せている。

 90年代を北大政治学の黄金時代であったと回顧し、優れた人材を集め得たのは、自分がスカウトとして一級の仕事をしたからだと書き、北大政治学に集まった方々のお名前を順次に紹介し讃えている。

 ところが、不可解なのは、神原勝氏の名前が出ていないことである。
神原勝氏は1988年に北大に赴任し「地方自治論」を担当し、間もなく「北大に神原教授あり」「自治論は北大の神原教授」との評価を高めたのである。神原氏は2005年には北海道大学名誉教授に推挙されたのである。

 しかるに、山口二郎氏は17年間の研究と教育に専念した神原氏の名前を除外したのである。不可解である。
 もしかすると、北大教官である山口氏の政治学評価は「国家政治学」であり、「市民」「市民自治」「地方自治論」は評価に値しないからであろうか。まことに奇怪(きっかい)至極なことである。
松下理論の三っの骨格
(カテゴリー: 自治体学理論
この論稿は2017年5月7日、札幌市内(自治労会館)で開催した「松下圭一先生追悼の集い」での筆者の話である。

1 松下理論の三つの骨格を話します。
 第一は、1975年刊行の 岩波新書『市民自治の憲法理論』で、民主主義は「国家が国民を統治する」ではない、「市民が政府を選出し制御し交替させる」であると明快に論述したことです。松下理論は民主主義の政治理論です。
 民主主義は「国家統治」ではなくて「市民自治」です。国家は統治主体ではないのです。「国家」は擬制の観念です。人々(市民=Citizen=People)が自治共和の主体です。
 この自明なことを、なぜことさらに言わなくてはならないのか、これが問題です。
 
 明治初年に「国権か民権か」の自由民権運動が起こり伊藤博文はドイツに赴いた。そのドイツは、イギリス市民革命・アメリカ独立革命・フランス市民革命に驚愕したドイツ皇帝が「立憲君主制の憲法」で専制支配を続けていた。立憲君主制は「国家観念」を隠れ蓑にする偽民主主義制度である。

 伊藤はドイツから「国家理論」と「立憲君主制」を持ち帰り「立憲君主憲法」をつくった。そして渡辺洪基・東京帝国大学総長に「国家学ノ研究ヲ振興シ、普ク国民ヲシテ立憲ノ本義ト其運用トヲ知ラシムルコト(国家の観念を教え込むこと)ガ極メテ必要」と助言し、1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家学」を正統学とした。そして天皇機関説事件などを経て「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧した。以来(今日に至るまで)大学教育は「国家が国民を統治支配する」の教説であった。

 1945年日本は焼け野原になってポツダム宣言を受諾した。1946年に「天皇統治(国家主権)の明治憲法」から「国民主権の憲法」に180度転換した。1948〜1950年に京帝国大学の学者14人が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上・中・下)を分担執筆して刊行した。
  しかしながら、戦前に「私立法律学校特別監督条規」を定めて(現在の主要私大法学部の前身である)私立法律学校を東大法学部の統制下におき、つい直前まで「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧していた帝国大学の学者が、「国家統治の観念」から自由になることはできる筈もなかった。
 
  逐条解説の分担執筆を提案した田中二郎は、その後も「国家の優越的地位の論理」を自身の著作に書き続けた。例えば、行政法の標準的教科書とされた1964年刊行の『新版行政法』(弘文堂)には、「行政法は、支配権者としての国・公共団体等の行政主体とこれに服すべき人民との間の法律関係の定めであることを本則とする」「行政法は、支配権者たる行政主体の組織に関する法、及び、原則として、かような行政主体と私人との間の命令・支配に関する法であり、公共の福祉を目的として、国又は公共団体が一方的に規制することを建前とする点に特色が認められる」と叙述した。

 すなわち、行政が「公」を独占し、国民は行政執行の客体であり「私人」であった。この基本認識が「日本公法学会」「憲法学会」を主導したから「憲法は変われども国家統治は変わらず」が存続しているのです。
  
 1975年に『市民自治の憲法理論』が刊行されたとき、憲法学者も行政法学者も政治学者も誰も反論できなかった。「松下ショック」と言われた。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』トランスビュー2014年刊、 序章17頁)
 学者は反論できないので「学会」をつくり「国民主権」を「国家主権」と言い換えて「国家が統治権の主体である」と講義して現在に至っているのです。そして毎年その教育を受けた学生が社会人になっているのです。でありますから、民主主義は「国家統治」ではない。「市民の自治共和」であると言い続けなくてはならないのです。「市民が政府を選出し制御し交替させる」のです

 「国家」の語は (オカミ)(オオヤケ)を連想させて国民を丸ごと包括し絶対・無謬をイメージさせる言葉です。権力の座に在る者の「隠れ蓑」の言葉です。 
「国家三要素説」は二重概念の非論理的な曖昧説明です。「国家法人論」は国家を統治主体と擬制する理論です。
民主主義の理論は市民が代表権限を政府に信託する「政府信託理論」です。
 選挙は白紙委任ではない。選挙は「信頼委託契約」です。政府が代表権限を逸脱するときは「信託契約」を解除する。市民自治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」です。
 これが松下理論の骨格の第一です。


2 松下理論の骨格の第二は「市民」と「自治体」です。
 「市民」と「自治体」が、現代社会(都市型社会)の政策主体であるとの理論を提示しました。(『市民自治の憲法理論』50頁 )

① 市民
 松下さんは北海道地方自治研究所の講演で(2007年6月20日)、市民とは市民型規範を自覚して考え・活動する「人間型」です。民主政治は (自由・平等)という生活感覚、(自治・共和)という政治文脈をもつ〈人間型〉としての「市民」を前提としないかぎり成り立たない。市民政治が実質可能となるには、その主体の個々の人々が「市民」という人間型を規範として設定せざるを得ないのです、と説明しました。(北海道自治研ブックレット「再論・人間型としての市民」)

「市民」は規範概念です。「規範概念」「規範論理」「規範意識」は(骨格の三)で話します。

 日本語の「市民」はイギリス市民革命の「Citizen」の訳語です。明治啓蒙期に福沢諭吉が翻訳したと言われています。「イチミン」と発音します。だが、戦前も戦後も「市民」の言葉は使われなかった。国家統治の時代は「皇民」「臣民」「国民」であった。
 日本が「都市型社会に移行を始めた1960年前後に「住宅・交通・公害・環境」などの都市問題が発生し「市民運動」が激発して「市民」の言葉がマスコミで使われるようになった。   

 1966年の松下圭一『〈市民〉的人間型の現代的可能性』(思想504号)で、ロックの《近代市民》に対して「都市型社会の《現代市民》」の可能性を理論提示しました。都市型社会の《現代市民》が「松下市民政治理論」の中核概念です。
《近代市民》と《現代市民》の違いは、前記「北海道自治研ブックレット」の78頁をご覧ください。このブックレットは松下理論の理解にはとても良い本です。

 「市民」の概念を理解するには「市民と住民」の違いを考えることです。
[市民と住民]
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」です。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味です。

 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語です。近代イギリス市民革命の担い手で「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民社会の主体」です。
 だが、福沢諭吉が期待をこめて翻訳した「市民」は使われなかった。 

 明治政府はドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」で忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだのです。臣民とは天皇の家来です。自立して社会を担う「市民」はタブーでした。
 1945年の戦後も使われなかった。弾圧から蘇った社会主義の人々が「市民」を「所有者階級」と考えたからです。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と訳されました。

 都市的生活様式が日本列島に全般化した1980年代に至って、ようやく福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々」によるまちづくりの実践が全国に広がったからです。
 近代市民革命の市民は「有産の名望家」でした。しかしながら、「現代の市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々です。 社会が成熟して普通の人々が市民である条件が整ったからです。「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」です。

「住民」とは、村民、町民、市民、道民などの行政区割りに「住んでいる人」のことです。
 「住民」は、住民登録・住民台帳・住民税という具合に行政の側から捉えた言葉です。行政の統治客体が「住民」です。住民は被治者であり行政サービスの受益者です。「住民」の言葉には上下意識が染み付いています。

 「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存する(陰で不満を言う)人です。行政サ―ビスの受益者とされる人です。そして「市民」は、公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人です。政策の策定と実行で自治体職員と協働することもできる人です。

 しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉です。理性がつくった概念です。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しません。実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在です。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのです。
 都市型社会が成熟し「生活が平準化し政治参加が平等化」して、福沢の「市民」は甦ったのです。

② 「自治体」
 自治体は市民の自治機構です。国の政策を執行する地方の行政組織ではないのです。
 「地方公共団体」の語は、憲法制定時に内務官僚が「全国一律統制」を継続する意図で、GHQ 原案のLocal self-government(地方政府)を「地方の公共団体」と訳語したのです。

 内務官僚は「知事公選」に猛反対しました。だがGHQに押し切られて反感を抱き、原案の文意を様々にスリ換えました。スリ換えた内容は、岩波新書『日本の地方自治』(辻清明-1976年) の72-81頁に詳しく記されています。
 
 松下理論は「多元重層の分節政治理論」です。
 1975年の『市民自治の憲法理論』(112頁)で、自治体が「シビルミニマムの策定」や「公害規制基準の制定」などの「自治体主導の政策」を既に実行している事例を示して、自治体は憲法機構であり「自治立法権」「自治行政権」「自治解釈権」を保有している、と理論提起しました。この理論提起が「自治体の発見」と評されたのです。

 1980年代、工業文明が進展して「前例無き公共課題」が噴出増大しました。これらの公共課題は、ⅰ国際間で基準を約定して解決する課題、ⅱ国レベルの政府で全国基準を制定して解決する課題、ⅲ自治体で解決方策を策定して解決する課題に三分類できます。そして政府も国際機構、国、自治体の三つに分化します。自治体は公共課題を解決する政府です。

 橋本竜太郎内閣のとき、菅直人議員が衆議院予算委員会で「憲法65条の内閣の行政権は(どこからどこまでか)」と質問しました(1996年12月6日)。大森内閣法制局長官が総理大臣に代わって「内閣の(つまり国の)行政権限は憲法第八章の地方公共団体の権限を除いたものです」と答弁しました。これが公式政府答弁です。 

 つまり、自治体は独自の行政権限を有しており、自治体行政を行うに必要な法規範を制定する権限を憲法によって保持しているのです。国の法律を解釈する権限も有しているのです。自治体は憲法機構です。

 ところが、「国家統治の伝統理論」から脱却できない学者は、自治体の(政策自立-政策先導)が現出しているにも拘らず、自治体を憲法理論に位置付けることができない(定位できない)のです。
 例えば、小林直樹教授は『憲法講義(1975年改訂版)』で「国民とは法的に定義づければ国家に所属し国の支配権に属人的に服する人間である」(憲法講義上23頁)。「自治体は国家の統一的主権の下で、国家によって承認されるものとして成り立つ」(憲法講義下767頁)と述べています。小林教授は「市民」と「自治体」を憲法理論に位置付ける(定位する)ことができないのです。

 樋口陽一教授は、『近代立憲主義と現代国家』で「国民主権の形骸化の現実」を説明するために「国民主権の実質化・活性化」への理論構築を放棄しています。そして「国民主権」を「権力の所在を示すものでしかないものだ」とする論理を述べます。この論理は「国民主権による政治体制の構成」という憲法理論の中枢課題自体を実質的に放棄しているのです。

 なぜそうなるのか。お二人は「国家統治」と「国家法人論」を憲法理論の基軸にしているからです。だが「国家法人論」は国家を統治主体に擬制する理論です。民主政治は市民が代表権限を政府に信託する「政府信託論」です。
 以上の指摘の詳細は、松下圭一『市民自治の憲法理論』(117頁-123頁)をご覧ください。

3 「都市型社会」と「政策型思考」
松下理論の骨格の第三は「都市型社会」と「政策型思考」です。
 「都市型社会」は「近代社会」がいかにして「現代社会」に構造変化したかを認識する概念です。「政策型思考」は松下理論の思考の方法論です。

 都市型社会とは、都市地域だけではなくて、山村・漁村・僻地にも工業文明的生活様式が全般化した社会のことです。
 人類発生以来、採取・狩猟の社会であった。やがて農業技術を発明して定着農業の社会(農村型社会)になった。{人類史上、第一の大転換}  やがて16-17世紀ヨーロッパに、産業革命・市民革命による工業化・民主化=(近代化)が始まり、数千年続いた農村型社会(身分と共同体の社会)の解体が始まる。
 20世紀に、工業化(情報技術のさらなる発達)・民主化(民主政治の思想と制度の広がり)が進展して、先進地域から順次に「都市型社会」への移行となった。{人類史の第二の大転換} 

〈都市型社会〉の論点は、現代社会を「如何なる社会と認識するか」です。つまり、工業化と民主化が進展して数千年続いた〈農村型社会〉が〈都市型社会〉に大転換した、の「認識の有無」の問題です。
 (多くの)学者の理論は「現代社会の構造変化」を認識しない理論です。つまり理論前提が「ガラリ変わっている」ことを認識しない「農村型社会」の理論です。

 都市型社会では、人々の生活条件の整備は〈共同体〉ではなく〈政策・制度〉という公共政策によって整備されます。 
 「都市型社会」の詳細説明は松下理論の主著『政策型思考と政治』の18頁(大転換としての都市型社会)をお読みください。
 
② 政策型思考
 論理には説明論理と規範論理があります。「説明論理」は、事象を事後的に考察して説明する思考です(実証性と客観性)が重要です。
「規範論理」は、(あるべき未来)を目的に設定して実現方策を考案する思考です(予測性と実効性)が重要です。政策型思考とは規範論理による思考のことです。松下市民政治理論の方法論です。

1) (あるべき)とは当為です。(かくありたい)(かくあるべき)は「規範意識」です。
2) (あるべき未来)は構想です。夢想ではありません。未来に実現を予測する構想です。
3) (あるべき未来を構想する)のは「規範概念による思考」です。 

 松下理論(著作)を難解だと思うのは「規範論理」で論述されているからです。
「規範概念」と「規範論理」を了解納得するには、(あるべき未来)を目指して一歩踏み出し、困難な状況に遭遇して、自ら困難を切り拓いた(いくらかの)体験が必要です。

 (あるべき未来を希求する)のは、「現状に問題あり」の認識があるからです。問題意識のない状況追随思考の人には(あるべき未来)を構想することはありません。
 構想するとは「何が解決課題であるか」「解決方策は何か」を模索することです。

「何が課題で方策は何か」を模索するのは経験的直観です。その経験的直観は「困難を怖れず一歩踏み出した実践体験」が齎します。「人は経験に学ぶ」という格言の意味は、一歩踏み出し困難に遭遇して「経験的直観」を自身のものにすることです。実践と認識は相関するのです。実践の概念認識が「経験的直観」です。

(知っている)と(分かっている)には大きな違いがあります。違いは実践体験の有無です。 人は体験しないことは分からないのです。


 本日の案内ビラにも転載されておりますが、松下先生はご自身の方法論を次のように説明しています。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』338頁「私の仕事」) 『私の社会・政治・行政理論の〈方法論〉は「歴史の変化のなかに現実の構造変化を見出し」、「現実の構造変化をおしすすめて歴史の変化をつくりだす」という考え方です』
 (歴史の構造変化を見出す) (歴史の変化をつくり出す) とはどのようなことか、本日後半の討論で考えたいと思います。  (森 啓)
[自治体学理論の系譜] [Ⅲ] 北海道での25年 (その1)
(カテゴリー: 自治体学理論
[自治体学理論の系譜] [Ⅲ]
北海道での25年(1993-2018) (その1)

[思いもかけずの転変]
1993年2月25日、北海道大学学長から長洲神奈川県知事宛てに「筆者割愛の依頼文書」が届き4月1日、北海道大学法学部教授に赴任した。思いもかけずの転変であった。
担当科目は公共政策論。神奈川県庁時代に8年間、神奈川大学で非常勤講師としで地方自治論を講義していたので、北大の講義にさして苦労はなかった。

北海道大学の前身は札幌農学校であったから、農場もあって広大である。自転車を購入して毎日のように大学内を散策した。10月の銀杏並木は実に見事であった。
春は萌えいずる翠、夏は緑陰、秋は農場に寝転び白雲を眺め、冬は一面の銀世界の絶景。まさに天国の如き楽園であった。

北海道での25年は、北大で5年、北海学園大で10年、北海学園法科大学院非常勤講師で10年の歳月であった。
(居住地の町内会役員から「北海道での25年」の話を頼まれ、最初は「話す内容もありませんから」と辞退したが、自分を顧みるよい機会だと思い話をした。以下は二丁目町内会「サロン」での話である。)

1 地方自治土曜講座
北海道生活の思い出の第一は、地方自治土曜講座の実行委員長の役割を21年担ったことです。1995年に北海道町村会の川村喜芳常務の提案で市町村職員を対象に、大学院レベルの講義を行う地方自治土曜講座が開講されました。

1995年から2011年までの16年間に91回の講座を継続しました。地方自治土曜講座の詳細は『自治体理論の実践』(公人の友社-2011年刊行)をご覧下さい。この本です。50ページの川村喜芳「土曜講座16年の歩み」が詳細です。

土曜講座が目指したのは
土曜講座がめざしたのは受講者それぞれが「自分の見解」をもつことです。「自身の批判的思考力」を高めることです。土曜講座は「知識習得」の場ではない。講師の話を丸ごと受容するのではなく、講師の話は自身の「思考の座標軸」を確かなものにするためです。東京では、細川内閣による地方分権の論議が盛んになり「自治分権の時代」が始まろうとしていました。

受講申込を断らないで下さい
 開講準備のときには「七回講座で受講料1万円」の講座に市町村職員が集まるかを心配しました。だが申し込みが殺到して、事務局は360人で締め切り受講申込を断わりました。
筆者は「受講したい人を断らないで下さい」と事務局に要望しました。「会場に入れなくなります」「受講料を受取って会場に入れないでは責任問題です」が事務局の返答でした。「断らないで下さい、責任問題にはなりませんから」と言い続けました。

二年目は受講申込を断らず受け付けました。874人の受講者を収容できる会場が見つかず、借用費は高額だが厚生年金会館の大ホールを借りました。 
初日午前の講師は、元内閣官房長官の五十嵐宏三さんでした。感銘深い講義でした。
三年目から受講者を500人で締め切り北大教養部の長細い講堂で開催しました。このときも「受講したい人を断らないで下さい」と事務局に言いました。

土曜講座を歴史に刻む
私は、『会場内は満席で後方は立っており、通路にも演壇の周りにも座して聴講している。会場に入れなくて窓から覗いている人もいる』ような光景を現出したいと思い続けたのです。


事務局は無茶で無責任だと言う。けれども、遅れて来た人が怒って文句を言うであろうか。そうではなくて、その光景に驚き「これは何であろうか」と思い「次回は早く来よう」と思うであろう。それが「歴史に土曜講座を刻む」ことになるのだと思います。

「省庁通達の従属」から「自分たちで政策をつくる」への転換、即ち「自治体の政策自立」は容易ではない。容易ではないが実現しなければならぬ。講義を聴いて感銘を受けても、それだけでは職場での実践行動には繋がりません。

人が「実践行動」に至るのは「価値軸の転換」です。価値軸の転換には「驚き」と「心の揺らぎ」が必要です。「講義を聴く」のも大切だが「何かが始まっている」を目撃し、それを「身体で感じる」ことが何倍も重要です。何事も情熱がなければ変革は始まらない。

私は、開講挨拶で「この学習熱の高まりは事件です。時代の転換期には学習熱が高まります。この土曜講座は時代転換の兆しが現実になり始めた象徴的な出来事です」と述べました。

学習熱の高まり
 北海タイムスは、立見席で聴講する満席風景を写真入りで報道しました。北海道新聞はコラム・卓上四季に「公務員が自費で勉強を始めた」と書きました。「今年も土曜講座が始まる」の報道で「土曜講座は札幌の五月の風物詩」になりました。
 それまで、地方公務員は元気のない職業集団と思われていた。その公務員が自費で勉強を始めた。しかもその内容は「自治体自立の政策課題」です。 

土曜講座の成果
 成果の第一は、受講者が相互に知り合ったことです。
 当初のころは講義の後「講師を囲む交流懇談会」を開催して、全員が「一分スピーチ」を行い、自分と同じ考えの人が「沢山いる」ことを実感し合いました。
 北海道は広いので他の地域の人と言葉を交わす機会が少ない。土曜講座で知り合って「仲間の輪」が北海道の全域に広がった。何かあれば連絡し合える「親密な仲間の輪」です。「知り合った」ことが第一の成果です。 

第二は「話す言葉・用語」が変わりました。
 「地方公共団体」が「自治体」に変わり、「地方公務員」が「自治体職員」に変わった。「政策自立」「地方政府」「政府信託」などの「用語」で考えるようになりました。
 「言葉・用語」は思考の道具です。言葉が変われば「思考の座標軸」が変わり「発想」も「論理」も変わります。
 「地方公務員」から「自治体職員」への用語変化は、「職業意識」「職業倫理観」をも変化させます。「中央が地方の上位」と思っていた(思わせられていた)長い間の思考習慣からの脱却が始まったのです。
「地域を考える主体」が北海道の各地に誕生しました。土曜講座第二の成果です。

第三は、ブックレットを刊行したことです。
 講座での感銘は時間の経過と共に薄れるので「ブックレット」を作りました。講義をブックレットにするのは手間のかかることですが、受講しなかった人にも講座内容を伝えることができます。116冊のタイトルが「自治体課題の変遷」を物語っています。
 
2 [北海道自治体学土曜講座]―北海学園大学
 北海学園大学で2014年から2017年までの5年間、「北海道自治体学土曜講座」の名称で土曜講座を再開しました。再開できたのは北海学園大学経済学部の内田和浩教授が事務局長を兼任して共同代表になって下さったからです。そして、斎藤仁史さんのまことに丁寧な資料作成の尽力で21回の講座を開催することができました。

 毎年5回の講座でしたが、実行委員とスタッフの事情で、2018年は1回の開催になりました。そこで最終回講座を、松下圭一先生追悼・「松下理論の今日的意義」を考究する公開講座にしました。

以下、主要なテーマを記します。 
(2014年)
「自治体学とはどのような学か」
 第一回の主題を「自治体学とはどのような学か」にしたのは、自治体学会を設立して35年が経過し、設立当時の状況を知らない会員が多くなり、「自治体学」の共通認識が希薄になっているからです。
  広瀬克哉(自治体学会代表)
  土山希実枝(龍谷大学准教授)
  神原 勝 (北海道大学名誉教授) 
  宮下裕美子(月形町議会議員)
  (司会) 森 啓

(2015年)
「メディアの現状―日本の民主主義」
  官邸の「メデイア監視」と「番組への介入」で、ラジオ・テレビの「政権批判番組」は萎縮し減少しました。とりわけNHKは籾井会長が就任して「ニュース番組の原稿」を「政治部が修正変更する」という「凄まじい事態」になっています。
 永田浩三 (もとNHK番組ディレクター)
 菅原 淳 (北海道新聞編集局解説委員)
徃住嘉文(日本ジャーナリスト会議北海道支部)
林炳澤 (さっぽろ自由学校「遊」共同代表)

(2016年)
「沖縄の人々の苦難は他人事ではない」
「沖縄問題」は現在日本の最大の緊急課題です。警視庁機動隊を常駐させて本格基地の建設を暴力的に強行している。この実態を日本の人々は知っているであろうか。 「本土(ヤマト)のメディアは、NHKを筆頭に沖縄差別に加担しているのではないか」
基調報告
「沖縄の自治権と環境権」 宮本憲一 (大阪市立大学名誉教授)
「沖縄の現状とヤマト(本土)の報道」松元 剛 (琉球新報編集局次長兼報道本部長)
討論
宮本憲一 松元 剛 徃住嘉文 (北海道ジャーナリスト会議)
(司会) 森 啓 (自治体政策研究所)


(2017年)
現在日本は民主主義か 
70年前、日本中が焼野原になり、天皇主権(国家統治)の憲法を国民主権の憲法に転換した。だが憲法学者と行政法学者は「憲法 は国家統治の基本法である」と講義しています。。
山内亮史(旭川大学学長)  内田和浩 (北海学園大学教授)  池田賢太 (弁護士)
河上暁弘 (広島市立大学准教授)   高橋 悟 (自治体政策研究所)
(司 会)  森  啓 

(2018年)
松下圭一先生追悼『松下理論の今日的意義』
1995 年から通算21年をかけて土曜講座がめざしたのは、受講者それぞれが「自分の見解を持つ」ことでした。それが「市民が主体となって社会を管理する市民自治」です。市民自治を提唱し続けた松下理論を考究する最終講座です。
「松下圭一 日本を変える」    大塚信一(元・岩波書店社長)
「シビルミニマム論・市民参加論」 西尾 勝(東京大学名誉教授)
「松下理論の骨格」     森  啓(自治体政策研究所)
鼎談ー(大塚信一、西尾勝、森啓)
映像をご覧ください
https://www.youtube.com/watch?v=qxktaO9SBVk&t=2126s

3  市町村合併
25年の北海道生活を振り返って良かったことの二つ目は、小泉構造改革の「地方切捨ての市町村合併」を批判し反対したことです。地方交付税22兆円を削減するための合併強要です。北海道は、町村面積は広大ですが人口は減少しています。人口1萬人まで一律に合併させるのは「住民自治の侵害」です。合併は「行政区域の変更」ではないのです。住民が自分のまちを良くする「自治区域の変更」です。

[学者はブレル]
全国各地から幾度となく合併の講演を頼まれました。文化行政のときも講演を依頼されて全国各地に出かけました。合わせると47都道府県のすべての地域に出かけました。(自治大学校のときの仲間と再会して地酒を楽しむことができました)

熊本県の町村議長会から講演依頼の電話が架かってきたとき、「なぜ北海道の私ですか、そちらにも講師がいらっしゃるのでは」と言うと、「政府がすすめる合併を批判する人が居ないのです、全国町村議長会に訊いて貴方に電話をしているのです」とのこと。

平素、「地方自治の確立」を唱えている学者が、府県から「合併検討委員会委員」を委嘱されると、途端に合併促進の側になってしまう。北海道でも普段は「市民自治」を言っていた学者が「私は合併に賛成でも反対でもない、中立である」と言いました。だが、政府が(府県に命じて)合併促進を進めているときです。賛成か、反対か、であって、中立などは無いのです。

投票箱を開かず投票を焼き捨てる
全国各地で「住民の意見を聴け」の声が高まり、住民投票条例制定の署名運動が始まりました。だが議会が住民投票条例制定の提案を否決しました。否決する手段として「50%条項」が援用されました。「50%条項」とは、(徳島市議会で「吉野川河口堰の住民投票を葬るため」「投票率が50%を超えない」ときには「住民投票が成立しなかったのだ」として「投票箱を開かず投票を焼き捨てる」という条例です。この(50%条項)が全国各地で悪用援用されたのです。 

北海道の典型的な事例
南幌町
 町長は北海道庁の指図通りに合併しようとしましたが、「町民の意見を聴け」の声で町民投票になり、結果は「合併反対」が多数でした。町長は「僅差である」と (テレビでも) 言明して合併を強行しました。町民は怒って「町長解職(リコール)運動」を始め、町長支持であった議会内勢力も変わり町長は辞任するに至りました。
石狩市
(南幌町の合併不成功の経緯を見て) 石狩市長と議会は「投票率が60%を超えなければ市民投票は成立しなかつた」とする条例をつくり、投票箱内の市民の意志 (投票用紙)を焼却しました。だが、市長選挙でも市議会議員の選挙でも、投票率が50%を超えることは殆どないのです。(2021年8月の横浜市長選挙は8人の立候補者が有権者に自分への投票を呼びかけましたが投票率は49.1%でした)。60%の条例は「市民の意見は聴かない」ということです。
奈井江町
町長と議会は「合併は町民生活にとって重大問題である」として「合併の利害得失を分かり易く書いた資料」を全所帯に九回配布し、集落毎に懇談会を開いて説明しました。中学生・高校生にも「町の将来を考える合併説明会」を学校で行いました。そして投票日には小学五年以上の「子どもの投票箱」を設けました。町民投票で「合併はしない」。だが、近隣市町村と事業を協力し合うことにしました。

[衆議院総務委員会で陳述]
政府は3200の市町村を1000に合併しようと企みましたが、思うほど合併がすすまないので、自治法を改正して「市町村議会が合併反対を決議」しても「合併の議決したものと見なす」という法改正を企みました。

衆議院からその地方自治法改正について意見を求められ、衆議院総務委員会で改正反対の意見を陳述しました。そのときの映像がインターネットに流れていますのでご覧ください。 https://www.youtube.com/watch?v=2tqXt27Z3tU
 (衆議院総務委員会・参考人意見陳述・森啓(北海学園大学) - 合併特例法改正審議)

政府の交付税削減の兵糧攻め(脅し)で3.200の市町村が、1.300になりました。だが、「合併して良かった」というところは殆どありません。。

4  無防備平和の署名運動
北海道の思い出の三つ目は、無防備平和の署名運動に加わったことです。
 「学生に講義をする仕事が終わったら、無報酬で反戦平和の市民運動をやろう」と思っていました。ちょうどそのころ、北海道庁正面の赤レンガ池を眺望できるKKRホテル二階のレストランで、市民の方から「無防備平和地域宣言」の署名運動の代表人を頼まれて引き受けました。

札幌を無防備平和都市にする宣言条例制定の署名運動です。条例制定の署名運動は「姓名・住所・生年月日・捺印」の署名を集めるのです。一か月(60日)で有権者総数の2%の署名を集めるのです
 札幌市の有権者数は155万9千557人(2.007年当時)でしたから、その2%は(31.192人)です。最初は(できない・無理)だと思いました。だが、多くの人々が本気になり、私も本気になって、4万1千619筆の署名を集めて成功しました。

「思考回路」の違い
団体や組織の役員と市民運動の人とは「発想」「思考回路」が異なります。団体や労組の役員は「組織決定して組織動員」です。そして「失敗したときの責任」を常に考えます。ですから「やりましょう」にならない。時期尚早と言います。決断できないのです。
 市民運動の人は「自分の考えで決断します」「やってみよう」です。失敗したときの責任よりも「やらなくては、やってみようよ」と発想します。

 署名が始まると、「お前はアカだ」「お前の講義を聴く学生は哀れだ」「ヤメロ」のメールが毎日何百通も届きました。その一部をパソコンに今も保存してあります。

 当初のころの大学の用務で何もできなかった日のことです。札幌エルプラザでの夕刻の「署名獲得数の報告会」で、(代表人でありながら今日は何もしなかった)と、その場に居たたまれぬ辛い思いになりました。でその翌日から足を棒にして、最高は一日で179筆の署名を獲得しました。(この数は今も全国トップで破られていません) 

中国の延安大学で講演
 署名運動での感動的な体験を『無防備平和』の本に書きました。この本(『無防備平和』高文研社刊・2009年)です。後日、中国の延安に行ったとき、延安大学で講演を頼まれて「日本の近代化」のタイトルで話をしました。近代化とは「経済の工業化」と「政治の民主化」であると述べ、日本の人々はアメリカに従属する日本政府に抗して「無防備平和の市民運動」を展開していますと説明して、この本を延安大学に寄贈しました。

 この「DVDビデオの箱の写真は」、4萬1千619筆の署名を集めた最終日の感動の場面です。私の顔も写っています。
 無防備平和の署名運動は北海道生活での感動的な思い出です。
 書物-『無防備平和』(高文研-1.600円) 
ビデオ-『無防備地域宣言-平和なまちをつくる』 

5 原発民衆法廷   
思い出の四つ目は、原発災禍の責任者を弾劾する民衆法廷で証言したことです。札幌の民衆法廷は、泊り原発の危険極まるプルサーマル計画に賛成した高橋はるみ知事と奈良林直(北大教授・元東電社員)の責任を弾劾する民衆の法廷です。

原子力発電の事故は「人間の手には負えない」のです。そして「機械に絶対安全」は無いのです。10年が経過しても「廃炉のメドもたたず」「放射性物質を海に流し続け、海を汚染し続けている」のです。何万人もの人が、今も「生まれた土地に戻れず」「粗末な避難住宅で神経症に苦しみ孤独死している」のです。
しかるに、悪人たちは「利権の原子力ムラで結託」して「誰も罪に問われない」でいるのです。この理不尽を放置してはならないのです。

民衆法廷は(民衆の怒りを基に)この理不尽を弾劾し断罪する正義の法廷です。
模擬裁判ではないのです。

現在の司法制度は「巨悪の悪行」を断罪しない運用です。「国会でいくらウソを言い続けても」「公務員が公文書を改竄し廃棄しても」「莫大利益を目論んで原発事故を引き起こしても」糾弾しない運用です。「証拠を探し出そうとしない」で『証拠がないのです』と放任する運用です。賭け麻雀が発覚しなければ「かの人物」が検事総長になり非道不正の法運用を倍加したのです。

筆者は「悪行を為したる者を弾劾し断罪する民衆法廷」に、証人として出廷して『市民自治規範による悪行断罪の法論理』を証言しました。そのときの映像がインターネツトに流れていますのでご覧ください。
 https://www.youtube.com/watch?v=9CToAeO175Y 

(以下につづく)
5 テレビでバトル対論
6 政策型思考研究会  
7 自治基本条例
8 松下圭一先生との出会い 
9 自治体学理論 
10 吾が人生は何であったか

自治体学理論の系譜 神奈川県庁時代 (その3)
(カテゴリー: 自治体学理論
 [自治体学理論の系譜] [Ⅱ]

神奈川県庁時代(1960-1993)-(その3)

10 自治総合研究センター

(1) 新たな仕事
 新たな仕事は、県職員の「政策研究」を盛んにすることである。盛んにするには「政策研究とは何か」を明晰にしなくてはならない。
 ところが、そのころの自治体には「政策」の用語は無かった。使われていたのは「事務事業」であった。「政策研究」ではなくて「調査研究」であった。

「政策」は中央省庁の言葉だと思っていたのである。省庁が策定して補助金つきで通達してくる業務を執行するのが自治体の仕事だと思っていたからである。府県は中央省庁の下請け執行団体になっていた。「自治体の政策自立」が不可欠必要だと思った。
「政策自立」は自治大学校で内務官僚の座談会記録を読んだとき以来の決心である。

(2) 「政策研究」の言葉
 自治体職員が政策能力を高めるには「政策研究」の言葉に慣れなくてはならない。「政策研究の言葉」を自治体内に広げることを考えた。
 そこで、自治体職員を読者対象にしていた複数の月刊誌の編集長に電話をした。

「自治体に政策研究の波が起きています」「特集されては如何ですか」「誌面企画に協力します」と提案した。
 月刊『晨』1984年9月号の「特集・政策研究へのプロローグ」は、日本で最初の「政策研究の特集」であった。
 ・巻頭対談「政策研究の意味と可能性」・(松下圭一vs田村明)
 ・自治体の政策研究の現状と課題   森 啓
 ・動き出した政策研究への大きな流れ 五十嵐富秀

続いて、月刊『職員研修』も「自治体職員の政策研究」を特集した。

(2) 自治大学校で講演
「政策研究」が「旬の言葉」になり、自治大学校から「自治体の政策研究」の講演を依頼された。都道府県の研修所長が集まっていた。次のような話をした。

 神奈川県では、「公務研修所」を「自治総合研究センター」に改組して「研究部」を設けました。「職員の政策能力」を高めるには「政策研究」が必要であると考えたからです。政策研究が研修所の重要な役割になっていると思います、と話した。

 そして自治大学校の教務担当に、「政策研究の全国動向を調査されては如何ですか」と提案した。自治大学校から「政策研究の実態調査用紙」が届けば、回答を求められた自治体は「政策研究」が時代の潮流になっているのだと思うであろう。政策研究の言葉を広めるためである。

[挿話]
「エピソード」を一つ
1987年、徳島で第一回自治体学会を開催したときのことである。その帰途、徳島空港で人事院の研修担当の方から聲をかけられた。「私は最近、府県の研修所から政策研究の話をよく頼まれます。だが、地方公務員がなぜ政策研究をするのかが分かりません。頼まれるから研修所には行きますが、何を話せばよいのか分からないので困っているのです。それで自治体学会に出てきたのですが、よく分からない。府県職員の研修に政策研究が必要なワケを教えて下さい」と言われた。
そのとき、「ご説明しますので、その代わりと言うと何ですが、『研修』という言葉を人事院で最初に使った経緯を教えて下さい」と訊ねた。

自治体職員の政策研究は「既成政策の事後的分析」ではない。「政策課題の発見」と「解決手法を考案する」研究開発の営みである。

(3) なぜ「政策研究」の言葉にしたか
 一方では、行政学に「Policy Studies」つまり「特定政策の実証研究」の用語がある。「政策研究」では「特定政策の事後的な研究活動」の意味に受け取られる。

 事実としてそのころ、学者は「自治体の政策研究とは政策の調査研究のことである」と意味不明な説明を研修所で話していた。そして内心では、(公務員がなぜ政策研究をするのだろうか)と思っていた。国家学の学者には「自治体と地域に起きている政策自立の意味」が理解できないのである。
 そして他方では、自治体で始まった「自主研究」や「政策課題研究」は、内容に即して言えば、「政策研究」よりも「政策開発」あるいは「政策提案活動」の言葉が正当であった。

それをなぜ、「政策研究」の言葉にしたか。 
 「政策研究」の言葉には曖昧さが伴う。その曖昧さが大事であると考えたからである。

その意味は次のとおりである。
 科学技術が発達して、都市的生活様式が全般化して前例のない公共課題が次々と噴出した。自治体はこれらを「政策課題として設定」し「その解決方策を開発」しなければならない。

 ところが、自治体の部課長は省庁政策への従属が習い性になっている。展望的視界を失っている部課長には、前例なき公共課題を解決する政策を構想し立案することができない。しかしそれでは、省庁政策の下請団体から脱することはできない。

 新たな政策形成システムを自治体内に構築しなければならない。即ち、政策立案の前段階に、様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の営為を位置づけて「政策の質を高める仕組」を自治体内に構築しなければならない。そしてその仕組みを部課長に納得(容認)させなければならない。だが、所管業務に政策提案される(外から言われる)ことを極度に嫌がるのが部課長である。簡単には納得しない。

 部課長が納得せざるを得ない状況をつくるには、様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の実績を積み上げることである。政策研究の成果物を多様に蓄積することである。

自治体職員や市民が政策形成に関与する道筋を拓くことは、政策立案をラインの独占から解き放つことである。それは、所管セクショナリズムの枠を緩めることでもある。すなわち、「政策立案」の前段階に「政策研究」(実質は政策提案)の段階を位置づけることが、真正な意味での「職員参加」「市民参加」に繫がるのである。参加とは「政策の立案・決定・実行・評価」に参画することなのだから。

 しかしながら、当然それは容易なことではない。だが、それをやらなければ、自治体は政策主体になれない。前例なき公共課題を解決する政策形成システムが装備できなければ「地方政府」になれない。地方政府とは自前政策を立案し実行することである。
 だが、「政策開発」あるいは「政策提案」と言えば、部課長は一斉に嫌悪反発する。だから今は、曖昧な「政策研究」の言葉が良いと考えた。

 そこで、当分の間は「政策研究」なる「曖昧なことば」を使いながら、「課題発見」と「方策開発」の成果物を蓄積する作業を自治体内に慣行化することである。そうすることで、やがては、「政策研究」なる言葉が「明晰な概念」になり、「輝くイメージ」を有するに至るであろうと考えた。 

 かくして現在、「政策研究」の言葉は熟成して行政内文書の用語になり、著作や論文も多数刊行されて定着した。
 すなわち
 ・行政学の政策研究は「特定政策の実証的分析的な事後的研究」である。
 ・自治体の政策研究は「課題を設定し解決方策を考え出す創造的研究」である。
  「政策研究」なる用語の選択は正解であったと思う。 

政策研究の広がり伴い、全国各地で独自のまちづくり政策が展開された。
 仙台市公害市民憲章、川崎市建築協定条例、武蔵野市生活環境指標、京都市美観条例、
横浜市日照指導要綱、町田市福祉まちづくり要綱、金沢都市美文化賞、
盛岡市伝統建造物保存指定、釧路市幣舞橋四季像、旭川市買い物公園、北海道池田町CATV、帯広市民の森。

1978年「地方の時代シンポ」、79年「全国文化行政シンポ」が開催された。これは、自治体が政策自立をするための全国交流の仕掛けである。

(4) 自治体政策研究交流会議 
 政策研究への関心が高まり全国各地から筆者の研究部にも視察が来るようになった。
この関心の高まりを「自治体の政策潮流」にするため、政策研究の「全国交流会議の開催」を考えた。所長も賛成して準備が進んでいたころ、所長室に呼ばれた。

 名称を「自治体研究交流会議」にしてはどうかと言われた。「なぜですか」と訊くと、「地方公共団体が「政策」を言うのはどうだろうか」「神奈川県が偉そうなことを言っていることにもなるから」と言う。「長洲知事に得点させるな」の議会多数派への忖度である。
 所長と研究部長の関係である。「ここで結論を出さないことにしなくては」と思った。
「言われている意味は分かりますが、削ってしまうのもどうかと思います。考えてみます……」と言って所長室を出てきた。

 そして研究部の人たちに、「森研究部長は名称を変えると言っていたか」と、所長に訊かれたら、『知事に政策研究交流会議の名称が良いねと言われた』と言っていました、と答えるように頼んでおいた。
 
 もとより知事と話した訳ではないが、そのようなときには、知事の名前をよく使ったものである(自治体職員が何か意味あることをしたいと思ったときには、「首長の意向である」と言うのがよい。選挙で出てきた首長は概ね現状変革を求めるものである。役所内で改革を遮るのは現状維持の管理職である。そして、部課長は首長に「本当にそう言ったのですか」とは確かめないのである)。   
 
 「政策研究の言葉」を広めるための交流会議である。「政策」の言葉を削ることはできない。さりとて所長を無視することもできない。
 そこで、横浜市企画財政局都市科学研究室、川崎市企画調査部、埼玉県県民部自治文化振興課に赴いて、「自治体政策研究交流会議」の共同開催を提案した。「経費負担は不要、当日主催者の席に座していただく」ことで賛同を得た。
 共同開催であるから所長の一存で名称変更はできないことになった。
 
 こうして、全国への案内文書にも、当日のパンフレットにも「自治体政策研究交流会議」と印刷した。「第一回自治体政策研究交流会議」と書いた看板も出した。そして、会場入口に次の「メッセージ」を張り出した。

  自治体に政策研究の波が高まっている。
  この波は、自治体が自立的な政策主体になった
  ことを示すものである。

  戦後四十年、いまや「政策の質」が問われ、
  自治体では総合的な観点からの政策研究が必然に
  なっている。

  自治体は現代社会の難問に挑み問題解決をはかる
  現場であり、仕事を通して議論をたたかわせる論壇
  である。

  自治体を舞台に「自治体学」の研究がすすみ、
  新しい理論が確立されることを
  「時代」と「地域社会」が求めている。

 参加者は立ち止まってこの「メッセージ」を読んでいた。カメラに写す人もいた。
 
 1984年10月18日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で「第一回・自治体政策研究交流会議」を開催した。北海道から九州までの全国から、140団体・352人の自治体職員と市民と研究者が参加した。
 この「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生したのである。
(政策研究交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政(84年11月10日号)」と「地方自治通信〔85年2月号〕」に掲載されている)

11 自治体学会設立

(1) 自治体学会設立の着想
 「自治体学会」は「政策研究交流会議」から生まれた。
政策研究交流会議は自治体職員が全国持ち回りで開催する「政策研究」の交流会議である。

 第一回は横浜で1984年10月18日に開催した。第二回は85年10月、浦和で開催した。いずれも全国各地から350人を超える自治体職員が参加した。

 政策研究とは「既成政策の事後的分析」ではない。「政策課題の発見」と「解決手法を考案する」研究開発の営みである。
 この動向を敏感に洞察した自治体首長は「地域独自の政策づくり」を目指して首長直轄の「政策研究室 (愛媛) 」、「政策審議室 (静岡) 」を設置し、あるいは企画課に「政策研究班 (福井) 」を置き、あるいはまた、職員研修所を改組して「研究部 (神奈川) 」を新設した。
 
 しかしながら、明治百年来の「中央屈従の惰性」から抜け出ることは容易ではなかった。例えば、優れた研究成果が印刷され配布されても立案権を持つ課長は取り上げない。それどころか、首長のいないところで「若い職員が勝手な夢物語を描いている」と冷淡に言って職員の研究意欲を萎えさせた。

 職員からは「何のための研究であったのか」との不満も出た。だが人事課長や研修所長は「政策研究は職員の能力開発が目的である」と弁解説明をしていた。これが当時(1983年前後)の先進自治体の状況であった。
 しかしこれでは「政策研究の波」は弱まり後退する。

 この状況を突き破らなくてはならない。全国交流会議を開催して「政策研究が時代の潮流になっている」ことを内外に鮮明に印象付けることである。

 かくして、神奈川県自治総合研究センターが「自治体政策研究交流会議」の開催を企画した。「政策研究」を全国的な潮流にするためである。
 
(2)  「地方公共団体」ではなく「自治体」
 自治省出身の総務省の人たちは今でも「地方公共団体」と言っている。意識して「自治体」の言葉を使わない。使う言葉に「統治支配の思想」が潜んでいるのである。省庁の人たちは「自治体」が「政策能力を高める」ことを望んでいない。地方の「公共的な団体」「地方の公務員」のままでいさせたいのである。

 すべからく、政治・行政の用語に無色中立な用語はない。言葉の使い方に価値観と利害が染み込むのである。「政策研究」の言葉も同様である。
  
(3) 二つの開催意図
 意図の一つは、「政策研究」の言葉が全国自治体に定着することを目指す。
 自治体が政策主体になるには地域課題を政策化しなければならない。それには、「政策研究の言葉」を全国自治体に広げる必要がある。ところが、当時の自治体には「政策研究」の言葉を避ける風潮があった。さらには、研究成果の活用を意図的に重要視しない心理すらもあった。そしてまた、本庁の課長が所管業務に関する研究開発を忌避するから、研修所長は及び腰であった。

 そこで、全国会議の場で「政策研究が自治体自立の潮流になっている」との認識を、鮮明に印象付けることを目指した。
 そのために、当日の研究報告は「政策化された事例」を選りすぐった。
 「柳川の水路復活」は広松伝さん。
 「神奈川の韓国・朝鮮人」は横浜市職員の加藤勝彦さん。
 「緑の回廊計画」は二十一世紀兵庫創造協会の福田丞志さん。 
 「都市の水循環」は墨田区職員の村瀬誠さん。
 「防災都市のまちづくり」は国分寺市の小口進一さん。

 とりわけ、スライドによる「柳川掘割の復活」の報告に参加者は感動した(後日の話であるが、広松伝さんの「柳川掘割の復活」は、アニメ映画監督の高畑勲・宮崎駿両氏によって「柳川掘割物語」DVD・ジブリ学術ライブラリーになっている)。

 「政策研究の波」が起きていることを内外にアピールするために、新聞記者の方々に取材してもらう配慮もした。かくして、「自治体の政策研究」は新聞記事になり雑誌の特集にもなって伝播した。

(4) 自治体学会設立の動議
 開催意図の二つ目は、全国各地から集まってきた人々に「自治体学会の設立可能性」を提起することであった。
 職員の研究だけでは自治体に「政策自立の潮流」をつくり出すのは難しい。職員と市民と研究者の「協働」が必要である。「実践と理論の出会いの場」が必要である。「政策研究交流会議」とは別に「自治体学の学会のようなもの」が必要であると考えた。

  そこで、二つの提案を動議形式で提出した。
 一つは「この交流会議を毎年全国持ち回りで開催しようではないか」。
 二つは「自治体学会を設立するために準備委員会を設置しようではないか」。 

 (以下、個人名を記すことを了とされたい)
 東京江戸川区の田口正巳さんは江戸川区の自主研究活動のリーダーであった。
 田口さんに、「緊急動議的に『今日のこの交流会議は有益だから、二回、三回と続けるようにするのが良い』と提案すること」を依頼した。
 三鷹市の大島振作さんに、筆者と大島さんは大学時代からの知り合いで同じ寮にいたこともあるので、「貴方は職員組合の委員長をしていたので大勢の前で話すのに馴れているから、『この政策研究交流会議を自治体職員だけの会議にしないで、ここにいらっしゃる先生方にも入っていただいて、自治体学会というようなものをつくる、その準備会議をこの場で設立しようではないか』と発言してよ」と依頼した。

 前者の「継続開催の提案」は「全国持ち回りで開催する」ことを確認して、次回は埼玉で開くことが決まった。
 後者の「学会設立の提案」は、353人の参会者全員が、宿題として持ち帰り地域と職場で「学会設立の意義と可能性」の論議を起こし、その結論を次回埼玉会議に持ち寄ることを約定した。

 このような経緯で「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生するに至ったのである。
(この交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔84年11月10日号〕」と「地方自治通信〔85年2月号〕」に詳しく掲載されている)

(5) 埼玉会議の「前夜」
 埼玉の政策研究交流会議の場で「自治体学会設立の賛同」を得るにはどのような運び方をするのがよいか、それが次の課題であった。

 そのころ、自治体学会の設立発起人をめぐって、神奈川県庁内に(知事周辺との間で)意見の齟齬が起きていた。側近の方は「知事と高名な学者」が学会設立の発起人になるべきだ、であった。だが、自治体職員や若い学者はそれに不賛成であった。筆者も自治体に「自治体学の潮流」が起きるには「新鮮な胎動を予感させるもの」が必要だと考えていた。
自治体学会は「高名な学者が呼び掛けて」設立するものではないと考えた。

そのころ、次のようなことがあった。
  (当時の雰囲気を伝えるために会話調で再現する)
 所長から「本庁の総務部長室に行くように」と言われた。「学会設立準備会」の立ち上げを協議する「第二回埼玉会議」の直前であった。総務部長室に入ると、部長が顔を近付けてきて、「森君、自治体学会だけどね─」と言った。

 「何を言いたいのか」はすぐ分かったので、「公務員が学会などと言っても簡単なことではないと思っております」と答えた。
 総務部長は目を覗き込むように顔を近付けて「そうだよな」と。
 それは、職員の人事権を握っている総務部長の顔であった。「勝手に派手なことはするなよ」「分かっているな」という眼光であった。自治体学会の旗揚げを抑える顔であった。

 部長室のドアを開いて廊下に出た時、「そんな脅しで自治体の政策自立の流れを止められてたまるか」、「あなたとは志が違うのだ」と呟いたことを想い起こす。決して「格好を付けて」述べているのではない。
 このころ小学生であった人々が自治体職員として活躍しているという時間の経過である。当時の緊張感を記しておきたいからである。

 いつの時代にも、現状維持でない変革を試みれば、必ず「しっぺ返し、嫉妬と陰口、足ひっぱり」が伴うものである。「その覚悟が必要である」と言っておきたいから記述しているのである。
 「埼玉会議に森を出張させない」と「知事側近の人」が言っている、というのも耳に入ってきた。そこで、埼玉会議の前夜、東京都内の大きなホテルのロビーで、多摩地域の研究会の人々と綿密に進行を打ち合わせた。
 協議しているどの顔にも「時代の波」を引き起こそうとする輝きが漲(みなぎ)っていた。

(6) 設立準備委員会の発足
 1985年10月17日と18日、浦和で開催した第二回政策研究交流会議は前回にも増して盛会であった。畑知事は歓迎挨拶で、にこやかに「自治体学会設立への期待」を語った。

 第一日目の日程が終わった後、別室で「自治体学会設立についての協議の場」を設けた。「代表委員に田村さんと塩見さんを選び、この場にいる75人の全員が設立準備委員になる」「設立事務局は当分の間、神奈川県自治総合研究センター研究部が担当する」ことを決めた。

 その協議の場で目黒区職員の桑原美知子さんが「自治体学会設立への期待」を「私は今日のこのために来ているのです」と「喜びが匂い立つかのように」瞳を輝かして語ったのが印象的であった。

 協議の進行役を務めた筆者が翌日の全体会議に報告した。万雷の拍手で賛同された。翌19日の朝日新聞は全国版(二面)に「自治体職員が学会設立準備会を結成」と三段見出しで報道した。記事を書いたのは第一回交流会議から取材を続けていた朝日新聞地域問題総合取材班の寺田記者であった。

 こうして、全国の自治体職員に鮮烈なイメージで「学会設立のメッセージ」が届いたのである。
(埼玉会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔85年11月9日号〕」と「地方自治通信〔86年2月号〕」に掲載されている)

(7) 「全国行脚」
 次の問題は「自治体学とは何か」である。
 「政策研究交流会議」はそれなりに理解できるが「自治体学の学会」は「よく分からない」というのが当時の多くの疑問であった。
 そこで、神奈川県自治総合研究センター研究部は「自治体学とは何か」の試論づくりに専念し「自治体学に関する研究」(B4判141ページ)をまとめた。

 85年の真夏、研究部員はこの「冊子」を携え、分担して全国各地に学会設立を呼び掛ける「全国行脚」に出かけた。それは第一回交流会議開催事務局の責務を果たすためである。「熱い期待」に迎えられた。「冷ややかな反応」もあった。
 全国行脚によって500人を超える人々が自治体学会加入の意思を表明した。

(8) 神戸・自治体学フォーラム
 関東だけの動きでは全国展開にならない。全国的な「自治体学会設立の機運」をつくり出さなくてはならない。直ちに「日本列島縦断・自治体学連続フォーラム」のイメージが浮かび上がった。

 (以下、具体叙述のために個人名を出すことを了とされたい)。
 関西で「自治体学・フォーラム」を開催しようと考えた。

 研究部主幹の森田徳さんと二人で大阪に出かけた(森田さんは現在横浜市中区海岸通りで行政書士の事務所を開業している)。
 自治体関係の方々に大阪東急ホテルに集まっていただいた。だが、顔を見合わせて「大阪府庁や大阪市がどう思うか」「自治労がどう言うだろうか」の発言ばかりであった。「フォーラムを開催しよう」との決断発言が出てこない。

 やむを得ず、翌日、神戸市役所収入役の安好匠さんに相談した。「神戸市が表面に出ると兵庫県が後ろに下がるので」背後から応援するとの確約を得た。

 そこで、第一回政策研究交流会議の報告者であった「21世紀ひょうご創造協会」の福田丞志さんに相談して、同行していただき兵庫県企画部に「自治体学フォーラム開催」の協力を依頼した。

 こうして、1986年2月12日、「神戸自治体学フォーラム」が開催できた。会場は兵庫県農業会館。主催は「関西活性化研究会・21世紀ひょうご創造協会・神戸都市問題研究所・滋賀市民と自治研究センター、そして自治体学会設立準備委員会」であった。
 北海道から沖縄までの253人が参集した。会場発言は熱気に満ち確かな手応えがあった。

 この「神戸フォーラム」の詳細は「地方自治職員研修」86年2月号に特集されている。その会場内で全国準備委員会を開催した。

会場内で開いた準備委員会の論点
名称・「自治体学会」よりも「まちづくり学会」または「自治体政策学会」ではどうか。
会費・年三〇〇〇円では財政独立がむずかしい。考え直すべきだ。
組織・既存の組織や団体を統合するのではなくて、グループや団体の活動をつなぐ組織を目指そう。
事業・事務局が事業を請け負うのではなくて、会員の地域活動が基本である。
活動・準備委員が核になって各地で「自治体学フォーラム」を開催しよう。

(9) 東京自治体学フォーラム
 1986年4月19日、東京・府中市自治会館ホールで「東京自治体学フォーラム」が開催された。参加者は315人、市民と学者の参加が際立って多かった。
 このフォーラムで「自治体学会のイメージ」が見えてきた。すなわち、市民・学者・自治体職員の三者が一体となって地域課題を解明する「実践と理論の自治体学」のイメージが論議の中に現出していた。

 戦後、自治体革新のメッカであり続けた多摩だからである(この概要は新三多摩新聞、4月26日号に報じられている)。
 86年5月10日、仙台で「東北自治体学フォーラム」が、気仙沼で「まちづくり自治体学会フォーラム」が開かれた。沖縄でも、九州でも、中国でも、四国でも、北海道にも自治体学フォーラムが開催された。

 日本列島に「自治体学会の設立」が「自治のうねり」を起こし始めたのである。

(10)「自治労」と「全国自治体問題研究所」
 「自治労」の「自治研究全国集会」には歴史がある。自治体学会の主要会員は自治体職員であるから、自治労から自治体学会設立に異論が出ると現場で混乱が生じる。

 神奈川県自治総合研究センター研究部は学会設立事務局であるから、研究部長は事務局長のようなものである。自治労本部に出掛けた。
 小倉政策局長にお会いして「自治体学会が目指す方向」を話した。「分かりました。設立発起人として丸山委員長が参加します」になった。
 「全国自治体問題研究所」も歴史と実績のある組織である。
 1985年9月27日の午後、代表をなさっていた宮本憲一先生に鎌倉でお会いして設立発起人になっていただいた。

(11) 代表運営委員
 設立発起人代表を三人の複数制にすることは合意されていたのだが、三人の名前が決まるまでは難儀な経過であった。
 1985年10月11日の夕刻、横浜駅ビル内の東急ホテル会議室で「埼玉会議に向けての打ち合わせ」の会合を開いた。その会合で「埼玉で学会設立の協議のとき、自治体職員の経験もあり横浜市の都市デザインで全国的に著名な田村明さんを代表委員として提案してはどうか」と発言した。

 ところが、所長は知事側近の意向を汲んでか沈黙したままである。賛成と言わない。その場にいた田村さんも鳴海正泰さんも沈黙であった。重苦しい空気のままにその会合をオワリにした。
 それまで進めてきた「段取り」は崩れそうであった。その収拾劇のことはここに述べないが曲折の難儀であった。

 代表委員が決まるまでには松下圭一さんにずいぶん何度もお世話になった。
 自治体学会は自治体職員・市民・研究者の連携である。多摩の研究会の方々の努力もあって、自治体職員の代表として田村明さん、市民代表として関西地域から日経新聞の塩見譲さん、学者・研究者代表として西尾勝さんがご承諾なさって決まった。

 塩見さんに承諾をいただいたのは、松下さんも助言者として参加した「首都圏自主研究グループ」の熱海合宿の翌日であった。「地方自治通信」の大矢野修さんと塩見さんとの三人でMOA熱海美術館の庭園で夕陽を眺めながらの語らいであった。

(12) 自治体学会の誕生
 1986年5月23日、二年がかりで準備を進めてきた「自治体学会」が誕生した。
 近代日本の夜明けを象徴する横浜開港記念会館で「発起人会議」と「設立総会」を開いた。発起人会議には135人、設立総会には620人が出席した。

 出席者の顔触れは、自治体職員、市民、学者、シンクタンク職員、コンサルタント、ジャーナリスト、団体役員、自治体首長など、およそ学会の設立総会とは思えないほどに多彩な顔触れであった。いずれの顔も二年がかりで進めてきた自治体学会の設立を喜びあう和やかさに満ちていた。

 会場のあちこちで初対面の人を相互に紹介し合い、テレビのライトに照らされた会場正面には「自治の歴史に新しい1ページを」と書かれた看板が掲げられていた。
 前例のない新しい学会の設立総会にふさわしく、会場は活気に満ち華やかで緊張した空気に包まれていた。満席の参会者はこの開港メモリアルホールでこれまでにも数々の歴史的な集会が開かれたことを思い起こしていたであろう。

 議長に佐藤驍氏(北海道庁)を選出し、前日の発起人会議からの提出議案が万雷の拍手で賛同されて「自治体学会」が誕生した。
 総会に報告された会員は1243人(発起人782人、既入会申込者461人)を数え、規約に基づき選出された運営委員は46人(自治体職員29人、学者・研究者・市民17人)。代表運営委員に田村明、塩見譲、西尾勝の三氏を選出した。多数の人が発起人になって自治体学会を設立したのである。

 しかしながら、「自治体学会を設立する意味は何か」「具体的に何をするのか」、自治体学会の「役割は何か」「課題は何か」と問うならば、その答えは「各人各様で一義的に定まったものはない」というのが設立当時の実情であった。
 自治体学会は多数の方々の「思念と行動」によって設立されたのである。
以上の「設立経緯」は、当時、神奈川県自治総合研究センター・研究部長であった筆者が関与したかぎりでの経緯である。

(13) 氷川丸船上の設立記念パーティ
 開港記念会館での「設立総会」は大成功であった。夕刻、横浜港の氷川丸船上でお祝いの「ビールパーティ」を開いた。折しも、金色の満月が東天に昇り、西空には夕陽が朱色に輝いていた。

 何とも言えない美しさであった。
 多くの方々が力を合わせたから自治体学会が設立できたのである。全国各地で自主的研究活動が広がっていたからでもある。そしてまた「自治体は市民自治の機構である」との「自治体理論」が浸透していたからである。

 朝日新聞86年6月5日の「天声人語」は、自治体職員が中心になって「市民的視野に立ち、地域に根ざした研究・交流を目指す学会」を設立したと評して紹介した。

設立して35年が経過した自治体学会の現状
[第35回自治体学会研究大会]は、
2021年8月21日(土)、22日(日)、10月9日(土)の三日間、10分科会でZoomを使用してのWEB大会として開催される。

筆者が自治体学会設立への覚悟を定めたのは、1984年の真夏の夕刻、渋谷駅の近くで松下圭一さん鳴海正泰さんと三人で「自治体学会の可能性」を語り合った時であった。

 渋谷でのこの語らいが実質的な「自治体学会のスタート」であったと思っている。
その後もお二人には折に触れ相談し助言をいただいた。

 また、「壁」にひるまなかったのは、法律専門雑誌「ジュリスト」に書いた論文が、82年に県議会本会議で自民党議員に批判されて、83年に「本庁課長見習職の総括企画主幹」から「自治総合研究センター研究部長」へ異動になったことが「内なるバネ」になったのだと思っている。

1993年2月25日、北海道大学学長から長洲神奈川県知事宛てに「筆者割愛の依頼文書」が届き、4月1日、北海道大学法学部教授に赴任した。
 [自治体学理論の系譜] [Ⅱ] 神奈川県庁時代(1960-1993)―(その2)
(カテゴリー: 自治体学理論
 [自治体学理論の系譜]

[Ⅱ] 神奈川県庁時代(1960-1993)―(その2)

5 自治体の政策潮流
 文化行政を自治体の政策潮流にするため三つの仕組みを作った。
[全国文化行政会議]
[全国文化行政シンポジウム]
[文化のみえるまちづくりフォーラム]

[全国文化行政会議]
・文化行政担当職員の交流会議が必要だと考えた。1977年9月、宮城、埼玉、愛知、京都、大阪、兵庫、神奈川、横浜の7県1市の19名が箱根湯本に集まった。この情報交流会議がのちに全国文化行政会議に発展した。

・第三回会議は1979年3月19日と20日の二日間、鹿児島県指宿に全国の半数近い20の道府県が集まって開催された。この種の会議にありがちな「形式的な情報交換・はやめの懇親会」ではなく「熱っぽい討論」を繰り広げた。筆者は文化行政を政策潮流にするため「全国シンポジュウムの開催」を提案した。「11月に横浜で開催」が全員一致の賛同を得た。 

・第六回宮城会議で「文化行政の手引き」の作成を提案した。『地方の時代を拓く文化行政の手引き』は数万冊印刷され、全国の自治体職員に読まれた。32頁のこの印刷物が「自治体の政策自立」の潮流に弾みをもたらした。

[全国文化行政シンポジュウム]
・1979年11月8日と9日の二日間、横浜国際会議場で「自治と文化―地方の時代をめざして」を主題に、第一回全国シンポジュウムを開催した。主催は全国文化行政会議、総合研究開発機構、神奈川県の三者で、参加者は43都道府県167人、32市町村103人、研究者26人、市民32人、出版関係者18人、報道関係42人の総計388人であった。

・全国シンポジュウムの目的(ネライ)は、「文化行政は自治体の政策潮流である」を内外に印象付け「自治体の政策自立」を目指すことにあった。

・第二回シンポは、1980年11月17日と18日の二日間、兵庫県三木グリーンピアで「生活と文化」をテーマに開催された。32道府県、37市町村、11の研究団体と市民が参加した。第三回シンポを秋田県で、第七回文化行政会議を沖縄で1981年に開催することを決めた。かくして、自治体独自の文化行政が中央省庁と関わりなく展開されることになった。

[文化のみえるまちづくりフォーラム]
・「文化行政」の呼称では「行政が文化を仕切る」と誤解されるので、「文化行政」を「文化の見えるまちづくり」と言い換えることにした。

・文化の見えるまちとは「住んでいることが誇りに思えるまち」のことである。文化は計量化できない価値であり目に見えるものでもない。見えない価値を保存し創出する営為が「文化の見えるまちづくり」である。

自治体の存立意味は「文化の見えるまち」をつくることにある。自治体とは行政機構のことではない。自治体の主体は市民である。市民が政府(首長と議会)を選出して政府を制御し政府を交代させるのである。

 そこで「市民と文化団体と行政職員が話し合うフォーラム」を開催することにした。
第1回「参加から協働へ」       991-2/ 1~2    徳島市 
第2回「地域の人・こころ・ロマン」  1992-2/ 5~6 宇都宮市 
第3回「文化を発信するまちづくり」  1993-11/11~12 沖縄市
第4回「もう一つの文化発見」     1994-11/17~18 宮城県(仙台)
第5回「自然と文化の共生」     1995-7/20~21  高知県中村市
第6回「文化のネットワーク」    1996-10/17~18 北海道(札幌)
第7回「歴史と未来が出会うまち」  1997-10/16~17 静岡県(伊豆長岡)
第8回「水俣で21世紀を発想する」   1998-11/11~13 熊本県(水俣)
第9回「自治文化政策ルネッサンス」 2002-11/21~22 吹田市
第10回「土と炎のまち・文化メッセージ」2003-11/20~21 多治見市  
第11回「街に文化の風を」   2009-8-27~28 大阪・池田市

6 [文部省社会教育審議会―講師]
・1987年10月、教育委員会事務局から「自治体の文化行政の話を社会教育審議会でして貰いたい」と文部省から依頼がきたので「文部省に行ってもらえないか」と電話がきた。

文部省は 家永三郎教授の教科書裁判のように、教科書を検定(検閲)して「日本がアジアで何をしたか」を生徒に教えない。学校の授業が明治維新のところで終わるように「学習指導要領で」させている。だから、日本の人々は「自分の国の歴史」を哀れなほど知らない。
「文部省にはいきたくない」と断った。 
・ところが、幾度も教育庁総務課から「文部省に行って貰いたい」と頼まれた。県教委は文部省から言われると嫌と言えないのである。気がすすまないが文部省に出かけた。文部省の玄関を入るとき、ここが「不正反動教育行政の元締め」なんだ、と思った。

・社会教育審議会の審議委員の方々と文部省社会教育局の職員が座していた。
依頼されたのは「自治体の文化行政」である。(当日のレジュメは下記)

 ・工業的都市開発で「地域の魅力」が失われた、文化行政はその「取り戻し」です。
・国の省庁が自治体を画一的に通達で指図するのはとてもよくない。
 ・自治体の文化行政は自治体それぞれが工夫して展開するものです。 
 ・文部省の社会教育行政は「行政が市民を指導教育するやり方」だと思う。
 ・多様に広がった市民文化活動はもはや社会教育行政の対象ではない。
とズバリ話した。

数日後、愉快な(オモシロイ)話を聴いた。その話は(少し自慢めくので)ここでは省略する。(機会あれば話してもよいと思っている) 

 自治体の文化行政 [講演レジュメ]  (1987.10.23) 

〔1〕文化行政の現状况
    事業内容を列挙

〔2〕自治体文化行政の系譜
   ・NIRA(CDIレポート)
   ・文化ディスチャージ論
   ・大阪文化振興研究会(2冊の本)
   ・全国文化行政会議、
・全国文化行政シンポジュウム、
                                          
〔3〕文化行政とは何か
   ・行政の文化化-(行政が為すべきこと、
(行政がしてはならないこと)
   ・市民文化活動-「文化活動」の広がり
   ・文化的なまちづくり              
〔4〕問題点
   ・公立文化ホールをめぐる問題
   ・いまこそ「文化」-心のゆとり、うるおい
   ・文化行政-国政レベルと自治体レベル
   ・国政が為すべきこと。


 
7 神奈川県情報公開条例  

(1) ことの始まり
 長洲一二知事は1975年の就任直後から「県政への県民参加」を唱え、職員にも政策提案を幾度となく呼びかけた。これに応えて県民部は「県政参加の方策を考えるプロジェクトチーム」を設けた。増田次長をキャップに県民部の室課からメンバーが選ばれ筆者も文化室からチーム員として加わった。

 七ヶ月の論議を経て三つの制度が報告書に書き込まれた。
  ・県政情報の公開と提供の条例
  ・県政参加の県民会議の設置
  ・県行政への苦情手続の制度 

 県民部長は具体的な制度提案の報告書に困惑した。議会の批判を恐れたのであろう、報告書は「内部文書」になり「部外秘扱い」になった。

(2) 事態の転回
 このころの長洲知事は県政革新に「やる気」があった。
 知事室の隣に「調査室」をつくり、「調査担当参事」の職名で外部から久保孝雄さんを知事特命として入れていた。その調査室に「県民部でプロジェクト報告書が部外秘になった」と伝わった。

 知事が部長会議の席上で県民部長に「県民部ではプロジェクトチームの報告書が纏まったようですね」と言った。「ハイそうです」と答えざるを得ない。

 「今日の午後、時間を空けますから、チームリーダーに説明に来るように伝えてください」と言った。(以下は増田次長から聞いた話) 増田さんは一人で知事室に行くことを懸念した。部内扱いになった報告書である。県民部担当の湯沢副知事に相談した。県民部長も一緒に行くことになった。

 知事室で説明すると、「増田君、提案は三つだが、最初にやるのはどれですか」と訊かれたので、「県民に県政参加を呼びかけるのなら県政情報の公開をしなくてはなりません。情報公開条例が一番目だと思います」と答えた。「そうだね、良い報告書です。ご苦労様でした」と言ってくれた、と増田さんから聞いた。

(3) 定例記者会見で発表
 長洲知事は翌日の定例記者会見で「県政情報の公開条例を制定します」と発表した。新聞は「神奈川県が情報公開条例の制定に着手」と一面トップの七段見出しで一斉に報道した。矢は弦を放れた。もはや引き返すことは出来ない。 

 県庁内の幹部は新聞を見て驚いた。霞ヶ関の省庁官僚も驚いた。事件であった。
 東京の隣の神奈川県が「公文書を公開する条例」を制定するというのである。驚愕が霞ヶ関を駆け巡ったであろう。

 後藤田内閣官房長官が「機関委任事務は国がお願いした仕事ありますから、自治体の判断で文書公開するのは如何なものか」とテレビで語っていた。神奈川県の地理的有利性で、著名な学識者による条例案策定委員会が設けられた。
 
(4) 匿名座談会
 全国の革新首長は、「お上の行政」から「市民の行政」への転換を目ざしていたので、神奈川県の情報公開条例の策定を、固唾を呑んで見守った。 

 革新市長会は「地方自治通信」という月刊の政策情報誌を刊行して市販していた。
編集長の大矢野修さんが「神奈川県の情報公開条例案を考える」という匿名座談会を企画した。そこに筆者も参加した。
 県職員でありながら参加したのは、検討中の条例案を「欠陥条例」だと思っていたからである。

 欠陥の第一は、原則公開を掲げながら、「公開しなくてもよい公文書」を抽象文言で列挙し、その文言解釈を行政職員(所属長)が行うことにして、非開示に不服があれば、開示請求者が「審査委員会に申立てる」という制度手続にしたことである。
 これでは、行政の判断で「見せたくない文書」を「非公開にして時間稼ぎ」ができることになる。

欠陥の第二は、市民の開示請求権を「意図的に妨害する行政職員」を罰する規定を定めていない。すなわち「請求された表題の文書は見当たりません」などと言って、公開に伴う上司の困惑を「庇う職員」の出現を抑止しない条例である。
 すなわち、「故意または重大な過失」で、県民の開示請求を「妨げた行政職員の行為」を罰する規定を欠いていた。神奈川県の公開条例は全国自治体の先例になる。欠陥条例であってはならないと思い匿名座談会に出席した。
 
 神奈川県庁内で条例案の検討中に、匿名座談会「神奈川県の情報公開条例を考える」を掲載した月刊誌「地方自治通信」が書店に並んだ。県民部幹部は県の職員が参加しているのではと神経を苛立たせた。
 
(5) 神奈川新聞のスクープ報道
 条例案の検討が最終段階に入ったころ、神奈川新聞に「条例案の全文」が掲載された。すっぱ抜き報道である。(その経緯をここに記しておく)

 ある日、顔見知りの神奈川新聞のM記者が文化室にやって来て「検討中の条例案の内容が皆目分からない」「これでは県民は蚊帳の外だ」と呟いた。筆者は「検討案はこれだよなぁー」と呟いて机上に置いてあった資料を眺めた。M記者は「いいですか」と目顔で訊く。「いいよ」と言ったわけではないが、「ちょっとトイレに行って来る」と呟いて席を立った。 

 後日に聞いたことであるが、神奈川新聞の編集責任者が掲載前日に県民部幹部と対面して、「これを報道するが、事実と異なる部分はあるか」と質した(裏をとった)とのことであった。検討案全文が神奈川新聞に報道されて県民部幹部はまたもや神経を苛立たせた。

8 ジュリスト論文顛末記

(1) 有斐閣から原稿執筆依頼
1980年10月、有斐閣編集部から「ジュリスト総合特集」への原稿執筆の依頼がきた。「月刊・ジュリスト」は「法律専門誌」である。法学部出身の筆者には悪い気はしない。依頼されたテーマは「首長・議会・職員の相互関係」であった。 
 年末年始の休みを使って執筆した。

 御用始めの1月4日の夕刻、新橋駅前の郵便ポストに投函した。そのときの「ポトリ」の音を妙に憶えている。一心に集中して執筆したからであろう。 

(2) 議会本会議で批判
 ジュリスト総合特集(22号)が刊行されて3カ月が経過した1981年4月2日、議会本会議で自民党議員が「県職員が議会を批判している」と知事に批判の質疑をした。

 本会議で職員を名指しで批判するのは異例のことである。長洲知事は「遺憾である」と答弁した。  
 その直後、ドヤドヤと数人の記者がやって来た。筆者の座席を取り囲んで「知事は陳謝した、執筆した君はどう思うか」と意見を求められた。「何も申しあげることはありません」と答えた。記者は「なんだ、それじゃ記事にならん」と引き上げて行った。

(3) 翌日の新聞
新聞各紙は大きな見出しで一斉に報道した。

朝日  県幹部職員・雑誌に県政批判論文
─「無責任」と議会がヤリ玉 ─

読売  職員の論文で物議 「大人げ」ないの声も出て
ー役職者は「ことなかれ」「50歳以上無気力」

サンケイ 県幹部の「県議批判論文騒動」正論?
議員はカンカン─長洲知事あっさり『遺憾でした』

毎日 議員を痛烈に批判─中堅県職員の論文に論議─

東京  県幹部が 県と県議会を「無気力、無能」と批判
      ─議会の追及に知事陳謝─  
 
神奈川 「知事の〝陳謝〟「庁内に不満も」
- 県職員論文問題で─
     
 県民から「議会」と「知事」に抗議電話が相継ぎ、筆者には「新年茶会の初釜に招待したい」などの激励電話が届いた。

 ・神奈川新聞の渡辺デスクが「横浜市の飛鳥田市長はこのようなときには職員を庇うが、長洲知事は遺憾ですと陳謝した」と論評を書いた。

 ・朝日新聞は全国版「論壇」に、弁護士の投稿「公務員の表現の自由確保を─議員活動に名を借りた介入を防げ」を掲載した。
 ・朝日新聞(神奈川地方版)は「人・ひと」欄に「筆者のインタビュー記事」を写真入りで掲載した。
 ・小林直樹(東大教授)は 「自治体職員の言論の自由」のタイトルで、「地方の時代」という標語の発案者として先駆的な自治行政を推進している長洲知事さえも「陳謝」と 弁明」に終始したらしい。県民からすれば、知事の陳謝こそが、「誠に遺憾」と言うべき事態であろうと評した。(ジュリスト・1981-12-1号)

 それらの後日、長洲知事が「森君には今後も頑張って貰いたいと思っている」と部長会議で異例の発言をした、と幹部の方から教えられた。 

 だが、壁新聞を庁舎の洗面所に貼り、自由民権大会に会場を提供し、情報公開条例案の検討中に座談会に出た(に違いない)など、庁内の作法に反し上司に従順でない職員への高瀬県民部長の怒りは「知事の発言」では治まらなかった。
 
(4) 県民部長室に森文庫
 暫くして、県民部長室の書棚に、筆者がこれまでに執筆した「本」と「掲載雑誌」が収集されていた。それは、「総務室職員が総がかりで、地方公務員違反の文章表現を探した」ものであった、と部長応接の女子職員がこっそり教えてくれた。(かく記述しても、40年が経過しているので迷惑にはならないであろう)

 知事が庇おうとも、筆者の首を「地方公務員法違反」として、議会多数会派に差し出すためであった。(そのとき撮影した県民部長室書棚の「森文庫」の写真は今も手元にある)

 それからの二年間、県民部総括企画主幹の座席に座すだけの毎日であった。何もすることがないので、『文化行政とまちづくり』を(田村明さんと共編著で)時事通信社から刊行した(1983年3月1日刊行)。

1983年5月、自治総合研究センター研究部長に異動となった。
 新たな職場は座席から横浜港と氷川丸が眺望できた。まことに快適な気分であった。(つづく)
自治体学理論の系譜 (その2) (1)
(カテゴリー: 自治体学理論
 [自治体学理論の系譜]

[Ⅱ] 神奈川県庁時代(1960-1993)―(その1)

1 [神奈川県庁職員]
・神奈川県上級職員募集の新聞記事を見て受験した。ひとまず、安定収入を得て司法試験を目指そうと考えた。四年間のアルバイト生活に疲れていたからであろう。ゼミの友は(背水の陣で)小学校の夜間警備員になり二年後に弁護士になった。

・最初の職場は労働部の横浜労政事務所であった。職場の先輩に頼まれ県職労組の大会に出席した。「全県の組織なのだから車を購入すべきではないのか」と質問した。執行部は顔を見合わせ(そんなこと言っても組合費140円の組合なんだ)であった。

 数日して、労組委員長に「執行委員にならないか」と誘われた。そのときふと「やってみようか」と思った。その瞬間が司法試験への道筋から逸れる場面であった。背水の陣でなかったからである。

[職員労組書記長]
・三年目に書記長になった。自治労大会は『ベトナム反戦10・21全国統一行動』として「半日スト」を決議した。書記長として全力で取り組んだ。県庁の組合が「ストライキをやる」というので、民間労組の方々は(内心ではホントにやるのかと驚きながら)、本庁舎と分庁舎入り口の入庁阻止ピケに協力してくれることになった。

スト当日、運動靴姿で本庁舎と分庁舎入り口のピケ態勢を視て廻った。午前8時57分、分庁舎入り口で機動隊指揮者がピーッと笛を吹いた。「かかれ」である。筆者はそこにあったマンホールに飛び上がって「スト中止」と叫んだ。ピケが解かれ県職員が入庁しはじめた。本庁舎前に駆け戻り「ストを中止します」と叫んだ。
一連の対応は芝居めくがホントのことである。

・県の内規では、入庁阻止が30分を超えるとスト参加者は懲戒処分になる。翌日の新聞は「8時57分のスト中止は労組も考えたものだ」と書いた。だが、8時57分で中止すると考えていたワケではない。機動隊のピーの「かかれ」で「ピケと機動隊の衝突混乱」を避けたのである。ピーの笛が9時を過ぎていれば、ストは9時過まで続いたのである。

[公民権停止3年]
・自治労は二名の参議院議員候補者を組織内候補として大会決定した。神奈川県職労は北海道自治労の山崎昇氏を当選させるべく活動した。いつものように早朝、出勤してくる職員に組合ビラを手渡した。

・人事課長から「来てくれないか」の電話がきた。県警本部の選挙違反取締担当が「違反ビラを手渡されては県職書記局を強制捜査(ガサ入れ)せざるを得ない」(県庁舎に警察本部も入っていたから「組合ビラ」を手渡すことになる)「責任者が名乗り出ればガサ入れはしない」と言っている。「どうするかね」と人事課長が言う。即座に「私が出頭します」と返答した。「県職労組書記局に警察の強制捜査」の新聞記事が出れば、組合員が動揺し組合脱退の口実に為りかねない。

・加賀町警察署に出頭した。「私の一存でビラを作り印刷して配布した。他の執行委員は何の関与もしていない」と述べた。「そんなことはないであろう」などの追及はなく「取調調書」がつくられた。だが公民権停止三年の処分になった。そして山崎昇氏は参議院議員に当選した。
 
2 [職場に復帰]
・専従役員を止めて五年ぶりに職場に復帰した。専従役員とは「身分は公務員のままで(職務専念義務免除の扱いで)組合活動に専従する」である。後年、保守政党がこの労使慣行を「ヤミ専従である」と攻撃した。
・職場に復帰して、司法試験の勉強を再開した。中央大学の答案練習会にも参加し精力的に勉強した。ところが、試験当日の朝、39度の熱が出た。フラついて立ち上がれない。まことに「何たることか」であった。かくて弁護士への望みを断念した。

[神奈川労働大学の講師総取替]
・人事異動で本庁労政課労働教育係長に赴任した。そこに18年続いている神奈川労働大学があった。受講者のアンケートには講師への不満・批判が年々増大していた。

講師の総取替を考えた。だが労政課長は「総取替で問題が起きないか」「長年の講師から反発は出ないか」を考えるであろう。管理職は「自分にとって困る問題が起きないかを常に第一に考える」。「総取替はストップ」が出るかもしれない。そこで、(課長不在のとき)、労働部長に「労働大学は古くなって受講者の不満が増大しています」「刷新したいのです」と言った。部長は「受講者から不満が出ているのか、刷新は良いことだ」と言う。そこで部長に「労働大学の刷新をやれと森君に言ったよ」と課長に話しておいて下さいと頼んだ。

・憲法科目を新たに設けた。憲法は小林直樹(東大)、労働法は青木宗也(法政大)、社会福祉は一番ケ瀬康子(日本女子大)など、第一級の講師に総取替した。刷新した内容を、多くの人に知らせなくてはならない。記者クラブへの資料配布だけでなく、新聞各社を訪問して[科目と講師名]をすべて掲載して下さいと依頼した。

[右翼二人が現れた]
・新聞各紙に刷新した労働大学の科目・講師名が掲載されて数日後、「菊水行動隊」「不敬言論審査会」を名乗る二人の男が労働部にやって来た。部長も課長も応対に出ない。係長の筆者が一人で応対した。二人の男は小柄であった。悶着し掴み合いになっても「恐るるに足らず」と思った。だが、いつの間にか背後に座していた目つきの鋭い大きな男が気がかりであった。

・「左翼の講師ばかりではないか」と言うので、「この方々は現在日本の第一級の講師です…」と説明を始めると、とたんに大声で「お前はアカか」と恫喝してきた。すかさず「ドン」とテーブルを叩いて「アカとはなんだ。公務員にアカと言うのは最大の侮辱である」と、大声で怒鳴り返した。(アカなる言辞は権力側の不正な抑圧コトバである) だがここでは、こう反論するのが得策だと考えた。暫く論議が交錯して右翼の二人は帰った。
(後方に座していた人は県警公安二課(右翼担当)の警官であった)。
(後日に分かったことだが、課長が右翼に来年から (憲法科目を止め・講師も変更する) と約束したらしい)

[神奈川県労政学博士]
・大内さんという労政事務所長がいた。少しお酒が入ると、熱情を込めて労政行政を談論する。嫌がり陰口を言う人もいるが、まことに愛すべき情熱ある所長であった。横浜市立大学の三浦惠司教授と「大内さんの退職時に労政学博士号贈呈式を挙行する」ことを企んだ。

贈呈式会場は箱根大平台の地方共済の温泉宿にした。『神奈川県労政学博士審査委員会印』なる大きな角印を作り、県庁内の賞状を墨書する方に書いて貰って角印を押印した。立派な博士号の証書ができた。労政所長全員に案内状を送付した。
労働部長にも出席を依頼した。部長が出席するのなら出ないわけにはと、架空の労政学博士贈呈式に全所長が出席することになつた。
当日の朝、大磯の大内さん宅に確認の電話をした。「本当に出て行って良いのか」の喜びの声であった。三浦教授のユーモアあるスピーチで贈呈式は楽しく盛り上がった。『神奈川県労政学博士審査委員会印』の大きな角印は58年後の今も横浜市緑区鴨居の自宅の机引出しに入っている。

[これからの労政行政]
・「労政行政とは何か、労使関係に行政が関わってよいのか」を考えた。『これからの労政行政』と題して小論を書いた。コピー印刷をして「問題提起」の心算で職場の数人に配った。

 労働部長がこれを読み、労政課長に「職員にこれを討論させてはどうか」と言った。上司に従順な課長がめずらしく反対した。労政行政を批判する風潮が広まることを危惧したのであろう。何よりも自分の職務への批判になることを怖れたのである。 

・そのころの労働組合は「春闘」という統一行動で「賃上げ」を、ときには「反戦平和」の運動を展開して活気があった。そのころの労組役員には「自分が不利になることをも厭わぬ献身」と「未来を切り拓く気概」があった。2000年代の「連合」とは大きく異なっていた。

・労働部の仕事の殆ど総ては、労働省が策定して指図する事務事業であった。労働行政だけではない。中央の各省庁は「機関委任事務」の名目で府県を下請執行機関にしていた。府県は国の地方代官であった。憲法の「地方自治」は名のみであった。
(筆者の問題意識はこのころから「自治体の政策自立」に向かっていた) 

3 [自治大学校]
・課長から「自治大学校の研修に参加しないか」と勧められて応諾した。
自治大学校とは、自治体の中堅職員を対象に研修を行う自治省の組織である。府県職員は6カ月、市町村職員は3カ月の全寮制研修である。恵比寿駅から南部坂を上った有栖川公園正面に所在していた。

・60年代70年代の日本社会は保守と革新のイデオロギー対立の時代であった。
講師は大学教授もいたが、主として自治省官僚であった。自治省の考え方を都道府県・市町村に伝達(注入)する研修である。しかしながら、佐藤功(成蹊大教授)の憲法講義は明快で小気味よくすこぶる人気があった。

・研修内容はともかく、6ケ月の寮生活最大の成果は、同じ年代の「親しき知り合い」が全国に出来たことである。隣室の石川県の木村さんが街から女性の民謡師匠を見つけてきて民謡クラブをつくり、生まれて初めて民謡を習った。青森の八戸小唄、新潟の十日町小唄、宮城のさんさしぐれ、岡山の下津井節、鳥取の貝殻節、宮崎のシャンシャン馬道中唄などを合唱した。まことに楽しきことであった。

[自治資料研究センター研究員]  
・自治大の6ケ月研修が終わるころ、加藤道子氏(自治省内で有名な?女性官僚)から、自治大学校に「財団法人・地方自治資料研究センター」が付置されるので、研究員として1年協力してもらいたいと言われた。
「知事が長洲一二氏に交代したので神奈川に帰りたい」と辞退した。だが加藤氏は「神奈川県の上層部に話して了解を得ている」と言う。自治省内での加藤氏の「有名」とはこの強引さであろう。
だがここで、加藤富子氏の強引さ(意志を通す)を評価して紹介する。夫君は「学術研究誌・自治研究」に屡々論文を発表する自治省官僚の鹿児島重治氏である。結婚はしたが姓を改めず「加藤富子」を自治省内で押し通し認めさせた。

[自治体学理論の萌芽]
・自治資料研究センターの1年に、さしたる収穫は無かったが、唯一の収穫は、「内務官僚の座談会記録を読んだ」ことである。戦後間もないころの座談会である。『知事公選をGHQに押し付けられたときほど、戦争に負けた悲哀を感じたことはなかった』と語り合う内務官僚の座談会記録である。

日本中が焼け野原になり、食べるものも無く、住む家も無い悲哀、「星の流れに身を占って…」の歌謡の悲哀にも、いささかの思いを馳せることの無い、度し難い内務官僚の特権習性を視た。『自治体の政策自立を実現しなくては』と、強く思った。
「自治体学理論」への萌芽である。1977年3月、神奈川県に復帰した。

4 [文化行政]
・文化行政は、大阪府黒田了一知事が1972年8月、宮本又次、梅棹忠夫、司馬遼太郎など10人のメンバーによる「大阪文化振興研究会」を設置し、三か年の研究成果が二冊の本となって刊行され、大阪府企画部に文化振興室を新設した。これが自治体文化行政の始まりである。

・長洲知事の発案で県民部に文化室が新設され筆者は企画担当に配置された。
企画担当の仕事は三つだと考えた。 
① 文化とは何か
② 文化行政とは何をすることか
③ 文化を行政が政策課題にできるのか
皆目見当がつかない。独りで考えたのでは思案がまとまらない。

「三つの考える場」を作った。  
 一つは、仲間を集めて時間外の自主研究会
 二つは、県庁内のメンバーによる「文化行政・研究プロジェクトチーム」
 三つは、文化問題に見識のある方に委嘱する「文化行政懇話会」の設置

・ 自主研究会、庁内プロジェクトチーム、文化行政懇話会の三つの報告書・提言書が、神奈川県の文化行政のスタートであった。自主研究会の報告書は月刊「職員研修」79年4月号で全国に紹介された。文化行政の草創期のころである。


(1) 文化行政壁新聞「かもめ」
 知事の発想で「文化室」は新設されたが、議会の多数会派は長洲知事に得点をさせたくない。そのため、幹部職員は人事権を持つ知事に従うけれども面従腹背であった。

庁内に「文化行政の市民権」を確立しなければならない。
「文化行政壁新聞」を刊行しようと考えた。パンフレットの類は直ぐに紙屑になってしまう。「一か月貼り晒し」の壁新聞が良いと思った。ところが、文化室長も県民部長も壁新聞の予算要求に(内心では)不賛成であった。
 
予算要求 
 消極的な室長と部長が予算を財政課に要求することが(ようやっと)決まった。
ところが、年休で一日休んで出勤すると何やら雰囲気がおかしい。若い職員に問い質すと、昨日部長室で『壁新聞はDランクで要求する』と県民部として決めた」とのことであった。「Dランク要求」とは「削って結構です」の予算要求である。

 原総務部長は副知事になりたいと思っている。副知事は知事の胸三寸である。文化行政は知事の目玉政策である。総務部長は知事に忠誠を示さなくてはならない。

総務部長に会いに行った。「森君、壁新聞を毎月出せるのかね」と訊く。「壁新聞だけでなく七項目の文化行政予算を全て知事査定に上げて下さい」と頼んだ。「七項目全てを知事査定に上げて大丈夫かね」(知事には何も言ってはいないが)「大丈夫です、知事には話してありますから」と言った。
 総務部長査定が終わった直後の県民部総務室で「おかしいなぁ、Dランクがみんな通った」と職員が話しているのを耳にした。
 
 次は知事査定である。1978年1月7日、いつもより早く出勤して秘書室職員に「知事に話があるので査定前に会わせてほしい」と頼んだ。秘書は「文化室の森は知事と特別な関係がある」と錯覚したのか、「知事さんがお出でになりお茶を差し上げ日程を説明した後に一番でお会い頂きます」となった。

 部屋に入っていくと知事は独りであった。「文化行政予算を全て認めて下さい」「森君、これ全部やれるのかね」「やります」「分かった」になった。
 かくして、文化室の文化行政予算は全て実行可能の予算になった。
  1 文化行政壁新聞の発行
  2 文化行政推進本部の設置
  3 文化のための1%システムの開発
  4 地方の時代映像祭の開催
  5 行政のデザインポリシーの策定
  6 文化の第三セクターの設立
  7 全国文化行政学会の設立

文化行政壁新聞 (ポパール) 
 話は少し遡るが、財政課に予算要求をする段階で、壁新聞に名前をつけることになった。いろいろと考えたが「良い愛称」が浮かばない。当時売れていた雑誌に「ポパイ」「ポスト」があった。「パピリオン」という商品もあった。発音はパ行である。「ポパール」という音が浮かんだ。語感が良い。何度か唱えていると「これで良い」と思った。苦し紛れの命名で特別な意味はない。

 財政課長査定で「ポパールの意味」が訊かれた。筆者はその日は出張で県庁にいなかった。誰も答えられない。出張先に電話がかかってきた。音(オン)で「ポパール」としたのだから意味はない。だが「意味はない」とも言えないので、咄嗟に「ラテン語」で「人々の芸術」という意味です。英語なら「ピープル・アート」ですと返答した。

 翌日、出勤すると「昨日は大変だったのよ」と東京外大卒の女性職員が言う。財政課からポパールの綴り「スペル」を訊かれて、その女性が図書館からラテン語辞典を借りてきて調べたが見つけられなかったとのことであった。「出てなかったかねー、POPALだよ」と苦笑して呟いた。「綴り」なんぞ「どうだって良いではないか」と思った。

「ポパール刊行」の予告記事
 知事査定で壁新聞「ポパール」の発刊は定まった。
 壁新聞の標的は県庁職員である。当時の神奈川県庁には二代前の内山岩太郎知事が「教養月報」と命名した全職員配布の月刊の広報紙があった。

 その「教養月報」に「論説的予告記事」を掲載しようと考えた。小村喜代子さんという庁内でも有名な女性編集者に会いに行った。快諾を得た。

 役所では、業務に関する原稿を庁内広報紙に書くときには、上司の「事前了解」と「原稿内容の承認」を得るのが通常である。それを知らないわけではない。だが、文化室長は庁内広報紙に掲載することを(自分では)決められないだろう。次長に相談するであろう。そして「時期尚早」などの言い方で掲載は先送りになるであろう。「波紋が庁内に広がる」ことを極力避けたいのが面従復配の幹部の常套である。そしてまた、「教養月報」に掲載することになったとしても、「原稿」は無意味な内容に変質するであろう。そうなれば、壁新聞発刊の「新鮮な衝撃イメージ」は職員に届かない。そこで、誰にも相談しないで原稿を書いて職員課に届けた。

「ポパール」から「かもめ」に
 県民部担当の湯沢副知事から電話で呼び出された。副知事室に入っていくと「森君、壁新聞の名前は知事さんに付けてもらったらどうかね」と言われた。「やっとここまで漕ぎつけた」の想いがあったから内心不満であった。だが嫌とは言えない。「そうですか」と言って退室した。
自席で「どうしたものか」と思案した。そしてふと思った。この壁新聞は現状維持の庁内文化に異質の価値観を提示するのだから、必ず悶着を起こすであろう。そのとき「知事命名」は役に立つ。そう考えて秘書課に「知事に命名して貰いたい」と電話した。

翌日午前、特命秘書の蔵から「知事が考えてきたよ」と電話がきた。「何という名前?」「かもめだよ」。瞬間「悪くない」と思った。
 「県の鳥」は「かもめ」である。知事がそれを「壁新聞」の名前に付けた。「かもめのイラストも描いてあるよ」と蔵がつけ足した。(特命秘書であった蔵さんは現在札幌市内で喫茶店を開業している)

 そのとき「アッ」と気付いた。「教養月報」に出した原稿のタイトルは「ポパールの発刊」である。大慌てで職員課に電話した。「小村さんは神奈川新聞社の校正室に行っています」。神奈川新聞社に電話した。「最終校正をしています」と小村さん。「タイトルも文章も全て『ポパール』を『かもめ』に訂正して下さい」。危ないところで間に合った。かくして「ポパール」は「かもめ」に改名された。

県庁のトイレに貼る
 次の問題は「文化行政壁新聞・かもめ」を何処に貼るかである。各課の壁面はロッカーが占拠して貼る場所が無い。エレベーター内を考えたが身体に近すぎて読めない。玄関入口に貼っても県庁職員は早足に通り過ぎるから読まない。
そこで「新庁舎のトイレ」に貼ろうと思った。

 だが、庁舎管理は年々厳しくなっていた。革新団体が県庁にやってきて敷地内でビラ配りをするのを規制していた。トイレに壁新聞を貼るのは容易なことではない。容易ではないが「貼る場所」を確保しなくてはならない。

 庁舎管理の責任者である出納長総務課長に会いに行った。
「聞いていられると思いますが、文化室の『壁新聞』の掲示場所の件ですが…」と切り出した。課長は怪訝な表情で「何の話しですか」と言う。「まだお聞きになっていませんか、秘書課から話しはきていませんか」「実は過日、知事と話していたとき『かもめ』の掲示場所の話しになって、新庁舎トイレの洗面場所が良いと言ったら、知事が『それはおもしろいね』となつて、『知事からも庁舎管理課長に言っておいて下さい』ということだったのです」と話した。

 総務課長は「聞いていませんが『トイレ』にですか、一度認めると職員組合もステッカーも貼らせろとなると困るしねー」と。当然ながら「それはダメです」の表情であった。

 ところが、翌月は「定期人事異動」である。部課長クラスの大幅人事異動が噂されている時期である。部課長の人事は知事の専権である。総務課長の脳裡には「職務を無難に」と「昇格への期待」が交錯する。しかし「トイレに壁新聞はねー」と呟く。天秤が脳裡で右と左に傾く。そこで「こうしたらどうでしょうか」と提案した。

 「一回だけ試行的に認めて、二回目の『継続するか』『止めるべきか』の判断は『総括管理主幹会議』で行う」「『総括管理主幹会議』の議題にすることは文化室の責任でやりますから」と言った。
総務課長は「文化行政壁新聞は知事の肝いりである」「継続して貼るか否かは庁内会議が判断する」と考えたのであろう。「試行的ならいいかな」と呟いた。間をおかず颯と用意してきた「トイレに掲示」の「伺い文書」を差し出した。

 庁舎管理の責任者である出納総務課長のハンコを貰うことに成功した。(知事との過日の話はもとより架空のことである)
 直ちに県民部に戻って県民部長に決裁をお願いした。県民部長は「出納総務課長はよく認めたね─」と言いながらハンコを押した。次長は部長が決裁しているから「内心で何と思ったか」は別としてハンコを押した。最後に文化室長の決裁である。

役所の通常では手続きが逆である。文化室長も内心に複雑以上のものがあったであろう。普通ならば認めがたいやり方である。だが県民部の幹部にも「翌月の人事異動」が作用していたのかもしれない。しかし「庁内ルールを無視するふるまい」の烙印は確実に吾が身に刻印されていく。しかしながら、通常の手続きでは何もできない。役所文化では「文化行政」はできない。もともと「文化」と「行政」は異質である。

 文化室の職員に頼んだ。男性と女性の二組で「今直ぐ、新庁舎地階から十二階までのトイレに貼ってよ」と。トイレに壁新聞を貼るのだから、ボヤボヤしていると「ちょっと待った」がこないとも限らない。県庁の男性トイレには「用を足す目の前」に貼った。(役人意識が脱けているときである)。女性トイレには身だしなみを整えるスペースに貼った。文化行政の初期のころは全てが「役所作法」との「綱渡り競争」であった。

 本庁舎と分庁舎のトイレにも貼った。後は急ぐことはない。順次に掲示場所を確保していった。十二階の職員食堂、屋上の図書室、別館の職員会館、地階の売店にも貼った。

専有掲示場所
 オレンジ色に黒色で「文化行政壁新聞・かもめ」と書いたラベルを「発砲スチロール」に貼りつけて表札を作った。表札の裏面には両面の粘着テープが付着してある。一度貼ると剥がせない。剥がすと「発砲スチロール」が壊れる。
 
 出先の職場にこの「表札」を「壁新聞」と一緒に送付した。「教養月報」に予告されていた壁新聞であるから、職員が適宜な場所に表札を貼りつけ下方に掲示した。その瞬間、そこが「かもめ」の専有掲示場所になる。全国の都道府県にも送付した。その話は後で述べる。

編集委員
編集委員には覚悟と才覚が必要である。そこで委員の選出に工夫を凝らした。
 まず問題意識と感覚の優れた職員と個別に会って同意を得た。その後で「文化室長名の文書」で所属長に「この職員を推薦して頂きたい」と依頼した。そして、編集委員が腹を括るべく、知事室で、『文化行政壁新聞・かもめの編集委員を委嘱する』と墨書した依嘱状を知事から七名の編集委員に手渡して貰った。
 (ここで断っておくが長洲知事と筆者は特別な関係ではない。文化室に異動になる前には会ったこともない。
だが知事の目玉政策を現実化するのだから、この程度のことは知事にやって貰ってよいではないかと思っていた)。

「毎号の内容」は七人の編集委員で決めるのだが、紙面にその内容を表現する「デザイン力」は素人では難しい。そこで東京芸術大学講師の吉本直貴さんにお願いした。吉本さんは「県庁内に貼り出す壁新聞を珍しい」と思ったからでもあるが、無料で最後まで協力して下さった。

 そこで、紙面づくりの一切を吉本さんにお任せした。「イラスト」も「キャッチコピー」もお任せした。責任は文化室企画担当の筆者である。壁新聞は文化室の予算であるが、文化室長にも事前の了承を得なかった。知事室での「依嘱状の手渡し」は「知事特命の編集」にするための工夫であったのだ。

 ある号で、次長室に呼ばれた。「森君、この文章はこう書くのが良かったのでは」と助言された。「そうだとは思いますがお任せください」と答えた。一度「助言」を受け入れると次第に「事前了承」になってしまうからである。「真に相済みませんが、気づいても助言はしないで下さい」とお願いした。
  
服装は思想
 第一号のタイトルは「服装は思想です」
 役所は形式的で画一的で「前例と規則」である。「無難に大過なく」である。公務員の服装は「ドブネズミ」と言われている。葬式のようにみんな同じ色のスーツである。個性的な洒落た服装であるべきだ。真夏にネクタイは暑苦しい。「個性のない服装」だから仕事も「無難に大過なく」になるのだ。

 公務員の変身が文化行政には必要である。そこで「服装は思想です」にした。この壁新聞を「県庁舎のトイレ」と「全ての県内職場」に貼り出した。新聞各社はこれを写真入りで報道した。創刊号「かもめ」は初夏の空に飛翔した。1979年5月15日であった。

神奈川県庁のムダ
 第十一号は「県庁のムダの考現学」である。新聞各紙は1980年3月10日の朝刊で「庁内壁新聞『かもめ』が内部告発」、「県庁のムダをヤリ玉に」などの見出しで一斉に報道した。

 壁新聞には「職員配置の不均衡のムダ」「コピー時代に流されて安易に資料をつくる」「会議が多過ぎる」「多過ぎる役職者」「仕事の質より職員の数が多ければエライ思い込んでいる所属長のお役人気質」「女子職員のお茶くみ」「議会開催中に五時以降の居残り職員が多過ぎる」などであった。

 新聞とテレビが報道して話題になり県議会で論議になった。
 議会で話題になるのは良いのだが、自由な紙面づくりが出来なくなることを心配した。県民部幹部の事前決裁(検閲)になっては困る。県民環境常任委員会の後部に座して論議を聴いた。
「部長が紙面を抑制することはしないだろうな」「文化室から出ていることが良いのだから」などの激励発言であった。
 
 「かもめ」が、議会で論議になり新聞で報道されたので、管理職も読むようになった。800部刷って県の職場だけでなく県内市町村にも配布した。

 全国の都道府県にも先に述べた「発砲スチロールの表札」を付けて送付した。「文化行政の全国情報紙」にするためである。
後日、他府県の文化行政担当課を訪れると「かもめ」が「発砲スチロールの専有掲示場所」に貼られていた。 
 各号の「タイトル」と「内容」は『物語・自治体文化行政史─10年の歩み』(新曜社-1988)に掲載されている。

(2) [文化行政を研修科目に]
神奈川県は30年続いた「公務研修所」を「自治総合研究センター」に改組した。
松下圭一教授の助言を得て「地方公務員の養成所」から「自治を研究するセンター」に改革した。その自総研センターの所長に会いに行った。「文化行政を研修科目にしてもらう」ためである。

 武井所長に「研修所を改組したのだから、ハッキリ見えることが大切です」と切り出した。「何か良い考えがあるかねぇ」と返ってきた。用意してきた「政策研修の手法」と「講師名」を書いたペーパー(井上ひさし「未来への想像力」、谷川健一「文化の火種としての地名」、松下圭一「市民文化の可能性」、色川大吉「自治と自由民権」)を差し出した。

「こんな著名講師が通常の講師謝金で来てくれるのかね」と尋ねる。「行政革新をやりたいと心情を披歴して頼むのです。謝金の額ではないのです」と弁じた。所長は「それなら君が折衝してくれないか」と言う。文化行政を研修科目にすることを交換条件に折衝を請け負った。

井上ひさし(作家)
 電話をしたが、よし子夫人のガードで本人と話しができない。人気作家の井上さんには多様な依頼がくる。だが「こまつ座の脚本」も開演初日までに間に合わないときがある。健康管理もあって、よし子夫人の関所は鉄壁で、研修講師は頼めなかった。
だがこの七年後に「文化ホールがまちをつくる」を学陽書房から刊行したことで、井上さんが郷里の山形県川西町で毎年お盆に開いている「生活者大学校」の講師に招かれることになり、そこでの見聞を講談社の「月刊・現代」1993年11月号に『川西町』を書いた。二回の講義は『井上ひさしの農業講座』(家の光協会刊行)に収録された。 

谷川健一(民俗学)
 谷川さんの「文化の火種としての地名」の講義は刺戟的であった。これがご縁になり、そのころ谷川さんが念願していた「地名全国シンポジュウムの開催」に協力することになった。
知事室と連携して、川崎駅前の日航ホテルで、長洲知事と伊藤三郎川崎市長が揃って記者会見を行い「地名全国シンポ」を「神奈川県と川崎市が共同して開催する」と発表した。これは画期的なことである。なぜなら、自治体は自治省の指図で「住居表示に関する法律」の先兵として地名を破壊しつづけていたからである。

 「地名全国シンポジュウム」は、谷川さんの人脈で全国から著名な学者、郷土史家、作家、出版関係者、行政職員が参集した。まことに多彩な顔ぶれであった。
 開催日の直前には、桑原武夫氏が「地名と柳田学」の記念講演を行った。メディアはこれらを全国に報道した。

松下圭一(政治学)
 松下さんと最初にお会いしたのは、横浜国際会議場で開催した全国文化行政シンポジュウムのパネリストを依頼したときであった。場所は朝日新聞社の最上階レストラン「アラスカ」であった。爾来35年のご交誼を頂いている。

 日本で最初の文化行政の本である「文化行政─行政の自己革新」(学陽書房)の共編著者にもなって下さった。北海道の自治土曜講座にも講師で度々お願いした。「新自治体学入門」時事通信社刊(2008年)の推薦書評も書いて下さった。

色川大吉(近代史)
 電話で話すと「その内容なら神奈川県史編纂委員の近代史の江村栄一先生に依頼されるのが筋です」と断られた。電話では意が伝わらない。「会って下さい」、「会っても同じです。引き受ける訳にはいきません」、「会って下さい。会って下されば今の話しはしませんから」。「それなら何のためにやって来るのか」と色川さんは思ったであろう。だが「とにかく会って下さい」の語調に「何かを感じた」のかもしれない。会う約束をもらった。

 1980年4月28日、書棚から色川さんの本8冊を取り出しボストンバックに入れて国鉄横浜線に乗った。指定された場所は研究棟の玄関ロビーであった。「会うだけ」だからであろう。ボストンバックの本を出しテーブルに並べ、朱線の入った頁を開いて「ここのところを」「ここのところが良い」と言い始めた。
色川さんは笑い出して「寄り切りで私の負けですな」「何日にいけば良いのですか」と言ってくださった。 

研修当日は自治総合研究センターの玄関で出迎えて聴講した。昼食は所長の配慮で長洲知事お気に入りのレストラン(かおり)に行った (通常は講師控室での出前弁当である)。

[自由民権百年大会の会場] 
 食事の後、色川さんから「自由民権百年全国集会の会場」が見つからないで苦慮しているとの話が出た。即座に「神奈川で開催して下さい」「相模は自由民権の歴史のある土地ですから」と言った。
「三千人くらい集まります。会場がありますか」と訊く。「神奈川県民ホールは2450人の座席があります、会議室もあります」「それは有難い話ですが、二日間借りられますか」「大丈夫です」と答えた。全国集会は翌年の81年11月21日と22日である。

[会場を確保]
 県庁には役所流儀の処世術に長けた人がいる。県庁内の人脈に詳しい人である。そのK氏に事情を話して頼んだ。「分かった」と引き受けてくれた。

 暫くして、色川さんから「会場のお礼」と「当日の祝辞のお願い」で長洲知事にお逢いしたいと連絡があった。文化室長にその旨を伝えた。廊下を歩いていると部長室から怒声が聞こえた。応接の女性に「誰がやられているの」と訊いたら「貴方のとこの文化室長さんですよ」と言う。県民部長は大声で部下を叱責することで有名であった。「廊下まで怒声聞こえる県民部」という川柳めいた噂のある部長である。  

文化室に室長が帰ってきたので「何のことですか」と訊ねると「自由民権大会のことだよ」「自由民権が文化室と何の関係があるのか」と叱られたと言う。「何と答えたのですか」「あまりの剣幕で返答できなかった」とのこと。「文化行政は明治百年来の近代化の文化を問い直す仕事です」と答えてもらいたかった。

[部長・次長・室長―突然の不在]
「知事表敬」の当日のことである。著名な歴史学者である遠山茂樹、色川大吉、後藤靖、江村栄一の方々が県庁にやってきた。当日の手順は、県民部長室に来て頂いて、県民部長が知事室に案内することになっていた。
筆者は玄関で出迎えて八階の県民部長室に案内した。ところが部長室には誰もいない。部長、次長、文化室長の三人がそろっていない。応接の女性に訊いたが「知らない」と言う。「ハハーン」と思い「それならば」と思った。

応接の女性にお茶を出してもらって、内心で「今日は自分が県民部長である」と思いながら、「急用で部長は不在になりました」と言って一人で応対した。練達な先生方はこの日の情況を了察して「長洲さんもたいへんだな」と思ったであろう。

 先生方に「これから知事室にご案内いたしますが、県庁の流儀では『どの部署が自由民権百年大会を担当するか』が重要なことです」そこで「先生方から文化室にお願いしたいと言って下さい」と話しておいた。

 知事はにこやかに応対した。知事室には四人の客と知事と筆者の六人だけであった。案の定、知事は筆者に顔を向けて「担当は何処になるかな」と訊いた。「文化室でお願いできれば」と手筈どおりに遠山実行委員長が言った。「県民部でよいかね」と知事は筆者に言い「結構です」と答えた。それで県民部が担当することに決まった。先生方は少し談笑して帰られた。
  この間、県民部幹部は何処に居たのであろう。示し合わせて不在になったのは、議会の多数会派に「自由民権百年大会」を県民部が望んで支援したのではないのだと、示したかったのであろうか。部長、次長、室長の三人はその間「何の話」をしていたであろうか。

[自由民権百年全国集会]
 一九八一年十一月二十一日と二十二日の両日、神奈川県民ホールで自由民権百年全国集会が開催された。全国から研究者、教員、学生、市民の約四千人が参集した。 

 会場は熱気に包まれ参加者は自由民権運動の歴史的意義について論じ合った。なかでも参加者が激しい拍手を送ったのは、壇上に並んだ、秩父事件(一八八四年、埼玉県秩父で農民らが借金の据え置きなどを求めて蜂起した事件)など、自由民権期に各地で起きた激化事件で殉難した民権家の遺族約七十人に対してであった。一世紀にわたって「暴徒」とか「逆賊」とかのレッテルを張られてきた民権家の子孫が名誉を回復した感動的な場面であった。

 長洲知事は祝辞を述べ萬雷の拍手で会場提供を感謝された。歴史学者家永三郎、松本清張、小田実などの著名な方々が次々と登壇した。前年放映されたNHK大河ドラマ「獅子の時代」で主役を演じた加藤剛さんは「自治元年」のセリフを朗唱した。新聞・テレビはこれらを連日大きく報道した。
 かくして、「文化行政」は職員研修の必修科目になり筆者は講師を何度となく務めた。


自治体学理論の系譜 (その1)
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学理論の系譜 (その1) 

自治体学理論の着想は、生身の個人から生ずるので、少しく自伝めくが了とされたい。

Ⅰ 出生から学業時代まで (1935-1960)
 1935年9月11日、徳島県麻植郡牛島村に生まれた。
[幼年時代] – (覚えているのは)
・元日早朝、家族全員が玄関を出て家を一周、裏手のポンプで若水を汲み、口を漱いで顔を洗い、母が若水で作った雑煮を食べた。
・祖母は貸本の行商で、押入書棚に二千冊の講談本(フリガナ付き)があり、小学前に全てを読んだ。(筆者の教養は講談本である)
・兵隊サンが家の近くで休憩したときの「汗と皮革」の強臭を覚えている。
・小学三年の学芸会で「野口英世の半生」を二人で朗読した。前半が終わるのを壇上で並んで待っていたので、自分の番で声がか 
すれ上ずった。
・10歳のとき、20キロ離れた徳島市の空襲が夜空に花火のようにキレイであった。翌朝、頭上まで黒煙が広がっている異様な光景を見た。
・四年のとき、代用教員の若い先生から「七つボタンはサクラとイカリ…」を何度も何度も合唱させられた。

[中学時代]
・赴任してきた体操の井内三喜先生が野球部をつくって下さった。放課後の練習と(ときにはの)他校との試合で、まことに楽しい中学時代であつた。

[高校時代]
・長兄は工業高校機械科、次兄は土木科で、三男の筆者は電気科が新設された県立東工業高校に入学した。だが電気の授業に興味なく野球部に入部した。中学時代と異なる硬式野球で嬉しかった。授業中、運動場を眺めて放課後になるのをひたすら待った。
・最初の小松島高校との試合が5打数3安打でレギュラーになった。中学のときと同じショート(遊撃手)である。この上無しの嬉しさであつた。
・だが、甲子園への春と夏の県内予選では、ただの一度も勝利しなかっち。
・三年になり、生徒会長に立候補した。県の社会教育主事の助言と指導で徳島県高等学校弁論部連盟を結成した。そして県立阿波高校で第一回弁論大会を開催して第二席に選奨された。
・明治大学で三木武夫さんの先輩であった徳島市長の長尾新九郎さんの知遇を得た。全国市長会の副会長であった長尾さんは東京にお出での度に大森の宿舎に招いて歓談して下さった。 (後年の大学時代に選挙の応援弁士で徳島に三度帰った) 
・卒業間際になって就職先が決まらないのは(電気科50人のうち)数人であった。だが意気軒高であった。「東京に出て大学に進学して弁護士になるのだ」と思っていた。

・「東京の落ち着き先」を探さなくてはならない。
県選出の国会議員、県会議員、徳島市内の弁護士宅を、次々訪問して「東京に出て大学に進学するのですが、人生の先輩としてご助言を下さい」と言った。「東京に知り合いはいるのか」と訊いて下さる方もいた。
・二人の方が「東京の落ち着き先」を紹介して下さった。弁護士さんが紹介して下さった(吉田茂内閣の労働大臣小坂善太郎の秘書官の)堀井喜良氏宅に落ち着き先を定めた。 
・親に東京までの旅費を貰って1954年春、東京に出発した。何の不安も無かった。
 
[書生時代]
・堀井喜良宅(東京都世田谷区下馬1丁目)の書生(居候)で東京での人生が始まった。
・居候にはさしたる用はなく、大学受験の代々木予備校に通わせて頂いた。だが居候は居づらい。堀井氏の了解を得て、近隣の朝日新聞専売所の住込配達員になった。

[国士館大学の学生寮]
 暫くして、堀井氏の紹介で国士館大学の学生食堂の会計事務担当として学生寮に住みついた。国士館大学は渋谷発の玉川電車で三軒茶屋から下高井戸の中間、(吉田松陰)神社前下車である。
・寮舎監の東木さんの好意で「大学の講義を聴いてもよい」になった。代々木予備校に通うよりはるかに有益であった。
講義の後、早稲田大学の民訴の教授に「人間には自由は不可欠なものですか」と尋ねた。笑みを浮かべ「私にその問に答えられるか疑問ですが」と真顔になって懇切に話して下さった。そのときは、よく分からなかったが感銘のようなものを戴いた。
国文学の教授に「俗世を離れて山中に住むことが、意味のあることなのですか」と質問した。生意気で無礼な質問をしたものだと、今恥ずかしく懐かしく思う。
・夏休みの誰もいない学生寮で『近代ヒューマニズムとカント』金子武蔵(東大教授)を読んだ。何を書いてあるのか分からない。意地になり繰返し読んだ。分からない。誰もいない学生寮である。大声で繰返し繰返し読んだ。「論語の読書百篇意自ずから通ず」で、「思惟の形式は時空であるの意味」が分かってきた。そしてついに文章の各行が了解納得できた。一夏の良き体験であった。
・昭和女子大学 (玉電・三宿駅) 前の古本屋で買った安部次郎『三太郎の日記』を読み耽けった。書物はいつも古本屋であった。河合栄治郎『社会思想家評伝』『ファッシズム批判』、倉田 百三『出家とその弟子』に感銘をうけた。

[中央大学法学部に入学]
・生活費と学費をアルバイトで稼ぐには、夜間部が良いと考えて法学部二部に入学した。入学してみると不正規なアルバイトは夕刻からが多いので二年から一部(昼間部)に転部した。
・下宿代が要らない住込新聞配達員になった。馴染んだ世田谷はお茶の水の大学までの時間と経費が嵩む。大学に近い神田神保町鈴蘭通りの東京新聞に住み込んだ。古書街を覗くのが楽しみであった。歳末には近隣の救世軍本部の救世鍋を眺めた。
夕刊配達後に大学図書館に通うには、より大学に近い新聞店が良いので、銭形平次で有名な神田明神下の朝日新聞専売店に移った。ニコライ堂、日大病院、中央大学の自治会室にも配達した。学友に出会うこともあった。

[済美会研究室]
・そのころの中央大学は司法試験合格者数がダントツ一位であった。大学は校舎五階に数多くの研究室を設けて受験学生を優遇していた。済美会研究室の入室試験(小論文と面接)を受験して研究室員になった。勉強机を専有できたがバイトでさほど使えなかった。
 世間は栃錦・若乃花の大相撲人気で盛り上がっていた。

[論理実証主義]
・お茶の水駅ニコライ堂出口の古書店( 60年後の今もある)で『法哲学概論・碧海純一』東大教授(当時は神戸大学)を購入して熟読した。論理実証主義の法哲学である。橋本公亘教授の憲法講義で挙手し立上がり滔々と弁じた。橋本教授はにこやかに「学部四年ともなると法哲学を論じますネ」と言って下さった。懐かしき思い出である。

[新宿花園神社裏ゴールデン街の女性救出]
・大学二年のころ、新聞店の先輩に誘われて新宿ゴールデン街に行った。ベニヤ板で区切られた隣室の女性と話しをした。「助けよう」と思った。
(後日に聴いたハナシ)
山陰の高校を出て伯父を頼って上京して、就職先を探してくれるまで近所の中華店で働いた。若い男と知り合いヤクザと分かって「別れたい」と言ったら、凄まれてアッという間に特飲街に売られたの由。
早朝四時のゴールデン街は街全体が眠っていた。窓下で二階からの荷物を受け取り女性とタクシーに乗った。運転手に新宿駅南口(甲州街道口)へと言い、車が動き出したときは「ホッとした」のを覚えている。世にいう(足抜き)である。そのときは「自分は何をしているのか」が分かっていなかった。ただ「助けよう」の思いであった。
  国士館学生寮で知り合った、食堂の残飯をブタの餌に集めにくる農家のオジサンに頼んで女性を預かってもらった。女性はその農家のオジサンの紹介で下高井戸のさる邸宅の「住込みお手伝い」に落ち着き、何か月かして山陰の実家に帰ったの由。
 (これまで誰にも話さなかったハナシである。60年が経過しているので何処にも迷惑は掛からないであろう)

[下宿生活] 
・学生はたいてい試験の直前に一夜漬けの詰め込み勉強をする。新聞配達は試験の前夜も当日も休めない。三年の学年末試験で「住込配達員」をヤメた。
新宿駅南口の甲州街道沿いに篤志家が始めた低額の学生下宿が在った。ベニヤ板で区切った三畳部屋が並んでいた。そこに下宿して新宿でサンドイッチマンになった。1時間100円。試験のときは休めた。試験期間が終わって、コマ劇場前の「トリスバー・ヤマ」の専属呼び込みになった。夕刻7時から12時までの5時間-500円、寒い冬は足が凍った。ときおり、コマ劇場周辺に大行列ができた。恒例の「美空ひばり公演」である。無縁の世界の行列であった。
・帰途の楽しみは、新宿西口飲食街での鯨カツ定食であった(丼メシ・みそ汁・キャベツ大盛の鯨カツ)。500円の収入で150円の夜食であるがとても美味で満足であった。(その西口飲食街は2021年の現在もある) 

 [羽田空港座り込み]
・ポケット内のものを済美会研究室に置いて岸信介渡米阻止の羽田デモに出かけた。空港内でバリケートづくりを手助けしてスクラムを組み座り込んだ。機動隊がやってきて排除を始めた。蹴りとばしゴボウ抜きする手荒い排除であった。次々と排除され自分の番になった。抵抗せず立上がり離れた場所に立って見守った。空港職員が自分の方を指さし「あれがバリケードを指図していた」と言っていた。「労働新聞」の腕章をつけた人の横に並んだ。その記者は起動隊の排除が終わりかけたころ「出ようか」と小声で言って歩きだした。後ろに従い空港の外に出た。お茶の水駅で車から降ろしてくれた。国電で新宿の下宿に帰って眠った。翌朝の毎日新聞の羽田デモの写真に自分の姿が写っていた。キリ抜いて日記帳に貼り付けた。

[泥棒君を捕らえる]
・ある夜、掛け布団が擦られた感触で目覚めた。頭上に男が立っていた。「泥棒だ」と直感した。颯と起き上がった。出ていこうとする男の後ろ首を掴んで引き戻し、大声で「座れ」と命じた。反撃させぬため咄嗟に言った、と後になって思う。
男は「済みません」と言いポケットから腕時計を出した。枕元に置いてあった時計である。
布団を擦ったのは、反対側の壁に掛けてあったオーバーを取ろうとして裾が触れたのである。「さてどうするか」と考えた。交番に突き出すと状況調書などで時間をとられる。警察は好かない。ベニヤ板の仕切りであるから隣室の学生には「何が起きているのか」は分かっている筈だが出てこない。関わりたくないのである。
「今後盗みはいたしません」と書け、と言ったが、「許して下さい」としきりに詫びる。少し説教をして「かえっていいよ」と放免して眠った。翌朝、下宿の女将から「森さん昨夜、泥棒を捕まえたんだって、どうして勝手に逃がしたのよ」」と叱られた。

[寝るところが無くなる]
・大人数の学生を卒業させる中央大学には「卒業論文」は無い。であるから卒業学年末試験は重要である。アルバイトを一切ヤメた。たちまち財力ピンチになった。下宿代が払えなくなり友人に荷物を預かってもらって下宿を出た。寝るところが無い。東大久保のドヤ街に泊まったが、独特の臭いで眠れない。「さてどうするか」の事態になった。
「窮すれば脳が働く」で、最初の住込み新聞配達の世田谷下馬町を思い出した。(八幡太郎源義家が奥州征伐のとき駒を繋いで戦勝祈願したの言い伝え)がある駒繋神社が、朝日新聞専売所の隣に在ったのを思い出した。たしか木造の神輿置場が在り鍵は架かっていなかった。早速、渋谷から玉電で三軒茶屋、徒歩で駒繋神社に行き視察した。鍵は架かっていなかった。暗くなって人に見咎められないよう忍びこんだ。茣蓙が敷いてあり上等の寝場所であった。朝は早朝に起きそっと出て三軒茶屋で朝食した。
 かくして寝場所を確保し、全ての時間を学年末試験の準備に使うことができた。試験の結果はまずまずであった。
 (それから58年が経過した2019年6月、娘と「懐かしき神輿置場」を視に行った。コンクリート造りの堅固な建物に変わっていた)
 
[卒業記念文集]
・三年のゼミで終生の友人に巡り合った(:現在もときおり逢って談笑する)。 その友の発案で卒業記念文集を刊行することになった。冊子の題名は「抵抗」である。そこに『四年間の収穫』と題して小論を書いた。今読めば気恥ずかしい文章だが、当時の自分と社会を懐かしく思い起こす。編集者が「誰か詩を書かないか」と言ったので、『悲鳴力』と題して「新宿の酷寒の夜の舗道での感懐」を詩文形式に綴って投稿した。

「授業料延納願」を大学の会計窓口に四回提出して、1960年3月、中央大学法学部法律学科を卒業した。
自治体学の重要論点(その2)
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学の重要論点 (その2)

1 [代表民主制を支える制度]
 1960年代、高度経済成長政策によって「大気汚染・水質汚濁・地盤沈下」などの公害問題が発生した。加えて「住宅・交通・保育所・学校」などの社会資本の不足が生じて、住民運動が全国各地で激化した。

 すなわち、60年代から70年代にかけての住民運動は「首長と議会に解決を求める要求行動」であった。だが、その要求を受け取る首長や議会の側に、民主代表制の政治感覚と行動原理が存在しなければ、住民の側に不満が堆積する。
そこで、時代を遡って住民投票と代表民主制度との関係を考察する。

 わが国で実際に住民投票を実施したのは1993年の新潟県巻町であった。だが、最初の住民投票条例の制定は、1982年の高知県窪川町である。
 窪川町で住民投票条例が制定されるに至ったのは、当時の首長と議員が代表民主制に反した振る舞いによって住民の不信感を高めたからであった。「原発建設についての決着を直接住民に聞くのは卑怯な手段である」との町長の発言が「住民の反感」を買ったのである。

 すなわち、わが国で最初の「住民投票条例」は「代表民主制度が機能不全」に陥った時、代表民主制を担保する「制度要求」として始まったのである。「住民投票条例」は「代表民主制の機能不全」を是正する制度として登場したのであった。

 2000年代初頭の市町村合併をめぐって「住民投票条例の制定」を求める署名運動が全国各地に起きたのは、住民が「代表民主制を担保する制度」の必要に気付き始めたと認識すべきである。即ち「自らの意思を表明する制度」を求める「動向の始まり」と認識すべきである。

2 [直接民主制と間接民主制」
市町村合併をめぐって次のような論理が横行した。
 憲法が定めている原則は代表民主制(間接民主制)である。
住民投票は直接民主主義の手続きである。
住民投票は「間接民主制」に対する「直接民主制」の介入である。
このような論理で、「住民投票条例の制定」を求める住民の直接請求を議会が相継いで否決した。

 しかしながら、「直接民主制」と「間接民主制」は相反する制度ではない。
 あたかも「相反する制度である」かのごとくに対置して論ずるのは正当でない。それは、住民投票を嫌悪する人々の意図的な不正の論理である。

 代表民主制度は「選挙という直接民主制」によって成立するのである。すなわち、「代表民主制」は「直接民主制」によって正統性を担保されるのである。「直接民主制」が土台である。憲法八章の規定はそのことを定めているのである。
 ところが、選挙が「代表者選出の手続き」であるがために、選挙を「間接民主制の手続きである」との誤解がしばしば表明される。しかしそれは誤りである。
 考えてもみよ。「投票」は有権者の「直接・秘密」の手続きであるのだ。「選挙の投票」も「住民投票」も前述の〔政府信託理論〕で示したように「直接民主制の手続き」である。

「住民投票条例の制定」を求めた署名運動は、主権者住民の「問い質し行動」である。選挙は白紙委任ではないのである。そして、住民投票は「代表民主制の否認」ではない。解職要求(リコール)でもないのである。

だがしかし、「問い質し」に、代表者が誠実に対応しないときには「信託解除権」の発動となる。北海道の南幌町ではそれ(信託解除権の発動)があった。

 首長と議会の代表権限は住民から信託された権限である。「信託」は白紙委任ではない。
 全国各地で「住民投票条例」の制定を求める署名運動が展開されたのは「自治の主体」として「見過ごすことができない」事態であると有権者住民が認識したからである。
 署名運動は信託した「代表権限の運営」を制御する主権者の行動であるのだ。
 しかるに、「署名が多数になれば、議会審議に影響する(無視できない)から、署名運動は議会制度の否認になる(なりかねない)」などの言説が、まことしやかになされた。

 しかしながら、その言説は「代表民主制」の否認につながる論理である。代表者の代表権限はいずこより生じるかを省みない言説である。
 住民投票は住民による「代表権限の制御行動」である。さらに一歩進めて考察するならば、全国的に展開された「住民投票条例の制定」を求めた署名運動は、「代表制民主制度」を担保する「自治制度の整備」を求める行動として認識すべきであろう。

 これが、市民自治基本条例の内に「代表権限の制御」「住民投票手続き」を定めておく必要理由である。市町村合併の騒動では、住民投票条例の制定を求めた「直接請求」が議会で否決された。住民投票を行うことになった場合にも、「投票率が低いときには開票をしないで焼却する」と定めた。いわゆる『50%条項』である。

3 『50%条項』
 『50%条項』とは、徳島県の吉野川河口堰の建設をめぐる住民投票条例の制定過程で、徳島市議会で妥協の産物として生まれた「異常事例」である。

 すなわち、住民投票の実施自体に不賛成の人々から、「投票の不成立」を目的とした「組織的投票ボイコット戦術」として公明党市議団から提案され、「やむを得ない妥協」として生まれた特異な「異常事例」であったのだ。
その異常事例が市町村合併で「住民の意思表明」を「葬る策」として悪用援用されたのである。

しかしながら、投票箱の内にあるのは合併に対する「住民の意思」である。「住民の意思」を「開票もせずに焼き捨てる」のは「民主制度根幹の否認」である。だが、日本社会に状況追随思考が蔓延して行政学会も労組も政党も「それもありか」と黙過した。

 
筆者は平成13年12月4日、衆議院総務委員会から「合併促進の法改正」に対する意見を求められ、以上の論理を陳述した。
インターネットニにその動画が掲載されているのでご覧頂きたい。https://www.youtube.com/watch?v=2tqXt27Z3tU

自治体学の重要論点 - Ⅰ (市町村合併をめぐる論点)
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学の重要論点 (その1)

 二〇〇五年の市町村合併をめぐる論議の中に自治体学理論の重要論点が現出した。
北海道のある町で、住民投票条例を制定して住民投票が行われて開票した。投票結果は「合併反対」が多数であった。ところが、町長は「僅差である」として「規定方針通りに合併を進める」と言明した。 

論点Ⅰ
さて、この直後に開催された自治体学の研究会で次のような論点が提起された。「住民投票条例の文言」は、首長と議会は「投票結果を尊重する」である。「投票結果に従う」ではない。条例の規定が「尊重する」であるのだから、「町長に解釈の幅(自由)がある」と考えてよいのではないか、つまり、町長の言動を違法とは言えないのではないか、との見解が出席者から表明された。

 司会者が、この見解に対する所見を出席者に求めた。前方に座するパネリストからも、会場内の学者・研究者からも発言が出なかった。誰からも出なかったということは、すなわちこれは「自治体学理論の重要論点」である。

論点Ⅱ
 次の論点は、解釈に疑義を生じさせないために、条例の「投票結果を尊重する」の文言を「投票結果に従う」に改めておくべきか否かであった。
 これに対しても司会者が会場の全員に発言を求めたが、誰からも所見表明が出なかった。
 想定していなかった論点をその場で考えて所見を表明する。それが実践的思考力である。
所見表明が咄嗟に出ないということは、常日ごろから論点を自身に突き付けて考えていないからである。つまり、実践的思考を練磨していないからである。すなわち、自身を常に安全地帯に置いて抽象的形式的な思考で世渡りをしているからではあるまいか。

 「投票結果を尊重する」とは「投票結果の多い方を選択する」ことである。
 既定方針通りに「合併を進める」のは「投票結果を尊重しない」ことである。
 これは「明白」な論理ではないか。

条例解釈に疑義が生じるからの理由で、「投票結果を尊重する」の文言を「投票結果に従う」に改めるのは、代表民主制の制度論理を揺るがすことである。司会者のこの所見に対しても異なる見解の表明はなかった。

 主権者住民から代表権限を信託された代表者は、職責として「投票結果を尊重する」のである。すなわち、首長は「投票結果を尊重」して決裁し、議会は「投票結果を尊重」して決議をするのである。個人見解と職責判断は明晰に分別しなくてはならない。それが代表民主制度の原則である。しかし、実際には原則になっていない。だから自治基本条例を制定して明示するのである。

 条例が「尊重する」としてあるのは、代表民主制度を機能し続けさせるためである。「投票結果を尊重する」を「投票結果に従う」に改めて「代表権限者の職責判断」を不必要とするのは、代表民主制度を機能停止させることになる。

 ちなみに、事例の南幌町では、投票結果を僅差であるとして合併を進めようとした町長に対して「解職請求の署名運動」が起こり、議会勢力も分裂して町長は辞任するに至った。ところがさらに、この経緯を学習した他の自治体では投票率が60%を超えないときには開票しないと定めて焼却した(北海道石狩市)。

論点Ⅲ
 合併をめぐって全国各地に住民投票を求める署名運動が起きた。これは何を意味していたか。
 合併をすれば、役所から地域に支出されていた公共経済の地域還流がなくなる。中心地に人口が集中して商圏も移る。周辺地域はまぎれもなく寂れていく。合併によって父祖伝来の地域の名称も消える。名称の消失は歴史の連続性が途絶えることである。合併は住民生活にとって重大事である。

 ところが、首長と議会の決定で、合併を前提とする法定協議会への参加を決めるという事態が続出した。合併の是非は代表権限を託した地域の有権者の判断を基にしてなされるべきである。かくして、住民投票を求める署名運動が始まったのである。「住民投票条例の制定」を求めた署名運動は「主権者の意思」を表明するための行動である。

 首長と議会の代表権限は選挙によって有権者住民から信託された権限である。四年という期間を限って託された代表権限である。信託は白紙委任ではないのである。
 署名運動は「代表民主制度が正常に運営されること」を求める住民意思の表明である。住民投票は「代表権限の運営」に対する「住民の制御行動」である。

 このようにして、市町村合併をめぐって「代表権限の範囲」「代表民主制における住民投票の位置」「間接民主制と直接民主制」「代表権限の制御理論」などの自治体学理論の重要論点が現出した。 自治体学理論の実践的思考力が試される論点は続出する。

市民行政
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学理論 - 市民行政 

 1 市民行政の概念
 市民行政とは,市民が行政庁舎内で日常的に「行政事務」に携わることである
 国家学の行政法学と行政学は、「行政事務は公務である」「公務は公務員身分を有する者が行う」と考えるから「市民行政の概念」が理解できない。
 自治体学は次のように考える。
 これからの行政は、競争試験で採用された「公務員の行政職員」と、首長が任期内に委嘱した「市民の行政職員」の二種類の行政職員が存在すると考える。
 「市民参加」とは、市民が行政機構の外から行政を批判し参画することであり、「市民行政」は市民が行政機構の内部で行政事務を担うことである。
 「市民行政」は「行政不信の現状打開」をめざす実践概念である。

 2 行政概念の再定義
 「市民行政」を理解し納得するには「行政概念の再定義」が必要である。
 国家学は「行政とは法の執行である」と定義する。
 自治体学は「行政とは政策の実行である」と考える。
 行政を「法の執行」と考えると、「役所といたしましては、法令がそのようになっておりますので、いたし方ございません」になる。だが行政を「政策の実行である」と考えると、政策は課題と方策であるから、「何とかならないものか」と方策を考えることになる。このように自治体学理論は職務実行の具体場面で「思考の座標軸」として役立つのである。

 現代社会の公共課題は公務員だけでは解決できない。行政職員と市民の「信頼関係を基にした協働」がなければ解決できない。多くの実例がそのことを実証している。「まちづくり」の言葉が流布しているのもそのことを示している。 

 3 市民行政の着想
  市民行政の観念は「夕張再生の論議」のなかで着想された。

 2007年3月、夕張市は財政再建団体に指定され総務省の管理下に置かれた。
 総務省の考える「夕張再生」は、「353億円の債務額を18年間で返済すること」であった。だがそれは「債務償還」であって「夕張再生」ではない。
 しかも、債務総額の353億円は、北海道庁が「みずほ銀行」などの債権者に、全額立替をして確定した債務額である。

 経済社会では返済不能になった「不良債権の処理」は、債権者会議の場で「何割かの債権放棄と返済保証」の協議がなされるのである。北海道庁が為すべきは「債権者会議の場を設ける」ことであったのだ。破綻が見えていた夕張市に融資をした側にも責任があるのだから。

 しかるに、北海道庁は「夕張市民の生活」よりも「金融機関の債権保護」を重視したのである。
 総務省と道庁が(実質的に)策定した「夕張財政再建計画」は、18年で353憶円を返済する「債務償還計画」であった。

 財政破綻後に就任した藤倉市長は「夕張の体力では10年間で100億円の返済が限界」と懸念を表明した。だが、総務省と北海道庁は「その発言を続けるのなら支援をしない」と市長の発言を封殺した。

 しかしながら「夕張再生計画」は「夕張市民の生活が成り立つ」が基本になくてはならない。「債務返済計画」では市民生活が成り立たない。
 夕張の人口は、2006年6月は1万3千165人、2007年4月は1万2千552人、2008年4月には1万1千998人と市外への流失が続いた。公共施設の運営は指定管理者の返上で市民生活に不可欠な施設運営が困難になっていた。市営住宅の修繕もできない状態であった。職員の給与は全国最低で、職員数が減少し業務負担は増大し職員は心身共に疲労していた。

 総務省はこれまで、「公務員給与の均衡」を理由に「ラスパイレス指標」などで、全国自治体の給与の平準化を強要した。しかるに今回は、総務省が給与の三割を超える削減を強制したのである。

 さらに、総務省の派遣職員が夕張再生室長に就任して、全国からの1億円を超える寄付金(黄色いハンカチ基金)の使途も掌握し、夕張市長の財政権限を極度に制約したのである。夕張再生室の実態は「債務償還の管理」であるから、名称を「債務償還管理室」に改めて、新たに「夕張再生市民室」を新設する。その市民室に市長が委嘱した市民が行政職員として加わるのである。
 
 夕張再生には市民と行政の協働が必要である。ところが、市民の側に長年の経緯による「議会不信」と「市役所不信」がある。協働するには相互の信頼関係が不可欠である。信頼を取り戻すには「市役所不信」を打開しなくてはならない。行政不信を解消するには市民が行政の内側に入って「行政事務」を自ら担うことである。

 かくして「市民行政」の観念が着想された。

 4 市民行政の現状
 市民行政は実は様々な形態で既に行われているのである。

(1)庁舎受付、庁舎清掃、庁舎警備
 これらも公務員身分を有する者の業務であった。だが今はどこも外部委託で公務員ではない市民が担っている。これらは現業的な業務であるが、以下に掲げる業務は行政事務である。

(2)行政広報、総合計画、行政調査
 表向きは公務員職員の行政事務として執行されているけれども、実態は外部委託の事例が多い。これは何を物語っているかを行政学と行政法学の方々は考究すべきである。

(3)職員研修
 現在は「職員研修」をも外部に委託している。「内向き公務員」が企画する研修よりも「公共感覚のある市民」が企画する職員研修が民主的な職員研修になるとも言える。
 だが実態は「公共性とは如何なることか」「公共事務と民間事務の相異は何か」を弁えない営利団体が受託し「事務能率の研修」に堕している。

(4)公共施設の管理運営
 小泉構造改革の「官から民へ」の流れで「指定管理者制度」が流行現象になった。「経費節減が目的」であったから、人件費縮減に随伴する「深刻な問題」が各地で起きている。
 市民自治の問題意識が「すっ飛んだ」外部委託になっている。

(5) 優れた市民行政の実例
 北海道ニセコ町では、2008年から町民が図書館運営を担っている。
 その経緯を述べる。役場の前に道路を挟んでニセコ郵便局があった。2008年にその郵便局が別の場所に移転することになったので、建物を譲り受けて町立図書館にした。そのとき町民から、「運営一切をやりたい」の要望があって委託した。

 以来5年間、役場職員が運営するのよりも好評である。何の問題も起きていない。
 2011年11月18日、NPO法人自治体政策研究所が北海学園大学で開催した「市民行政を考える」公開政策研究会で、片山ニセコ町長は、『あのとき役場職員を入れなかったのが成功の要因であった。一人でも公務員職員が運営に加わっていたならば、「これは教育長の意見を聴かなくてはいけない」「この本を買うのは役場の許可を得なくてはならない」「こういうイベントは前例がない」などのことが始まっていたと思います』『現在は「子どもの遊び場」にもなり「高齢の皆さんのたまり場」にもなっていて、実に自由な図書館運営になっています。役場がなんでもやる時代は終わっていると思います』と語った。

市民行政の良き実際例である。因みに「あそぶっく」とは「Book と遊楽する」の意。
(北海学園大学開発研究所2011年度研究記録集61頁)
  
 既に述べたことであるが、
「市民行政」とは、市民が役所の庁舎内で公務員職員と机を並べ行政事務を担うことである。そしてその「行政事務」とは、現在、臨時職員やアルバイトが担っている補助業務ではない。政策の立案・決定・実行・評価の行政事務である。古くは美濃部東京都政で民政局長にNHK解説員の縫田曄子氏が任用された。
 以来、全国自治体で市民行政職員の委嘱・任用の実例は数多い。

 だが、ここで重要なことは、市民行政の提起は「行政不信の打破」にあるのだから、「役付き管理職」にではなく「職員の行政事務」を市民が担うことである。しかしながら、既成学の方々には、それがなぜ「行政不信の打破」につながるのか、が分らないであろう。
 
 5 市民行政への疑念
 市民行政に次の疑念が提出される。

(1)秘密保持
 宣誓をしない市民が行政事務に携わって行政の秘密保持が保たれるかの疑念である。
 職務上知りえた秘密の保持は、「市民職員」であろうと「公務員職員」であろうと同じである。自治体条例に市民行政職員の「秘密保持の宣誓」を定めればよいのである。地方公務員法に論拠しなければ「秘密保持が保たれない」と考えるのは無益思考である。
 そもそも、「守秘義務」とは何か。「◯秘のハンコ」「部外秘の朱書」の実態を眺めてみるがよい。実態は「無難に大過なくの管理職の保身」である。

(2)行政責任
 「故意または重大な過失」によって生じた損害の「求償責任」は「公務員職員」であろうと「市民職員」であろうと同様である。
 問題は「行政責任とは何か」である。
 行政責任とは「為すべきことを為さない責任」である。すなわち「不作為」が「行政責任」の本体である。行政は「能動的に政策課題を解決実現すること」である。保身のために「為すべきことを為さない不作為」が行政責任の本体である。
 「市民行政」の提起は、その「無難に大過なく」の「行政体質」を打開するためである。

(3)委嘱任用の手続き
 行政職員は首長の私兵ではない。首長も職員も共に市民に信託され雇用されているのである。この点で(橋下・大阪維新の会)は「代表民主制の基本原則」を理解していないのである。行政職員は首長に雇用されているのではない。
 委嘱が首長の恣意にならないための「市民自治的な手続」を条例に定めておく。これは政策法務の課題である。

(4)公務とは何か
 公務とは「公共事務」であって「統治事務」ではない。即ち、行政事務は「統治事務」ではなくて「自治事務」である。公務員(身分)でなければ行政事務を担えないと考えるのは国家統治の国家学の理論である。
「市民行政」「市民職員」は市民自治の自治体学の概念である。

 自治とは「それぞれ」「マチマチ」ということであるのだ。自治体運営は「地域の人々の自由で創造的な運営」でなくてはならない。自治体運営を全国画一的に統制し規律する国家法が存在してはならないのである。
 地方自治法を自治体運営の準則法と解すべきである。地方公務員法も同様である。

自治体職員の能力
(カテゴリー: 自治体学理論
  自治体学理論 – 自治体職員の能力 

1 自治体職員の能力が問われる時代
明治以来の機関委任事務制度のために、ながらく、自治体職員は省庁政策を末端で執行する受動的な地方公務員であった。自治体は政策を策定し実行する地方政府ではなかったのである。 

 だが、焼け野原の戦災復興から75年が経過して、地域課題が基盤整備から潤いのある人間的なまちづくりに移行した。
基盤整備が主要課題のときには、省庁政策は画一ではあっても均一に地域の基盤整備がすすんだと評価できたかもしれない。しかしながら、社会の成熟によって生じてくる質的公共課題は、全国画一の省庁政策では解決できない。

 地域独自に課題を設定し行政技術をも開発しなければ安心して暮らせる魅力あるまちにはならない。自治体職員の政策能力によってまちづくりに格差が出る時代になったのである。

2 いかなる能カが求められているか
 言葉でならば、「まちづくりへの情熱と意欲」「政策構想力・企画力・計画能力」「能動的積極性」「豊かな感性」「住民ニーズを的確にキャッチする直観力」「柔軟な対応能力と指導力」「利害調整の能力」と、いくらでも並べることは出来る。だが、言葉を列挙するだけでは無意味である。

 求められているのは、住み心地のよい文化的なまちをつくる能力であるのだが、地方公務員はそのような仕事の仕方をしてきていない。そしてまた、現在の行政手法と行政技術では住み心地のよい人間的なまちはつくれない。
 そして、住んでいる人びとの心の内にまちへの愛情と誇りの感情が育たなければ人間的なまちにならない。
ところが、これまでの行政は住民を行政サービスの受益者としてきた。行政が政策執行の主体で住民は客体であった。組織運営にも事業執行にもこの統治行政の考え方が貫徹しているのである。

 首長も職員も、「まちづくりの主人公は住民の皆様です」と言葉では言う。けれども「事業や制度は行政内で立案し決定し行政が執行するものである、それに何の問題があるか」と思っている。そして行政法の理論がこの統治行政の考え方を支持しているのである。
 行政内の管理職の人達は「政策の立案や執行に住民が関与してくるなどということはあってはならない」「住民参加は理念であって住民参加制度もそれ以上のものであってはならない」と本心では思っているのである。
 であるから、参加制度は形式的であり形骸化しているのである。

 地方公務員には政策を自前で策定し実行する機会が殆どなかった。行政とは法律の執行であると教えられ、政策課題は上から降りてくると考えてきた。長い間、自身を地方公務員と名乗り末端行政職員の意識を自身の内部に蓄積してきたのである。
 したがって、これらのことを自覚的に眺め返さなければ、言葉で能力を列挙するだけでは意味がない。意味がないだけでなく、美しい言葉や文章を発表するだけの「先進自治体」が存在して、それをメディアがもてはやしている現状を思うならば有害ですらある。 

 例えば、「政策構想能力」が必要だというとき、それを言っている当の本人に、政策を構想し壁を越えて実現した何らかの体験がなければ、その言説は無意味である。かつて「行政の文化化とは何か」の論議のときに、「文化に行政を」が文化行政で、「行政に文化を」が行政の文化化であると説明された。そのような語呂合わせの説明では「行政の文化化」が提起している原理的な問題意識は何も見えない。

それと同じであって、自治体職員に求められている能力とは何かを考えるとき、たんに言葉を列挙するだけは無意味である。それは、政策策定と政策実行の行政現場の実態がまるで分かっていない学者が「政策評価を教説している」のと同じである。

 あるいはまた、首長や管理職が「意識改革が重要である」と訓示してその意識改革を研修所に期待する、よく見かけるあの愚かさと同じである。自身を「地方の公務員」と名乗ってきた職員の意識の深層に堆積したものを問題にしない意識改革論は何も語っていないのと同じである。


3 能カはいかにして育つか
 人材養成・能力開発・人づくり、という言い方がなされる。しかしながら、人は他者によって養成されるのであろうか。人材養成や能力開発の学校、研修所、訓練所、セミナーは数多くある。産業社会は規格化した能力を必要とするからである。だが、自治体が必要としているのは養成され開発された部品的能力ではない。

 役所は「組織づくり・施設づくり・指導者づくり・人づくり」と無反省に言明する。行政が住民を啓発し教育し指導することができると思っているのである。だが行政は、ぬるま湯で、責任回避で、無難に大過無くが実態ではないか。その行政に指導者を養成する能力などありはしないのである。 

 人は自らを育てるのであって、他者に育てられるのではない。人は課題に直面して躊躇逡巡しながら行動を開始するのである。行動すれば不協和音に取り囲まれ非難と中傷を浴びて孤立する。辛い思いをして中止しようかと迷う。ときに失敗しときには成功する。 
 課題を実現し達成したとき体内に沸き上がる喜びを体感する。失望し模索しながら行動するその過程で人と巡り合うのである。そのようにして人は育つのである。

 自らを育てるというのは言葉の綾であって、人は不利益(リスク)を覚悟して行動を開始し、困難を乗り越えて変わった自分を眺める。不利な状況のなかで工夫したからものごとが見えてくる。視界が開けて発想が柔軟になる。それを、自らを育てたと言うのである。

 挫折体験が貴重であると言われているのは、挫折体験のない人には分からないことが分かるからである。出世コースから外れることを何よりも不幸だと内心深く銘記している「自称前向き公務員」は不利益を覚悟して行動することはない。だから視野も広がらず感性も豊かにならない。

 総務・管理部門にはこのテの自称前向き公務員が多い。自身は常に安全地帯にいて「仕事は組織でするのであって個人行動はよくない」などと、情熱ある現場職員を中傷し意欲を萎えさせているのである。行政内の主流にいる人達の最優先価値は人事昇進である。公務員は勤勉で人間性もよく才能のある人も多いのだが、役所組織の一員になると感覚も発想も公務員になってしまう。

 この観方は厳し過ぎるとの反論もあるであろう。しかし、省庁政策に従属してきた「地方公務員」の意識を自覚的に払拭しなくては魅力あるまちづくりはできない。
 まちづくりの先進地域には困難を切り拓いた人(キー-パーソン)が登場している。自治体職員に求められている能力は、困難と不利益をも覚悟して行動するキーパーソンの能力である。

 行政が、地域に文化を根づかせている市民運動に関与すると、間違いなくその運動をダメにしてしまうと言われている。
なぜ、行政が関与すると市民文化運動はダメになってしまうのか。この問いの意味が分からなければ、「企画力」「計画力」「調整能力」などの言葉をいくら並べても無意味である。
 行政の現状況に対する厳しい「問い」と「否」の認識なくしては、自治体職員に求められている能力を思考することはできないのである。
自治体の政策形成力
(カテゴリー: 自治体学理論
  自治体学理論 - 自治体の政策形成力

 本稿は、㈱時事通信社から2003年5月に刊行した『自治体の政策形成力』の「まえがき」である。集権統治の国家体制を脱し分権自治の市民社会を実現するには「自治体の政策自立」が不可欠であるので掲載する。

 自治体の政策形成力は七十年代に高まった。
革新自治体が六十年代に切り拓いた公害と福祉の先導政策に可能性を感知した若者が大量に自治体に入った。それらの職員が自主研究という形態で研究活動を始めた。七十年代の半ばには自主研究グループが雨後の筍の如くに自治体に叢生した。最初はさざなみであったが次第にうねりになり体験を交流し研究成果を発表し合った。この自主研究活動が引き金になって多様な形態の政策研究が自治体に広がった。政策研究が自治体の政策形成力を高めたのである。

明治以来の官僚支配の中央集権体制を打破して自治分権の社会を実現するには、地域課題を政策化して実行する能力が地域に高まらなければならない。そしてまた、「国家統治の理論」を「市民自治の自治体理論」に転換しなければならない。しかしながら、国家統治権の理論は行政機構に深く浸透し公務員の行動様式をも形成しているのである。その転換は容易なことではない。 

 自治体学会を設立したのは実務と理論が出会い自治体学理論を研鑚するためである。自治体関連の諸学を自治体理論に組替え自治体学を創造することを目的に八十七年に横浜で設立したのである。
 自治体職員の理論水準は七十年代以前の状況と比べるならば飛躍的に上昇したと言える。「政策法務」や「地域資源活用」や「文化的環境整備」など自治体職員が自身の実践を理論化した著作も数多く出版されている。今では省庁職員が書いたものは見向きもされなくなっているのである。

 しかしながら、自治体に政策研究の波が起きたころと比べるならば、自治体職員に時代を切り拓く気概が少なくなっているようにも思える。課題を自身の問題として受け止める熱気が薄れているように思える。政策シンポジゥムや政策フォーラムは盛んに開催されているが、「流行テーマ」を追っかけているように見える。

 例えば「政策評価」である。政策評価の学習会は盛んである。だが制度導入で成功したところはない。例えば「NPO」である。行政職員によるNPO研究会は盛況である。だが自身の担当職務につなげる工夫と実践の例は少ない。最近では「協働」である。自治体関連の文書には「協働」の文字が溢れている。
 だがその言葉は気分的形容詞であって内容は空疎である。なぜ空疎になるのか。「自分自身への問い」が欠落しているからである。現在の行政のままで協働が可能だと考えるからである。
 そして、省庁主導の合併騒動に自治体職員は黙している。合併騒動の論点を解明し事態を切り拓く気概は見えず動きもない。評論的論議で合併問題を避けているように見える。

 文化行政の基本認識は「行政の文化化」であった。「行政文化の自己革新」が文化行政であった。現在の行政では文化行政にはならないと考えた。事業執行も制度運営も組織機構も行政文化の自己革新が不可欠であると考えた。文化化した行政によって文化行政が意味あるものになるのだと考えた。

 前例なき公共課題を解決し実現するには「主体の自己革新」が不可欠である。自分自身はそのままで意味あることが可能だと考えるのは「現状追随思考の公務員」である。

 本書は、七十年代に始まった自治体の政策研究の経緯を検証し政策形成力の上昇要因を考察した。次いで、政策能力を高める職員研修の再編と人事政策改革の論点を検討した。政策形成力を高めるには実践を導く理論が必要である。

 統治集権を自治分権に組替える自治体学理論が不可欠である。本書が自治体の政策形成力の上昇に寄与できれば幸いである。

第一章 自治体職員の能力.
1 能力が問われる時代
2 いかなる能力が求められているのか
3 能力はいかにして育つか

第二章 自治体の政策研究
1 政策能力と政策研究
2 政策研究という用語
3 政策研究の形態と類型 
4 政策研究の概念
5 政策研究と政策立案
6 政策形成における政策研究の位置
7 自治体職員の政策形成力

第三章 政策能力を高める職員研修
1 研修改革
2 政策研究の研修
3 政策研修と政策能力
4 受講型研修と研究型研修
5 職員研修所の能力向上 
6 地方公務員から自治体職員へ
7 研修担当職員の政策能力

第四章 政策能力と人事政策
1 政策能力を高める人事政策
2 公務員制度改革の基本視座
3 人事制度の改革
4 人事政策への市民参画
5 公務員制度の改革

第五章 自治体職員の政策形成            
1 自治体の政策形成
2 自治体職員の政策形成能力                    
3 政策形成の当事者
4 市民と協働する政策形成

第六章 自治体学会
1 自治体学会の誕生
2 自治体学会設立の経緯
3 自治体学会設立の背景
4 政策研究交流会議と自治体学会
5 第十回自治体学会 ― 沖縄大会
 
第七章 自治体学
1 自治体学の概念
2 自治体学の特色
3 自治体理論                       
4 自治体職員 
5 市民
6 「住民」と「市民」
7 首長と議会と職員の関係
 
自治体学年表
文献案内
〈1〉「自治体学会」の設立経緯を伝えた情報
〈2〉自治体における政策研究の動向を伝える文献
〈3〉「自治体学とは何か」の文献       
自治体の概念
(カテゴリー: 自治体学理論
  自治体学理論 - 自治体の概念

自治体とは
「自治体」とは「行政機構」のことではない。自治体の主体は市民である。市民が政府(首長と議会)を選出して政府を制御し政府を交代させるのである。これが「市民自治の政府信託理論」である。信託は白紙委任ではない。4年期限の信頼委託である。重大な背信行為のときには信託解除権の発動となる。
 
 自治体学会員の間で「自治体」の概念をめぐって次のように見解が錯綜した。
・「自治体」とは「地方政府」のことであるから「市民」は含まない。
・「自治体」とは「市民」と「政府」の双方を包含する言葉である。
・役場の文書や会議で使う「自治体」は「都道府県庁、市役所、町村役場」のことだ。
・役所だけを「自治体」と僣称することに違和感を覚える。
・自治体とは「まち」のことで、自治体は空間的イメージである。

 さて、概念・用語は思考の道具である。理論的思考力を高めるには基礎概念を曖昧に使用してはならない。吟味が必要である。
 概念を曖昧に使用しないために具体的に考えたい。
 例えば
・神奈川
・神奈川県
・神奈川県庁(知事と行政機構・神奈川県議会)
・神奈川県民
・神奈川県庁舎
と並べたとき、「自治体」はどれを指す言葉であろうか。

 「自治体とは政府のことだ」と考えると、自治体は神奈川県庁・県議会になる。だがそれなら「神奈川県」は自治体ではないのか。自治体でないのならば「神奈川県」は何なのか。あるいは、「神奈川県」も「自治体」だと考えるのならば、神奈川県と神奈川県庁の違いをどう説明するのか。
 市民生活の観念としては「神奈川県」と「神奈川県庁」は同じではない。異別の存在である。

そしてまた、行政の幹部職員が「神奈川県の方針は」「神奈川県といたしましては」などと言う時がある。この言い方に対して、「神奈川県とは県庁のことなのか」「県庁が神奈川県の公共課題のすべてを独占するとでも言うのか」との反感的批判がある。
 「県行政といたしましては」「県庁の方針は」と言うべきだ、との批判的反論がある。

 さて、旧内務省の言葉遣いでは「地方公共団体」と「県庁」は同義語であった。住民は行政の被治者であって「自治主体」ではない。お上の官庁を県民が批判し制御する「政治主体」を認めない。だから「お上である県庁」がすなわち「地方公共団体」であった。
 
しかしながら、旧内務省用語で基礎概念を混同してはならない。とりわけ、行政職員に「神奈川県」と「神奈川県庁」を曖昧に混同させてはならないのである。同様に「自治体」と「自治体政府」の概念も曖昧に混同してはならないであろう。

 神奈川県が「自治体」であって、神奈川県庁(代表機構と代行機構)は「神奈川県の政府」すなわち「自治体の政府」である。そして、その「政府である神奈川県庁」を「神奈川県の市民」が制御するのである。
 すなわち、「自治体」は「自治主体の市民」と「制度主体の政府」との緊張関係で運営されるのである。こう考えるのが「自治体学理論」である。さて、この考え方に次のような反論がある。

 [反論──自治体とは政府のこと]
 「自治体という政府」に市民・住民は含まれない。「政府形成権力である市民」を「市民に奉仕するべき政府」と同列に扱うのはデモクラシーの原理に反する。
 自治体は市民がつくる政府制度であり政治機関である。憲法の「地方公共団体」を「自治体」に置き換えて読めば、自治体は明らかに「政府」(政治・行政機構およびその活動一般)である。
 自治体に「市民」を含める考え方は「国民・領土・政府」の三つを国家の構成要素とする「国家三要素説」を連想させる。国民が政府・領土と同列に置かれて「国家の要素」になるのと同じ考え方である。
 概ねこのような反論である。

 だがしかし、国家を「国民、領土、統治権」であるとする「国家三要素説」は、国家を絶対・無謬の統治主体にするための「虚構の論理」であったのだ。
 そして、「国家」と「自治体」は、方向が正反対である。
 「国家」は「統治主体」として「国民を統治」する。「国民」は「国家の要素」であり「被治者」であるとされる。
 これに対して、「自治体」は「市民」が「政府」を選出し、制御し、交代させるのである。「自治体」には「自治主体として市民」が成熟しているのである。

 さらにまた、いわゆる「国家三要素説」は「国民・領土・統治権」であって「国民・領土・政府」ではない。国家三要素説の「国家の観念」には「市民が選出し制御する政府の観念」は、いまだ熟成していないのである(現在は「国家」と「政府」を曖昧に混同させることが問題なのである)。

 自治体を「市民(自治主体)と政府(制度主体)」の「信頼委託・緊張制御」によって運営すると考えるのが「市民自治の理論」であり「代表民主制度の理論」である。
 この考え方を「市民と政府を同列に論じるものでありデモクラシーの原理に反する」と批判するのは、当を得ていないのではあるまいか。そしてまた、「自治体」が論点になっている時に、「自治体という政府」を「主語」にしての立論は論理的ではないであろう。

 政府と自治体の理論
 そもそも、「政府」と「自治体」は同じ意味の言葉であろうか。
同じ意味であるのならば、なぜ二つの言葉を曖昧に使い分けるのか。

 自治体を政府だと主張する意図は、おそらく、これまで「県庁や市役所」は「地方行政機関」であり、「県や市」は「地方公共団体」であった。そこで、中央に従属しない「地方の自立」を強調するには、「自治体」と「政府」を理論化しなくてはならない。
 すなわち、「地方公共団体」を「自治体」へ、「地方行政機関」を「政府」へと転換する理論である。

「政府の理論」はこうである。
現代社会では前例の無い公共課題が増大するから「政府は中央政府と地方政府に分化するのだ」と説明する。

「自治体の理論」は少し厄介である。
 「国家」を「絶対無謬の統治主体」だとする「虚構の国家理論」を打破しなければならない。そこで「国家」を「人々(市民)」と「政府」に分解して「国家」なる言葉を使わず「市民」と「政府」の理論にしたい。「国家法人理論」から「政府信託理論」への転換である。「国家の観念」には「絶対・無謬の統治主体の観念」が染み込んでいるからである。

 ところが「政府」とは別の「自治体」を認めると、「中央政府」とは別の「国家」が甦る。それは困る。そこで「自治体とは政府のことだ」になった、のではあるまいか。
 しかしながら「神奈川県」と「神奈川県庁」は明白に異別である。

 同様に「国家」を忌避しても「日本国」と「日本国の政府」と「日本の人々(市民)」を指し示す言葉は必要である(国民は「国家の国民」になるからなるべく使わないようにする)。

 ここで認識しておくべきは、「神奈川県庁」はいまだ「政府」になっていない。「神奈川県」もいまだ「地方公共団体」であって「自治体」になりきっていない(その途上)ということである。

 すなわち、「自治体」と「自治体政府」と「市民」は、「国家統治」から「市民自治」への転換を目指す「規範概念」である。
 「統治概念」を「自治概念」に置き換える時には理解咀嚼の困難さが伴うのである。

 「地方公共団体」とは「地方の行政団体」であって、そこにいる人々は「被治者としての住民」である。
 「自治体」には「自治の主体である市民」が「代表権限を信託した政府」を組織して制御しているのである。
 「地方公共団体」と「自治体」の違いは、「政府」と「市民」が成熟しているか否かの違いである。

市民自治
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学理論

1市民自治
 「市民自治」とは、「市民が公共社会の主体であり公共社会を管理するために市民が政府をつくる」という意味である。
 自治体学は「国家を統治主体と擬制する国家学理論」に対して「市民が政府を選出し制御し交代させる自治の主体である」と言明する。すなわち、「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置するのである。
 自治体学は「国家」ではなく「市民」から発想して理論を構成する。
「市民自治」は規範概念であるから、その理解と納得には「国家統治の観念」に対する自身の所見が不可欠である。
 例えば、「自治とは自己統治のことである」と説明されている。この説明は「自治」が規範概念であることの意味が理解できていないのである。
 「統治」というのは「統治支配する主体」と「統治支配される被治者」を前提にする観念である。「自治」を説明するに「統治」の言葉を用いるのは、「自治」を「統治」に対置した規範意味が「理解できていない」のである。すなわちそれは「いまだ現存していない自治」を「未来に向かって現出せん」とする規範意味が理解できていないということである。
 「市民自治」は自治体学の規範概念である。

 岩波新書『市民自治の憲法理論』(松下圭一)が出版されたのは一九七五年であった。それまでは「憲法は国家統治の基本法である」が通説であった。
 この本は「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置し「憲法は市民自治の基本法であるのだ」と明快に論述する。
 かくて、憲法理論と行政法理論は一八〇度の転換が必要になったのだが、憲法学者も行政法学者も「国家統治の観念」で理論構成をしているので「市民自治の信託理論」を容易に認めない。だが、市民と自治体職員は自身の実践体験によって「市民自治の理論」を納得し理解する。

 例えば、菅直人衆院議員は、著作『大臣』(岩波新書)に「私は市民自治の憲法理論で育った世代です」と書き、橋本内閣の時「憲法65条で規定する内閣の行政権の範囲はどこまでなのか」と国会で質問をして「憲法95条の地方公共団体の行政権を除いたものである」との公式政府答弁を引き出した。そしてその経緯を著作『大臣』に国会速記録を付して記述している。

 筆者も学生のころは弁護士志望で司法試験の勉強をした。選択科目は行政法で、弘文堂から出ていた田中二郎『行政法』を熟読していたので、「市民自治の憲法理論」を読んだ時は「ショック」で「目からウロコ」であった。このような経験を多くの人が語る。それが「市民自治の憲法理論」である。

 自治体学には「経験的直観」と「総合的判断」による「未来予測力」が必要である。自治体学理論は「事態を事後的に実証分析する」解説理論ではない。「未来に目的を設定し現在条件を手段として操作する」実践理論である。実践理論であるから「主体鈍磨」と「状況追随思考」の蔓延は極めて重大な問題である。

2 国家法人理論と政府信託理論
 明治の時、「State」を「国家」と翻訳した。しかしながら、「ステート」は「全国規模の政治・行政機構」の意味であって、今風に言えば「中央政府=セントラルガバメント」である。「幽玄の国家」ではないのである。

 「言葉」は「思考の道具」であるから、思考を明瞭にするには「概念」を明晰にしなくてはならない。
 福田歓一氏(元日本政治学会理事長)は、一九八五年パリにおいて開催された政治学世界会議での報告で「われわれ政治学者は国家という言葉を使うことを慎むべきである」「規模と射程に応じて、地方政府、地域政府、全国政府と使いわけるのがよい」「人類の政治秩序の諸概念を再構築することが切実に必要であると信じる者として、過度に一九世紀の用語に囚われていることを告白しないではいられない」と述べた。

 ところが、国会議員と官僚は、現在も「国家観念」を言説し、「政治主体である市民」を「国家統治の客体」に置き換えている。「国家」を隠れ蓑にして「統治論理」を振り回すのである。
 「国家の観念」に「国民」を包含させるから(国家三要素説)、「国家責任」は「国民自身の責任」のようにもなって、国民の「政府責任」「官僚責任」追及の矛先をはぐらかすのである。

 国家法人理論は、「国民主権」と「国家主権」を曖昧に混同させ、「政府」と「国家」の区別を混同させる理論である。
 国家学は「国家統治」の「国家法人理論」である。自治体学は「市民自治」の「政府信託理論」である。
 政府信託理論は「市民」が「政府」をつくって代表権限を信託すると考える。
 民主政治で重要なのは「政府責任の理論」「政府制御の理論」である。

 [政府信託理論]
 政府信託理論を要綱的に整理すれば次の通りである。
(1) 市民は公共社会を管理するために政府(首長と議会)を選出して代表権限を信託する。信託は白紙委任ではない。政府の代表権限は信託された範囲内での権限である。
(2) 市民は政府の代表権限の運営を市民活動によって日常的に制御する。住民投票は政府制御の一方式であって代表民主制度を否認するものではない。住民投票は政府の代表権限を正常な軌道に戻らせる市民の制御活動である。
(3) 市民は政府の代表権限の運営が信頼委託の範囲を著しく逸脱したときには信託解除権を発動する。信託解除権とは解職(リコール)または選挙である。

 七〇年代には「保守」「革新」の対立があった。そのころは「自治・分権・参加」は「革新の側」の用語であった。今は、保守・革新の別なく「市民参加」を口にする。知事も市長も町村長も省庁官僚すらも「分権」「自治」を言う。それはそれで良いのであるが、行政実態は「制度運営」も「手続き」も「統治行政」のままである。すなわち、言葉だけの革新理論である。「自身は何も変わらない」で「自治」「分権」「参加」を唱えているのである。

 「統治行政」を「自治行政」に革新するには「主体の自己革新」が不可欠であるのだ。しかしながら、行政職員は「現状維持的安定」が「保身の価値軸」であるから「自己革新」は禁物である。自分自身は現状のままである。現状のままで「新しい言葉」を使うのである。そのため「市民自治」も「協働」も「内容空疎な言葉」となる。

 これは学者も同様である。「新しい概念」を語り「新しい制度」を提案すれば「事態が変化する」と考える。自分自身に市民としての実践活動が欠落しているから「規範概念の意味」が理解できない。
 例えば、首長も学者も、自治基本条例の制定手続きに「住民合意・住民決裁の手続き」は必要ではないと考える。「首長決裁と議会決議」だけで「市民自治制度」が創設できると考える。すなわち、言葉だけの「市民自治」である。認識理論が実践理論と相関していないのである。

自治体学理論の北海道での実践
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
 自治体学理論の北海道での実践

 町内会役員から「北海道での25年」の話をサロンでと言われて、最初は「話すこともありませんから」と辞退したが、自分を顧みるよい機会だと思い話ました。以下は当日(2019-8-19)の札幌市中央区二丁目町内会「サロンえいと」での話です。

 北海道に来たのは1993年です。
 北大学長から長洲神奈川県知事に「私の割愛依頼」の文書が届いて北海道に来ました。北大で5年、北海学園大で10年、北海学園の非常勤講師で10年の歳月でした。北海道の25年を振り返って「良かった」と思う第一は、「自治体学理論」を人前で話せるようになったことです。

 自治体学理論
 北海学園大学で「自治体学」(専門科目・四単位)の講義をしました。そして『自治体学入門』 『自治体学とはどのような学か』の書物を刊行しました。コレがその本です。

 「市民自治の理論」は松下圭一先生から教わりました。松下先生は私には学問の恩人です。ですから「松下先生追悼の集い」を自治労会館で、「松下理論の今日的意味」の公開講座を北海学園大学で、それぞれ開催できたことが「とても良かった」と思っています。
 
   北海道自治土曜講座
 第二は、1995年から北海道自治土曜講座を21年継続したことです。実行委員長を21年勤めました。北大会場で(16年)、北海学園で(5年)開催しました。最初の16年間は年5回-月1回(第三土曜) 受講料 1万円でした。

 北海道新聞の『卓上四季』は、「公務員が自腹で勉強を始めた」と書きました。土曜講座の人気が高くなり、私は事務局(北海道町村会)に「受講申込を断らないでください」と言い、事務局は「受講者が会場に這入れないと責任問題になります」の返答でした。

 二年目は872人の受講者でした。会場を厚生年金会館にして、翌日からは二会場に分けて講師は同じ講義を二回しました。
 毎回の講義をブックレットにして刊行し(115冊)、『北海道自治土曜講座の16年』を出版頒布しました
 (公人の友社-1.600円)  コレがその本です。 私の北海道での25年は殆どが自治土曜講座の開催でした。 

無防備都市宣言条例の署名運動 
 大学で学生に講義をする職業が終わったら、次は無報酬で「反戦平和の市民運動」をやろうと思っていましたから、赤レンガ広場の横のKKRホテル二階のレストランで「無防備平和地域宣言」の署名運動の代表人を頼まれ引き受けました。

 札幌を無防備平和都市にする宣言条例制定の署名運動です。条例制定の署名運動は「姓名・住所・生年月日・捺印」の署名を集めるのです。「60日」で有権者数の2%の署名を集めるのです。

 札幌市の有権者数は155万9千557人(2.007年)でしたから、その2%は(31.192人)です。最初は(できない・無理)だと思っていました。だが、多くの人々が本気になり、私も本気になって、4万1千619筆の署名を集めて成功しました。

 (団体や組織の役員) と (市民運動の人)は、「発想」と「思考回路」が異なります。
 団体や労組の役員は 「組織決定して組織動員」です。そして「失敗したときの責任」を常に考えます。ですから 「やりましょう」にならない。時期尚早と言います。決断できないのです。市民運動の人は「自分の考えで決断します」「やってみよう」です。失敗したときの責任よりも「やらなくては、やってみようよ」と発想します。

 署名がはじまると 「お前はアカだ」「お前の講義を聴く学生は哀れだ」「ヤメロ」のメールが 毎日何百通も届きました。その一部を(パソコンに保存してあります)
 
当初のころの大学の用務で何もできなかった日のことです。
札幌エルプラザでの夕刻の「署名獲得数の報告会」で、(自分は代表人でありながら今日は何もしなかった)と、その場に居たたまれぬ辛い思いになりました。でその翌日から足を棒にして、最高は一日で179筆の署名を獲得しました。(この数は今も全国トップで破られていません) 
 署名運動での感動的な体験を『無防備平和』の本に書きました。この本です。

後日、中国の延安に行ったとき、延安大学で講演を頼まれて「日本の近代化」のタイトルで話しました。近代化とは「経済の工業化」と「政治の民主化」であると述べ、日本の人々はアメリカに従属する日本政府に抗して「無防備平和の市民運動」を展開していますと説明し、この本(谷百合子編・無防備平和)を延安大学に寄贈しました。

 この「DVDビデオの箱の写真は」、4萬1千619筆の署名を集めた最終日の感動の場面です。 私の顔も写っています。 無防備平和の署名運動は北海道生活での感動的な思い出です。
 書物-『無防備平和』(高文研-1.600円)  ビデオ-『無防備地域宣言-平和なまちをつくる』

  市町村合併の反対運動
 25年を振り返って良かったことの四つ目は、小泉構造改革の「地方切捨ての市町村合併」を批判し反対したことです。
 合併は22兆円の地方交付税の削減が狙いです。北海道の町村は、面積は広大ですが人口は減少しています。人口1萬人まで一律に合併させるのは住民自治の侵害です。合併押付けは住民自治を後退させることです。

 ですから、北海道だけでなく、全国各地で「住民の意見を聴け」の声がおきました。そして「住民投票条例制定の署名運動」が始まりました。だが議会が住民投票条例制定の住民の声を否決しました。否決する根拠に「50%条項」が援用されました。

 「50%条項」とは (徳島市議会で「吉野川河口堰の住民投票を葬るため」「投票率が50%を超えない」ときは「住民投票が成立しなかったのだ」として、「投票箱を開かず焼き捨てる」) という条例をつくりました。この(50%条項)が「合併の住民投票を葬るため」に全国各地で悪用援用されたのです。

 北海道での典型的な事例をお話します。
 石狩市 ― 投票箱内の投票を焼き捨てた事例
 南幌町 ― 住民投票で反対が多数であったが、町長は合併を強行しようとしてリコールが始まり町長が退陣した事例 
 奈井江町― 合併是非の判断資料を全所帯に八回)配布し、町長・議員は町民懇談会で説明し(中学校でも説明) 小学五年生以上が投票した事例 (子供投票箱は別)

衆議院で参考人意見陳述
 国会から「合併促進の法改正」に対する参考意見を求められて、反対意見を衆議院総務委員会で陳述しました。その動画が今もインターネットに流れています。その動画をパソコンでちょっと見て頂きます。 https://www.youtube.com/watch?v=2tqXt27Z3tU

 そして、全国各地から「合併反対の講演」を依頼されました。神奈川県での文化行政のときの講演依頼と合わせると、47都道府県のすべての地域に出かけました。そのとき「自分は今この世の中に生きているのだ」と実感しました。

  原発民衆法廷  
 原発事故は「人間には手に負えない」のです。そして「絶対安全は無い」のです。現に福島では、今も自宅に帰れない何万人もの人が「避難住宅で自殺と神経症」で苦しんでいます。一部の人の利権のために多数の人が犠牲になっているのです。そしてゼネコンは莫大な復興基金で潤っているのです。

 札幌の民衆法廷は、泊り原発の危険極まるプルサーマル計画に賛成した高橋はるみ知事と奈良林直(北大教授・元東電社員)の責任」を弾劾する民衆の法廷です。民衆法廷での私の発言が インターネットに流れていますので、それを(ちょっと)見て頂きます)
 https://www.youtube.com/watch?v=9CToAeO175Y
 
 北海道が大好きになりました。冬の雪景色がとてもスキです。いつまでも北海道に住んでいたいと思います。だが、大学で講義をする職業が終わって、いつまでも家族と離れているワケにはいかないので、この秋に横浜に帰ることにしました。

森 啓 もり けい 
 1935年徳島県生まれ・中央大学法学部法律学科卒業・神奈川県自治総合研究センター研究部長・北海道大学法学部教授 (公共政策論)・北海学園大学法学部教授 (自治体学)・北海道地方自治土曜講座実行委員長
<現在>北海学園大学法科大学院講師・NPO法人自治体政策研究所理事長
ブログ「自治体学」 http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/
自治体学の実践
(カテゴリー: 自治体学理論
  自治体学の実践

 本稿は、筆者が自治体学をどのように実践したかの記述である。自治体学は課題を設定し解決方策を考案する実践理論であるから、自治体職員としての「仕事の仕方」が自治体学の実践である。

 1 文化行政
 1977年7月、神奈川県に文化室が新設された。筆者はそこに企画担当として配置された。企画担当の最初の仕事は「文化行政とは何か」「文化行政とは何をすることか」「行政が文化を政策課題にできるのか」を考えることであった。
 皆目見当がつかない。独りで考えたのでは思案がまとまらない。
 そこで、三つの組織をつくった。

 一つは、仲間を集めて時間外の自主研究会。
 二つ目は、県庁内のメンバーによる「文化行政・研究プロジェクトチーム」の設置。
 全庁からこれと思う人を選りすぐり本人の内諾を得ておいて、文化室から文書でそこの部長に、「文化行政の全庁プロジェクトを設置するので、文化と関連の深いこの課から参加して頂きたい」と依頼した。そしてその課長に「実は○○さんに内々頼のんであります。知事もそれはいいねと言っています」と依頼した。「知事の耳にも入っているの?」「そのようです」と答えた。
 そう答えなければ、「チーム員を一名出してください」だけでは、「「○○君はわが課のしごとで忙しい」「最近転勤してきた者を出しておけ」になる。エースはよその課の仕事に出さないのである。

 三つ目は、文化問題に見識のある方に委嘱する「文化行政懇話会」の設置。
 当時の県庁の慣例は、行政外の識者に委員委嘱するときはタイプ文字の小さな委嘱状であった。

秘書室に行って「神奈川県で賞を出すときの一番大きな用紙は何ですか」と訊いた。「神奈川文化賞です」、「その用紙を見せて下さい」。神奈川の県章が透かしになっている大きな立派な用紙であった。
 「この用紙を10枚下さい」、「何に使うのですか」、「文化室で文化懇話会を設置するので委員の委嘱に使いたい」、「あなた、これは神奈川県で一番権威の高い賞の用紙ですよ。室や課の懇話会委員の委嘱状に使うものではありません」と言う。
 「秘書室長がいいと言ったらいいですか」、「室長にそのような話はしないで下さい」、「あなたは駄目だというから室長に頼むしかない」、「私から話しておきます」。

 「駄目だと思っている人が室長に言えば、駄目ですよねぇと言うに決まっているから、わたしが頼みます」と言って、翌日、八時前に出勤して秘書室に行き、室長に「実は‥」と言いかけたら「賞状のことね」と。やはりすでに職員が話してある。
 「いいでしょう」と言うと、「いいけど、あんな大きな紙をどうするの」、「それは文化室に任せてください、秘書室の立場を潰すようなことはしませんから」と言い、「いいよ」になって用紙10枚を受け取った。
 その室長は市民感覚のある人で知事の受けも良く暫くして部長に抜擢昇進した。
 
 県庁の文書課には賞状に墨字で書く専任の人がいる。その人に頼んだ。
 「二十一世紀を展望する神奈川の文化を考える懇話会委員を委嘱します」と墨痕鮮やかに書き、大きな「神奈川県」の印鑑を朱肉で押してくれた。立派な委嘱状である。

 それを懇話会の第一日目に知事から手渡してもらった。
 第一回目の懇話会は、「私はこれまで役所から委嘱状をいっぱい貰ったが、こんな立派な委嘱状をもらったことはない」「これは額に入れておけますねぇ」などと委嘱状を巡っての和やかな談論になった。
 「文化と行政を考える」のは、今の行政を問い直すことである。「何ごとも前例に従って無難に大過なく」の役所の文化をまず問わなくてはならない。
 文化ということばで行政のあり方を問い直さなければ、意味ある事業や制度や施設にならない。経済発展のため捨てられた美しさや楽しさなど、人間ならではの価値を地域に創りだす文化行政を考える懇話会である。これまでとは違った何か心に訴えるものが必要だと思ったのである。

 自主研究会、庁内プロジェクトチーム、文化行政懇話会の三つの提言書が、神奈川県の文化行政のスタートであった。
 自主研究会の「文化行政への提言」は、月刊「職員研修」79年4月号で全国に紹介された。文化行政の草創期のころである。

 2 文化行政壁新聞「かもめ」
 文化行政はタテワリの部門行政であってはならない。文化事業を執行するだけの行政でもない。それまでの行政は、省庁政策に従属する画一行政であり産業基盤を整備する工業的都市開発であった。緑地は失われ川は汚濁の排水路になり、全国各地が個性のない姿になっていた。そして職員は、責任回避の上司に従属する保身の地方公務員であった。
 文化室の任務は「行政を文化行政と言えるものに改める」ことにある。「職員の仕事の仕方」を変革しなければならない。

(1)壁新聞を着想
 知事の発想で「文化室」は新設されたが、議会の多数会派は長洲知事に得点をさせたくない。そのため、幹部職員は人事権を持つ知事に従うけれども面従腹背であった。
 文化行政には冷たい空気が庁内に漂っていた。「文化行政の市民権」を庁内に確立しなければならない。「文化行政壁新聞」を刊行しようと考えた。

 パンフレットの類は直ぐに紙屑になってしまう。「一か月貼り晒し」の壁新聞が良いと思った。
 ところが、文化室長も県民部長も「一体何を掲載するのか」「掲載する内容があるのか」であった。文化行政は知事の目玉政策であるから反対も出来ない。だが壁新聞の予算要求に(内心では)不賛成であった。
 
(2)予算要求 
 消極的な室長と部長が予算を財政課に要求することが(ようやっと)決まった。
ところが、年休で一日休んで出勤すると何やら雰囲気がおかしい。若い職員に問い質すと、「森さんには言わないようにと言われているのですが、昨日部長室で『壁新聞はDランクで要求する』と県民部として決めた」とのことであった。「Dランク要求」とは「削って結構です」の予算要求である。

 総務部長に会いに行った。原総務部長は副知事になりたいと思っている。だが知事が議会に提案しなければ副知事になれない。副知事は知事の胸三寸である。文化行政は知事の目玉政策である。総務部長は知事に忠誠を示さなくてはならない。
 「森君、壁新聞を毎月出せるのかね」と訊く。「壁新聞だけでなく七項目の文化行政予算を全て知事査定に上げて下さい」と頼んだ。「七項目全てを知事査定に上げて大丈夫かね」「大丈夫です、知事には話してありますから」と言った。(知事には何も言ってはいない)。
 総務部長査定が終わった直後の県民部総務室で「おかしいなぁ─Dランクがみんな通った」と職員が話しているのを耳にした。
 
 次は知事査定である。1978年1月7日、いつもより早く出勤して秘書室職員に「知事に話があるので査定前に会わせてほしい」と頼んだ。秘書は「文化室の森は知事と特別な関係がある」と錯覚したのか、「知事さんがお出でになりお茶を差し上げ日程を説明した後に一番でお会い頂きます」となった。
 部屋に入っていくと知事は独りであった。「文化行政予算を全て認めて下さい」「森君、これ全部やれるのかね」「やります」「分かった」になった。

 かくして、文化室の文化行政予算は全て実行可能の予算になった。
  1 文化行政壁新聞の刊行
  2 文化行政推進本部の設置
  3 文化のための1%システムの開発
  4 地方の時代映像祭の開催
  5 行政のデザインポリシーの策定
  6 文化の第三セクターの設立
  7 全国文化行政学会の設立

(3)文化行政壁新聞・ポパール 
 話は少し遡るが、財政課に予算要求をする段階で、壁新聞に名前(表題)をつけることになった。いろいろと考えたが「良い愛称」が浮かばない。当時売れていた雑誌に「ポパイ」「ポスト」があった。「パピリオン」という商品もあった。発音はパ行である。「ポパール」という音が浮かんだ。語感が良い。何度か唱えていると「これで良い」と思った。苦し紛れの命名で特別な意味はない。

 財政課長査定で「ポパールの意味」が訊かれた。筆者はその日は出張で県庁にいなかった。誰も答えられない。出張先に電話がかかってきた。音(オン)で「ポパール」としたのだから意味はない。だが「意味はない」とも言えないので、咄嗟に「ラテン語」で「人々の芸術」という意味です。英語なら「ピープル・アート」ですと返答した。

 翌日、出勤すると「昨日は大変だったのよ」と東京外大卒の女性職員が言う。財政課からポパールの綴り「スペル」を訊かれて、その女性が図書館からラテン語辞典を借りてきて調べたが見つけられなかったとのことであった。「出てなかったかねー、POPALだよ」と苦笑して呟いた。「綴り」なんぞ「どうだって良いではないか」と思った。

(4)「ポパール刊行」の予告記事
 知事査定で壁新聞「ポパール」の発刊は定まった。
 壁新聞の標的は県庁職員である。当時の神奈川県庁には二代前の内山岩太郎知事が「教養月報」と命名した全職員配布の月刊の広報紙があった。壁新聞を注目させるには刊行予告が必要であると考えた。

 その「教養月報」に「論説的予告記事」を掲載しようと考えた。小村喜代子さんという庁内でも有名な女性編集者に会いに行った。快諾を得た。
 役所では、業務に関する原稿を庁内広報紙に書くときには、上司の「事前了解」と「原稿内容の承認」を得るのが通常である。それを知らないわけではない。だが、文化室長は庁内広報紙に掲載することを(自分では)決められないだろう。次長と部長に相談するであろう。そして「時期尚早」などの言い方で掲載は先送りになるであろう。「波紋が庁内に広がる」ことを極力避けたいのが幹部公務員の常套である。
そしてまた、「教養月報」に掲載するになったとしても「原稿」は無意味な内容に変質するであろう。そうなれば、壁新聞発刊の「新鮮な衝撃イメージ」は職員に届かない。そこで、誰にも相談しないで原稿を書いて職員課に届けた。

(5)「ポパール」から「かもめ」に
 県民部担当の湯沢副知事から電話で呼び出された。副知事室に入っていくと「森君、壁新聞の名前は知事さんに付けてもらったらどうかね」と言われた。「やっとここまで漕ぎつけた」の想いがあったから内心不満であった。だが嫌とは言えない。「そうですか」と言って退室した。
 自席で「どうしたものか」と思案した。そしてふと思った。この壁新聞は現状維持の庁内文化に異質の価値観を提示するのだから、必ず悶着を起こすであろう。そのとき「知事命名」は役に立つ。そう考えて秘書課に「知事に命名して貰いたい」と電話した。
 
 暫くして知事在室の連絡が来た。知事室に入ると「にこやかな笑顔」で迎えられた。「暗夜に松明」の「たいまつ」、「文化を配る」の「トリビューン」も良い名前だね。だが既に使われている。そう言いながら立ちあがり、書棚から事典を出してきた。「森君も考えてごらん」と言うので「私はポパールです」。「人々のアートだそうだが、タイトルは分かり易いのがいいからね」と。黙って待っていると「考えるから、君も若い人の意見を聴いてごらん」となって退室した。

 翌日午前、特命秘書の蔵から「知事が考えてきたよ」と電話がきた。「何という名前?」「かもめだよ」。瞬間「悪くない」と思った。
 「県の鳥」は「かもめ」である。知事がそれを「壁新聞」の名前に付けた。「かもめのイラストも描いてあるよ」と蔵がつけ足した。
  (特命秘書であった蔵さんは現在札幌市内で喫茶店を開業している) 

 そのとき「アッ」と気付いた。職員課の「教養月報」に出した原稿のタイトルは「ポパールの発刊」である。大慌てで職員課に電話した。「小村さんは神奈川新聞社の校正室に行っています」。神奈川新聞社に電話した。「最終校正をしています」と小村さん。「タイトルも文章も全て『ポパール』を『かもめ』に訂正して下さい」。危ないところで間に合った。
 かくして「ポパール」は「かもめ」に改名された。

(6)県庁のトイレに
 次の問題は「文化行政壁新聞・かもめ」を何処に貼るかである。県庁内の各課室内の壁面はロッカーが占拠して貼る場所が無い。エレベーター内を考えたが、身体に近すぎて読めない。玄関入口に貼っても県庁職員は早足に通り過ぎるから読まない。そこで「新庁舎のトイレ」に貼ろうと思った。

 だが、庁舎管理は年々厳しくなっていた。革新団体などが要求運動で県庁にやってきて敷地内でビラ配りをするのを規制していたからである。トイレに壁新聞を貼るのは容易なことではない。容易ではないが「貼る場所」を確保しなくてはならぬ。

 庁舎管理の責任者である出納長総務課長に会いに行った。
「聞いていられると思いますが、文化室の『壁新聞』の掲示場所の件ですが…」と切り出した。課長は怪訝な表情で「何の話しですか」と言う。「まだお聞きになっていませんか、秘書課から話しはきていませんか」「実は過日、知事と話していたとき『かもめ』の掲示場所の話しになって、新庁舎トイレの洗面場所が良いと言ったら、知事が『それはおもしろいね』となつて、『知事からも庁舎管理課長に言っておいて下さい』ということだったのです」と話した。
 
 総務課長は「聞いていませんが『トイレ』にですか、一度認めると職員組合もステッカーも貼らせろとなると困るしねー」と。当然ながら「それはダメです」の表情であった。
 ところが、翌月は「定期人事異動」である。部課長クラスの大幅人事異動が噂されている時期である。部課長の人事は知事の専権である。総務課長の脳裡には「職務を無難に」と「昇格への期待」が交錯する。しかし「トイレに壁新聞はねー」と呟く。天秤が脳裡で右と左に傾く。

 そこで「こうしたらどうでしょうか」と提案した。
 「一回だけ試行的に認めて、二回目の『継続するか』『止めるべきか』の判断は『総括管理主幹会議』で行う」「『総括管理主幹会議』の議題にすることは文化室が責任でやりますから」と言った。総務課長は「文化行政壁新聞は知事の肝いりである」「継続して貼るか否かは庁内会議が判断する」と考えたのであろう。「試行的ならいいかな」と呟いた。間をおかず颯と用意してきた「トイレに掲示」の「伺い文書」を差し出した。
 
 庁舎管理の責任者である出納総務課長のハンコを貰うことに成功した。(知事との過日の話はもとより架空のことである)
 直ちに県民部に戻って県民部長に決裁をお願いした。県民部長は「出納総務課長はよく認めたね─」と言いながらハンコを押した。次は次長決裁である。部長が決裁しているのだから「内心で何と思ったか」は別としてハンコを押した。最後に文化室長の決裁である。
 役所の通常では手続きが逆である。文化室長も内心に複雑以上のものがあったであろう。普通ならば認めがたいやり方である。だが県民部の幹部にも「翌月の人事異動」が作用していたのかもしれない。しかし「庁内ルールを無視するふるまい」の烙印は確実に吾が身に刻印されていく。しかしながら、通常の手続きでは何もできない。役所文化では「文化行政」を具体化することはできない。もともと「文化」と「行政」は異質である。

 文化室の職員に頼んだ。男性と女性の二組で「今直ぐ、新庁舎地階から十二階までのトイレに貼ってよ」と。トイレに壁新聞を貼るのだから、ボヤボヤしていると「ちょっと待った」がこないとも限らない。県庁の男性トイレには「小用を足す目の前」に貼った。(役人意識が脱けているときである)。女性トイレには身だしなみを整えるスペースに貼った。貼り終わったのを見届けてホッとした。文化行政の初期のころは全てが「役所の作法」との「綱渡り競争」であった。
 
 本庁舎と分庁舎のトイレにも貼った。後は急ぐことはない。順次に掲示場所を確保していった。十二階の職員食堂、屋上の図書室、別館の職員会館、地階の売店にも貼った。


(7)専有掲示場所
 オレンジ色に黒色で「文化行政壁新聞・かもめ」と書いたラベルを「発砲スチロール」に貼りつけて表札を作った。表札の裏面には両面の粘着テープが付着してある。一度貼ると剥がせない。剥がすと「発砲スチロール」が壊れる。 
 出先の職場にこの「表札」を「壁新聞」と一緒に送付した。「教養月報」に予告されていた壁新聞であるから、庶務の職員が適宜な場所に表札を貼りつけその下に掲示した。その瞬間、そこが「かもめ」の専有掲示場所になる。
 全国の都道府県にも送付した。その話は後で述べる。

(8)編集委員
 壁新聞「かもめ」の狙いは「役所文化への斬り込み」である。編集委員には覚悟と才覚が必要である。そこで委員の選出に工夫を凝らした。
 まず問題意識と感覚の優れた職員と個別に会って同意を得た。その後で「文化室長名の公文書」で所属長に「この職員を推薦して頂きたい」と依頼した。そして、編集委員が腹を括るべく、知事室で「『文化行政壁新聞・かもめ』の編集委員を委嘱する」と墨書した依嘱状を知事から手渡して貰った。編集委員は七名。

 役所の通常では、このやり方は全てがルール違反である。(ここで断っておくが長洲知事と筆者は特別な関係ではない。文化室に異動になる前には会ったこともない。だが知事の目玉政策を現実化するのだから、この程度のことは知事にやって貰ってよいではないかと思っていた)。

 ところで、「毎号の内容」は七人の編集委員で決めるのだが、紙面にその内容を表現する「デザイン力」は素人では難しい。そこで東京芸術大学講師の吉本直貴さんにお願いした。吉本さんは「県庁内に貼り出す壁新聞を珍しい」と思ったからでもあるが、無料で最後まで協力して下さった。
 そこで、紙面づくりは一切を吉本さんにお任せした。「イラスト」も「キャッチコピー」もお任せした。責任は文化室企画担当の筆者である。壁新聞は文化室の予算であるが、文化室長にも事前の了承を得なかった。知事室での「依嘱状の手渡し」は「知事特命の編集」にするための工夫であったのだ。

 ある号で、次長室に呼ばれた。「森君、この文章はこう書くのが良かったのでは」と助言された。「そうだとは思いますがお任せください」と答えた。一度「助言」を受け入れると次第に「事前了承」になってしまうからである。「真に相済みませんが、気づいても助言はしないで下さい」とお願いした。
  
(9)服装は思想
 第一号のタイトルは「服装は思想です」であった。
 役所は形式的で画一的だと批判されている。何事も「前例と規則」である。仕事ぶりは「無難に大過なく」である。公務員の服装は「ドブネズミ」と言われている。みんな同じ色のスーツである。葬式でもあるまいし、個性的な洒落た服装であるべきだ。真夏にネクタイは暑苦しい。開襟シャツを着こなせばよい。「個性のない服装」だから仕事も「無難に大過なく」になるのだ。
 
公務員の変身が文化行政には必要である。そこで「服装は思想です」にした。この壁新聞を「県庁舎のトイレ」「全ての県内職場」に貼り出した。新聞各社は写真入りで報道した。創刊号「かもめ」は初夏の空に飛翔した。1979年5月15日であった。

(10)神奈川県庁のムダ
 第十一号は「ムダの考現学県庁の場合」である。新聞各紙は「庁内壁新聞『かもめ』が内部告発」、「県庁のムダをヤリ玉に」などの見出しで1980年3月10日の朝刊で一斉に報道した。

 前号で「役所のムダ」についての投稿を募集した内容である。殆どは匿名であったが、投稿者の四割は女性であった。また「無駄とは何か」を課内で討論してまとめた投稿もあった。投稿の内容は「職員配置の不均衡のムダ」「仕事の量・質より職員の数が多ければエライ思い込んでいる所属長のお役人気質」「コピー時代に流されて安易に資料をつくる」「会議が多過ぎる」「多過ぎる役職者」「女子職員のお茶くみ」「議会開催中に五時以降の居残り職員が多過ぎる」などであった。

 新聞とテレビが報道して話題になり県議会でも論議になった。
 議会で話題になるのは良いのだが、自由な紙面づくりが出来なくなることを心配した。県民部幹部の事前決裁(検閲)になっては困る。信頼できる議員に相談して県民環境常任委員会の後部に座して論議を聴いた。「部長が紙面を抑制することはしないだろうな」「文化室から出ていることが良いのだから」などの激励発言であった。
 
 「かもめ」が、議会で論議になって新聞で報道されたので、管理職も読むようになった。800部刷って県の職場だけでなく県内市町村にも配布した。全国の都道府県にも先に述べた「発砲スチロールの表札」を付けて送付した。

 文化行政を自治体の全国潮流にしなくてはならない。「かもめ」を「文化行政の全国情報紙」にするためである。後日、他府県の文化行政担当課を訪れると「かもめ」が「発砲スチロールの専有掲示場所」に貼られていた。
 各号の「タイトル」と「内容」は『物語・自治体文化行政史─10年の歩み』(神奈川県文化室・新曜社-1988)に掲載されている。

 3 自由民権百年大会

 文化行政を研修科目に
 1980年8月、神奈川県は30年続いた「公務研修所」を「自治総合研究センター」に改組した。松下圭一教授の助言を得て「地方公務員の養成所」から「自治を研究するセンター」に改革した。この改革が全国に波及して「職員研修所の再編」が時代の波となった。
 その自総研センターの所長に会いに行った。目的は「文化行政」を職員研修の必修科目にして貰うためである。壁新聞刊行と同様に「文化行政の問題意識」を全庁に広げるためである。

 武井所長に「研修所を改組したのだから、なるほど変わった! とハッキリ見えることが大切です」と切り出した。「いろいろ考えてはいるが、何か良い考えがあるかねぇ」と返ってきた。
 用意してきた「政策研修の手法」と「講師名」を書いたペーパーを差し出した。そこには、井上ひさし「未来への想像力」、色川大吉「自治と自由民権」、谷川健一「文化の火種としての地名」、松下圭一「市民文化の可能性」などを書いておいた。

 「こんな著名講師が通常の講師謝金で来てくれるのかね」と尋ねる。「頼み方です。行政の革新をやりたいので協力して貰いたい、と心情を披歴して頼むのです。これらの方々は謝金の額ではない。自分に何を頼んできたかで心が動くのです」と弁じた。
 
 所長は「それなら君が折衝してくれないか」と言う。「それでは研修部長が面白くない気持ちになります。文化室の職員がなぜ講師折衝をやるのかになりますよ」「いやそれはない。それより折衝して貰いたい」となった。
 文化行政を必修科目にすることを交換条件に折衝を請け負った。

 ◎井上ひさし氏
 電話をしたが、よし子夫人のガードで本人と話しができない。人気作家の井上さんには多様な依頼がくる。だが「こまつ座の脚本」も開演初日までに間に合わないときがある。健康管理もあって、よし子夫人の関所は鉄壁で、研修講師は頼めなかった。
 だがこの七年後に「文化ホールがまちをつくる」を学陽書房から刊行したことで、井上さんが郷里の山形県川西町で毎年お盆に開いている「生活者大学校」の講師に招かれることになり、そこでの見聞を講談社の「月刊・現代」1993年11月号に『川西町』を書いた。生活者大学校での二回の講義は「井上ひさしの農業講座」(家の光協会)に収録された。
 それ以来、井上さんから新刊本を刊行の都度頂いた。書架には長編小説「一週間」(新潮社)、最期の戯曲「組曲虐殺」(集英社)、「東慶寺花だより」(文芸春秋)など87冊が並んでいる。

 ◎色川大吉氏
  電話で話すと「その内容なら神奈川県史編纂委員の近代史の江村栄一先生に依頼されるのが筋です」と断られた。電話では意が伝わらない。「会って下さい」、「会っても同じです。引き受ける訳にはいきません」、「会って下さい。会って下されば今の話しはしませんから」と。「それなら何のためにやって来るのか」と色川さんは思ったであろう。

 だが「とにかく会って下さい」の語調に「何かを感じた」のかもしれない。会う約束をもらった。
 当日(1980年4月28日)、書架から色川さんの本8冊を取り出しボストンバックに入れて国鉄横浜線に乗った。東京経済大学のある国分寺駅まで、車内で次々と本をめくって朱線を引いてある頁に栞を挟んだ。

 東京経済大学に着いた。指定された場所は研究棟の玄関ロビーであった。「会うだけ」だからであろう。挨拶をして、ボストンバックの本を出しテーブルに並べ、朱線の入った頁を開いて「ここのところを」「ここのところが良い」と言い始めた。色川さんは笑い出して「寄り切りで私の負けですな」「何日にいけば良いのですか」と言ってくださった。

 自由民権百年大会の会場
 研修当日は自治総合研究センターの玄関で出迎えて聴講した。昼食は所長の配慮で長洲知事お気に入りのレストラン(かおり)に行った (通常は講師控室での出前弁当である) 。  
 色川さんから「自由民権百年全国集会の会場」が見つからないで苦慮しているとの話が出た。即座に「神奈川で開催して下さい」「相模は自由民権の歴史のある土地ですから」と言った。「三千人くらい集まります。会場がありますか」と訊く。「神奈川県民ホールは2450人の座席があります、会議室もあります」「それは有難い話ですが、二日間借りられますか」「大丈夫です」と答えた。傍らの所長は少し心配げな顔であったが「それはよい」と言った。全国集会は翌年の81年11月21日と22日である。

 県民ホールの予約
 県民ホールは山下公園に面した良い場所にある。二日間の予約を確保するのは簡単ではない。県庁には役所流儀の処世術に長けた人がいる。県庁内の人脈に詳しい人である。そのK氏に事情を話して頼んだ。「分かった」と引き受けてくれた。こうして会場は確保できた。
 暫くして、色川さんから「会場のお礼」と「当日の祝辞のお願い」で長洲知事にお逢いしたいと連絡があった。文化室長にその旨を伝えた。 廊下を歩いていると部長室から怒声が聞こえた。応接の女性に「誰がやられているの」と訊いたら「貴方のとこの文化室長さんですよ」と言う。

 壁新聞のころの県民部長は人事異動で交代していた。今度のTa部長は大声で部下を叱責することで有名であった。「廊下まで怒声聞こえる県民部」という川柳めいた噂のある部長である。
 文化室に室長が帰ってきたので「何のことですか」と訊ねると「自由民権大会のことだよ」「自由民権が文化室と何の関係があるのか」と叱られたと言う。
 「何と答えたのですか」「あまりの剣幕で返答できなかった」とのこと。「文化行政は明治百年来の近代化の文化を問い直す仕事です」と答えてもらいたかった。「今度部長室に呼ばれたら私も連れていって下さい」と頼んだ。

 突然の不在
 さて、「知事表敬」の当日のことである。著名な歴史学者である遠山茂樹、色川大吉、後藤靖、江村栄一の方々が県庁にやってきた。当日の手順は、県民部長室に来て頂いて、県民部長が知事室に案内することになっていた。筆者は玄関で出迎えて八階の県民部長室に案内した。
 ところが部長室には誰もいない。部長、次長、文化室長の三人がそろっていない。応接の女性に訊いたが「知らない」と言う。「ハハーン」と思い「それならば」と思った。応接女性にお茶を出してもらって、内心で「今日は自分が県民部長である」と思いながら、「急用で部長は不在になりました」と言って一人で応対した。練達な先生方はこの日の情況を了察して「長洲さんもたいへんだな」と思ったであろう。

 先生方に「これから知事室にご案内いたしますが、県庁の流儀では『どの部署が自由民権百年大会を担当するか』が重要なことです」そこで「先生方から文化室にお願いしたいと言って下さい」と話しておいた。
 知事はにこやかに応対した。知事室には四人の客と知事と筆者の六人だけであった。

 案の定、知事は筆者に顔を向けて「担当は何処になるかな」と訊いた。「文化室でお願いできれば」と手筈どおりに遠山実行委員長が言った。「県民部でよいかね」と知事は筆者に言い「結構です」と答えた。それで県民部が担当することに決まった。先生方は少し談笑して帰られた。 
 この間、県民部幹部は何処に居たのであろう。示し合わせて不在になったのは、議会の多数会派に「自由民権百年大会」を県民部が望んで支援したのではないのだと、示したかったのであろうか。部長、次長、室長の三人はその間「何の話」をしていたのであろうか。

 自由民権百年全国集会
 一九八一年十一月二十一日と二十二日の両日、神奈川県民ホールで自由民権百年全国集会が開催された。全国から研究者、教員、学生、市民の約四千人が参集した。 
 会場は熱気に包まれ参加者は自由民権運動の歴史的意義について論じ合った。なかでも参加者が激しい拍手を送ったのは、壇上に並んだ、秩父事件(一八八四年、埼玉県秩父で農民らが借金の据え置きなどを求めて蜂起した事件)など、自由民権期に各地で起きた激化事件で殉難した民権家の遺族約七十人に対してであった。一世紀にわたって「暴徒」とか「逆賊」とかのレッテルを張られてきた民権家の子孫が名誉を回復した感動的な場面であった。

 長洲知事は祝辞を述べ萬雷の拍手で会場提供を感謝された。歴史学者家永三郎、松本清張、小田実などの著名な方々が次々と登壇した。前年放映されたNHK大河ドラマ「獅子の時代」で主役を演じた加藤剛さんは「自治元年」のセリフを朗唱した。新聞・テレビはこれらを連日大きく報道した。 
 
 後日のことであるが、埼玉県の畑知事は「なぜ神奈川県なのか、秩父事件の埼玉でこそ開催すべきなのに」と嘆じた。それを聞いていた人が「埼玉県庁にはモリケイがいないからだ」と呟いた、と人づてに聞いた。
 博報堂から知事室調査班に派遣職員で来ていた人が「文化室のやり方が本当の『県の広報』だ」と評したことも耳にした。(自慢げに言っているのではない。自治体は真剣勝負の職場であると言いたいのだ)

 ◎谷川健一氏
 谷川さんの「文化の火種としての地名」の講義は刺戟的で新鮮であった。これがご縁になり、そのころ谷川さんが念願していた「地名全国シンポジュウムの開催」に協力することになった。
 知事室と連携して、川崎駅前の日航ホテルで、長洲知事と伊藤三郎川崎市長が揃って記者会見を行い、「地名全国シンポ」を「神奈川県と川崎市が共同して開催する」と発表した。これは画期的なことである。なぜなら、それまで、自治省の指図で自治体は「住居表示に関する法律」の先兵として地名を破壊しつづけていたからである。

 「地名全国シンポジュウム」も盛会であった。谷川さんの人脈で全国から著名な学者、郷土史家、作家、出版関係者、行政職員が参集した。まことに多彩な顔ぶれであった。
 開催日の直前には、桑原武夫氏が「地名と柳田学」の記念講演を行った。メディアはこれらを全国に報道した。川崎と神奈川の文化イメージは全国に広がった。だがこのときも、「なぜ文化室が関わるのか」と県民部長は機嫌を悪くした。「知事室に直接連絡する」のが不機嫌の種である。だが、事前に話をすれば「その必要はない」になるのは必定である。
川崎市は (財)地名研究所の設立にも協力した。そして筆者が三年後に共編著で刊行した「文化行政とまちづくり」(時事通信社刊)に谷川さんは「地名と文化行政」の原稿を書いてくださった。

 ◎松下圭一氏
 松下さんと最初にお会いしたのは、この講師依頼よりも以前のことである。1979年11月8日と9日、横浜国際会議場で開催した全国文化行政シンポジュウムのパネリストとして出席を依頼したときであった。場所は朝日新聞社の最上階レストラン「アラスカ」であった。
そのころ朝日新聞社は有楽町駅前に在り、松下さんは「論壇時評」を担当されていた。その日は校正で朝日新聞社に来ていられたからである。爾来35年のご交誼を頂いている。
 日本で最初の文化行政の本である「文化行政─行政の自己革新」(学陽書房)の共編著者にもなって下さった。北海道の自治土曜講座にも講師で度々お願いした。「新自治体学入門」時事通信社刊(2008年)の推薦書評も書いて下さった。

 かくして、「文化行政」は職員研修の必修科目になり筆者は講師を何度となく務めた。
 文化行政を自治体の政策潮流にするため、「文化行政全国シンポジウム」「文化行政全国会議」「文化の見えるまちづくりフォーラム」を企画開催した経緯は『文化の見えるまち』(公人の友社・2009年刊)に記述した。



 4 行政ポスターコンクール

 役所は毎年、多種多様な大量の印刷物をつくる。経費も莫大である。だが、デザイン性の欠落した所謂お役所の印刷物であった。
 そこで、行政文化革新の手始めに「刊行物の文化水準」を高めることを考えた。各課がつくった行政ポスターの出来栄えを審査するコンクールである。
 
神奈川県庁舎は本庁舎三階と新庁舎四階の間に道路を跨ぐ連絡通路がある。両側は厚ガラス張りの見晴らしの良い長廊下である。その片側に発砲スチロールを貼りつめて壁面にして「行政ポスター」を一斉に掲示した。多さに驚く壮観であった。審査基準は、
 ①「温かみ」が感じられる。
 ②「メッセージ」が明確である。
 ③「美しくてキレイ」とした。 
 審査員は、
 行政各部から女性職員一名、県政記者室の各社一名、商工部デザイン指導室の専門家、の23人で、「最優秀」1枚、「優秀」3枚、を選定して頂いた。知事名の賞状を作成担当の職員に差し上げた。賞品はない。 
 三週間掲示を続けた。新聞各社が報道して話題になった。
 狙いは、役所の「慣例」や「仕事の仕方」を「温かみのある柔軟な発想」に改めることにある。その革新を「行政の文化化」という言葉で表現した。
 ポスターコンクールは「行政刊行物の文化化」である。「行政用語の文化化」も試みた。  

 5 行政用語の見直し

 行政は数多くの文書を団体や個人に郵送する。その宛名の「敬称」は全て「殿」である。「殿」は少しく権威的である。
 例えば、作文コンクールで入賞した小学生への「案内状や賞状」も「殿」である。小学生には「様」が良いではないか、と知事が庁内放送で呼びかけた。途端に宛名書きは一斉に「様」に変わった。「殿・様論争」と評された。

 しかしながら、全てを「様」に変えれば良いというものでもない。「殿」が相応しい場合もある。また、封書の宛名を「様」に改めても、封書内の文言が「役所言葉のまま」ならば、何の意味もない。役所の改革はとかく上辺だけの画一改革になる。であればこそ、その「役所流儀」を改めなくてはならない。
 行政文化の革新には「行政職員の自己革新」が不可欠である。

 6 神奈川県の情報公開条例  

(1) ことの始まり
 長洲一二知事は1975年の就任直後から「県政への県民参加」を唱え、職員にも政策提案を幾度となく呼びかけた。
 これに応えて県民部は「県政参加の方策を考えるプロジェクトチーム」を設けた。増田次長をキャップに県民部の室課からメンバーが選ばれ筆者も文化室からチーム員として加わった。
 七ヶ月の論議を経て三つの参加制度が報告書に書き込まれた。
  1 県政情報の公開と提供の条例
  2 県政参加の県民会議の設置
  3 県行政への苦情手続の制度
 
 県民部長は具体的な制度提案の報告書に困惑した。議会の理解を得るのが困難と考えたのであろう、報告書は「内部文書扱い」になり「部外秘」になった。

(2) 事態の転回
 このころの長洲知事は県政革新に「やる気」があった。
 知事室の隣に「調査室」をつくり、「調査担当参事」の職名で外部から久保孝雄さんを知事特命として入れていた。その調査室に「県民部でプロジェクト報告書が部外秘になった」と伝わった。
 知事が部長会議の席上で、県民部長に「県民部ではプロジェクトチームの報告書が纏まったようですね」と言った。「ハイそうです」と答えざるを得ない。

 「今日の午後、時間を空けますから、チームリーダーに説明に来るように伝えてください」と言った。(以下は増田次長から聞いた話)
 増田さんは一人で知事室に行くことを懸念した。部内扱いになった報告書である。自分ひとりで責任を背負わなくてはならなくなる。県民部担当の湯沢副知事に相談して部長も一緒に行くことになった。
 知事室で説明すると、「増田君、三つの提案だが、最初にやるのはどれですか」と訊かれたので、「県民に県政参加を呼びかけるのなら県政情報の公開・提供をしなくてはなりません。情報公開条例が一番目だと思います」と答えた。「そうだね、良い報告書です。ご苦労様でした」と言ってくれた、と増田さんから聞いた。

(3) 定例記者会見で発表
 長洲知事は翌日の定例記者会見で「県政情報の公開条例を制定します」と発表した。新聞は「神奈川県が情報公開条例の制定に着手」と一面トップの七段見出しで一斉に報道した。矢は弦を放れた。もはや引き返すことは出来ない。 

 県庁内の幹部は新聞を見て驚いた。霞ヶ関の省庁官僚も驚いた。事件であった。
 東京の隣の神奈川県が「公文書を公開する条例」を制定するというのである。驚愕が霞ヶ関を駆け巡ったであろう。
 後藤田内閣官房長官が「機関委任事務は国がお願いした仕事ありますから、自治体の判断で文書公開するのは如何なものか」とテレビで語っていた。
 
 神奈川県の地理的有利性で、著名な学識者による条例案策定委員会が設けられた。 
 庁内からは、選りすぐった職員が事務局に配置された。
 
(4) 匿名座談会
 全国の革新首長は、「お上の行政」から「市民の行政」への転換を目ざしていたので、神奈川県の情報公開条例の策定を、固唾を呑んで見守った。
 
 革新市長会は「地方自治通信」という月刊の政策情報誌を刊行して市販していた。
編集長の大矢野修さんが「神奈川県の情報公開条例案を考える」という匿名座談会を企画した。そこに筆者も参加した。
 県職員でありながら参加したのは、検討中の条例案を「欠陥条例」だと思っていたからである。

 欠陥の第一は、原則公開を掲げながら、「公開しなくてもよい公文書」を抽象文言で列挙し、その文言解釈を行政職員(所属長)が行うことにして、非開示に不服があれば、開示請求者が「審査委員会に申立てる」という制度手続にしたことである。
 これでは、行政の判断で「見せたくない文書」を「非公開にして時間稼ぎ」ができることになる。
 欠陥の第二は、市民の開示請求権を「意図的に妨害する行政職員」を罰する規定を定めていないことである。
 すなわち「請求された表題の文書は見当たりません」などと言って、公開に伴う上司の困惑を「庇う職員」の出現を抑止しない条例である。

 すなわち、「故意または重大な過失」で、県民の開示請求を「妨げた行政職員の行為」を罰する規定を欠いていた。
 神奈川県の公開条例は全国自治体の先例になる。欠陥条例であってはならないと思い座談会に出席した。
 
 神奈川県庁内で条例案を検討中に、匿名座談会「神奈川県の情報公開条例を考える」を掲載した月刊誌・地方自治通信が書店に並んだ。県職員が参加しているのではと県民部幹部は神経を苛立たせた。
 
(5) 神奈川新聞のスクープ報道
 条例案の検討が最終段階に入ったころ、神奈川新聞に「条例案の全文」が掲載された。すっぱ抜き報道である。(その経緯をここに記しておく)

 ある日、顔見知りの神奈川新聞のM記者が文化室にやって来て「検討中の条例案の内容が皆目分からない」「これでは県民は蚊帳の外だ」と呟いた。
 筆者は「検討案はこれだよなぁー」と呟いて机上に置いてあった資料を眺めた。
 M記者は「いいですか」と目顔で訊く。「いいよ」と言ったわけではないが、「ちょっとトイレに行って来る」と呟いて席を立った。
 
 後日に聞いたことであるが、神奈川新聞の編集責任者が掲載前日に県民部幹部と対面して、「これを報道するが、事実と異なる部分はあるか」と質した(裏をとった)とのことであった。検討案全文が神奈川新聞に報道されて県民部幹部はまたもや神経を苛立たせた。
 
(6) 議員の質問文
 情報公開条例の議会審議が始まったころ、友人から「懇意にしている議員が本会議で質疑をするので質問文を書いてくれないか」と頼まれた。かねてから、行政職員が議員の質問文を書くのは宜しくないと思っていたのだが、「情報公開条例の質疑をする」と言うので引き受けた。

 二つの論点を書き込んだ質問文を友人に手渡した。
 1 条例案に県政情報(公文書)を原則公開すると規定しながら、「行政幹部の判断で非公開にできる」  としたのは、「公開原則」に反するのではないか。 公開できない文書であると解釈判断した行政(所  属長)が、審査委員会に申立て承認されたときにのみ、非公開とすべきではないのか。

 2 公開になると困る上司のために、「表題の公文書は見当たりません」「請求文書は政策策定中の問題と関連するので開示できません」などと言って、窓口応対で、県民の開示請求権を妨げる職員を罰する規定が必要である。知事はこれを如何に考えるか。

 その議員が質疑する本会議を傍聴した。だが肝心の部分は省かれていた。
 「どうしてなんだ」と友人に訊ねた。その議員が本会議の前日に、県民部長室で「このような質問をしてもよいか」と話した(相談した)とのことである。
 当然、県民部長は「それはヤメテください」になったであろう。そして部長は、「このような質問文を書いた職員は誰か」と思ったであろう。
  
 7 ジュリスト論文顛末記

 1980年10月、有斐閣編集部から「ジュリスト総合特集」への原稿執筆の依頼がきた。「月刊・ジュリスト」は「法律専門誌」のイメージであり、法学部出身の筆者には悪い気はしない。依頼されたテーマは「首長・議会・職員の相互関係」であった。 
 年末年始の休みを使って執筆した。
 御用始めの1月4日の夕刻、新橋駅前の郵便ポストに投函した。そのときの「ポトリ」の音を妙に憶えている。一心に集中して執筆したからであろう。
 
 総合特集(22号)が刊行されて3カ月が経過した1981年4月2日、神奈川県議会で自民党議員が「県職員が議会を批判している」と知事に批判の質疑をした。 
本会議で議員が職員を名指して批判するのは異例のことであった。

 長洲知事は「遺憾である」と答弁した。 
 その直後、ドヤドヤと数人の記者がやって来て、座席を取り囲んで「知事は陳謝したがどう思うか」と意見を求めた。「何も申しあげることはありません」と答えた。記者は「なんだ、それじゃダメだ、記事にならん」と引き上げて行った。
 その直後、渋谷県民部次長から「記者が怒っていたぞ、知事も謝ったのだから、君も謝る謝るべきだよ」と(助言?)された。
 だが、「謝るような悪いことをした」とは思っていなかった。
 
 翌日の新聞は大きな見出しで一斉に報道した。

朝日  県幹部職員・雑誌に県政批判論文
─「無責任」と議会がヤリ玉 ─

読売  職員の論文で物議 「大人げない」の声も出て
「役職者はことなかれ」「50歳以上無気力」

サンケイ 県幹部の〝 県議批判論文 〟騒動 ─正論?
だが議員はカンカン─長洲知事あっさり『遺憾でした』

毎日 議員を痛烈に批判
─中堅県職員の論文に論議─

東京  県幹部が〝 勇み足 〟
論文 県と県議会を「無気力、無能」と批判 
─議会の追及に知事陳謝─   

神奈川 「知事の〝 陳謝 〟に不満も」
─ 県職員論文問題で庁内─
     
 県民から「議会」と「知事」に抗議電話が相継いだ。筆者には「新年茶会の初釜に招待したい」などの激励電話が届いた。

 神奈川新聞の渡辺デスクが「横浜市の飛鳥田市長はこのようなときには職員を庇うが、長洲知事は遺憾ですと陳謝した」と論評を書いた。
 朝日新聞は全国版「論壇」に、弁護士の投稿「公務員の表現の自由確保を─議員活動に名を借りた介入を防げ」を掲載した。
 朝日神奈川地方版は─人・ひと」欄に「筆者のインタビュー記事」を写真入りで掲載した。
 小林直樹(東大教授)は 〝自治体職員の言論の自由 〟のタイトルで、「地方の時代」という標語の発案者として先駆的な自治行政を推進している長洲知事さえも〝 陳謝 〟と〝 弁明 〟に終始したらしい。県民からすれば、知事の陳謝こそが〝 誠に遺憾 〟と言うべき事態であろうと評した。(ジュリスト・1981-12-1号)

 それらの後日、長洲知事が「森君には今後も頑張って貰いたいと思っている」と部長会議で異例の発言をした、と幹部の方から教えられた。だが、壁新聞を庁舎の洗面所に貼り、自由民権大会に会場を提供し、さらには、情報公開条例案の検討中に座談会に出た(に違いない)など、庁内の作法に反し上司に従順でない職員へのTa県民部長の怒りは「知事の発言」では治まらなかった。
 
 県民部長室に森文庫
 暫くして、県民部長室の書棚に、筆者がこれまでに執筆した「本」と「掲載雑誌」が収集されていた。それは、「総務室職員が総がかりで、地方公務員違反の文章表現を探した」ものであった、と部長応接の女子職員がこっそり教えてくれた。(かく記述しても、35年が経過しているので迷惑にはならないであろう)

 知事が庇おうとも、筆者の首を「地方公務員法違反」として、議会多数会派に差し出すためであった。(そのとき撮影した県民部長室書棚の「森文庫」の写真は今も手元にある)  
 それからの二年間、県民部総括企画主幹の座席に座すだけの毎日であった。何もすることがないので、「文化行政とまちづくり」の本を(田村明さんと共編著)で時事通信社から刊行した(1983年3月1日刊)。

 1983年5月、自治総合研究センター研究部長に異動となった。
 後日に聞いた話であるが、自治総合研究センターの部長職の管理職手当は11%で、本庁の総括主幹は12%であったから、人事異動の日に遡って自総研部長職の管理職手当を12%に改正したとのことである。(左遷したとの風評を避けるためであるの由)
 自治総合研究センターには、管理部長、研修部長、研究部長の三つの部長職があった。他のお二人も12%の手当になった。 
 新たな職場は座席から横浜港と氷川丸が眺望できた。
 まことに快適な気分であった。 

 8 政策研究交流会議  

(1)「政策研究」の言葉
 1983年5月1日、自治総合研究センター(研究部長)に赴任した。
 新たな仕事は、県職員の「政策研究」を盛んにすることであった。研究活動を盛んにするには、「政策研究とは何か」を明晰にしなくてはならない。
 「政策研究」と「政策研修」の違いも明確にしなければならない。
 ところが、そのころの自治体には「政策」の用語は無かった。使われていたのは「事務事業」であった。そして「政策研究」ではなくて「調査研究」であった。「政策」は省庁の言葉だと思っていたのである。

 自治体職員が政策能力を高めるには「政策の言葉に慣れる」ことが必要だと思った。
 「政策研究」の言葉を自治体に広げることを考えた。
 そこで、自治体を対象に刊行していた複数の月刊誌の編集長に電話をした。
「自治体に政策研究の波が起きています」「特集されては如何ですか」「誌面企画に協力します」と提案した。
 1984年9月号、月刊『晨』の「特集・政策研究へのプロローグ」は、日本で最初の「政策研究の特集」であった。
 ・巻頭対談「政策研究の意味と可能性」松下圭一・田村明
 ・自治体の政策研究の現状と課題  森 啓
 ・動き出した政策研究への大きな流れ 五十嵐富秀
続いて、『月刊・職員研修』も「自治体職員の政策研究」を特集した。

「政策研究」が「旬の言葉」になり、自治省の自治大学校から「自治体の政策研究」の講演を依頼された。府県の研修所長が集まっていた。
 次のような話をした。
 神奈川県では、「公務研修所」を「自治総合研究センター」に改組して「研究部」を設けました。「職員の政策能力」を高めるには「政策研究」が必要であると考えたからです。政策研究が研修所の重要な役割になっていると思います、と話した。
 そして自治大学校の教務担当者に、「政策研究の全国動向を調査されては如何ですか」と提案した。自治大学校から「政策研究の実態調査用紙」が届けば、回答を求められた自治体は「政策研究」が時代の潮流になっていると思うであろう。
 政策研究の言葉を広めるためである。

(2) なぜ「政策研究」の言葉にしたか
 一方に、行政学に「Policy Studies」つまり「特定政策の実証研究」の用語がある。「政策研究」では「特定政策を対象にした分析的な研究活動」の意味に受け取られる。
 事実としてそのころ、学者は「自治体の政策研究とは政策の調査研究のことである」と意味不明な説明を研修所で話していた。そして内心では、(公務員がなぜ政策研究をするのだろうか)と思っていた。国家学の学者には「自治体と地域に起きている地殻変動の意味」が理解できないからである。
 
 そして他方では、自治体で始まった「自主研究」や「政策課題研究」は、内容に即して言えば、「政策研究」よりも「政策開発」あるいは「政策提案活動」の言葉が正当であった。
 
 それをなぜ、「政策研究」の言葉にしたか。
 「政策研究」の言葉には曖昧さと誤解が伴う。だがその曖昧さが大事であると考えた。その意味は次のとおりである。
 科学技術が発達して、都市的生活様式が全般化し前例のない公共課題が次々と噴出した。自治体はこれらを「政策課題として設定」し「その解決方策を開発」しなければならない。

 ところが、自治体の部課長は省庁政策への従属が習い性になっていた。展望的視界を失っている部課長には、前例なき公共課題を解決する政策を構想し立案することができない。しかしそれでは、省庁政策の下請団体から脱することはできない。

 新たな政策形成システムを自治体内に構築しなければならない。即ち、政策立案の前段階に、様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の営為を位置づけて、「政策の質を高める仕組」を自治体内に構築しなければならない。そしてその仕組みを部課長に納得(容認)させなければならない。

 だが、自分の所管業務に政策提案される(外から言われる)ことを極度に嫌がるのが部課長である。簡単には納得しない。
 部課長が納得せざるを得ない状況をつくるには、様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の実績を積み上げることである。政策研究の成果物を多様に蓄積することである。 
 ライン以外の自治体職員や市民が政策形成に関与する方途を拓くことは、政策形成をラインの独占から解き放つことである。所管セクショナリズムの枠を緩めることである。

 すなわち、「政策立案」の前段階に「政策研究」(実質は政策提案)の段階を位置づけることは、真正な意味での「職員参加」であり「市民参加」である。
 しかしながら、当然それは容易なことではない。だがそれをやらなければ、自治体は政策主体になれない。前例なき公共課題を解決する政策形成システムを装備できなければ「地方政府」になれない。

 地方政府とは自前政策を立案し実行することである。
 だが、「政策開発」「政策提案」と言えば、部課長は一斉に嫌悪反発する。だから今は、曖昧な「政策研究」の言葉が良いと考えた。
 そこで、当分の間は「政策研究」なる「曖昧なことば」を使いながら、「課題発見」と「方策開発」の成果物を蓄積する作業を自治体内に慣行化することである。そうすることで、やがては、「政策研究」なる言葉が「明晰な概念」になり、「輝くイメージ」を有するに至るであろう、と考えた。
 
 かくして現在、「政策研究」の言葉は行政内文書の用語になり、著作や論文も多数刊行されて定着した。
 行政学の政策研究は「特定政策の実証的分析的な事後的研究」である。
 自治体の政策研究は「課題を設定し解決方策を開発する未来創造的研究」である。
 「政策研究」なる用語の選択は正解であったと思う。 

(3) 自治体政策研究交流会議 
 政策研究への関心が高まって、全国各地から筆者の研究部にも視察が来るようになった。この関心の高まりを「自治体の潮流」にするため、政策研究の「全国交流会議の開催」を考えた。
 所長も賛成して準備が進んでいたころ、所長室に呼ばれた。

 名称を「研究交流会議」にしてはどうかと言われた。「なぜですか」と訊くと、「地方公共団体が政策を言うのはどうだろうか」「神奈川県が偉そうなことを言っていることにもなるから」と言う。
 所長と研究部長の関係である。「ここで結論を出さないことにしなくては」と思い、「言われている意味は分かりますが、削ってしまうのもどうかと思います。考えてみます……」と言って所長室を出てきた。
 そして、研究部の人たちに「森研究部長は名称を変えると言っていたか」と、所長に訊かれたら、『知事に政策研究交流の名称が良いねと言われたのだ』と言っていました、と答えるように頼んでおいた。 
 
 もとより知事と話した訳ではないが、そのようなときには、知事の名前をよく使ったものである(自治体職員が何か意味あることをしたいと思ったときには、首長の意向であると言うのがよい。選挙で出てきた首長は概ね現状変革を求めるものである。役所内で改革を遮るのは現状維持の管理職である。そして部課長は首長に「本当にそう言ったのですか」とは確かめないのである)。   
 
 「政策研究の言葉」を広めるための交流会議である。「政策」の言葉を削ることはできない。さりとて所長を無視することもできない。
 そこで、横浜市企画財政局都市科学研究室、川崎市企画調査部、埼玉県県民部自治文化振興課に赴いて、「政策研究交流会議」の共同開催を提案した。「経費負担は不要、当日主催者の席に座していただく」ことで賛同を得た。
 共同開催であるから所長の一存で名称変更はできないことになった。
 
 こうして、全国への案内文書も、当日のパンフレットにも「自治体政策研究交流会議」と印刷した。「第一回自治体政策研究交流会議」と書いた看板も出した。 
 そして、会場入口に次の「メッセージ」を張り出した。

  自治体に政策研究の波が高まっている。
  この波は、自治体が自立的な政策主体になった
  ことを示すものである。

  戦後四十年、いまや「政策の質」が問われ、
  自治体では総合的な観点からの政策研究が必然に
  なっている。

  自治体は現代社会の難問に挑み問題解決をはかる
  現場であり、仕事を通して議論をたたかわせる論壇
  である。

  自治体を舞台に「自治体学」の研究がすすみ、
  新しい理論が確立されることを
  「時代」と「地域社会」が求めている。

 参加者は立ち止まってこの「メッセージ」を読んでいた。
 カメラに写す人もいた。
 
 1984年10月18日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で「第一回・自治体政策研究交流会議」を開催した。 
 北海道から九州までの全国から、一四〇団体・三五二人の自治体職員と市民と研究者が参加した。

 この「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生したのである。自治体学会は自治体職員が中心になって設立した学会である。政策研究交流会議から自治体学会が誕生するに至る経緯は後日記述する。
(政策研究交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政(84年11月10日号)」と「地方自治通信〔85年2月号〕」に掲載されている)
 
 1993年2月25日、北海道大学学長から知事に「筆者の割愛依頼文書」が届き、4月1日、北海道大学法学部に赴任した。

書評・『新自治体学入門』  松下圭一
(カテゴリー: 自治体学理論
 書評「新自治体学入門」  松下圭一

 芸術家やスポーツマン、政治家やジャーナリストなどは個性ある仕事が課題といえるだろう、サラリーマンや官僚のなかにも、個性ある仕事をする人物がいる。だが、2000年分権改革まで、官治・集権型の「機関委任事務」方式のため、個性ある仕事をしてはいけなかったのが、自治体職員であった。自治体職員に個性ある仕事をさせない官治・集権は、日本という「国の大失敗」だったと、自治・分権の今日、強調せざるをえない。

 本書の著者、森啓さんは神奈川県職員のころから、自治体職員のこの禁制を破って、個性ある業績をのこした数少ない自治体職員の一人である。このことは、森さんを知る人なら、誰もが認めるであろう。自伝風でもあるが、本書は現時点での白治体課題を、誰にもわかりやすいリズミカルな文体でまとめている。

 私が森さんに出会ったのは、1978年、神奈川県が公務研修所を自治総合研究センターにきりかえた前後だった。この再編の原案は私がつくったのだが、政策研究と政策研修とをむすびつけた日本で最初の白治体研修改革となる。
森さんは、このセンターの研究部長にもなっている。その経験もふまえ、第9章「自治体職員の研修」では、自治省公認の旧人事院研修方式を背景にもつ、自治体独自の政策づくりという問題意識が皆無だった、かつての自治体研修を批判している。

 研修は、官治・集権の「歴史と価値意識」がしみこんだ言葉をつかう能吏ではなく、「地域課題」を自治・分権型で解決する自治体職員の、日々の誕生をめざすべきだという。
 自治体職場では、時代錯誤の、①慣例、②上司、③考え方がはびこり、その改革にとりくめば、今日でも「俄然辛い職場になる」。
 この実情のなかでは「研修の改革」が不可欠と具体案をのべ、特に現場での出会いにおける職員一人ひとりの「感動」という「衝撃」が必要だと、達意の論点をのべる。

 森さんはまた、(1)文化行政の提起、(2)自治体学会の創設にかかわっている。
(1) 文化行政では、森さんはそのパイオニア職員として著作をかさねた。とくに『文化ホールがまちをつくる』は、ハコモノをタテ割行政ではなく、市民ついでその自治体の地域づくりとみなす最初の労作となる。第3章「市民力と職員力」がこの論点をとりあげている。
(2) 自治体学会の創設については、第10章「自治体学会設立の経緯」が、関連文献の整理をふくめ、くわしい。

 1993年、森さんは北海道大学法学部に移るが、北海道の白治体を一躍有名にした、いわゆる「土曜講座」を自治体の方々とともに、1995年たちあげた。毎年数回の連続講座をひらき、その講義をまとめた公人の友社刊のブックレットは115冊になり、日本全体の自治体にひろく波及力をもつ。
受講生のなかから、すでに北海道では10人をこえる長もでていると、本書はいう。

 そのほか、白治体改革、市町村合併、道州制、あるいは市民自治基本条例、住民投票などの章をもち、これらの最先端領域を森さんらしい切り口でのべる。「地方公務員から自治体職員へ」「自治体政府と自治体学」「国家法人理論 対 政府信託理論」など、理論レベルにも目配りをする。

 「あとがき」に、理論には説明理論と実践理論とがあるとのべているが「一歩前にでる」実践理論の提起が本書の意義である。
 自治体職員の可能性を、私達は本書に具体性をもって発見できる。元気のでる本である。
     (月刊・地方自治職員研修・2008年5月号)    
自治体学理論の構成
(カテゴリー: 自治体学理論
 自治体学理論の構成

  (本稿は『新自治体学入門』㈱時事通信社(2008年)の「まえがき」に掲載した論稿である)

 自治体学会を設立して二〇年が経過した。
 二〇年の歳月は歴史である。歴史は現在を見据える座標軸であるから、二〇年を経過した自治体学会は「何が現在の問題であるのか」を考える研究対象となった。自治体理論・政策形成力・市民自治制度は深まり広がり整備された。一九七〇年代に比すれば画期的とも評すべき展開である。

 しかしながら、市民と職員の実践的思考力は強まったであろうか。市民と職員の相互信頼は強靭になっているであろうか。研究者は個別具体の実践を普遍認識に至らしめる理論を深化させているであろうか。
 「自治体学理論の構成」は筆者にとって長年の懸案であった。

 一九八四年の自治体政策研究交流会議において自治体学会設立が約定され、神奈川県自治総合研究センター研究部が学会設立事務局を担うことになって以来の懸案であった。本書第10章に叙述したように、当時は「自治体学」の観念は存在しなかった。そこで、学会設立の賛同者を呼び掛ける全国行脚に携行するために、筆者が所属した研究部で「自治体学に関する研究」を急遽とりまとめた。

 一九八七年の設立大会で会則に「自治体学の研鑽をめざす」と定めたが「自治体学概念」の共通認識は未だ定まっていなかった。
 二〇〇六年四月、北海学園大学法学部は「自治体学」を専門科目(四単位)として開講した。日本の大学で最初である。本書はその講義を基にしている。
 本書をまとめ得たのは、一九七九年開催の第一回全国文化行政シンポジウムで松下圭一教授と邂逅し以来三〇年にわたって示唆をいただくことができたからである。

 七〇年代の日本社会には熱気があった。状況を突き破る主体が存在した。現在の日本は状況追随思考が蔓延し時代に対する怒りや問題意識を失っているかのようである。
 なぜであろうか。「生活水準」が良くなり「ハングリー」でなくなったからではあるまい。二つの理由が考えられる。

 社会を全体的に考察する「理論」が力を失っているからである。七〇年代には「社会主義の理論」が存在した。「時代を切り拓く気概」と「社会変革のエネルギー」が存在した。革新団体の役員には「自身の不利益をも覚悟する献身性」と「未来を展望する純粋性」があった。今はそれがない。状況追随思考が現在の日本社会に蔓延するのは「理論の羅針盤」を見失っているからであろう。
 
 もう一つの理由は、学校教育で「自国の近現代史」を四五年間にわたって意図的に教えなかったからである。
 日本の人々は自分の国の歴史を悲しいほどに知らない。哀れなほどに知らないのである。思考の座標軸は時間軸と空間軸である。タテ軸の「歴史軸」が欠落して「思考の座標」が定まらないから時代や社会を批判的に考えることができないのである。

 思考の道具は「言葉」である。批判的思考力を取り戻すには「道具である概念」を明晰にしなくてはならない。論理的思考には明晰な概念・用語が必要である。状況を突き破り未来を創造するのは「規範的思考力」である。規範的思考には「規範概念」が不可欠である。
 七〇年代の対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「国家統治」対「市民自治」である。すなわち、「中央支配の継続」に対抗する「地域自立の実践」である。「国家学」を「自治体学」に組み替える規範的思考力が緊急の課題である。自治体学会の役割はいっそう重要である。

 改革はいつの場合にも「主体の変革」が基本である。自分自身は何も変わらないで「目新しい言葉」を述べる風潮が広がっているのではあるまいか。
 例えば、自治基本条例が「自治体の最高規範」であると解説され、流行のように制定されている。良いことである。画期的な自治の進展であると言えよう。しかしながら、第4章「市民自治基本条例」で検証したように、そこには「主体変革」の問題意識が欠落している。「新しい制度」をつくれば「状況が変る」と考えているのではあるまいか。

 「協働」の言葉も流行している。協働とは「自己革新した主体の協力」を意味する造語である。主体双方の自己革新が前提である。行政と住民の関係が現在のままでは協働にならない。「協働」は統治行政の現状況を「市民自治」に転換するための「主体変革」を前提とした言葉である。すなわち、自己革新した「市民」と「自治体職員」の相互信頼に基づく協力関係が地域の自立を創り出すのである。本書の表題を「市民力と職員力」とした所以である。

 本書は「自治体学」の概念を「国家学」との対比で定義し、自治体学理論の基礎概念を吟味して「市民自治」の意味を確定した。
 次いで「協働」の言葉の意味を探り、自治体を「市民自治の政府」に改革するには市民と職員の信頼関係が不可欠であることを論証した。
 さらに「自治基本条例」の制定実態を検証し「主体変革の問題意識」が欠落しているのは重大問題であると論点を提起した。
 さらに、今次の市町村合併において全国で展開された「住民投票条例の制定」を求めた署名運動の意味を探り、住民投票は有権者の「代表権限制御の行動」であるとして自治体学理論に定位した。
 次いで本書は「市町村合併と道州制」の論点を整理し「自治体改革と職員研修」との関連を論証した。最後に二〇年を経過した自治体学会の役割を未来に向かって見いだすために、設立事務局を担当した立場から「自治体学会の設立経緯」を詳細に叙述した。

 本書が自治体学理論の展開に何らかの役割を果たすことが出来れば幸甚である。末筆ながら時事通信社出版事業部の田村伊都子さん荻野昌史さんにさまざまなご配慮をいただいたことを感謝したい。

[目次]
 自治体学理論の構成──まえがきに代えて 

第1章 自治体学の概念
1 自治体学会
2 用語の始まり
3 学会設立時の定義
4 国家学と自治体学
5 自治体学の概念

第2章 自治体学理論
1 市民自治
2 国家法人理論と政府信託理論
3 自治体の概念
4 政府と自治体の理論

第3章 市民力と職員力
1 状況追随思考
(1) 思考力の衰退
(2) 思考の座標軸
(3) ジョージ・オーエルの社会
2 協働
(1) 協働という言葉の流行
(2) 協働の意味
(3) 理念論での批判
(4) 参加・参画・協働
3 主体の自己革新
4 市民力と職員力
(1) 市民と職員の協力
(2) 言語の意味連関

第4章 市民自治基本条例
1 最高規範の制定手続き
2 自治体改革と基本条例
3 自治体理論と基本条例
4 最高規範意識
5 市民自治基本条例の必要理由
6 基本条例の名称
7 市民自治基本条例の内容

第5章 代表民主制と住民投票
1 自治体学の重要論点
2 住民投票を求める署名運動
3 代表民主制を支える制度
4 直接民主制と間接民主制
5 代表権限の制御と自治基本条例

第6章 市町村合併
1 合併とは何か
2 合併促進の意図は何であったか
3 合併は自治区域の変更
4 市町村合併と住民投票
5 主体鈍磨と状況追随思考
6 行政スタイルの転換
7 現在の論点

第7章 道州制
1 道州制とは何か
2 道州制の論点
3 道州制の真の意図は何か──あるべき道州制構想

第8章 自治体改革
1 主体の変革
2 地方公務員から自治体職員へ
3 自治体の政策形成力
4 自治体職員の自己革新
5 住民から市民へ
6 自治体職員の能力
(1) 政策立案能力──壁は自身の惰性思考
(2) 政策決定能力──壁は上司
(3) 政策実行能力──壁は統治理論
(4) 政策評価能力──壁は非本気

第9章 自治体職員の研修
1 研修所改革の潮流
2 能吏の養成でなく自治体職員の誕生を
3 政策能力はいかにして育つか
4 研修とは何か
5 研修所職員の政策能力

第10章 自治体学会設立の経緯
1 自治体学会設立の着想
2 第一回政策研究交流会議
3 二つの開催意図
4 学会設立の動議
5 埼玉会議の「前夜」
6 設立準備委員会の発足
7 「全国行脚」
8 神戸・自治体学フォーラム
9 東京自治体学フォーラム
10 「自治労」と「全国自治体問題研究所」
11 代表運営委員
12 自治体学会の誕生
13 氷川丸船上の設立記念パーティ
14 第一回自治体学会──徳島
15 学会設立の背景
16 なぜ、自治体職員が学会設立を考えたか
17 自治体学理論と自治体学会

あとがき
初 出

参考文献

 

自治体学の二十年
(カテゴリー: 自治体学理論
  自治体学の二十年

本稿は2006年に「公人の友社」から刊行した「自治体学の二十年」の『あとがき』である。自治体学会の現在位置を直視するため掲載する。

 自治体学会は二十年を経過した。
 学会設立のころは小学生であった人も自治体学会に参加して活動している。
 歴代代表委員、運営委員の方々、事務局を担って下さった自治体の皆様方のお力である。
 「市民自治」「政府信託」「自治基本条例」などの自治体学理論の概念・用語は普く広がった。市民自治の制度整備も進んで進歩発展している。

 第二十回大会を2006年8月25日横浜で開催した。
自治体学会の盛会ぶりは真に喜ばしいことであろうか。
喜ばしいことであってほしいと切実に思う。

 だが、状況を切り拓く情熱と批判的思考力を継続し保持しているであろうか。
 例えば、2000年初頭の地方交付税削減のための市町村合併では、住民投票が全国各地で行われた。そのとき「投票箱を開票せずに焼却された」。そのとき「何ということを…」の怒りにも似た心情が「自治体学会員の心の内に」生じたのか、それとも他人事のように「それもあり」と思ったのであろうか。それが問題である。
 平素、口にする「自治」や「参加」には何の意味もないのである。

 また隣国の、中国首席と韓国大統領が「歴事の事実」を基にして、靖国参拝は「最大の外交問題」だと言ったとき、加害国の小泉首相は、それは「心の問題である」と言った。そのときも「学会員の心の内に」如何なる心情が生じたのか。

 「間違っていること」を「間違っている」と発言する。その思念が「自身の内に」生じないのは、「批判的思考力の衰弱」である。「思考の座標軸」が定まっていないからである。つまりは勇気がないということである。一歩前に出て壁を越えた「実践体験」がないからである。
 
70年代には、自己の不利益をも覚悟して一歩前に出る活力が社会に存在した。
活力が存在したのは、トータルに社会を眺めて批判する社会主義の思想が存在したからである。
現在は争点が無くなったと言われている。無くなったのではない、争点が見えていないのである。

 かつての対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。
 現在の対抗軸は「国家統治」に対する「市民自治」である。
 「国家統治の中央支配」に対抗する「市民自治の実践」である。

憲法は「政府の権力行使に枠を定める最高法規」である。
しかるに、この近代立憲制の原則に対して「憲法は国民の義務をも定める」ものであると、苦労知らずの二世・三世の世襲議員が言い始めているのである。

「国家統治」対「市民自治」が現代社会の対抗軸である。
「国家学の統治理論」に対する「自治体学の信託理論」である。
自治体学会はまさに正念場にあるのである。

北海道では、1995年に北海道自治体学会を設立し現在も意欲的に活動を展開しており、
同じ1995年に開講した北海道自治土曜講座を毎年開講し、ブックレットは100冊を超えて「公人の友社」から刊行頒布している。

日本全国に「自治体理論」が浸透し「自治の実践」が展開することを念じたい。

                   2006年8月25日    森 啓

『自治体学の二十年』https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784875554752
自治体学会設立の経緯
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
本稿は以前に掲載した論稿であるが、自治体職員の「政策自立の問題意識が変化(停滞)している」と思うので、再掲載する。

自治体学会の設立経緯

1 自治体学会設立の着想
 「自治体学会」は「政策研究交流会議」から生まれた。政策研究交流会議は自治体職員が全国持ち回りで開催する「政策研究」の交流会議である(注1)。

 第一回は横浜で一九八四年一〇月一八日に開催した。第二回は八五年一〇月、浦和で開催した。いずれも全国各地から三五〇人を超える自治体職員が参加した。
 「政策研究」の全国交流会議をなぜ開催するようになったか。
 それがことの始まりである。
 それまで自治体には、「政策研究」という言葉の用法はなかった。「政策」という言葉も自治体では通常用語でなかった。
 自治体は中央省庁が決定した政策を執行するものと考えていた。考えさせられていたのである。「他治体」であって「自治体」ではなかった。
 つまり、自治体は「政策の主体」ではなかったのである。
 ところが、地域の情勢が大きく変化した。工業化が進展して前例のない公共課題が噴出し始めた。「量的基盤整備」から「質的まちづくり」に公共課題が移行して「自治体のあり方」が問われ始めた。

 自治体は「省庁政策の下請け」から「自前の政策主体」へと位置変化を求められ、自前の政策づくりに着手せざるを得なくなった。
 政策研究とは「既成政策の事後的分析」ではない。「政策課題の発見」と「解決手法を発明する」研究開発の営みである。
 この動向を敏感に洞察した自治体首長は「地域独自の政策づくり」を目指して首長直轄の「政策研究室」「政策審議室」を設置し、あるいは企画課に「政策研究班」を置き、あるいはまた、職員研修所を改組し「研究部」を新設した。

 しかしながら、明治百年来の「中央屈従の惰性」から抜け出ることは容易ではなかった。例えば、優れた研究成果が印刷され配布されても立案権を持つ課長は取り上げない。それどころか、知事のいないところで「若い職員が勝手な夢物語を描いている」と冷淡に言って職員の研究意欲を萎えさせた。
 職員からは「何のための研究であったのか」との不満も出た。だが人事課長や研修所長は「政策研究は職員の能力開発が目的である」と弁解説明をしていた。これが当時(一九八三年前後)の先進自治体の状況であった。
 しかしこれでは「政策研究の波」は弱まり後退する。
 この状況を突き破らなくてはならない。

目前の閉塞状況を打開するには、全国交流会議を開催して「政策研究が時代の潮流になっている」ことを内外に鮮明に印象付けることである。かくして、神奈川県自治総合研究センターが「自治体政策研究交流会議」の開催を企画した。「政策研究の観念」を全国的な潮流にするためである。

2 第一回政策研究交流会議
 自治省出身の総務省の人たちは今でも「地方公共団体」と言っている。意識して「自治体」の言葉を使わない。使う言葉に「統治支配の思想」が潜んでいるのである。省庁の人たちは「自治体」が「政策能力を高める」ことを望んでいない。地方の「公共的な団体」「地方の公務員」のままでいさせたいのである。
 
すべからく、政治・行政の用語に無色中立な用語はない。言葉の使い方に価値観と利害が染み込むのである。「政策研究」の言葉も同様である。
  (以下、当時の雰囲気を伝えるために会話形で叙述する)
 「自治体政策研究交流会議」の開催を準備していたころのことである。
 自治総合研究センター所長が研究部長であった筆者を所長室に呼び込んで、「自治体政策研究交流会議という名称だが」と言い出した。
 
「何か問題がありますか」と訊ねると、「政策の言葉を削って研究交流会議にしたらどうかね」。「どうしてですか」と聞くと、「地方公共団体が政策と言うのはどうだろうか」「神奈川県が偉そうなことを言っているということにもなるから」。
 そのころは、神奈川県庁の幹部職員は議会の保守会派から「長洲知事に得点をさせるな」と牽制されていたのである。
 所長と研究部長の関係であるから、「ここで結論を出さないことにしなくては」と思った。「言われている意味は分かりますが、しかし、削ってしまうのはどうか、とも思います。私も考えてみますから……」と言って所長室を出てきて、研究部員に「所長が、森研究部長は名称を変えると言っていたかと聞くに違いないから、その時は『知事に政策研究の名称は良いねと言われた、と言っていました』、と答えてくれ」と頼んでおいた。

 もとより知事と話したわけではないが、そのようなときには、知事の名前をよく使ったものであった(自治体職員が何か意味あることをしたいと思ったときには、首長の意向であると言うのがよい。選挙で出てきた首長は概ね現状変革を求めるものである。役所内で改革を遮るのは現状維持の管理職である。そして管理職は首長に「ホントにそう言ったのでいかと問わない」のである。

 さりとて、所長の考えを無視することもできない。だが「政策研究の観念」を全国に広めるための交流会議である。「政策」の言葉を削るわけにはいかない。そこで、共同開催方式を考えた。横浜市企画財政局都市科学研究室、川崎市企画調査部、埼玉県県民部自治文化振興課に赴いて「自治体政策研究交流会議」の共同開催を提案した。「経費負担は不要、当日主催者の席に座していただく」ことで賛同してもらった。共同開催であるから所長の意向だけで名称変更はできないことにした。

 かくして、全国への案内文書にも当日のパンフレットにも「自治体政策研究交流会議」と印刷した。「第一回自治体政策研究交流会議」と書いた看板も出した。そして会場入口に、次の「メッセージ」を張り出した。

  自治体に政策研究の波が高まっている。
  この波は、自治体が自立的な政策主体になった
  ことを示すものである。

  戦後四十年、いまや「政策の質」が問われ、
  自治体では総合的な観点からの政策研究が必然に
  なっている。

  自治体は現代社会の難問に挑み問題解決をはかる
  現場であり、仕事を通して議論をたたかわせる論壇
  である。

  自治体を舞台に「自治体学」の研究がすすみ、
  新しい理論が確立されることを「時代」と「地域社会」
  が求めている。

 参加者はこの「メッセージ」を立ち止まって読んでいた。カメラに写す人もいた。かくして「政策研究交流会議」の熱気は高まった。
 一九八四年一〇月一八日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で「第一回・自治体政策研究交流会議」を開催した。
 基調講演は「自治体理論」をつくり続けている松下圭一教授にお願いした。自治体理論が自治体の政策自立には不可欠だからである。

 北海道から九州まで、全国各地から一四〇団体・三五二人の自治体職員と市民と研究者が参加した。
 まさかこれほどの参加があるとは当時は誰も予想できなかった。
 なぜなら、「政策研究」なる言葉は一般的でなく、職員による政策研究の制度を設けた自治体も少数であった。ところが、打てば響くようにこれほど多数の参加があるということは「地域と自治体」に地殻変動が進行していたのである。
 当日の案内状に記載した開催目的は、

(1) 研究体制の組み方
(2) 研究テーマの決め方
(3) 研究手法
(4) シンクタンクとの連携のあり方
(5) 研究成果の活用策
 であった。だがしかし、真実の開催意図は次の二つであった。

3 二つの開催意図
 意図の一つは「政策研究」なる言葉が全国自治体に定着することを目指す。
 自治体が政策主体になるには地域課題を政策化しなければならない。それには、「政策研究の観念」が全国の自治体に広がる必要がある。ところが、当時の自治体には「政策研究」の言葉を避ける風潮があった。さらには、研究成果の活用を意図的に重要視しない心理すらもあった。例えば、研修所長は及び腰であった。本庁の課長が所管業務に関する研究開発を忌避するからである。
 そこで、全国会議の場で「政策研究が自治体自立の潮流になっているのだ」との認識を鮮明に印象付けることを目指した。
 そのために、当日の研究報告は「政策化された事例」を選りすぐった。
 「柳川の水路復活」は広松伝さん。
 「神奈川の韓国・朝鮮人」は横浜市職員の加藤勝彦さん。
 「緑の回廊計画」は二十一世紀兵庫創造協会の福田丞志さん。
 「都市の水循環」はソーラーグループの村瀬誠さん。
 「防災都市のまちづくり」国分寺市の小口進一さん。
 とりわけ、スライドによる「柳川掘割の復活」の報告に参加者は感動した(後日の話であるが、広松伝さんの「柳川掘割の復活」は、アニメ映画監督の宮崎駿・高畑勲両氏によって「柳川掘割物語」DVD・ジブリ学術ライブラリーになっている)。
 「政策研究の波」が起きていることを内外にアピールするために、新聞記者の方々に取材してもらう配慮もした。「自治体の政策研究」は新聞記事になり雑誌の特集にもなって伝播した。

4 学会設立の動議
 開催意図の二つ目は、全国各地から集まってきた人々に「自治体学会の設立可能性」を提起することであった。
 職員の研究だけでは自治体に「政策自立の潮流」をつくり出すのは難しい。職員と市民と研究者の「協働」が必要である。「実践と理論の出会いの場」が必要である。「政策研究交流会議」とは別に「自治体学の学会のようなもの」が必要であると考えた。
 「協働」の言葉はこのころから既に使用していたのである。

 そこで、二つの提案を動議形式で提出した。
 一つは「この交流会議を毎年全国持ち回りで開催しようではないか」。
 二つは「自治体学会を設立するために準備委員会を設置しようではないか」。
  (以下、個人名を記すことを了とされたい)
 東京江戸川区の田口正巳さんは江戸川区の自主研究活動のリーダーであった。
 田口さんに、「緊急動議的に『今日のこの交流会議は有益だから、二回、三回と続けるようにするのが良い』と提案すること」を依頼した。
 三鷹市の大島振作さんに、筆者と大島さんは大学時代からの知り合いで同じ寮にいたこともあるので、「貴方は職員組合の委員長をしていたので大勢の前で話すのに馴れているから、『この政策研究交流会議を自治体職員だけの会議にしないで、ここにいらっしゃる先生方にも入っていただいて、自治体学会というようなものをつくる、その準備会議をこの場で設立しようではないか』と発言してよ」と依頼した。

 前者の「継続開催の提案」は「全国持ち回りで開催する」ことを確認して次回は埼玉で開くことが決まった。
 後者の「学会設立の提案」は、三五二人の参会者全員が宿題として持ち帰り地域と職場で「学会設立の意義と可能性」の論議を起こし、その結論を次回埼玉会議に持ち寄ることを約定した。
 このような経緯で「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生するに至ったのである。
(この交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔84年11月10日号〕」と「地方自治通信〔85年2月号〕」に詳しく掲載されている)

5 埼玉会議の「前夜」
 埼玉の政策研究交流会議の場で「自治体学会設立の賛同」を得るにはどのような運び方をするのがよいか、それが次の課題であった。
 そのころ、自治体学会の設立発起人をめぐって、神奈川県庁内に(知事周辺との間で)意見の齟齬が起きていた。
 側近の方は「知事と高名な学者」が学会設立の発起人になるべきだ、であった。だが、自治体職員や学者はそれに不賛成であった。筆者も自治体に「自治体学の潮流」が起きるには「新鮮な胎動を予感させるもの」が必要だと考えていた。自治体学会は「高名な学者が呼び掛けて」設立するものではないと考えた。そのころ、次のようなことがあった。

  (当時の雰囲気を伝えるために会話調で再現する)
 所長から「本庁の総務部長室に行くように」と言われた。「学会設立準備会」の立ち上げを協議する「第二回埼玉会議」の直前であった。
 総務部長室に入ると、部長が顔を近付けてきて
 「森君、自治体学会だけどね──」と言った。
 「何を言いたいのか」はすぐ分かったので、「公務員が学会などと言っても簡単なことではないと思っております」と答えた。
 総務部長は目を覗き込むように顔を近付けて「そうだよな」と。
 それは、職員の人事権を握っている総務部長の顔であった。「勝手に派手なことはするなよ」「分かっているな」という眼光であった。自治体学会の旗揚げを抑える顔であった。

 部長室のドアを開いて廊下に出た時、「そんな脅しで自治体の政策自立の流れを止められてたまるか」、「あなたとは志が違うのだ」と呟いたことを想い起こす。決して「格好を付けて」述べているのではない。
 このころ小学生であった人々が自治体職員として活躍しているという時間の経過である。当時の緊張感を記しておきたいからである。
 いつの時代にも、現状維持的でない変革を試みれば、必ず「しっぺ返し、嫉妬と陰口、足ひっぱり」が伴うものである。「その覚悟が必要である」と言っておきたいから述べているのである。
 「埼玉会議に森を出張させない」と「知事側近の人」が言っている、というのも耳に入ってきた。そこで、埼玉会議の前夜、東京都内の大きなホテルのロビーで、多摩地域の研究会の人々と綿密に進行を打ち合わせた。
 協議しているどの顔にも「時代の波」を引き起こそうとする輝きが漲(みなぎ)っていた。

6 設立準備委員会の発足
 一九八五年一〇月一七日と一八日、浦和で開催した第二回政策研究交流会議は前回にも増して盛会であった。畑知事は歓迎挨拶で、にこやかに「自治体学会設立への期待」を語った。
 第一日目の日程が終わった後、別室で「自治体学会設立についての協議の場」を設けた。「代表委員に田村さんと塩見さんを選び、この場にいる七五人の全員が設立準備委員になる」「設立事務局は当分の間、神奈川県自治総合研究センター研究部が担当する」ことを決めた。

 その協議の場で目黒区職員の桑原美知子さんが「自治体学会設立への期待」を「私は今日のこのために来ているのです」と「喜びが匂い立つかのように」瞳を輝かして語ったのが印象的であった。
 協議の進行役を務めた筆者が翌日の全体会議に報告した。万雷の拍手で賛同された。

 翌一九日の朝日新聞は全国版(二面)に「自治体職員が学会設立準備会を結成」と三段見出しで報道した。記事を書いたのは第一回交流会議から取材を続けていた朝日新聞地域問題総合取材班の寺田記者であった。
 こうして、全国の自治体職員に鮮烈なイメージで「学会設立のメッセージ」が届いたのである。
(埼玉会議の詳細は時事通信社の「地方行政〔85年11月9日号〕」と「地方自治通信〔86年2月号〕」に掲載されている)

7 「全国行脚」
 次の問題は「自治体学とは何か」である。
 「政策研究交流会議」はそれなりに理解できるが「自治体学の学会」は「よく分からない」というのが当時の多くの疑問であった。
 そこで、神奈川県自治総合研究センター研究部は「自治体学とは何か」の試論づくりに専念し「自治体学に関する研究」(B4判 一四一ページ)をまとめた。

 八五年の真夏、研究部員はこの「冊子」を携え、分担して全国各地に学会設立を呼び掛ける「全国行脚」に出かけた。それは第一回交流会議開催事務局の責務を果たすためである。
 「熱い期待」に迎えられた。「冷ややかな反応」もあった。
 全国行脚によって五〇〇人を超える人々が自治体学会加入の意思を表明した。

8 神戸・自治体学フォーラム
 関東だけの動きでは全国展開にならない。全国的な「自治体学会設立の機運」をつくり出さなくてはならない。直ちに「日本列島縦断・自治体学連続フォーラム」のイメージが浮かび上がった。

  (以下、具体叙述のために個人名を出すことを了とされたい)。
 関西で「自治体学・フォーラム」を開催しようと考えた。
 研究部主幹の森田徳さんと二人で大阪に出かけた(森田さんは現在横浜市中区海岸通りで行政書士の事務所を開業している)。
 自治体関係の方々に大阪東急ホテルに集まっていただいた。だが、顔を見合わせて「大阪府庁や大阪市がどう思うか」「自治労がどう言うだろうか」の発言ばかりであった。「フォーラムを開催しよう」との決断発言が出てこない。
 やむを得ず、翌日、神戸市役所収入役の安好匠さんに相談した。「神戸市が表面に出ると兵庫県が後ろに下がるので」背後から応援するとの確約を得た。

 そこで、第一回政策研究交流会議の報告者であった「21世紀ひょうご創造協会」の福田丞志さんに相談して、同行していただき兵庫県企画部に「自治体学フォーラム開催」の協力を依頼した。
 こうして、一九八六年二月一二日、「神戸自治体学フォーラム」が開催できた。会場は兵庫県農業会館。主催は「関西活性化研究会・21世紀ひょうご創造協会・神戸都市問題研究所・滋賀市民と自治研究センターと自治体学会設立準備委員会」であった。
 北海道から沖縄までの二五三人が参集した。会場発言は熱気に満ち確かな手応えがあった。
 この「神戸フォーラム」の詳細は「地方自治職員研修」八六年二月号に特集されている。その会場内で全国準備委員会を開催した。

会場内で開いた準備委員会の論点
名称・「自治体学会」よりも「まちづくり学会」または「自治体政策学会」ではどうか。
会費・年三〇〇〇円では財政独立がむずかしい。考え直すべきだ。
組織・既存の組織や団体を統合するのではなくて、グループや団体の活動をつなぐ組織を目指そう。
事業・事務局が事業を請け負うのではなくて、会員の地域活動が基本である。
活動・準備委員が核になって各地で「自治体学フォーラム」を開催しよう。

9 東京自治体学フォーラム
 一九八六年四月一九日、東京・府中市自治会館ホールで「東京自治体学フォーラム」が開催された。参加者は三一五人、市民と学者の参加が際立って多かった。

 このフォーラムで「自治体学会のイメージ」が見えてきた。すなわち、市民・学者・自治体職員の三者が一体となって地域課題を解明する「実践と理論の自治体学」のイメージが論議の中に現出していた。
 戦後、自治体革新のメッカであり続けた多摩だからである(この概要は新三多摩新聞、四月二六日号に報じられている)。
 八六年五月一〇日、仙台で「東北自治体学フォーラム」が、気仙沼で「まちづくり自治体学会フォーラム」が開かれた。沖縄でも、九州でも、中国でも、四国でも、北海道にも自治体学フォーラムが開催された。
 日本列島に「自治体学会の設立」が「自治のうねり」を起こし始めたのである。

10 「自治労」と「全国自治体問題研究所」
 「自治労」の「自治研究全国集会」には歴史がある。
 自治体学会の主要会員は自治体職員であるから、自治労から自治体学会設立に異論が出ると現場で混乱が生じる。
 神奈川県自治総合研究センター研究部は学会設立事務局であるから、研究部長は事務局長のようなものである。自治労本部に出掛けた。

 小倉政策局長にお会いして「自治体学会が目指す方向」を話した。「分かりました。設立発起人として丸山委員長が参加します」になった。
 「全国自治体問題研究所」も歴史と実績のある組織である。
 一九八五年九月二七日の午後、代表をなさっていた宮本憲一先生に鎌倉でお会いして設立発起人になっていただいた。

11 代表運営委員
 設立発起人代表を三人の複数制にすることは合意されていたのだが、三人の名前が決まるまでは難儀な経過であった。
 一九八五年一〇月一一日の夕刻、横浜駅ビル内の東急ホテル会議室で「埼玉会議に向けての打ち合わせ」の会合を開いた。その会合で「埼玉で学会設立の協議の時、自治体職員の経験もあり横浜市の都市デザインで全国的に著名な田村明さんを代表委員として提案してはどうか」と発言した。

 ところが、所長は知事側近の意向を汲んでか沈黙したままである。賛成と言わない。その場にいた田村さんも鳴海正泰さんも沈黙であった(注2)。
 重苦しい空気のままにその会合をオワリにした。
 それまで進めてきた「段取り」は崩れそうであった。その収拾劇のことはここに述べないが曲折の難儀であった。
 代表委員が決まるまでには松下圭一さんにずいぶん何度もお世話になった。

 自治体学会は自治体職員・市民・研究者の連携である。多摩の研究会の方々の努力もあって、自治体職員の代表として田村明さん、市民代表として関西地域から日経新聞の塩見譲さん、学者・研究者代表として西尾勝さんがご承諾なさって決まった。
 塩見さんに承諾をいただいたのは、松下さんも助言者として参加した「首都圏自主研究グループ」の熱海合宿の翌日であった。「地方自治通信」の大矢野修さんと三人でMOA熱海美術館の庭園で夕陽を眺めながらの語らいであった。

12 自治体学会の誕生
 一九八六年五月二三日、二年がかりで準備を進めてきた「自治体学会」が誕生した。
 近代日本の夜明けを象徴する横浜開港記念会館で「発起人会議」と「設立総会」を開いた。発起人会議には一三五人、設立総会には六二〇人が出席した。

 出席者の顔触れは、自治体職員、市民、学者、シンクタンク職員、コンサルタント、ジャーナリスト、団体役員、自治体首長など、およそ学会の設立総会とは思えないほどに多彩な顔触れであった。いずれの顔も二年がかりで進めてきた自治体学会の設立を喜びあう和やかさに満ちていた。
 会場のあちこちで初対面の人を相互に紹介し合い、テレビのライトに照らされた会場正面には「自治の歴史に新しい一ページを」と書かれた看板が掲げられていた。

 前例のない新しい学会の設立総会にふさわしく、会場は活気に満ち華やかで緊張した空気に包まれていた。満席の参会者はこの開港メモリアルホールでこれまでにも数々の歴史的な集会が開かれたことを思い起こしていたであろう。
 議長に佐藤驍氏(北海道庁)を選出し、前日の発起人会議からの提出議案が万雷の拍手で賛同されて「自治体学会」が誕生した。

 総会に報告された会員は一二四三人(発起人七八二人、既入会申込者四六一人)を数え、規約に基づき選出された運営委員は四六人(自治体職員二九人、学者・研究者・市民一七人)。代表運営委員に田村明、塩見譲、西尾勝の三氏を選出した。多数の人が発起人になって自治体学会を設立したのである(注3、4)。

 しかしながら、「自治体学会を設立する意味は何か」「具体的に何をするのか」、自治体学会の「役割は何か」「課題は何か」と問うならば、その答えは「各人各様で一義的に定まったものはない」というのが設立当時の実情であった。
 自治体学会は多数の方々の「思念と行動」によって設立されたのである。以上の「設立経緯」は、当時、神奈川県自治総合研究センター・研究部長であった筆者が関与したかぎりでの経緯である。

13 氷川丸船上の設立記念パーティ
 開港記念会館での「設立総会」は大成功であった。
 夕刻、横浜港の氷川丸船上でお祝いの「ビールパーティ」を開いた。
 折しも、金色の満月が東天に昇り、西空には夕陽が朱色に輝いていた。
 何とも言えない美しさであった。
 多くの方々が力を合わせたから自治体学会が設立できたのである。
 全国各地で自主的研究活動が広がっていたからでもある。そしてまた「自治体は市民自治の機構である」との「自治体理論」が浸透していたからである。

 朝日新聞八六年六月五日の「天声人語」は、自治体職員が中心になって「市民的視野に立ち、地域に根ざした研究・交流を目指す学会」を設立したと評して紹介した。
 ここに、少しく個人的な感慨を述べさせていただくならば、筆者が自治体学会設立への覚悟を定めたのは、八四年の真夏の夕刻、渋谷駅の近くで松下圭一さん鳴海正泰さんと三人で「自治体学会の可能性」を語り合った時であった。
 渋谷でのこの語らいが実質的な「自治体学会のスタート」であったと思っている。その後もお二人には折に触れ相談し助言をいただいた。
 また、「壁」にひるまなかったのは、法律専門雑誌「ジュリスト」にだいぶ以前に書いた論文が、八二年に県議会本会議で自民党議員に批判されて、八三年に「本庁課長見習職の総括企画主幹」から「自治総合研究センター研究部長」へ異動になったことが「内なるバネ」になったのだと思っている。

14 第一回自治体学会──徳島
 自治体学会の運営委員である徳島市の笹山哲氏から「何か意味のある集会」を徳島で開きたい。ついては「第一回の名前がほしい」と相談があった。

 そこで、開港記念会館での「自治体学会」は「設立大会にしよう」ということになった。こうして、実質は二回目であるのだが、一九八七年に徳島で「第一回自治体学会」と「第四回政策研究交流会議」を「徳島自治体会議」の名称で開催した。その詳細は『地域の自立をめざして──徳島自治体会議』(公人社)に記録されている(政策研究交流会議は第三回を兵庫で開催したので徳島は第四回である)。

15 学会設立の背景
 自治体職員が学会を設立しようと考えるに至った背景は何であったか。
 第一は、当時の市民活動の広がりである。
 市民活動が「省庁政策の下請け機関から地域の政府への転換」を自治体に迫っていた。全国画一の省庁政策では住んで誇りに思える地域をつくることはできない。自前の自治体政策が必要である。市民活動の広がりが「自治体学会」を設立する動きへと発展させたと言える。市民活動が自治体職員に政策開発の必要性を自覚させたとも言える。

 第二は、自治体職員の水準が上昇したからである。
 市民活動の成熟に刺激されて、自身を「公共事務専従職員」と位置付け、「自治体職員」としての職務を自覚する職員が育ってきた。「自主研究」から「政策研究」への展開が「学会設立」への拍車になったのである。
 「政策研究」とは、一見ありふれた「言葉」である。しかしそれまでは、自治体には「政策研究」という言葉の用法はなかった。「政策」という言葉も自治体では日常用語ではなかった。
 「政策」は中央省庁が策定するものだ、との考え方に馴らされていたのである。しかしながら、このころには、自治体職員が月刊誌に論文を発表し著作を出版するようになっていたのである。例えば、大相撲国技館の建設計画を変更させ雨水利用システムを導入させた東京墨田区職員のソーラー研究会は、NHKブックスから研究成果を出版していた。

 多摩の研究会は『職員参加』(学陽書房)『自治体の先端行政』(学陽書房)『政策法務と自治体』(日本評論社)を出版した。
 とりわけ『政策法務と自治体』は専門学者の水準をも超えた著作であると評された。
 神奈川県の職員研究グループは『神奈川の韓国・朝鮮人』(公人社)を出版して、朝日新聞の論壇時評で「本年度の最大の成果の一つ」と評価された。
 その他、自主研究の成果が施策に活用された例は数多くある。自主研究によって視界を拓き交流し自治体職員としての自身を成長させた。その自信が「学会設立」への意欲と気運を高めたのである。自治体職員の政策研究が明らかなる転回軸であった。
 第三は、自治体理論の広がりと浸透である。
 一九六〇年の安保闘争の後、「地域民主主義論」で、市民の自治機構として「自治体が発見」され「自治体改革理論」が提示された。
 以来、「市民参加の理論」「シビルミニマムの理論」「市民自治の憲法理論」と続いた。その自治体理論を市民と自治体職員は繰り返し読んだのである。そして自治体理論の視座で自身の職務を眺めて考えたのである。
 先に述べたように、自治体職員が自治体学会の設立を提案したのは、八四年一〇月一八日、横浜市内の神奈川県民ホール六階会議室で開催した第一回自治体政策研究交流会議の席上である。参会者の基本認識は自治体理論であった。自治体が政策自立するには自治体理論が不可欠であるとの認識が参会者共通の認識であった。

16 なぜ、自治体職員が学会設立を考えたか
 「自治体の政策自立」には「自治体職員の政策能力」が不可欠である。自治体職員が政策能力を高めるには「前例に従って何事も無難に」の行政文化を超えなくてはならない。行政文化を超えるとは、一歩前に出て「才覚と勇気」で職務を実践し「地域課題を解決する」ことである。だが、職務の実践だけでは政策能力は身に付かない。歴史の一回性である「実践体験の知見」を「普遍認識」にまで高めなければならない。そうでなければ、前例なき公共課題を解決する政策形成力は身に付かない。職務の実践を理論化しなければならない。

 「実践体験の知見」を「普遍認識」に高めるには「文章に書く」ことである。「文章に書く」とは「概念で実践を再構成する」ことである。その「再構成」が「普遍認識力」を高め「実践的思考力」を自身のものにするのである。
 「政策形成力と政策実行力」には実践的思考力が不可欠である。
 「実践を再構成する」には理論が重要になる。そこで「実務と理論の出会いの場」として「学会設立」を考えたのであった。

 しかしながら、「実務と理論の出会い」は「自身の内において」である。学者の会員がいることが「実務と理論の出会い」ではない。なぜなら、「既存の学問」と「自治体の政策研究」とは「思考の方向」が異なる。
 例えば、「行政学の政策研究」は政策と政策過程を事後的・実証的・分析的に研究する学である。「自治体の政策研究」は、現実を未来に向かって課題設定し解決方策を考え出す営為である。すなわち、行政学の政策研究は事後的な「政策の実証研究」であるが、自治体の政策研究は「政策の研究開発」であって、未来構想的で規範的創造的な政策開発の営みである。自治体職員の政策研究は実効性と未来予測性に意味がある。
 自治体学会は「実践的思考力」を「自身のものにする場」であるのだから、そのように運営されなくてはならない。

17 自治体学理論と自治体学会
 自治体学会は設立され二〇年を超える歳月を経過した。
 歴代代表委員、運営委員の方々、事務局を担当してくださった自治体の皆様方のお力である。学会設立のころには小学生であった人も自治体学会に参加し活動している。「市民自治」「政府信託」「基本条例」などの自治体学理論の概念・用語は普(あまね)く広がった。市民自治の制度整備も進んでいる。画期的な進展である。

 しかしながら、状況を切り拓く批判的思考力は保持され継続しているであろうか。例えば、合併(二〇〇五年前後)をめぐっての住民投票を「開票せずに焼き棄てる」の事態が生じた。その時「何ということを」の怒りも似た心情が自治体学会員の「心の内に」生じたか、それとも「それもあり」と他人事のように思うだけであったのか。
 それが問題である。平素、口にする「自治」「参加」には何の意味もないのである。また例えば、隣国の主席と大統領が「歴史の事実」を基にして「最大の外交問題」だと言った時、靖国参拝は「心の問題」であると加害国の首相が言った。その時も、「自身の内に」いかなる思念が生じたのか。

 あるいはまた、「戦争協力法」であるのを「国民保護法」と言い換え、市町村に荒唐無稽な「住民避難計画」を押し付けていることを、自治体学会員の市民自治理論はいかに納得するのであろうか。「住民避難計画」の作成担当の自治体学会員はいかに考えているのであろうか。
 日常の職場において、「間違っていること」を「間違っている」と発言する。その思念が「自身の内に」生じないのは「批判的思考力」が衰弱しているからである。一歩前に出て「壁」を越えた体験がないから「思考の座標軸」が定まらないのである。つまりは、理論視座が欠落しているのである。

 自治体学会の盛会ぶりは真に喜ばしいことであるのか。喜ばしいことであってほしいと切実に思う。
 北海道では、九五年に北海道自治体学会を設立し現在も意欲的に活動を展開している。同じく九五年に開講した北海道自治土曜講座も毎年開講し、ブックレットは一一五冊を超え「公人の友社」から刊行頒布されている。

文化資源としての「霧多布湿原」
(カテゴリー: 地域文化の保存再生
  文化資源としての「霧多布湿原」
―地域文化の保存方策ー

1.文化資源の保存と再生
 なぜ「文化」がことさらに言われるのか。
 地域文化が盛んに言われるのは、地域社会が文化的でなくなったからである。 日本各地の文化状況は激変した。
第一次産業に従事する人口は極端に減少した。第二次産業も減少した。

情報が価値である情報産業社会に入ったからである。そのため日本列島は異常に人口が都市に集中する過密都市と人口減少で絶望的な思いに陥る過疎地域に分極化した。そして都市地域も過疎地域も共に工業技術文明的な生活様式に一変した。社会構造がいわゆる「農村型社会」から「都市型社会」に変わったのである。「文化」が問題になるのは社会構造が急激に変化したからである。

 つまり今、「文化」という言葉で求められているのは、都市型社会に対応するための価値体系、行動様式、制度、それらをつくり出す技術である。長い歳月のなかで蓄積されてきた「農村型社会の文化」が、壊され、捨てられ、喪われた。つまり、共同体に支えられていた文化に代わる都市型社会の文化がいまだ形成されていないからである。

 文化の定義は問題認識によって様々になされる。
今、問題になっている文化は、工業技術文明の発達によって出現した都市型社会に相応しい「人間らしい価値と技術」の模索である。すなわち、機能と効率の工業技術文明がもたらした利便性と引き換えに失ってきたさまざまな価値、例えば、のんびりとした時間、真の闇夜と静寂、大銀河の夜空、岸辺のある川の流れ、芸術芸能のたのしみ、家族団欒の食卓である。すなわち、心を満たし感性を豊かにする人間として不可欠な価値のことである。
その価値とそれをもたらす技術がいま「文化」という言葉で求められているのである。

 地域文化の保存とは、そのような価値と技術を地域社会のなかにつくり出すことである。人間らしい感情を育て感性を豊かに花開かせる装置と制度をつくり、人間が育つ条件を整備し、人間らしい文化的な地域社会をつくり出す営為を、「地域文化の保存・再生」という言葉で求めているのである。
 
2.今の行政では文化資源の保存と再生はできない。
 自治体に文化行政が始まったのは1970年代の初頭であった。当初のころは、文化行政に対して疑念と批判が行政の内側と外部にあった。行政内側での疑念は、文化活動の支援や文化団体への助成は、教育委員会の社会教育で既にやっているではないか。こと新しく文化行政などと言い出すのはいかなる意図か、との批判であった。
 
外部からの批判は、行政が文化を言い出して碌なことはない、終身雇用で万事無難で、法律規則で大過なくの公務員が文化で意味あることは出来ない。文化の営みは市民の自由の領域の問題である、行政が文化に手を出すのは危険ですらある、との批判であった。
このころ、建設省、農水省、文部省、国土庁などは競い合うかのように、「文化・まちづくり」のモデル事業を示して下請け自治体を募集した。
 例えば、文化庁は「地方の文化ホールや劇場の人材養成と芸術団体のネットワーク化」を言い、文部省は生涯学習地域整備計画を掲げた。自治省は「文化施設の有効利用のネットワーク化と人材養成」に乗り出すと言い、国土庁は「地方の文化施設のマネージャーの人材養成と自治体の文化担当者の企画・運営能力の向上」に取り組むと競い合った。
農水省は地域の文化を守り育てる宿泊体験交流施設を整備する「グリーン・ツーリズム」を打ち上げ、当時の郵政省は地域文化活動のための施設づくりに乗り出すと言い、通産省は「産業に感性を」と打ち上げ「地域伝統芸能を活用した商工業振興」に取り組むと言い、建設省は地域の文化・歴史の都市づくりを進めると言った。 

 戦災復興から五十年、地域の政策課題が量的な基盤整備事業から質的なまちづくりに移行したからである。しかしながら、省庁主導の旧来のやり方では文化のまちづくりは出来ない。なぜ出来ないのか。
 
 文化のまちづくりとは「住み続けていたいと思い住んでいることを誇りに思う魅力のある地域」をつくる営為である。
 住民を行政サービスの受益者と見做し、地域を行政施策の対象とする旧来の行政手法では地域は甦らない。住むまちへの愛情が人びとの心の内に育たなければ魅力あるまちにはならないのである。言葉で「住民主体のまちづくり」と言っても、旧来のお役所流儀では、人びとが地域づくりの主体にならない。行政主導の文化振興では地域の文化資源の保存と再生はできない。

3.文化資源の保存再生の方策
 伝統芸能の復活や芸術芸能の奨励支援だけが文化資源の保存再生ではない。
 人間らしい感情が育つことを目指す文化施設は地域文化の振興であるのだが、生活環境が人間的な潤いと美しさを取り戻さなければ、地域が文化的になったと言えない。

 文化資源の保存再生の課題は二つである。
 一つは人々の感性・感情、価値観、ライフスタイル、が豊かになることである。
 二つは地域社会の環境である。潤いある美しさ、魅力である。

 文化イベントも文化施設も、地域に活力を甦らせる契機になるのだが、問題はそのすすめ方である。旧来の行政手法では地域文化の再生はできない。トル

4 霧多布湿原の保存再生
 現在、霧多布湿原は
 NPO法人 霧多布湿原ナショナルトラスを2000年1月に結成し、「霧多布湿原ファンクラブ」を組織して様々な活動を行っている。
 [NPO法人 霧多布湿原ナショナルトラススト] https://kessai.canpan.info/org/trust/
・〒 088-1532 北海道厚岸郡浜中町琵琶瀬60番地 ・メール trust@kiritappu.or.jp
  [霧多布湿原ファンクラブ] http://kiritappu-mate.com/

 霧多布湿原の保存再生が成果を挙げたのは、住民と団体と企業と行政が連携したからである。連携しなければ地域文化は甦らない。
 霧多布湿原の再生は、東京の食品会社を辞めて霧多布を永住の地と定めた伊東俊和さんの呼びかけで始まった。伊東さんの呼びかけに集まった浜中町の人びとが「霧多布湿原にほれた会」をつくった。伊東さんの最初の行動は仲間づくりであった。仲間づくりが、霧多布湿原保存の始まりであった。
 横浜市舞岡川の「水とみどりの保存運動」も、十文字修さんが一人で会報を発行しつづけて、次第に仲間が増えていった。
地域環境が美しく魅力的に変容するのは人々の価値観と行動様式が変わることである。

<地域再生の主役は「よそ者」>
 他所からやってきた人には地域の魅力の違いが見える。よそ者には問題が見えて、何とかしなければと思えて、行動を起こすことができる。
その土地に住んでいるだけの人には、漠然とした危機感はあっても、地域のしがらみのなかで地域再生の行動を起こせない。地域が疲弊していくのを嘆くだけである。地域再生の主役は殆どが「よそ者」である。

<ことばの力>
 文化資源の再生に共通しているのは「ことば」である。
「ユニークな発想・あそび感覚・面白がり楽しむ心」を伝えるのは <ことば> である。
例えば、「アイドルは湿原」「ありがとう方式」「秘境の探検」「こすり出し」「ルネッサンス運動」「嫁さんよろこぶ農家住宅」「コスモスの里3300の会」「田んぼ結の会」などの ことばである。
ことばが、見えていない価値と意味を伝えて人々の心を弾ませて仲間が増える。
 仲間づくりは人と人の出会いである。仲間が増えて、ユニークな運動が発明されて、意味が見えて、メンバーも自身を変容する。   、トル
 
<人との出会い>
 霧多布湿原の保存再生は「よそ者である伊藤さん」が「地元の信用ある住職」との出会いによって事態が進展した。初期のころ伊藤さんは孤立して東京に帰ったこともあった。 
 住職さんの尽力で行政首長が湿原開発の行政計画を見直し「霧多布湿原の現状保持」が確保されたのである。そして専門家との出会いで湿原利用の方策が見出され湿原再生の膠着状態を突破し、企業家との出会いで資金援助の方途が見出され、新聞記者との出会いで霧多布湿原保存が全国に報道されて会員が増加して霧多布湿原保存再生の体制が整った。まちづくりの成否は人と人との出会いにある。 

 人と人の出会いは偶然のように見える。けれども実利と関係のないことに執着するキーパーソンのロマンが人の心を繋ぐのである。ロマンがなければ擦れ違うだけである。そして、人は出会いで自身をも変容させる。生き方が変わるのは人に出会うからである。
 地域づくりの人々に共通する明るさは 人との出会いによって獲得したものであろう。

 (このころ筆者は北海道地域文化選奨懇談会委員を委嘱されていて、第四回選奨選考委員
会(平成8年)の席上で「文化には映画・演劇・舞踊などの(時間の文化)と美的環境の(空間の文化)がある。霧多布湿原保存は北海道の地域文化であると発言して選奨が決まった)

<文化資源再生の壁>
 大勢順応に生きていれば人間関係は和やかである。だが、地域で意味ある何かを為そうとすれば、必ず壁が出現し不協和音に取り囲まれて四面楚歌になる。
 旭川駅前の大通り買い物公園も、小樽運河保存運動のときも、「法制度上不可能だ、私有地だ、利権が絡んで難しい、合意が得られない、人手がない資金がない、役所も消防も警察も認めていない、経済発展を阻害する」などの壁が出現した。

成果を挙げて輝いている地域も、最初は「制度上不可能・法律的に無理」と言われたのである。その壁を突破して現在があるのである。今から眺めれば当時の人々が無理・不可能と思ったということである。
地域づくりの障害は様々で一義的ではないが、障害の最たるものは「人の心」である。無関心・無理解・冷やかな視線、嫉み、足のひっぱり合いが壁である。壁は人の心である。

<資金・経費の問題>
 何をするにも運動資金が必要である。自費自弁のボランティア運動には限界がある。
印刷費、連絡費、事務所費などの経費は嵩む。だが費用一切を役所丸抱えの地域づくりでは地域に魅力は産まれない。
 会員の会費、賛同者の寄付、行政の委託・助成、企業の協賛・寄付・助成、イベント事
業の収入、講演講師での謝金報酬、研究提案の賞金。
 地域づくりは多種多様であるから経費の費目と額は様々である。だが何れも苦労し工夫している。

<文化資源再生運動に共通する問題>
 地域再生の運動に共通する問題は人々が次第に疲労することである。やっているのはいつも同じ人で、地域の人々は参加するだけになる。最初の感激も薄れていく。メンバーは高齢化し世代交代は難しい。運動資金が枯渇し自弁持ち出しは限界になり、寄付も当初ほどに集まらなくなる。
 行政は人員と資金は豊富だから役所との提携が必要だが、行政との間のとり方が難しい。 
 行政は所謂役所流である。役所流では地域に見えない意味や文化は育たない。
 役所は主導権を握りたがる。握ると離さない。役所の下請けでは人々の熱気は萎える。さらに加えて、役所職員は首長の次の選挙のために「まちづくり」を口にする。だから、行政の下請けはやりたくない。
 
<先進地域との交流>.
次々と生起してくる障害と状況に対応し解決している文化運動も存在している。
役所との折り合いをうまくつけているまちづくりもある。だが成果を挙げている地域文化再生活動も、年月が経過するとメンバーが固定し高齢化する。
 そこで、勉強会、研究会、討論会、視察交流、会報の発行、音楽祭、ワークショップを企画して活力を補填している。

『北海道自治土曜講座の16年』(まえがき) ㈱公人の友社刊行
(カテゴリー: 北海道自治土曜講座
  『北海道自治土曜講座の16年』

まえがき
 本書は「北海道土曜講座の16年」は何であったか、を顧みる書である。 [2011年㈱公人の友社刊行]

 解明するべき自治体課題は次々と生起する。土曜講座の役割が終わった訳ではない。市民自治の実践理論の研鑽と行政の責任回避の構造究明が終わる訳はないのである。
 土曜講座が目指したのは「自治体理論の習得」であった。

理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
 説明理論は事象を事後的に客観的実証的に分析して説明する認識理論である。実践理論は現在の課題を未来に向かって解決する理論である。丸山真男教授はこの違いを岩波新書『日本の思想』153ページで、「である」の論理と、「する」の論理として説明している。

「課題は何か」「如何なる方策で解決するか」を考えるには「経験的直観」が不可欠である。経験的直観は一歩前に出る実践によって得られる。自己保身の状況追随思考では経験的直観は身に付かない。実践理論は歴史の一回性である実践を普遍認識に至らしめる理論である。

「知っている」と「分かっている」は同じでない。そのことは、本書刊行の準備をしている現在、すなわち2011年3月、東北関東大震災による「福島原発・爆発」をめぐっての「官房長官・経産省保安院の説明」と「テレビスタジオの学者の解説態度」が物語っている。
「知っている人」と「分かっている人」の相違は、困難を覚悟して一歩前に出た「実践体験の有無」にある。自治体学理論にも同様の問題がある。(その詳細は次の動画https://www.youtube.com/watch?v=3WJoqoXyLzY をご覧頂きたい。「自治体学理論」については『自治体学とはどのような学か』(公人の友社2014年)を参照されたい。

 本書は三部構成になっている。
 第一部は、自治体改革をめざす土曜講座第二幕を展望する論述である。
すなわち、都市型社会の構造特性を明示し2000年代の自治体改革の基本論点を提示し、次いで自治体改革の課題と解決方策を見究めるには実践理論が重要であることを論証し、土曜講座十六年間の経過を詳細に検証した。第二幕を展望するためである。

 第二部は、講師を務めて下さった先生方、講座を報道して下さった記者の方々、裏方として運営事務を担ったスタッフ、そして受講者の方々による土曜講座への「愛着と感慨」の文章である。
 第三部は資料である。
 新聞等に報道された記事、全92回の講座のタイトルと講師一覧、実行委員とスタッフの一覧である。詳細に記録したのは、自治体理論の研鑽習得をめざす自治講座が北海道のみならず全国各地で開講することを希求するためである。

 本書刊行に際し、全講座の講師の先生に深甚なる感謝の意を表したい。
 特に、最終回講座の講師としてご教授を頂いた松下圭一先生と宮本憲一先生に厚く御礼を申し上げたい。
 松下先生は当初より一貫して土曜講座の運営を励まし助言して下さいました。講師としても通算6回、自治体理論の講義のために札幌にお出で下さいました。

 宮本先生も講師として通算3回に亘って出講してくださいました。そして最終回の「日本社会の可能性」の講義では「市民の自治力は継続した学習で培われる」として土曜講座の再開を繰り返し勧めて下さいました。(2002年に「北海道自治体学土曜講座」の名称で再開)

 本書が自治体改革の進展と改革主体の誕生になんらかの役割を果たすことを心より祈念する。  
 2011年5月20日
          森  啓  (北海道土曜講座実行委員長)