■■■  自治体学  ■■■

 既成の学問は「国家」を理論前提とする「国家学」です。
 自治体学は「国家統治を市民自治へ」「中央集権を地方分権へ」「行政支配を市民参加へ」組替える実践理論です。「実践を理論化し理論が実践を普遍化する」市民自治の理論です。
安部晋三の本心
(カテゴリー: 自治体学理論
 安倍晋三の本心

・安倍晋三の本心は「憲法改変」である。
ミサイル危機を煽り、Jアラートを鳴り響かせ、児童を机の下にもぐらせたのは、「憲法改変」を実現したいからである。憲法九条を骨抜きにし軍備を増強し戦争する国にするには「仮想敵国」と「国際緊張」が必要である。友好平和では困るのである。
 であるから、朝鮮半島の北と南の友好を喜ばず、トランプ・金正恩の会談中止の報に喜び、「北朝鮮との断交」「最大限圧力」を叫び続けたのである。
   安倍晋三の本心は「憲法改変」を実現して祖父岸信介の墓前に報告することである。彼の本心は「世界の平和」ではない。
  
・政治の要諦
 政治は本来、不幸せな境遇の人々に手を差しのべることにある。しかるに、トランプに言われて巨額の兵器(イージス艦は1.000億円など)を購入し、保育・介護・生活保護・障害者・難病者などの福祉予算、山林保護・河川管理の災害予算を切り下げた。彼には総理としての見識も責任感も無い。
 人々が幸せに暮らすには「平和」が不可欠である。武力で平和は保てないのである。
 軍隊は(いざそのとき)国民を守らないのである。「軍備増強は国民の生命と財産を守るためだ」と述べるが、安倍晋三は二枚舌である。平然と虚言を弄するのである。薄ら笑いの国会答弁を観察すれば彼を信頼信用することはできない。騙されてはならない。

・騙されない思考力
 官僚に(公文書を改竄させ)(記憶にありません)と嘘を言わせ、行政を私物化して「腹心の友」に便宜を図り、加計学園理事長が茶番の記者会見をした。
 (憲法違反の議案も国会運営も)公明・自民の多数議席で強行議決する。選挙民を見くびっているのである。
  今、必要なのは「騙されない思考力」と「真相を見抜く洞察力」である。そして、労働組合の「結束力」と「学習活動」と「市民との連携」である。
スポンサーサイト
住民投票 - 市民自治講座 Ⅱ
(カテゴリー: 自治体学理論
講座・『市民自治―Ⅱ』
  現在日本は民主主義か    さっぽろ自由学校・遊 (レジュメ)

第二回 住民投票 (2018-6-20)

1住民投票とは
・選挙は「人を」選び住民投票は「事柄を」選ぶ。共に主権者住民の意思表明である。
・2000年代初頭、合併をめぐって「住民投票条例の制定」を求める署名運動が全国各地に起きた。地方自治法に基づく「条例制定の直接請求」である。
有権者50分の一以上の署名(住所・生年月日・捺印)を集める署名運動である。
・住民投票は「代表民主制度の正常な運営」を求める住民意思の表明であり「信託した代表権限」の制御行動である。住民投票を実施するには、そのための条例や予算などを議会が議決しなければならない。
・だが議会が、住民の条例制定請求の78%を否決し葬った。その理由は、住民投票は“代議制の否定”であり、議会の“専売特許を侵害する”というものであった。
・日本世論調査会の調査では、住民投票の活用に賛成する人が有権者の 86%。朝日新聞の調査でも活用すべきが90%であった。
・住民投票の歩みは[住民の“直接請求”]と[議会の“厚い壁”]との葛藤の歴史であった。
・住民投票には「イニシアティブ(発案の投票)」と「レファレンダム(評決の投票)」がある

2住民投票の実際例
高知県窪川町-日本で最初の住民投票条例を制定ー町長の原発誘致に反対
新潟県巻町―日本で最初に住民投票を実施した-原発反対・町有地売却せず
岐阜県御嵩町―産業廃棄物施設
沖縄県―日米地位協定・基地縮小
名護市―普天間代替基地・辺野古湾埋立
神戸市―空港建設
徳島市―吉野川河口堰―[50%条項]

市町村合併
 2000年代初頭、全国各地で小泉構造改革の市町村合併に反対する「住民投票条例制定」の署名運動が展開された。
  議会が住民投票条例を否決―そのとき「50%条項」が援(悪)用された。 (開票せず焼却した)  
 北海道の典型実例 南幌町・奈井江町・石狩市

 無防備地域宣言条例

団体役員と市民の「思考回路」の違い

3 定住外国人の投票権
・永住外国人に住民投票を認める動きは滋賀県米原町(米原市)から始まった。
 外国人の投票権を認める条例を制定している自治体は北海道増毛町、北海道静内町、北海道三石町、茨城県総和町、埼玉県美里町、埼玉県鳩山町、東京都三鷹市、千葉県我孫子市、神奈川県川崎市、愛知県高浜市、三重県名張市、石川県宝達志水町、広島県広島市、広島県大竹市、岡山県哲西町、香川県三野町[3]。

4 常設型住民投票条例
 岩国市の事例
合併の是非など特の問題に限定しない「常設型」条例に基づき、市長自らの発議で実施できる全国的にも珍しい住民投票。投票できるのは有権者と、20歳以上の永住外国人で3カ月以上の市内在住者のうち投票資格者名簿に登録した人。投票率50%未満の場合は開票しない。

5討論(話し合う)事項
・殆ど総ての住民投票(条例制定請求)を議会が否決したこと
・徳島市議会での「50%条項」は(住民投票不成立)のためのボイコツト戦術である。
・住民投票は議会制民主主義に反する (当時の)自治省見解
・住民投票には法律上の規定が無い 自民党政調会―自治体の基本条例に対して
    https://www.youtube.com/watch?v=2tqXt27Z3tU
・憲法の定める代表民主制は間接民主制であり、住民投票は直接民主制であるから、議会制に反するのか。
・なぜ定住外国人の参政権は認められないのか。
・「住民投票の法的効果」―立法化―住民投票立法フォーラム
    (URL:http://ref-info.net/、e-mail:ref@@clock.ocn.ne.jp)

参考文献
 『住民投票』岩波新書・今井一
 『無防備平和』高文研・谷百合子編
[住民投票 - 市民自治講座 Ⅱ]の続きを読む
民主主義には権力(政府)に騙されない自立した思考力が不可欠
(カテゴリー: 自治体学理論
民主主義には権力(政府)に騙されない自立した思考力が不可欠

 安倍晋三の本心は「アジアの平和」ではない。本心は「憲法改変」である。朝鮮半島「北と南の融和」を望んでいない。だから、虚言を言い続け危機を煽っているのだ。現在日本は「間違っていること」を「間違っている」と(言わない・言えない空気)が充満している。

 岩波「世界」六月号(41頁)の『憲法九条は誰が発案したのか 』を、お読みなさるをお薦めします。当時の幣原喜重郎首相の(見識と覚悟)は、安倍晋三首相の(憲法改変の執念)と較べて、人間としても首相としても「天と地の違い」です。

 前川喜平さん(前文部科学省事務次官)の東京大学駒場キャンパスでの下記講演を是非ご覧下さい。
   https://www.youtube.com/watch?v=6pFOa_dqJSM


北海道自治体学土曜講座(2018)
(カテゴリー: 北海道自治土曜講座
北海道自治体学土曜講座(2018) 

(第一回) 2018-5-26
[新聞・テレビは「大切なこと」を報道しているか]
民主主義には権力(政府)に騙されない自立した思考力が不可欠である。だが現在日本は「間違っていること」を「間違っている」と(言わない・言えない空気)が充満している。四月から始まった小学生への「道徳教育」にも(各人の考え)を大切にしない(集団重視教育)の危うさがある。新聞・テレビは真実を報道しているかを吟味し検証する。

1 安倍政権のメディア操作  徃住嘉文(日本ジャーナリスト会議)
2. 放送を巡る問題状況    小滝一志(放送を語る会事務局長)
3. ネット時代の新聞の役割  高橋 悟(自治体政策研究所理事)
4 .報道に騙されない市民の条件 植村 隆(元朝日新聞記者) 
5. 企業記者とフリージャーナリストの違い
                   小笠原淳(フリーライター)
 
(第二回) 2018-10-13
[民主主義の政治理論] 
松下圭一教授の市民政治理論に触発され「市民自治の憲法理論」を学んだ人は全国にあまた居る。だが日本は民主政治とほど遠い状態にある。安倍政権の本心は「アジアの平和」ではない。本心は「憲法改変」である。「北と南の融和」を本心は望んでいない。危機を煽って虚言を言い続けているのが安倍政権である。民主政治でない。松下先生追悼の意をこめて「市民自治の民主主義理論」を検証する。

1 .松下理論が日本を変える 大塚信一(元岩波書店代表)
2 .松下理論と多摩研究会   西尾 勝(多摩研究会)折衝中
3 .松下先生の市民自治理論 土山希美枝(竜谷大学教授)
4. 松下教授の自治体理論  辻山幸宣(地方自治総合研究所所長)

会場 北海学園大学 教育会館1階AV4番教室
    地下鉄東豊線「学園前駅」3番出口直結
 

地域の活性化には自治体理論が必要
(カテゴリー: 自治体学理論
以下は [北海道町村会・政策情報誌「フロンティア180」第13号(1995-4-10)]の論稿である。

  地域の活性化には自治体理論が必要 
 
一 町村職員には自治体理論が必要である
住みつづけていたいと思い住んでいることが誇りに思える地域をつくるには自治体理論が必要である。
地域課題が「量的基盤整備」から「質的まちづくり」に移った。まちづくりは省庁政策の下請けでは出来ない。地域課題を見つけ、その課題の実現方策を考え出し、住民、企業、団体と協働して実行する。そのような能力のある職員が町村役場に育たなければ地域はますます寂れ、ますます衰退するであろう。
まちづくりは役場の職員次第である。まちづくりの時代とは役場職員の能力が試される時代ということであろう。地域に活力が担り、個性と魅力と美しさが地域に育ち、過疎の進行が止まるには、役場にまちづくり能力のある職員が育たなければならない。
例えば、産業構造が変化して情報産業の時代になったから都市に人口が集中するのであって過疎の進行は止めようがないのだ。農村地域が寂れていくのは時代の流れであって役場職員がどんなに頑張ってもどうにもならないのだ、とただ言うだけ嘆くだけの役場職員では地域に活力は穀らない。質の時代のまちづくりは役場だけではできない。役場だけではできないのだが、役場職員が「まちづくりとは何か」「地域に活力が起るとは何をどうすることであるのか」が見えていなければ、「何
から始めればよいのか」がわからなければ、地域は間違いなく衰退する。そのような時代である。
ここ数年、農水省、国土交通省、総務省などの各省庁は「地域づくり」を唱えて、まるで競い合うかのように同じような事業を示して市町村を募ってきた。市町村は申請書を出して省庁指定の事業に自前の金も注ぎ込んでいる。質のまちづくりの時代に変わっても補助金行政のやり方は量の時代と変わらない。
しかしながら、省庁主導の旧来のやり方では質のまちづくりはできない。なぜ出来ないのか。質の時代のまちづくりの課題はすべてが総合行政的な政策手法を必要とする課題だからである。タテワリ省庁が補助金で指示し支配する旧来のやり方では個性と魅力のまちにはならない。施設も、事業も、制度も、その運営も、総合行政としてすすめなければ魅力あるまちにはならない。
例えば、省庁助成で施設をつくるとする。人口も少なく財源も乏しい地元では複合多機能施設をつくりたい。ところがタテワリ省庁は補助目的を理由にこれを認めない。会計検査員がそれをフォローする。
だが、地域事情は千差万別である。地域課題の内容も事業のすすめ方も様々である。それを、地域事情の分からない東京の省庁が画一基準で優越的に指示支配するから地域に魅力が育たない。
さらにまた、住民を行政サービスの受益者とみなし地域を行政施策の客体とする考え方では、人びとのまちへの愛情は育たない。まちに魅力と活力が甦るのは、そこに住んでいる人びとがまちづくりに関わりまちへの愛着を心の内に育てるからである。
計画も実行も市民自治的なやり方ですすめなければ人の心にまちへの愛情は育たない。現在の省庁支配の行政システムでは

市町村職員に「いたし方がないのだ」との惰性的な考え方を続いているからである。これでは誇りに思える魅力あるまちにはならない。
ではどうすればよいのか。自治体理論である。

二 統治理論から自治体理論へ
地域に個性と魅力を担らせるのは自治体理論である。
理論とは、筋道をつけて組み立てた考え方である。過疎が進行している日本列島にいま必要なのは自治体理論である。
「第一次産業を基盤とする社会」からが「情報産業型の社会」に大転換した(1)。価値観・生活様式が変わった。家庭のあり様、地域の人間関係を顧みればその変化は歴然である。一方に異常な過密、他方に深刻な過疎が進行している。何とかしなければならない。地域を燈らせる課題と方策を考え出さなければならない。
考え出さなければならないにもかかわらず、行政のやり方は旧態依然で役所の内側は何も変わっていない。
住民は被治者であって主権者ではない。国家の名目で法律を執行する省庁官僚が統治者である。自治体がそのシステムに従属しているからである。 
しかしながら、地域を甦らせ人間らしい感情と環境を取り戻さなければならない。自治体の政策能力を高めなければならない。中央-地方の行政システムを転換しなければならない。
問題は自治体職員である。仕事の仕方は旧態依然で、無責任で責任回避で形式的公平、年功序列の保身である。何も変わっていない。
社会構造が大転換して地域課題が量から質に変わったにもかかわらず、カタカナ言葉だけで、地域を甦らせる政策課題に挑戦していない。
(住民と手を携えて地域を起らせている町村は存在する。それは承知しているがここでは、文脈上かく記述する)
なぜであるのか。毎年四月、道庁、市役所、町村役場に新採用職員が入る。入ったときは、感覚も心も顔つきも人間らしく初々しい。けれども、数年を経過すると「地方の公務員」になる。首の後部をボンと打つと「チホーコームイン」と音がする、ようになる。言葉づかいも感覚も完全に役所の人になる。目の輝きも次第に薄れる。何故であるのか。
時代の転換に対応する自治体理論がないからである。役所が旧態依然でありつづけるのは明治以来の理論が浸透しているからである。
新採用職員が役所の人に変身するのは国家が統治し支配する理論に取り込まれるからである。移しい法律規則はすべてが国家統治理論で解釈され運用され通達され執行されている。事業・制度・施設・行政機構、そのすべてが国家統治理論で日常的に執行・運用・運営されている。これでは、仕事の仕方・言葉づかい′・顔つき・服装・感覚が次第にお役所の人になるのは当然であろう。
まことに、理論の力は大である。
例えば、文化ホールを建てるとする。官庁理論はこうである。文化ホールは公の施設であり行政財産である。行政財産は行政の責任で建設し管理する。役所が管理運営規則を定め館長を任用する。ホールの利用は申請書を提出し館長の使用許可決定を受け役所が定めた管理規則に従う。住民は行政サービスの受益者である。住民は公共政策の主体ではない。
これが旧来の国家統治の理論である。だから、文化ホールの建設は、ホールについて何も知らない実直な公務員が、さしたる見識もない首長の意向を伺いつつ、発注を受けたいだけの建築屈と、市民不在の場で密かに協議して、莫大な費用の建物をつくる。このような役所のなかで何年かを過ごせば、客席がアンコールで沸いているからと時間延長を求められても、管理規則を盾に所定時間での退出を迫る職員になるであろう。練習場所をもたない地元オーケストラに休館日の練習使用を求められても、館長は条例の規定を理由に断るであろう。そしてまた、現場が柔軟な運用をすれば本庁から官庁理論をふりかざして非難批判の指弾が飛んでくるであろう。だから、全国各地でハコモノ批判が一斉に噴き出している(2)。しかしながら、統治支配の官庁理論の職員には批判の意味すらも分からないであろう。
「文化施設の運営」と「行政財産の管理」とは原理的に異質であることが統治支配の感覚では分からないからである(3)人々の心にまちへの愛情が育たなければ誇りに思えるまちにならない(4)。
住民と協働しなければ美しく魅力あるまちにならない。統治支配のやり方では質の時代のまちづくりは出来ない。地域を起らせるには国家統治理論から自治体理論への転換が不可欠である。

三 自治体理論
自治体理論とは日本の各地域に活力が起る考え方である。住んでいる人が地域に愛着をもち地域への愛情を心の内に育てなければ地城は美しくならない。住んでいる人が地域を良くもするし駄目にもする。他人まかせでは、行政まかせでは、地域は確実に衰退する。そのような時代である。
社会構造が「農村型」から「都市型」に移行した。それまで、社会を繋ぎ支えていた共同体が失われた。だが、共同体に代わるものがいまだ形成されていない。現在はその形成の過渡期にある。農村型社会を支えた共同体に代わるものは何であるのか。それがまさに問題である。それは市民の公共性である。自治体理論は地域を支える主体と主体の関係を
見出す理論である。
自治体理論の形成には既成の考え方の転換が不可欠である。考え方の転換とは基礎概念を吟味して再定義することである。理論とは概念の繋ぎ合わせであるのだから。
例えば、行政の概念である。
行政とは法律の執行である、とこれまで考ぇていた。だが、この定義は誤りである。この定義では地域は起らない。なぜなら、法律には三つの欠陥がある。一つ、法律は全国通用つまり全国画一である。その法律の執行では地域に個性は育たない。二つ、現在の法律は各省庁タテワリである。悪く言えばバラバラ。質のまちづくりは総合行政である。タテヮリの法律ではまちに魅力は生まれない。三っ、都市型社会では前例のない公共政策課題が次々と噴出する。法律の制定改正を待ってはいられない。
つまり、行政は法律の執行ではない。行政とは政策の実行である。地域を美しく誇りに思えるまちにする公共政策を策定し実行するのが自治体行政である。正確に定義すれば、行政とは市民自治的に政策を策定し市民自治的に実行する、である(5)。つまり、地域の課題は何か、その実現方策は何か、を考えることが白油体行政であって、何かと言えば、すぐに法律はどうだ制度がどうだ、と発想しないことである。では法律とは何か。法律とは自治体政策の全国基準=準則である。その全国基準を尊重して地域事情に合った基準を定立するのが自治体立法である(6)。だから最近、政策法務という言葉が言われ始めている。このように考えを組み立てるのが自治体理論である。
自治体とは何か。省庁政策の末端執行団体ではない。住んで誇りに思える地域をつくる政策の主体、つまり政府である。現在の憲法は第八葦でそれを規定している。ところが、明治以来、政府とは中央政府のことであると思わされてきた。国家統治理論である。理論の力はまことに大である。だが、自治体も政府である。中央の政府と地方の政府の協力関
係を考えるのを政府間関係理論と言う(7〉。政策の主体である自治体は政府である。公共政策とは何か。政策とは課題と方策が組み合わされた指針である。だから、政策とは政府だけの言葉ではない。町内会にも農協にも政策はある。公共とは何か。公共とは市民と市民の関係を意味する観念である。公共も政策も国家や役所が独占する言葉ではない。
市民とは何か、市民とは誰のことか、市民と住民とは違うのか。市民概念を住民概念との対比で考えるのが自治体理論である。国家統治理論には市民概念はない。行政サービスの受益者=被治者としての住民あるのみである。住民は自己利益が行動原理。市民とは公共感覚を体得し公共性を行動原理とする人間型である(8)。国家統治理論は国家から出発
する。自治体理論は市民から考え始める。以上は、基礎概念の再定義の一例である。

四 地域が甦るのは職員次第-職員が育つのは町村長次第
地域が起るのは町村職員次第である。地域の事務局である役場の職員が旧態依然では地域は益々寂れていく。全国各地で町村職員の政策研究会が始まっている(9)。そことの交流である。交流して驚き感じ刺戟を受けて人の意識は変わる。役場に座しているだけでは意識は変わらない。行動し困難・壁に直面し苦しんで感動して意識が変わり人は育つ(10)。町村の時代である。町村の時代とは町村間に格差が拡大する時代である。その格差は役場職員の政策能力の差で決まる(11)。そのような時代である。地域は変貌し続けている。
町村は今、運命的な岐れ目にあるとも言える。すなわち、役場職員を育てる才覚・度量のある町長・村長が住民に選ばれているか否かで地域の運命は決まる。例えば、指示に従うだけの従順な地方公務員を良い職員と考える村長・助役は、地域を間違いなく衰退させるであろう。自治
体理論を勉強する職員を生意気だと非難して実務をやっていればよいのだと言う町長・助役は、町の未来の灯を消している町長・助役である。そのような時代である。
町長・村長に申し上げたい。
管理職には「それはそうだが、しかしそうは言っても法律・制度が…」と一切言ってはならぬと命じ、職員には「現行制度上止むを得ない」の論理に呪縛されるなと令を発されてはいかがであろうか。そして、役場内に情報コーナーを設け、自治体関連の月刊誌・季刊誌、出来れば書物も置く。地域づくりの時代であるから、各地の実践・見方・考え方の情報が身近手近にあることが職員の目を開かせる機縁となる。その資料と文献目録は町村会で整理なさってはいかがであろうか。

(注)
(1)松下圭一「政策型思考と政治」東大出版会18頁
(2)森 啓編著「文化ホールがまちをつくる」学陽書房98頁
(3)地方財務95年4月号「これからの文化施設のあり方」
(4)北海道自治研修所調査研究部・報告書「共に地域をつくる」
(5)地方自治センター編「自治体革新の政策と構想」下巻346頁=対談「自治体政策と法」西尾勝/松下圭一
(6)松下圭一「都市型社会の自治」日本評論社25頁
(7)西尾勝「行政学の基礎概念」東大出版会393頁‥政府間関係の概念
(8)松下圭一「戦後政治の歴史と思想」筑暦学芸文庫171頁
(9)自治体職員の政策研究会「政策型思考研究会(道庁職員と町村職員の研究会)、白老町職員政策研究会、道央圏町村職員政策研究会、小樽地域政策研究会、ニセコ町政策研究会など。
(10)「自治体職員の能力」公人の友社ブックレット№10

 
五回講座・市民自治 ―現在日本は民主主義か(Ⅱ)
(カテゴリー: 自治体学講座
五回講座・市民自治 ―現在日本は民主主義か

安部首相の国会答弁は、急所(重要なこと)を質問されると焦り「野次がウルサイ」とイライラして「訊かれていないこと」をベラベラ喋り質問者の持ち時間を浪費する。これが国民の運命をも決する人物であろうか。安部普三はアメリカ-トランプに同調して「北朝鮮への圧力」を言い続けているが、北朝鮮は「圧力」で「参りました-核は止めます」と言う国であろうか。日本のなすべきは、南と北の対話・友好の気運を支援して「東アジアの平和」を求めることである。これが道筋である。日本の人々は賢明にならねばならぬ。本講座はその道筋を吟味し考察する。

●会場 さっぽろ自由学校「遊」(愛生舘ビル5F 501)
●講 師 森 啓(もり けい)
中央大学法学部卒、神奈川県自治総合研究センター研究部長、北海道大学法学部教授、現在・北海学園大学法科大学院講師。主な著作「文化の見えるまち」「自治体学とはどのような学か」『自治体学の二十年・自治体学会の設立経緯』(公人の友社、2006年)。詳細はhttp://jichitaigaku.blog75.fc2.com/ 参照。
●テキスト 森 啓『新自治体学入門』時事通信社

第1回-2018-5月16日(水) [北海道の道州制問題]
1) 3.200を1.700に減らした市町村合併はどうであつたか
2) 道州制の意図(ネライ)は何か
3) 北海道の自立と沖縄の独立―北海道の四島返還と沖縄の米軍基地撤去
4) 北海道の役割―東アジアの友好平和

第2回-6月20日 [住民投票]
1)「当選すればこっちのもの」にさせない市民の制御力と歯止め。
2) 自治体の憲法―市民自治基本条例
3) 代表権限の信託と信託解除権の発動
4) 常備型住民投票条例

第3回-7月18日 [メディアと市民]
(対論) 徃住嘉文(日本ジャーナリスト会議北海道事務局長)
1) 新聞-テレビは真実を報道しているか
2) 原発-基地問題とメディアの現状
3) 安倍政権のメディア操作―NHKニュースと解説員
4) メデイァに騙されない市民の条件

第4回-8月22日 [自治体の政策能力]
1) 自治体の独自政策の歴史(歩み)
2) 議員の政策能力―議員が市民活動に関わらないワケ(理由)
3) 町内会問題と市民自治
4) 市民の学習活動と自治体の政策形成

第5回-9月19日 [行政職員と市民]
1) 市民は行政職員をどう見ているか
2) 市民の側の問題は何か
3) 行政の職員研修の現状―能吏の養成か自治体職員の誕生か
4) 職員と市民の協働―まちづくりの実例
貴ノ花親方問題
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
  貴ノ花親方・問題
・ことの発端は(モンゴルからきている力士たちの問題)であった。
・それが大問題になったのは(大問題にしたのは)貴ノ花親方である。
・(警察への告発は貴ノ花親方の考え方であるが)、貴の岩を(所在不明)(誰にも会わせない)にして、貴の岩本人の(真意・気持ち)を誰にも話させないようにした。だから、(九州場所の最中に)テレビのバラエティ番組で「無責任な発言」が連日飛び交ったのである。
・日馬富士は、暴行を詫びて横綱を(力士も)引退したが、(貴の岩と会えないので)示談ができずに罰金刑になり、相撲協会への復帰は困難になった。(事件の翌日、貴ノ岩が日馬富士に(私も)悪かったと詫びたと伝えられていたのだ)
・貴の岩は(親方と日馬富士)の板挟みになっていたのではあるまいか。貴の岩の故郷モンゴルの人々への立場を辛くさせたのは
 貴ノ花親方ではないのか。
・貴ノ花は相撲協会の発展・改革を真剣に考えているのであろうか。現役時代の実績(22回優勝)と親方としての(今回の)言動は分
 別すべきである。
・貴ノ花が内容のある真面(マトモ)な相撲協会改革案を保持しているとは思えない。貴ノ花の態度(ふるまい)は日本相撲協会の発
 展よりも(八角理事長)への(遺恨)のように思える。
・貴ノ花に、(相撲道)や(協会改革案)なるものが(内容あるものとして)存在するかの如く、深読みするのは慎むべきである。とりわけ
 (落語家と弁護士)の「バラエテイ番組」での発言はまことに疑問である。

北村・横綱審議会委員長の(記者会見の言)
(審議会全員一致の見解)「貴ノ花の行動は非難に値する」

(脳科学者茂木健一郎氏の言)
「貴乃花親方は、日馬富士を警察に告発して横綱引退につながる事態にしながら、貴ノ岩関への協会の事情聴取を拒否するのはフェアではない。「貴乃花親方は、お父さまの貴ノ花関の、あの、おおらかさ、人の痛みを感じるやさしさを、ふりかえっていただきたい」。貴ノ岩への聴き取りを拒否している親方の姿勢は「単なる教条主義であり、敢えていえばカルトにしか見えません。大相撲全体のことを思っていらっしゃるとは思えない」(日刊スポーツ 11月28日)

(スポーツ評論家玉木正之氏の言) 2018年01月11日 05時56分
「相撲をあまり見ず、好きでもなく、よく知りもしない人(テレビのコメンテイター)が、短絡的に無責任な発言を繰り返している」

北朝鮮ロケットと憲法改変
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
   北朝鮮ロケットと憲法改変

日本の若い人は「政治の話」を避ける。ダサイなどと言う。
欧米では、政治の話をしない若者は一人前の大人ではないと言われる。
若者の特権は「正義感」と「情熱」と「行動力」だとされてきたが
 なぜ日本の若者は「政治に無関心」なのか。

ところで、「政治に無関心」なのは若者だけであろうか。
北朝鮮ロケットは(はるか上空)を(はるか彼方の太平洋)に落下したのである。
・国際宇宙ステーションは400キロの上空である。
領空は400キロのはるか下である。
8月29日のロケットは550キロの宇宙空間である。
9月15日のロケットはさらに上空の800キロの宇宙空間であった。
だが、全国各地で(Jアラートは鳴り響き)(児童は机下にもぐった)

・領海(経済水域)は沖合370キロである。
 北朝鮮ロケットは襟裳岬から2.200キロの太平洋に落下したのである。
 しかるに、政府とNHKニュースは 「北朝鮮ミサイルが(わが国の上空)を通過し北海道の沖合に落下したと(意図的に危険を)報道した。Jアラートを(鳴り響かせ)(児童を机の下にもぐらせた)のは、誰か、何のためか。

・1月22日「ミサイル非難訓練」が東京春日駅・後楽園駅・東京ドームシティアトラクションズで行われた。
 「誰が」「何の為に」命じたのか。これを考えるのが「政治への関心」であろう。

・日本の沿岸には(原子力発電所と石油タンク)が林立している。
 「ミサイル飛来」となれば「万事窮す」のオシマイである。「ミサイル非難訓練」どころではない。政府が為すべきは「米朝戦争の回避」である。

・安倍内閣は「憲法改変」をしたいがために、「北朝鮮ロケット」を(利用して)、ことさらに国民に「危険を煽って」いるのである。
 真相を見抜かなくてはならぬ。政府が為すべきは戦争回避である。政府はいつも騙すのである。真相は何かを考えるのが「政治」の関心であろう。フェイク(嘘ツイート)はトランプだけではない。安部晋三の(二枚舌)も同じである。

自治体学の思考論理
(カテゴリー: 自治体学理論
自治体学の思考論理  
思考の道具は「言葉」である。批判的思考力を取り戻すには「道具である概念」を明晰にしなくてはならない。論理的思考には明晰な概念・用語が必要である。状況を突き破り未来を創造するのは「規範的思考力」である。規範的思考には「規範概念」が不可欠である。
 1970年代の対立軸は「経済体制のイデオロギー」であった。現在の対抗軸は「国家統治」対「市民自治」である。すなわち、「中央支配の継続」に対抗する「地域自立の実践」である。「国家学」を「自治体学」に組み替える規範的思考力が緊急の課題である。
 改革はいつの場合にも「主体の変革」が基本である。自分自身は何も変わらないで「目新しい言葉」を述べる風潮が広がっているのではあるまいか。
 例えば、自治基本条例が「自治体の最高規範」であると解説され、流行のように制定されている。良いことである。画期的な自治の進展であると言えよう。しかしながら、『新自治体学入門』第4章「市民自治基本条例」で検証したように、そこには「主体変革」の問題意識が欠落している。「新しい制度」をつくれば「状況が変る」と考えているのではあるまいか。
 「協働」の言葉も流行している。協働とは「自己革新した主体の協力」を意味する造語である。主体双方の自己革新が前提である。行政と住民の関係が現在のままでは協働にならない。「協働」は統治行政の現状況を「市民自治」に転換するための「主体変革」を前提とした言葉である。すなわち、自己革新した「市民」と「自治体職員」の相互信頼に基づく協力関係が地域の自立を創り出すのである。
自治基本条例の制定に住民投票は必要か
(カテゴリー: 市民自治基本条例本条例
    自治基本条例と住民投票

松下圭一教授は1975年刊行の岩波新書「市民自治の憲法理論」で、自治体は30年間の自治の蓄積によって自治行政権、自治立法権、自治解釈権を有する地域政府に成熟した、とする市民政治理論を提示した。
民主政治の基礎概念(市民、自治、分権、参加、政府信託など)の殆どは、松下教授が理論提示をして造語した。それが普遍用語になったのである。
30代40代50代のころの松下教授は「未来を構想し現状を切り拓く」規範理論を精力的に発表して「市民政治理論の時代」を形成された。規範論理(かくあるべきの論理)が状況の壁を切り拓き事態を進展させる(させてきた)のである。すなわち実践論理が「国家統治」を「市民自治」に切り替えるのである。それをアキラメ(そうは言っても)の現状追随では事態は何も変わらない。

 ところが、松下先生の晩年の論稿には「詠嘆調の論述」が目立つようになった。例えば、2012年8月刊行の「成熟と洗練」(公人の友社刊)では、「日本は今日、〈進歩と発展〉の時代は終わって、ついに〈没落と焦燥〉の時代に沈んでいく、という予感をもつ事態に入っている。はたして、日本は自治・分権型の「成熟と洗練」にむけての〈転型〉ができるだろうか」(256頁)
 「日本の市民は、〈市民活動〉の熟成、〈自治体改革〉の展開、〈国会内閣制〉の構築のなかで、市民個々人が多元重層のチャンスをもつ〈市民政治〉の時代をつくりうるのだろうか」(258頁)、と記述される。

 広瀬克哉教授(法政大学)が、「法学志林(松下圭一名誉教授追悼号・2017年3月刊)」で、「自治基本条例の制定に住民投票は必要か」についての松下教授の(見解の変遷)を紹介されている。
「基本条例の制定(成立)に住民投票が必要か」は重要論点であるのだから、広瀬教授ご自身のお考えをそこに記述して頂きたく思った)

 [松下教授の見解の変遷]
 1999年刊行の岩波新書「自治体は変わるか」には、「国の基本法としての憲法、国連の基本法である国連憲章とあいならんで、各自治体には住民投票にもとづく基本条例の策定が問われています」と記述された(258頁)。
 2008年の講演 (なぜ基本条例を制定するのか・武蔵村山市の講演)」では、「主権市民による基本条例の策定には、長・議会ついで職員からなる自治体政府を、市民が自ら設計し設置する道具であると位置づけることが必要です。基本条例は市民による自治体の設計書です」と講演した。

 ところが、2005年刊行の『転型期日本の政治と文化』では、「住民投票は通常の議会手続きによる基本条例制定後でよいのではないか」と記述される。(2002年の公職研臨時増刊号「なぜ今、基本条例なのか」を改訂しての記述)
 さらに、2010年8月刊行の『自治体改革-歴史と対話』では「基本条例は自治体の基本法であるかぎり、いつかは住民投票にかける必要はあるが、20年ほどの時間がたって、条文としても成熟したと判断しうる状態がきたとき、住民投票をおこなえばよいと私は考えています」と(2008年の武蔵村山市での講演を改訂して)論述されている。

 (松下先生がご存命ならば、お逢いして「なぜなのですか」とお尋ねしたいと思う。それができないから、松下先生の著作を検討された広瀬教授にご所見を伺いたいと思う)

 「基本条例の制定と住民投票」についての私の見解は、このブログ右側目次の「市民自治基本条例」をご覧下されば幸甚です。
そして、この論点を北海学園大学開発研究所「開発論集」(2018年3月刊行予定)に詳述する心算である。

・講座・市民自治 (市民と首長) 」
(カテゴリー: 自治体学講座
     『市民自治-五回講座』 さっぽろ自由学校「遊」

第二回 市民と首長 (レジュメ) 

1 見識のない首長
・首長は当選すると行政職員に迎えられて庁舎に入り役所側の人になる。・首長が常に片足を市民の側に置くよう、市民は連携方策を工夫する。・選挙で「見識の無いやる気のない」人物が首長に当選するときが(多く)ある。当初は役所の慣例に従うが、慣れてくると増長し独断専横になり、利権に堕することもある。・首長の逸脱は地域社会に混乱を齎し職場士気は沈滞し意欲ある職員は無残。 鹿児島県阿久根市の混乱は869日続いた。北海道にも実例がある。

2 公約―市民との約束
・庁外から入った首長は幹部職員に囲まれて(ご説明)を注入される。・首長は孤立し孤独になる。相談相手・政策ブレーンが必要である。・首長の人事権にスリ寄ってくる職員はいる。だが信用できる人物はいない。・市民は「政策提言グループ」を考案し連絡を密にする。  

3 庁内の掌握
・首長がなすべき(第一)は「職員の政策能力」を高めることである。(職員の政策能力とは何かを『新自治体学入門(時事通信社) 116頁』に記述した) ・人事権を掌握することが重要であるが職員は首長の私兵にではない。・橋下(前大阪市長)の誤認識
・年功序列人事とバッテキ人事の兼ね合い 実例―神奈川県知事(長洲)と北海道知事(堀)の(腰の弱さ)
・庁内(行政内)を統括できない首長は、(拍手で迎えてくれる)庁外に出かけるようになる。その実例……

4 首長は(在任中)と(退任後)に言うことが異なる。何故であろうか
・実例
議会の重要な役割
(カテゴリー: 北海道自治体学土曜講座
 2017北海道自治体学土曜講座(第五回)の討論内容を時事通信社・地方行政誌に投稿した。その原稿に「議会の重要な役割-2」が脱落していたので、ここに掲載する。

「議会の重要な役割」
自治体の首長選挙で「見識の無い・やる気のない」人物が当選するときが(実例は)多くある。当初は役所の慣例に従うが、慣れてくると、増長し独断専横になり利権に堕することもある。首長の逸脱は地域社会に混乱と沈滞を齎す。職場士気は沈滞し意欲ある職員は無残である。首長の逸脱を制度的に糺せるのは議会である。
だが、選挙で当選した首長を糺すのは容易ではない。鹿児島県阿久根市の混乱は869日続いた。首長の逸脱を糺すには議会の結束が重要である。見識ある議員の存在が不可欠である。有権者住民は(首長と議会の対決)を不仲・相反と眺めてはならない。
議会改革とは何を改革することか
(カテゴリー: 北海道自治体学土曜講座
    北海道自治体学土曜講座
   議会改革とは何を改革することか
   ―議会審議への住民参加―

 「自治体の主人公は市民である」を基本に据えた、「自治体学」の理論と実践を目指す「北海道自治体学土曜講座」(第五回)が、2017年10月21 日、 札幌市の北海学園大学で開催された。主題は「議会改革とは何を改革することか」であった。

開催趣旨
現在、全国各地で展開されている議会改革の試みは、分権型社会の実現にとって歓迎するべき動向である。だがその基本認識にいささか問題がある。そこで、その問題点を首長と議員と研究者が会場発言を交えて討論した。

討論者
広瀬重雄(芽室町議会議長)
田村英樹(京極町議会議長)
鳴海清春(福島町町長)
菊池一春(訓子府町町長)
片山健也(ニセコ町町長)
高沖秀宣(三重県地方自治研究センター上席研究員)
(司会者)
森 啓(NPO法人自治体政策研究所理事長)

論点は二つであった。
一つは、二元代表制の基本認識
二つ目は、議会基本条例の制定
(以下は当日の討論を基にした筆者の所見である)

Ⅰ 二元代表制
1 議会改革の現状
首長と議会は対等である。対等であるが役割は異なるのである。
ところが、全国各地で展開されている議会改革の試みには二元代表制の誤認識がある。すなわち、首長との関係で(議会の独自性)を発揮することが議会改革であると考えているようである。そのため、議会改革の取組は活発であるが改革成果は少ない。
例えば[北海道自治研究(2016-6月号)(2017-2月号)]には、
1)議会は首長と政策競争をするべきである。
2)議会は首長の提出議案を審議するだけではなく、対案を提起して審議し議決すべきである
3)議会もまちづくり政策の主体であるから、総合計画条例を提案して議決してよいのである。
4)さらに、当日(2017-10-21日)の討論では、「財政課を議会事務局に移管して予算編成権
限を議会が保有すべきである」との見解が(論議を深める私案として)表明された。

2「強い首長・弱い議会」
明治以来(今日も)、中央省庁によって「強き首長、弱い議会」の制度運営がなされてきた。であるから「議会の存在意義」を高める試みはまことに重要である。しかしながら、議会の存在意義を高めるとは首長と政策競争をすることではない。「議会の審議能力を高める」ことである。「予算編成権限を議会に移管すべきである」の見解は、議会の本来役割を認識しない「議会の対等性」に偏った意見である。しかし問題なのは、議会改革を推進しようとする側にこのような見解が (ときおり)表出されることである。

3 議会改革 
1)議会改革が重要な問題(テーマ)になったのは、
・議会は何をやっているのか分からない。・分からないから無関心になり、議会は有っても無くても同じになり、・議員の数は少なくてよいになり、議会不要論の声すら生じているからである。
・すなわち、議会改革がテーマになったのは議会不信が増大したからである。
・であるから、議会改革の本筋は「議会不信の解消」である。

2)ところが、全国各地の議会改革の実態は
・議員だけの独り善がりの議会改革である。住民には後日に説明する改革である。
・議会の独自性を誇示することに力点がある議会改革である。
・議会改革に熱心なところは、えてして(首長と張り合い不仲である)(首長選挙のしこりがある)と言われている。(もとより全てではあるまい)

3)改革するべきは議会の慣例である
・改革すべきは「長年月に積み重なった議会の慣例」である。
・だが、議会慣例を改める(廃止する)ことに、議員の多くは(内心では)不賛成である。
・議員特権を手放すことに(心底では)賛成しない。そして必ず不賛成のリクツを言い出す。
・議員には(ホンネとタテマエ)を使い分ける習性が身に付いて(しまって)いるのである。
・議員が(住民の面前で話すこと)と(議員だけの場で言うこと)は大きく異なる。真逆のときもある。(これは首長も幹部職員も同じある。だから行政不信が増大している)
・議会改革は議員だけではできない。有権者住民との協働を考案して実行しなければ改革は進まない。
・いつの場合も、改革にはリーダーが必要である。嫉みを覚悟するキーパーソンの勇気と才覚が不可欠である。(栗山町議会と芽室町議会にはそのリーダーが居たのであろう)

4)議会構成の現状
・高年齢の男性ばかりで女性議員が極めて少ない。平日開催であるから家計のために働く住民は議員になら(なれ)ない。いつも同じ顔触れの議会である。議会は地域住民を代表しているとは言えない。
・議員のなり手が居ないのは「議会不信」の結果である。
・そして「選挙無しの議会」が「議会不信」をさらに深めているのである。
・これらの事態を改めることが議会改革の第一歩であろう。

5)議員の定数と報酬
・住民が議員数と議員報酬の縮減を求めるのは(議会と議員)への不信の表明である。
・議員定数の減少に賛成する議員は(議員としてなすべき責務)の逃避者である。
・議員が少なるなることを喜ぶのは議会の審議力低下を希求する執行部である。
・審議力低下のツケは必ず住民に還ってくるのである。
・狡猾と利権と特権が地域を食い物にするからである。

4 二元代表制の誤認識
次のような言説がある。
・自治体議会を議事機関と考えるのは正しくない。議会は立法機関である。
・議会は首長提出の議案審議をするだけでなく、政策案を自ら提起して議決してよいのである。(この考えで議会が総合計画策定条例案を提出して決議した事例がある)
これに対して次のような首長の所見がある。
・「議会が議員提案をして議決をしても議会には執行責任がないから、住民の苦情は首長にくる。(議員提案の条例制定)を(議会本来の役割)と評価し称賛する最近の風潮に疑問を感じている」と。
首長と議会の役割の違いをわきまえた(政策の競い合い)でなくてはなるまい。

5自治体
・自治体とは役所(行政機構と議会)のことではない。
・自治体の主人公(主体)は市民である。
(市民と住民の概念の違い)は『新自治体学入門(時事通信社)』(二章)に詳細記述した。
・主人公である市民が首長と議員を(四年任期で)選出して代表権限を信託するのである。
・首長と議員が信託に背反したときには信託解除権の発動となる。
・これが市民自治の民主主義理論である。後述するが、
・基本条例を制定するのは(当選すればこっちのもの)に(させないため)である。
・すなわち、基本条例は首長と議員を拘束する自治体の最高規範である。
・最高規範が自治体に二つ現存するのは、二元代表制の誤認識の結果である。
・その誤認識が議会改革の道筋を曖昧にしているのである。

6首長と議会
・首長は執行機関の長であり執行責任がある。
・議会は議事機関である。執行責任はないが議会の決議がなければ、政策も制度も予算も執行できない。
・議会改革とは議会の審議能力を高めることである。

7議会の役割
・議会の役割は議案を審議し議決することである。
・提出議案を否決し再提出を求めることが必要な場合もある。
・さらには、議会自らが対案を提起し議決することが不可欠必要なときもある。
(北海道愛別町議会でその実例であった)。しかしながら、それは非常事態である。原則と例外、正常と非常事態を取り違えてはならない。
・議会の本来役割は提出議案を実質的に審議することである。問題は審議能力である。
・議会改革の真っ当な論点は「議員の審議能力を如何にして高めるか」である。
・議員の審議能力を高める工夫と実践が議会改革の本筋である。

8議員の責務
・議員は普段から住民ニーズを把握する機会・場所・通路・方策を持たなくてはならぬ。
・先進地を視察しキーパーソンに出会い、見解交流をして自身の政策水準(優先課題と解決方策の水準)を高めて、議案の政策水準を高める質疑を行う。
・実質審議とは「議案の政策水準を高める質疑を行うこと」である。
・議員の視察は審議能力を高めるためである。
・提出議案の内容を理解せず、(ときには)筋違いの質問もして、議案を承認するだけであってはならない。

9議員間の討論
・(北海道自治研究-2016-6月号12頁)には「議会は言論の場である」「議員間の討論が必要である」と書いてある。そう書くのならば、「重要なことは平場の議論になじまない」「利権が伴うことは平場では決まらない」と思っている議員の思考習性を如何にして
越えるかを書かなければ意味ある記述とは言えない。
・議員は(ホンネとタテマエ)を使い分ける思考習性が身についているのである。重要なことは平場では喋らないのである。
・政策討論とは「優先すべき地域課題は何か-如何なる方策で解決実現するか」の論議である。一定水準の政策能力が必要である。議員間討論の必要を述べるのならば、議員の政策能力が高まる具体方策の提示がなければならない。
・議員間討論が可能になるのは「住民の面前での討論」である。そのやり方を工夫しなければならぬ。議員だけの討論では思考習性を越えた論議にはならない。

10議会審議への住民参加
・いつの場合も「改革論議」を(言葉だけの曖昧な論議)にしてはならない。
・栗山町議会も芽室町議会も「議会改革は住民参加が基本である」と述べている。ところが、両者共に議会基本条例を議会だけで議決して住民には後日の説明であった。
・行政の常套手段は決定後に説明会を開いて協力を求めるである。これを批判して議会改革の旗幟を掲げた先進的議会も同じ事後説明であった。
・栗山町議会も芽室町議会も、議会への住民参加を唱えるのならば、唱えるだけでなく実質的な(ホンモノ)の「議会への住民参加」を考案工夫しなくてはなるまい。
・「議会への住民参加」とは「議会の審議の場に住民が参加する」である。すなわち、審議の場に(傍聴席ではなく)住民席を設けて、審議を聴取し論議の節目に所見を述べる改革である。「市議会を市民の手に取り戻した米国のバーク レイ市」では審議の場に市民が参加して発言している。そのDVDをマブイ・シネコープ(TEL&FAX 06-6786-6485)が市販している
・議会への住民参加を言葉で唱えるだけで、「議会審議の場への住民参加」を決断・実行できないのでは、議会不信は解消しないであろう。

Ⅱ議会基本条例の制定
1自治基本条例と議会基本条例
1)基本条例の制定目的
・自治基本条例とは、選挙で代表権限を託された首長と議員が(当選すればこっちのものだ)に(ならない・させない)ために制定する自治体の最高規範条例である。規範条例とは拘束力のある法規範のことである。
・顧みれば、自治体は七十年の自治の蓄積によって[中央に従属する地方公共団体]から[地域福祉の向上をめざす自治体]へと成熟したのである。すなわち、自治体は最高規範条例を制定する段階に成熟しているのである。学者は最高規範条例を自治体の憲法であると説明した。
2) 栗山町議会基本条例
・2006年、北海道栗山町議会が自治基本条例と別に議会基本条例を制定した。これが話題になり全国に議会基本条例の制定が流行した。だが、最高規範条例が自治体に二つあるのは論理矛盾である。
3)二元代表制と議会基本条例
・筆者は『新自治体学入門』(時事通信社)の(第四章)に論理矛盾であることを論述した。そして『栗山町議会基本条例の根本的欠陥』を時事通信社・地方行政(2010年11月1日号)に掲載した。
・なぜ、「自治基本条例」と別に(首長と張り合うかの如く)議会基本条例を制定するのか。自治体は首長と議会の二元代表制である。基本条例を二つ制定するのは間違いである。
・(議会活力を喚起するためであるとしても)議会基本条例の制定を推奨するのは正当でない。
・さらに憂慮すべき重大問題は「自治基本条例の制定」という「市民自治社会への重大な節目」を一過性の流行現象にする(した)ことである。

2自治基本条例と政策基本条例
1)制定手続きの違い
・土曜講座の討論(2017-10-21)で、全国的にも名前の知られている町長が、福祉基本条例、都市計画基本条例、交通安全基本条例、防災基本条例などの「政策基本条例」と「自治基本条例」との相違を(考えていない)ことに少なからず驚いた。
・自治基本条例は、首長と議員が自分勝手なことを(しない・させない)ための規範条例(立憲制の条例)である。であるから、首長と議会だけでは制定できない。有権者住民の合意・決裁が不可欠である(注)。政策基本条例は(首長の決裁と議会の議決)で制定できるのである。
・平素唱える「住民自治」を言葉だけの「空念仏」にしてはならない。合併のときも(住民は判断力がないからと言って)住民投票を避け、自治基本条例制定のときも住民合意は不要だと言う。(今まさに住民自治の場面)のときに(一歩踏み出さずスルーする)思考と態度が自治体改革を足踏みさせているのである。
2)言葉だけの住民自治
・最高規範条例を制定するということは「住民自治」を地域に創り出す営為である。「現状維持的思考の論理」でなく、現状変革の創造的実践である。
・それは、政権の場にいる人が言葉で(国民の生命安全を)と言いながら真逆の方向に人々を導くのと同じである。即ちそれは、自治の主体である有権者住民を(蒙昧・判断力不足)と心底で考えているのである。


(1) 広瀬克哉(法政大学教授)が、「法学志林」(法政大学研究誌・2017年3月号-112頁)に、松下圭一教授の「自治基本条例と住民投票手続」の(見解の変遷)を紹介している。だがご自身の見解は記述されていない。
(2) 森 啓の「自治基本条例と議会基本条例」の見解は、このブログ「自治体学」:の右欄目次「市民自治基本条例」をご覧頂きたい。
議会審議への住民参加
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
2017年北海道自治体学土曜講座(第五回)

「自治体の主人公は市民である」を基本に据えた、「自治体学」の理論と実践を目指す「北海道自治体学土曜講座」(第五回)が、2017年10月21 日、 札幌市の北海学園大学で開催された。主題は「議会改革とは何を改革することか」であった。

開催趣旨
現在、全国各地で展開されている議会改革への試みは、分権型社会の実現にとって歓迎するべき動向である。だがその基本認識に些か問題がある。そこで、その問題点を首長と議員と研究者が会場発言を交えて討論した。
討論者
広瀬重雄(芽室町議会議長)
田村英樹(京極町議会議長)
鳴海清春(福島町町長)
菊池一春(訓子府町町長)
片山健也(ニセコ町町長)
高沖秀宣(三重県地方自治研究センター上席研究員)
(司会者)
森 啓(NPO法人自治体政策研究所理事長)

論点は二つであった。
一つは、二元代表制の基本認識
二つ目は、議会基本条例の制定

当日の論点と筆者の所見を近日、時事通信社「地方行政」に掲載する。

10 議会審議への住民参加

・いつの場合も「改革論議」を(言葉だけの曖昧な論議)にしてはならない。
・栗山町議会も芽室町議会も「議会改革は住民参加が基本である」と述べている。ところが、両者共に議会基本条例を議会だけで議決して住民には後日の説明であった。
・行政の常套手段は決定後に説明会を開いて協力を求めるである。これを批判して議会改革の旗幟を掲げた先進的議会も同じ事後説明であった。
・栗山町議会も芽室町議会も、議会への住民参加を唱えるのならば、唱えるだけでなく実質的な(ホンモノ)の「議会への住民参加」を考案工夫しなくてはなるまい。
・「議会への住民参加」とは「議会の審議の場に住民が参加する」である。すなわち、審議の場に(傍聴席ではなく)住民席を設けて、審議を聴取し論議の節目に所見を述べる改革である。
・この「議会審議の場への住民参加」を決断・実行できなくて、言葉だけで議会への住民参加を唱えるのでは、議会不信は解消しないであろう。
北海道「市民の風」の声
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
 北海道「市民の風」のMLへの会員投稿

下記は、北海道「市民の風」のMLに送信された会員の意見である。(賛同の意をMLに送信したので掲載する)

  「市民の風」の皆様へ 
 皆様の毎日の活動と熱意に深い敬意を表します。私は今、書かずにはいられない心境です。小池氏はさまざまな党を渡りあるきながらも、首尾一貫して公言していたのは、
・憲法の抜本的改変(作り直し)
・安保体制の強化(今回は「現実的な」と表現している)
・核保有もありうる、です。 
また、永住居住者の選挙権拒否、尖閣諸島に早く構造物をとも言っていました。トランプみたいですね。
 彼女の作る党は、原発ゼロ(これも選挙後どうなる怪しい)の明言以外は自民党とほぼ同じ。「希望」は自民党の系列であり、実質は野党ではない。
 その彼女に迎合し、民進党の党資金98億(の税金)と人材150人規模を貢ぎ、すくなくとも8%の有権者の民進支持を無視して党を潰すということが、前原氏にゆるされることでしょうか。孫崎氏でなくとも、これは大泥棒です。
 さらに、前原と彼につづく党員は、日本の政治から本来の野党を追い出そうとしているのです。惨めな情けない人たちです。
 「自民」 と「希望」 は 保守と保守です。
 新聞では、枝野さんが「排除された」から新党をつくるような書き方ですが、そうではなく、矜持をただし「平和憲法を護る」ために、「主義の違い」のために立ち上がる、としっかり書いてほしいものです。    2017-10-2

五回講座「市民自治―現在日本は民主主義か」
(カテゴリー: 自治体学講座
五回講座「市民自治―現在日本は民主主義か」 

現在日本は民主主義と言えるであろうか。
いつの時代も、権力の座についた者は「言葉で人々を騙す」
アメリカの(トランプ)と日本の(二枚舌安倍内閣)は同じである。安倍内閣は多数議席で秘密保護法(取材禁圧法)、安保法制(戦争法制)、共謀罪法(言論弾圧法)を強行議決し、メディアは内閣官房の監視干渉で腰の引けた報道を繰り返し、官僚は「文書は廃棄しました」「記憶にありません」を繰り返す。現在日本は民主主義と言えないではないか。
 民主主義とは、選挙で権力の座についた人物が自分勝手なことを(しない-させない) 社会の仕組である。だが、いつの時代も、権力者は二枚舌で人々を騙して自分勝手なことをする。
だから、民主主義は(騙されるか-騙されないか) の絶えざる争いとなる。人々の苦難の原因は、権力者が(ホンモノか-ニセモノか) を見定める民衆の勇気と判断能力の無さにある。
人々が賢明でなければ民主主義は形骸化する。
本講座は、民主主義に不可欠な市民自治の実践理論の習得を目指す。

●開 講 2017年10月18日 5回講座 月1回水曜18:45 ~ 20:45
●会 場 さっぽろ自由学校「遊」(愛生舘ビル5F 501)
●受講料 一般5,000 円 会員4,000 円 ユース2,000 円(単発 1,000 円)
●講 師 森 啓(もり けい)
 中央大学法学部卒、神奈川県自治総合研究センター研究部長、北海道大学法学部教授、
現在・北海学園大学法科大学院講師。主な著作「文化の見えるまち」「自治体学とはどのような学か」『自治体学の二十年・自治体学会の設立経緯』(公人の友社、2006年)
詳細はhttp://jichitaigaku.blog75.fc2.com/ 参照。
●テキスト森 啓『新自治体学入門』 時事通信社


第1回 『自治体』 2017年10月18日
1) 自治体とは役所(行政機構)のことか
2) 自治体と地方公共団体は同じか
3) 省庁は自治体の上級団体か
4) 自治体には独自の立法権・行政権・国法解釈権があるか
5) 自治体の政策能力を高めるにはどうするか

第2回 『市民と首長(知事、市長、町長、村長)』 11月15日
1) 首長は当選すると役所に迎え入れられて役所側の人になる。
2) 首長は選挙のときに言っていたことを次第に実行しなくなる。
3) 首長の考えていることが市民に伝わっているであろうか
4) 首長は庁内(行政内)を統括しているか
5) 首長は(在任中のふるまい)と(退任後に言うこと)が異なるのは何故であろうか

第3回 『市民と議員』 12月20日
1) 議会は信用されているか
2) 議会不信の理由は何か
3) 改めるべき議会改革の問題点は何か
4) 議会の会派とは何か
  -会派の決定と議員の評決権
5) 議会基本条例は議員だけで決定するものか

第4回 『市民と行政職員』 2018年1月24日
1) 市民と住民は同じか
2) 自治体職員と地方公務員は同じか
3) 市民と行政職員との連携・協働は可能か
4) 職員が上司の意向を忖度する)のはなぜか 
5) 役所の人事制度

第5回 『市民自治』 2月21日
1) 現在日本は民主主義か
2) 市民自治と国家統治の違い
3) 国民主権と国家主権の違い
4) 市民と国民の違い
5) 自治基本条例は(首長と議会)だけで制定するものか
-何のために自治基本条例を制定するのか-


2017北海道自治体学土曜講座(第三回) 現在日本は民主主義か
(カテゴリー: 北海道自治体学土曜講座
 2017・北海道自治体学土曜講座 第3回 7月22日(土)
 主題 現在日本は民主主義か ~松下圭一理論を検証する~

以下は当日の論点である。
1 憲法が180度転換をしたにも拘らず、明治憲法理論の「国家」「国家統治」の観念が存続するのはなぜか
2 学者は松下理論(著作)」を「読まないことにしている」のはなぜであろうか

71年前(1945年)、日本中が焼け野原になりポツダム宣言(無条件降伏)を受諾した。
食べる物も無くなり「二度と戦争はしない」と覚悟して憲法を定めた。憲法は「国家主権」から「国民主権」の憲法に180度転換したのである。ところが、多数の学者は「国家主権」「国家統治」を現在も言説している。なぜ「偽民主主義の理論」が続いているのであろうか。

民主主義は「市民の自治・共和」である。「国家の統治」ではない。
民主政治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。
民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府信託の理論」「政府制御の理論」「信託解除権の理論」でなくてはならない。
市民は国家に統治される被治者ではない。
 [(注)「国民」の語は、長年の(国家三要素説)の弊害で、国籍の有無によって(生活権や政治参加などの)基本人権を否認されるから、「人々=People=Citizen」の「市民」の語を使用するのが良い]

(1) 明治初年に「国権か民権か」の自由民権運動が起こり、伊藤博文はドイツに赴いた
そのドイツは、イギリス市民革命・アメリカ独立革命・フランス市民革命に驚愕したドイツ皇帝が「立憲君主制の憲法」で専制支配を続けていた。「立憲君主制」は「国家」を隠れ蓑にする皇帝専制の偽民主政治制度である。
 伊藤はドイツから「国家理論」と「立憲君主制」を持ち帰って「立憲君主憲法」をつくり、渡辺洪基・東京帝国大学総長に「国家学ノ研究ヲ振興シ、普ク国民ヲシテ立憲ノ本義ト其運用トヲ知ラシムルコト(国家の観念を教え込むこと)ガ極メテ必要」と助言して、1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家学」を正統学とした。
 さらに『私立法律学校特別監督条規』をつくって、今日の主要私大法学部の前身である私立法律学校を東京帝国大学法学部の統制下においた。そして天皇機関説事件などを経て「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧した。
以来、大学の講義は「国家が国民を統治支配する国家学」であった。
かくして、現在も「憲法は国家統治の基本法である」「国家が国民を統治する」の講義が続いている。なぜ続いているのか。

(2) 註解日本国憲法
 1947〜1949年、東京帝国大学の学者12人が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上・中・下)を分担執筆して刊行した。
 つい直前まで「国家統治」に疑念を抱くことすら厳しく禁圧されていたのであるから、帝国大学の学者が「国家統治」の観念から自由になることはできる筈もなかった。
 分担執筆を提案した田中二郎は、その後も「国家の優越的地位の論理」を自身の著作に書き続けた。例えば、行政法の標準的教科書とされた1964年刊行の『新版行政法』(弘文堂)には、「行政法は、支配権者としての国・公共団体等の行政主体とこれに服すべき人民との間の法律関係の定めであることを本則とする」「行政法は、支配権者たる行政主体の組織に関する法、及び、原則として、かような行政主体と私人との間の命令・支配に関する法であり、公共の福祉を目的として、国又は公共団体が一方的に規制することを建前とする点に特色が認められる」と叙述した。驚くべき反民主主義の国家統治の見解である。

 この見解が「註解日本国憲法」の基本認識である。
すなわち、行政が「公」であり、国民は「行政客体」の「私人」であった。この基本認識が「日本公法学会」「憲法学会」を主導したのである。かくして「憲法は変われども国家統治は変わらず」が存続しているのである。

(3) 学者は自由に発想できない
国家官僚への公務員試験も、法曹界への司法試験も、「国家統治の国家学の答案」でなければ合格できない(させない)シクミになっているから、憲法学者は自由に発想できないのである。松下理論の「市民自治」「市民政府」「政府信託理論」に賛同すると、長年習得し自分も講義している「国家統治の憲法理論」の根幹が崩れる。だから(憲法学者は松下理論の著作を読まないことにしている) のである。
「学会の通説に従わない少数意見になり」「国家試験の出題委員にもなれなくなる」からである。学者は市民自治の民主主義理論に反論出来なくても「みんなで渡れば怖くない」である。
 だがしかし、
「国家」は、権力の座に在る者の「隠れ蓑」の言葉である。「国家」は擬制の言葉である。
「国家三要素説」は「団体概念」と「機構概念」をないまぜにした非論理的説明である。「国家」を統治主体にするための言説である。国家法人論」は美濃部達吉の明治憲法時代の「国家統治理論」である。

(4) 学者の憲法理論  
 NPO法人さっぽろ自由学校「遊」が2014年5月に開講した「民主主義講座」の(第三回講座)は「立憲制と民主主義」であった。
憲法学者の90分の講義には「市民」「政府」「市民自治」の言葉は一語も出なかった。用語は「国家」「国家統治」「国家主権」「国家三要素」であった。
受講者の「国民主権と国家主権はどう違うのか」の質問には答え(られ)ず曖昧にはぐらかした。受講者の質問は、「立法・司法・行政の権限」は「国家の権限」なのか、国民が信託した「政府」の「代表権限」であるのか、を質したのである。
国家試験の最適教科書と評される芦部信喜「憲法(岩波書店)」の、第1頁第1行は「国家統治」であり「国家三要素説」であり「国家法人理論」である。最近刊行の若手学者の憲法教科書も同様である。

 2004年4月、イラクで3人の日本人が拘束されたとき、中東の衛星テレビ局アルジャジーラ放送が伝えた現地声明は、「日本の人々には友情すらも抱いている。だが日本の政府のリーダーは米国のブッシュ大統領と手を組んで軍隊をイラクに出動させた。3日以内に撤退を始めなければ、拘束した3人を焼き殺す」であった。日本のテレビは「アルジャジーラ放送」をそのまま報道した。肉親家族はもとより日本の人々は大いに驚愕した。ところが、翌朝の新聞・テレビは、「政府のリーダーは」の部分を削除して「あなたがたの国は」に改めた。マスメディアに「足並みそろえて」改竄させたのは誰であるか、その改竄は何を意味していたか。国民の「政府責任追及」をはぐらかすためである。

民主政治の主体は「国家」ではない。国家は意思主体ではない。擬制の言葉である。民主主義の主体は「市民と政府」である。主権者である市民が代表権限を政府に信託するのである。政府の権限は「国家の統治権」ではない。市民が信託した代表権限である。

(5) 松下理論
1975年に岩波新書「市民自治の憲法理論(松下圭一)」が刊行されたとき、憲法学者も行政法学者も政治学者も誰も反論できなかった。「松下ショック」と言われた。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』トランスビュー2014年刊-序章17頁)
 「市民自治の憲法理論」には、民主主義は「国家が市民を統治する」ではない。人々(=市民=People=Citizen)が民主社会の主人公である。政治主体は「国家」ではない。「市民」である。民主主義は「国家統治」ではない。「市民自治」である、と明快に叙述されていた。
市民自治とは「市民が政府を選出し制御し交代させる」である。選挙は白紙委任ではない、選挙は「信頼委託契約」である。政府が代表権限を逸脱するときは「信託契約」を解除する。これが国民主権であると明快に書かれていた。
学者は「松下理論」に反論できないので「学会」をつくり「国民主権」を「国家主権」と言い換えて「国家が統治権の主体である」と講義して現在に至っている。そして毎年、その教育を受けた学生が社会人になっている。

松下圭一氏は東京大学の学部在学中に、イギリス市民革命を理論化した「ジョン・ロック」を研究して、岩波書店から「市民政治理論の形成」を刊行した。岩波新書「市民自治の憲法理論」「日本の自治・分権」「政治・行政の考え方」の編集担当であり、後に岩波書店の代表取締役社長を務めた大塚信一氏は、2014年11月、松下理論の主要著作を検証して『松下圭一日本を変える』(357頁)を刊行した。 

2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」でNHKは、吉田松陰の「松下村塾」に脚光を当てた。その意図を問題なしとはしないが、それはさておき、現在日本には「二つの松下村塾」がある。一つは、松下幸之助氏の「松下政経塾」である。おびただしい輩出議員の数である。だが、その議員は「国家統治」を信奉し推進する人たちである。
もう一つは、松下理論の「市民自治」に賛同し自身の「思考の座標軸」を見定める人々である。全国各地に多数の方々がいる。

2017・北海道自治体学土曜講座 第3回 7月22日(土)
現在日本は民主主義か 
~松下圭一理論を検証する~

山内亮史(旭川大学学長) 
内田和浩(北海学園大学教授)
池田賢太(弁護士)
河上暁弘(広島市立大学准教授) 
村上 昇(元自治労北海道書記局) 
高橋 悟(日本文化行政研究会会員) 
森 啓(自治体政策研究所)
講座 市民自治の憲法理論
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
松下圭一『市民自治の憲法理論』( 岩波新書) を読む

 本書は「憲法は、国家のものか市民のものか」と問い、「国家統治の観念」に 「市民自治の理念」を対置して「憲法は市民自治の基本法であるのだ」と明快に論述した。本書が1975 年9 月に刊行されたとき「松下ショック」と言われた。
かくて憲法理論と行政法理論は180 度 の転換が必要になった。だが長い間、学者は「国家観念」に疑念を抱くことも厳しく禁圧されていたから「市民自治」の松下理論が理解できなかった。さりとて正面きって松下理論に反論もできなかった。しかし市民は「ここに書いてあるとおりだ」と 快哉して理解した。本書は松下市民政治理論の入門書である。

●5月24日(水)開講 全5回 月1回水曜18:45 ~ 20:45
●会 場 さっぽろ自由学校「遊」(愛生舘ビル5F 501)
●テキスト 松下圭一『市民自治の憲法理論』岩波新書
●参考書 森 啓 『新自治体学入門』時事通信社
       大塚信一『松下圭一日本を変える』トランスビュー

抗議を呼びかける市民の趣旨文
(カテゴリー: 民主主義
準強姦(ごうかん)罪で告訴され逮捕状も出ていた山口敬之・元TBS記者を「逮捕せず」「不起訴処分」にした権力政治に抗議を呼びかける市民の趣旨文 

私たちは準強姦事件不起訴に対し、検察審査会に不服申し立てをした詩織さんを応援します!
 5月29日、準強姦(ごうかん)罪で告訴されたジャーナリストの山口敬之氏が不起訴処分となったことを不服として、ジャーナリストの詩織さんが、検察審査会に審査を申し立て、素顔を出して記者会見をおこないました。
 2015年4月3日。当時、ジャーナリスト志望だった詩織さんは、TBS在職中の山口氏と飲食中に意識を失い、山口氏の宿泊先ホテルに連れていかれ、準強姦の被害にあいます。 準強姦とは、女性の心神喪失・抗拒不能に乗じた強姦をさし、3年以上20年以下の有期懲役が課される重罪です。(刑法177条、178条2項)
 被害にあった詩織さんはこの件を警察(高輪署)に告発し、ホテル入口の防犯カメラ映像などの検証の上、逮捕状が発付されました。しかし6月8日、帰国する山口氏を成田空港で逮捕しようとした寸前で、中村格・警視庁刑事部長(当時)の指示により
逮捕状の執行が取り止められました。
 中村格氏は2015年3月まで菅義偉官房長官 の秘書官も務めており、現警察庁刑事局組織犯罪対策部長です。自分が逮捕状の執行を止めたことを、中村氏は週刊新潮の取材で認めています。その時、捜査員は詩織さんに電話でこう話したそうです。
『いま、(山口氏が)目の前を通過していきましたが、上からの指示があり、逮捕をすることはできませんでした』『私も捜査を離れます』 その後、事件は高輪署から、逮捕状の執行を止めた中村刑事部長(当時)のいる警視庁捜査一課に移され、8月に書類送検されましたが、東京地検は16年7月、東京地検が嫌疑不十分を理由に不起訴を決定しました。
 その間、TBSを退社していた山口敬之氏は 幻冬舎から、安倍総理の写真が表紙を飾る『総理』を、2016年6月9日に出版しています。
 東京地検の不起訴を受け、詩織さんは17年5月29日に検察審議会に不服申請をし、素顔を隠さずに記者会見に臨みました。
 詩織さんは言います。「不起訴処分後は暫く塞ぎこんでいました。そこから気持ちを前向きにし、検察審査会に向けて調査を続け、証拠開示にも時間を要したのです」

 この詩織さんの事件については、2日の衆院本会議で、民進党と共産党の議員が取りあげ、捜査の経緯についての検証が求められましたが、松本純国家公安委員長は「検証することは考えていない」と拒否しました。

 山口敬之氏は、詩織さんをホテルに連れて行き性行為に及んだことは認めていますが、自身のフェイスブックで「私は法に触れることは一切していません」と述べ、詩織さんがまるで売名行為で不服申請を行っているかのように述べています。

 私たちは女性の人権を軽視する準強姦事件不起訴に強く抗議し、 検察審査会に不服申し立てをした詩織さんを応援します!
 また、逮捕状が執行されなかった経緯を明らかにすることを求めます。  山口たか(市民自治を創る会)                              
松下圭一理論の骨格
(カテゴリー: 自治体学理論
  松下圭一理論の骨格

  本稿は2017年5月21日、札幌市内で開催した「松下圭一先生追悼の集い」での報告である。 
 
1 松下理論の三つの骨格を話します。
 第一は、1975年刊行の 岩波新書『市民自治の憲法理論』で、民主主義は「国家が国民を統治する」ではない、「市民が政府を選出し制御し交替させる」であると明快に論述したことです。松下理論は民主主義の政治理論です。
 民主主義は「国家統治」ではなくて「市民自治」です。国家は統治主体ではないのです。「国家」は擬制の観念です。人々(市民=Citizen=People)が自治共和の主体です。
 この自明なことを、なぜことさらに言わなくてはならないのか、これが問題です。
 
 明治初年に「国権か民権か」の自由民権運動が起こり伊藤博文はドイツに赴いた。そのドイツは、イギリス市民革命・アメリカ独立革命・フランス市民革命に驚愕したドイツ皇帝が「立憲君主制の憲法」で専制支配を続けていた。立憲君主制は「国家観念」を隠れ蓑にする偽民主主義制度である。
 伊藤はドイツから「国家理論」と「立憲君主制」を持ち帰り「立憲君主憲法」をつくった。そして渡辺洪基・東京帝国大学総長に「国家学ノ研究ヲ振興シ、普ク国民ヲシテ立憲ノ本義ト其運用トヲ知ラシムルコト(国家の観念を教え込むこと)ガ極メテ必要」と助言し、1887年2月、東京帝国大学内に「国家学会」を設立し「国家学会雑誌」を発行して「国家学」を正統学とした。そして天皇機関説事件などを経て「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧した。以来(今日に至るまで)大学教育は「国家が国民を統治支配する」の教説であった。

 1945年日本は焼け野原になってポツダム宣言を受諾した。1946年に「天皇統治(国家主権)の明治憲法」から「国民主権の憲法」に180度転換した。1948〜1950年に京帝国大学の学者14人が「註解日本国憲法」なる逐条解説書(上・中・下)を分担執筆して刊行した。しかしながら、戦前に「私立法律学校特別監督条規」を定めて(現在の主要私大法学部の前身である)私立法律学校を東大法学部の統制下におき、つい直前まで「国家統治」に疑念を抱くことも禁圧していた帝国大学の学者が、「国家統治の観念」から自由になることはできる筈もなかった。
 逐条解説の分担執筆を提案した田中二郎は、その後も「国家の優越的地位の論理」を自身の著作に書き続けた。例えば、行政法の標準的教科書とされた1964年刊行の『新版行政法』(弘文堂)には、「行政法は、支配権者としての国・公共団体等の行政主体とこれに服すべき人民との間の法律関係の定めであることを本則とする」「行政法は、支配権者たる行政主体の組織に関する法、及び、原則として、かような行政主体と私人との間の命令・支配に関する法であり、公共の福祉を目的として、国又は公共団体が一方的に規制することを建前とする点に特色が認められる」と叙述した。

 すなわち、行政が「公」を独占し、国民は行政執行の客体であり「私人」であった。この基本認識が「日本公法学会」「憲法学会」を主導したから「憲法は変われども国家統治は変わらず」が存続しているのです。
 1975年に『市民自治の憲法理論』が刊行されたとき、憲法学者も行政法学者も政治学者も誰も反論できなかった。「松下ショック」と言われた。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』トランスビュー2014年刊、 序章17頁)
 学者は反論できないので「学会」をつくり「国民主権」を「国家主権」と言い換えて「国家が統治権の主体である」と講義して現在に至っているのです。そして毎年その教育を受けた学生が社会人になっているのです。でありますから、民主主義は「国家統治」ではない。「市民の自治共和」であると言い続けなくてはならないのです。「市民が政府を選出し制御し交替させる」のです

 「国家」の語は (オカミ)(オオヤケ)を連想させて国民を丸ごと包括し絶対・無謬をイメージさせる言葉です。権力の座に在る者の「隠れ蓑」の言葉です。
しかしながら「国家三要素説」は二重概念の非論理的な曖昧説明です。「国家法人論」は国家を統治主体と擬制する理論です。
民主主義の理論は市民が代表権限を政府に信託する「政府信託理論」です。
 選挙は白紙委任ではない。選挙は「信頼委託契約」です。政府が代表権限を逸脱するときは「信託契約」を解除する。市民自治は「市民が政府を選出し制御し交代させる」です。
 これが松下理論の骨格の第一です。


2 松下理論の骨格の第二は「市民」と「自治体」です。
 「市民」と「自治体」が、現代社会(都市型社会)の政策主体であるとの理論を提示しました。(『市民自治の憲法理論』50頁 )
① 市民
 松下さんは北海道地方自治研究所の講演で(2007年6月20日)、市民とは市民型規範を自覚して考え・活動する「人間型」です。民主政治は (自由・平等)という生活感覚、(自治・共和)という政治文脈をもつ〈人間型〉としての「市民」を前提としないかぎり成り立たない。市民政治が実質可能となるには、その主体の個々の人々が「市民」という人間型を規範として設定せざるを得ないのです、と説明しました。(北海道自治研ブックレット「再論・人間型としての市民」)
「市民」は規範概念です。「規範概念」「規範論理」「規範意識」は(骨格の三)で話します。

 日本語の「市民」はイギリス市民革命の「Citizen」の訳語です。明治啓蒙期に福沢諭吉が翻訳したと言われています。「イチミン」と発音します。だが、戦前も戦後も「市民」の言葉は使われなかった。国家統治の時代は「皇民」「臣民」「国民」であった。
 日本が「都市型社会に移行を始めた1960年前後に「住宅・交通・公害・環境」などの都市問題が発生し「市民運動」が激発して「市民」の言葉がマスコミで使われるようになった。 
 1966年の松下圭一『〈市民〉的人間型の現代的可能性』(思想504号)で、ロックの《近代市民》に対して「都市型社会の《現代市民》」の可能性を理論提示しました。都市型社会の《現代市民》が「松下市民政治理論」の中核概念です。
《近代市民》と《現代市民》の違いは、前記「北海道自治研ブックレット」の78頁をご覧ください。このブックレットは松下理論の理解にはとても良い本です。

 「市民」の概念を理解するには「市民と住民」の違いを考えることです。
[市民と住民]
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」です。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味です。
 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語です。近代イギリス市民革命の担い手で「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民社会の主体」です。
 だが、福沢諭吉が期待をこめて翻訳した「市民」は使われなかった。
 明治政府はドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」で忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだのです。臣民とは天皇の家来です。自立して社会を担う「市民」はタブーでした。
 1945年の戦後も使われなかった。弾圧から蘇った社会主義の人々が「市民」を「所有者階級」と考えたからです。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と訳されました。
 都市的生活様式が日本列島に全般化した1980年代に至って、ようやく福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々」によるまちづくりの実践が全国に広がったからです。
 近代市民革命の市民は「有産の名望家」でした。しかしながら、「現代の市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々です。 社会が成熟して普通の人々が市民である条件が整ったからです。「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」です。

「住民」とは、村民、町民、市民、道民などの行政区割りに「住んでいる人」のことです。
 「住民」は、住民登録・住民台帳・住民税という具合に行政の側から捉えた言葉です。行政の統治客体が「住民」です。住民は被治者であり行政サービスの受益者です。「住民」の言葉には上下意識が染み付いています。
 「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存する(陰で不満を言う)人です。行政サ―ビスの受益者とされる人です。そして「市民」は、公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人です。政策の策定と実行で自治体職員と協働することもできる人です。

 しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉です。理性がつくった概念です。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しません。実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在です。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのです。
 都市型社会が成熟し「生活が平準化し政治参加が平等化」して、福沢の「市民」は甦ったのです。

② 「自治体」
 自治体は市民の自治機構です。国の政策を執行する地方の行政組織ではないのです。
 「地方公共団体」の語は、憲法制定時に内務官僚が「全国一律統制」を継続する意図で、GHQ 原案のLocal self-government(地方政府)を「地方の公共団体」と訳語したのです。
 内務官僚は「知事公選」に猛反対しました。だがGHQに押し切られて反感を抱き、原案の文意を様々にスリ換えました。スリ換えた内容は、岩波新書『日本の地方自治』(辻清明-1976年) の72-81頁に詳しく記されています。
 
 松下理論は「多元重層の分節政治理論」です。
 1975年の『市民自治の憲法理論』(112頁)で、自治体が「シビルミニマムの策定」や「公害規制基準の制定」などの「自治体主導の政策」を既に実行している事例を示して、自治体は憲法機構であり「自治立法権」「自治行政権」「自治解釈権」を保有している、と理論提起しました。この理論提起が「自治体の発見」と評されたのです。
 1980年代、工業文明が進展して「前例無き公共課題」が噴出増大しました。これらの公共課題は、ⅰ国際間で基準を約定して解決する課題、ⅱ国レベルの政府で全国基準を制定して解決する課題、ⅲ自治体で解決方策を策定して解決する課題に三分類できます。そして政府も国際機構、国、自治体の三つに分化します。自治体は公共課題を解決する政府です。

 橋本竜太郎内閣のとき、菅直人議員が衆議院予算委員会で「憲法65条の内閣の行政権は(どこからどこまでか)」と質問しました(1996年12月6日)。大森内閣法制局長官が総理大臣に代わって「内閣の(つまり国の)行政権限は憲法第八章の地方公共団体の権限を除いたものです」と答弁しました。これが公式政府答弁です。 
 つまり、自治体は独自の行政権限を有しており、自治体行政を行うに必要な法規範を制定する権限を憲法によって保持しているのです。国の法律を解釈する権限も有しているのです。自治体は憲法機構です。

 ところが、「国家統治の伝統理論」から脱却できない学者は、自治体の(政策自立-政策先導)が現出しているにも拘らず、自治体を憲法理論に位置付けることができない(定位できない)のです。
 例えば、小林直樹教授は『憲法講義(1975年改訂版)』で「国民とは法的に定義づければ国家に所属し国の支配権に属人的に服する人間である」(憲法講義上23頁)。「自治体は国家の統一的主権の下で、国家によって承認されるものとして成り立つ」(憲法講義下767頁)と述べています。小林教授は「市民」と「自治体」を憲法理論に位置付ける(定位する)ことができないのです。
 樋口陽一教授は、『近代立憲主義と現代国家』で「国民主権の形骸化の現実」を説明するために「国民主権の実質化・活性化」への理論構築を放棄しています。そして「国民主権」を「権力の所在を示すものでしかないものだ」とする論理を述べます。この論理は「国民主権による政治体制の構成」という憲法理論の中枢課題自体を実質的に放棄しているのです。
 なぜそうなるのか。お二人は「国家統治」と「国家法人論」を憲法理論の基軸にしているからです。だが「国家法人論」は国家を統治主体に擬制する理論です。民主政治は市民が代表権限を政府に信託する「政府信託論」です。
 以上の指摘の詳細は、松下圭一『市民自治の憲法理論』(117頁-123頁)をご覧ください。

3 「都市型社会」と「政策型思考」
松下理論の骨格の第三は「都市型社会」と「政策型思考」です。
 「都市型社会」は「近代社会」がいかにして「現代社会」に構造変化したかを認識する概念です。「政策型思考」は松下理論の思考の方法論です。

都市型社会とは、都市地域だけではなくて、山村・漁村・僻地にも工業文明的生活様式が全般化した社会のことです。
 人類発生以来、採取・狩猟の社会であった。やがて農業技術を発明して定着農業の社会(農村型社会)になった。{人類史上、第一の大転換}  やがて16-17世紀ヨーロッパに、産業革命・市民革命による工業化・民主化=(近代化)が始まり、数千年続いた農村型社会(身分と共同体の社会)の解体が始まる。20世紀に、工業化(情報技術のさらなる発達)・民主化(民主政治の思想と制度の広がり)が進展して、先進地域から順次に「都市型社会」への移行となった。{人類史の第二の大転換} 

〈都市型社会〉の論点は、現代社会を「如何なる社会と認識するか」です。つまり、工業化と民主化が進展して数千年続いた〈農村型社会〉が〈都市型社会〉に大転換した、の「認識の有無」の問題です。
 (多くの)学者の理論は「現代社会の構造変化」を認識しない理論です。つまり理論前提が「ガラリ変わっている」ことを認識しない「農村型社会」の理論です。
 都市型社会では、人々の生活条件の整備は〈共同体〉ではなく〈政策・制度〉という公共政策によって整備されます。 
 「都市型社会」の詳細説明は松下理論の主著『政策型思考と政治』の18頁(大転換としての都市型社会)をお読みください。
 
② 政策型思考
 論理には説明論理と規範論理があります。
 「説明論理」は、事象を事後的に考察して説明する思考です(実証性と客観性)が重要です。
「規範論理」は、(あるべき未来)を目的に設定して実現方策を考案する思考です(予測性と実効性)が重要です。
 政策型思考とは規範論理による思考のことです。松下市民政治理論の方法論です。

1) (あるべき)とは当為です。(かくありたい)(かくあるべき)は「規範意識」です。
2) (あるべき未来)は構想です。夢想ではありません。未来に実現を予測する構想です。
3) (あるべき未来を構想する)のは「規範概念による思考」です。 

 松下理論(著作)を難解だと思うのは「規範論理」で論述されているからです。
「規範概念」と「規範論理」を了解納得するには、(あるべき未来)を目指して一歩踏み出し、困難な状況に遭遇して、自ら困難を切り拓いた(いくらかの)体験が必要です。
 (あるべき未来を希求する)のは、「現状に問題あり」の認識があるからです。問題意識のない状況追随思考の人には(あるべき未来)を構想することはありません。
 構想するとは「何が解決課題であるか」「解決方策は何か」を模索することです。
「何が課題で方策は何か」を模索するのは経験的直観です。その経験的直観は「困難を怖れず一歩踏み出した実践体験」が齎します。「人は経験に学ぶ」という格言の意味は、一歩踏み出し困難に遭遇して「経験的直観」を自身のものにすることです。実践と認識は相関するのです。実践の概念認識が「経験的直観」です。
(知っている)と(分かっている)には大きな違いがあります。違いは実践体験の有無です。 人は体験しないことは分からないのです。


 本日の案内ビラにも転載されておりますが、松下先生はご自身の方法論を次のように説明しています。(大塚信一『松下圭一 日本を変える』338頁「私の仕事」)
『私の社会・政治・行政理論の〈方法論〉は「歴史の変化のなかに現実の構造変化を見出し」、「現実の構造変化をおしすすめて歴史の変化をつくりだす」という考え方です』
 (歴史の構造変化を見出す) (歴史の変化をつくり出す) とはどのようなことか、
本日後半の討論で考えたいと思います。  (森 啓)

■松下圭一先生追悼の集い
■日時  2017年5月21日(日)13:00~16:00(開場12:30)
■会場  北海道自治労会館(3階)第1会議室(北6西7)
■プログラム
 ・講演:森啓「松下理論とは」
 ・論点提起:政策型思考研究会会員などからの発言
 ・会場討論:「松下理論」から学んだこと
■会場討論
・学者が「松下先生の著作を読まないことにしている」のはなぜであろうか。
・松下理論の著作が難解だと言われるのは何故か
・憲法は「天皇主権」から「国民主権」の憲法に変わった。
だが大学では「憲法とは国家統治の基本法であると講義(教説)している。なぜであろうか。


追悼松下圭一先生 「松下理論」検証討論の集い
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
 追悼:松下圭一先生 
  「松下理論を検証する」  北海道自治体学土曜講座
  
開催趣旨
 現在日本には、国家統治の明治憲法を郷愁する「国家主義」の動きが増大しており、 国民主権・基本人権・平和主義の憲法を改変する風潮が強まっている。
 松下理論(著作)が多くの方々に伝わることが、松下先生への何よりの追悼である。併せて、吾々は「松下理論」を正当に理解しているであろうか、を自身に問う。

日時 {2017-7-22 13.00-17.30
場所 北海学園大学(22番教室)
  
[論点]
1 憲法学者・行政法学者はなぜ松下理論(著作)を読まないのか
2 松下理論の著作が難解だと言われるのは何故であろうか
3 憲法は「天皇主権」から「国民主権」の憲法に変わったが、大学では「憲法とは国家統治の基本法である」と講義(教説)しているのは何故であろうか。
4 松下理論における『市民自治の憲法理論』の意義
5 松下理論における『政策型思考と政治』の意義
6 「政策型思考」とはどのようなことか
討論・松下圭一市民政治理論 (2017北海道自治体学土曜講座)
(カテゴリー: 北海道自治体学土曜講座
 2017-北海道自治体学土曜講座
  第三回(2017-7-22)

 主題 追悼松下圭一先生
     「討論・松下市民政治理論」

 討論に参加くださる方は、このブログ最下段の「コメント」をクリックして「メールアドレス」をご記入ください。
  (アドレスは漏洩しません)。
 当日の時間配分などの詳細をメール通信いたします。
    北海道自治体学土曜講座・共同代表 森 啓

開催趣旨
松下理論(著作)が多くの方々に伝わることが、松下先生への何よりの追悼である。
併せて、吾々は「松下理論」を正当に理解しているであろうか、を自身に問う。

午前10.00-12.30 論点提起 (25分×5人) 
(例示です)
1 松下理論における『市民自治の憲法理論』の意義と位置
2 松下理論における『政策型思考と政治』の意義と位置
3 憲法学者・行政法学者はなぜ松下理論(著作)を読まないのか
4 松下理論の著作が難解だと言われるのは何故であろうか
5 「政策型思考」とはどのようなことか
6 憲法は「天皇主権」から「国民主権」の憲法に変わったが、大学では「憲法とは国家統治の基本法である」と講義(教説)している。何故であろうか。
7 自治体学会は会則(二条)に「自治体学の研鑽を目指す」と定めているが、1986年設立から40年を経過した自治体学会は「自治体学の研鑽を目指している」であろうか。
8 松下理論(著作)から学んだこと

午後 13.30-14.30 松下理論から学んだこと (10分×5人)

    14.45-17.30  討論 

因みに
 2017-北海道自治体学土曜講座の概要は
  (日程と主題・企画中)

  5月(6月3日) トランプ現象-そして日本は
  6月17日   韓国の市民運動から学ぶもの
  7月22日   討論・松下圭一市民政治理論 
  9月30日   北海道のJR問題
  10月21日   議会改革とは何を改革することか    
  

 
自治体学の概念 (開発論集93号)
(カテゴリー: 自治体学の基礎概念
  自治体学の概念 (開発論集93号)

自治体学とは、国家学の「国家統治の観念」に「市民自治の理念」を対置して国家学を克服する学である。

1) 国家学と自治体学
国家学は「国家」を統治主体と擬制する。しかし、その「国家」の観念は曖昧である。国家を「国民・領土・統治権」と説明するが、その「国家三要素説」なるものは、性質の異なる(団体概念)と(機構概念)をないまぜにした曖昧な説明である。

「国家」は、政府、官僚、議員など、権力の場に在る人達の「権力行使の隠れ蓑」の言葉である。そして、少し注意してそれら権力者の言動を観察すれば「国民主権」を「国家主権」と巧みに(狡猾に)言い換える場面を目撃するであろう。
権力の場に在る人たちには「国家が統治主体であり国民は被治者である」の観念が抜き難く存在するのである。(統治支配がやり易いからである)

 明治の時、「State」を「国家」と翻訳した。しかしながら、「ステート」は「全国規模の政治・行政機構」の意味であって、今風に言えば「中央政府=セントラルガバメント」である。「幽玄の国家」ではないのである。

 「言葉」は「思考の道具」である。思考を明瞭にするには「概念」を明晰にしなくてはならない。福田歓一氏(元日本政治学会理事長)は、一九八五年パリにおいて開催された政治学世界会議での報告で「われわれ政治学者は国家という言葉を使うことを慎むべきである」「規模と射程に応じて、地方政府、地域政府、全国政府と使いわけるのがよい」「人類の政治秩序の諸概念を再構築することが切実に必要であると信じる者として、過度に一九世紀の用語に囚われていることを告白しないではいられない」と述べた。

 だが、現在日本の憲法学、政治学、行政法学、行政学の大勢は、国家統治の国家学である。
例えば、憲法学で国家試験の最適教科書と評される芦部信喜「憲法」(岩波書店)の第一頁第一行は「国家統治」であり「国家三要素説」であり「国家法人理論」である。
そして、国会議員と官僚は「国家観念」を言説し、「政治主体である市民」を「国家統治の客体」に置き換え、「国家」を隠れ蓑にして「統治論理」を振り回すのである。

 「国家の観念」に「国民」を包含させるから(国家三要素説)、「国家責任」は「国民自身の責任」のような曖昧論理になって、国民の「政府責任」「官僚責任」追及の矛先をはぐらかすのである。権力の座に「曖昧論理の手助け」をしているのが国家学の学者である。国家法人理論は「国民主権」と「国家主権」を曖昧に混同し「政府」と「国家」の区別を混同させる理論である。

国家学は「国家統治」の「国家法人理論」である。
自治体学は「市民自治」の「政府信託理論」である。

2) 信託理論
自民党がインターネットに掲載している「チョット待て! 自治基本条例」を一読すれば権力の座に在る者には「国家統治の観念」が現在も強固に存続していることが判る。しかしながら、国民は国家に統治される被治者ではない。民主主義は「国家の統治」で
なくて「市民の自治」である。

政府と議会の権限は選挙によって国民が信託した権限である。選挙は「白紙委任」ではないのである。「代表権限の信頼委託契約」である。身勝手な代表権限の行使と運営は「信託契約の違反」であるのだ。選挙の翌日も主権者は国民であって国家ではないのである。信託契約の著しい逸脱には「信託解除権の発動」となる。

自治体学は「国家」を「市民と政府」に分解して、「市民と政府の理論」を構成する。すなわち、「市民」が「政府」を選出し制御し交代させるのである。民主主義の政治理論は「市民と政府の理論」「政府制御の理論」「政府交代の理論」でなくてはならない。
自治体学が民主主義の理論である。

3) 実践理論
 理論には「説明理論」と「実践理論」の二つがある。
「説明理論」とは、事象を事後的に客観的・実証的・分析的に考察して説明する理論である。「実践理論」は未来に向かって課題を設定し解決方策を考え出す理論である。
実践理論は「何が課題であり、何が解決策であるか」を言葉で述べるのである。言葉で述べるとは「経験的直観を言語化する」ことである。

「経験的直観の言語化」は、困難を覚悟して一歩前に出た実践によって可能となる。大勢順応の自己保身者には経験的直観を言語化することはできない。人は体験しないことは分らないのである。

「一歩踏み出した実践」による「自身の変革」なくして「課題と方策の言語叙述」はできない。すなわち、歴史の一回性である実践の言語叙述によって普遍認識に至るのである。「実践」と「認識」は相関するのである。

4) 市民自治
市民自治とは、「市民が公共社会の主体であり、公共社会を管理するために政府をつくる」という意味である。

「市民自治」は規範概念であるから「市民自治」の意味を理解するには「国家統治」に対する自身の所見が明瞭でなければならない。例えば、「自治とは自己統治のことである」と説明されているが、この説明は「自治」が規範概念であることを理解していないのである。
「統治」とは「統治者と被治者」を前提にした観念である。「自治」を説明するときに「統治」の言葉を用いるのは、「統治」に対置した「自治」の意味が理解できていないからである。

市民自治を要綱的に説明すれば
① 市民は公共社会を管理するために政府(首長と議会)を選出して代表権限を信託する。選挙は信頼委託契約であって白紙委任ではない。政府の権限は信託された範囲内での権限である。
② 市民は政府の権限を市民活動によって日常的に制御する。
全有権者投票は政府の代表権限を正常な軌道に戻らせる市民の制御活動である。 (「住民投票」の言葉には「国家学の貶め」が付き纏っているので「全有権者投票」の用語が良い)
③ 市民は代表権限の行使運営が信頼委託の範囲を著しく逸脱したときには「信託解除
権」を発動する。信託解除とは解職または選挙である。 

自治体学の概念
(カテゴリー: 自治体学の基礎概念
  『自治体学とはどのような学か』
    自治体学の概念

 自治体学会は1986年5月23日、横浜で設立された。
 発起人会議には135人、設立総会には620人が出席した。出席者の顔触れは、自治体職員、市民、学者、シンクタンク職員、コンサルタント、ジャーナリスト、団体役員、自治体首長など、およそ学会の設立総会とは思えないほどに多彩な顔触れであった。
 発起人会議の提案で「自治体学の創造と研鑽」を会則第2条に定めた。

 北海学園大学法学部は2006年4月「自治体学」(専門科目・四単位〕の講義を開講した。日本の大学で最初であった。ところが、2016年度の講義担当者の「講義計画(シュラバス)には「自治体学の概念・定義」が存在しない。その講義計画は(自治体学会設立以前の)「地方自治論」である。
 「自治体学」を履修した学生は、(自治体学は聞きなれない言葉であるから) 講義の冒頭で「自治体学とは何か」「どのような学であるか」の説明が聴けると思うであろう。
 「自治体学の概念」を説明しない「自治体学の講義」とは、一体何であるのか。諺に羊頭狗肉の言葉もある。面妖なことである。もしかすると担当教員は「自治体学の概念」が分からないのではあるまいか。

 筆者の所見は『新自治体学入門』時事通信社(2008年)第一章に叙述した。
 『自治体学とはどのような学か』公人の友社(2014年5月)第一章に再叙述した。
なお、このブログ http://jichitaigaku.blog75.fc2.com/ の2012-6-18「自治体学の基礎概念」にも記述した。
自治体学会の運営
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
  自治体学会の運営
 
1 自治体学会の現状    
 1986年5月23日、「自治体学会」が横浜で誕生した。
 近代日本の夜明けを象徴する横浜開港記念会館で「発起人会議」と「設立総会」を開いた。発起人会議には135人、設立総会には620人が出席した。
 出席者の顔触れは、自治体職員、市民、学者、シンクタンク職員、コンサルタント、ジャーナリスト、団体役員、自治体首長など、 およそ学会の設立総会とは思えないほどに多彩な顔触れであった。発起人会議の提案で「自治体学の創造と研鑽」を会則第2条に定めた。

 ・自治体学会は設立時の理念を保持しているであろうか。
 ・自治体学の研鑽を継続しているであろうか。
 ・会員数は増えているか。魅力を失ってはいないか。
 ・会費は自治体職員中心の学会として妥当な額であろうか。
 ・全国大会の参会者は充実感に満ちて帰途についているか。
 ・同窓会的な状況になってはいないか

2 運営委員会
 運営委員会は会員の理論水準を高める「研究討論会」と「政策シンポジゥム」を適格に企画し開催しているであろうか。
例えば、
1 北国のある自治体学会の運営委員会で、「原発問題を次回政策シンポのテーマに」と運営委員が提案した。代表委員が「それは政治問題だから」「重たい問題であるから」と消極意見を表明した。他の運営委員は沈黙した。「原発問題は政策シンポのテーマ」にならなかった。
 
なぜ他の運営委員は沈黙したのか。代表委員が消極意見を述べたからか。それとも代表委員と同じ考えであったからなのか。運営委員会に自由闊達の雰囲気が消失しているのではあるまいか。   

 「原発問題」は現在日本の最大の問題である。「原発は国のエネルギー政策の問題であって自治体の問題ではない」との見解表明がよくなされる。だがそれは(原子力村の人たちの)意図的言説である。現に何万人という人が自宅に帰れない深刻な地域問題であるのだ。自治体の政策問題である。

 自治体学会は研究団体である。運動団体ではない。運動団体ではないが自治体学会は会員それぞれが「自身の思考の座標軸」をより確かなものにする場である。「沖縄問題」と「原発問題」は、現在日本の最大の政策問題である。最大の政策問題について会員が自由率直な政策意見を交流しないなら自治体学会ではない。運営委員会の役割は自由闊達な研究討論の場を設営することである。「政治問題だから」の理由で政策討論を避けるのは正当な運営委員会ではない。

 避けるのは(もしかして)代表委員が「行政当局によく思われたいから」の私心が働いたからかもしれない。とすれば自治体学会の代表委員としてはまことにふさわしくない。とかくに任期を重ねた長期在任の代表委員にはその傾向がありがちである。その傾向とは「自治体学会の在り方」よりも「自分に対する行政当局の評価」を優先する傾向である。 
 
 因みに、この自治体学会は会員相互の情報共有に必要な「メーリング」を中断しており、再開を求める会員の声も封じているとのことである。そして運営委員会のメーリングも会員は見ることができない。運営を「会員に知られたくない」ということである。そのためか「会費未納会員」が増えているとのことである。
 全国の自治体学会にも(運営委員会と代表委員に)同様の問題が生じているのではあるまいか。

2 交付税削減の兵糧攻で市町村合併が促進されたとき、「長と議会の合併決定」に対して、「住民の意思を聴いてからにせよ」と「住民投票条例制定を求める署名運動」が全国各地に起きた。この署名運動を「代表民主制度への問題提起」と見るか、「代表民主制度への介入」と考えるか、代表民主制度の重要論点であった)。
 
 このとき、学者会員の多くは「合併促進の側の委員」に就任した。そして「私は合併には中立です」と言明した。「特例債と兵糧攻」で3200の市町村が1700に減少したのである。
 自治体学会が、公開の「研究討論会」を企画開催したならば、あるいは「合併は何であったのか」の検証討論会を開催するならば、自治体学会の存在意味が高まったであろう。

3.自治基本条例の制定が全国に広がった。地方分権が現実化し始めた証左である。だが 「制定手続き」をめぐって見解が分かれている。基本条例制定手続の「見解の違い」をテーマにした「公開研究討論会」を開催するならば、自治体学会の求心力は高まったであろう。 

 自治体学会の活力源泉は自由闊達な論議にある。
 自治体学会の活力低下は運営委員会の問題意識に因があるのではあるまいか。   


自治体の政策研究ー「政策研究」のことば
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
 自治体の政策研究ー「政策研究の用語」の由来

北海道自治体学土曜講座(2016-第五回)が2016年10月22日、「自治体活力を取り戻す」をテーマに北海学園大学で開催された。
開催趣旨は、
機関委任事務を廃止した地方分権改革は進展したであろうか。
首長と議員と職員のまちづくり能力は高まっているか、
職員は「自治体職員」から「地方公務員」に後戻りしたのではあるまいか、
議会は何をやっているのか分からないから「議会不信」が広がり「議会不要論」の声さえも生じている。自治体活力は後退しているのではあるまいか。
 現状打開の道筋を見出すため首長と議員と職員と研究者が討論した。討論者の氏名は(注1)

討論の柱は二つであった。
 一つは、自治体活力を高めるには何が必要か
 二つは、議会不信を解消する方策は何か
  (二つ目の論点は、時事通信社「地方行政」2017年2月2日号に記述した)

一 自治体活力
自治体職員の政策能力 
仕事をするのは職員である。
自治体活力を高めるには職員の政策能力が不可欠である。
政策能力とは担当する職務の「何が問題か」を考える能力である。考えて「どう改めるか」を思案し実行する能力である。
その政策能力は如何にすれば身に附くか。

職員を先進地域に派遣して交流体験をさせて政策能力を高めている首長もいる。先進地域との交流体験は重要である。だが、派遣され交流しても、自分自身の内部に問題意識が無ければ「触発のヒラメキ」は生じない。事例を「知っている」だけである。「知っている」と「分かった」との間には大きな距離がある。

90年代の自治体職員には熱気があった。1995年に開始した北海道自治土曜講座の二年目には872人の職員・議員・市民が「政策能力の向上」を目ざして受講した。その経緯を『北海道土曜講座の16年(公人の友社)』25頁に詳述した。
自治体活力が低下したのは、2001年の小泉構造改革が兵糧攻めで合併促進を強要したからである。そして今、職員は「自治体職員」から「地方公務員」に後戻りして意見を述べなくなっている。

しかしながら、職員の政策発言が低下したのは自治体だけではない。NHKを筆頭に新聞もテレビも政権批判を自己抑制して社会全体が保守的・保身的になっているのである。 
以下、自治体活力を展望するため80年代の熱気の高まりを検証する。

二 自治体職員の政策研究
1 政策研究の波
 1980年代に職員の政策研究が波となって広がった。この波は自治体が地方政府への転換を目指す胎動であった。  
戦後40年、ようやくにして自治体に省庁が定めた政策の「末端執行機関」の位置から、自前政策を策定し推進する「地方政府」へと転換するうごきが始まった。そのような「志」をもち自らの能力を高める自治体職員が全国各地に胎動しはじめた。即ち、自主的な研究グループが全国各地に叢生した。研究グループの数は全国で2.000とも3.000とも言われた。これらの研究グループは連絡をとり合い1984年5月、「全国交流集会」を東京中野サンプラザで開催した。

 政策研究は職員の自主研究だけではない。
  政策研究の「組織と制度」を設置する自治体が増えていた。
例えば、政策研究室(愛媛)、政策研究班(福井)、職員研修所を拡充して研究部の設置(神奈川)、地域独自の政策課題を調査し解決方策を探求するシンクタンクの設立(静岡、埼玉)も増えた。大学や市民団体と連携して地域課題を研究するうごきも始まった(兵庫、東京三多摩)。さらには「政策情報の交流」と「研究成果の発表」のための「研究誌」を発刊する自治体も増加した(神奈川、兵庫、徳島、埼玉)。政策研究の「制度」は新設していないが、多くの自治体で組織を見直すうごきが始まっていた。

1984年7月、(社)行財政制度調査会が実施した「政策研究の動向調査」によれば、全都道府県を含む175の調査対象自治体のうち、155の自治体(89%)がなんらかの形態で政策研究を始めていた。
①自治体が直面している課題の解決方策を見出すためのプロジエクト研究は128団体(73%)、②職員による研究チーム制度を設けた自治体は23(22%)、③政策研究のための専任組織を設置したもの19(11%)、④外部のシンクタンクとの提携をはかっているもの75(43%)、⑤職員の自主研究グループを奨励し支援しているもの67(38%)、⑥その他の形態で政策研究をすすめているもの64(37%)となっていた。(重複回答)。
そして、調査票に付記された意見には、自治体をとりまく環境条件の変化に対応するために「自治体独自の政策研究の必要性が高まっている」「従来の外部委託のあり方を見直す必要がある」と指摘していた。

三 政策研究の概念
1  政策研究
政策研究とはどのようなことであろうか。
一見ありふれた言葉である。だが自治体に「政策研究」という言葉の用法はなかった。「調査研究」の言葉はあったが「政策研究」の用語は無かった。「政策」の言葉も使われていなかった。使われなかったのは「政策を自ら策定する」の観念が乏しかったからである。「政策」は中央省庁が策定するもの、地方公共団体は中央から下降してくる政策を執行する、の考え方に馴らされていたのである。
しかしながら、政策とは「課題」と「方策」をセットにした「政府の指針」である。「政策を策定する」の言葉には「政策課題」と「実現方策」を主体的に選択する「政府の思想」が含意されているのである。「政策策定の観念」が希薄であるというのは「政策の主体」つまり「政府の思想」が欠落していたということである。

だから「政策」と言わずに「施策」とか「事務事業」と言っていたのである。だが80年代の後半に、都市政策室、産業政策課、政策推進室など、室・課の名前に政策のことばを使う自治体がふえた。それは「他治体」から「自治体」への転換がはじまったことを意味していた。だが「政策研究」の用語はなかった。

 省庁では「政策」は目常用語である。政策づくりが省庁官僚のしごとである。だが彼等もまた「政策研究」とは言わない。「研究」は実力のない者がやることであって「俺たちは政策そのものをやっているのだ」である。政策の研究は現実の問題処理に直接関係のない人がやることだと思っていたであろう。
  しからば、波となって高まった自治体の政策研究をどう定義すればよいのか。

2 行政学の「政策研究」 
 行政学に「Policy Studies」つまり「特定政策の実証研究」の用語がある。
だが、それでは、「自治体の政策研究」は「特定政策を対象にした事後的な実証的分析的な研究」の意味になる。事実として、行政学者は研修所などで自治体の政策研究とは「政策の調査研究のことである」と意味不明な説明をしていた。そして内心では(地方公務員がなぜ政策研究をするのだろうか)と思っていた。

1987年6月、徳島で第一回自治体学会を開催したときのことである。帰途、徳島空港の待合室で人事院の研修担当官に声をかけられた。「私は府県の研修所から(自治体職員の政策研究のテーマ)で講師を依頼されているのですが、地方公務員に(政策研究の研修)がなぜ必要なのか理解できないで困っているのです」「なぜですか」と尋ねられた。
そしてまた、そのころ自治体問題の第一人者であると自負していた東京大学の0教授は、有斐閣の法律実務セミナーに「吾々学者には政策研究は珍しい言葉ではない。アメリカには「Policy Studies」という学会もある。地方公務員が政策研究を始めたから話題になっているのである」と解説していた。
お二人には、地域に起きている「時代変革の意味」すなわち「自治体の政策自立への胎動」が理解できなかったのである。
 
しかしながら、自治体に始まった「政策課題研究」は、その内容に即して表現すれば、「政策研究」の語よりも「政策開発」あるいは「政策提案活動」の言葉の方が適切であった。それがなぜ「政策研究」という用語になったのか。
 ( この経緯を説明するため 私的叙述になることを了とされたい )

3 「政策研究」の言葉
1) 「政策研究」を自治体に広げる
筆者は1983年5月1日、神奈川県自治総合研究センター研究部長に赴任した。職務は「職員の研究活動」を盛んにすることであった。研究活動を盛んにするには「政策研究とは何か」を明晰にしなくてはならない。だが自治体に「政策」の用語は無かった。使われていたのは「事務事業」であった。「政策研究」ではなくて「調査研究」であった。「政策」は省庁の言葉だと思っていたからである。そこで「政策研究」の用語を自治体内に広げることを考えた。

 そのころ自治体を対象に刊行されていた月刊誌の編集長に電話をした。
 「自治体に政策研究の波が起きています」「特集されては如何ですか」「誌面企画に協力します」と提案した。
 月刊『晨』(1984年9月号)の「特集・政策研究へのプロローグ」が日本で最初の「自治体の政策研究特集」であった。
・巻頭対談「政策研究の意味と可能性」松下圭一・田村明
・自治体の政策研究の現状と課題   森 啓
・動き出した政策研究への大きな流れ 五十嵐富秀

続いて、『月刊・職員研修』も「自治体職員の政策研究」を特集した。 
 こうして「政策研究」が「旬の言葉」になり、自治省の自治大学校から「自治体の政策研究」の講演を依頼された。府県の研修所長が集まっていた。次のような話をした。
  神奈川県では「公務研修所」を「自治総合研究センター」に改組して「研究部」を新設しました。「職員の政策能力」を高めるには「政策研究」が必要であると考えたからです。政策研究が研修所の重要な役割になっていると思います、と話した。
  そして自治大学校の教務担当に、「政策研究の全国動向を調査されては如何ですか」と提案した。自治大学校から「政策研究の実態調査用紙」が届けば、回答を求められた自治体は「政策研究」が時代の潮流になっていると思うであろう。政策研究の言葉を広めるためである。

2) 自治体政策研究交流会議 
 政策研究への関心が高まって、全国各地から筆者の研究部に視察が来るようになった。この関心の高まりを「自治体の潮流」にするため、政策研究の「全国交流会議の開催」を考えた。
 所長も賛成して準備が進んでいたころ、所長室に呼ばれた。名称を「研究交流会議」にしてはどうかと言われた。「なぜですか」と訊くと、「地方公共団体が政策を言うのはどうだろうか」「神奈川県が偉そうなことを言っていることにもなるから」と言う。
 所長と研究部長の関係である。「ここで結論を出さないことにしなくては」と思った。「言われている意味は分かりますが、削ってしまうのもどうかと思います。考えてみます……」と言って所長室を出てきた。
  そして、研究部の人たちに「森研究部長は名称を変えると言っていたか」と、所長に訊かれたら、『知事に政策研究交流会議の名称が良いねと言われた』と言っていました、と答えるように頼んでおいた。 
 もとより知事と話をした訳ではないが、そのようなときには、知事の名前をよく使ったものである(自治体職員が何か意味あることをしたいと思ったときには「首長の意向である」と言うのがよい。選挙で出てきた首長は概ね現状変革を求めるものである。役所内で改革を遮るのは現状維持の管理職である。そして部課長は首長に「本当にそう言ったのですか」と尋ねないのである)。   
 
 「政策研究の言葉」を広めるための交流会議である。「政策」の言葉を削ることはできない。さりとて所長の意向を無視することもできない。そこで、懇意にしていた横浜市企画財政局都市科学研究室、川崎市企画調査部、埼玉県県民部自治文化振興課に赴いて「政策研究交流会議」の共同開催を提案した。「経費負担は不要、当日主催者の席に座していただく」ことで賛同を得た。共同開催であるから所長の一存で名称変更はできないことになった。
 
 こうして、全国への案内文書も、当日のパンフレットにも「自治体政策研究交流会議」と印刷した。「第一回自治体政策研究交流会議」と書いた看板も出した。そして、会場入口に次の「メッセージ」を張り出した。

  自治体に政策研究の波が高まっている。
  この波は、自治体が自立的な政策主体になった
  ことを示すものである。

  戦後四十年、いまや「政策の質」が問われ、
  自治体では総合的な観点からの政策研究が必然に
  なっている。

  自治体は現代社会の難問に挑み問題解決をはかる
  現場であり、仕事を通して議論をたたかわせる論壇
  である。

  自治体を舞台に「自治体学」の研究がすすみ、
  新しい理論が確立されることを
  「時代」と「地域社会」が求めている。

 参加者は立ち止まってこの「メッセージ」を読んでいた。カメラに写す人もいた。 
  1984年10月18日、横浜港を眼下に眺望する神奈川県民ホール六階会議室で「第一回・自治体政策研究交流会議」を開催した。北海道から九州までの全国から、一四〇団体・三五二人の自治体職員と市民と研究者が参加した。この「政策研究交流会議」から「自治体学会」が誕生したのである。
  政策研究交流会議から自治体学会が誕生するに至る経緯は『新自治体学入門』(時事通信社)第10章「自治体学会設立の経緯」に詳述した。第一回政策研究交流会議の詳細は時事通信社の「地方行政(84年11月10日号)」と「地方自治通信(85年2月号)」に掲載されている。

3) 曖昧さと誤解
 「政策研究」の言葉には曖昧さと誤解が伴う。
 だがその曖昧さが大事であると考えた。
その意味は次のとおりである。
  科学技術が発達して都市的生活様式が全般化した。「前例のない公共課題」が噴出した。自治体はこれらを「政策課題と設定して解決方策を考案」しなければならない。ところが、当時の部課長は省庁政策への従属が習い性になっていたから「自治体の政策自立」が展望できない。前例なき公共課題を解決実現する政策を構想することができない。しかしそれでは、省庁政策の下請団体の位置から脱することはできない。

 「地方公共団体」が「自治体(地方政府)」に成熟するには「政策形成システム」を自治体内に構築しなければならない。そのシステムは「政策立案」の前段階に様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の営為を位置づけて「政策の質を高める」仕組みである。そして、「その仕組み」を部課長に容認させなければならない。 
   ところが、所管の業務に外から政策提案される(言われる)ことを極度に嫌がるのが部課長である。部課長が容認せざるを得ない状況にするには、様々な主体による「課題発見」と「方策開発」の研究成果を多様に積み上げることである。
 だが、「政策開発」や「政策提案」と言えば部課長は一斉に嫌悪反発するから、当分の間は「政策研究」なる「曖昧なことば」を使いながら、「課題発見」と「方策開発」の成果物を自治体内に蓄積し慣行化することである。
  それが、やがては「政策研究」の言葉を「明晰な概念」にして「輝くイメージ」を有するに至らせるであろう、と考えた。

  かくして現在、「政策研究」の言葉は行政内文書の用語になり、著作や論文も多数刊行され、「政策研究の概念」が熟成し定着した。
 すなわち、
行政学の政策研究は「特定政策の実証的分析的な事後的研究」である。
自治体の政策研究は「課題を設定し解決方策を開発する創造的研究」である。
 「政策研究」なる用語の選択は正解であったと思う。 

(注)討論者
  高橋正夫(本別町長)  谷 一之(下川町長)
  池田達雄(北斗市議長) 田村英樹(京極町議長)
  三浦和枝(自治労北海道本部書記長)
神原 勝(北海道大名誉教授)
   〈司会者〉 森    啓(NPO法人自治体政策研究所理事長)


自治体学講座・松下圭一「政策型思考と政治」を読む(第二回)
(カテゴリー: 自治体学講座
追悼:松下圭一先生
 松下圭一「政策型思考と政治」を読む(第二回)   
           2016-12-7 さっぽろ自由学校「遊」 
(レジュメ)
第二章 都市型社会の政策
 第1節 大転換としての都市型社会 (第二の大転換)
 ・人類発生時の社会  採取・狩猟
 ・農村型社会  農業技術の発見  第一の大転換  
 ・都市型社会  工業技術の発明  第二の大転換

中世 農村型社会「共同体」を土台とし「身分」によって編成
近代 都市型社会 産業革命-「工業化」 市民革命-「民主化」
 工業化と民主化が 5000年来の「共同体」と 「身分秩序」を掘り崩した

(現代)―都市型社会の成熟
  工業技術の発達 情報技術 都市問題 環境問題    
       
・工業化・民主化が人間・歴史にもつ意義は両義性。
   工業化・民主化を手放し礼賛できない

第2節 工業化・民主化の問題性
・今日の工業化・民主化の問題性
  民主化による工業化の制御は可能か

・発展段階論の見直し
 フリードリッヒ・リストの段階説
  未開状態→牧畜状態→農業状態 →農工状態
 マルクス経済学の段階説
  原始共産制→古代奴隷制→封建社会→資本主義社会
     →共産主義社会

「市場の失敗」
「政府の失敗」 

第3節 都市型社会の政策特性
「歴史必然」とは「社会主義への移行」ではなく、
  「都市型社会の成立」であつた。

・都市型社会の「成立」と「成熟」
   (何を基準とするか)

 生活様式の平準化-社会としての民主化
  政治権利の平等化-政治における民主化 


第4節 生活様式とシビルミニマム
・ シビルミニマムとは「市民生活の最低限保障」
   ミニマムか マキシマムか
自治体学 北海道自治体学土曜講座(第五回) 
(カテゴリー: 北海道自治体学土曜講座
自治体学 
北海道自治体学土曜講座(第五回)
自治体問題~首長と議員と職員のホンネ討論~
  日時 2016年10月22日
  場所 北海学園大学22番教室
  (詳細を「地方行政」(時事通信社)に近日掲載)

開催趣旨
1993年の機関委任事務制度を廃止した地方分権改革は進展したであろうか。
首長と議員と職員のまちづくり能力は高まっているか。 
職員は「地方公務員」に後戻りしたのではあるまいか。
議会は何をやっているのかが分からない、分からないから「議会不信」が広がり「議会不要論」の声も生じている。
自治体活力は後退しているのではあるまいか。
そこで、首長と議員と職員が、会場発言を交えて、現状打開の道筋を討論した。 
  高橋正夫(本別町長)
  谷 一之(下川町長)
 池田達雄(北斗市議長)
  田村英樹(京極町議長)
 三浦和枝 (自治労北海道本部書記長)
  神原 勝 (北海道大学名誉教授)
(司会) 森 啓 (土曜講座実行委員)

討論の柱
 ①職員の政策能力を高めるには何が必要か
 ②議会改革の道筋は何か 

Ⅰ 職員の政策能力
1 政策能力
2 職員の政策能力 
3 首長の役割   
4 管理職の能力評価制度   
5 市長会・町村会・議長会の責務
6 自治体職員の「政策研究」

Ⅱ 議会改革への道筋
1 議会改革とは何を改革することか。
2 議員だけで議会改革ができるであろうか。
3 議会基本条例を制定することが議会改革であろうか。
4 議員本来の役割は何か
5 議会改革と議会基本条例

Ⅲ議会改革の論点
 1 多くの議員は抽象的な議会改革には賛成する。だが具体的なことになると「そこまでの改革は」「時期尚早ではないか」「順序を踏んで考えるべきことだ」「住民はそこまでは望んでいない」などの結果としては反対意見になる。なぜそうなるのか。その思
考回路を改めることが議会改革の第一歩である。
 2 誠実で見識ある立派な議員もいる。今の「議会の在り方で良いであろうか」を真剣に考えている議員もいる。だが (残念ながら)「言っていること」と「腹にあること」が正反対の議員が多い。議員自身の「在り方・考え方」を改めることなくして「議会改革論議」は意味をなさない。
 3 なぜ議会改革が全国各地で問題(テーマ)になったのか。議会は何をやっているのか分からない。分からないから「無関心」になり「議会は有っても無くても」になり「議会不要論」になっているのである。であるならば、それを打開解決することが「議会改革の第一歩」である。
 4 議員の多くは小手先の改革で住民の「議会不信」をかわせると思っているのではあるまいか。「吾々も真剣に議会改革に取り組んでいるのだ」「議会基本条例を制定するのはそのためだ」と言う。だがしかし、議会改革は基本条例を制定することであろうか。「紙に書いた文章の議決」と「議会が変わる」は別物である。
 5 「議会は立法機関である」との所見がある。果たしてそうであろうか。「執行部と政策を競い合う」のが「二元代表制の議会の在り方」であるとの所見表明もある。しかしながら「議会が条例案を提案して条例制定をする」のが「議会本来の役割」ではあるまい。「議員提案による条例制定」が必要な場合がある。不可欠な場面もある。だが此処の論点は「長と議会の本来役割」である。
 6 二元代表制は「長も議会も有権者住民から代表権限を直接信託されている」という意味である。そして内務省支配時代の「強い首長」と「弱い議会」を打開し克服しなくてはならぬ。北海道芽室町議会の取組みはその先進事例として評価できる。しかしながら、長と議会は対等ではあるが「長と議会の本来役割は異なる」のである。
「役割が異なる」ことを弁えての「政策の競い合い」でなくてはなるまい。(北海道自治研究・2016年6月号)
 7 議会が議員提案でいろいろな議決をしても、議会には執行責任がないから、住民の苦情は役場に(首長に)くる。「議員提案の条例制定」を「議会本来の役割だ」として評価し賞賛する最近の風潮に疑問を感じている、との首長の所見もある。
 8 議員本来の役割は何か
議員の本来役割は執行部提出の議案を審議することである。質疑は議案の政策水準を高めることにある。そのために議員は「まちの重大問題は何か」「地域の課題は何か」を常に考え、住民意見を聴取する場と通路を保有し、先進地域を視察してキーパーソンと出逢い交流して自身の政策(課題と方策)水準を高めるのである。政策能力とは自身の政策意見を言葉で表明し伝える能力である。

 詳細は近日、時事通信社「地方行政」に掲載する



2016北海道自治体学土曜講座
第一回 5月 「沖 縄 問 題」
第二回 6月 「ゴミとどう向き合っていくか」
第三回 7月 「TPPから北海道を守るために」
第四回 9月 「自治体がつくるワーキングプア」
第五回 10月 「自治体問題」

講座・松下圭一「政策型思考と政治」
(カテゴリー: 自治体学会の設立経緯
追悼 松下圭一先生
 講座・松下圭一「政策型思考と政治」を読む  
                   [さっぽろ自由学校・遊」 

第一回 (2016-11-2)
・本書『政策型思考と政治』は著者の「市民政治理論」の基本書である。
・著者は、本文の扉に「政治景観は一変した。新しい政治状況には、新しい政治理論が必要である。本書は『分節政治』の構想、ついで『政策型思考』の定位にともなう、国家観念との別れの書である」と記している。
・政策型思考とは「解決するべき課題は何か」「解決実現の方策は何か」の考察である。これまでの政治理論は、政治現象を実証分析する事後的な説明理論であった。政策型政治理論は、未来を展望して現在に課題を見出し実現方策を考える実践理論である。

(第一章) 政治・政策と市民
 政治・政策の主体は市民である。国家ではない。
  ・政治とは 4p 2行
  ・政策とは 10p 
  ・市民とは  
  ・市民と住民の違い → (末尾に資料)
  ・国家とは

1) 都市型社会 の日常生活
 ・現代社会では、人々の生活は(政策・制度)の網の目の中で営まれる。
   (都市型社会の意味は第二章で説明される)
 ・人々の日常生活 - 朝起きてまず顔を洗う 4p  
・地域規模から地球規模までの政策・制度のネットワークが不可欠となる。5p
 
2) 政治化と組織・制御技術  
・政治(争点)の日常化・全般化によって公共課題が広がり、市民活動、企業・団体、政党が政策形成に参入し、
政府は①自治 体レベルの政府、②国レベルの政府、③国際機構レベルの政府に三分化 する。
これを(政治の多元化)、(政 府の重層化)と言う。
 ・政治は政策・制度ないし政府の選択をめぐる市民の組織・制   御の技術となる。
 ・都市型社会では、政治は「君主や国家の観念」と結びつく聖性  を失い(社会工学)となる。

3) 政策の定義とレベル  
・政策とは問題解決の手法
・公共課題・公共政策    10p
(1)個人の解決能力をこえる「問題領域」で
(2)資源の集中効果を発揮できる解決手法があって
(3)ミニマムの政策・制度保障として「市民合意」が得られる
  ・公共政策と政府政策の区別が重要  → 13p 図1-1    
・政治主体と制度主体
    市民が政治主体で、政府は制度主体である。
 (政府は市民から権限を信託された機構である)
(政治権力と言われているものは、天空からぶら下がっているのではない。
   ・政策は全て個人思考の産物である。団体や機構は思考しないのである。

4) 日本における政策研究
・政策研究とは (二つの意味がある)
政策の事後的調査研究  政策の模索形成開発
・明治体制はもちろん、戦後の1960年代まで、日本における政策研究は、市民レベルでの自立した問題領域になっていなかった。変革期の明治維新前後をのぞけば、1960年代まで、政策形成はオカミないし政府の特権とみなされてきた。その政府政策も欧米先発国モデルの政策輸入であった。
・そのうえ、戦前の日本では、支配中枢すら天皇制幻想に自己陶酔する現実ばなれであった。 14p~15p
・当然、社会科学の自立も困難であった。旧帝大教授らがつくった『註解日本国憲法』も「国体」「国家統治」の『帝国憲法』の微修正であった。
・現在も社会科学者は「政策自体の構想」ではなく「政策過程の実証」に留まっている。
・日本の政策型・制度型思考の熟成には「三つの失敗17p」の検証が必要である。
• 前提転換の失敗 (農村型社会から都市型社会への転換
• 主体設定の失敗 (国家ではなく 市民である。 国家統治ではなく市民自治  
• 思考方法の失敗 (事後的説明ではなく 模索開発の政策型思考 

・ようやく政治について‥‥  17p (末尾の三行)  

資料・市民と住民の違い
[市民]
 市民とは、自由で平等な公共性の価値観を持つ「普通の人」である。普通の人とは「特権や身分を持つ特別な人」ではないという意味である(注2)。 「市民」は、近代西欧の「Citizen」の翻訳語である。福沢諭吉が「社会を担う主体的な個人」の成熟を念願し期待して翻訳した言葉である。 シティズンは、近代イギリス市民革命の担い手で「所有権の観念」を闘いとり「契約自由の原則」を確立した「市民社会の主体」である。
 福沢は「一身の独立なくしては」と唱え、自由と平等の精神を持つ自立した人間が開国日本に育つことを希求したのであろう。「シティズン」が有している自由と平等の考え方を導入しなければと考えたに違いない。 自己の才覚で利益も損失も判断していきいきと市(いち)で働く庶民こそが「シティズン」の訳語にふさわしいと考えたのであろう。「市民」(いちみん)と翻訳した。だが、福沢が期待をこめて翻訳した「市民」は使われなかった。
 明治政府は、皇帝が君臨していた後進国ドイツの国家理論を手本にして「帝国憲法」をつくり「教育勅語」によって忠君愛国の「臣民」を国民道徳として教えこんだ。臣民とは天皇の家来である。絶対服従の家来である。自立して社会を担う主体の観念はタブーであった。
 1945年の戦後も使われなかった。弾圧されていた社会主義の思想が甦り、「市民」は「所有者階級」と考えられたからである。使われた用語は「人民」であった。リンカーンのPeopleも「人民の、人民による、人民のための政府」と翻訳された。
 都市的生活様式が日本列島に全般化し地方分権たらざるを得ない1980年代に至って、ようやく、福沢が期待をこめて訳語した「市民」が使われるようになった。「普通の人々」によるまちづくりの実践が全国に広がったからである。
 しかしながら、人間は誰しも自分が体験しないことは分からない。国家統治の官庁理論の人々には「住民」と「市民」の違いが分からない。
 行政機構の内側に身を置いて官庁理論でやってきた公務員には、市民運動の人達は目先利害で行動する身勝手な人たちに見えるのであろう。そしてまた、公共課題の解決のために地域の人達と連帯して行動し、感動を共有した体験のない学者や評論家は「合理主義・個人思想・人権革命の歴史を持たない日本では市民などはいないのだ」などと言うのである。
 近代市民革命の時の市民は「有産の名望家」であった。しかしながら、現代の「市民」は公共性の感覚を持ち行動する普通の人々である。
 都市型社会が成熟して、普通の人々が市民である条件が整ったのである。
 「市民」とは「公共社会を管理する自治主体」である。

[住民]
 「住民」とは、村民、町民、市民、県民など、行政区割りに「住んでいる人」のことである。そして「住民」という言葉は、住民登録・住民台帳・住民税というように、行政の側から捉えた言葉である。
 行政が統治し支配する客体が「住民」である。住民は被治者で行政サービスの受益者である。「住民」という言葉には上下意識が染み付いている。その上下意識は住民の側にも根強く存続しているのである。
 長い間、行政法学は「行政」を優越的主体と理論構成した。そして「住民」は行政執行の客体で被治者であった。「住民」という言葉には「自治主体」の観念は希薄である。そこで、「住民」を「市民」との対比で定義するならば、「住民」は自己利益・目先利害で行動し行政に依存する(陰で不満を言う)人で、行政サ―ビスの受益者とされる人である。
 「市民」は、公共性の感覚を体得し全体利益をも考えて行動することのできる人。政策の策定と実行で自治体職員と協働することもできる人である。しかしながら、「市民」も「住民」も理念の言葉である。理性がつくった概念である。実際には、常に目先利害だけで行動する「住民」はいない。完璧に理想的な「市民」も現実には存在しない。
 実在するのは「住民的度合いの強い人」と「市民的要素の多い人」の流動的混在である。だが人は学習し交流し実践することによって「住民」から「市民」へと自己を変容する。人は成長しあるいは頽廃するのである。
 都市型社会が成熟して、生活が平準化し政治参加が日常化して、福沢の「市民」は甦ったのである。


松下圭一「政策型思考と政治」(東大出版会)を読む (五回講座)
(カテゴリー: 自治体学理論
(追悼・松下圭一先生)
 松下圭一「政策型思考と政治」を読む (五回講座)

  さっぽろ自由学校「遊」(愛生舘ビル六階 604)            
  テキスト 松下圭一「政策型思考と政治」(東大出版会)       
  講座内容 本書は「松下市民政治理論」の基本書である。
  第一章から第五章までを熟読して「市民政治理論」の基本論     点を理解する。

  第一章 政治・政策と市民 (11月2日)
 現代社会は、水道も下水も、道路もバスも電車も、電気もガスも、つまり生活の全てが、(政策と制度) の網の目の中で営まれる。市民生活に直結する政策・制度を政府(官僚)に任せておいたのでは「お上の政治」から脱却することはできない。
 ・「都市型社会」とはどのような社会か。
 ・都市型社会 の「市民と政府の関係」を考える
 
  第二章 都市型社会の政策 (12月7日)
 工業文明の発達進展で人々の「生活様式・生活意識」が平準化して、資本主義か社会主義かの(かつての)体制選択が幻想であったことが明瞭になる。論点は官僚主導の政策・制度を如何にして市民制御に転換するかである。
 ・生活様式(暮らし方)の平準化によって人々の政治意識はどう変わるのか
 ・都市型社会と男女平等社会はどのように関連するのか
 
  第三章 「近代化」と政策の歴史 (2017年1月11日)
 近代化とは(工業化と民主化)のことである。工業化が進展して前例なき公共課題(大気汚染・河川汚濁・温暖化・都市景観・緑地減少・現代的貧困)が噴出して、[福祉政策・環境政策・都市政策]が不可欠必要になる。
 ・「シビルミニマム」とは何か、言葉が広がったのはなぜか
 ・前例なき公共課題の解決には「市民参加」が必要となる論拠を考える 
 
  第四章 分権化・国際化・文化化 (2月7日)
 都市型社会が成熟して自治・共和型の「市民」が大量に醸成される。「国家」をめぐる問題状況も一変する。自治体が地方政府として自立する。
 ・住民と市民の違いを考察して討論する
 ・自治体が政府である理由と論拠を学ぶ
   
  第五章 日本の政策条件 (3月7日)
 ヨーロッパで16~17世紀に始まった近代の「ステート」を、日本では「国家」と翻訳して「国家統治の観念」をつくった。その「国家観念」は (絶対・無謬・包括)の官僚統治であった。しかしながら政府の権限は市民が信託(契約)した権限である。
 ・国家法人理論と政府信託理論の違いを学ぶ。
 ・信託契約解除理論(ロックの革命権理論)を考察する